歴史探訪京都から

-旧木津川の地名を歩く会-

梛神社神幸祭と千本組、そして映画

我がおもちゃ映画ミュージアムは、京都市中京区壬生にあり、築約100年の京町家を改装した建物。15日は6月11、12日に開催するイベントにむけて関係者の方と打ち合わせ。と、賑やかな音楽が聞こえてきました。それも聞き覚えのあるもの。祭り好きとしてはジッとしておれずに、話は連れ合いに任せて急ぎカメラを手に表へ飛び出しました。
DSC05059 (2) 後院(こういん)通をお祭りの行列が進行中。四条大宮から少し西へ進んだところに鎮座する梛神社の神幸祭でした。行列は南に向かっていますが、この後院通の北側、千本三条交差点南側に、かつて材木運送業笹井家の「千本組」(明治34年創業)がありました。その少し手前に、大映二代目社長永田雅一の母校で、現在の朱雀第一小学校があります。

昨年は5月17日(日)のミュージアム内覧会と重なり、音楽は耳にしつつも、それどころではなく緊張の連続でしたので、 今回が初めての祭り見学。先頭は少年勤王隊で彼らが演奏しているのは、10月22日に行われる京都三大祭の一つ「時代祭」で先頭を行く維新勤王隊の鼓笛隊と同じものでした。

鼓笛隊の音楽への興味から少し調べてみると映画繋がりで面白いことに気付きました。明治28(1895)年に平安遷都1100年を記念して平安神宮が創建され、その管理と保存のために市民組織「平安講社」が設立されました。「時代祭」はその記念事業として始まりました。先頭を行く維新勤王隊は、幕末期に丹波桑田郡山国郷(京都市右京区京北)で結成された官軍の農兵隊「山国隊」がモデルで、「山国隊」の隊長、藤野斎は「日本映画の父」と言われる牧野省三の父親にあたります。第1回目から大正9(1920)年まで、時代祭には旧山国隊隊士とその子弟が参加していましたが、大正10(1921)年から、朱雀学区が組織した第八社が維新勤王隊として出仕し、今日に至っています。音楽が一緒なのも道理です。
DSC05063 (2)山国郷は古くから木材の供給地。江戸時代初期に角倉了以によって大井川が開削され、嵐山まで運ぶ水運が確保。更に文久3(1863)年に渡月橋上流から千本三条にかけて西高瀬川が開削されました。この水運を使って様々な物資が二条城へ運ばれただけでなく、丹波地方の木材も運ばれました。やがて明治3(1870)年に当時の京都府によって西高瀬川は伏見の鴨川まで開らかれます。京都の最初の撮影所は二条城近くにあり、西高瀬川の水運によって運ばれた木材は映画のセットを組むのにも利用されました。ここで重宝されたのが通称「千本組」と呼ばれた笹井一家。

獅子が子どもたちの頭を噛むと丈夫に育つと信じられているのは何処も同じ。小さい子は怖がって泣きじゃくっていましたが、この少女たちは興味津々の様子。後ろから馬に乗った天狗さんが続きます。DSC05067 (2)梛神社で貰った栞による伝承によれば、清和天皇の時代、貞観11(869)年に京の都に疫病が流行し、その悪疫を鎮めるために牛頭天王(スサノヲノミコト)を播磨国広峰より勧請して四条坊城へ神輿を入れて奉りました。この地に数万本の梛の木があり、源某という者がこの地に居住し、神霊を朱雀大路に近い梛の林中にお祀りしたそうです。
梛は春日大社のご神木で、春日若宮おんまつりの御旅所の玉垣も全て梛の枝でした。梛は凪に通じ、災難除けにしたと、以前調べて書いたことを思い出しました。
DSC05068 (2)でも、ネットで調べてみると、ナギを水葱(ミズアオイ)とする説もあるそうです。よくわかりません。

後に八坂の郷に遷座の時、当地の住人は花を飾った風流傘を立て、棒を振り、楽を奏して神輿を送りました。これが祇園会(祇園祭)の起源と言われ、古来より祇園会に傘鉾の役人は壬生村より出る定めとなっているそうです。 可愛い花笠を被ったお稚児さんたちは、この伝承を可視化したものでしょうか。晴れ舞台です。

DSC05106記紀に出てくる「隼人」に興味を持っていることから、初めて神社名を見た時から「隼神社」を訪問したいと思っていました。それが少年勤王隊の音色に誘われて、この日実現。由緒については京都市の駒札をご覧ください。屋台は四条通から西の御前通近くまで延々と続きます。
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四条通に面した北側の鳥居をくぐり境内へ。この鳥居は昭和4(1929)年3月に建立されたと刻まれています。そこで目にしたのが、鳥居の東柱傍に建つ背の高い玉垣に刻まれた文字。「千本組」とあります。このブログの最初に書いたように、映画と密接な繋がりがあった組織です。

現宮司さんは、神幸祭で馬に乗って行列中なので、代わりに朱印をいただいた先代宮司さんに「あの玉垣はいつ頃寄進されたものか」と尋ねてみました。「おそらく大正時代ではないか」という返事でした。京都市の駒札によれば、隼神社が現在地に遷ったのは、大正7(1918)年ということからその時に寄進されたものかもしれません。遷された事情まではわかりません。

DSC05108DSC05101柏木隆法『千本組始末記ーアナキストやくざ 笹井末三郎の映画渡世』によれば、千本組は丹波の材木を京都まで筏を組んで運ぶ人夫を束ねて運送業・土木業を営む「かたぎやくざ」で、町内の自警団や消防団の役割も兼ね、祭礼も取り仕切っていたそうです。全盛のころは祇園祭の御輿を三基も任されていたとか。京都三条商店街に八坂御供社があり、近くに三若神與会があるのも関係するのかしら?
末三郎は初代笹井三左衛門の三男。三左衛門の時代から、千本組は日活のロケ警護、大道具用材納入、工事請負などをしていた関係もあって、三左衛門の跡を継いだ長男静一は、不良少年だったという若き日の日活のマキノ雅弘監督(牧野省三の長男)や永田雅一とも親しい関係にあったそうです。

DSC05091 (2)梛神社朱印



草創期の京都の映画界は、この祭りの巡行範囲をも取り込み、何でもありの混沌としたエネルギーで突き進んでいったのかもしれません。



明治34(1910年)に京都で最初の二条城撮影所が作られた場所がミュージアムから近いことも要因の一つとして拠点を構える場所に選んだのですが、祭礼まで千本組と関係があったなんて!その具体的な証拠を神社の玉垣に見つけて、全くびっくりポン!です。カメラをひっさげ神幸祭の行列を追っかけた甲斐がありました。 













写真を省きましたが、隼神社が北側に、隣接して南側に梛神社が鎮座。隼神社の建物内部に石燈楼一対があったのも珍しく感じましたが、前宮司さんによれば、大正期に遷されたときになされた配置だろうとのことのことでした。






ミュージアムを開設してから探訪する機会がすっかりなくなり、御朱印をいただくのは久々。そういえば、昨年通りがけに来館された男性、年内に朱印帳100冊達成見込みとおっしゃっていましたが、どうなったかしら?

