歴史探訪京都から

-旧木津川の地名を歩く会-

師走の風物詩、吉例顔見世興行の「まねき上げ」見学

おもちゃ映画ミュージアムの活動を通して知り合った井上優さんから教えて貰い、11月25日、師走の風物詩「吉例顔見世興行」の「まねき上げ」を初見学しました。一説には新聞の夕刊締め切りに間に合わせるように、最近は午前9時から式典が行われるそうですが、今年は9時半から開始に変更。
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9時前に南座(京都市東山区)に到着した時には、マスコミ各社と見物人で既に人だかり。
DSC08539 (2)口上は、本来なら11月30日の初日を迎えたら扉の内に入れられるそうですが、南座が耐震改修に向けて休館中で、今年は先斗町歌舞練場で移転開催されのに伴い、12月25日千秋楽を迎えるまでこの場所にずっと置いておかれるのだそうです。

口上にもあるように、今年は七代目中村芝雀さんが、五代目中村雀右衛門を襲名されたことが話題。この看板を見て知ったのですが、「まねき」は漢字で「庵看板」の文字で書くのですね。

写真では小さくて見にくいのですが、ずらりと並んだ「まねき」の下に掲げてある絵が、今年の演目。右から第1部=源平布引滝「実盛物語」、仮名手本忠臣蔵「道行旅路の嫁入」(劇中で雀右衛門さんが襲名口上を述べられます)▼第2部=菅原伝授手習鑑「車引」、「郭文章」(通称「吉田屋」。この劇中で雀右衛門さんが襲名口上を述べられます)、「三升曲輪傘売」▼第3部=双蝶々曲輪日記「引窓」、「京鹿子娘道成寺」。今年は史上初めての三部作公演となっています。
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式典で「顔見世興行は戦争中も途切れず続けた」と挨拶されました。伝統を守ろうとする強い意志と努力が、今日「師走の風物詩」と修飾される伝統行事になっているのですね。

「まねき」は前夜から上げ始められました。数えたら32枚が役者さんの、4枚が囃子方連中、常盤津連中、長唄連中、竹本連中と、計36枚が既に上がっています。
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そしていよいよ9時半、37枚目の「まねき」上げ始め。工務店の人が足場にスタンバイして下から上へ、2段目から3段目へ手渡しで運びます。
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そして向かって右端に片岡仁左衛門さんの「まねき」が上がりました。これで俳優33枚が揃いました。

この「まねき」の文字は独特で、勘亭流(かんていりゅう)と呼ばれる書体。肉厚で隙間のない勘亭流は、空席が少ないことに通じるというので興業関係で使われています。

今ミュージアムで展示している手書きのポスターは 、南座の「まねき書き」初代竹田猪八郎さんの手によるものです。ミュージアムで委託販売をしている『京都繁華街の映画看板“タケマツ画房の仕事”」の文言を引用すると、「タケマツの若手が木製のバットをスリコギ代わりに使ってすり鉢で削り墨を摺る。板に跨る様にどっかりと腰を掛けた猪八郎は、それに太い筆をたっぷりと浸し的確な筆さばきで書き上げる」(29頁)。
DSC08543 (2) 今、勘亭流を書いておられるのが4代目として受け継ぐ井上 優さん(写真)。今年3年目だそうです。10月の末ごろから墨の用意をして、某寺に籠って、これらの「まねき」を書き上げられました。前掲の本によれば、竹田猪八郎さんが書いておられた頃で、最も盛んな年には200枚近い看板が南座の正面を覆い尽くしたそうです。今年は前述のように、南座の耐震工事があることから、例年よりも少なかったようです。 

実際に勢揃いした「まねき」を見上げると、「凄いなぁ‼」 の声が自然と出ます。20代の頃、井上さんは竹田猪八郎さんの「タケマツ画房」で看板を書いておられました。そのことから縁を繋いでいただいて、ミュージアムでたくさんの手描きポスターをお預かりすることになり、皆さまにご覧いただけるようになりました。
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南座支配人さんが、劇場に向かって右、左、そして中央に塩を撒き、続いて見学者にも塩が配られ、ひとつまみを手に、合図に応じて、南座正面に向かって撒きました。期間中の興業の無事と成功を祈る儀式。私も皆さんに混じって塩を撒かせてもらいました。

 本来なら、南座最上部の櫓、二つの梵天の間に、「吉例顔見世興行」と書かれた「興業まねき」が掲げられるのですが、
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今年は、場所を変えて開催されるので、「興業まねき」は、劇場の人が担ぐ駕籠で歌舞練場まで運ばれました。珍しいことでもあり、行列の後からついて歩きました。
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南座を出発した駕籠は、四条大橋の上を進みます。
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四条通りを横断し、花街、先斗町の小路を歌舞練場に向けて練り歩き。録音したものではありますが、お囃子の音色が賑やか。

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そして、歌舞練場に到着。華やかな衣装の舞妓さんたちがお出迎え。
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駕籠から「興業まねき」をおろし、工務店さんがロープをかけます。そして上へ引き揚げられ、








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梵天はありませんが、歌舞練場正面に、「興業まねき」が無事掲げられました。




井上さんが勘亭流で書かれた「まねき」は、総数38枚。12月25日の千秋楽まで、南座と歌舞練場で掲げられます。



歌舞練場の鬼瓦を初めてゆっくり眺めましたが、なかなか愛嬌がある表情ですね。



そうして裃姿の支配人さんが、歌舞練場でも三方向に塩を撒き、
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続いて舞妓さんたちが塩を手にし、
塩を撒いて場を清め、最後に1本締めをして、10時40分ごろ、無事に式典が終了しました。
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イチョウやカエデなど季節の簪をさした舞妓さんたちの艶やかさ。

