2013年08月

安田南の京都 5 Mと中平卓馬の出会いと安田南

 

 

 安田南の恋人Mは、同志社大学に数々の伝説を残しています。

 前にも言ったように、入学するや論文を連発し、それは大学当局にも強いインパクトを与えていたものと考えられます。

 私の眼には、Mはもうやりたい放題に映りました。

 そもそも授業料も入学時に一部だけを払っただけでした。

 それでもずっと学籍はあって、学生証も発行されていました。そんなことはいかに良き時代であった当時にあっても考えられないことです。

 

例えば、4年間大学に在籍した後、履修単位ゼロのまま安田南と共に同志社大学を去ろうとしたとき、思いとどまるように大学から説得されたこと。

さらに、説得に応じないと見るや、いつでも戻ってきてもらいたいと告げたというハナシ。

 

ある日、大学の経営当局が、抜き打ち的に、突然機動隊を導入して有無を言わさない弾圧を加えた時、大学の治安機関ともいうべき学生部課長が地面に膝をついてMに謝罪したこともありました。(これは、今出川通りという、大学前の公道上での出来事だったので、結構知られたハナシになりました)

 

俄かには信じられないことですが、事実なのです。

おそらくは、大学の経営だけを考える当局と、学術・学問を最優先する大学現場との価値観の違い、スタンスの違いではなかろうかと思います。

 

ところで前回では、連合赤軍事件の発生あたりまでお話しました。

 

当時、賛成反対、事の善悪は別にして、赤軍派は彼等の筋を通して運動を続けているんだといった見方もあって、やや離れたところから消極的ではあっても評価したり、まあお手並み拝見、という空気が少数派ではあっても確かに存在していました。

彼らが「M作戦」と称して銀行強盗などの現金強奪をやっても、一人のケガ人もださない、ある意味礼儀正しい「犯罪者」であったことや、ちょっと笑ってしまうほどマンガチックな作戦(?)を堂々と『赤軍派』の身分を明らかにしてから決行するという「フェアな犯罪者」だったことが、利害関係のない人達にとっては内心面白くもあったし、本当に心密かに、もっとやれ、という無責任な見物人の表面には出さない支持(?)があったのです。

みんな否定するかもしれませんが、心の底を覗けば絶対にあったはずです。

とはいえ、それも「あの連中は絶対に最後は警察に捕まるか、もしくは射殺されて終わるに違いない」という前提のハナシです。

 

ところが、「連合赤軍事件」は何人もの同志をリンチのあげく殺害するというとんでもなくショッキングな事件でした。

こうなるとハナシは別です。

彼らは全国民の敵となりました。当たり前のことです。

前日までは「浅間山荘」で警官隊と銃撃戦をやって、みんなはそれをテレビ観戦しながら実は結構楽しんでおり、内心どちらかを応援をしていたというのに、これでは全部ぶち壊しです。

 

京都で学生をやっていた私にとってももの凄いショックな出来事でした。

「赤軍派」はいつの間にか「連合赤軍」になっており、そのスローガンも、ある意味高踏的、観念的、大言壮語的で意味不明なところはあっても、それなりに知性的な感じを匂わせるものだったのが、「反米愛国」とか「遊撃戦」とか右翼だか中国共産党だかわけのわからない奇妙な違和感のあるものになっていました。

 

私のことは措いて、このことがMにとってはどのような事だったのか、これは勝手に想像するしかありませんが、この「連合赤軍」の少し前、彼は姿を消してしまいました。

 

 おそらく、身の危険を感じたと考えるのが当たっているのではないでしょうか。

 赤軍派と接触のあった者は公安警察からの一斉摘発が予想されていたからです。

 

当時は「赤軍罪」という用語が生まれたほどで、関係者であろうが、ただの友人であろうが少しでも「赤軍派」と接点のある人物は何もしていなくても公安に逮捕や検挙されるという、もう無茶苦茶な弾圧が当たり前のことになっていました。

 そう考えればMが地下に潜行したのも理解できるような気がします。

 

