私はこれまで、えらく景気のいい名前のブログ<ネット ゲリラ>に安田南に関するハナシを書き込んできました。
ところがデジタル世界に全然疎い年代の悲しさ、送信に何度も失敗するし、遂にはそれも全く出来なくなってしまいました。
もう止めようと思ったのですが、中途半端も悔しいので、超大胆にも自分のブログを立ち上げることにしました。
案の定此処まで来るのにも苦労しました。
この後も、とてもじゃないが自信がありません。
とにかくやってみるだけです。
というわけで、まずは<ネット ゲリラ>に書き込んだものをここに載せるところから始めたいとおもいます。
うまくいってくれればいいけどーーーーー
<ネット ゲリラ>に書き込んだ 「安田南の京都」が以下の文章です。
安田南の同志社大学コンサートは、無名のジャズ歌手だったにもかかわらず満杯の観客を集めました。
それを可能にした理由のひとつには、当時の関西地区の気風があると思います。
関西の、少なくとも若者たちには、反主流、反中央、反体制、反権力、ついでに反東京といった気風が強くありました。(今でもそうなのかなあ?)
その結果、大金を稼いでるトップスターよりも、金はなくとも地味に頑張ってる半スター、アッパーグラウンドよりもアンダーグラウンド、メジャーよりもマイナーを好む、支持する(応援する)ムードがあったのです。
その点で安田南は、メジャー誌のスィングジャーナルに載ってる笠井紀美子や中本マリあたりとはちょっと違う。だけど、ちょいと凄いって噂だぜ、といったあたりがまずひとつめの人気の理由だと考えられます。
とはいってもそれだけで無名も同然の安田南が伝説的なコンサートを残せるとは考えられません。
一番の理由は別にあると私は考えていますが、それについてはもっと後で語ってみようと思います。
そこで、まずは同志社大学コンサートにの実際の模様ついてお話したいとおもいます。
‘73か4年、同志社大学学生会館ホールでそのコンサートはおこなわれました。
この時の印象は強烈なもので、今でも〈映像〉として思い浮かぶほどです。
<開演>
まず山本剛トリオのやや長めの演奏が一曲。
そしてしばらくすると、暗闇のステージにピンスポットライトが灯り、その中に黒い革ジャンパー、パンツ、ブーツ姿の安田南がうかびあが りました。
ショートカットのヘアースタイルで、とてもスリムなプロポーションでした。
そして静まり返った会場の中、あれはスキャットというべきなのかハミングというべきなのか、私にはよくわかりませんが、無伴奏で、ス ローでフリーなテ ンポで唄い出しました。
〈サマータイム〉です。
息を呑む静寂の中で唄い終わると、一瞬の間があって山本剛トリオのイントロが始まりました。
一転して、力強く、ややアップテンポのエイトビートです。
安田南は、ゆっくりとピアノに近寄り、とり出したタバコに火を点けました。
煙が立ち昇った時、会場にため息ともどよめきともとれるざわめきが湧きおこりました。
それだけで私達は持っていかれてしまったのです。
もの凄い存在感でした。
もの凄いオーラでした。
誰もが声も出さず、半数は立ち上がり、ただじっとステージを見つめて いたのです。
ついでながらのハナシですが、当然ホール内は禁煙なのですが、安田南はそういうことに、全く頓着している様子はありませんでした。
ステージの間中右手にタバコ、左手にマイクというスタイルを通しました。
ヘビースモーカーというのは本当です
ハナシを戻します。
彼女の独特な〈サマータイム〉が終わると、それまで無言だった私達は、我に返ったように大歓声を挙げていたのです。
その唄は、私がよく知っている、ジャニスの〈サマータイム〉や、その日以降時々聴くようになったジャズ歌手達〈サマータイム〉とは、もう 全く違うものでした。
異端と言ってもいいかもしれません。
とにかく〈南のサマータイム〉としか形容のしようが見つからないでのです。
他の曲についても言えることですが、私達は、歌詞を暗記していないかぎり、
どういうことを唄っているのか、やはり全部わかるというわけにはいきません。