井上さんに教えてもらったおかげで、南座と先斗町歌舞練場の2か所で式典を見学でき、しかも、先斗町を駕籠行列する様子も見学できて、本当に幸運でした。

井上さんは、「まねき」書きに続き、この日もテレビ局の取材を受けておられ、その様子は11月28日(月)、毎日放送「ちちんぷいぷい」の番組内で放送されるそうです。早速録画予約しました。視聴可能な方は、是非にご覧ください‼

第44回例会「鷹ケ峯辺りの散策」

11月の声を聞くと同時に、各地から初冠雪の便りが届きました。今日は肌寒い一日でしたが、明日はもっと寒くなるそうです。なかなか布団から抜け出しにくい冬が、もうすぐ目の前にスタンバイ。気のせいか秋が短くなっているような。そんな折り、「木津川の地名を歩く会」を引き継いでくれている仲間から、恒例の紅葉狩りウォーキングの案内が届きました。細々ながらも探訪ウォーキングを重ね、今回で第44回目を数えることに。

第42回例会では、休館日に設定してくれたので、久々に参加しようと楽しみにしていたのですが、当日朝、電車に乗ろうと急いでいて、近鉄新田辺駅エスカレーター手前の雨で濡れた床で、滑って仰向けに転倒。背負っていたリュックのおかげで頭を打たず、手足の打撲で済みましたが、近くにいた人がそのはずみでポールに頭を打って瘤ができるというアクシデント。駅に届け出、病院へ、警察へ届けるやらでワタワタし、もちろん例会に参加できるはずもなく、いろんな人に迷惑と心配をかけました。そのアクシデントの解決に5か月もかかるとは、その時想像だにせず…。いろんな人が世の中にはおられるのだと思い知らされました。「急いては事を仕損じる」、余裕を持って出掛けることを肝に銘じました。そして、こういう時のために保険があるのだとも知りました。

第43回例会は、奈良の秋篠寺から西大寺、喜光寺などを探訪するウォーキング。仲間の報告によれば、西大寺奥の院の叡尊塔を見学している時、体性院の寺男の方が奥の院本堂を開けてくださり、休憩場所を提供してくださったのだとか。地蔵菩薩を拝願し、お抹茶もいただいて、ご親切に皆で「ありがたいことだなぁ」と感激したと綴っています。2011年10月の第21回例会で亀岡市内を歩き、金剛寺(応挙寺)を拝観した時にも、同様にご住職ご夫妻に大変親切にしてくださったことがあります。そうしたありがたい思い出は、いつまでたっても忘れられないもの。観光に力を入れているはずの京都市内のお寺では、なかなかそういう体験は…。

さて、第44回目の例会は、紅葉の名所、鷹ケ峯の本阿弥光悦ゆかりの地を歩く内容です。実施日は11月16日、紅葉狩りに丁度良いころかもしれませんね。

◎実施日:11月16日(水曜)、小雨決行。
◎集合時間と場所:地下鉄北大路駅南口地上に出たところ。
◎コース:北大路バスターミナルから北1佛教大学・玄琢行きに乗車。鷹峯源光庵で下車。
 ①常照寺(要拝観料300円) ②源光庵(同400円) ③光悦寺と洛北の秋庭園(同300円) ④光悦屋敷跡
 ⑤御土居跡 ⑥鷹峯薬園跡 ⑦今宮神社 ⑧大徳寺本坊(同800円)。
昼食は御土居跡を見学した後、付近の公園で。紅葉を楽しみながら広げるお弁当は最高でしょうね。雨具、参加費100円、交通費、拝観料は自費で。

ミュージアム開館日ですので、今回も参加できませんが、好天に恵まれるよう、いつも通り、テルテル坊主さんを下げて祈りましょう。私にできるのは、これぐらいしかありませんから。12月3日には、忘年会が城陽市内で計画されているようなので、これには万難を排して参加するつもりです。その時に、紅葉狩りの報告が聞けることを楽しみに待つとしましょう。





 

アケビ

前回から2か月も更新していない。その間にグリーンカーテンにしていたアケビはグングン蔓を延ばし、そこらじゅうをグルグル巻きにしてしまうため、その先端を切る作業だけは忘れずにしてきた。そうしないと、えらい目にあってしまう。フジ同様に、もの凄い生命力なのだ。その甲斐あってか、昨年は1個だけの収穫だったが、今年は何と8個も実った。
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不思議なことに、今年は蝶番のように2個並んで実を付けたのが3組あった。
    
DSC07880つい先日までは、まだ緑色の大きなそら豆のような実だったが、日ごとに薄紫色にほっぺを染めるようない色合いに。やがて、縦に一筋切れ目が入り、裂け目から黒い種をたくさんくるんだ白い果肉が見えてきた。

