
2023年7月17日朝の、近所に位置する三若台若中会会所。一番忙しいお弁当作りを終えて休憩中の皆さん。朝6時頃から詰めかけて、祇園祭で神輿にご奉仕される駕輿丁と呼ばれる人々へのお弁当を拵えておられました。

ご飯粒を残したまま日光消毒。「戦い
済んで」の気配が漂ってきます。

これは、昨年7月24日祇園祭後祭の日の朝の様子。

おにぎりを包む筍の皮がたくさん見えます。殺菌力がありますから、猛暑の祇園祭には持って来いの先人の知恵。全て男性ばかりで、女人禁制。好奇心を抑えきれず、許可を得てぎりぎりまで近づいて見せて貰いました。
目的は、このおしゃもじを見ること。以前新聞記事で独特の「四角いおしゃもじ」の文言を読んでから、ずっと自分の目で「どんなものか見たい」と思っていたのです。男性が使うためか、大きなおしゃもじですね。願いを叶えて下さってありがとうございました‼

昨年は「1000人分を作る」とお聞きしたのですが、大変な数ですね。来週24日の還幸祭の日も同じように早朝から作られるのでしょう。

さて、京都三条会商店街をずっと東に向かって歩きながら、新町通との角を右折して進みます。目的地はいつも親切にしてくださっている放下鉾会所(中京区新町通四条上る)で、鉾が帰ってくるのを見る事。
新町通を南へ少し歩いた京町家二階から、浴衣姿の可愛らしい兄妹の姿を見つけてパチリ。金屏風と緋毛氈が合いますね。祭り見学の特等席。

めざす放下鉾会所で、キビキビ動く女性たちの姿を幾人も見かけました。鉾をそこに住む人々だけで維持するのは、もはや困難で、知り合いに声を掛けるなどして後継者を育成して維持されています。女性は直接鉾に乗ったりはできませんが、様々な手伝いをしてくださる方が十数人おられるそうです。写真の彼女もその一人で、伊賀の女忍者だそうです。皆さん、ボランティア。放下鉾のTシャツを着たスタッフさんがおられて格好良いと欲しく思いましたが、完売だそう。来年は早い目に来て、ゲットしたい。こうした売り上げも、祭り保存に役立ちます。

会所の前に置いてあったカケヤ。許可を得て持たせていただきましたが、樫の木で見た目以上に重いです。大きな鉾の車輪の下に押し込んで操作する時に使いますが、これは予備で、同じものを鉾に積んで巡行しています。

放下鉾に乗り降りするための階段が、青い夏空に聳えています。

9時から始まった山鉾巡行ですが、12時を過ぎて、漸く新町通を南下する長刀鉾が遠くに見えてきました。予定をだいぶ過ぎているようですが、待ちくたびれるぐらい待ちました。これからしんがりの放下鉾が到着するまで2時間半はかかるでしょう。

先頭で帰りゆく長刀鉾が、放下鉾会所前に到着。12時24分とゆっくりした歩みです。猛暑で下からの照り返しも強く、どの役目ひとつとっても大変な忍耐を要します。

先ほどのカケヤとテコで車輪を調節。

こちらは函谷鉾。新町通は道幅が狭く、電柱が多く、飛び出している看板もあって、大きな鉾が進むには危険が一杯。電線に引っかけないよう黄色の覆いで保護されていますが、屋根に乗っている屋根方さんの技術が、この通りでは一番大事かと。昨年、大船鉾の屋根方さんにお話を聞いたこともあり、私の山鉾巡行見学一番の注目は屋根方さん。自分が高所恐怖症だから、なお一層格好良く思えます。

草鞋の紐が切れたまま鉾を引っ張っている人も。足にテープを巻くなど工夫されていましたが、歩きにくいでしょうね。アスファルトの温度は如何ほどでしょう。函谷鉾は四条烏丸西の会所までまだ距離があるので、本当に大変だと思います。

その函谷鉾が放下鉾会所の前を行きます。青い空に、赤や金色の装飾が映えて本当に美しく、一つ一つが豪華です。町衆の人々が、大切に保存し、どうしても劣化した懸想品などは、復元に向けて並々ならぬ覚悟でもって取り組んでおられます。全くもって頭が下がる伝統行事です。

次に続く郭巨山の巡行責任者の方が、放下鉾の代表者に挨拶し、チマキを贈ります。放下鉾代表者の方は、広げた扇子の上でそれを受け取ります。各山鉾で同じシーンがありました。

トサカの色に合わせて引手の笠も赤い鶏鉾がやってきました。
観光戦略もあって、祇園祭と言えば、この山鉾巡行がメインになっていますけれど、あくまでも祭りの主は八坂神社の三基のお神輿の渡御で、そのお渡りの浄めをするのが山鉾巡行なんです。どの鉾の先端も金属でキラキラ輝いて、鈴も付いています。その輝きと音で洛中を巡行しながら厄神たちを集め、美しい懸想品で山鉾を飾り、笛や鉦、太鼓の音色でもてなします。

