カテゴリ: プライベート

振り返ってみると、2011年3月11日は東日本の大震災、さらに、キプロスも7月11日に海兵隊の倉庫が爆発した為に、1ヶ月半も一日平均4時間ほどの突然停電が続き、それでなくても、8月のキプロスは砂漠のように暑く、猛暑が続き、11月になっても暑い日が続いていた。
週に2回ほど国際電話で父と話す習慣があった。
去年の年明け頃から、喉の調子が芳しくないと病院に通っていた。
悪性の胃がんだと診断され、手術をしてから5年以上経って、私が言っても、他の人が老人ホームに入るように言っても、首をたてに振ることなく、頑なに拒み続けていた。
支援1から支援2にして貰い、通いのヘルパーさんが週に何回も来ると、気兼ねするからと言っては、私にあれしてくれ、これしてくれと依頼する度に、「時差があるから、明日になるからね。」と言うと、「なんで、今日中に出来ないだ。」と腹を立て、私と度々、電話で喧嘩になったりした。
昭和一桁の父世代は何でも自分でしなければ気が済まない性分だったうえ、難聴者の父には、誰かと共同生活は苦痛に感じたのであろうと思える。
2年に一度、父に会いに帰国していたので、2011年の秋ごろに帰ろうと思いつつ、国難の日本に帰ることを躊躇していた矢先、何度、電話を掛けても電話に出ず、数年前に倒れて疼くまっていたのを元民生員さんが発見して、救急車を呼んで下さったことが脳裏を過ぎった。
去年の夏ぐらいから、声の調子も良くなく、電話する度に寝ていることも多く、近所の人にメールをして様子を聞いたり、応答がない夜には、倒れているかもと思い、ご足労頂いた後に、11月11日に誤嚥肺炎で自力で自ら近所の人に電話をしたが、留守だった様子でケアーテイカーさんに連絡をして、来て貰って、救急車で病院に運ばれたようだった。
その後、絶縁状態の兄に病院に行って貰うことをお願いしたが、拒否されたりした。
ケアテイカーさんによると、それほど大事に至らないというニュアンスであったが、無理を言って兄に父の容態を病院に見に言って貰ったときに「死相が出ているから、帰って来たほうが良いのではないのか?」という話になった。
主人と相談し、意識があるうちに会って様子を見て来たらと提案されたので、急遽、チケットを取り、バタバタと日本に帰国した。
機内にいる間に危篤になってしまっていたらと心配になったりしてゆっくり出来ず、朝一番に病院に行けるようにと地元のホテルを取り、その足で病院に向かった。
父に声を掛けたが、私の顔を見ても「知らん!」と言って無視された。
主治医の先生、看護婦さん、病院の相談員さん、ケアテイカーさんを交えての父の状況を何度も話し合い、父に声を再度、掛けたが無視された。
スーツケースを空港から送っていたので、父の家に帰ることにした。
家に帰ってみると、救急車で運ばれたその日の状態だったのか、こんな状態で寝ることも出来ないと思い、夜の7時頃から掃除機を手に取り、掃除をしていたら、ガタガタと縦に家が揺れていた。地震だった。
そうこうしていると隣の方が、「かずこちゃん、帰って来たの?」とお越しになったので、立ち話したりして、もう、父はこの家に帰って来ることがないだろうから、大きな家電の処分をしないと行けないと思いつつ、畳に布団を敷いて寝た。
次の日も朝早くから病院に行き、父に話掛けたが無視されて、「知らん!」と言われた。
知らんと言う意味が分からず、どうしてと思いつつ、痴呆かも知れないと自分に言い聞かせた。
帰国後3日目の日に父が車椅子に座って、景色の良い場所で日向ぼっこをしながら看護学生の男子と会話をしていた。
私が近くに言って話しかけると、また、無視された。
その日は11月中旬だったが、青空で汗が出て来るぐらい暑い日だった。実家から朝、ダウン症の姉が通っている作業所に連絡をいれ、お昼ご飯が済んだぐらいに姉を迎いに行き、父に会わせようと父に「サー子を午後から連れて来るからね。」と告げると、鬼のような顔で「サー子はどこにおるんか?」と聞かれた。
サー子には反応するだと悲しくなった。
ミイラのようにやせ細った父は私を忘れてしまったのか。
タクシーで姉の居る作業所へ行き、ランチが終わった後に決まった習慣があるらしく、タクシーを待たせていたが、お構いなく、しっかりと歯磨きをしていた。
そして、父に姉を会わせ、時間が来たので、姉をタクシーで送って行った。