お雛様などコレクションから

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おもちゃ映画ミュージアムの今の入り口から見た眺めです。手前にあるのは瀬戸内地方のお雛様。男雛の辛子色の衣装は劣化が酷かったので、人形を包んで貰った風呂敷を利用して、手先が器用な連れ合いが縫ってくれました。とっても大きいのですが、大きすぎて目に留まらないお客様も数多くおられます。ものには程よい大きさがあるようで、新聞記事でも大きすぎたり、小さすぎたりすると、案外見落としがちで。3月22日の朝日新聞に今開催中の特別企画展「懐かしいSPレコードを観て!聴いて‼楽しもう!」の案内記事が出たのに、何度も目を凝らしても気付かずにいた仲間がいます。この例だけでなく、人生を生きるとき、 勝手な思い込みというのもいけませんね。往々にして失敗します。SPレコードを楽しむ - コピー
で、これが、今開催しているイベントのチラシです。デジタル全盛の今日ですが、アナログな世界も良いものです。電気が思うように使えなかった時代、様々な工夫をして音と映像を楽しみました。一枚一枚レコードを磨き、針を替えて蓄音機の前で、耳を傾けた佳き日。愛おしくなります。これらは、ほとんどが仲間3人のコレクション。貧乏だった私も連れ合いも、こうした高価な玩具とは縁がありませんでした。

 ピクチャーレコードの絵をみていると、「世の中には、なんて可愛らしいものがあるのか」と羨ましさにため息がでます。今回のイチオシは、チラシでは左中央に描かれたアメリカ製の仕掛けレコード。ムービーレコードといって、レコードをかけると盤に描かれた絵が中央に置かれた鏡に映って動いて見えるというもの。音楽も絵も明るくて可愛いです。当時、ライセンス契約を結ぶ会社がなかったのでしょうか、日本にはどうやら入ってこなかったようです。

こうしたレトロなものを一人でも多くの方に観て、楽しんで貰おうと考え、ついでに私の雛人形も観てもらいたくて未だ飾っています。旧暦の3月3日は、今年は4月9日なので、この日まで。

実は、20~30代女性向けの雑誌『シュシュアリスブック京都本』に当ミュージアムも掲載していただけると連絡があり、1月30日に取材に来ていただきました「若い女性がターゲットなら、可愛らしい雰囲気作りが肝心」と一人合点して、当日は人形を運び込み、朝から大わらわ。にもかかわらず、発行は3月15日だということでライターさんもカメラマンさんも人形には目もくれず…。
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後日出版された本が届きました。なぜかおもちゃ映写機などを展示しているのに、映画のポスターに目が行ったらしく、ここでも勝手な思い込みはいけないと学習しました。







せっかくなので、他のお雛様もご覧ください。
 
雛人形jpgDSC04541jpg雛人形 - コピー (2)

第42回例会「青山讃頌舎と又兵衛桜見学ツアー」

「木津川の地名を歩く会」の仲間から、花見見物のお誘いが届きました。昨年の忘年会で、「籠の鳥になっていないか」と心配してくれる会員がいて、その真意をわかりかねていましたら、あちこち見て歩くのが大好きな私が、おもちゃ映画ミュージアムの運営に携わるようになって、時間的に自由にならず、何処へも行けずに辛抱しているのではないかという気遣いでした。

その気遣いは図星。これまでなら、美術展、講演会、お祭り、遺跡の現地説明会等々興味のあるもの、好奇心のまま出歩く 土・日・祝日でした。それが、ミュージアムを運営するようになって、人手がないこともあって何かと忙しい毎日。日付けが変わる頃にようやく食堂で夕食を摂ることもしばしばあります。大好きな新聞読みも、5紙分が何か月分もうず高く積まれたまま。テレビを見る時間もなく、情報には益々疎くなる一方。「これでいいのか」と焦りもありますが、できないものはできない。

例会の案内は、せめて会で恒例にしていた桜見物くらい誘ってあげようとの、皆の心優しい配慮です。 実施日は休館日の4月4日月曜日。その日はもうすぐ目の前。今からワクワクソワソワしています。

目的地は2つあり、一つ目は、友人の穐月大介さんが、お父様の作品を展示するために今年2月に開館されたばかりの三重県伊賀市別府の「穐月明東洋文化資料館 青山讃頌舎(あおやまうたのいえ)・美術館。以前ミュージアムに大介さんが来てくださり、その時見せていただいた高野山出身の日本画家・明さんが描かれた慈愛に満ちた釈迦や菩薩の仏画に惹かれました。心を優しく落ち着かせてくださる絵だと思いました。手入れが行き届いた庭園には、多くの石仏もあります。

3月3日のひな祭りに合わせ、立派な享保雛が飾られていましたが、今はしまわれて見ること叶わず。 人形好きの私には残念ですが、4日にはお母様がどのような設えでお迎えいただくのか楽しみです。隣に地震除けにご利益があると信仰されている大村神社があり、そこにもお参りして、初瀬街道を歩きます。

午後は榛原駅で 途中下車して、二つ目の目的地、宇陀市にある有名な「又兵衛桜」へ。同市観光協会の情報サイトによれば、大坂夏の陣で活躍した戦国武将・後藤又兵衛がここに落ち延びて、僧侶となって一生を終えたという伝説があり、この枝垂桜が残る地が後藤家の屋敷跡にあることから、地元では「又兵衛桜」と呼ばれて親しまれているそうです。桜の後ろに桃の花が咲いていて、そのコントラストが鮮やかなこともあって、古くから写真家に愛されているとも。

