Honnoj
本能寺の変

1581年4月1日、天下統一が確実となった織田信長はその権勢を内外に知らしめるため、京都にて軍事パレードを実施しました。京都御馬揃えと呼ばれるこの儀式には織田家の一門を始めとして明智光秀や柴田勝家といった有力家臣、支配地域の国人、公家や坊主などが多く参加し、正親町天皇も招待され、内裏の中で大々的に行われたと伝わっています。



諸国に武威を示すのが一番の目的と考えられていますが、信長が正親町天皇に対して譲位するよう圧力をかけたのだとも言われています。信長は4月8日にも再び御馬揃えを実施して10日に左大臣に任命されましたが、あくまでも譲位を要求してこれを拒否しています。結局は朝廷が折れた(?)ようですが、5月3日に信長が突如譲位を翌年以降に延期することとしたため、何事も起こりませんでした。本能寺の変朝廷黒幕説の根拠になっている話です。


羽柴秀吉はこの御馬揃えには参加していません。彼は担当している中国地方の戦線にいて、いよいよ毛利家との直接対決を始めていました。まず標的となったのは因幡国鳥取城です。尼子再興軍の力を借りて城を手にしたにも関わらず、毛利家に攻められるとあっさり降伏した山名豊国が城主を務めていました。そして予想通り、1581年6月に秀吉に攻められた山名豊国はまたもあっさりと降伏します。ところが山名豊国は毛利派の家臣によって追放されてしまったため、鳥取城の抵抗は続きました。


毛利家で山陰方面を担当していたのは吉川元春であり、鳥取城にはその一族の吉川経家が入りました。秀吉は難攻不落の鳥取城を兵糧攻めにすることを決め、城下の米を高値で買い占めて海路・陸路による補給路を遮断し、さらに城周辺の農民2000人を城内に追いやっています。この作戦が功を奏し、鳥取城は8月に包囲を始めてからわずか20日にして兵糧を尽くし、飢餓状態に陥りました(鳥取の渇殺し)。10月16日、鳥取城へ兵糧を運び入れようとする毛利水軍を千代川河口の海戦で破ると、城は希望を絶たれ、死者の肉まで食い合うようになったと言われています。そして11月20日、3カ月にも及んだ籠城戦は終結し、吉川経家は自害して果てました。


秀吉は続いて三好康長の力を借りて淡路島の安宅信康(三好の一族)を服従させると、名将宇喜多直家が1581年3月に死去し、毛利家の猛攻にさらされていた宇喜多家の支援に向かいます。1582年4月、秀吉は直家の次男に「秀」の字を与えて(宇喜多秀家)合流し、連合軍の大軍は備中・備前で次々と毛利軍を撃破していきました。5月6日には毛利水軍を調略し、そして5月28日にはついに秀吉軍が清水宗治の備中高松城を包囲し、水攻めが始まりました。


これと同日、信長三男の織田信孝が高野山攻めを中止し、四国攻めの総大将に任じられました。それ以前は三好康長が大将だったのですが、本格的に攻め始めようということです。四国では土佐の長宗我部元親が1579年に讃岐・阿波の三好家を滅亡寸前に追い込んでおり、十河存保を中心とする勢力が細々と抵抗を続けていました。三好康長は1582年3月に遠征軍の先遣隊として阿波国へ上陸すると、元親陣営に裏切っていた息子の三好康俊を織田陣営に引き入れることに成功しています。圧倒的な織田軍の到来を恐れた長宗我部家からは旧三好家臣を中心に裏切りが続発したため、十河存保・三好康長の連合軍は攻勢に転じ、阿波東部の一宮城を落として橋頭保を形成しました。

信孝の兄、織田信雄は1581年10月に5万の軍勢を率いて伊賀国に攻め込みました。第二次天正伊賀の乱と呼ばれるこの戦では伊賀忍者の夜襲による損害が発生していますが、織田軍が数の力と調略によって勝利し、伊賀は平定されました。当時の伊賀に住んでいた人口9万人のうち、3分の1にも上る3万人が殺害されたと言われています。


続いて、甲州征伐です。当時、甲斐・信濃・駿河を支配していた武田勝頼は越後の上杉景勝と甲越同盟を結ぶなどして、かろうじて勢力を保っていました。しかし1581年4月、徳川家康によって遠江の高天神城が落城するとその権威はついに失墜し、1582年2月には信濃国西部の木曽義昌が織田家に裏切っています。この事件をきっかけに、美濃・尾張・飛騨の織田信忠軍団が武田領信濃への侵攻を開始し、徳川家康や北条氏政も駿河へと侵攻していきました。


