レジーのブログ LDB

「歌は世につれ、世は歌につれ」でもなくなってきた時代に。  ※15/4/23 世の中の状況を鑑みてfc2からこちらに移しました

ご連絡はレジーのポータルの「contact」よりどうぞ。(ブログ外の活動もまとめてあります)

2013年03月

カバー駄話 -- 小沢健二と「生と死」、『エイリアンズ』と「拡張現実」

レジー「UNCHAINのカバーアルバムを聴きました」



司会者「以前に配信してたものをまとめて、それに新録を加えてアルバムにしたと

レジー「UNCHAINも一時結構好きだったんだけどすっかり聴かなくなったな」

司会者「聴いてたのわりと初期のころでしたよね」

レジー「うん。最初の方のミニアルバムから1stあたりまで。日本語の曲とかやり始めてから聴かなくなった。フェスでは何回か見たけど。まあでもスキルのあるバンドですよね。音楽的な幅もあるし」

司会者「このカバーアルバムもJ-POPからソウルミュージックまでレンジが広いですね」

レジー「あたま2曲が『丸の内サディスティック』『SWALLOWTAIL BUTTERFLY ~あいのうた~』なんですよ。なんなんだろうこの自分と同世代な感じ」

司会者「メンバーは皆82年と83年の生まれです」

レジー「僕81年生まれだからものすごい共感できるんだよねこの並び。カバー自体も原曲の良さとバンドの個性がいい具合で溶け合ってて好感を持ちました」

司会者「一方では企画そのものに対して否定的な意見もあるようですが」

レジー「まあ「節操ない」みたいな声が出てくるのは仕方ないよね。最近カバーアルバムってほんと多いし、クオリティ以前に「またカバーかよ」みたいなことも言われるだろうし。というわけで、今回はカバー曲絡みの話をだらだらとやろうかなと」

司会者「わかりました。カバー曲と言ってもまあいろいろですよね。なるほどかっこいい!ってやつから噴飯もののやつまで」

レジー「そうね。「とりあえず有名なのやらせとけば広くアプローチできるだろ」みたいな動機のやつは結構事故るよね。ここ1年くらいで一番すごいのはこれでしょう」



司会者「絶句ですよねこれ」

レジー「久々に聴いたけどほんとすごいなこれ。何がしたかったんだろう」

司会者「これで口直ししてください」



レジー「しっくりくるね」

司会者「なんでああいうボーカルグループスタイルでカバーしようと思ったんですかね」

レジー「なんかインタビューでもいろいろ言ってるけど、少なくとも1stシングルの表題曲がこれってありえんでしょ」

司会者「こういう「必然性のないカバー」で関係者誰も得しない、みたいなケースは散見されますよね」

レジー「うん。やっぱ有名な曲って何かしらの文脈をはらんでるから、それと全く関係のないところからカバーしますってなるとちんぷんかんぷんな感じになるよね。カバーしてる側のファンは別になんでもいいのかもしれないけど、カバーされてる曲をリアルタイムで知ってたりすると「なぜ今この曲?」ってもやもやするのは仕方ないわな。それの最たるものがオザケンだと僕は思うんですが」

司会者「直近でも加藤ミリヤ『今夜はブギー・バック』に倖田來未『ラブリー』と話題性のあるカバーが続きました」

レジー「それぞれに違った辛さがありますけど、加藤ミリヤファンも倖田來未ファンも「小沢健二というアーティストがどんな存在で」とか関係なさそうだもんね。オザケンってリアルタイムで動いていない人だから、こういうギャップが起こりやすいんじゃなかろうか」

司会者「オザケンのありがたみを感じない層がターゲットなら、わざわざ地雷を踏みに来なくてもいいのでは」

レジー「そうなんだよね。そこがよくわからんのだよ。別にもう有名じゃん加藤ミリヤも倖田來未も。炎上させて知名度上げるとか必要ないはずなのに。小沢健二の曲だからと言ってセールスが伸びるわけでもないだろうし。本来自分の歌が届かなくてもいいところに届いてしまって、いわれのない侮辱を受けるわけでしょ。なんでわざわざそんなことするのか疑問。まあなんか「程よいおしゃれ感/センス良い感じ」を出すのにちょうどいいんだろうね。いろんな人がカバーしててやりやすいってのもあるんだろうし」

司会者「オザケンの曲はほんと多くのミュージシャンがカバーしているわけですが、自分の曲がカバーされることについて彼は「矢」という文章を書いています

レジー「これは名文なので読んだことない人は全員読んでみてください。どこか引用しようと思ったんだけど、こりゃ全部読まないとダメだな」

司会者「フジファブリックが『モテキ』の企画で『ぼくらが旅に出る理由』をカバーする際に書かれた文章です」

レジー「ちょっと志村のことにも触れてて、ほんとにグッとくる文章です。で、あの曲は歌詞を字面通り読むと離れた恋人への歌だけど、「生と死」みたいなテーマでも捉えられるんだろうね。フジファブしかり、安藤裕子しかり。てか安藤裕子のカバーはほんと素晴らしいよね」



司会者「安藤裕子バージョンをめぐるエピソードについても名文があります

レジー「これは引用しましょう」

全13曲の「chronicle.」の12曲目で、小沢健二の94年のアルバム「LIFE」に収録されていた「ぼくらが旅に出る理由」がカバーされているのだが、そこに東京スカパラダイスオーケストラの茂木欣一が参加している。しかも本来のパートのドラムだけでなく、デュエットのシンガーとして。

安藤裕子の「そして君は摩天楼で 僕にあてハガキを書いた こんなに遠く離れていると 愛はまた深まってくの」というパートに続き、茂木はこう歌う。

 「それで僕は腕をふるって 君にあて返事を書いた
  とても素敵な長い手紙さ 何を書いたかはナイショなのさ」

94年のオザケン版オリジナルでドラムを叩いていたのは、スカパラの“初代”ドラマーだった青木達之。
だった、というのは、青木は99年5月、不慮の死を遂げたからだ。そして、茂木がもともと参加していたフィッシュマンズのボーカル佐藤伸治も、そのわずか2ヶ月前に急死している。

そんな2つの死という経緯があって、2001年11月、茂木はスカパラに正式加入。“2代目”としてドラマーの座を継いだ。

つまり、冒頭で紹介した「ウィークエンドシャッフル」内の言葉をそのまま借りれば、「ぼくらが旅に出る理由」のカバーは、

 「これは茂木さんから青木氏へ送る鎮魂歌、
  『長い手紙』(歌詞参照)でもあったのです。」

司会者「涙なしでは・・・って話ですよね」

レジー「やっぱカバーってこういうことだと思うのよ。ストーリーが紡がれていく感じね。それがなけりゃただのカラオケなんだから」

司会者「確かに。小沢健二の曲、特に『今夜はブギー・バック』『ぼくらが旅に出る理由』は頻繁にカバーされますが、その他に最近よくカバーされてる曲としてキリンジの『エイリアンズ』が目立ってますね」



レジー「ね。空前の『エイリアンズ』ブームですよ」

司会者「UNCHAINのアルバムにも入ってます」



レジー「秦基博が最初なのかな。この弾き語りはほんと素敵」



司会者「昨年末には「クリスマスの約束」でも演奏されてました」

レジー「いやーあれほんとびっくりしたよ。あの番組で見て「え、この曲こんなポジションに来てるの?」ってすごく驚いたんですけど。確かにすごくいい歌だけど、ここまでの存在になるとは」

司会者「あの曲を選んだ理由として小田和正はこんなことを言っていました。こちらのブログから引用させていただいております」

それではこの曲はキリンジのエイリアンズ、これがねえ、はまりましてねえ、私。初めて聴いたときに、あのお、中に出てくる景色が、これなんか俺がよく通る埼玉の景色に似てるなあ、みたいな。そいであとでスタッフが調べたら、なんと埼玉の坂戸市出身のキリンジ。私は思わずほくそえんでしまいましたけれども。なんか自分の知ってる景色が歌になってたりすると、なんかちょっと嬉しかったり。