私は、「又兵衛桜」の名前は知っていても、見るのは今回が初めて。案内状には「又兵衛桜の満開に出会うと一生忘れられない桜の想い出が一つ増える」と書いてありましたので、期待値は益々up!いつものように、3日夜には、願いをよく聞いてくれる「てるてる坊主」さんを下げて、好天を祈ることにします。どうか、晴れますように‼

 

レトロなものに囲まれて

先日来の大寒波の余波が、我が両足にも支障をきたし… 、久しぶりに「しもやけ」ができました。雪深い所で育った私は「大きくなったら雪のないところで生活したい」とずっと思ってきました。それというのも、小さいころから毎年、両手、両足、両耳の「しもやけ」に悩んできたからです。痒いし、痛いし…。

京都に来てからも、たまには「しもやけ」になりましたが、最近はすっかり忘れていました。それなのに…です。痒い足をさすりながら、昔父が藁靴を編んでくれたこと(とっても暖かいのです)、囲炉裏で「こん餅」(餅を薄く切って寒風にさらして干したもの)をあぶって食べさせてくれたことなどを懐かしく思い出し、しみじみしています。

昔を懐かしいと思うのは、年を取ったせいかしら?それも確かにあるでしょうが、日頃から古いものに囲まれているうちに、かつてのものの良さをもう一度見直して貰いたいという思いが、余計強まってきているせいかもしれません。

さて、1月23日午後3時から、運営するおもちゃ映画ミュージアムで、珍しいSPレコードなどを持ちよって楽しむイベントを開催しました。
DSC04224昨年開館に際し、知り合いのおじさん(故人)が愛用したオーディオ設備を寄贈していただきました。これまでも使ってきましたが、正直にいえば上手く使いこなせていたわけではありません。いわば宝の持ち腐れ状態。そのうちの一台が故障したのを契機に(修理代見積もりが、目が飛び出るほど高かったので)、もう少し使い勝手が良いものに一部入れ替えました。

この日は、オーディオに夢中だった青春時代を過ごした同じような世代の仲間が呼びかけに応じて集合。最初に、サウンド・デザインをしてくださった右端の男性から使い方の説明を受けました。

撮影所と大学で録音を担当している友人も経験に基づく知恵を伝授してくださいました。DSC04282
例えば、油が付いたレコードは、中性洗剤でまず洗って、半乾きのまま冷凍庫に入れると良い▼割れたレコードは接着剤でくっつく▼アームが軽くて飛ぶ時は、1円玉を上にのせて調節する▼レコードはCDよりも音域が広いので、聞こえの良い音まで入っている等々。

マニア垂涎のターンテーブルとスピーカーJBLは、そのまま残しました。1月8日喜劇映画の上映に来てくださったミュージシャンの渡辺亮さんは、この音に感激しておられました。私は彼が作ったアルバム『Morpho』の世界に大感激。良い音で聴くと、勝手にイメージの世界が広がり、あたかもアマゾン河を自分が渡っているかのような錯覚に陥りました。

スピーカーの前に写っているのは、愚息から貰い受けた日本船燈ニッセンのストーブ。灯をともすと、「レトロな感じが素敵」と人気に。「京都の町家は寒い」を体感する毎日に欠かせません。トーレンスのターンテーブル同様、揺れに対応する製品で、対震自動消火装置付きなので安心です。

DSC04229 さて、オーディオの説明を受けたのち、それぞれが持ち寄ったSPレコードなどを披露するお待ちかねの時間。

ご近所にお住いで甲冑などの修復を手掛ける男性が、3年前からコレクションされているピクチャーレコードの数々がテーブルに並んでいます。昨秋開催「トーレンスのターンテーブルで音楽を楽しむ会」で初披露していただき、そのかわいらしさにすっかり魅了されました。絵は両面に描かれ、各面一曲ずつ綺麗な歌声の童謡が録音されています。

物語のレコードは、他の方も持参され、「舌切り雀」の児童劇も披露。他に落語家初代春団治の「寄合酒」、ベティ・プープの「スープの中のクラッカー」、フランキー・レインの「ハイ・ヌーン」もかけて貰いました。そうそう、「ダンボのサントラ盤」もありました。ラッパのスピーカーで聴くともっと良い音が楽しめるそうです。

が、何といってもこの日一番の人気を集めたのが、RED・RAVANのmovie・records。ほとんどの人が初見。
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DSC042581950~60年代のアメリカで売られていたそうです。蓄音機の上にのっているのがそのうちの一枚。蓄音機の前に鏡を16枚貼った丸くてかわいいモノがありますが、それをレコードの上にセットします。DSC04234
レコードを回転させると、レコード盤に描かれた絵がミラーに写り、アニメーションが楽しめます。音楽も歌もかわいらしく 、飽かずに「もう一度。今度はこれ!」とリクエスト続出。大人でも充分魅了されたのですから、子どもたちは、どんなにか喜んだことでしょう。

戦後の日本に、どうしてムービー・レコードが入ってこなかったのでしょうか?当時の値段が如何ほどだったのかわかりませんが、簡単に買えるものではなかったのでしょうね。

日本は手回しのものが余りないそうですが、アメリカには多いようです。1956年の日本製プレイレコードで「ピーター・ラビット」も聴きました。45回転。回転数が多い方が音が良いそうですが、その分お皿が小さいので少ししか録音できません。

音楽に夢中になっていた青春時代、「LPは高くて買えなかった」 とそれぞれ若き日を懐かしみ、思い出に浸ったひと時でした。他にもミッキーのムービー・ビューアーを覗いて見たり、口琴の実演もしていただき、珍しい音を聴かせてもらいました。
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最後に、みんなで寄せ鍋で新年会。楽しい宴は夜遅くまで続き、22時半を回ったころ、凍てつく京の路地を行く最後の仲間を見送り、楽しいイベントは無事終了しました。

これらのかわいらしいレコード類は、3月18日(金)~4月3日(日)、おもちゃ映画ミュージアムで展示します。期間中(月、火曜休み)はレコードを聴いてもらうほか、自分の声をCDに録音したり、懐かしい塗り絵を体験するコーナーも設けます。どうぞ、ご期待ください‼

今日、近鉄新田辺駅で、たまたま手にした「近鉄ニュース」2016.2月号に歴史街道人間往来第156回小津安二郎③が載っていました(執筆は中野翠さん)。そこで紹介されていた小津監督『宗方姉妹』に出てくる姉節子(田中絹代)が妹麻里子(高峰秀子)にいうセリフが印象に残りました。