もうそろそろ食べ時かと、昨夜一個をハサミで切り、スプーンで口に。

ややねっとりとした果肉はほのかに甘く、子どもの頃食べた記憶が甦ってきた。一緒に食べた下の兄は、もうこの世にいない。ツーンとくる思い出の味。

今朝ゴミ出しに行ったら、私が勝手に「植木のお師匠はん」と呼んでいるご近所さんと久しぶりに出会った。

「あんた、アケビなっているの知ってるか?もう食べんと鳥がやってきてみんな食べられてしまうで」

「うん、わかっている。今年はぎょうさん生ったわ。食べはる?」

「いや、アケビやイチジクみたいにツブツブのあるもんは嫌いや」

子どもの頃庭に大きなイチジクの木があり、たくさん実をつけたが、余り美味しいと思うことはなかった。それが、年を取ってから大好物になった。「木津川の地名を歩く会」を立ち上げ、イチジクが特産の城陽市内の人たちと交流するようになってからのことだ。

アケビは、確かにたくさんある黒い種が面倒で、実際に食べられる果肉はちょびっとしかない。「たらふく食べた」というものでは決してない。それでも「秋を味わった」という幸福感が私には感じられる。
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写真を撮ろうとまじまじとアケビを見ていると、不意にこれまで思いもしなかった事柄を連想してしまって、一人赤面してしまった。

ネットで歌がないかと検索したら次のような都都逸がヒットした。

「山のアケビは何見て開く 下の松茸見て開く♪」
 
かの牧野富太郎先生も「アケビ」の項で「その口を開けたのに向かってじいっとこれを見つめていると、にいっとせねばならぬ感じが起こってくる。その形がいかにもウーメンのあれに似ている。その形の相似でだれでもすぐそう感ずるものと見え、とっくの昔にこのものを山女とも山姫ともいったのだ」と書いておられる。 

昔の連歌に、山女すなわちアケビを見て「いが栗は心よわくぞ落ちにけるこの山姫のゑめる顔みて」があり、歌の返しに「いが栗は君がこころにならひてや此山姫のゑむに落つらん」というのがあり、人の微笑する姿に比せられることもあったようだ。微笑している人の顔に似ているのを見て、いが栗が心打たれて枝から落ちたと。こちらの見方の方がホッとしますね。

アケビは本来この果実の名称で、植物としていう場合は、アケビカズラというのが正しく、我が家のアケビのように三葉のものは「ミツバアケビ」、五葉のものを単に「アケビ」といって植物学会では区別しているそうだ。ミツバアケビの方が紫が美麗で形が大きく、食用には五葉のものより良く、しかも蔓細工で籠を作るにも適しているとのこと。今朝は生ごみの日で、慌てて柔らかで肉厚の皮を捨ててしまったが、牧野先生の書かれたものを読むと、油でいためてから味付けをすると、風流な味わいだそうだ。実の皮は「肉袋子」という名の薬剤として薬屋で売っていたともある。

果実を食べて良し、蔓を編んで良し、皮を食べて良し、皮を煎じて薬に良しと、良いこと尽くしのアケビと今頃知った。明日はアケビをおもちゃ映画ミュージアムに持っていって、飾っておこう。小さな秋を楽しんで貰いたいから。アケビのことを知らない人も、たくさんおられるだろうな。過ぎ去りし故郷の思い出に浸りながら、にわか知識を教えてあげたい。

 

桂花團治の会と天神祭宵宮祭見学

7月24日午後、Facebookで繋がっている米国から訪ねてくださったお客様に申し訳ないとお詫びしつつ、急ぎ大阪天満天神繁昌亭へ。親しくさせていただいている活動弁士の大森くみこさんや坂本頼光さんが出演されている有名な館に入るのは初めて。この日17時から開場される第1回桂花團治の会が開催され、連れ合いの名代として一人、出かけて参りました。
DSC05825DSC05846 昨年4月26日に、それまでの桂蝶六から上方落語の名跡「三代目桂花團治」を襲名されました。由緒ある名跡が70年ぶりに復活。池田市で行われたその襲名披露の舞台の案内も受け取っていたのですが、4月1日に連れ合いの左耳が突発性難聴になって失聴してしまい、参加を断念したいきさつがありました。

その後5月にミュージアムを開館したときには応援メッセージも頂戴しました。いつか直接お目にかかって、その時のお礼を申したいと思っていましたので、良い機会となりました。

なかなかお忙しいようで、ミュージアムにはまだお越しいただいてはいませんが、いずれ落語の会もしていただければと秘かに思っていますので、終演後にそのことも直接お願いしてきました。実現すると良いなぁと思っています。

会場周辺は、天神祭を楽しむ人でごった返し。長い天神橋筋商店街は芋の子を洗ったよう。でも、繁盛亭の前は、まだ余裕が。それもそのはず、チケットは既に完売。人気の程がうかがえます。

この日の演目は、「皿屋敷」と桂三枝さん作「お忘れ物承り所」。特別ゲスト桂春若さんの語りは、さすが‼でした。他に囃子座(滑稽音曲)の3人と森乃石松さんも。
DSC05827DSC05828まだ開場には時間があるので、隣の大阪天満宮の境内へ。何度かこの時期に訪れたことはあるのですが、お祭りはいつも心浮き立つものがあります。

大阪天満宮の天神祭は、京都の祇園祭、東京の神田祭と並んで日本三大祭に数えられています。また、生玉神社の生玉夏祭、住吉神社の住吉祭と共に大阪三大夏祭の一つ でもあります。

24日は宵宮。 立派な「登龍門」の前を通って賑やかな囃子に引かれるように歩を進めます。天満宮は天保8(1837)年の大塩の乱で本殿や多くの社殿が焼失しましたが、弘化2(1845)年に再建されました。