武田勝頼は織田軍に対して抵抗らしき抵抗もできず、3月22日に高遠城が落城すると、信濃を捨てて甲斐に逃れました。そして3月26日には甲斐の拠点である新府城も捨てて甲斐南部の小山田家の領土に逃亡し、後を追う織田信忠は3月30日に甲府を占領しています。そして勝頼は4月1日に小山田家にも見捨てられて天目山に上り、4月3日に最後の戦いを挑みました(天目山の戦い)。奮戦したと伝わっているものの、衆寡敵せずして勝頼は敗北し、自害しました。これによって名門の武田家はついに滅亡し、関東の北条氏や奥州の伊達氏・葦名氏も織田家に恭順を示しました。

甲州征伐と同時並行して、4月3日には柴田勝家率いる北陸軍団が上杉家の越中魚津城を包囲し、さらに甲州征伐直後の6月17日には森可成が信濃から越後に攻め寄せました。そして越後北部では織田家に内通した新発田重家が反乱を起こしており、上杉家は瀕死の状態に陥っていました。


甲州征伐を終えて京都に凱旋した信長は、朝廷から征夷大将軍・関白・太政大臣のいずれかに就任するよう要請されたと伝わっています。しかし信長がどのような解答をしたかは不明であり、三職推任問題として今も謎に包まれています。

6月5日、織田信長は甲州征伐の戦勝祝いとして安土城に宴会を開き、明智光秀が接待役として徳川家康をもてなしています。三日間の宴会の後、備中高松城攻めを行っていた秀吉からの援軍要請を受けた信長は光秀の接待役の任を解き、一足先に備中に向かうよう命じました。織田信長は光秀による接待の内容に不満があって怒鳴ったとか、その際に信長側近森蘭丸が調子に乗って光秀の禿頭を叩いたのだとか言われていますが、真偽のほどはわかりません。織田信長自身も中国へ向かうため、6月19日京都の本能寺に入りました。


そして1582年6月21日の夜、備中に向けて進軍していた明智光秀が突如引き返し、本能寺を襲いました。明智軍は1万人に対し、本能寺の信長はわずかに57人。多勢に無勢であり、信長は死亡しました。その遺体は見つからなかったと言われており、生存の可能性が否定されるわけではありませんが、たとえ生存して農村で余生を過ごしていたとしても、歴史的には死んでいます。

本能寺から北に1㎞のところに泊まっていた織田信忠は、この事件に気づいて本能寺に向かおうとするところを京都所司代の村井貞勝に無謀であると諫められ、共に二条城に入りました。また信忠は、明智光秀が信長の死体を確認できずにパニックに陥っていた間に女人や天皇・親王を安全なところに避難させています。そして朝を迎え、信忠自身も脱出すべきかどうかを悠長に議論していた最中に、城は明智勢に囲まれてしまいました。二条城の信忠の元にいたのは1000人ほど、明智軍は1万であったと言われています。正午に攻撃が開始されてから一時間程度で落城し、織田信忠や村井貞勝は自害しました。

しかしどうやらこの包囲は甘かったようで、織田信忠の介錯を行った鎌田新介は「追腹しようかと思ったが、どうしたわけかしなかった」と述べて脱出し、また信長弟の織田長益も「ここで死ぬのは犬死と思い脱出した」などと言って生き延びました。京都の町人は長益の行動をあざ笑い、落首が読まれたようです。


光秀が本能寺の変を起こした理由としては、野望説・怨恨説・朝廷黒幕説・足利義昭黒幕説などの多くの説が唱えられています。Wikipediaには56説も載っていましたし、光秀の子孫は明智光秀無罪説を唱えているようです。個人的には朝廷黒幕説が一番ありそうだと思っています。信長は歴史ある比叡山や高野山さえも攻撃するような危険人物であり、しかも当時は朝廷の重職を拒否して譲位さえ要求していましたから、いつ何が起こっても不思議ではない、と考えて先手を討ったのかもしれません。


いずれにせよ、織田信長・織田信忠は死にました。軍団統治されていた織田領はカリスマを失って瓦解し、かつての三好家のように内部分裂を起こしていきます。