…「それ(古寺を好んで訪ね歩くこと)が古いことなの?それがそんなにいけないこと?私は、古くならないことが新しいことだと思うのよ。ほんとうに新しいことは、いつまでたっても古くならないことだと思っているのよ。そうじゃない?」 …

ほとんど残っていない無声映画を発掘し、修復し、次世代に残そうと活動している私たちの活動に対し、マスコミはじめ一般の人々も、少しずつ関心を寄せてくださり、大切だと応援してくださっています。ただ残すだけでなく、ここで紹介したピクチャーレコードのかわいらしさ、蓄音機で聴くSP盤の心地よい音、ムービーレコードの楽しさなど、かつて生活を潤したこうした古いものに新たな価値を見出し、活かし、多くの人に知ってもらい、楽しんで貰える道を模索しながら、 次世代に文化を引き継げたら良いなぁと願っています。

2016年元旦

新年あけましておめでとうございます
今年もどうぞよろしくお願いいたします

 毎年楽しみにしている箱根駅伝を見ながら、今年初めてのブログを中断しながら、ボチボチ書いています。1920年に開始し、第2次世界大戦中に一時中断され、1947年に復活した箱根駅伝は第92回目を数えます。タスキを繋ごうと懸命に走る選手を応援しながら、展開される人間ドラマに 毎回感動しています。持てる力を発揮して、新春の箱根路を走り抜いて欲しいとテレビに向かって応援しています!
IMG_0644 (2)さて、31日まで、町家で年度末のことをしてバタバタしていましたが、1日は久々にのんびりした朝を迎えました。手抜きを決意したものの、やはり一品、一品作っているうちに、三重のお節料理を作っていました。それを詰めて、午後ようやく初詣に出発。

例年なら、歴史を勉強して関心を持った社寺に出かけるのですが、昨年は全く勉強できないままに終わってしまったので、「はて、何処へ行こうか?」と思案。そこへ愚息が提案の一言。「願うなら、商売繁盛やろ」。

町家を運営するに際して、一番の悩みは集客。普段はもとより、イベントの折の集客に毎回苦心しているのを、傍で見ていて心配してくれていたようです。「そうやな!」ということで、一路京都市伏見区の伏見稲荷大社へ。午後4時半ごろと遅めの到着でしたが、それでも大勢の人々で境内は芋の子洗い状態。昨年、一昨年と伏見稲荷さんは、世界最大の旅行口コミサイト「トリップアドバイザー」で外国人に人気の日本の観光スポット第1位に選ばれています。この日も中国からの観光客などたくさんの人で賑わっていました。

天正17(1589)年に豊臣秀吉が母の病悩平癒を祈願し、「成就すれば一万石奉加する」と願文した通りに、秀吉によって同年に造営された大きくて立派な楼門。有名な千本鳥居も同じ朱(あけ)色。{稲荷塗」と言われる色で、生命、大地、生産の力を立て、稲荷大神の「霊徳」の働きをする強烈な信仰が宿っているとされています。実は、私のペンケース、手帳、キーホルダーなど小物は赤色が多いのですが、赤いものを見に付けると元気、ヤル気が湧いてくるように自分でも思っています。新しい年の始まりに、ふさわしい色ですね。

2014年6月7日に実施した「木津川の地名を歩く会」の第34回例会「伏見街道を歩く」では、伏見稲荷大社前を集合場所にしました。その時は、街道を歩くのが主目的だったため、稲荷山に登り、お塚を巡拝する「お山する」ことまではできませんでした。せっかくの機会なので、陽は傾き始めていましたが、「お山する」ことに決定。
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観光写真でよく見かける千本鳥居をくぐって稲荷山山頂を目指します。途中でメモリーカードを装填していないことに気付き、千本鳥居のナイスショットは残念ながら撮れていませんが、しっかり目の奥に焼き付けました。
 
伏見稲荷のHPによれば、崇敬者が祈りと感謝の念を奥社参道に鳥居の奉納を持って表そうとする信仰は、すでに江戸時代に興り、今日の名所「千本鳥居」を形作っているそうです。

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写真で見るような社が広い境内にはいくつもあり、「お山する」参詣者がお塚に静かに手を合わせて安寧を祈っておられます。

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 途中の眺望が開けた場所で大勢の人が、美しい京都の夜景を楽しんでおられました。
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左奥に見える山が石清水八幡宮が鎮座する男山、その向かいが大山崎の天王山。元旦は、青空が広がり、穏やかな天気に恵まれました。茜色の夕空が美しく、この一年の平穏無事を心から願いました。

















四ツ辻にあった案内地図。陽はすっかり落ちて足元が暗く、日頃の運動不足もあって心もとなくなり、「ここで引き返そう」と提案。けれども連れ合いは「ここで諦めたら、今年は何でも途中で投げ出してしまうことになる。頑張って歩き通そう」と言いますので、同意。
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その四ツ辻から見た京都の夜景。キラキラ輝く宝石箱のように美しい。喉が渇くので、高い値段にびっくりしつつも自動販売機でドリンクを買い一息つきました。「さぁ、もうひと頑張り」と励ましてもらいながら、山上を目指して歩みを進めました。
DSC04114稲荷山山頂233メートル。その一ノ峯上社にある「末広大神」には、この時間でも大勢の参拝者が列をなしています。

HPによれば「末広大神」信仰は、親塚を建てた以前から続くらしく、神蹟改修を示す親塚裏面に「明治10年6月 燈明講奉納 末広社」という刻字があるそうです。
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山上から下ります。それにしても広大な境内全体にいくつの塚と神の使いとされる狐の像があるのでしょうか?おびただしい数だと思います。狐もよく見ればいろんな表情があり、口に加えているのも異なります。

巻物を加えているのは、知恵を。玉を加えているのは、稲荷神の神霊徳の象徴として。稲穂は、お稲荷さんは食糧神に由来することから。鍵は、玉鍵信仰に由来し、稲荷神の霊徳を身につけようとする象徴なのだとか。
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下りは楽ちん。鳥居もこの向きなら、寄進者の住所、氏名が読めるので、それらを眺めながら歩きました。全国各地津々浦々からの鳥居寄進が読み取れますが、目にした範囲では、意外にも京都市内の人からの寄進が少ないように思いました。京都市内には多くの社寺があるからかもしれませんが、日頃の町家運営で、幾人もの人から「京都の人は動かない」と聞き、自分でもそのことを実感しているので、関連があるのかもと面白く思いました。伏見稲荷大社のHPには「数千もの朱の鳥居が建ち並んでいる」と書いてあります。多くの人々の信仰心が形として今に残り、稲荷山全体にそれが広がっています。
DSC04130一ノ峯から下り、おせき社を過ぎ、薬力大神と書かれた薬力社へ。身体に気になることがあるという愚息が手を合わせて祈っています。私にすれば、何をおいても百害のもとである煙草をやめてほしいと願っていますが、なかなか彼の耳には届かないもどかしさ。

