今日は、安田南が新しい恋人Mと出会ったころの京都の雰囲気、時代の状況などを、見ながら考えてみたいとおもいます。

  安田南の京都  4  恋人Mと二人を取り巻く状況

 

 

 安田南の恋人Mとはどういった人物だったのか、

 どのような経緯で二人が出会ったのか、

 どういう風にして恋におちたのか、

 当たり前のことですが、本当のところは誰にもわかりません。

 

 ただ、Mの周囲にいた、ごく親しい者達は、まず例外なしに、「南はいい女だなあ。」といった感想を述べています。

 学生に比べたらはるかに大人の女性をつかまえて「南」と呼び捨てでした。

 生意気なのではなく、そのように呼ぶほうが自然な感じだったとおもいます。

 彼女にはそう呼んでもいい雰囲気がありました。

 可愛いのです。

 とはいえやっぱり大姉御です。

 私達の言うことにたいしては、基本的には黙って聞いててくれるのですが、おかしなことを言うとズバリ指摘してきました。

 それがまた鋭い指摘なのでグウの音も出ないのです。

 それは理屈ではなくて、直感的に本質をついてくるのです。

 実は本当に頭の良い女性であることがよくわかり。みんな尊敬していました。

 

 ところでMという男はどんな人物だったのか

 

 Mは、同志社大学始まって以来の一番のキレ者、ともっぱらの評判の男でした。

 実際、入学するや自治会の役員に選出され、すぐに頭角を表わして注目を集めていました。

 一回生でありながら、哲学系の学術サークルを旗揚げして、そこを拠点に論文を次々に発表しています。しかもその内容が哲学、経済学、前衛芸術、サブカルチャーと多岐にわたり、しかもレベルが高いのです。

 後に、そのハイレベルな内容を世に問うかたちで、各分野の最高と考えられる専門家達を直接口説き落として、定期的にシンポジウムを主宰しました。

 その過程で安田南とMは出会っているのです。

 いつから二人が恋人同士になったのかはわかりませんが、頭の良い者同士、体を張って生きている者同士がそうなるのも自然なことかもしれないな、と時間がたってから私は納得した次第です。

 

 Mは、'71年に同志社大学二部に入学しています。

 たしか、慶応から流れて来たんだったとおもいます。

 こんな優秀な学生を手放す大学があるのかと少々驚きましたが、時代が時代だっただけに、それなりの理由があったんだろうとおもいます。

 '60年代後半から、日本全国は大揺れに揺れて、多くの大学はバリケード封鎖、ストライキ、街頭では投石と火炎瓶、警察機動隊のガス弾が激しく飛び交い、死者も出た時代です。      

遂には東大の入試も中止となったりした時代でした。

しかし、圧倒的な警察権力に鎮圧されてしまったのです。

 そんな中、誕生したのが、あの超急進的で過激な赤軍派です。

 その赤軍派の有力な拠点校が同志社大学だったのです。

 当然ながら、赤軍派には公安警察から集中的で過酷な弾圧攻撃が加えられて、そのメンバーは表通りを公然と歩くことも困難な状況でした。

 ワケのわからない理由や容疑で逮捕されたり、歩いているところをいきなり交番に引きずり込まれて脚の骨を折られたり、駅のホームで殴る蹴るの暴行をうけたり、という類いのハナシはよく耳にしました。

 当然、赤軍派活動家は地下に潜り、有名どころは獄中に、そして拠点という拠点は潰されてしまったのです。

 そんな中おそらく唯一残った拠点校が、同志社大学の二部だったのではないでしょうか。

 

 そのような状況下、Mが入学してきたのです。

 そして、すぐに自治会の幹部(学部の委員長)になり、しかも東京弁でした。

 誰もがMは赤軍派のメンバーだと思っていました。私もです。

 Mはアタマの切れる優秀な男です。赤軍派は概ね優秀な学生の集団という評価が、当時の一般的な認識でしたから、尚更そう思われたとおもいます。

 しかし、今になって思い返してみると、本当のところはどうだったんだろうか、と考えてしまいます。

 一度、赤軍派から来てた専従の指導者と激しく論争をして、結局その指導者に謝罪させた現場を見たことがあります。

 安田南を語るのに、こんな細かいハナシをしても仕方ないし、長くなるので、出来るだけ端折ります。

 しかし、彼女の愛した男の人となりは説明しておかないと、「安田南の京都」が明快なものにならないと思うので、最小限必要だとおもうことは話しておくことにします。

 

 このような状況下、同じ年に、私は知りませんでしたが、中津川のフォークジャンボリーが開催されていたのです。

 世間では反体制の活動家達が厳しい弾圧に遭い、普通の生活もままならならない状態に追い込まれ、大半の人達は反権力闘争から離れていきました。まあ殆んどが、恥ずかしげにこっそりと、もとの日常に戻り、自分自身の将来(就職)を心配したということです。

 活動を続けて逮捕されたりしたら元も子もない、というのが正直なところでしょう。

 そんな時、山の中の中津川の会場内で、警察権力も全然いない安全地帯で、いっぱしの革命家気取りでステージにデモをかけ、アジ演説をする連中に対して、安田南は怒りを爆発させたのではなかろうかと、これはもう容易に想像出来るのです。いや、むしろ、あまりの情けなさに軽蔑していたかもしれません。

 

 

 一方、同志社大学ではまだ赤軍派が半ば公然と存在しており、そのただ中にMもいました。

 勿論Mには常時公安警察がつきまとい、朝寝ているところを急襲されたり、ガールフレンドとデートしているところをつきまとわれる、といった程度は生易しいほうでした。

 公安からの圧力で、郷里の父親や、親戚の自衛隊幹部が説得に来たというはなしも聞きましたし、休日の琵琶湖ドライブも公安の伴走車つきだったといいます。

 

 そうこうしているうちに日本中を揺るがす大変な事件が起こりました。

 

 連合赤軍事件です。

 

 そして、この連合赤軍事件があったればこそ、Mの本当の価値というか信頼される存在感が本当の意味で表面化することになったと、私は確信しています。

 

 そして、この事件を乗り越える過程をもがき苦しんだからこそ、安田南との出会いがあたのです。

 

 次回は、安田南とMの出会い,中平卓馬、等についても考えて

みようと思います。

 

  今考えてみると、とんでもない時代だったと、つくづくおもいます。
  でも、そういう時代のど真ん中を彼女たちは、駆け抜けていたのです。