ここがおかしい!北陵クリニック事件
結構よくまとまってると思います。
項番1〜5、8〜11については、僕の主張とほぼ同じです。
項番7については
前回書いた通り、弁護団と首都圏の会の主張に説得力ありと見て同意します。
が、「6.患者の急変は不審視されていなかった!」の部分は僕とは考えが違います。
また、そう考える根拠がよく分かりません。
タイトルにあるように半田医師をはじめ北陵スタッフの中で患者の急変を不審視する者は確かに誰もいませんでした。
これは2000年9月18日にY君(5歳男児)が入院中に急変、搬送先病院で死亡した事案じ対して、搬送先の小児科部長から電話による警告が9月下旬にあり、それを受けて10月に半田医師に2回目のラリンゲルチューブ装着の講習会を実施していることからもうかがえます。
続く10月31日にA子さん(11歳女児・第一起訴)が急変し、半田医師が気道確保がまたも失敗したことでA子さんは植物状態となってしまいましたが、この事案についても急変の原因はよく分からないながらも、「脳内で何か異変がおきたのではないか」と半田医師本人が守逮捕翌日の記者会見か何かで言っていた記憶があります。
半田夫妻の公判での供述では、このA子さんの件でいろいろ調べた結果2000年11月7日夜に守大助が何か点滴に混入しているのでは、という疑い持つに至り、その頃から患者の血清や点滴ボトルの保管を(極秘に)始めたとなってますが、この供述は極めて怪しいです。
なぜなら、疑っているはずの守大助に急変から回復したK男(2000年11月13日、4歳男児・第四起訴)への点滴指示を翌日出していますし、11月15日には守大助に当直を任せていることなど、守を疑っていたとすると、明らかに矛盾があります。
疑ってる人間に点滴させたり、当直させたりって、普通に考えてありえません。
もし本当にそうだとしたら2000年11月24日のS子さん(89歳女性・第ニ起訴)が死亡したのは、半田夫妻が守のことを強く疑っていたのに、みすみす殺人を許したことになります。
S子さんの主治医が死因は心筋梗塞だと断言していますし、半田夫妻や警察が言うような事件性のある事案ではないと考えるのが妥当だと思います。
さらに2000年11月28日にも、守大助は当直を引き受けていて彼の当直中に76歳の男性が死亡しています(
隠された患者)が、この事案に対しては点滴ボトルも保管してないし、急変者リストにも載せていません。
これらのことから、半田夫妻は少なくとも2000年11月28日までは守大助を疑っていなかったと考えられます。
逆に言えば、点滴ボトルや血清を保管してた、守を疑っていた、抗生剤の副作用とは考えなかった、などという半田夫妻の公判での証言はみな偽証である可能性が極めて高いです。
弁護団や首都圏の会の主張と僕の主張が同じなのはここまでです。
ここから、どうして起きてもいない「事件」が警察の中で発生して守大助だけが犯人視されたのでしょうか?
弁護団や首都圏の会の主張はこうです。
(抜粋)
院長や事業関係者に相談も無く、院内調査もしないまま、
医院の閉鎖を招きかねない届け出をするはずがないこと等から、半田夫妻は守さんを疑ってもいなく、また自ら届け出てもいない可能性が高いと考えられます。事件の発端は、半田教授からA子さんの急変原因について相談を受けた
東北大学法医学教授の自発的な捜査依頼により、A子さん(11)の点滴処置を行った守さんをはじめから犯人視した宮城県警が半田夫妻の意向とは無関係にはじめた思い込み捜査によるものです。
半田夫妻は届出をしていない。事件の発端は県警の勝手な思い込みにある。というのです。
しかし僕はその考えには納得できません。
だいたい、そう考える根拠が乏しく、必然性も説得力もあるようには思えません。
(2007/6/3 言い回しを若干修正しました)
強いて理由を探すなら、「FES研究の権威である東北大の半田教授の名誉は守るようにするから、冤罪を認めよ」と裁判所へ取引を持ちかけている。といったところでしょうか。(弁護団の戦略?)