ネットで検索すると、薬力社には親子狐の石像一対があり、これがなかなか珍しいものだそうで、古来より安産の象徴として崇められ、子孫繁栄、家内安全祈願の対象とされているとか。今どきの若者に多いようですが、安産はおろか、それ以前の結婚にも興味がないと言い切る愚息。「この社で手を合わせたご利益があれば良いなぁ」と願いつつ、四ツ辻へ戻りました。連れ合いの耳が良くなるように祈ったのはもちろんです。

ようやく四ツ辻を経て、三ツ辻から本殿前に戻ってきたころには、人の波は減っていました。落ち着いて本殿前に進み、手を合わせて一年のご加護を祈りました。途中で諦めることなく、最後まで「お山する」ことができて良かったなぁと思いました。3人とも初めての体験でした。この先、良いことばかりではなく、辛いことも待ち受けているでしょうが、困難から逃げるのではなく。力を合わせ、知恵を絞って克服していかねばと、改めて思った初詣でした。

十二月十三日、十二月二十二日

かつてのスクラップをめくっていて、面白いコラムを見つけました。 「煤払い」は平安期には既にあった風習なのだそうです。江戸時代は12月13日がその日。京都でも12月13日は今も昔も「事始め」の日で、 この日は、迎春準備を始める日。「煤払い」はその代表ですが、京都らしく、お弟子さんがお師匠さんに進物を持って伺い「おことーさんどす」のあいさつを交わす祇園花街の風習も季節ものとしてよく紹介されますね。江戸中期まで用いられた「宣明暦」では、毎年12月13日は暦注・二十七宿の「鬼宿」に当たり、最大吉運日。運のいい日でもありました。

 前回、「十二月十二日」の泥棒除けお札の話を書きましたが、主に関西を中心に、前日にこのお札を貼り、当日は大掃除に励んでいたことになりますね。江戸では、城内も町中も総出で、箒とハタキを持ってせっせ、せっせ。大掃除が済めば、家のだれかれ問わず捕まえて胴上げをする習慣もあったそうです。その締めくくりに、クジラ汁に舌鼓を打ったと江戸川柳にあるとか。

      「江戸中で五六匹喰う十三日」(2014年12月28日「産経抄」参照)。

はて、今年の私の12月13日はいったい何をしていたか、日記を振り返ると、家にあった貴重な9.5㎜のパテベビーフィルムをご持参いただいた方がおられました。連れ合いが、さっと点検したところ「ひょっとしたら」という貴重なフイルムの可能性もあるようです。掃除はしなかったけれど、日本映画史にとって運は良かったのかもしれません。 詳細はこれからですが。

さて、今日から年末年始休みに入る人もおられるでしょう。12月13日はまだ月の半ば。師走の忙しさで大掃除どころではなく、仕事納めの日に机の周りを掃除して、綺麗さっぱりになって新年を迎える準備を整える。1月まで会社勤めをしていたので、長く身についた習慣ともいえましょう。でも今の私はその大掃除にも目をつむり、アタフタとミュージアムのカタログ作りに集中。年内に完成させるつもりです。時々、Facebookを見て気分転換していますが、クリスマス前後には、かわいらしい写真、絵、素敵な音楽が載っていて、それらを見ているだけで、幸せのおすそ分けをいただいているような気分になります。

そんなキラキラしたクリスマスのちょっと前の日に、台湾出身で米国に留学中のローラさんのFacebook記事を見つけました。「冬至のお祝いに、冷蔵庫にあった抹茶小豆とパープル団子を作った」とあり、お皿に盛られた料理の写真が添えてありました。 まだお若いローラさんが、ご主人と一緒に冬至のお祝いをされた様子を想像し、またまた幸せのおすそ分けをいただいたよう。

22日は、日本も台湾も冬至で、同じ「冬至」の文字を使うのだと面白く思いました(というか、元は中国から伝わった暦なので、当たり前なのでしょうが)。例年なら、柚をお風呂に浮かべ、香りを楽しむのですが、毎日遅くまで町家にいるので、いろんなことが端折り気味。季節感もないがしろにしているのを棚に上げて、「冬至には、カボチャを食べて、柚湯に入るのが一般的日本の風習」だと日本の冬至の風習を書いて送りました。

ローラさんの漢字ばかりの文章に「小豆」とあるのを見つけて、「小豆の赤には、邪悪を寄せ付けないという魔よけの意味や、赤いものを体に取り込むことで健康を願う意味がありますね」と伝えましたら、「そういったことは知らない」との返事。てっきり台湾も同じだろうと勝手に思っていたので、意外な感じ。

漢代編集の周末以来の儀礼の書『礼記(らいき)』月令・仲冬に、冬至には、君子たるものは諸事をつつしみ、一陽来復の時を待つことが期待されていたことが書いてあります。

 「日の短きこと至れり、陰陽争い、諸生蕩(うご)く、君子斎戒して、処るときは必ず身を掩(かく)し、身寧からんことを欲す。声色を去り、嗜欲を禁じ、形性を安んず。事は静ならんことを欲し、以て陰陽の定まる所を待つ」

節分の豆まきのように、年の変わり目、季節の変わり目は、邪悪を防ぐために小豆を用い、厄除けぜんざいを食べられるのだろうと想像しましたが、ローラさんの場合は、冷蔵庫にたまたま小豆が入っていたのだそうです。

さて、彼女から、台湾での冬至の過ごし方を教えてもらいました。通常「tangyuan」(もち団子)を食べて、神々と祖先への感謝の意を示します。お菓子は、家族を一年無事に守ってくれることへの感謝の気持ちがこめられているようですが、中国語で「tuanyuan」(再会)の発音と同じなので、家族との再会をも意味するそうです。それから、「tangyuan」が良いと、健康的な年が来ることをも意味するそうです。で、ローラさんは、張り切ってパープル団子のお菓子を作られたのですね。