 この時期、同志社大学の主だった活動家は同じように一斉に姿を消してしまい、二度と現れない者も沢山いました。

 反体制運動、反権力闘争をやっている者は、反社会的人間だと一般社会からみなされるようになってしまったからです。

 

 その結果、大学のキャンパスは静寂というべきか、無気力というべきか、沈滞ムードにおおわれてしまいまいました。

 それまでいわばデカイ顔をして、やれ粉砕だやれ革命だと大声で叫んでいた連中は、姿を消すか、沈黙してこっそりと単位取得のために教室に通い出す状態だったのです。

 Mも姿を消しました。

 地下に潜行してしまい、行方は杳として知れませんでした。

 もう帰ってこないだろう、と。

 結論からいうと、Mは復活し、むしろ彼の真価を発揮することになりますがここではやめておきます。

  

 安田南には関係ない話が長くなりました。

 ここは長い前置きになってしまいました。

 本題は次にします。 

  今日は、安田南が新しい恋人Mと出会ったころの京都の雰囲気、時代の状況などを、見ながら考えてみたいとおもいます。

  安田南の京都  4  恋人Mと二人を取り巻く状況

 

 

 安田南の恋人Mとはどういった人物だったのか、

 どのような経緯で二人が出会ったのか、

 どういう風にして恋におちたのか、

 当たり前のことですが、本当のところは誰にもわかりません。

 

 ただ、Mの周囲にいた、ごく親しい者達は、まず例外なしに、「南はいい女だなあ。」といった感想を述べています。

 学生に比べたらはるかに大人の女性をつかまえて「南」と呼び捨てでした。

 生意気なのではなく、そのように呼ぶほうが自然な感じだったとおもいます。

 彼女にはそう呼んでもいい雰囲気がありました。

 可愛いのです。

 とはいえやっぱり大姉御です。

 私達の言うことにたいしては、基本的には黙って聞いててくれるのですが、おかしなことを言うとズバリ指摘してきました。

 それがまた鋭い指摘なのでグウの音も出ないのです。

 それは理屈ではなくて、直感的に本質をついてくるのです。

 実は本当に頭の良い女性であることがよくわかり。みんな尊敬していました。

 

 ところでMという男はどんな人物だったのか

 

 Mは、同志社大学始まって以来の一番のキレ者、ともっぱらの評判の男でした。

 実際、入学するや自治会の役員に選出され、すぐに頭角を表わして注目を集めていました。

 一回生でありながら、哲学系の学術サークルを旗揚げして、そこを拠点に論文を次々に発表しています。しかもその内容が哲学、経済学、前衛芸術、サブカルチャーと多岐にわたり、しかもレベルが高いのです。

 後に、そのハイレベルな内容を世に問うかたちで、各分野の最高と考えられる専門家達を直接口説き落として、定期的にシンポジウムを主宰しました。

 その過程で安田南とMは出会っているのです。

 いつから二人が恋人同士になったのかはわかりませんが、頭の良い者同士、体を張って生きている者同士がそうなるのも自然なことかもしれないな、と時間がたってから私は納得した次第です。

 

 Mは、'71年に同志社大学二部に入学しています。

 たしか、慶応から流れて来たんだったとおもいます。

 こんな優秀な学生を手放す大学があるのかと少々驚きましたが、時代が時代だっただけに、それなりの理由があったんだろうとおもいます。

 '60年代後半から、日本全国は大揺れに揺れて、多くの大学はバリケード封鎖、ストライキ、街頭では投石と火炎瓶、警察機動隊のガス弾が激しく飛び交い、死者も出た時代です。      

遂には東大の入試も中止となったりした時代でした。

しかし、圧倒的な警察権力に鎮圧されてしまったのです。

 そんな中、誕生したのが、あの超急進的で過激な赤軍派です。

 その赤軍派の有力な拠点校が同志社大学だったのです。

 当然ながら、赤軍派には公安警察から集中的で過酷な弾圧攻撃が加えられて、そのメンバーは表通りを公然と歩くことも困難な状況でした。

 ワケのわからない理由や容疑で逮捕されたり、歩いているところをいきなり交番に引きずり込まれて脚の骨を折られたり、駅のホームで殴る蹴るの暴行をうけたり、という類いのハナシはよく耳にしました。