なにしろ英語です。
しかしなにかが伝わってくるのです。
私自身がこの時感じたのは、「ヤバイ、泣きそうや」という感じでした。
どういうわけか、そんな感じになったのです。
わかっているつもりでしたが、音楽はコトバだけではないんだということを、ハッキリと思い知らされた瞬間だったとおもいます。
ここらあたりの感じは、当時の反戦フォーク好きの連中には理解不能だったろうなと思います。
とにもかくにも
会場中が凍りついたような静寂のなか、〈南のサマータイム〉を私達はただただ
聴くというか、感じていたのです。
この日安田南が唄ったのは、〈サマータイム〉のほか
マイ ファニー ヴァレンタイン
LOVE
グッド ライフ
サニー
ティーチ ミー トゥナイト
等々のスタンダードナンバー
それにブルースを2~3曲
全部は憶えていません。
当時、私はわかっていませんでした。
この日以降、ジャズやジャズヴォーカルを聴くようになって少しだけわかって
きたことがあります。
それは、安田南が他の歌手とどこが違うか、ということです。
安田南は、バンドのことを、ただのバックバンドとは考えてはいないということ
です。
通常、唄というのは、
バンドのイントロがあって、
ヴォーカルがあって、
バンドの演奏があって、
再びヴォーカルがあって、
エンディング。
というパターンを間違いなく踏むものです。
そこでは、バンドはあくまでも"伴奏者“として位置づけられています。
安田南の場合も基本的にはこのパターンを踏襲します。
踏襲しますが、しかし、彼女はこのパターンからしばしば逸脱するのです。
その時、唄と楽器が絡み合い、お互いのフレーズを引き出し合って、ある時は
ある時は唄とドラムス(!)のデュオ、そしてピアノ、ベース、と、それぞれの
パッションというか、よくわからないけど、そういったものをぶつけ合いながら
進行してゆくのです。
おそらく、唄、楽器ともにアドリブで進行しているので、もの凄い緊張感と、
スリリングな空気が充満し、私達オーディエンスもその中に引きずり込まれて一
体となって精神が昂揚したり、悲しくなったりするのだろうと思います。
この日、アンコールに応えて、最後に彼女が唄ったのはブルースで、新しい恋人
を得た歓びをアドリブの歌詞で、照れることもなく、堂々と、しかし少女のよう
に初々しく幸せそうに唄い上げてコンサートは終了しました。
そして、この恋人こそが、京都での安田南、その後の安田南の鍵を握る人物といっても
大げさではないだろうと私は考えています。
このコンサートの成功にも彼の存在が大きく関わっているのです。
彼の存在と、彼との関係を考えることで、いろんなことが解けるのではないかと
私は考えています。
次回には、この恋人についても考えてみようと思っています。
安田南の京都 3 京都でのエピソードや恋人について等々
73,4年当時、酒蔵かなにかを改造して造ったライブハウスで「拾得(じゅっとく)」という店がありました。駆け出しのブルースバンドやジャズのミュージシャンからプロまで、広く出演していた場所でした。
ある日のこと、駆け出しも駆け出し、アマチュアもアマチュアのブルースバンドが演奏していると突然顔中包帯だらけのミイラみたいな格好の女性が、唄わせてくれ、と言ってステージに近寄ってきたというのです。
その時唄っていた若いブルースシガー(男)は、ちょっと気圧された感じでマイクを渡してしまったそうです。
ところが、このミイラ女がブルースを唄い出すと、場の雰囲気が一変したそうです。
全然トロかったバンドも一変に引き締まり、ガヤガヤと飲み食いしてた客も、ん?、と音楽を聴く態度に変わったといいます。
ミイラ女の名前を質すと、なんと安田南だということだったそうです。
このミイラ女、顔がわからないだけに真偽のほどを疑うむきもあるようですが、私はこの話を聞いた時間違いなく安田南本人だと直感しました。
同じ頃、彼女は恋人とオートバイで事故を起こして顔面包帯だった頃があったからです。恋人の方はどうかというと、全治半年とか1年とかいう重傷だったにもかかわらず5日くらいで病院を脱走してきましたから、もう化け物としか言いようがありません。