別件で自宅に帰らなければならなかったので、その日は父に帰ると言って帰った。
次の日に父にあったが、怒った顔をしていた。
私が「お父さん、来たよ。」と言うと。無視されたが、話かけると「お前は誰だ!」と言われ、「カズコだよ。」と告げると「カズコだったら、ワシの保険書を持っているだろう?」と聞かれた。私が「持っているけど?」と言うと、「見せてみろ!」と問われて、カバンから出して見せると「銀行のカードもあるだろう?」と聞かれ、見せると、「カズコか。いつ帰って来た?」と「ごめん、ごめん」と何度も言いながら、握手を求めて来た。
破傷風になっている手で何度も握手をして、「旦那に迷惑かけるな、まさか、帰って来てくれると思っていなかったから、カズコに似た人でワシを騙そうとしているのかと思っていた。」とくぼんだ目を細めながら、ニコニコと話していた。
会えたことが嬉しかったのか、興奮状態で元気な声で数時間話をした。
その日が一番元気でまともな話をしていた。
その後は、喉に痰が詰まったりして、吸引して貰ったり、体調が良くない感じだった。
しかし、体調は悪いが安定した感じだったので、違う病院を紹介して頂いたり、その話合いをしたり、姉の件、葬儀の件、家の大きな家電の処分、兄家族の悩みを聞いたり、毎日、病院通いをしながら、すべての家電を処分したので、寒い時期にコンビニ弁当を寒い古い家に帰って食べながら、知らず知らずに涙が頬に流れていた。
いくら日本語が出来るからと言って、2年ぶりの地元に帰り、病院通い。
寒さと孤独さに負けそうになることもあった。
最新設備の新しい病院から父のような状況の患者さんがいる病院に移動しなければならない為に、転移する病院の先生とお話したり、その先生には「延命治療をしないなら、自宅で看取ったら?」と言われたので、「自宅で看取ります。」と言い、兄、主人、病院の相談員さんに告げると、「止めておいた方がいいですよ。あなたが倒れますよ。」とアドバイスされ、兄も「お前はバカか?お前が死んだらどうするだ!」と言われ、主人にも「無理し過ぎないで、病院で死期を迎えるのが良いよ。」と、主治医も「プロに任せた方が良いのでは?」と言われ、病院と病院の連携が取れてなかったらしく、その後は転移する病院の先生も自宅介護の件は言わなくなりました。ただ、延命治療を希望しないのであれば、「文章で一筆書いて、捺印して下さい。」と言われました。
家に帰る途中に封筒と便箋を買い、いざ、書き始めると何度も、なぜか、「お願いします。」と書いてしまい、お願いしませんと書く機会がないため、やっぱり、お願いした方が良いのかと思う気持ちになりました。
続く
1300444613_c11-354

お久しぶりです。
日本のインターネットカフェにて書き込みをしています。
1ヶ月の予定で地元に帰っていましたが、毎日、父に会いに行って私自身の体調も芳しくない状態ですが、もうすこし、日本に滞在することに致しました。
年末年始で本来なら鑑定予約で一杯ですが、2011年〜2012年に掛けて日本に急遽帰って来たのにも意味があるのでしょう。
日本にて最愛の家族との死に向き合うのも、今回で3回目になります。
日本に帰国して毎日、お百度参りのように病院に通っています。
父の様子を見る度に悲しくて涙が出ます。
病院も転移し、大勢の方々に大変お世話になりました。
父の容態が急変する前に、意識があるうちに会えたので、良かったです。
お医者さまには「いつ死ぬか、分からないが・・・。 覚悟はしておいて下さい。」と、言われました。
父も霊界の受け入れ態勢が出来れば、あの世に帰ることでしょう。
最近では眠っている時間の方が多くなりました。
来年、キプロスに帰り、落ち着いたらブログの更新にてお話させて頂きます。
今年は世界各国に変化が訪れました。
日本では大震災にて多くの方々が霊界に還って行かれました。
2011年も大変、お世話になりました。
2012年もどうぞよろしくお願い致します。
皆様、皆様に繋がる大切な方々に、2012年が良い年になりますように、心よりお祈り致します。
心より、感謝致します。
ありがとうございます。
合掌
カズコ

こんにちは!
いつもありがとうございます。
ありがとうございます。
パフォスはここ数日ずっ〜と雨が降り続けていました。
しとしとと雨が降ることがないパフォスなので、お洗濯が出来ず、そして、寒い!
