安田南の京都 5 Mと中平卓馬の出会いと安田南
安田南の恋人Mは、同志社大学に数々の伝説を残しています。
前にも言ったように、入学するや論文を連発し、それは大学当局にも強いインパクトを与えていたものと考えられます。
私の眼には、Mはもうやりたい放題に映りました。
そもそも授業料も入学時に一部だけを払っただけでした。
それでもずっと学籍はあって、学生証も発行されていました。そんなことはいかに良き時代であった当時にあっても考えられないことです。
例えば、4年間大学に在籍した後、履修単位ゼロのまま安田南と共に同志社大学を去ろうとしたとき、思いとどまるように大学から説得されたこと。
さらに、説得に応じないと見るや、いつでも戻ってきてもらいたいと告げたというハナシ。
ある日、大学の経営当局が、抜き打ち的に、突然機動隊を導入して有無を言わさない弾圧を加えた時、大学の治安機関ともいうべき学生部課長が地面に膝をついてMに謝罪したこともありました。(これは、今出川通りという、大学前の公道上での出来事だったので、結構知られたハナシになりました)
俄かには信じられないことですが、事実なのです。
おそらくは、大学の経営だけを考える当局と、学術・学問を最優先する大学現場との価値観の違い、スタンスの違いではなかろうかと思います。
ところで前回では、連合赤軍事件の発生あたりまでお話しました。
当時、賛成反対、事の善悪は別にして、赤軍派は彼等の筋を通して運動を続けているんだといった見方もあって、やや離れたところから消極的ではあっても評価したり、まあお手並み拝見、という空気が少数派ではあっても確かに存在していました。
彼らが「M作戦」と称して銀行強盗などの現金強奪をやっても、一人のケガ人もださない、ある意味礼儀正しい「犯罪者」であったことや、ちょっと笑ってしまうほどマンガチックな作戦(?)を堂々と『赤軍派』の身分を明らかにしてから決行するという「フェアな犯罪者」だったことが、利害関係のない人達にとっては内心面白くもあったし、本当に心密かに、もっとやれ、という無責任な見物人の表面には出さない支持(?)があったのです。
みんな否定するかもしれませんが、心の底を覗けば絶対にあったはずです。
とはいえ、それも「あの連中は絶対に最後は警察に捕まるか、もしくは射殺されて終わるに違いない」という前提のハナシです。
ところが、「連合赤軍事件」は何人もの同志をリンチのあげく殺害するというとんでもなくショッキングな事件でした。
こうなるとハナシは別です。
彼らは全国民の敵となりました。当たり前のことです。
前日までは「浅間山荘」で警官隊と銃撃戦をやって、みんなはそれをテレビ観戦しながら実は結構楽しんでおり、内心どちらかを応援をしていたというのに、これでは全部ぶち壊しです。
京都で学生をやっていた私にとってももの凄いショックな出来事でした。
「赤軍派」はいつの間にか「連合赤軍」になっており、そのスローガンも、ある意味高踏的、観念的、大言壮語的で意味不明なところはあっても、それなりに知性的な感じを匂わせるものだったのが、「反米愛国」とか「遊撃戦」とか右翼だか中国共産党だかわけのわからない奇妙な違和感のあるものになっていました。
私のことは措いて、このことがMにとってはどのような事だったのか、これは勝手に想像するしかありませんが、この「連合赤軍」の少し前、彼は姿を消してしまいました。
おそらく、身の危険を感じたと考えるのが当たっているのではないでしょうか。
赤軍派と接触のあった者は公安警察からの一斉摘発が予想されていたからです。
当時は「赤軍罪」という用語が生まれたほどで、関係者であろうが、ただの友人であろうが少しでも「赤軍派」と接点のある人物は何もしていなくても公安に逮捕や検挙されるという、もう無茶苦茶な弾圧が当たり前のことになっていました。
そう考えればMが地下に潜行したのも理解できるような気がします。
この時期、同志社大学の主だった活動家は同じように一斉に姿を消してしまい、二度と現れない者も沢山いました。
反体制運動、反権力闘争をやっている者は、反社会的人間だと一般社会からみなされるようになってしまったからです。
その結果、大学のキャンパスは静寂というべきか、無気力というべきか、沈滞ムードにおおわれてしまいまいました。
それまでいわばデカイ顔をして、やれ粉砕だやれ革命だと大声で叫んでいた連中は、姿を消すか、沈黙してこっそりと単位取得のために教室に通い出す状態だったのです。
Mも姿を消しました。
地下に潜行してしまい、行方は杳として知れませんでした。
もう帰ってこないだろう、と。
結論からいうと、Mは復活し、むしろ彼の真価を発揮することになりますがここではやめておきます。
安田南には関係ない話が長くなりました。
ここは長い前置きになってしまいました。
本題は次にします。
京都での安田南を語ろうとすると、私には少なからず躊躇してしまう気持ちがあります。
それはタブーといってもいいような、あまりわざわざ喋るべきではないような、そんな奇妙な感じです。
当時の同志社を中心とした京都(全国的にそうだったのかもしれませんが)の状況は大変厳しく、緊張感と暗澹たるムードが横溢していました。
それがどういうものだったのかは追々語ることになるかもしれませんが、とにかくそんな中でも踏ん張って頑張っている少数の人達はいたのです。
安田南を語る時には、彼らに触れざるをえません。
彼らの中には公安警察に厳しくマークされていた連中もいたのです。
安田南が非合法なことに関わっていたということではありません。
然しながら、彼女の行動範囲のなかにしばしば彼らも関連することもありました。
私が躊躇するのは、こういった人達に迷惑をかけたり、不愉快な思いをさせはしまいかという心配です。
そこで私は、色々なことを共有している数少ない友人の一人と協議をし、その結果、迷惑になりそうな部分は削除してオープンにしよう、それにこんな風に安田南のことを少数の人間だけで共有し合ってるなんて、淫媚で気色悪いじゃないか、ということで、語れる範囲で語ることにしました。
京都での安田南を語る時、絶対に外せないのが同志社大学でのコンサートです。
このコンサートこそが京都での安田南人気、伝説を決定的にしたからです。
当時、京都の人間で安田南を知っている人は、ごくごく一部の人たちを除いて殆んどいなかったと思います。
中津川の一件なんて、フォークジャンボリーがあったことは知っていたとしても、その内容も、そこに安田南という名前も知らないジャズ歌手が出演していたということも知られていませんでした。
かくいう私も、彼女がジャズ歌手であることを、コンサートの少し前まで知りませんでした。
このコンサートの前年、同時期、同場所で笠井紀美子(with山本剛トリオ)、前々年には浅川マキ(with山下洋輔トリオ)があったのですが、これとは比較にならない観客動員力で、開演二時間前にはホールの周りを長蛇の列がズラリと取り囲んでいたのには驚かされました。
同じ日に京都大学では、(これは意図的にやったと考えられていますが)安田南にぶつける形で、当時スウィングジャーナル誌の人気投票で女性ヴォーカル部門第一位だった中本マリのコンサートもあったのですが、伝聞ですが、こちらも問題外だったようでした。
ここまで書いてきて何故かとてもつかれてしまいました。
今日はここまでにします。
コンサートの模様などは次回にしたいと思います。