レジー「この発言はすごくクリティカルだなと。10年以上前にリリースされたこの曲が今の時代にこぞってカバーされる理由が述べられると思うんです。一言で言うと「郊外の景色にどんな意味を読み込んでいくか」みたいな話だと思うんですけど」

司会者「もうちょっと具体的にお願いします」

レジー「この『エイリアンズ』という曲について、キリンジの堀込泰行が語っている内容を2つほど拾ってみました。あと合わせて歌詞も一部載せておきます」

作詞作曲した堀込泰行は、この曲の着想を「日本の大部分を占める『ノンカルチャー』な場所に合うようなものを作りたかった」と述べている。(2008年NHK-FMミュージックスクエアより

僕たちが育った東京近郊、西武線沿線の、どこにでもあるような区画整理された街って地方都市の象徴的な風景だと思うんです。
切り取り方やフォーカスの当て方を変える事で、つまらない街の風景もロマンチックなものに出来るんじゃないか、そうした試みに意味があるんじゃないかと信じてこの曲を書きました。(NHK 佐野元春のザ・ソングライターズ

まるで僕らはエイリアンズ 禁断の実 ほうばっては
月の裏を夢みて キミが好きだよ エイリアン
この星のこの僻地で
魔法をかけてみせるさ いいかい

司会者「個性のない街をロマンチックなものにする、と」

レジー「これを見て僕が思い出しのは、宇野常寛さんの震災後の著書『リトル・ピープルの時代』で出てくる「拡張現実の世界」という考え方です」



司会者「「ここではない、どこか」ではなく「いま、ここ」に潜っていくことで現実を書き換えていくという想像力のあり方ですね」

私たちは今、(古い意味での)「歴史的」には何物でもない路地裏や駅前の商店街を「聖地」と見做して「巡礼」し、放課後には郊外の川べりにたむろしては虫取りをするようにネットワーク上のモンスターたちを狩る。複雑化する社会生活において、私たちは日常的にそのからだとは半歩ずれたそれぞれのコミュニティごとのキャラクターとして否応なく振る舞ってしまう。ひとたび携帯電話を手にし、パソコンを前にすればその乖離の構造は簡単に可視化できる。私たちは、いつの間にか現実を実に多重なものとして把握している。情報技術の発達は、そんな私たちの変化をより明白にしてくれる。そしてこの変化は、言い換えれば私たちが求める<反現実>が<ここではない、どこか>への逃避=仮想現実ではなく<いま、ここ>の拡張=拡張現実として現れていることを示している。

レジー「こういう概念をずっと前から先取りしてたのがこの『エイリアンズ』っていう曲で、だからこそ最近になっていろんな人が注目し始めたんじゃないかなと。単純にいい歌です、という話だけではなくて、「この星の僻地に魔法をかける」っていう世界観が今の時代にすごくマッチしてるからこそ、いろんなミュージシャンを刺激してるんだと思いました」

司会者「なるほど。「いい歌」として発見されるにはそれなりに理由があるのではないかと」

レジー「そう思います。で、このまままとめに入っていきたいんですけど。最初の方で「必然性のないカバー」って話をしましたが、結局「いいカバーか否か」ってのはこの「必然性」の部分に尽きると思うんですよ。もちろん「素朴にいい歌」とか「原曲に自分たちの個性を注ぐ」とかそういうのは前提条件ですよ。この「必然性」ってのにも2種類あって、「この人がこの曲をカバーする必然性」って話と「この時代にこの曲をカバーする必然性」って話。どちらかにあてはまらないときつい」

司会者「今回の話で言うと、フジファブや安藤裕子が前者、『エイリアンズ』が後者ですね」

レジー「うん。前者の方では「自分のルーツにアプローチする」みたいな話もありますよね。パスピエの直近のシングルに入ってる80sカバーとか。一方で後者の方は結構難しくて、マーケティング的な匂いがしちゃうと途端に嘘くさくなる。たとえばBank Bandって、最初の2枚のアルバムはわりと「自分のルーツ」ってところからの選曲だったのが3枚目で急に「邦ロック」的世界観に振ってて、個人的にはかなり??ってなったんだけど」

司会者「突如としてラッドとかシロップとかやり始めましたよね」

レジー「これなんか文脈あったのかな?櫻井さんも小林武史もそっちの流れとリンクしている感じがまったくしないんだけど。それに加えて、志村が亡くなってほとぼりさめる前に『若者のすべて』でしょ。あーやっちゃったな感がすごかった」

司会者「彼ら的には「この時代にこの曲をカバーする必然性」を表現したつもりだったんでしょうか」

レジー「まあそうなんだろうけど、ちょっとコンテキストの作り方が人工的すぎたよね。そういうこと無理にやるなら、自分がほんとに影響受けた歌を粛々とやる方がよっぽど好感持てるわ。そんなことを意識しつつ、この先出るカバーアルバムについて2つほど触れて終わりたいんですけど。1つ目が5月に出る堂本剛のカバーアルバム。これものすごく清々しいよね。この人いろいろ理屈こねてるけど結局はこういう真っ当な歌が好きなんだなあ、っていうほのぼのした気持ちになる」

司会者「尾崎、マッキー、ドリカム、チャゲアスと、「センス良く見せよう」みたいな雰囲気が全く感じられないですね」

レジー「突如としてオザケンとかhideとかやったりしないところが良い。これは「この人がこの曲をカバーする必然性」って方に振り切ってるやつですね。で、もう1つがハナレグミ

司会者「今回取り上げた『ラブリー』も『エイリアンズ』もやるみたいです」

レジー「この人は以前からカバーはやってたわけで、ついにこのタイミングで出すかって感じだよね」

司会者「真打登場感がありますね」

レジー「そうそう。そういう意味で、「カバーアルバムが氾濫する時代にカバーアルバムを出す必然性」ってのがすごくあるアーティストの一人だと思います。カラオケカバーとはレベルの違うものが出てくるのを期待してますわ」

司会者「5月リリースなのでちょっと時間が空きますが、楽しみに待ちましょう。では今回はこのあたりで。次回はどうしますか」

レジー「うーん、今回も予定は未定で。2日にパスピエの企画行くつもりだからそこでなんかあればそれについて書くかも」

司会者「できるだけ早めの更新を期待しています」


※反響をまとめた感想戦はこちら

『ソーシャル化する音楽』感想戦3 (5章 浮遊する音楽論)

司会者「それでは予告通り『ソーシャル化する音楽』の話の最終回といきましょうか」



レジー「この本ちょっとずつ話題になってますよね。柴さんkenzeeさんもブログで取り上げてたし」

司会者「そういえば先日ライターの矢野利裕さんがこの本の感想をツイートしてましたね」







レジー「矢野さんはこのブログでは取り上げない4章が面白かったんですね。読む人の興味関心によって刺さる部分も変わってくると思います。しかしまああれだね、この「感服した」って感想がほんとぴったりだねこの本は」

司会者「確かに。ちなみにkenzeeさんはaikoマラソンを相変わらず続けています

レジー「あれしんどいだろうなあ。ちょうど柴さんのブログで取り上げてた宇野常寛さんの『日本文化の論点』の話、「今の時代の音楽は作品だけ語っても仕方ない、その「外側」も含めて語らなくては」って話と真逆のアプローチだよね。それゆえ「外部」に逃げ場がないっていう取り組みなわけで」

司会者「aikoマラソンが始まるときにそんな感じの決意表明をされてましたね」

これは昨今の音楽ジャーナリズム(ネット界隈の議論含む)への批評なのです。
(中略)
ワタシ、これからアルバム10枚、125曲についてアレコレ言うわけだけどもルールを課すことにします。つまり、CDのなかの音楽の話しかしない。盤と歌詞カード、クレジットがすべて。これが音楽評論の原点なの! 他はいらん! それで間が持つか? 間が持つのがプロなのです。間が持たないヤツが「この音楽は~格差社会における~資本主義経済における商業音楽とは~」とか音楽と関係ない屁理屈で逃げるわけです。


