西陣で京呉服を商いする家をお借りして活動している私どもの「おもちゃ映画ミュージアム」。そのすぐ傍に、私と同郷の富山県出身者が多く住まいし、その拠点となる建物があることを知って、びっくり!!!!!灯台下暗し。
「見に行かなきゃ」と記事を読んですぐに自転車に乗って智恵光院通一筋西の裏門通と中立売通の交差点を少し南に行ったところへ走りました。中立売通は良く自転車で走るのですが、「裏門通」の名称があることをグーグルマップで初めて知りました。ましてや、この通りを南下するのは初めて。

交差点を南に下がって直ぐに、新聞に大きく載っていた「富山県京都南砺利賀享友会館」がありました。

享友会館の向かいは正親小学校。1869(明治2)年京都で開校した64の番組小学校のひとつです。上掲地図で智恵光院通沿いの緑色に塗られているのは辰巳公園。1945年6月26日午前9時半ごろ、この辺りにアメリカの爆撃機B29の編隊(6~10機)が近畿地方に侵入し、そのうちの1機がこの周辺に7発の爆弾を投下して、少なくとも43人以上が亡くなり、200軒以上が倒壊したと伝えられ、そのことを記した石碑がこの公園に設置されています。昨年6月28日に近くにお住いの水口章さん(今年91歳)に体験をインタビューした映像を上映し、佛教大学名誉教授原田敬一先生にお話をしていただきました。
その時には、利賀村から移住してきた人々が住まいしていた地域でもあることを全く知らずにいたので、被害に遭われた人々の中に同村出身の人がおられたのか気になって、22日に改めてそのことを尋ねに行きました。

20日、22日とお話を聞かせてくださった亨友会館管理人の浦辻敏雄さん(77歳)。まだ子どもだった1955年に一家で雪深い利賀村から京都に出て来たそうです。それまでの冬の間はお父様が出稼ぎに来ておられましたが、利賀村のかやぶき屋根に穴が開いて、村人の“結い”に頼って屋根を葺きなおすにしても大変なお金がかかるので、伝手を頼って移住を決意したのだそうです。私が散居村で知られる砺波平野の出身であることを話すと「そこは米が採れるし良いとこや。けど利賀村は山地なのでコメも作れず、とても大変だった」と利賀村での暮らしを語られました。

玄関入って右手に菅笠と雪靴が掛かっていました。亡くなった母は、農閑期、この菅笠を縫っていました。その様子を思い出して思わずジーンと来ました。雪の多い時は、父が藁で編んだ靴を履いて学校へ行きました。小学校の低学年の頃だと思いますが、防寒服の“アノラック”が登場し、26人の同級生たちが次々これを買ってもらっているのを横目で見ながら、家が貧しくていつまでもお下がりのポンチョのような防寒着を着なきゃならない我が身が悲しくて、一度はストを起こして学校をずる休みしたことがありました。そうした恥ずかしい思い出までも記憶の底から這い出てきました。

当時の私そっくりの子どもたちの写真も。10歳も離れた姉の頃は団塊の世代で子どもが多かったですが、私の頃は、たった26人の同級生しかおらず、もちろん1クラスでした。全くこの写真の通りの子ども時代。


浦辻さんから見せて貰った古いアルバムには、村の最も大きなイベント獅子舞の写真が幾枚もありました。私の実家の村にも獅子舞があり、兄、甥、その子と三代にわたって獅子舞の中心になって9月の秋祭りの花形を担っていました。