今日は久しぶりに雨が降っておらず、お天気なので溜め込んだ洗濯をしております。
先月、ニコシアの友人のお父さまがお亡くなりになり、お葬式に行って参りました。
今月になってすこし元気になった友人家族から「気晴らしにリマソールのホテルにお泊りするから、一緒に数泊しましょう。」とお招きを頂きました。
主人と相談して、1泊でもとっても高級なホテルなので、遠慮したのですが、どうしてもとリクエストを頂いたので、1泊だけすると約束して行きました。
お葬式から2週間ほど経っていたので、彼女自身、すこし落ち着いたようで、一緒に夕日を見ながら、海岸を歩いたり、お酒を飲んだり、フランス料理を食べたり、水着を持参しないかったのですが、スパ施設を覗いたら、入りたくなったので、水着を買い、御曹司君と一緒にダラダラと温泉気分に浸かっていました。
素敵な時間を過ごし、週末に実家の父に連絡を入れたのですが、数回電話をしても父が電話に出ず、心配になったのでご近所の方に様子を見て頂きました。
「いま、お父さん、起きたみたいだから、連絡してあげて」とご近所さんの携帯電話からメールを受け取り、父に電話すると、
「寒いし、しんどいし・・・」という事で、横になっていたようです。
週明けにソーシャル・ワーカーさんにメールを私から入れ、主治医と会う予約は来月の中旬らしいが、早めに予約を変更出来ないのか尋ねたところ、主治医と確認してみるということで、予約を早めて頂いた矢先、胸騒ぎがしたので、眠れず、連絡を入れようと思って起きてメールチェックをしたら、父が緊急入院をしたということで、主治医に連絡を入れて欲しいと言われたので、すぐに連絡を入れましたが、看護婦さんから、「先生の電源が切れているので、明日にして欲しい」と言われ、また、眠れない夜を向かえ、主治医の先生と連絡が取れました。
父の容態の説明がある程度終わった後に「延命治療しますか?」と尋ねられました。
「兄と同意して、延命治療はしないと、決めています。」と答えのですが、なぜか、何回も本当に延命治療をしないのか?と問われ、だんだんと気持ちが延命治療しないといけない感じに思えて来ました。
ただ、父の場合は延命治療を受けたからといって元気になることはないと仰られ、胃ろう手術も難しいであろうと告げられました。
主治医の先生に「父に意識があるなら、父にどうして欲しいか聞いて下さい。」と尋ねて下さい。と言うと、「それは、お父さんにもうすぐ死にますよ。と宣告するのと同じだから、出来かねません。」と仰られ、「でも、本人が延命治療を受けたいと願うのであれば、父の意思を尊重します。父の命ですから・・・。でも、父は口から物が食べれなくなってしまった状態で、さらに、もしも、体力が多少良くなり、胃ろう手術をして、寝たきり状態を喜ぶ人ではないと思います。」と告げると、「判りました」と怒った口調で言われました。
延命治療をしないことが悪い人間のように、感じられました。
5年以上前に2度目の胃がんの手術をする前に、他の病院の先生には「あと、3ヶ月生きれば良いでしょう。」と言われ、病院を移転し、今に至っています。
父も数えで85歳です。
身長が172センチで体重が40キロあるかないかと入院する前に本人確認で言っていました。
9月頃まで、杖をついて歩いたり、畑仕事もしていると聞いていました。
ただ、近所に住んで絶縁状態になっていた兄夫婦が隣の町に引っ越して行ってから、急に元気がなくなり、父と兄の因縁関係はこの世に生を齎したときから始まっているので、父も兄がどうしているのか本当は気になるが、憎愛という何か深い部分で父は生き続けていた感じがします。
兄に父の件を告げると、「会いたくもないし、病院に行って顔を見るのもしたくない。」と言っていましたが、「病院に行って来た。」と言うので、話を聞いた次の日。
何か元気になった様子らしい。
元気といっても、意識が戻ったという意味で、普通の生活ができることは不可能な様子です。
胃がんで胃もないので、胃ろう手術をすることも出来ません。
また、体力が父の場合はないので、手術をしている間に死んでしまう可能性があります。
一昔であれば、自宅で食事が出来なくなったら、ゆっくりと柔らかい物、重湯、お水という感じで、新生児の逆のパターンであの世に帰る準備が出来ていることでしょう。
父の世代は幸せだと思います。
まだ、見取る人もいますから、私が父と同じぐらい生きたとして、家族に見送れることはないでしょう。
死の準備もある程度、自己責任という時代になっているかも知れません。