レジー「ちょうど洋楽離れビール離れの話ロックとアイドル話がバズってたタイミングなので、そういう中でちゃんと「音楽」について語る姿勢を見せようって話だったんだよね。しかしまあkenzeeさんもここまで大変なことになるとは思ってなかったんじゃないかな」

司会者「もうこれは応援するしかないですね」

レジー「うん。で、今日やりたい『ソーシャル化する音楽』の第5章はこの辺りの話とも関連してきます」

司会者「改めて章立てを示しておきましょうか」

序章 祝祭の風景の一九六〇年代とゼロ年代以降
第1章 ガジェット化する音楽
第2章 キャラクターをめぐる人形遊び
第3章 ライヴ感の共同体のなかのライフ
第4章 音楽遊びの環境(アンビエント)
第5章 浮遊する音楽論
終章 繰り返されるトランスフォーム


レジー「1章、3章についてはすでに話してきました。というわけで今回は5章についてです」


5章 浮遊する音楽論

司会者「この章はタイトル通り、音楽を語る言説に関する問題を取り上げています」

レジー「5章の冒頭に「アニメ音楽の非ジャンル性と菅野よう子」っていう項があって、彼女を「ロキノン的自分語り」の対極に位置するミュージシャンと位置付けて論を展開しているわけですが。個人的にはここがこの本の中で一番凄まじかったな。全編引用したいくらい」

司会者「「いわゆる自己表現から距離を置いた裏方の職業音楽家」「様々な悪しき物語化の呪縛から距離を置いた存在」という言葉がありましたが、彼女のインタビューを引用したうえでその姿勢についてこんなことが書かれています」

彼女はクライアントとの会話も、音楽のセッションのごとく楽しもうとしているらしい。
(中略)
ロックもヒップホップも、金や仕事に過剰に意味づけをし、物語性を付与している点では表裏一体である。だが、職業音楽家としての菅野よう子は、自分の仕事に関し肩の力を抜き、もっとニュートラルに接しているように見える。


レジー「ロックとアイドルの話で安易な自己表現至上主義どうよってこと書いたけど、菅野よう子について取り上げれば良かったのか。全然思い至らなかった」

司会者「この話の中で、音楽評論における自分語り批判と「物語化された事件(犯罪)報道に対する批判」が似た構図であるという指摘がありましたね」

レジー「これすでにいろんなところで言われてましたよねみたいな感じで書かれてたけど全然知らなかったな。この部分は結構強烈だった」

ロッキング・オンがロキノンと呼ばれ、マスコミがマスゴミと呼ばれる二つの批判は、ほぼ同形になっているのだから。アーティスト、あるいは犯罪者の成育歴や自意識をほり返し、そこに時代や社会をめぐるなんらかの象徴性を見出すとともに、それを読み込んだものが個人的なコメントを加える。そのコメントが、なんらかの感情移入によって成り立っているように感じられる。

司会者「うーん」

レジー「勝手に意味を読み込んでも本質に迫れるわけではないって話ですな」

司会者「この章ではこの手の「自分語り」「物語化」から脱却するための考え方の一つとして、アナリーゼ、つまり楽曲分析について取り上げています」

レジー「すごいざっくり言っちゃうと、コード進行が、そこに乗るメロディーが、とかっていう音楽そのものに関する話をもっとすることで音楽批評の位相を変えられるのではないかと。これはほんとそうだよなあとは思うしこういうアプローチで音楽を語ってみたいとも思うんだけど、いかんせん一朝一夕にできる話でもなさそうだからなあ」

司会者「ここでは「ポップアナリーゼをもっと導入すべし」という論を展開する人として菊地成孔さんを紹介しています」

レジー「はい。菊地さんは少女時代の「GENIE」をアナリーゼの切り口で分析するなんて面白いこともやってますね。で、ここで取り上げられてる話は菊地さんが参加した『思想地図β vol.1』の座談会の内容なんですけど」



司会者「「テクノロジーと消費のダンス--クラブカルチャー、音響、批評」というタイトルで、菊地さん以外にも佐々木敦さんと渋谷慶一郎さん、あとは司会でこの本の主宰者でもある東浩紀さんが参加しています」

レジー「これ読んだのちょうど2年前くらいか。結構印象的で、今思えば「そもそも音楽批評って」みたいなことを考え出すひとつのきっかけになってますね。東浩紀さんがこういう指摘をしてまして」

音楽にとって批評は必要か、という話が今中心になっていますが、それとは別に、批評にとって音楽は必要かという問題もあると思うんです。ゼロ年代の音楽批評の低迷の背景には、ぶっちゃけていえば、批評にとって音楽が要らなくなったという側面もあるのかもしれない。いい換えれば、社会や時代を語るときに、音楽がとっても使いづらくかつ分かりづらい対象になっていったということもあるのではないかと思います。

司会者「この指摘は重いですね」

レジー「うん。このあたりからポップミュージックの社会的地位みたいなことが気になりだしたし、このままJAPAN読み続けてることにどんな意味があるんだろうかとか考え始めたんだと思います。で、話を戻すと、『ソーシャル化する音楽』では菊地さんがその座談会で話した「総合格闘技も観客が徐々に勝負の決め手(関節技とか)がわかるようになってきた。音楽でも同じようなことができるのではないか」という部分が使われていますが、個人的趣味から言うと引用元で話されてたこっちの内容の方がしっくりきます」

ポップアナリーゼというのは、サッカーのルールを知らずにワールドカップを見る身体性---僕自身がまさにそうなのですが---から、ルールを知って見る身体性へ移行させることであって、それ以上でも以下でもありません

司会者「まあ当たり前っちゃ当たり前の話なんですよね。サッカーライターはみんなオフサイドのこと知ってるわけだし」

レジー「とは言いつつ、アナリーゼをサッカーの例に当てはめて考えると、これって「みんなオフサイドとハンドくらいは知ってた方がサッカーは面白いよ」って単純な話ではなくて、「なぜ今の攻撃がうまくいったか?を具体的に検証しよう」みたいなメカニズムの話に近いと思うんですよね。で、そういう切り口になると、ちゃんとした媒体の記事でもあんまわかってないんじゃないかってやつわりとありますよ。僕が読んでるサッカー関係のブログでそのあたりを相当緻密にやっているところがあるんですが、ああいう話を商業媒体で聞いたことあんまりない」

司会者「読み手がそこまで求めてない部分もあるんでしょうね」

レジー「そうね。だからその辺は受け手側のリテラシーみたいな話とも絡んできちゃうんだよね。で、そのあたりで関連しそうな指摘を菊地さんがこの座談会内で「恋愛至上主義」という言葉を使ってしてるんですが」

いまのポップミュージックほど恋愛は素晴らしいといっているものはないわけで、歌詞の内容が恋人に向けた携帯メールの内容と同じになってしまっている。昔はサザン聴いて○○に似てるよねとか、あの曲はあれとあれのパッチワークですよねとにやにやできる余裕があったと思うんです。でもいまはそんなことは許せない、殺せってところの直前までいっている。この攻撃性が一種の潔癖症というか、ピュアな恋する人間のような状態になっているんですね。
(中略)
恋愛する人が持っている、質の悪い、極端に純粋で、倫理的な感覚が非日常になっていて、これはもうネット内外関係ないと思いますが。


司会者「「理屈はいいんだ、感動させてよ」みたいな話が極端になりすぎてるんですかねえ。そうなると「物語化」されたお話の方がニーズには近いってことにもなりますよね」

レジー「この辺はいろいろ意見はあると思うんですよ。僕自身も、菊地さんの言っている「昔」のリスナー、これがどのくらいの時代を指してるかはよくわかんないけど、ここで挙げられてるようなメンタリティを持っていた人がどのくらいいたのかってのはちょっと怪しいなあと思うし。ただ、ここで出てきた「潔癖症」って話は今の音楽について考えるうえでは一つのキーワードだよなあと」