安田南についての印象を語るとしたら、散々強烈な印象を撒き散らして、そしてこの恋人とともにオートバイに乗って京都からいなくなった、という感じです。
もっと言えば、正直なところ京都から(同志社大学から)彼を奪い去っていなくなってしまった、という感じの方が強いかもしれません。
やっぱりこの恋人(以後Mと呼びます)に触れざるを得ないようなので、今後は少々詳しくなるかもしれませんが、Mについても語っていきたいとおもいます。
誤解のないように言っておきますが、先ほど“化け物”と彼のことを表現しましたが、それは比喩的な表現であって、決してゴリラみたいな男を連想するものではありません。
むしろ繊細で、大変なインテリでした。見た目も小柄で細身、なお且つ、ハンサムと言っても外れではないとおもいます。
ただ、理不尽な圧力や権威的な態度に直面した時のMは、信じ難いほどの怒りと、そし
て頑固さをあらわにすることを憚りませんでした。
その態度は非妥協的なもので、誰がどう見ても勝ち目の戦いであっても体を張って闘うのです。
その結果、色白で細面、どちらかというとハンサムであるにもかかわらず、Mには、血と暴力みたいな匂いが漂っていました。
次回は、安田南がMと出会った経緯や、安田南にとって何故Mなのかを考えてみたいと思います。
どの程度できるかは少し不安ですが~~
京都での安田南を語ろうとすると、私には少なからず躊躇してしまう気持ちがあります。
それはタブーといってもいいような、あまりわざわざ喋るべきではないような、そんな奇妙な感じです。
当時の同志社を中心とした京都(全国的にそうだったのかもしれませんが)の状況は大変厳しく、緊張感と暗澹たるムードが横溢していました。
それがどういうものだったのかは追々語ることになるかもしれませんが、とにかくそんな中でも踏ん張って頑張っている少数の人達はいたのです。
安田南を語る時には、彼らに触れざるをえません。
彼らの中には公安警察に厳しくマークされていた連中もいたのです。
安田南が非合法なことに関わっていたということではありません。
然しながら、彼女の行動範囲のなかにしばしば彼らも関連することもありました。
私が躊躇するのは、こういった人達に迷惑をかけたり、不愉快な思いをさせはしまいかという心配です。
そこで私は、色々なことを共有している数少ない友人の一人と協議をし、その結果、迷惑になりそうな部分は削除してオープンにしよう、それにこんな風に安田南のことを少数の人間だけで共有し合ってるなんて、淫媚で気色悪いじゃないか、ということで、語れる範囲で語ることにしました。
京都での安田南を語る時、絶対に外せないのが同志社大学でのコンサートです。
このコンサートこそが京都での安田南人気、伝説を決定的にしたからです。
当時、京都の人間で安田南を知っている人は、ごくごく一部の人たちを除いて殆んどいなかったと思います。
中津川の一件なんて、フォークジャンボリーがあったことは知っていたとしても、その内容も、そこに安田南という名前も知らないジャズ歌手が出演していたということも知られていませんでした。
かくいう私も、彼女がジャズ歌手であることを、コンサートの少し前まで知りませんでした。
このコンサートの前年、同時期、同場所で笠井紀美子(with山本剛トリオ)、前々年には浅川マキ(with山下洋輔トリオ)があったのですが、これとは比較にならない観客動員力で、開演二時間前にはホールの周りを長蛇の列がズラリと取り囲んでいたのには驚かされました。
同じ日に京都大学では、(これは意図的にやったと考えられていますが)安田南にぶつける形で、当時スウィングジャーナル誌の人気投票で女性ヴォーカル部門第一位だった中本マリのコンサートもあったのですが、伝聞ですが、こちらも問題外だったようでした。
ここまで書いてきて何故かとてもつかれてしまいました。
今日はここまでにします。
コンサートの模様などは次回にしたいと思います。