「登龍門」の言葉は良く耳にしますが、「龍門」の語源は、中国の黄河上流にある登龍山を切り開いてできた急流のことで、その下に集まった鯉のうち、多くは登りえないが、登ることができれば龍となるという伝説から、この関門を登ることが立身出世への道になるという意となっています。

開かずの門だとばかり思っていましたが、初天神梅花祭(1月24、25日)に限り、この唐門が開けられて、受験生対象に難関通り抜けを祈願する「通り抜け参拝」ができるそうです。
DSC05829DSC05834地車の前で、地車囃子(だんじりばやし)のアップテンポなリズムに合わせて、女性の舞手が踊っています。
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地車の奥「へたり」 で親太鼓、雌・雄の鉦、小太鼓が賑やかな囃子を奏でています。私も吸い寄せられるように人込みの中へ。

ネットで調べると1990年代前半までは、動かずに飾りものでしかなかった三つ屋根「地車」でしたが、そこを舞台に組み込んだ「へたり」で踊りがメインの奉納へと変化したのは、新聞、雑誌、テレビなどのマスメディアが「地車囃子の踊り」を取り上げ、話題を集めたことによるそうです。連動して地車囃子の音楽も広く親しまれるように。

マスコミによって女性の舞も「龍踊り」の呼称が一般化したとか。とっても暑い日でしたが、指を龍に模して、陶酔しているかのように舞っておられたのが印象的でした。
 
DSC05841DSC05844獅子舞の獅子に頭を噛んで貰って、無病息災を願う女の子。

福牛の秋夫君(8歳)も、明日の行列に備えてスタンバイ。

DSC05855満員の天満天神繁昌亭で、落語を楽しんだ後、もう一度大阪天満宮の境内へ。天神橋商店街だけでなく境内周辺にもたくさんの夜店が出ていて賑やか。

またもや地車囃子に誘われて「龍踊り」を見に行きました。すっかり暗くなっていましたが、人出はさらに増えて大賑わい。折しも、以前から一度見てみたいと思っていた催太鼓(もよおしだいこ)も実見できました。

催太鼓は、天神祭の陸渡御の先頭を切る枕太鼓台で、「願人(がんじん)」と呼ばれる若い男性が、3人ずつ向かい合って6人1組になって大太鼓を囲むように座り、叩きます。長く赤い布が垂れ下がった「投げ頭巾」が目を引きます。背中に背ブチと呼ばれる木の棒を背負っています。太鼓の演奏方は独特で、大阪府の無形民俗文化財(記録選択)。DSC05858

DSC05862DSC05871この日は、巡行を見られず、確認できていませんが、太鼓の担ぎ手は、太鼓台の下に挟んだ丸太を軸にしてシーソーのように揺らしながら進み、太鼓台に乗る「願人」は落とされないように縄にしがみつき、「投げ頭巾」が落ちないように気をつけながら太鼓を叩き続けるのだそうです。これを「からうす」といい、縦に揺れる「縦からうす」と横に揺れる「横からうす」があるとか。機会があれば、ぜひ見てみたい。

2009年に夢中になって、参加した御迎人形のスタンプラリーのことを思いだしました。後にそのことも含めて書いたことを思い出し、久々に読み直しました。「願人」を見たいと思っていたのは、5年も前からなんですね。御迎人形は、何度見ても見飽きることはありません。
 
桂花團治さんの落語会が、天神祭の宵宮に設定してくださったおかげで、楽しい落語を堪能し、5年越しの「願人」を実際に見ることが叶いました。

 この日夜はミュージアム傍の京都三条会商店街でもお祭りがあり、連れ合いはお客さまと一緒に見学したそうです。

そのお祭りは、祇園祭・還幸祭で、毎年7月24日17時ごろから始まります。四条御旅所に滞在していた神様が乗る三基の神輿が、それぞれ所定のコースを経て、神泉苑の南にある三条又旅社で神饌を供える「奉饌 祭」が執り行われ、その後、八坂神社に戻られるというもの。私は、今年見られなかったので、来年を楽しみに待つことにします。

 

あんころもち

ただ忙しく、綴り方をしている余裕がないうちに、8月は一度も更新できずにいました。久しぶりの休みなので、メモリーカードからいくつか取り出して、思い出しながらメモっておこうと思います。
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7月20日、京都市内を自転車で走っていたら、 近所のお餅屋さんの店先に「本日土用の入り、あんころもち」と書いてあるのに気付きました。6月末日には、何回か三角形をした「水無月」を買い求めましたが、「土用の入りあんころもち」とは何ぞやと思い、店内へ。

聞けば、この張り紙は前日から張り出してあり、閏年の今年は土用の入りが一日早かったそうな。

昔から京都では、土用の入りには、暑気あたりしないように 、このあんころもちを食していたそうです。丁寧に由来を書いた紙をくださったのですが、「いつか書こう」と大切に財布の中に入れて持ち歩いていたものの、どこかの時点で「もう書く時間がない!」と断念して、財布から出してしまったような…。

次の機会を待ちます。

ネットで検索すると、昔、宮中では土用の入りの日に、ガガ芋の葉を煮出した汁で糯米の粉を練り、丸めて味噌汁に入れて、暑気あたりをしないよう食す伝統があったそうですが、これが、江戸時代中ごろに「あんころ餠」を食べる風習として関西地方の庶民に広がったという。 

お店のおばさんは「土用の入りでなくても、土用の間中に食べれば良い」と話しながら、包んでくれました。
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早速、ミュージアムに戻って、元気に猛暑を乗り切れるよう祈りながら、頂きました。