司会者「この本の1章に出てきた「パクリ」に関する話ともつながってきますよね」

レジー「うん。クラブ規制の話もそうだし、「自分で曲作ってない時点でアイドルはクソ」みたいな話もそう。その「潔癖」を志向するモードを「恋愛至上主義」って言葉で括ったのはすごく面白いなあと思いました」

司会者「「恋愛」って概念は「自分探し」みたいな話ともすごく相性がいいですし、そういう切り口から考えると自己表現至上主義の検証についても違う視座を得られるかもしれないですね」

レジー「「恋愛」と「自分探し」って、「あいのり」の話かと思った」

司会者「懐かしい」

レジー「あれもかなり本質を突いたフォーマットの発明だったんだね」

司会者「そのあたりは速水さんの本でも指摘されてましたね」

レジー「この本面白いですよ」



司会者「話が拡散してきたのでそろそろまとめたいんですが、5章および本全体に関して総括していただければと思います」

レジー「わかりました。まずは5章に関してですけど、常々「もっと音楽の話をしようぜ」って言ってる僕としては非常に面白かったです。で、確かにここで出てくるアナリーゼの手法が本格的に導入されたときに音楽批評がどう変わるかってのは興味深いけど、実際問題として難しいだろうなあという実感があるのはさっきも書いた通り。ただ、音楽理論的な話をすぐにすることはハードルが高くても、「音楽的な取り組み」について語るということはできるんじゃないかと思うんですよ」

司会者「もう少し具体的にお願いします」

レジー「たとえば、ゴールデンボンバーのインタビュー読もうと思って買ったJAPANにアジカンの記事もあったんですけど。インタビュアーが山崎洋一郎さんで、なぜ「今ホールツアーなのか」とか、バンドの編成やステージングの話とかについて掘り下げてて。これすごくいい記事だなーと思ったんですよ」

司会者「JAPANでもそういう取り組みが行われているのか」

レジー「この前パスピエのインタビューやったときはその辺も意識しながら質問したんですけどね。「自意識語り」と「アナリーゼ」の間くらいに、リーズナブルに音楽の話をできる空間が広がってるんじゃないかと思います。というのが5章に関する話。で、この本全体に関してですが、もうとりあえず読んでくださいって感じだね。少なくともこのブログを読んでくださってる人だったら絶対面白いはず」

司会者「そうそう、って部分と目から鱗の部分と両方ありますよね」

レジー「そうね。ちょうど5章の中に「やくしまるえつことカヒミ・カリィを対比させるなら、の子は暴力温泉芸者の中原昌也だ」みたいなことが書いてあって、この接続の仕方はすごく感心したんですけど。前も書いたけど、音楽シーン全体の見通しを良くするための補助線が引ける本だと思います。いろんな細々したことが各所で起こってて何が何だかわからん!って印象を今の音楽シーンに持っている方は、この本を読むことで全体観を取り戻せるんじゃないかと。おすすめです」

司会者「わかりました。3回にわたって『ソーシャル化する音楽』について取り上げてきましたが、一旦ここで終わりたいと思います。次回はどうしますか」

レジー「うーんどうしようかな、最近バタバタしててネタをしこめてないんだけど、ちょっと考えまーす」

司会者「できるだけ早めの更新を期待しています」

パスピエ『フィーバー』リリースにあたってインタビューを敢行しました

レジー「前回のエントリーでも最後ちょこっと触れましたが、パスピエの新曲『フィーバー』が3月20日にリリースされます」



司会者「シングルとしては初リリースですね。パスピエについては去年の秋ごろ年初にそれぞれこのブログで取り上げています」

レジー「PVも公開されました」



司会者「初めてメンバーが実写で登場してますが、顔は見えそうで見えない感じです」

レジー「このあたりの意図については先日成田ハネダさんとツイッターでやり取りしました」







司会者「「顔を見せないバンド」から徐々に生身のパスピエを見せていく、という流れを意識していやっていると」

レジー「バンド運営に関する明確な戦略があるのが面白いですね」

司会者「このブログで何度も扱っている「自己表現至上主義」的な立場に立ってる人たちは「戦略」みたいな概念の匂いがした瞬間に「あざとい」「マーケティング(笑)」「そういうことを考えずに爆発した表現衝動こそ本物」みたいなことを言いそうですが」

レジー「そういうこと言う人もいるだろうけど、「自分たちの表現を的確に伝えるための手段を考え抜く」なんて当たり前のことだよね。その「当たり前のこと」に考えの至らないミュージシャンが多いってだけで。僕は全面支持です」

司会者「このあたり、パスピエというバンドがどういう考え方で動いているかってのは興味深い部分ですね。直接聞いてみないとわからないことではありますが」

レジー「そうなんですよ。というわけで、直接聞いてみようと思ってアプローチをしてみたらなんとコンタクトがとれました」

司会者「ん?どういうことですか?」

レジー「僕パスピエのこと好きです、こんなブログやってます、パスピエの内面にもっと迫りたいので、メールで良いのでインタビューさせてください!ってお願いしてみたんですよ。メジャーデビューしてる人たちだし個人ブログからのアプローチは難しいだろうなあと思ってたら、なんと快諾していただきました」

司会者「ワーナーさん意外とフレキシブルですね」

レジー「ね。びっくりしましたよ。というわけで、バンドのこと、新曲のこと、いろいろと質問してみました。回答いただいたのはボーカルの大胡田さんとキーボードの成田さんです。いちブロガーの質問に丁寧に答えていただいてほんとに感謝してます」

司会者「「メールで質問を投げる→それに関して文面で答えていただく」というスタイルで取材をしたので、回答内容についてはお二人が書いてくださった文章をそのまま掲載しているという理解でよいですかね」

レジー「そうですね。一部句読点とかカギかっことかいじって読みやすくなるようにはしてますが、基本的にはご回答いただいたものそのままです。文面からもお二人の個性が出ていると思いますので、そのあたりも感じ取ってもらえれば。それではお楽しみください」

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■今回はこのような機会を与えていただきありがとうございます。私がパスピエのことを知ったのは2011年の秋ごろで、初めてライブを見させていただいたのもその時期でした(2011年11月の下北沢BASEMENT BAR)。当時と比べるとライブの動員も増え、パスピエというバンドの存在が着実に浸透しつつあるように思いますが、「自分たちのやっていることがリスナーに届いてる」という手ごたえを感じる瞬間はありますか。

成田「動員っていう事実に対してその都度の喜びはありますが、まだ実感はないです。リスナーにというよりはメンバー間のパスピエ像がだんだん色濃く出せるようになってきたかと思います」


■12月にZEPP TOKYOでのイベント出演がありましたが、普段より大きなライブハウスで様々な人気アーティストと同じステージに立ったことで何か影響を受けた/触発された部分はありましたか。先日下北沢GARAGEでのライブを見させていただきましたが、私がその前に見た新宿レッドクロスでのライブ(および過去何度かライブハウスで見たライブ)と比べてバンド全体がものすごく堂々とした感じになったなあという印象を受けたのですが。

大胡田「12月のライブでももちろんですが、ライブでは毎度何らかの発見があります。それは自分の外側からも内側からも。会場が大きくなれはなるほど、歌も、気持ちのような部分も遠くまで届けなければいけないな、と感じたので、今年は「もっと近くに感じてもらう」ということを意識しようと思っています」

成田「小さいライブハウスだと人ひとりひとりがよく見えて、「フロアに届ける」というよりは個人個人に届けと思ってるところがあったかもしれないです。大きなライブハウスや野外、しかも大勢の人がいるところでやるとひとりひとりを見る余裕はないので、「一つの団体、一つの塊」を相手にライブをするんだという気持ちになれたのが大きいかもしれません」



