高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆と相次いで制した信長は1575年12月に事実上の天下人として右近衛大将に任じられると、厄年の42歳になったことから、家督を嫡男の信忠に譲りました。とはいっても、信長はその後も織田家を統括する立場であり続けます。
aduti





1576年1月、信長は六角氏の元拠点、観音寺城のすぐ近くで安土城の建設を開始します。両城は直線距離にしてわずか2キロですが、観音寺城が山城で防衛の拠点であるのに対し、安土城は平山城として統治拠点・権力の象徴としての役割が重視されています。安土城は地上6階の天守閣を誇り、これは当時としては最大規模となっていました。


さて、信長の残す敵は大阪の本願寺、加賀一向一揆、武田勝頼のほかに、丹波赤井直正や紀伊衆(雑賀・湯川・熊野など)となっています。1575年10月、越前一向一揆に勝利した信長は明智光秀に命じて赤井直正の討伐を開始しました。

この赤井直正は丹波国北西部の黒井城を拠点とする国人で、「丹波の赤鬼」というう二つ名で恐れられていた人物です。1570年には一度信長に帰順していたのですが、翌年に隣国但馬の山名祐豊と争うに及んで反織田方となっていました。勢力が隣接する丹波の波多野秀治や丹後の一色義道は織田方であったため、孤立する赤井直正の黒井城落城は時間の問題かと思われました。


ところが事態は簡単には進みません。3か月後の1571年1月、黒井城を囲む明智光秀の軍勢が突如波多野秀治の軍勢に襲われ、敗走に追い込まれたのです(第一次黒井城の戦い)。この際に一色義道や山名祐豊も揃って織田家に反旗を翻しました。


この事件には足利義昭と毛利家が絡んでいます。

まず当時の毛利家を説明します。中国地方の毛利氏は四国の三好氏と対立していた為、三好と敵対する信長とはもともと友好関係にありました。ところが1566年に宿敵尼子家を滅ぼし、1571年に再興を試みる尼子勝久が織田信長を頼ってからは関係が悪化します。織田信長は毛利氏の動きを抑えるために九州の大友宗麟をけしかけ、その支援の下で大内家復興の反乱が起きています。


そして対立に拍車をかけたのが足利義昭です。彼は1573年に京都を追われたのち紀伊国の湯川直春を頼っていたのですが、1576年に毛利家の備後鞆に移りました。彼は毛利家による上洛を期待し、毛利家の上洛を妨げる大友宗麟を抑えるため、竜造寺家や島津家に大友討伐を命じ、また全国の大名に手紙を出して第三次信長包囲網を作り上げました。三回目の参加勢力は毛利家の他に、本願寺・武田勝頼・上杉謙信・宇喜多直家らとなっています。波多野や山名はこれに呼応したのです。


 信長包囲網に参加した毛利輝元は早速海上から本願寺に兵糧支援を行い、顕如が畿内の信徒を集めて勢力を蓄えたため、信長は水路を断つべく塙直政・三好康長・根来衆の軍勢で本願寺木津砦の攻撃を開始しました。ところがこの5月3日の攻撃は雑賀衆の銃撃で敗北し、塙直政は戦死してしまいます。勢いに乗った本願寺は15000の兵で逆に織田軍の天王寺砦を包囲攻撃しました。

 天王寺砦を守るのは明智光秀です。彼は京都の信長に救援を依頼し、信長は7日に天王寺に到着しました。ところが急な行軍であったため、兵はわずかに3000しか集まっていません。15000の本願寺に対し、3000の信長。凡将なら退却しそうですが、信長は突撃を選びました。

 結果は大勝です。本願寺勢は3000人ほども殺害され、本願寺へと敗走していきました。以後、本願寺の兵は城から出てくることはなくなり、信長は優位を確定させたのです。 

 同じく一向宗の加賀でも柴田勝家率いる軍団の攻撃が順調に進み、本願寺の勢いは着々と失われていきました。