餠は古来縁起の良い食べ物。小豆が乗っかった三角形の「水無月」に続き、「あんころ餅」を食したこともあってか、これを書いている9月を迎えても、なんとか無事に日々を過ごせています。ご加護があったのでしょう。ありがたいことです。

翌日立ち寄った元上司がやっている餅屋さんの店先には、「朔日(ついたち)、15日は赤飯の日」と書いてありました。

小豆は厄を払う意味も込められていますから、頻繁に食卓に登場しますね。千年の歴史を誇る京都には、こうした「おきまり料理」も定着しているようです。「京・食ねっと」 を検索すると▼朔日、15日は、小豆ご飯、ニシンと昆布の煮付け、棒鱈と里芋の煮しめ▼八のつく日は、あらめと油揚げの煮物(八の末広がりのめでたさから、良い芽が出るようにとあらめを食べた)▼月末、際の日には、おから(月末は金銭の出入りが多いので、おからを炒る<入る>に因んで。あるいはまた、おからを<きらず>と呼ぶことから、ご縁が切れませんようにという願いを込めてだそうです)。

商いで忙しいから、「今晩何のおかずを拵えようか?」と惣菜で悩むことがないように考えた生活の知恵かと思っていました。 今の京都の人のどれくらいの人が、「おきまり料理」を守っておられるのか興味がありますね。

祇園天幕映画祭と長刀鉾見学

7月15日初めて協力した「祇園天幕映画祭」。おもちゃ映画ミュージアムの映像は京阪電車「祇園四条」駅すぐ東のスクリーン2で19時半から上映。
DSC05719 (2)ご覧いただいているのは、昔の京都の中心部を撮影した町の様子。1912(大正元)年に京都市電四条線が開通し、その電車が走っているのが映っていたり、1912(明治45)年に開店した「大丸京都店」や「藤井大丸」も映っていました。写真の映像は、祇園商店街に車を止めて買い物に行く様子でしょうか。映像を観て気付くのですが、この頃の花見小路は、北側に道路がまだなかったのですね。DSC05731 (2) 
関東大震災が起こった1912(大正12)年頃以降、日本でも小型映画が人気を呼び、それまで劇場でかかった35㎜フィルムの切り売りを家庭で楽しむしかなかった人々は、自分の家族の成長を記録したり、旅行の思い出を記録したりできることから、ホームムービー作りに楽しみを見出します。当初はどこの家庭でもというわけではなく、高価なものでしたので、中・上流家庭を中心に広がりました。今回上映した祇園祭神幸祭の映像もそうしたご家庭が撮影された映像で、他にも子供の成長記録などもあり、愛情いっぱいに育てられた様子が伝わってきます。 

お金持ちの人たちが興味を持って撮影された映像が、今回のように地域アーカイブに役立ち、業者が小型映写機用に劇場版映画を再編集して販売した映像が家庭から見つかって、欠落した日本の無声映画の歴史を埋める役にも立っています。 2枚目の写真は、戦前のアニメーションを集めて編集した「妖怪と幽霊」をご覧になる様子。来年も、協力できるなら、次は活弁・音楽付上映で楽しんで貰いたいと思っています。
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四条通にエビスビールの屋台が設けられていて、そこに綺麗な舞妓さん、芸子さんがおられて、彼女たちからビールを受け取って、写真を撮ったり、おしゃべりもできるとあって、長蛇の列。好奇心にかられて、私も列に加わりました。
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飲めない連れ合いは、ジュースを、ちょこっとたしなむ私は、もちろんビールを所望。


何て美しいのでしょう‼


ここで思い出して、突然の告知ですが、今年10月1日に、京都五花街の一つ上七軒の「北野をどり」の演出家として活躍した映画監督・石田民三(1901~72年)について研究発表会パート2を開催します。 2月20日に開催したパート1の続編です。
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なかなか舞妓さんたちとこんなに間近で接する機会がないので、何とも幸福な時間。

 







だらりの帯も 季節を意識して、七夕の短冊や、鉾、ここには写っていませんが、御神輿の絵柄もありました。華やかな簪にも、きっと意味合いがあるのでしょう。
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せっかくなので、四条通を西へぶらり鉾見物。









写真は10日に鉾建てを見学したばかりの長刀鉾。粽は既に売り切れていましたが、楽しみにしていた手ぬぐいを購入。今ミュージアムに飾っています。
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手ぬぐいを買ったので、連れ合いは鉾に上ることができました。男性限定ということで、鉾に架けられたのは、ジェンダーを嫌がおうにも自覚せざるを得ない橋。担ぎ手が少なくなって、地方のお祭りではどんどん女性も参画できているのに比べ、祇園祭は今も頑なにルール厳守で成り立っています。
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これが話題を集めている「奇想の画家」伊藤若冲の代表作の一つ「旭日鳳凰図」をもとに川島織物セルコンの5人の職人さんが3年がかりで作った「見送」。鉾の後部を飾る綴織。

錦小路高倉の青物問屋の長男に生まれた若冲が、今年生誕300年を迎え、長刀鉾保存会も設立50年目を迎えるのを記念して「平成の見送」として新調されました。若冲が宝暦5(1755)年に書いた作品です。