 当然、赤軍派活動家は地下に潜り、有名どころは獄中に、そして拠点という拠点は潰されてしまったのです。

 そんな中おそらく唯一残った拠点校が、同志社大学の二部だったのではないでしょうか。

 

 そのような状況下、Mが入学してきたのです。

 そして、すぐに自治会の幹部(学部の委員長)になり、しかも東京弁でした。

 誰もがMは赤軍派のメンバーだと思っていました。私もです。

 Mはアタマの切れる優秀な男です。赤軍派は概ね優秀な学生の集団という評価が、当時の一般的な認識でしたから、尚更そう思われたとおもいます。

 しかし、今になって思い返してみると、本当のところはどうだったんだろうか、と考えてしまいます。

 一度、赤軍派から来てた専従の指導者と激しく論争をして、結局その指導者に謝罪させた現場を見たことがあります。

 安田南を語るのに、こんな細かいハナシをしても仕方ないし、長くなるので、出来るだけ端折ります。

 しかし、彼女の愛した男の人となりは説明しておかないと、「安田南の京都」が明快なものにならないと思うので、最小限必要だとおもうことは話しておくことにします。

 

 このような状況下、同じ年に、私は知りませんでしたが、中津川のフォークジャンボリーが開催されていたのです。

 世間では反体制の活動家達が厳しい弾圧に遭い、普通の生活もままならならない状態に追い込まれ、大半の人達は反権力闘争から離れていきました。まあ殆んどが、恥ずかしげにこっそりと、もとの日常に戻り、自分自身の将来(就職)を心配したということです。

 活動を続けて逮捕されたりしたら元も子もない、というのが正直なところでしょう。

 そんな時、山の中の中津川の会場内で、警察権力も全然いない安全地帯で、いっぱしの革命家気取りでステージにデモをかけ、アジ演説をする連中に対して、安田南は怒りを爆発させたのではなかろうかと、これはもう容易に想像出来るのです。いや、むしろ、あまりの情けなさに軽蔑していたかもしれません。

 

 

 一方、同志社大学ではまだ赤軍派が半ば公然と存在しており、そのただ中にMもいました。

 勿論Mには常時公安警察がつきまとい、朝寝ているところを急襲されたり、ガールフレンドとデートしているところをつきまとわれる、といった程度は生易しいほうでした。

 公安からの圧力で、郷里の父親や、親戚の自衛隊幹部が説得に来たというはなしも聞きましたし、休日の琵琶湖ドライブも公安の伴走車つきだったといいます。

 

 そうこうしているうちに日本中を揺るがす大変な事件が起こりました。

 

 連合赤軍事件です。

 

 そして、この連合赤軍事件があったればこそ、Mの本当の価値というか信頼される存在感が本当の意味で表面化することになったと、私は確信しています。

 

 そして、この事件を乗り越える過程をもがき苦しんだからこそ、安田南との出会いがあたのです。

 

 次回は、安田南とMの出会い,中平卓馬、等についても考えて

みようと思います。

 

  今考えてみると、とんでもない時代だったと、つくづくおもいます。
  でも、そういう時代のど真ん中を彼女たちは、駆け抜けていたのです。

  はじめに

 私はこれまで、えらく景気のいい名前のブログ<ネット ゲリラ>に安田南に関するハナシを書き込んできました。
 ところがデジタル世界に全然疎い年代の悲しさ、送信に何度も失敗するし、遂にはそれも全く出来なくなってしまいました。
 もう止めようと思ったのですが、中途半端も悔しいので、超大胆にも自分のブログを立ち上げることにしました。
 