「冬至のお祝い」という考えは、今の日本では余り聞かないように思いますが、どうなんでしょう?古代中国では、最も昼が短い冬至は、太陽の運行の出発点と考えられていたそうで、日本でも日の出を拝んだり、宮中で祝宴が催されたりしてきたそうですから、『礼記』に倣って、かつては「お祝い」の考えもあったようですね。

貴人はともかくとして、庶民はどのような過ごし方をしてきたのでしょうか。最初に書いた柚湯ですが、江戸末期に、冬至に柚湯につかる習慣が出来たそうです。銭湯が客寄せに湯船に柚を浮かべたところ、「冬至」と「湯治」、「柚」と「融通がきく」を掛けた洒落た宣伝が効いて、江戸の庶民に大いに受けました。天保9(1838)年刊行『東都歳事記』に「今日銭湯風呂屋にて柚湯を焚く」と流行が記されているそうです(2011年12月、読売新聞夕刊連載「はじまり考」参照)。中国語の「tangyuan」と「tuanyuan」の発音が似ている洒落と同じ発想ですね。

もう一つの冬至にカボチャを食べる習慣は、柚湯より遅く、明治になってからのようです(同連載参照)。カボチャは「なんきん」とも言います。冬至に「ん」が2つ入る食べ物を7つ食べると運がつくという言い伝えもあるようです。にんじん、れんこん、ぎんなん、きんかん、かんてん、うどん〈かつては饂飩(うんどん)とよばれていました〉などが思い浮かびます。忙しくて、料理も手抜きになっていますが、今夜は早々に帰宅し、遅まきながら「ん」がつく食材を使った料理をして、一陽来復を願おうと思います。


「十二月十二日」の泥棒除け札

先月は「椿井文書」をキーワードに検索してくださった方からのアクセスで、驚くばかりのアクセス数がありましたが、ここ数日、再びアクセス数が上昇。そのキーワードとなっているのが、この泥棒除け札です。12月12日には209のアクセスがあり、びっくりポン!もともと普段アクセスは少ないし、最近は更新がなかなかできていないので、とっても驚きましたが、「まめに書いておいてよかった」と貯金ならぬ、貯文のありがたさ、大切さを思いました。
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これは、私が貼った「十二月十二日」のお守り札。このお札については、これまで何度も書きましたので、 重複を避けます。地域によって、このお札を書くにも違いがあるのですが、私はその中の一つに倣って、おもちゃ映画ミュージアムがある町内に住む12歳のお嬢さんにたくさん書いてもらいました。

そして、書いてもらったお札は、12月12日に開催した「第5回無声映画の夕べ」の参加者に配りました。宇治から参加してくれた「木津川の地名を歩く会」のメンバーは、一目見て「あっ、泥棒除け札だ」と言ってくれ、私を喜ばせてくれました。奈良出身の女性は、「奈良の実家がそうしていたことを思い出し、嬉しい」と喜んでくださいました。京都市内出身の友人は、「どろぼうよけのおふださん。ありがとうございました。帰ってすぐに、勝手口に貼りました。亡母が貼っていて、昨日(12日)日経新聞朝刊で、石川五右衛門の記事を見て、今年は書かねばと思っていたところ。ありがたかったわ」とお礼のメールを送ってくれました。

「おふださん」とあるのが、いかにも京都育ちらしい。信じる者は救われる。はたして、持ち帰って、家の出入り口に貼ってくださった方はどれくらいおられるのか興味がありますが、まさか一人一人確認するわけにもいかず…。私自身は、写真のように貼り出し、やるべきことを果たした満足感でいっぱい。どうぞ、ご利益がありますように!!!

さて、無声映画の夕べで上映したのは、今年発見されて話題になった「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助の最晩年の作品『実録忠臣蔵』(1926年)。当初は、赤穂浪士が本懐を遂げた12月14日に上映しようと考えましたが、京都の祇園祭の日に中村錦之助さんの『祇園祭』(1968年)を上映すると、当該地域の人が忙しくて見られないと聞いていますので、敢えて14日を外しました。おかげで、遠く東京から赤穂観光大使さんにも参加していただくことができました。12月14日ばかりに気を取られていたある日、ふと、以前から興味を持っていた泥棒除け札の日だと気付きました。それから書き手探しを開始。そして、無事この日の配布に間に合わせることができました。小さいことですが、「為せば成る」の心境です。

 

ふぐ会席で忘年会

12月7日午後6時、「木津川の地名を歩く会」の忘年会に参加しました。脱会してから11か月が経ち、それ以来初めて会う仲間もいて、久々に会う喜びで話にワンサカ花が咲きました。会場は、 城陽市平川の京都八尾忠で、ふぐ会席のごちそう。もともと貧乏な出なので、言うのも恥ずかしいのですが、ふぐ尽くしは初めて。「一生に何回食べられるかわからないから、喜んで参加します」と返信メールを出してから、とっても楽しみにしていました。
スキャン_20151209 (2)先附けは、ふぐにぎり寿司 
吸い物は、かに真蒸
造りは、てっさ
蒸し物は、粟蒸し
焼き物は、柳鰆柚庵焼
焚き合せは、ぶりの酒粕煮
揚げ物は、ふぐ唐揚げ
酢の物は、海老サラダ風
ご飯は、ふぐ雑炊
水菓子は、パンナコッタ

と、店のチラシを羅列していますが、ほぼこのような内容で、心と胃袋を満たしてくれました。

せっかくのふぐなのに、「ふぐを食べない」という人が2人いて、お店は別メニューで対応してくださいました。

一人は、かつてふぐを食べて、唇がピリピリして懲りたのだとか。みんなが美味しそうに食べるのを見て、「ピリピリしないか」と気遣ってくれましたが、ノー プロブレム。もう一人は、100歳近くまで生きなきゃいけないので、少しでもリスクがあるものは避けるという安全策だそうです。今84歳。京都ライトハウスに城陽から毎週通って、朗読ボランティアを長年継続されています。もちろん、城陽市内でも大活躍。