「平穏死」が善いか、悪いか。と聞かれると、それはその家族が決めれば良いでしょう。
ただ、食べるのが大好きだった父にとっては二度の胃がん手術でどんどん胃が小さくなり、それでも、食べ物の話をするのが好きでした。
戦時中に成長期を迎えたが食べれなかった思い、戦後、闇市で食べ物を購入していた時代、そして、食の飽和状態を向かえ、食べたい物を食べ、一時期は今の体重の2倍あったと若いころの写真を見せられると別人のようです。
身近な人の死を二度、私は経験していますが、やっぱり、死は寂しいものです。
霊界に帰る時期が来ている人を人間が作り出した機械で縛り付けて置くことが父の為になるならば、それはそれで良いと思います。
しかし、本人の意思ではなく、家族の意見が重要視されるのであれば、精一杯生きた父はゆっくりとお迎えが来るまで、自然の流れで寿命を全うして欲しいと願います。
さて、心の準備が出来るまで、「危篤」と言われていない父に会いに行くことを悩みました。
主人とも話し合い、意識があるうちに会い、父に会いに日本に帰り、容態が安定すれば一度、キプロスに帰り、様子を伺い、また、日本に帰ることも出来ると決断しました。
いつも急なため、バタバタと一時帰国を致します。
1ヶ月ほど、音信不通になる可能性があります。
ちょっと、帰ってみないと分かりません。
金曜日までの鑑定予約を入れておりますが、その後はすべての業務をお休みします。
年末年始で本来なら来年のメール鑑定もご予約する予定でしたが、田舎の父宅にはインターネット回線などなく、田舎にはインターネットカフェらしいものもないので、更新出来ません。
クリスマスまでには、どのような状況になっているのか報告できればと思っています。
寒いのが苦手な私には、生まれた故郷と言っても、慣れるまでにすこし時間が掛かりそうです。
突然ですが、よろしくお願い致します。
ありがとうございます。
カズコ
合掌
1321517704_1186023893l

お久しぶりです!
いつもありがとうございます。
ありがとうございます。
今回のエジプトへの旅は本当に感動的な毎日となりました。
すでにメルマガで報告しておりますが、エジプシャン・ヒーラーとの出会いに導かれ、ルクソールは遺跡と共存した、素晴らしい波動の場所でした。
5年前に初めて訪れたカイロのピラミィドにも、偉大さを感じましたが、ルクソールは遺跡の宝庫でした。私たちが訪れている短い期間にも新たに3キロメーターにも渡る遺跡が発見されたところを見物することが出来ました。
予定ではリラクゼーションを目的とした旅行でしたが、行くと行きたいところリストが出て来りして、ルクソールから車でアスワンへ足をのばしたりしました。
旅に出る前に、服装チェックのために、1週間の気温を調べたときは、ルクソールの夜は12度ぐらいになるとのことでしたが、全然、エアコンの温度がそれぐらいに設定していたのか、到着した日はエアコンがついた状態のお部屋で毛布が必要になりました。
夜中の2時ぐらいに到着したので、ナイル川も見ないまま眠り込んでしまいましたが、朝の4時ごろから、目の前のモスクから大きなコーランには驚いてしまいました。
私たちが移動した時期はイスラム教徒にとってはキリスト教のクリスマスみたいで、とくに、エジプトのリトル・ヨーロッパと呼ばれているシャーム・エル・シェイキは世界各国、中東のお金持ちが訪れる場所になっているようで、どこも彼処も、人、人でした。
11月から3月ごろまでは一番気候が穏やかだそうで、一番賑わっている時期みたいです。
シャーム・エル・シェイキからイスラエル方向へ向かって300キロぐらいの所にシナイ山、現地ではモーゼ山と呼んでいました。
早めに行って帰って、シャーム・エル・シェイキで泳ぎたいと思っていたので、着いた次の日にシナイ山とセント・カトリーナ教会へ行くことにしました。
シナイ山の朝日を拝む為に、バスがお迎えにホテルに来たのは午後10時30分、繁華街で賑わう場所から遠のいて行き、検問がある度に、盛り上がった道路で最初は起こされていましたが、すこし仮眠をと思いつつ、気づくと砂漠のど真ん中でトイレ休憩、32度ほどあった温度が10度ぐらいに下がっていました。
再び、シナイ山に向かってバスを走らせ、2時間ほどして、山の麓から頂上を目指して歩くように、ツアーガイドの人に指示されました。そのツアーガイドの人は、現地の人がいるので、「明日の朝、セント・カトリーナー教会に8時30分に会いましょう!」と言い放ってどこかに去って行きました。
