『背中から四十分』│やはり、幸せなのかな

2007年01月14日

カンパニーとは、なんぞや?

『クロージャーズ』をアゴラで観る。
アゴラ内、階段を上がって入ったところから向かいが正面。
特にセットはない。
大橋可也と関かおりが登場。
大橋は上手のはしごを上って二階(舞台が二階なので厳密には三階)に
椅子に腰掛け見下ろす、舞台袖のエレベータからは4人がだらだらと登場。

ここからは関を含めて5人が良く言えば抑制の効いた
悪く言えばほとんど何もしない。

「閉じていること。だからスペースが生まれる。開かれる。ドラマはそこにある。
 これは作品の作り方の話でもある。といっても、いつもそういう作り方をしているのだけど。今回が特別なのではない。しかし、今回はあえて、閉じている、ということを強調しておく。
 僕たち自身も閉じていた。そこに意味があったのだと思う。これからは変わってもいいかもしれない。開かれたカンパニー?ダンス?に。ハードコアダンスってとっつきづらいしね。親しみやすくはなりたくないが。そう、変わろうとするときだからこそ、閉じていることにこだわってみたい。」

ということだから、5人それぞれが閉じていて、各々が異なる動きをし、
互いに関わることもしない、ということなのか。
「いちにーいさんまのしっぽゴリラの息子菜っ葉葉っぱ腐った豆腐」と
中空を見つめ微動だにせず数え歌を延々とつづけていたり、
身体の一部だけを動かすだけとか、ただ、特筆するようなものはない。
ミニマルというか、ほとんど何もしないことに耐え難くなって
叫んだり転がりまわったり始めるが、それまでがあまりに長い。
大橋は水を飲んだりしながら、表情も変えず見おろし続けている。
ひとりがけたたましい音でホイッスルを鳴らす。繰り返し繰り返し。
大橋が立ち上がり紐を引くと、天井に仕掛けてあった十数本のペットボトルから
砂が細く絶え間なく幾筋も流れ落ちる。

大橋はこの後降りてきて、舞台の5人を「配置」し、
ズボンを脱いで被せたり靴を履かせたりして、
客席からその風景を眺め、パイプ椅子を配置し全ての衣装を脱ぐ。
あぁ、脱いじゃったよ.....

少し踊った後に、砂にダイブしてクロールのような動きをしていると、
「配置」された人々は、正気に戻ったかのように起き上がり退場していく。
しばらく泳いだ後に、ツルツルの頭に砂をかけて「洗い」、終演。

鍛えられた身体を見せたいのか、と閉口する向きも多かったかもしれない。
わたしは尿道炎とか心配にはなったが、脱ぐこと自体は別に珍しくもなく、
驚きもしなかったが、もっと違うことが気になっていた。

前半の特等席からの「高みの見物」、後半の人々の「配置」
そしてその「風景」の中での自己満足的な全裸ショー。

そりゃあ、主宰で振付やってるのは大橋で、彼の現出させたい美的世界を
全員で創り上げているのだろうけれどさ、なんかカンパニーって何なんだろうね。

BATIKの『SHOKU』のアフタートークで聞き手の某踊り手が
黒田の後ろで延々と回転→転倒を繰り返させられていたダンサーたちに、
きわどい聞き方で、つまり引き立て役をやらされていると思わないか訊いていた。

今回のもなんか、大橋以外のダンサーは引き立て役のような...
でも、砂クロールする彼を見限るかのように去っていくというのが自虐的なのかなぁ?
まぁ、脱ぐのも自分だけだから三浦や名執のように演者に脱がせまくる演出家よりは良いか?
彼/女たちは、その名も、大橋可也&ダンサーズだからねぇ...

終演後、思いかけずに東野祥子大先生にお会いできたから、
足を運んで良かったと思えたことは思えたのだけれど。

rejio at 23:19│Comments(0)│TrackBack(0)│ │ダンス | 反射的短評

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