この日の主人公は、私が人生の師匠と仰いでいるこの女性でした。夫と死別後、ケアハウスに入居されていますが、青春時代ロマンスがあった男性と近年メールのやり取りをしておられます。同じ戦争体験を持つ者同士、話が合うのだそうです。でも会っておしゃべりするのは年に1度だけ。「まるで七夕の織姫と牽牛みたい」と皆、最初は興味本位で「それで、それで」と聞いていましたが、徐々に印象が変わってきました。どこにも出かけられず、ケアハウスに一日中いるしかない高齢者たちにとって、ボランティアや絵画教室、あるいは古文書勉強会にと出かけて社会と接点を持ち、活動しているこの女性は、羨ましく思う対象でもあり、妬みのそれでもあるでしょう。嫌な思いを味わされることもあるのだそうです。

そうした日々を過ごす彼女にとって、あるいは彼女のことを「恋人」と呼ぶ男性にとって、励まし、理解し、喜怒哀楽を共にする異性の存在は、最後まで生を全うし、充実して生きるためにかけがえのないものなんだなぁと思いました。高齢社会を生きるとはこういうことかと思いながら、人生の先達の話に耳を傾けました。

いつも辛口コメントを寄せてくれた別の男性は、私に「籠の鳥になっていないか?」と気遣ってくれました。あちこち出かけて見たり聞いたりするのが何よりも大好きな私が、ミュージアムの番だけで終わってしまって、どこにも行けずストレスが溜まっていないかと心配してくれていたのです。実際、友達の「田の神さぁ」を撮った写真を見て、自分も見に行きたくてウズウズ。彼の心配は図星でした。

それで、来年マイクロバスをチャーターして、伊賀市内に友人が始めた美術館「靑山讃頌舎(あおやまうたのいえ)」と有名な枝垂桜を見に行くことに即決。こういう話をしていると、人生の師匠同様、心がウキウキしてきます。良い忘年会でした!!!

自転車でフラリ、街中散歩

京都市内で活動するようになって一番楽しいのは、自転車で走っているとき。「へぇ」、何だろう」と思うような家や標識、石碑などがいっぱいあって面白い。12日は日本最初の大スター尾上松之助が、最後に居を構えた堀川丸太町周辺を走りました。
DSC03804 京都市上京区堀川通丸太町上ル上堀川町118の出口内科クリニック。田邊ビル1階に昨年5月に開院。11月14日に、おもちゃ映画ミュージアムで「第5回無声映画の夕べ」を開催し、その時に、1926(大正15)年9月16日に営まれた尾上松之助の葬儀の記録映像も上映しました。20万人もの人々が一目見ようと詰めかけ、「アリの這い出る隙間もない」ほど。奴行列が出て、騎馬隊が出て、号外が出て、屋根の上から見る人、カンカン帽に扇子で煽ぎながら沿道で見送る人々…。余りの凄さに、何度見ても「びっくりポンや!」の映像です。古い地図で調べると、葬送の出発点がこの田邊ビルの辺りなのだそうです。戦中の強制疎開で、堀川通は大きく変わりましたが、松之助の家にあった庭の一部がこの一角にかかるくらいでしょうか。

会員の篠原俊次さんが丹念に資料を調査され、日活大将軍撮影所までの葬送行程案を作ってくださり、その資料も参加者に配りました。滅多に見ることができない映像ですから、ぜひとも出発点縁の田邊ビルさんと出口内科医さんに見てもらいたくて、チラシを持参しましたが、徒労に終わりました。

超方向音痴を克服させようと、篠原さんはあの手この手を駆使して下さいますが、一番ネックになるのは本人に克服しようという意思が乏しく、覚えようという意欲がないこと。そのくせどこにでも行って話を聞きたがる悪い癖の私。いつもながら文字で書いた「堀川丸太町」には、さほどピンときませんでしたが、ところがどっこい、実際に自転車で走っていると今からウン十年前の青春の日々が懐かしく甦ってきました。この日の街中散歩は、徒労だけでは終わらず、面白い気付きもありました。
DSC03809「目玉の松ちゃん」が暮らしていた場所の目と鼻の先に、二十歳ごろの私は住んでいました。堀川商店街は、いつも買い物をした場所。この下立売通りを西へ入ってすぐの女性ばかりの寮でした。
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今その場所は更地になっていました。近所のお店屋さんに尋ねましたら、随分前に管理を任されていたお魚屋さんがなくなり、その奥にあった寮も姿を消したそうです。木戸を潜って奥に進むと2階建ての家屋があり、8部屋ありました。初めての一人暮らしだったこともあり印象が強く、その時の住人と交わした言葉も顔も思い浮かんできます。

DSC03814 (2)すぐ西の猪熊通りを北へ進むと老舗の有職料理で有名な萬亀楼(京都市上京区猪熊通出水上ル蛭子町387)。いつもこの前を通って家賃を払いに家主さん宅へ通っていました。お妾さんだと聞いたことがあり、大人の世界を覗いたようで艶っぽくドキドキしたものです。

当の萬亀楼は貧乏人の私にはついぞ縁がないままでしたが、平成14年1月に京都市の歴史的意匠建造物に指定されていて、古民家大好きな私の心にウン十年後に響きました。でも、お財布には未だ響いてこないので、いずれ宝くじが当たったら縁をいただきに参りたいもの。
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HPによれば、平安中期の藤原道長の時代に宮廷の料理方を努め、鎌倉期に源頼朝から姓を賜わって庖丁方を努め、豊臣秀吉の命で八条ノ宮(後陽成天皇弟宮)家、後に京極ノ宮家、有栖川宮ノ家に仕えておられた家柄。生間(いかま)流の式庖丁を継承し、現在は30代目家元だそうです。烏帽子、袴、狩衣姿で、手を触れることなく庖丁刀と俎箸だけで魚や鳥を切り分けて、瑞祥というおめでたい形に表す儀式は、ニュースでは見ますが、実見したことはまだありません。7万円払えば食事前に実演してくださるそうですが、これも宝くじ頼みの我が身では、なかなか。

でも、耳寄り情報も。12月13日(日)、14日(月)の11時55分と12時半から、京都市勧業館「みやこめっせ」で実演されます。第110回京料理展示大会のイベントの一つだそうです。
DSC03819何だかとっても懐かしくなって、昔通っていた銭湯も探しました。猪熊通りを南へ自転車を漕いでいますと、瓦の造作物が一杯デコレーションされている家が目に飛び込んできました。