急に寒さが増したように感じるので、時間を見ると2時半。
懐中電灯をペアに1本渡されました。
片道8キロメートルらしいのですが、何も見えません。
見えるのは、星、星の夜空と半月だけでした。
しかし、驚いたことに懐中電灯の灯りが無数の蛍のように、光っていました。
私は8キロを4時間以内に登る体力がなさそうだったので、ツアーの人達とは別行動で旦那と一緒にラクダで頂上付近まで行くことにしました。
エジプトはどこでも値段交渉から始まるので、面倒ですが、お財布の中と相談して、交渉成立しました。
私が乗ったラクダは単独行動できるようでした。夜だったので怖くなかったでしょうが、ラクダは道の真ん中を歩くのが好きでないようで、端ばかり歩いていました。
途中何度も、急に早歩きし始めたり、他のラクダの後ろになると、ピタリと止まってしまったり、掛け声をかけないと歩いてくれません。
ラクダの駐車場みたいなところに到着しました。
そこから、「750の階段を登って行ってね!」と言われましたが、階段というより、大きさの異なる岩、岩でした。
高さが50センチほどのステップもあったり、風邪気味だった私は飴を舐めながら、胸が痛く感じたり、喉が痛かったりしながら、ぜぃー、ぜぃーしながら、ホテルでゴロゴロしておけば良かったかなと脳裏によぎりましたが、ここまで来たなら、後、もう少しと休みながら、へとへとしながら、登っていると、他の人達も岩にもたれながら、「もうすこしだ!」と言いながら、登っていました。
旦那に硬く握られた手だけを頼りに、今、どの辺りなのかも検討がつかない状態でした。
どこが頂上なんだと思いつつ、人が集まっているので、ここだ!と分かりました。
朝日が昇るまで、30分ほどありました。
周りは人、人、色んな語源が飛び交っていました。
感動的な朝日が昇って来ました。
その後、2時間ほど掛けて、セント・カトリーナ教会まで、歩いて降りて行きましたが、3日間ほど筋肉痛でした。
登山家でもない私が2700メートル級の山、岩山へ登るには辛かったです。
でも、あの光景は感動的でした。
近日中には、写真を公開したいと思っております。
シナイ山で撮影した写真には沢山のオーブが写っていました。
それだけ磁気が強い場所だったのでしょう。
ラクダに乗りながら、流れ星を見たり、半月だった月が満月になって、頂上辺りでは明るくなっていたことに驚きました。あれだけの星の数を見たのも人生の中で初めてで興奮してしまいました。
エジプト行きにして良かったです。
ありがとうございます。

1291108430_mozes2
1291108430_mozes

1254372928_onomichi
こんにちは!
いつもありがとうございます。
ありがとうございます。
実家には10月の連休ごろまで滞在する予定でいましたが、私の体力にも限界を感じたので、日程を変更して早めにキプロスに帰って来ました。
身体はガリガリな父でしたが、耳や目が悪くなっている為、さらに頑固な上に、注文が多く、買い物リストも細かく、さらには、重たい布団が欲しいなどと意味不明なことを言い始める始末でした。
2年間という歳月は父をさらに頑固にさせ、猜疑心も強くなったように思えます。
ご近所の方で毎朝、父のところへ行き、父の作ったご飯を食べる女性の方は何か持って行くとお金を父があげるので、自分のところでいらなくなった蛍光灯を新品だと言って、父のところに持って言って、父が「これは新品ではない!」というと、「おじさん、これ昨日買ったばかりだから新品だよ!」と言って、取り付けてくれて、父が「電気が点かない?」と訊ねると、「ちょっと、接触が悪いみたいだけだから。」と言っていたので、私が製造月日を見ると、なんと10年前の物で「これ!10年前のものだよ!」というと、「どうして分かるのか。」というので、「ここに年月日が表示してあるんだよ!」と教えると、裏切られたことに対してかなり嫌な気持ちになったようでした。
さらに財布の件なども「財布を買って来てあげたから、」と言って2000円で買って来たからと言うので、「領収書があれば2000円あげるから」と父がいうと、「領収書はなくしたから、あそこのデパートで買ったから、2000円」と言い、あげたようでした。