縦228㎝、横142㎝の大きさで、約800色の糸が用いられているそうです。17日の巡行で公開されますが、当日は見に行けないので、幸いでした。しかも目の前で。
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これは胴掛「孔雀更紗文」。京友禅の人間国宝・上野為二(1901~80年)の孫にあたる京都の染色工芸作家出二代目為二さんが、おじいさまの代表作の振り袖「孔雀更紗文」をもとに作られたそうです。縦約1.7m、横3.6m。色鮮やかで豪華ですね。
DSC05794他にもいろいろ貴重な品が展示されていましたが、鍾馗好きとしては何とも嬉しい軸も。裏書によれば、寛政10(1798)年、町会所が再建されたのを機に、町の平穏と永世の鎮護を願って、長刀鉾町に寄贈されたこの軸は、鷹司入道前殿下が長刀鉾をご覧になるために、寄贈者の家を訪問されたときに賜ったものだそうです。

300年続く京町家に住む知り合いは、「京町家の屋根に昔から鍾馗さんが乗っていたわけではない。あれは新しい文化だ」と言っていて、彼女の家の屋根には今も鍾馗さんはいません。「へぇ、そうなんだ!」と思っていたのですが、京の町中でも、寛政の時代から、鍾馗さんは疫病神を追い払うと信仰されていたのだと、軸を見てわかりました。

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最後に蟷螂山の写真も。毎年ここは手ぬぐいが異なるので楽しみにしています。今年は水墨画家・小林文雄さんの作品。帰ってネットで検索したら、前掲300年続く京町家で1月31日に開催されたマルシェで偶然隣に座っておしゃべりした方でした。後日、小林さんの紹介で映画好きの女性が来館。その女性の紹介で連れ合いの高校時代の恩師が来館。「映画の楽しさを教えてくださった先生だ」と言います。
世の中は、全く不思議な縁で繋がっています‼

 

ホーム・ムービー「祇園祭神幸祭」に映る最古の武者行列

7月15日夜、初めて協力させていただいた「第9回祇園天幕映画祭」で、おもちゃ映画ミュージアム所蔵の貴重な映像も野外上映されました。当日付け京都新聞夕刊に次の記事が大きく掲載されましたので、ご覧になってお運びいただいた方もおられるかもしれません。
 祇園祭記事2016年7月15日夕刊 (2)記事で紹介された映像は、昨年寄贈をいただいたものの中にあったのですが、公開するのは今回が初めてです。何本かの古いフィルムを繋いだ中の一本で、この映像の前には、四条通の沿道を囲む大勢の人々の中を行く獅子舞の映像や南京町の春節祭で見られる龍の舞の様な出し物もあったので、特別なイベントがあって、その時の武者行列かもしれないと勝手に思っていました。
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ところが、映像を専門家の人に見てもらったところ、かつて祇園祭の神幸祭に奉仕されていた武者行列の映像だとのこと。思いがけないことで、びっくりしました。
1930年代前半の祇園祭神幸祭に参列されていた武者行列には、騎馬武者も参加されていたのですね。

私が京都に来たのは1973年ですから、その翌年の74年までは、武者行列奉仕がなされていたわけで、全く記憶がないというのは情けない話。若いころの私は、祇園祭山鉾巡行より、他のことに目が奪われていたのでしょう。

それから、31年後の2004(平成16)年、私は初めて論文書きに取り組み、「隼人の吠声(はいせい)」をテーマにしました。ここでは触れることはしませんが、その流れで、7月16日記事にも出てくる東山区の弓矢町へ行き、清々講社の高橋社長様(掲載写真)にいろいろ教えていただいたことを昨日のことのように懐かしく思い出しています。この時は町内の11か所に立派な鎧兜が展示されていました。
武者2 (2)その経験があるのだから、初めてこの映像を見た時に「ピン!」と来ても良さそうなものなのに、鈍感な私は、テレビや、新聞で報道される「見慣れた祇園祭山鉾巡行」の様子が基準になっていました。
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「祇園天幕映画祭」を見終わった後、長刀鉾を見学に行きました。その会所に展示してあった祇園祭略年表によれば、清々講社が組織されたのは1875(明治8)年のことだそうです。

武者3今年7月16日付け京都新聞によれば、「明治初期に約30点あった武具は損傷が目立ち、公開できる数が減っている」ということで、今年は町内10か所で14点が展示公開されました。約30点あったというのは、清々講社発足当初の数字なのかもしれませんね。

写真の駒札は、2004年に見学した時のものです。

弓矢町訪問に先立ち、2004年7月10日、中京区の池坊学院で開催された講座「人権ゆかりの地を訪ねて」を受講しました。講師の山本尚友・池坊短大非常勤講師が「祇園社と犬神人(いぬじにん)」の演題で講演をされました。

山本さんは「犬神人は、中世の穢れ思想の広がりに伴い、社会の穢れを取り除く役割を与えられ、さらに『宿』と呼ばれる葬送の際などに特別な権利を持つ集団となった」と説明し、さらに祇園祭の神輿巡行で犬神人が先頭を歩く光景を描いた上杉本「洛中洛外図屏風」を紹介しながら、「背景には、鎌倉時代中期から犬神人が祇園社(八坂神社)の警察力を担い、祭礼時は穢れたもの(動物の死体など)を除く重要な役目を務めた」と説明されました。

jpg上杉本犬神人これはネットで見つけた上杉本「洛中洛外図屏風」画像の一部です。今年4月20日に国宝のこの屏風は記念切手になって発売されました。鴨川に架る太鼓橋から西に向かって犬神人を先頭に行列が通る絵が描かれています。