 案の定此処まで来るのにも苦労しました。
 この後も、とてもじゃないが自信がありません。
 とにかくやってみるだけです。

 というわけで、まずは<ネット ゲリラ>に書き込んだものをここに載せるところから始めたいとおもいます。
 うまくいってくれればいいけどーーーーー    
  
<ネット ゲリラ>に書き込んだ  「安田南の京都」が以下の文章です。
  
安田南の京都  1 伝説の同志社大学コンサート

 京都での安田南を語ろうとすると、私には少なからず躊躇してしまう気持ちがあります。
 それはタブーといってもいいような、あまりわざわざ喋るべきではないような、そんな奇妙な感じです。 
 当時の同志社を中心とした京都(全国的にそうだったのかもしれませんが)の状況は大変厳しく、緊張感と暗澹たるムードが横溢していました。
 それがどういうものだったのかは追々語ることになるかもしれませんが、とにかくそんな中でも踏ん張って頑張っている少数の人達はいたのです。
 安田南を語る時には、彼らに触れざるをえません。
 彼らの中には公安警察に厳しくマークされていた連中もいたのです。
 安田南が非合法なことに関わっていたということではありません。
 然しながら、彼女の行動範囲のなかにしばしば彼らも関連することもありました。
 
 私が躊躇するのは、こういった人達に迷惑をかけたり、不愉快な思いをさせはしまいかという心配です。
 そこで私は、色々なことを共有している数少ない友人の一人と協議をし、その結果、迷惑になりそうな部分は削除してオープンにしよう、それにこんな風に安田南のことを少数の人間だけで共有し合ってるなんて、淫媚で気色悪いじゃないか、ということで、語れる範囲で語ることにしました。

 京都での安田南を語る時、絶対に外せないのが同志社大学でのコンサートです。
 このコンサートこそが京都での安田南人気、伝説を決定的にしたからです。
 当時、京都の人間で安田南を知っている人は、ごくごく一部の人たちを除いて殆んどいなかったと思います。
 中津川の一件なんて、フォークジャンボリーがあったことは知っていたとしても、その内容も、そこに安田南という名前も知らないジャズ歌手が出演していたということも知られていませんでした。
 かくいう私も、彼女がジャズ歌手であることを、コンサートの少し前まで知りませんでした。
 このコンサートの前年、同時期、同場所で笠井紀美子(with山本剛トリオ)、前々年には浅川マキ(with山下洋輔トリオ)があったのですが、これとは比較にならない観客動員力で、開演二時間前にはホールの周りを長蛇の列がズラリと取り囲んでいたのには驚かされました。
 同じ日に京都大学では、(これは意図的にやったと考えられていますが)安田南にぶつける形で、当時スウィングジャーナル誌の人気投票で女性ヴォーカル部門第一位だった中本マリのコンサートもあったのですが、伝聞ですが、こちらも問題外だったようでした。


   ここまで書いてきて何故かとてもつかれてしまいました。

   今日はここまでにします。

   コンサートの模様などは次回にしたいと思います。



 安田南の京都  2 伝説同志社大学コンサート 続

 安田南の同志社大学コンサートは、無名のジャズ歌手だったにもかかわらず満杯の観客を集めました。
 それを可能にした理由のひとつには、当時の関西地区の気風があると思います。
 関西の、少なくとも若者たちには、反主流、反中央、反体制、反権力、ついでに反東京といった気風が強くありました。(今でもそうなのかなあ?)
 その結果、大金を稼いでるトップスターよりも、金はなくとも地味に頑張ってる半スター、アッパーグラウンドよりもアンダーグラウンド、メジャーよりもマイナーを好む、支持する(応援する)ムードがあったのです。
 その点で安田南は、メジャー誌のスィングジャーナルに載ってる笠井紀美子や中本マリあたりとはちょっと違う。だけど、ちょいと凄いって噂だぜ、といったあたりがまずひとつめの人気の理由だと考えられます。 
 とはいってもそれだけで無名も同然の安田南が伝説的なコンサートを残せるとは考えられません。
 一番の理由は別にあると私は考えていますが、それについてはもっと後で語ってみようと思います。
 そこで、まずは同志社大学コンサートにの実際の模様ついてお話したいとおもいます。 
 ‘73か4年、同志社大学学生会館ホールでそのコンサートはおこなわれました。
 この時の印象は強烈なもので、今でも〈映像〉として思い浮かぶほどです。
 
