今回から政治史に戻ります。第六回で扱った山城国一揆が明応の政変後に崩壊していった過程と、関連が深い隣国大和国の国人衆についてです。時の大和では、興福寺に加えて、畠山義就を継いだ畠山義豊が大きな力を持っていました。
少し振り返ります。第六回で取り上げた山城国一揆とは、1485年に細川氏の被官を含む山城国人衆によって畠山政長が山城守護の地位を追われた事件です。伊勢貞陸が名目上の新守護に任命され、南山城(みなみやましろ)は国人による自治で治められるようになりました。
そしてその8年後、貞陸の父である伊勢貞宗は細川政元や日野富子とともに明応の政変を起こして(第七回)将軍義材を幽閉し、畠山政長を自害に追い込みました。新将軍には義材の従兄弟の義澄が就任し、日野富子の意向を受けた伊勢貞宗が義澄の後見についています。管領となった細川政元の専横を防がんとするような強かさがあったからこそ、富子は波乱な時代において権勢をほこれたのでしょう。そんな彼女もこれを機に政治からを手を引き、2年後に56歳でこの世を去りました。
山城の情勢はというと、政変の直後から伊勢貞陸は山城の支配強化に努め、邪魔だった一揆を滅ぼそうと、細川被官を中心とする国人衆の切り崩しを進めていました。その理由として貞陸は義材派の巻返しに備えることを挙げた上、その父貞宗が義澄の後見となっていたため、政元も堂々と反対できなかったのです。
さて、明応の政変を最も強く推し進めた人物は、政元の重臣である上原元秀でした。彼は政変実行のために伊勢氏と細川氏の間を取り持ち、政変当日は義材を捕らえるという大功を上げました。その結果として元秀は細川家で大きな力を持つことになりますが、政長の子・尚順を匿った疑いで住吉大社に放火するなどの勝手な振る舞いが目立つようになると、その年の10月に不満を持っていたとある細川被官と喧嘩して斬られ、その傷が原因で翌月に死んでしまいました。彼の時代はわずか半年で終わりを迎えたのです。天罰と思ったのか、彼は死の直前に住吉大社に謝罪しています。
そしてこの上原元秀が死んだことで、伊勢家と細川家の対立は表面化します。山城支配の強化を狙う伊勢貞陸が、畠山義豊の被官であった大和国人の古市澄胤(ちょういん)を守護代として招聘したのです。山城国人衆は余所者である古市澄胤を追放せんとする政元派国人と、伊勢派の国人とに別れて対立しましたが、結局合議を開いて国一揆の解体を決定しました。
しかし一部の政元派国人はこの決議に従わず、山城南部の稲屋妻城に篭って抵抗を続けました。これを鎮圧しようとする古市軍に対し、主君の畠山義豊は撤兵を指示しますが、伊勢家の支持を受けた古市軍はこれを拒否し、一年かけて国一揆を完全に鎮圧しました。
さて、この突然現れて守護代になった古市澄胤とは何者か、紹介します。端的に言えば、興福寺の僧兵です。当時の興福寺は武装した門徒によって大和国の事実上の守護となっており、古市澄胤はその衆徒の一派の長だったのです。 応仁の乱の最中は、大和で義就派の国人として活躍し、政長派国人と戦っています。
義就派国人、政長派国人などと言いましたが、具体的には古市家に加え、大和四家と呼ばれる国人が特に有力でした。大和四家とは筒井家、十市家、箸尾家、越智家のことを指し、越智家以外の3家は政長派に属し、越智家は古市家と共に義就派に属しています。
まずは筒井家から。筒井家も古市家同様、興福寺衆徒です。興福寺では常に大乗院と一乗院という二つの勢力が対立しているのですが、筒井は一乗院の、古市は大乗院の衆徒です。両家の対立を象徴する事件としては、1441年に筒井家の領土が興福寺大乗院門跡の経覚に奪われそうになった事件があげられます。筒井家当主の筒井順永と、経覚を支持する古市胤仙(古市澄胤の父)が胤仙が病死する1454年まで13年間も戦い続けました。応仁の乱では筒井家は政長派として戦い、1476年に順永が死去すると子の順尊が後を継ぎました。ところが終戦間際の1477年に畠山義就・越智家栄の大攻勢を受けて敗れ、筒井家は没落して順尊は京都へと逃亡しています。順尊は大和を回復しないままに京都で91年に死去し、子の筒井順賢が後を継ぎました。
順永ー順尊ー順賢
次に、十市家。十市家は、春日大社の神主の一族から出たといわれている国人です。この家も筒井家と同様に畠山政長を支持し、古市家や越智家と対立していました。応仁の乱では当主の十市遠清が東軍として古市澄胤や越智家栄と戦闘を繰り広げます。1477年に越智家栄に敗れると十市城に篭ったものの、1479年ついに京都へ敗走しました。1495年に遠清は死去し、孫の十市遠治が継ぎました。
次は箸尾家。箸尾為国もまた応仁の乱で東軍につき、1477年に敗れました。その後も残党を率いて越智家栄に対し戦闘を挑み続けますが、結局1487年に降参し、彼の配下となりました。以後は無名の一武将となったようです。
最後に越智家。越智家は上記3家とは違い、興福寺の支配下にはありません。現在の飛鳥のあたりを拠点とし、後南朝勢力ともつながっていました。応仁の乱では越智家栄が西軍の義就派として戦い、後南朝から小倉宮某を擁立するなどの活躍が見られます。戦後、彼は義就とともに筒井順尊、十市遠清、箸尾為国の連合軍に勝利して大和統一に成功しますが、その後は筒井家残党のゲリラに苦しめられることになりました。畠山義就が死去した後は後を継いだ義豊に引き続き協力し、1493年の足利義材・畠山政長による畠山義豊攻撃に巻き込まれると窮地に立ちますが、ちょうど明応の政変が発生し、一命をとりとめています。
(2017/1/17修正)
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