音頭取りの水色の着物が映えます。

鶏鉾が放下鉾の階段の傍を通ります。屋根方さんも注意して通過。鶏鉾の懸想品に描かれた船の帆が緑色なので、青竹を用いて編んだ帆ではないかと思って夢中だった日々も、今は昔。

一緒に見ていた人から「声を掛けたら、カマキリさんが動いてくれる」と聞いて、一緒に「動いてぇ~💗」と声を掛けたら、その願いが聞き届けられて、からくりのカマキリさんが動いてくれました。
毎年楽しみな蟷螂山の手ぬぐいデザインですが、今年はtupera tuperaさんだったのですね。時間が無くて授与品頒布期間中に行けなかったのが残念。

月鉾の屋根方3人ともが東側屋根に集まって、突き出た看板に鉾が当たらないようにしています。新町通は狭いので気を抜くことが出来ませんね。見ている方も「大丈夫かなぁ」とハラハラして見ています。四条通などの大通りを“動く美術館”といわれるように、堂々と進む姿も良いのですが、新町通を行く鉾を見守るのも、とても良いものです。

船鉾は形が好きです。7月5日付け京都新聞に「鉾」の読み方は「ほこ」か「ぼこ」かという記事が載っているのを思い出しましたが、幟に「ふねほこ」と読み仮名がふってありますね。
記事によれば、1992年6月に山鉾連合会と八坂神社が記者会見して「来年度からすべて『ほこ』に統一すると発表したそうです。でも、うっかり写真を撮り損ねましたが、函谷鉾の先頭で掲げる幟には「かんこぼこ」と読み仮名が振ってあるそうです。「気心が知れた囃子方同士の会話では、ほぼほぼ『ぼこ』です」と記者の質問に答えた代表の方もおられました。記事は「連合会が決めたことが、すなわちそれぞれの鉾にとっての常識として定着しているわけではない。『うちの鉾が一番』と信じ、誇り高くも難しい町衆の気質の一端に触れた気がした。」と締めくくっています。

そして、漸く遠くに放下鉾が見えました。長く待ちました。代表の方がその到着を待って道の中央にスタンバイ。見守る皆さんも、同じ思いで、遥かな放下鉾を見守っています。

14時45分、放下鉾が会所前に無事戻ってきました。猛暑の中、皆様無事に戻られて本当に良かったです。

稚児人形“三光丸”の真下に金色も鮮やかな“下水引”が見えますが、今年の巡行に間に合わせて8年をかけて新調されたもの。俳人で画家の与謝蕪村(1716-83年)の下絵を基にした絵柄が鮮やかに蘇りました。江戸中期の1779(安永8)年に町が蕪村に依頼して制作されたことが蕪村の書状から判明しているそうです。1908(明治41)年に修理が行われていましたが、糸の擦り切れ等が目立ち、今回の復元新調に。晴れた日のお披露目になって良かったですね。挨拶の最後に居合わせた皆さんで三本締めをして、放下鉾の巡行を称えました。良い瞬間に立ち会えました。“三光丸”の舞が披露されたので、その様子を動画で撮影しました。

余韻に浸る暇もなく、放下鉾は、直ちに鉾の解体に着手。

巡行して街中の悪なるものを集めてきたので、それをいち早く片付けて厄神たちを祓います。
19日京都文化博物館で江戸時代後期の放下鉾模型と1876(明治9)年の「紅地壁縮緬三国志模様 祇園祭放下鉾稚児衣裳」などを観てきました。1929(昭和4)年から稚児人形“三光丸”が勤めていますが、それ以前は男児の稚児が乗っていました。その生き稚児が着ていた赤い美しい衣装で、両袖に刺繍で「三国志」の“桃園の誓い”の情景が描かれていました。放下鉾の模型は上京区の旧家が持っておられたもので、毎年祇園祭宵山の屏風祭りで飾られていたそうです。放下鉾の象徴である日と月と星の三光を表した鉾頭も再現された大きくて、立派な模型でした。

おもちゃ映画ミュージアムでは7月30日まで、「祇園祭 所蔵映像と資料展示」ということで、映画『祇園祭』(1968年)に関する資料や、最古の山鉾巡行の映像などの他、NHKドラマ「京都人の密かな愉しみ」で林遣都さんが着用した放下鉾の浴衣なども展示しています。後祭見学の足を延ばして、ぜひ見に来てください‼
20日大阪管区気象台は近畿地方が梅雨明けしたとみられると発表しました。平年より1日遅く、昨年より3日早いそうです。夏本番ですね。にわか雨など心配しましたが、24日の後祭も天候に恵まれて、無事に催行されることを祈ります。