利賀村も含む砺波地方には獅子舞の文化が大切に保存されていますが、この利賀村の山道を登ってくる大きな獅子にはびっくりしました。実家の村に伝わる獅子より大きいと思います。
随分昔のNHKの番組で「おばんでございます‼」と司会の宮田輝アナウンサーが全国各地を訪れて、その土地の文化や芸能を紹介する番組がありました。あるとき、北海道からの中継で、私どもの村の名前と同じ村の人たちが、同じ獅子舞を披露しているのをみて驚いたことがありました。生活が貧しくて北海道開拓民として移り住んだ人々が故郷の村の名前と文化を継承していることを初めて知った瞬間でした。
浦辻さんにお聞きしたところ、この享友会館前の広場でも故郷をなつかしんで獅子舞をしたことがあるそうです。獅子舞文化は自分たちのアイデンティティそのものですね。
気になっていたアメリカの爆弾投下による利賀村の人々の被害についてはわからないそうです。新聞記事では「利賀村からの出稼ぎは100年以上前に始まったとされる」と書いていますが、移住には触れておらず、戦争中はさほど多くの富山の人はこの地に住んでおられなかったようです。戦後になって、西陣には働き口があるということで移り住む人が続きました。やがて自分たちの核になる施設を作ろうと皆でお金を出し合って1949(昭和24)年に平屋建ての建物を作ったのだそうです。その折の写真もありました。
終戦後の西陣では御召作りが盛んで景気が良かったそうです。記事によれば、利賀村から移ってきた人々は、西陣織の撚糸の仕事を主に担いました。「溶けた糊を使うので、汚れがちな仕事で、京都の人はやりたがらなかった。利賀の人は我慢強くてね」と浦辻さんの文言が載っています。撚糸から機織りにかわった人もおられるそうです。浦辻さん自身は今年創業306年目を迎える老舗の「矢代仁」で働いていたそうです。青春の一時、室町に縁があった私にとっては聞き覚えがある社名だったので、懐かしく思いました。

これは、開館した1949年の「京都利賀享友会」の会員住所録。五番町、北野天満宮周辺、西陣京極周辺など方々に住んでおられたようです。その頃の西陣京極付近にはたくさんの映画館があり、今では想像できないぐらいの大賑わいだったそうです。

今も、こうした集いの場が設けられているほか、共同の墓地もあるそうで、移住地での自分たちの暮らしを守る紐帯でお互いに支え合う様子が見えるようです。今の建物は二代目で1954年に完成した3階建て。20日に訪問した時は、地域の小さなお子さん連れの方々が2階にある大きな広間を活用されていました。利賀村の物産や観光案内パンフレットが幾種類もおかれていました。
その中の一部を持ち帰りました。私の実家砺波平野にある散居村が表紙を飾っています。チューリップ栽培もしていた“かいにょ(防風林)”で囲まれた家で、まさに右下の風景そのまま。とても懐かしいです。

平成の始まりと共に利賀ダム計画が始まり、現在も工事中のようです。実家は庄川の支流にあたり、その水で今も兄たち一家が稲作をしています。
自転車で直ぐ行ける近距離で富山の情報に接することができたことを驚きつつ、浦辻さんと郷里の話ができたことをとても嬉しく思いました。浦辻さん自身は子どもの頃に京都に移住してこられたので、富山弁が聴けなかったですが、私はいつまで経ってもイントネーションが宙ぶらりんのまま💦


これは友人の渡辺亮さんの絵画なども展示されている富山県の射水市新港博物館で4月19日まで開催中の「日本人の心と妖怪ー小泉八雲が魅せられた世界ー」のチラシです。丁度NHK朝ドラ「ばけばけ」が最終週で、小泉八雲が亡くなろうという場面が放送されています。彼の蔵書の多くが富山大学附属図書館に所蔵されています。朝ドラの中でも紹介されていた「ろくろ首」や「耳なし芳一」も興味深いですが、表紙左下にある南砺市の妖怪「センポクカンポク」が面白いので、浦辻さんに尋ねましたが、直接はご存じではありませんでした。かくいう私も初めて知った妖怪です。渡辺さんのイベントは2月28日に終了してしまいましたが、まだ展示そのものは開催中ですので、春休み期間中に、この展覧会を見にお出かけいただければと、ご案内申し上げます。















































