■下北沢GARAGEのライブでは、今まで以上にステージを動き回って全身でパフォーマンスする大胡田さんが特に印象に残りました。オーディエンスとコミュニケーションを取ろうという気持ちがより強く出ていたように感じましたが、ライブの回数をこなしていく中でステージに立つ際の意識として変わった部分はありますか。

大胡田「あります。今まではすこし距離を置いていたようなところがあったのですが(これは悪い意味ではなくて、表現の方法のうちのひとつ、として)今年から、ライブへ来てくださった方ともっと近づこうと試行錯誤しています。自分が発信したことにお返事が来て、それをすぐに感じられることってライブならではのことだと思うので。楽しめたらいいなと思って。いっしょに」


「ロックフェスがきっかけでバンドを組もうと思った」という成田さんのエピソードもあるように、パスピエというバンドは「肉体的で、記名性の高いバンド」だとライブを見るたびに実感します。一方で、それとは対極の「匿名性」を重視する相対性理論やその界隈のバンドと同列で語られることも多いです。このような周囲からの評価にギャップを感じることはありますか。

成田「それもう言われすぎて慣れましたね(笑)。ギャップはありましたよ。ただ、カテゴライズしてもらうと一歩目が踏み出しやすくなるんで、初めて流通盤出したときに自分らの気持ちは置いといて「パスピエってこんなバンドだよ」と認知されたのはよかったかなと。ただその分、そういうバンドなんだってイメージがついちゃうとそれが天井になっちゃうので、なにか別のアプローチをしていかなきゃなと思ってやってました」


■楽曲作りの際には「家庭のスピーカーや音楽プレーヤーのイヤホン」で聴かれることと「ライブハウス」で聴かれることのどちらを強く意識していますか。アレンジの緩急とそれを生かしたパフォーマンス(『電波ジャック』で「2番のAメロで音数を減らして、それに伴ってハンドクラップを煽る」など)を見ると、最初から「ライブでの盛り上がり」を想定した楽曲制作をされているのでは?と想像しているのですが。



成田「曲によりけりですね。曲が出来上がった後で、前者寄りの曲ならライブ用にアレンジを、後者寄りの曲ならレコーディング用にアレンジを少し加えます。キーボードだけでいうと、音源とライブは結構違う事をやってますよ」


■今回リリースされるシングル『フィーバー』についてお聞きします。『名前のない鳥』『ON THE AIR』ではパスピエの「ポップで爽やかな側面」が前面に押し出されていたと思いますが、今回の『フィーバー』では「妖艶で怪しげな側面」が強調されているように感じました。この曲を通してバンドのどんな魅力を知ってほしいと考えていますか。

大胡田「より、生に近いパスピエ」

成田「熱量ですかね。あとバンドでしか出せない部分を求めているので、そこを前作と比べてみてほしいです」


■一聴して耳触りの良い『名前のない鳥』『ON THE AIR』のような曲でなく、『フィーバー』のような「ちょっとくせのある、ひねくれた曲」を初のシングルとした狙いがもしあれば教えてください。

成田「1stシングルですし、新しいイメージを持ってもらいたいと思ってます」


■『フィーバー』の歌詞は「左目が溶け出した」「ピンクのケロイド」などいろいろな解釈のできる「イメージワード」が並んでいます。このような歌詞を書く場合と『ON THE AIR』や『最終電車』の歌詞のように具体的な情景描写をする場合では、大胡田さんの中では何かしらの「モード」の切り替えが行われているのでしょうか。

大胡田「モードの切り替えと言うのかはわかりませんが、確かに、歌詞の書き方には違いがありますね!確かに!たとえば『フィーバー』は「フィーバー」という単語から広げていった歌詞なので、お話の流れよりもテーマを大切にして書いています。『ON THE AIR』や『最終電車』は見えている景色や、頭の中の物語を文字に起こす、というふうに書いています。ほかにもいろいろありますよ」


■今回カップリングの1曲として、大野方栄さんが1983年にリリースした「Eccentric Person, Come Back To Me」のカバーが収録されています。成田さんがルーツと公言されている80年代の日本のポップスは若いリスナーにとっては必ずしもなじみのあるジャンルではないと思いますが、このシーンについて「こんなに面白い音楽があるんだよ」と紹介したい気持ちはありますか。



成田「ありますね、その言葉通りです。単純に自分らでやってみたかったというのもあります」


■「Eccentric Person, Come Back To Me」のボーカルスタイルはこれまでのパスピエの曲とは異なるように感じましたが、実際に歌ってみての発見や難しかったことなどあれば教えてください。

大胡田「早口楽しいです。あと、歌詞に入っている言葉から時代を感じました。興味深いです」


■個人的には、パスピエの曲からは80年代の日本のポップスだけでなく、たとえばピチカートファイブやJUDY AND MARYなど90年代のJ-POPからの影響も感じられます。楽曲制作において、この時代のシーンから何かしらインスパイアされている部分はありますか。

成田「この時代のシーンからインスパイアされてるのは、その時代感ですかね。やっぱり、その時代のポップミュージックにリアルタイムで触れてこなかったので、その類の音楽を聴くたびになんか新鮮なんだけど、頭の片隅に引き寄せられるものがあって」


■山下智久さんに提供した『怪・セラ・セラ』もまさに「パスピエ印」の一曲だと思いました。自分たち以外の方に楽曲を提供するにあたって、普段の制作と異なる部分はありましたか。



成田「この曲はもともとパスピエの新曲として作っていた曲なので、作曲面の心がけはなにも変わらないです。歌詞については、言葉のひっかかりやすさを意識して作りました」


■今回は男性アイドルへの楽曲提供でしたが、もし女性アイドルに対して同様の機会があるとしたらどんな楽曲を提供したい/世界観を提示したいですか。(もちろんいろいろなタイプのアイドルがいますが、「自分がイメージするアイドル像」を想定してお答えいただければと思います)

大胡田「ものすごく偶像めいたものを書いてみたいです」

成田「上にもあるように、山下さんのはもともとパスピエの曲を提供させていただいたので、女性アイドルの場合は・・・というのはわからないです。ただ、誰に提供する際も「誰々用に書いた曲」というよりは「成田ハネダの書いた誰々の曲」になるようには心がけたいです」



■4月にはARABAKI ROCK FEST.13への出演が予定されています。大規模ロックフェスを通してバンドというフォーマットを「発見した」成田さんですが、出演する側として何か特別な意気込みがあったら教えてください。

成田「当時の自分に教えてあげたいですね」


■ARABAKI ROCK FEST.13の他の出演アクトで、「同じフェスに出られて嬉しい!」「ぜひ見たい!」という人たちがいたら教えてください。

成田「みんな見たいですが・・・やはりフェイバリットでもあるyanokami(矢野顕子さん)」


■最後に、この先日本の音楽シーンもしくはポップカルチャー全般においてパスピエはどんな存在になりたいか、目標や野望があればお願いします。

大胡田「二度見しちゃう。二度、目が合ったそのときには触れずにはいられない。そんな存在」

成田「カルチャーにおいてのアプローチができたらもっと面白くなるだろうなーと思います。まだまだ模索中ですが・・・」


-------

司会者「特に面白かった部分とかあれば」

レジー「やっぱり「ポスト相対性理論」的な言説には違和感を感じていたんだなーと。で、それを逆手にとって・・・っていう発想が、最初に話した「戦略的」みたいな部分につながっているんだなあと思いました」

司会者「歌詞の書き方の話は、大胡田さんの回答を見る限りは何かしら新しい気づきがあったのかもしれないですね」

レジー「もしそうだったら望外の喜びであります。成田さんの「カルチャーについてのアプローチ」ってのも期待ですね」

司会者「4月に「KAWAii!! MATSURi (カワイイマツリ)」への出演も予定されてますが、そっち寄りの動きとも共振していくと面白いですね。海外へ、みたいな話もあるかもしれないですし」