   <開演>
    まず山本剛トリオのやや長めの演奏が一曲。
    そしてしばらくすると、暗闇のステージにピンスポットライトが灯り、その中に黒い革ジャンパー、パンツ、ブーツ姿の安田南がうかびあが   りました。
    ショートカットのヘアースタイルで、とてもスリムなプロポーションでした。
    そして静まり返った会場の中、あれはスキャットというべきなのかハミングというべきなのか、私にはよくわかりませんが、無伴奏で、ス    ローでフリーなテ ンポで唄い出しました。   
 
  〈サマータイム〉です。

    息を呑む静寂の中で唄い終わると、一瞬の間があって山本剛トリオのイントロが始まりました。
    一転して、力強く、ややアップテンポのエイトビートです。
    安田南は、ゆっくりとピアノに近寄り、とり出したタバコに火を点けました。
    煙が立ち昇った時、会場にため息ともどよめきともとれるざわめきが湧きおこりました。

    それだけで私達は持っていかれてしまったのです。

    もの凄い存在感でした。
    もの凄いオーラでした。

    誰もが声も出さず、半数は立ち上がり、ただじっとステージを見つめて いたのです。

    ついでながらのハナシですが、当然ホール内は禁煙なのですが、安田南はそういうことに、全く頓着している様子はありませんでした。
    ステージの間中右手にタバコ、左手にマイクというスタイルを通しました。
    ヘビースモーカーというのは本当です
   
   ハナシを戻します。
   彼女の独特な〈サマータイム〉が終わると、それまで無言だった私達は、我に返ったように大歓声を挙げていたのです。

   その唄は、私がよく知っている、ジャニスの〈サマータイム〉や、その日以降時々聴くようになったジャズ歌手達〈サマータイム〉とは、もう   全く違うものでした。                             
   異端と言ってもいいかもしれません。                 
   とにかく〈南のサマータイム〉としか形容のしようが見つからないでのです。
   他の曲についても言えることですが、私達は、歌詞を暗記していないかぎり、 
   どういうことを唄っているのか、やはり全部わかるというわけにはいきません。 
   なにしろ英語です。
   しかしなにかが伝わってくるのです。
   私自身がこの時感じたのは、「ヤバイ、泣きそうや」という感じでした。
   どういうわけか、そんな感じになったのです。

   わかっているつもりでしたが、音楽はコトバだけではないんだということを、ハッキリと思い知らされた瞬間だったとおもいます。  
   ここらあたりの感じは、当時の反戦フォーク好きの連中には理解不能だったろうなと思います。

   とにもかくにも
   会場中が凍りついたような静寂のなか、〈南のサマータイム〉を私達はただただ
   聴くというか、感じていたのです。

   この日安田南が唄ったのは、〈サマータイム〉のほか
   
      マイ ファニー ヴァレンタイン
      LOVE
      グッド ライフ
      サニー
      ティーチ ミー トゥナイト
      等々のスタンダードナンバー
      それにブルースを2~3曲
   全部は憶えていません。          
 
   当時、私はわかっていませんでした。
   この日以降、ジャズやジャズヴォーカルを聴くようになって少しだけわかって
   きたことがあります。
   それは、安田南が他の歌手とどこが違うか、ということです。
   
   安田南は、バンドのことを、ただのバックバンドとは考えてはいないということ
   です。

   通常、唄というのは、
   バンドのイントロがあって、
   ヴォーカルがあって、
   バンドの演奏があって、
   再びヴォーカルがあって、
   エンディング。
   