父から財布が欲しいというので、買って行きましたが、2000円の新品の財布に子供が縫ったような形跡があり、さらに黒い財布でしたが、グレーのガムテープが貼ってあったので、父に「自分でこんなことをしたの?」と聞くと、そんなことはしないというので、家にあったものを父に買って来たと言えば、いくらかお金が貰えると思ったようです。
彼女が働いている会社も仕事があまりないので、定年までに会社が持つかどうか分からないから、ヘルパーになろうと思うと言っていました。
父は耳が難聴なので、父の場合は思ったことや伝言はすべてメモ帳や雑記帳を作り、細かいことまでも書いてありました。
父がお金をあげなければ、きっと寄り付きはしないでしょう。
私が居る間は、あまり姿を見ませんでした。
今までは笑うことが多かった父が2年間でさらに悪い方向へ変貌したのにはショックでした。
私が座っただけで、「お前は同じことを言う」「お前はやくざみたいな人間だ!」とか、急に怒り始めたりして、家にいると、誰かから電話が掛かって来る上に、突然の来客もあり、その度に「お〜い、電話!」「誰か来た!」とか、ゆっくり出来ない上に、「お前に帰って来いなど頼んだ覚えはない!」などと言われて、悲しい誕生日を迎えました。
いくら親子と言え、優しい言葉を掛けて貰うこともなく、姪っ子が子宮癌で手術をして入院していたので、お見舞いに行ったり、退院したのでお見舞いに行ったりして、さらには、ごみ屋敷になっている兄のところに姪っ子が退院したら帰って来るけど、子守とお金の援助とさらには、掃除を手伝いに来いと命令されたときには、お金の援助をした私が掃除と子守もする為にキプロスから帰ったのではないので、どちらの家に居ても、地獄界のように感じました。
政権が変わったときに日本にいましたが、ミカさんご夫婦からご丁寧にとっても美味しいチーズケーキを誕生日に合わせて届けて頂き、ありがとうございます。
長い間、ネット環境がなかった為に音信不通になってしまい、ご迷惑をお掛け致しました。
久しぶりの日本の感想を色々な人に聞かれました。
印象としては、「昭和」のイメージ。
通信機や電気関係、さらにエコカーは発展しているように見えましたが、戦後の日本のエネルギーを感じました。
政治に関しても、新総理はアメリカからの自立と主張していますが、欧州とこれから仲良くするとなると、EU加盟国自体がひとつの国ですから、外交をどのようにして行くのか。貧富の差の多いアジアと友好関係に持って行こうとするのであれば、相手国もある程度経済的に余裕がないのであれば、援助ばかりで借金が減るのでしょうか。
ダム建設中止の案もありますが、最初にあんな莫大なお金を掛けてダム建設しようとした事態が問題だったのではないでしょうか。
建設業界も悪化状態らしい様子ですね。
実家に滞在中に不思議な女性や家族を見かけました。
シルバーカーのような乳母車に寝袋やどこかで拾った得体の知れない物を押している20代から30代の女性は地元の人ではないでしょう。
住む家もないかも知れないホームレスさんかも知れないと思えました。
福祉に力を入れて行くならば、頼ることが出来ない人には仮説住宅さらに生活保護も出してあげた方が良いと思えます。
家族と言うだけで、身内が出来ないこともあると思いますので、若い人が放浪しなくて良い、明るい国になって欲しいと願います。
参議員選挙もありますから、どのようになって行くのか。
今後、国民の声も反映して欲しいと願います。
家族の事では疲れましたが、一人ぶらぶらと瀬戸内の幸を食べ歩きました。
温泉にも一人で行き、紅葉に変わり始める秋の景色を見ながら、露天風呂に浸かりました。
肉体的、精神的にも余裕があれば、東京へも足を運んで見たかったので、ちょっと残念でした。
ひとつ楽しかった出来事は父に頼まれて行ったスーパーで後ろから私を呼ぶ声があったので、小中学生の同級生と立ち話を5分ぐらいして、8月に40人ぐらい集まったという話を聞いて、そうだったの?と、言って「またね!」と言って別れて、次の日に人数は少ないけど、参加出来る?と言うので、「もちろん、参加したいと思うけど・・・、参加者の人たちは誰?」と訊ねると、かなり虐められたメンバーでしたが、参加することにしました。
中学校以来会っていない人達も多く、お顔を見ても「???」でした。名前を聞いて、さらに仰天でした。変わっていない人もいれば、オヤジになっている人もいるけど、不思議なことに声は同じ。3次会まで行き、お腹が捩れるほど笑いました。
今回の日本は涙あり、笑いありでした。
読んで頂き、ありがとうございます。
ありがとうございます。

↑このページのトップヘ