レジー「そうね。どんどん飛び火していったらファンとして嬉しいなと思います」

司会者「わかりました。ではぼちぼちまとめていただけると」

レジー「今回に関しては、とにかく答えていただいてありがとうございましたってのが一番ですね。みんなunBORDEのアカウントフォローしましょう。あとは山ピーの「怪・セラ・セラ」も結構売れてるんだよね。サカナクションにとってSMAPの曲書いたのが世間的には結構大きかったように、パスピエにとっても一つのターニングポイントになるのかなと。「ブレイクしそうなアーティスト」のまま消えていく人たちもたくさんいますが、パスピエはぜひネクストステージに到達してほしいなと思います」

司会者「このブログが多少なりとも貢献できれば言うことなしですね」

レジー「ほんとそうね。こういう当事者からの「生声」を聞くのはすごく面白かったので、機会があればまたやりたいですな。というわけで今回はこの辺で。次回はまた平常運行に戻ります。積み残しになってる『ソーシャル化する音楽』の5章についてやりたいと思います」

司会者「できるだけ早めの更新を期待しています」

『ソーシャル化する音楽』感想戦2 (3章 ライヴ感の共同体のなかのライフ)

司会者「それでは前回に引き続き『ソーシャル化する音楽』についてやりましょうか」



レジー「前回の記事で弊ブログのサブテキストに勝手に認定したわけですが、著者の円堂さんからもお墨付きをいただきました」




司会者「やさしいですね円堂さん」

レジー「これほんとに今読まれるべき本だからね。改めて章立てを示しておきます」

序章 祝祭の風景の一九六〇年代とゼロ年代以降
第1章 ガジェット化する音楽
第2章 キャラクターをめぐる人形遊び
第3章 ライヴ感の共同体のなかのライフ
第4章 音楽遊びの環境(アンビエント)
第5章 浮遊する音楽論
終章 繰り返されるトランスフォーム


司会者「特に面白かったのが1章、3章、5章だったという話は前回しましたね。で、1章については中身に触れました」

レジー「今回は3章と5章一気に行けるかな。まずは3章から」


第3章 ライヴ感の共同体のなかのライフ

司会者「この章は「ライブ」というものを起点として、バンドというフォーマット、フェス、AKB48、不在になったメンバーと「共演する」ベテランバンドなどに触れていきます。それから「ミュージッキング」という音楽の概念を拡張する考え方も出てきますね」

レジー「この『ミュージッキング』って本は読みたいなあと思いつつずっと手が出てないんだよなあ」



司会者「なんか重そうですからね」

レジー「腰据えて読まないといけないタイプの本だねたぶん。で、この章は何と言ってもタイトルがいいなあと」

司会者「ライブで伝わるものが「音楽そのものだけではない」ということが端的に表現されてますよね」

レジー「うん。この辺りの問題意識、というか興味関心はすごく自分と近いですね。前回も軽く触れましたが、以前このブログで取り上げたロックインジャパンリア充問題、フェスが「音楽を楽しむ場」ではなくなりつつある、という話とリンクしている部分があったので引用したいと思います」

また、一九八〇年代末にイギリスで人気だったザ・ストーン・ローゼスが「これからはオーディエンスの時代だ」と発言したことに代表される通り、ステージ上と客席の敷居をなくしたいと訴えるアーティストは昔からいたが、現在のカリスマ不在とフェス乱立をみる限り、少なくとも意識のなかでは両者の間の敷居はかなり低くなった。ライブ会場では、ステージ上のスターのオーラやファンタジーよりも、観客たちのリア充気分のほうが重要になっているかのごとき状況がある。

司会者「リア充気分を楽しむための場にライブ会場がなっていると」

レジー「ここでは一般化して「ライブ会場」っていう話になっていますが、これが顕著なのはやはりフェスだよなあと個人的には思います。そうやって考えたときに思うのは、「フェスとは新しい音楽メディアである」みたいな話もストーリーとしては美しいけど実際問題としては結構厳しくなっちゃってるんだろうなあということですね」

司会者「別に新しい音楽に出会ってないわけですからね」

レジー「「リア充的うぇーいwwな時間」と「有名バンド(もしくは自分が知ってるバンドの馴染みの曲)で大合唱」ってのが価値になってて、「未知の音楽との出会い」みたいなのは場全体としては後退してますよね。もちろん出会ってる人もたくさんいるだろうし、僕自身もそうですが。その辺に関して以前こんなツイートしたら結構RTされたんですけど」




司会者「まあそうでしょうね」

レジー「フェスを「メディア」として捉えるなら、それは「すごく音楽好きな人のためのメディア」なんですよね。だからもし音楽メディアの趨勢を「音楽番組を中心とするマス媒体からフェスへの移行」というストーリーで考えると、それは音楽というジャンル自体が閉じられたものになっていく過程とも言えるんじゃないかな」

司会者「基本的にフェスの中心的なアクトはロックバンドが多いわけですが、今あげた「閉じられた空間でのリア充気分の確認」っていう話は、この章で述べられている「「ロック」「バンド」というものがある種の「ノスタルジー」の対象になっている」という話とつながってきますね」

レジー「そうね。ここでは「ノスタルジー」を象徴する作品として『リンダ リンダ リンダ』『けいおん!』や『涼宮ハルヒの憂鬱』の文化祭の回なんかが出てくるんですけど。個人的には『大人のロック!』みたいなおっさん用の後ろ向きなメディアだと思ってたものと、『少年メリケンサック』『NANA』『フィッシュストーリー』『ソラニン』というもっと若い人たちも見たであろう映画が「バンドというものを介した過去への思いの表現」って感じでまとめられてて結構ドキッとしました」

司会者「『少年メリケンサック』『NANA』『ソラニン』はどれも宮崎あおいが出てますね」

レジー「ほんとだ。どれも役どころは違うから別に共通項はないと思うけど」

司会者「そう言えば『BECK』が出てきませんでしたね。マンガは08年まで連載してましたし、映画も10年にやりました。ある意味ロックバンドマンガの金字塔的な作品ではありますが」

レジー「『BECK』は映画見たけどマンガは途中までしか読んでないから何とも言えないんですが、あの作品では「ロック」「バンド」ってものが「新しい世界を切り開いていくための手段」として描かれてるから、さっきあげた作品群とはだいぶ違うよね。もしかしたらそれを90年代的なロック観と呼んでいいのかもしれないし。僕あのマンガ知ったのってJAPANの紹介記事だった気がするんですよ」

司会者「確かにJAPANと『BECK』は相性よさそうだな」

レジー「この辺りの作品論を通じて音楽評論そのもののあり方の変遷についても語れるのかもしれないですね。で、この章は冒頭でもちらっと書いた通りAKBに関しての言及もあるんですけど」

司会者「「ライフの実況中継」という項でAKBについて触れているわけで、章全体の核にもなっている部分ですよね」

レジー「「AKBは口パク主体」という話になると「だからクソ」で終わっちゃうパターンが多いですが、それゆえ「音楽が終わった瞬間、ステージが「ライフ」を表現する場になる」「その状況は「ステージ外の人がキャスト化する」という話と同じ構造」っていう見立てはなるほどなあと思いました。ちょっと長いですが該当箇所を引用しましょうか」

AKB48は、生で歌声を発することを(あまり)していない(許されていない)という意味では、全員が本来のライヴ・ミュージシャンには選ばれていない「非選抜アイドル」だといえる。彼女たちは、歌唱以外の発言、表情、しぐさ、他のメンバーとのコミュニケーションのとりかたなどによってライヴ感を生む。いいかえるなら、AKB48のキャラクターとしてどのように生きているかを披露するショーだ。ライヴというよりライフが売りものになっている。
それは、ステージ外の人々の行為がミュージッキングへの参加になるキャスト化とどこか似た状態である。音楽が鳴り終わり、喋りだした時にむしろライヴ感が高まるAKB48は、オンステージがオンでなくなったほうが輝くともとらえられる。ステージ外の一般人がキャスト化することでその場をオンステージ化するのと、AKB48の逆説的なライヴ感は対、あるいはパラレルになっているように思われる。