   というパターンを間違いなく踏むものです。
   そこでは、バンドはあくまでも"伴奏者“として位置づけられています。
   安田南の場合も基本的にはこのパターンを踏襲します。
   踏襲しますが、しかし、彼女はこのパターンからしばしば逸脱するのです。
    その時、唄と楽器が絡み合い、お互いのフレーズを引き出し合って、ある時は
   ある時は唄とドラムス(!)のデュオ、そしてピアノ、ベース、と、それぞれの
   パッションというか、よくわからないけど、そういったものをぶつけ合いながら
   進行してゆくのです。
    おそらく、唄、楽器ともにアドリブで進行しているので、もの凄い緊張感と、
   スリリングな空気が充満し、私達オーディエンスもその中に引きずり込まれて一
   体となって精神が昂揚したり、悲しくなったりするのだろうと思います。

   この日、アンコールに応えて、最後に彼女が唄ったのはブルースで、新しい恋人
   を得た歓びをアドリブの歌詞で、照れることもなく、堂々と、しかし少女のよう
   に初々しく幸せそうに唄い上げてコンサートは終了しました。


 そして、この恋人こそが、京都での安田南、その後の安田南の鍵を握る人物といっても
 大げさではないだろうと私は考えています。
 このコンサートの成功にも彼の存在が大きく関わっているのです。

  彼の存在と、彼との関係を考えることで、いろんなことが解けるのではないかと
  私は考えています。


   次回には、この恋人についても考えてみようと思っています。


  安田南の京都  3 京都でのエピソードや恋人について等々

 73,4年当時、酒蔵かなにかを改造して造ったライブハウスで「拾得(じゅっとく)」という店がありました。駆け出しのブルースバンドやジャズのミュージシャンからプロまで、広く出演していた場所でした。
 ある日のこと、駆け出しも駆け出し、アマチュアもアマチュアのブルースバンドが演奏していると突然顔中包帯だらけのミイラみたいな格好の女性が、唄わせてくれ、と言ってステージに近寄ってきたというのです。
 その時唄っていた若いブルースシガー(男)は、ちょっと気圧された感じでマイクを渡してしまったそうです。
 ところが、このミイラ女がブルースを唄い出すと、場の雰囲気が一変したそうです。
 全然トロかったバンドも一変に引き締まり、ガヤガヤと飲み食いしてた客も、ん?、と音楽を聴く態度に変わったといいます。

 ミイラ女の名前を質すと、なんと安田南だということだったそうです。
 このミイラ女、顔がわからないだけに真偽のほどを疑うむきもあるようですが、私はこの話を聞いた時間違いなく安田南本人だと直感しました。
 同じ頃、彼女は恋人とオートバイで事故を起こして顔面包帯だった頃があったからです。恋人の方はどうかというと、全治半年とか1年とかいう重傷だったにもかかわらず5日くらいで病院を脱走してきましたから、もう化け物としか言いようがありません。

 安田南についての印象を語るとしたら、散々強烈な印象を撒き散らして、そしてこの恋人とともにオートバイに乗って京都からいなくなった、という感じです。
 もっと言えば、正直なところ京都から(同志社大学から)彼を奪い去っていなくなってしまった、という感じの方が強いかもしれません。
 
 やっぱりこの恋人(以後Mと呼びます)に触れざるを得ないようなので、今後は少々詳しくなるかもしれませんが、Mについても語っていきたいとおもいます。

 誤解のないように言っておきますが、先ほど“化け物”と彼のことを表現しましたが、それは比喩的な表現であって、決してゴリラみたいな男を連想するものではありません。
 
 むしろ繊細で、大変なインテリでした。見た目も小柄で細身、なお且つ、ハンサムと言っても外れではないとおもいます。
 ただ、理不尽な圧力や権威的な態度に直面した時のMは、信じ難いほどの怒りと、そし
て頑固さをあらわにすることを憚りませんでした。
 その態度は非妥協的なもので、誰がどう見ても勝ち目の戦いであっても体を張って闘うのです。
 その結果、色白で細面、どちらかというとハンサムであるにもかかわらず、Mには、血と暴力みたいな匂いが漂っていました。
 

 次回は、安田南がMと出会った経緯や、安田南にとって何故Mなのかを考えてみたいと思います。
 どの程度できるかは少し不安ですが~~


 

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