今回の上映に際して「祇園天幕映画祭」スタッフが用意した説明文を参考にすれば、屏風に描かれた八角形の屋根の御神輿は「八柱御子神」の御神霊が乗った「西御座」。現在「西御座」は、「錦神輿会」が担いでおられますが、1947(昭和22)年までは「壬生村」の農家の「壬生組」が担いでいたそうです。

「壬生」に位置するおもちゃ映画ミュージアムとしては、興味深い事柄です。時間さえあれば、文献にあたって調べてみたいものです。その後方に見える四角形の屋根は、現在でいえば「四若神輿会」が担ぐ「東御座」で「櫛稲田姫命」の御神霊を乗せておられます。御神輿には 、もう1基「素戔嗚命」の御神霊を乗せた六角形の屋根の「中御座」があり、「三若神輿会」が担ぎます。

今回上映された映像には、これら異なった屋根の形をした3基の御神輿が全て映っています。 サイレントの映像なので、武者行列の先頭を行く方が「オー」などの祓い清めの声を発しておられたのか、とても気になります。武者行列参加を取りやめられてからもう40年以上経ちました。当時を覚えておられる方がおられたら、聞いてみたいものです。

毎年 祇園祭りに合わせて、京都文化博物館で特別上映されている『祗園祭』(1968年、日本映画復興協会。山内鉄也監督、中村錦之助、岩下志麻ほか出演)は、連れ合いらが復元した作品です。この作品で、「つるめそ」と呼ばれた人々が御神輿の先を行き祓い清めます。映画では、渥美清さんがその一人を演じていました。映画を観ながら、真っ暗な文化博物館の上映会場で、必死にメモを取っていたことを懐かしく思い出しています。

「祇園天幕映画祭」の方から「祇園祭を取り仕切る宮本組の方々から、今回の映像を組員全体で観たいと要望がある」と連絡がありました。嬉しいことです。ホーム・ムービーとして私蔵されず、寄贈してくださったことから、地域の歴史のアーカイブとして活かされる事例となります。

まだまだ、このようなお宝映像は、どこかに眠っているかもしれません。フィルムが劣化してダメになる前に、どうぞ探し出してください。フィルムになり代わってお願いします。

鉾建て

京都は今、祇園祭一色。コンチキチンの音色を聞くと、ソワソワしてきます。10日朝に来館された方から「今日から鉾建てが始まる」と聞いて、早速チャリで四条通りの長刀鉾へ。
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釘を一切使わず、縄だけで木材を固定する「縄がらみ」という伝統技法で着々と組み立てられています。東西かなりな範囲に部材が用意されていて、良く見ると、誤りがないように部材に墨が入れられています。

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朝日新聞6月22日の記事によれば、これらの縄は、20年前から福知山市三和町友渕の田尻製縄所で作られているのだとか。120mを巻いた束500個が鉾建てに間に合うように用意されました。

















毎年繰り返される真夏の光景。こうして、伝統技法も継承されているのですね。
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集会所には、たくさんの縄が用意されていました。今年は、江戸時代の絵師・伊藤若冲が生誕300年を迎えたこともあり、長刀鉾保存会では、若冲の「旭日鳳凰図」を織物で再現した「見送」を新調。17日の前祭で披露されます。



せっかくなら、新調された「見送」をデザインした手ぬぐいが販売されないかと検索したのですが、良くわかりません。代わりに今頃知ったのですが、各山鉾の朱印があったのですね。今年は、それも楽しみに鉾町を歩いてみまようと思います。



冒頭に鉾建てのことを教えてくださった男性は、お会いするたびに奥様が祇園祭の手ぬぐいで作られた小袋を下げておられて、羨ましく思っていました。いろんな種類をお持ちで、それを見ているだけで楽しいです。
祇園天幕映画祭祇園天幕映画祭裏











根っから不器用な私は、今年、比較的簡単な「あずま袋」手作りに挑戦!その袋を手に、15日夜に開催される祇園天幕映画祭に出かけるのを楽しみにしています。


今年初めて、おもちゃ映画ミュージアムも協力させていただき、昔の祗園祭の貴重な映像や、戦前のアニメーションを集めた「妖怪と幽霊」を上映します。



野外上映は、私の夢でもありました。昨年は台北映画祭に招かれて3500人ほどの観客にご覧いただくことができました。その喜びをぜひ、京都でも味わいたいと思っていましたので、実現する運びになったことをとても喜んでいます。


15日から周辺は歩行者天国になります。皆様もぜひいらしてください。大勢の人に見ていただきたいと願っています。




詳しくは掲げているフライヤーをご覧くださいませ。どうぞ、よろしくお願いいたします‼

人生のお師匠さんから、夏だより

今日町家に届いた郵便物。定型だけど、少し分厚い。何が入っているのだろう?封筒の文字は懐かしい人生のお師匠さんのもの。性格そのままにまじめで端正な筆運び。ワクワクしながら封を切る。
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 「また下手な絵をお送りします。小さいですが、少しは風があたると思います。」 

小ぶりの団扇に、水彩で描かれたツユクサとナデシコ。可憐だ。

手に取って、早速煽いで見る。ほっぺたに心地よい風。ツーっと伝う一筋の涙。感情の起伏が激しい分、優しい思いに触れるとめっぽう弱い。「こんな私でも、気にかけていてくださる人がいる」、その思いが、たまらなくなって、込み上げてくるのだ。

