本能寺の変から一か月弱が経過した六月二十七日、柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興・羽柴秀吉の四名による清須会議が催されました。彼らは織田家の後継を、対立する信雄か信孝ではなく、信忠嫡男の織田三法師秀信とすることで合意し、秀吉は光秀討伐の功によって新たに河内・山城・丹波を勢力下に収めました。また信雄には尾張国、信孝には美濃国、勝家には越前と北近江、長秀には若狭、恒興には摂津が与えられています。

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賤ケ岳の戦い合戦図

甲斐の河尻秀隆は十八日に武田家旧臣に殺害され、上野にいた滝川一益は六月十九日の神流川合戦で北条氏に大敗を喫し、信濃の森長可は二十四日になんとか美濃に帰還したという状況であり、彼らの会議参加はありませんでした。これによって東方での織田家の力は大きく削がれることとなり、空白地帯となった信濃・甲斐・上野には徳川家と北条家、上杉家が侵入して天正壬午の乱が発生し、秀吉は七月七日に家康に三国の領有を認めています。その後、八月十二日に家康が多勢の北条氏を黒駒合戦で破ると戦いは膠着し、結局10月まで続きました。


光秀に与した旧守護大名たちは、七月十九日に若狭武田元明が自刃、八月に近江京極高次が降伏、九月八日に丹後一色義定が自刃して、そのすべてが討伐されました。京極高次は武田元明に嫁いでいた妹の竜子を秀吉の側室に差し出して命を助けられ、のちにはお市と浅井長政の娘、初の夫として優遇されることになるため、「蛍大名」と揶揄されたらしいです。


四国では劣勢にあった長曾我部元親が反撃に転じ、八月二十八日に中富川の戦いで三好勢に大勝して三好康俊を討ち取り、九月二十一日には阿波細川家の拠点としての歴史を持つ勝瑞城を十河存保から奪いました。十月には秀吉が仙石秀久の水軍を派遣して三好勢を援護するも失敗し、十月八日には阿波細川家最後の頭首、細川真之が殺害されました。しかし彼は長曾我部に殺されたとも十河が殺ったともいわれており、真相はわかりません。三年後に秀吉による四国攻めが行われるまで、長曾我部元親は順調に勢力を伸ばしていきました。


さて、清須会議で後継と定められた織田秀信は岐阜城の織田信孝が手元に置くこととなり、また信孝は秀吉に対立する柴田勝家や長宗我部元親、紀伊衆、越中の佐々成政を味方につけました。十月には柴田勝家とお市の方との婚姻を仲介しています。信孝に対立する羽柴秀吉は織田信雄や丹羽長秀らと組んで十月十一日に京都で信長の葬儀を催し、十月末に徳川と北条の和睦を結ばせると、十月二十八日に連名で清須会議の放棄を宣言し、戦闘行動を開始しました。

まもなく冬になろうという季節では越前の柴田勝家は動けず、前田利家と金森長近を秀吉の元に派遣して和睦交渉を行いました。残念ながら交渉は決裂し、秀吉は12月2日に柴田勝豊から長浜城を奪うと、12月20日に織田信孝を攻めて降伏させています。翌年の1月には伊勢で滝川一益が挙兵するも柴田勝家はまだ動けず、3月12日になってやっと近江国賤ケ岳に至りました。秀吉は織田信雄を伊勢に残して3月19日に近江に布陣し、秀吉に味方する丹羽長秀も敦賀に軍勢を置きました。

4月16日に織田信孝が再挙兵し、秀吉が翌17日に美濃大垣城へ移ると、19日に賤ケ岳の戦いが始まります。最初に攻撃をかけたのは柴田勢の佐久間盛政であり、秀吉軍の中川清秀を殺害、高山右近を敗走させ、近くにいた秀吉軍の桑山正晴を撤兵に追い込みました。

こうして始まった賤ケ岳の戦いですが、わずか2日で終結します。翌4月20日、撤退中の桑山勢に丹羽長秀が合流して反撃を開始し、秀吉が大垣から戻ると、柴田軍の前田利家・金森長近が離脱して佐久間勢は敗走し、柴田軍はそのまま総崩れとなったのです。4月23日に本拠地の北庄城へ逃れた柴田勝家は、24日にお市とともに自害して果てました。わずか半年程度の結婚生活でした。


柴田勝家に味方した織田信孝は信雄によって29日に殺害され、佐久間盛政は5月12日に処刑されました。柴田勝家に上洛支援を依頼していた足利義昭やその庇護者である毛利家はこれを機に秀吉に臣従し、秀吉は織田家中での覇権を確かなものとしました。柴田勝家の旧領は越前が丹羽長秀に、加賀が前田利家に与えられ、池田恒興は摂津から美濃へ異動して、摂津を獲得した秀吉は大阪城の築城を開始しています。同じく5月には秀吉が参議に任じられ、出自不明の彼はついに公卿の一員となりました。