僕の考えでは、事件の発端は半田夫妻にあります。
半田夫妻が医療過誤を隠すために「事件」を捏造し、F教授を通して上層部から県警を動かした。というのが僕の考える「事件の端緒」
警察の暴走捜査は、その結果ではないでしょうか。
半田夫妻主謀、あるいは半田夫妻と東北大と県警上層部の共謀なのではないかと、僕は考えています。
<以下、「事件の始まり」についての僕の考え>
2000年11月30日、仙台市立病院でA子さんの急変原因について、小児科部長から筋弛緩剤の可能性を指摘され、原因が分からず悩んでいた半田郁子医師がそれに飛びついた。
しかし、「看護師が間違って入れた」では病院の医療過誤であることに変わりないので、「誰かが意図的に入れた」のではないかという妄想にしがみつき、それを広げていった。
そういうことにしなければ、今まで隠してきた自分の技術不足が露呈してしまう。
患者家族から医療過誤で訴えられたら夫と自分が経営する北陵クリニックは閉鎖に追い込まれるのは確実である。
半田医師が咄嗟に筋弛緩剤の話に食いついて、ある准看護師一人に全ての責任を転嫁しようと一気に妄想を膨らませたのです。
(11.30に話し合いが行われたというのは裁判で事実認定されています。内容に関しては僕の推測)
2000年12月1日、半田夫妻は相当切迫した状況にいたと思います。
自分達への責任追及を逃れるためにはもはや残された道は、A子さん急変時そばにいた守大助に犠牲になってもらう他見つからなかったのです。
半田郁子医師は、10月31日のA子さん(意識不明)だけでなく9月18日のY君(死亡)の件も一緒に隠したかった。
だから「単発の殺人未遂事件」ではなくて「連続点滴混入事件」にする必要があった。
結果、その2件だけをピックアップしたのでは、どちらも小児科でどちらも自分が主治医でしかもどっちも気道確保に失敗している。
そこだけを捜査されたら流石に真相がバレバレである。
そこで、過去の患者のカルテを引っ張り出して小児科だけでなく、一般病棟や自分以外の主治医(内科の二階堂院長など)の患者の名前も挙げてしまおう。と考えた。
1998年頃から経営難のため末期症状の患者の受け入れを増やしていた関係で、死亡した患者は他の一般の病院より多かったこともあり、守大助が関わり急変したとする「急変者リスト」はあっという間に16名の患者名がリストアップされた。
11月28日の事案は自分が担当医だったのでリストアップしないことにした。
(病院の医療過誤というよりも自分の医療過誤を隠したいという本音が表れた)
(12.1の半田医師の心情や急変者リストの作成者が病院側であるというのは僕の推測。原判決では12.2に急変者リストを半田医師が提出したことになっている。)
半田康延教授も、妻を守りたいし何より自分の名誉を守りたかった。
だから、A子さんやY君の事案が医療過誤として表面化することだけはなんとしても避けたかった。
経営者としての責任問題でもあるし、FES研究がそれで頓挫してしまうなどあってはならないことでした。
なので宮城県警と協力関係にあり強い信頼がある後輩のF法医学教授に、まず相談に行きました。
郁子医師が書き上げた「急変者リスト」のメモを持って。
(法医学教授に医療過誤隠しという目的までをも伝えたかどうかは不明。恐らくニュアンスは伝えたかもしれません。)
(半田教授の心情は僕の推測。F法医に相談した事実は教授本人が認めています。)
同12月1日、F法医学教授から宮城県警本部に一本の電話が入ります。
「知人の医師(半田康延教授を指す)から相談を受けたのですが、北陵クリニックという病院で患者が急死する事案が続いているということなので調べて欲しい。その症状を聞くと、何か毒物でも入れられたような症状が出ているようなので、先ずは、知人等からよく話を聞いて下さい。」
そして半田教授(とF教授も?)が急変者リストを持って県警本部へ足を運びました。
ちょうどその時、宮城県警は本部長の警察庁官房への栄転が内定していたところでした。
だから、教授の話を聞いて、警察は浮き足立ちました。
「医療の現場で大変な事件が起きているらしい。この事件を本部長の栄転の手土産にしよう!それ、守を捕まえろ!」
すぐに(泉署に?)捜査班が結成されました。
(警察に医療過誤を隠したいという「事実」まで伝えたかどうかは不明。ですが、この後の捜査はひどく強引で、暴走以外なにものでもありません。)
(本部長の栄転の話は「噂の真相」より。電話内容については「捜査報告書」。但し電話か直接かは不明で、電話としたのは僕の推測。)
12月2日、今度は半田郁子医師が担当医師として、捜査班担当刑事に「急変者リスト(正式版)」を持って相談に行きます。
「原因の分からない急死、急変が特定の准看護師がいるときに多発しています。」などと事実上、守大助を告発します。
(本当に急変者リストを郁子医師が提出したのかは僕は確証が持てませんが、公判では事実として認定されています。)
・・・
そして12月3日の利尿剤事件(「急変騒ぎ演出」事件)、12月4日の赤い針箱騒動へと事態は動いていきました。
推測にあたり、
冤罪疑惑の第7弾「
元院長が持ち込んだ『急変リスト』」を参考にしています。