昨年1月に引退するまで、主宰していた会で毎月「古文書勉強会」をしていたが、終わった後いつも二人でお好み焼きを食べながら、おしゃべりするのが楽しみだった。女学校時代に体験した戦争中のこと、4H運動の話など貴重な経験を話してくださった。信念を持って、まっすぐ前を向いて歩まれる姿勢から、学ぶことは数え切れないほどある。そのひとつ、ひとつが私の宝物。

彼女は、今年5月21日に満85歳になられた。お祝いを述べたメールに「長年続けた京都ライトハウスでのボランティアを終える準備をしている」と書かれてあった。京都府内の城陽市から、週に何日も京都市内までボランティアに通われるのは、体力的にもしんどいことだろうと心配していたが、今日の手紙に「25年続けてきたライトハウスでのボランティアを辞めました」とあり、いよいよその時が来たと思った。

目の見えない人の役に立ちたいと、交通費も自費、全くのボランティアで続けてこられたことに頭が下がる。手紙は「体力・気力・実力・経済力など考えると、85歳は辞め時だと思い、自分で定年を決めました。これからは、ゆっくりと好きなように生きたいと思います」と結ばれている。

その一つが、水彩画なのだろう。時々老人施設でこれもボランティアで補助指導をしておられる。これから短歌に、絵画にとのんびり取り組まれることを私も楽しみにしている。母が亡くなり、私にとっては母代わりのように慕ってもいる。健康に気をつけて健やかに過ごしてもらいたいというのが一番の願い。

 

本野精吾自邸見学

6月18日、知り合いに教えてもらって、京都市北区等持院北町の建築家・本野精吾自邸へ行ってきました。
DSC05354 (2) ネットで検索しますと、1882(明治15)年に、本野盛亨(もとのもりみち)の五男として東京に生まれました。このお父さんは、佐賀藩久保田村出身で、1874(明治7)年、子安峻、柴田昌吉と3人で読売新聞社を創業し、子安の後を継いで2代目社長になっています。

正力松太郎の名前の印象が余りに強くて、3人の創業者については、今回初めて知りました。

兄弟皆優秀で各方面で活躍、五男の精吾も東京帝国大学建築科で学びます。同大学の先輩で、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)図案科教授になっていた武田五一に誘われて、同校の教授に就任。2年間欧州留学をしているときに、近代運動やアヴャンギャルドな作品に影響を受けます。

彼の作品は、それまでの様式建築から脱却し、機能主義や合理主義を模索しながら、日本におけるモダニズム建築の先駆けとなる作品を作ります。その一つが、1924 (大正13)年に建てられたこの自邸です。この日は、催しがあり、特別に公開。
DSC05356 (5)表札の「本野」はモザイクタイル。現在はお孫さんの本野陽さんがお住い。


むき出しのコンクリートは、「中村鎮式コンクリートブロック造」というようです。本野は、前年に起きた関東大震災で、この中野鎮のコンクリート造建築が倒壊しなかったことを評価し、以降中村と本野の協働が開始されたそうです。
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これもネットで検索したのですが、中村鎮式コンクリートブロックというのは、L字型を組み合わせることによって空間を作り、その空間に鉄筋を入れて、コンクリートを流し込む方式なんだとか。




この建物は、2003(平成15)年に、「DOCOMOMO Japan 100」に選定されています。




軒や庇もコンクリートで造られ、大きく伸びているのは、日本の気候風土に配慮しているため。




シンプルな玄関に、赤いレンガがアクセント。ネットで検索すると金森式鉄筋煉瓦といい、煉瓦の中に鉄筋を通す穴が開いているそうです。この日は、玄関は閉まったまま。
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イベントは、写真に見えている1階の 部屋で行われました。予約不要なので、通りがかりに建物に魅了されて見学に訪れる人が何人もおられました。
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近代モダニズム建築は、やはり心をギュッとつかむ魅力にあふれています。今は、こうした貴重な建物が、耐震問題や経済的理由で次々姿を消しつつあることを残念に思います。けれども、本野邸は今も住宅として継承されているのが素晴らしいです。こうなると、地域の宝ですよね。
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ここから、中に入ります。



























写真はトイレと浴室などが並んだ一角。
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浴室の鏡もモザイクタイルで素敵。

 




















イベントが繰り広げられた居間には、ピアノがおいてあり、素敵な暖炉もありました。この暖炉の煉瓦も金森式鉄筋煉瓦。

 
本野は多趣味で、バイオリン演奏、エスペラント語、社交ダンス、南画などにも取り組み、すべて極めたそうです。この暖炉がある洋室で、ピアノやバイオリンの演奏に合わせて、社交ダンスに興じていたのかもしれませんね。 


図案科教授であった本野は、建築だけでなく、インテリア、家具、服飾デザインなどあらゆるデザインにわたる教育や活動に携わっていたそうです。

室内の色使い、暖炉のデザインなどにそうした美意識が感じられますね。
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陽さんのご厚意で2階も見せていただきました。

シンプルな階段の天井に、トップライトがあり、採光にも工夫が見てとれました。
二階には本野のご子息で染織作家として活躍された東一さんの 素敵なタペストリーがいくつも飾られていました。

 動線を短くするために室内は機能的でコンパクト。そこここに様々な工夫がしてありました。でも、この建物には、畳が一枚も敷かれていません。たまには、畳の上でごろんと昼寝なんて、ご家族は一度も思われなかったのかしら?俗人の私は、そんなことをふと思ってしまいました。

季節の花々が咲き、緑の木々に包まれた素敵な建物を拝見できて良かったです。本野さま、ありがとうございました。
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