京都市上京区猪熊通椹木町上ル大国町の堤瓦商店。町名にふさわしく、店先に大きな大黒様がおられます。

大国町の由来が掲示されていました。 「永い間鍵屋町と呼ばれていたが、明治5年蛭子町があるのだから縁起を担いで大黒町と命名した云々」。私が二十歳ごろには、今のように瓦LOVEではなかったから、気に留まらなかったのでしょう。もっとも、そのころから瓦のデコレーションが施されていたのかまでは確認していませんが。
DSC03824それにしても鬼瓦がワンサカ。見てるだけで楽しくなります。我が拠点の町家に置いている古い天窓も、興味を少しでも示した人には、瓦の歴史を示すものとして必ず紹介して、見てもらっています。この天窓は大振り1枚の平たいガラスの周りを幾枚かの本瓦で四角く囲った形状です。屋根を葺き替えた今は、本瓦と同じ形状のガラス瓦4枚で構成する天窓に変化しています。
DSC03825通りがかりの人に「このあたりに銭湯がなかったですか?」と尋ねましたら「20年ほど前に銭湯をたたまれ、今は駐車場になっている」と教えてもらいました。

「時代の変化だからしょうがないのかな」と思いながら、かつて通った銭湯の場所へ行ってみました。
「京都市上京区椹木町通堀川西入講堂前」と書かれた市の掲示板の南側に、その駐車場はありました。驚いたのは、そこに歴史地理学者・中村武生さんの説明版と石標があったこと。
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石標には「平安京左京二条二坊八町 春宮坊東宮町跡」「此北 聚楽城 武家地 上杉景勝屋敷跡推定地」「此南 聚楽城 武家地直江兼続屋敷跡推定地」とあります。「へえ、驚いた。私が通っていたのは、そんな由緒あるお屋敷跡にあった銭湯だったのか」と。それにしても銭湯の名前が思い出せない。次に引っ越した上京区内の銭湯の名前は「石川湯」と覚えているのに…。

駐車場前の「チタチタ喫茶」に飛び込み、物知りの人に聞いてもらったら、「マルヤマ湯」だったとわかりました。ついでに「直江兼続の屋敷は、もっと南だから銭湯があった場所はその広い屋敷の庭にかかるかどうかでしょう」とも教えてもらいました。ネットで調べたら、この推定地には、いろんな説もあるようなので、これ以上深入りはしませんが、京都の町は本当に面白い。歴史の舞台だった場所が、そこここにあり、飽きさせない魅力があります。次はどこを走ろうかしら。


見つけた!泥棒除け札

時々このブログで検索していただく記事に「泥棒よけ札」があります。関連して「逆さ文字のおまじない」も読んでいただいています。何度か書き、逆さ文字の「茶」については、宇治田原町で知り合いが撮影した「茶」の字の写真を載せましたし、「十二月十二日」と書いて、玄関先に張り出したお札の写真は、今年3月26日付けで、岐阜市の川原町で見た写真を掲載しました。 岐阜で見たのは、逆さ文字ではなかったので、私が見たいと思い続けている「十二月十二日」の逆さ文字への思いは募るばかり。

最初に、このお札のことを知ったのは京都市内の人の新聞投稿文だったし、友人の男性が「宮川町のお茶屋さんで見た」とも言っていたので、京都市内を歩くときは、屋根の上の鍾馗さんを見つける楽しみと同時に、このお札が張られていないか、挙動不審と思われない程度に目をキョロキョロさせています。

そして、ついに見つけました!それも、我が拠点の近くの町家で。 
DSC03476京都市中京区三条油小路西入南側の京都工芸繊維大学の「D-Labアネックス」(愛称:ににぎ)です。たまたま通りかかった日は、フランソワ・アザンブールさんと多田羅景太さんの作品展の最終日。風情ある京町家の佇まいが目に留まって暖簾をくぐりました。

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 玄関入ってすぐ左手に、その札がありました。係の女性に許可を得て、早速撮影。

DSC03468 このお札は、確かに「十二月十二日」と逆さに貼ってありますが、「1920 姥光園」と書いてあります。大正9年、今から95年前に書かれたお守り札なんですね。姥の文字があるし、立派な落款もありますので、12歳の子供が書いたものとは異なるようです。でも前掲「泥棒よけ札」の文中にも引用したように、「光園」さんは12月12日生まれの長命な女性だったのかもしれないと想像しています。この日に生まれた女性に書いてもらうと効果があるとする地域もあるそうですから。

今年後半の私の頭の中は、生誕140年を迎えた日本最初の映画スター「尾上松之助」一色。光園おばあさまが、このお札を書かれたころは、「目玉の松ちゃん」の全盛期。彼女も尾上松之助の 映画やお芝居を見に行ったのでしょうか。このお札が書かれた6年後に「目玉の松ちゃん」は満50歳で亡くなります。

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木造二階建てのこの町家は、築100年余りで、稀にみる表屋造。かつては油問屋だったそうです。虫籠窓、見世棚、通り庭、おくどさんなどが残って、当時の名残りを今も味わうことができます。その素敵な和の佇まいをご覧ください。中庭手前の和室に素敵なイスが置かれています。

DSC03473環境&インテリアデザイナーのフランソワ・アザンブールさんの作品。市内のヴィラ九条山に招聘中のアーティストで、ヴィラ九条山でのプロジェクトは、職人仕事と産業技術を組み合わせた新しい木工表現の探求を目的とされているとか。

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 もう一人、多田羅景太さんの「子育てを楽しくする」コンセプトでデザインされた家具も素敵でした。

お二人の作品展最終日に、見られたこともラッキーでしたし、2012年12月からずっと探していた逆さ文字の「十二月十二日」の泥棒よけ札を見ることができたのも幸いでした。

さて、おもちゃ映画ミュージアムでは、石川五右衛門が釜茹でにされた「十二月十二日」の午後3時から、第5回無声映画の夕べをします。上映するのは、今年発見された尾上松之助最晩年の作品『実録忠臣蔵』 (池田富保監督、1926年、日活大将軍)。若手活動写真弁士・坂本頼光さんの活弁付で上映します。また、京都大学大学院人間・環境学研究科非常勤講師で、神戸映画保存ネットワーク研究員の羽鳥隆英さんに「欠落した環を埋めるー『実録忠臣蔵』発見の意義」と題して講演もしていただきます。狭い場所ですので先着30人で、予約優先。茶話会のような交流の場も設けます。一般1700円(正会員1500円)。

せっかくの日程なので、何とか。泥棒よけ札を用意して、参加者の皆様にプレゼントできないかと画策中です。
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