司会者「この部分を見ると「やっぱAKBって音楽関係ねーじゃねーかw」って話になりませんか」

レジー「「ライブ」っていう観点で見るとまあそういう議論もできるよね。僕自身代々木体育館と西武ドームでAKBのライブを見に行ったけど、ほんとひどいなと思いました。だからそういう意味では、先日の記事で取り上げた「アイドルにとって音楽は総合的体験の一部でしかない」っていう宇野常寛さんの話はAKBに関しては一定の正当性はあると思います。で、それ以外の見方もあるよね、というのも同じ記事で指摘した通り」

司会者「ロックバンドで語られがちな「ライブでのケミストリー」みたいな話が生まれないとすると、アイドルを音楽的に楽しむには音源で聴くのが一番ってことなんですかね」

レジー「だからこそベボベ小出さんも「完全在宅主義」なんて名乗ってるんだろうけど。ただ、一方でそういうある種レガシーな「ライブでのケミストリー」みたいなものを強調してるももクロがあそこまで支持されてる状況もあるわけで」

司会者「ももクロが「全力」みたいなタームを持ち込んで位相が変わった部分はありますよね」

レジー「うん。で、それとは違う角度で、たとえば女子流はバンド入れてライブやったりすると。それだけで「ステージ上における音楽的ライブ感」は違いますよね」

司会者「一口に「アイドルは」と言うのも難しいですよね。当たり前ですけど」

レジー「そうね。円堂さんの本が誠実だなと思うのは、あくまでもこれは「AKB48に関する話」だと明確に限定してるんですよね」

司会者「安易に「アイドル論」に敷衍していないですよね」

レジー「ここは自分でも陥りがちな部分なので気をつけないといけないですね。そういう前提を踏まえたうえで、AKBが提供している価値をわかりやすく明らかにしていると。この辺は『AKB48白熱論争』の議論を補完する内容にもなっているんじゃないかなと思います」



司会者「わかりました。しかし3章だけで結構な分量とっちゃいましたね」

レジー「そうねー。3章はもっとさくっといくつもりだったんだけど意外と長くなってしまった。ここから5章まで広げると大変なので、5章は次回に回します」

司会者「では3章の話を終えるにあたって何か言い残したことがあれば」

レジー「そうですね、とりあえずさっきの引用部に出てきた「非選抜アイドル」という言葉、これは先日AKBを卒業した仲谷明香さんの本のタイトルなんですけど。これマジで名著ですよ」



司会者「「特別ではない自分がアイドルグループの中で何をすればよいか」みたいな話が実感を持ってつづられています」

レジー「AKBというグループ、というか「グループ」というより「組織」と言った方がいいかもしれないけど、そのあたりを理解するうえでものすごく貴重なテキストだと思うし、あとはインチキ臭い自己啓発本よりはよっぽど触発される部分があると思いますわ」

司会者「円堂さんもこの本が『ソーシャル化する音楽』を含めた一連の著書の裏テーマである旨を表明されてます」




レジー「こちらも合わせておすすめです」

司会者「では今回はこんな感じで。次回は5章ということでこの本について取り上げるのも最終回ですね」

レジー「もしかしたら、まもなくパスピエの新曲が出るのでそっちの話を一回はさむかも」

司会者「これね」



レジー「PV見るとライブと印象変わるなあ。というわけで次回はパスピエの話か『ソーシャル化する音楽』感想戦の続きのどちらかをやると思います」

司会者「できるだけ早めの更新を期待しています」

『ソーシャル化する音楽』を弊ブログのサブテキストに勝手に認定しました

レジー「前回のエントリーがそこそこ反響があったこともあり、その記事で紹介したサルソウル関連のCDをまとめて聴いてみました。この辺楽しいね」

司会者「この界隈の雰囲気はいろんなJ-POPの元ネタになってますね」

レジー「オザケンの「強い気持ち・強い愛」の出だしの部分って、ロレッタハロウェイ「DREAMIN'」まんまなのね」



司会者「サンプリングしたみたいなクレジットはないですよね確か」

レジー「まあ何かこの辺は時代性を感じるわな。「引用」とか「オマージュ」とか「パクリ」とか線引きが難しいよね」

司会者「言ったもん勝ちの部分はあるし、聴き手がそのあたりのストーリーをどこまで脳内補完するかみたいな話もありますからね」

レジー「そうね。このジャンルは引き続き掘っていきたいと思います」

司会者「そう言えば前回記事のラストで『ソーシャル化する音楽』の話をしましたが、読み終わりましたか」



レジー「読み終わりました!いやーこれすごい面白かったよ。こういう視点でシーンを俯瞰している本って意外となかったからね。これ読めば「ボカロってなんだかわからん」とか「なんだかんだ言ってロックが最強でしょ」とかそういう話にはならなくなるんじゃないかな」

司会者「著者の円堂都司昭さんは他にも面白そうな本を何冊か書かれています」

レジー「「ゼロ年代の論点」は2年くらい前に読んだよ。これも思想シーンの概観がわかって良かった。いろんな事象を整理してお話にするのがものすごく上手な方だなと僭越ながら思いました」



司会者「結構このブログと問題意識というか扱ってるネタは近いですよね『ソーシャル化する音楽』は」

レジー「そうなんですよ。このブログも最近の記事は読んでいただけてるとのことでとても嬉しいですわ。ここを読んでいただいている方は『ソーシャル化する音楽』も絶対ハマると思うので、ぜひ読んでいただきたいなと。というわけで、今回、あともう1回くらいかな、この本の内容についてやりたいと思います」

司会者「わかりました。この本の章構成はこんな感じです」

序章 祝祭の風景の一九六〇年代とゼロ年代以降
第1章 ガジェット化する音楽
第2章 キャラクターをめぐる人形遊び
第3章 ライヴ感の共同体のなかのライフ
第4章 音楽遊びの環境(アンビエント)
第5章 浮遊する音楽論
終章 繰り返されるトランスフォーム


レジー「どの章も刺激的でしたが、僕が特に面白かったのは1、3、5章ですね」

司会者「ではその3つの章について順番に触れていければと思います」


第1章 ガジェット化する音楽

レジー「ここではこの本の根幹の思想になる、つまりここ10年のシーンを見るうえでの基本的な考え方となる「分割・変身・合体」というフレームワークが登場します」

司会者「具体的にはこんな感じです」

分割:
様々なレベルで「作品」としてのまとまりを分割、分解する手法(音楽配信→アルバムではなく曲単位、フェス→「アーティストのワン・ステージ」という消費単位をつまみ食い可能な形に)

変身:
音楽の形を変える手法(リミックス、マッシュアップ、着うたなど)

合体:
音楽に関し、それを作り演奏したアーティスト以外の人間がかかわる(合体する)ことによって起きる状態を楽しむ(音楽ゲーム、エア芸、アーティストとタイアップしたパチンコなど)

レジー「このフレームワークに当てはめると通信カラオケってのは実は今の時代を先取りしていた娯楽だった、って話はなるほどなあと思いました」

司会者「宇野常寛さんが「カラオケってのはボーカルを合わせる音ゲーで二次創作」みたいなことをよく言ってますけどそれに近い考え方ですね」

レジー「それは「変身」と「合体」に当てはまる部分ですかね。僕がほーと思ったのは「分割」の部分で、確かに「アルバム単位ではなく楽曲で切り出せる」とかハードディスクに音源をためていくとか、ネット配信の音楽と考え方が一緒だもんね。全く気が付かなかったけど確かにその通りだなあと」

司会者「カラオケ界隈の話に関しては、烏賀陽弘道さんの『カラオケ秘史―創意工夫の世界革命』が紹介されていました」



レジー「この本も面白いのでおすすめです。で、この章では「エア芸」みたいな話に関連してPerfume、ゴールデンボンバー、ポリシックスのハヤシ、あとはエアギターでダイノジ大地さんが取り上げられているんですけど、この辺の人たちがゼロ年代以降でぐーっと受け入れられる土壌を育てたのは90年代におけるカラオケという娯楽の国民的な浸透だったんだなあと。こういう感じでシーン全体に「補助線」が引けるのがこの本の価値ですね」

司会者「こういう目から鱗的な視点がいっぱい出てきますよね。合わせて、この章ではロックフェスについても取り上げています」

レジー「この章に限らずたびたび登場するねフェスの話題は。やはり今の音楽シーンを語る上では欠かせない概念ですよね。以前このブログで取り上げたロックインジャパンリア充問題についてもかなりシンクロした記述があったんですけど、それは3章のところでやりましょう。ここで特に面白いなーと思ったのはこんな話。ちょっと長いですが引用します」

CDというパッケージの衰退に伴ってアルバムという作品単位は自明ではなくなり、着うた、音楽配信では曲のバラ売りが当たり前になった。また、複数ステージが同時並行の大型フェスでは、特定アーティストの出演時間をまるまる見るのではなく、途中で切り上げてべつのアーティストへはしごするのも客の自由だ。野外フェスであれば芝生に寝転がり、遠くのステージの演奏をBGMにして飲み食いしてもよい。アルバムという作品やアーティストのワン・ステージといった“まとまり”を気にせず、音楽を断片的に消費されているのが推奨されているかのごとき環境が、現在のリスナーを取り巻いている。アルバム、ワン・ステージといった音楽享受におけるかつての基本単位の解体が、音楽の日常と化しているのである。

司会者「断片的消費の推奨ね。なるほど」

レジー「これってまさに今のシーンの状況を表してるよね。このキーワードは今後使わせていただきたいです」

司会者「この章で紹介されているマッシュアップの話とかは、「断片的消費」によっていろいろな音源が並列で語られるような状況になったことと密接に関係してますよね」

レジー「この手の「データベース化」みたいな話はもちろん目新しい話ではないしリミックスだって昔から行われていたけど、テクノロジーの進歩、というかそういう技術が市井のリスナーに解放されて、ニコ動みたいな発表の場が整備された中でそういう文化がさらに爆発したってことなんだろうなと思いました」

司会者「マッシュアップのところでは吉幾三がネタとして話題になったって話も出てきました」

レジー「吉幾三絡みだとやっぱこれだよね。何回聴いたことか」



司会者「もう何年も前のやつですけど色あせないですよね」

レジー「震災以降は嘘歌詞が東北応援バージョンになってて普通に泣けてくる。何回見てもすごい」

司会者「こういう「オリジナルを大幅に改変する遊び」がリスナー間では浸透する一方で、プロのミュージシャンへの「パクリは悪!」みたいな一義的な批判もいろいろ出てきているわけで、この本ではオレンジレンジの「ロコローション」に関する騒動について触れています」

レジー「これに関してはこの文章が超クリティカルだなと」

潔癖主義的なパクリ批判で指摘されるフレーズの多くが、分割、変身の音楽遊びが常態化しているなかでは、法的解釈はともかく、すでにおなじみでけっこう共有されているフレーズであったりする。こうした環境で素朴に純血主義、潔癖主義の態度をとるのは滑稽でしかない。

司会者「痛烈」

レジー「でもほんとそういうことですよね。以前僕のブログの検索キーワード解析見てたら「トマパイ train scatting パクリ」ってのがあって。あれなんて元ネタも明らかにしてるすごく良心的なお遊びなのに、それを「パクリ」というふうに捉えてしまう感性があるのかと。もちろんたった一人のケースではあるけど、ちょっと考え込んでしまいましたよ」

司会者「以前のクラブに関するエントリーでも少し触れてますが、「お行儀のよさ」みたいなものに関するすごく狭小な解釈が蔓延してる感じはありますよね」

レジー「そうね。「楽しさ」と「ルール遵守」のバランスがちょっと崩れてるのかもね。これは音楽に限らず社会全般の話かもしれないけど。しかしまああれだね、こういう「パクリ論争」みたいな話を見ると、「渋谷系」ってムーブメントは何だったのかって話になるよね。冒頭に触れたオザケンの話もそうだけど、「元ネタ探しが楽しい!」的な煽りもあったわけじゃないですか」

司会者「「レアグルーヴとの邂逅!」的なね」

レジー「そうそう。ちょうどこの前柴さんが「花澤香菜『claire』と「“渋谷系”を終わらせたのは誰か?」という話」という記事をアップしてて、「渋谷系が終わったのは98年」という話があったんだけど。この辺は以前からkenzeeさんも「98年問題」みたいに指摘してる話で、要はこれって「元ネタ=データベースを必要とせずに圧倒的な表現ができるミュージシャンの台頭」って話だと思うんですよ」

司会者「柴さんの記事では椎名林檎、Cocco、MISIA、宇多田ヒカルをあげてますが、ロックバンドでもくるりやナンバーガールが出てきたのがこのタイミングですね」

レジー「うん。このタイミングで日本のポップスのレベルがぐっと上がった、またこういうこと言うと「個人の好みだろ」みたいな指摘を受けそうだけど、やっぱり何がしかの変曲点ではあったと思います。で、こういう強度を持った人たちがのしてくる中で「元ネタが・・・」みたいなこと言ってる人たちがある意味「追いやられた/居場所がなくなった」と。これって、オリジナルですごいものが作れるミュージシャンが増えたという喜ばしい事象だった一方で、過剰なオリジナリティ信仰が進んだ結果「昔のものを愛でる、そこから違うものを作る」みたいな「ルーツ」についての文化が塗りつぶされてしまったって側面もあったんじゃないかなあと」

司会者「その辺は「自己表現至上主義」みたいな話とも密接に結びついてくるんでしょうね。借り物の表現なんてクソ!みたいな」

レジー「本当の意味での「オリジナリティ/個性」なんて存在しないし、必ず何かの影響を受けてたりするんだけどね。この辺の話は、その影響の根源を明らかにしようとせずに「ピュアな自意識の発露」と片付けてしまう音楽言論に関する話にももちろんつながってくるわけですが。この辺は5章に触れる時にやれればいいな」

司会者「わかりました。長くなってきたのでぼちぼちまとめたいのですが、1章について何か言い残したことがあれば」

レジー「そうですね。1章でもこの手の「自己表現至上主義」に触れてる話があったので、最後それを引用して終わりたいなと」

その種の自己表現(注:自分で詞を書いて歌い、感情を吐露したり社会情勢に物申したりする)を尊ぶ鑑賞態度が、曲と歌の分業制(アイドル歌謡、演歌など)よりも、自作自演のフォーク(と日本ではその後継のニュー・ミュージック)やロックを上位にみる価値観を作ってきた。それが楽譜の再現でしかなく自己表現でないという見方からすれば、クラシックはロックより下位になる。

司会者「ロックとアイドルの記事と同じ話をしてますね」

レジー「あの記事では最近の出来事をスナップショットで取り上げたけど、まあずーっとある話なんだよね。しかし「クラシックはロックより下位になる」ってある種の皮肉で言ってるわけだけど、「そりゃそうじゃん自分で曲も歌詞も書いてないんだし」って本気で言う人がいそうな感じがちょっと怖い」

司会者「さすがにそれは、と思いますけどわかんないですね」

レジー「あの記事いまだにぽつぽつ紹介されて衝突を招いたりしてるみたいだからね。きっとこの先も永遠に続いていくんでしょうこの手の話題は。というわけで、直前で引用した部分もそうですが、『ソーシャル化する音楽』は弊ブログとのシンクロ率が非常に高いので、ぜひセットでお楽しみいただければと思います。次回は3章5章まで一気にいけるかな」

司会者「できるだけ早めの更新を期待しています」
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