歴史探訪京都から

-旧木津川の地名を歩く会-

平安時代に宮中で行われた「重陽の節句」の設え

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昨日は9月9日。良いことを表す陽数(奇数)の中で一番大きな「9」という数字が重なることから「重陽の節句」と言われている佳き日。

京都市の上京区役所内で、平安時代の宮中で行われていた「重陽の節句」の行事を紹介する展示が10日まで行われていると知って、自転車に乗って見に行ってきました。

写真の菊の鉢に綿を被せているのが「着せ綿」というもの。重陽の前夜、菊に真綿を被せ、夜霧と香りを移し、その綿で顔や体を拭うと、不老長寿を保つといわれたそうです。
着せ綿








展示を担当されたのは、いけばな嵯峨御流(昔、少しばかり習ったことがあるので、懐かしい響き)の石川佳甫教授だそうです。


展示に用いられた真綿は、インド茜と241702266_4182028528581289_1887051062150751188_nクチナシで染色。

































もっと薄くふんわりのせるのかと思っていましたが、少しでも多く夜霧を含ませようとたっぷり目?DSC04841 (2)





































上に掲げられているのは、「茱萸袋(しゅゆぶくろ)」。ネット検索すると「須萸袋」の漢字もみられました。「茱萸」の文字は、昨年京都国際映画祭で大林宣彦監督の特集をした折り、ご息女の千茱萸(ちぐみ)さんとご縁を頂いたことから、この難しい漢字が書けるようになりました。

菊の効能で不老不死となった「菊慈童」伝説(古代中国、周の時代の穆王〈ぼくおう〉と従者だった少年慈童の話)や9月9日に「茱萸囊(しゅゆぶくろ)」を持ち、山に登り、「菊酒」を飲んだところ災いが消えたという故事が中国から伝わり、菊は邪気を祓う延命長寿の花とされました。
ゴシュユの実











写真の「呉茱萸」の実は、香りがあり、生薬としても用いられたようです。
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百歳雛(ももとせびな)

共に白髪となったおめでたいお人形で、江戸時代から健康と長寿を祝う人形とされてきました。あるいはまた、3月3日「上巳の節句」で飾ったお雛様を、「重陽の節句」の折りに、虫干しを兼ねて再び飾る「後の雛」という風習も江戸時代庶民の間に広がりました。女性の健康や長寿を願う「後の雛」は、最近注目を浴びつつありますし、共白髪の「百歳雛」は、還暦や米寿のお祝いとしても喜ばれているそうです。
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「菊酒」。中国では菊の花、葉、茎をキビや米と混ぜて醸造酒としてつくられていたそうですが、日本では菊の花を酒に浸して飲んでいました。黄菊が本式とされているそうです。右隣には、着せ綿を模した和菓子が。
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こなし(白餡に小麦粉などを加えて蒸して作る生地)や練り切り(白餡に砂糖や山の芋などの繋ぎを加えて練った生地)で菊の花を作り、白の薯蕷(じょうよ。つくね芋で作る)をきんとんに仕立て、綿に見立てています。美しくて上品な和菓子ですね。着せ綿の軸

































「着せ綿」は、大切な人の健康を祈って贈り合う習慣もあったそうです。なかなか生活にゆとりがなくて、こうしたゆかしい行事を真似することはできませんが、「菊酒」なら実行できそうです。一日遅れになりましたが、今夜早速食用菊を買ってきて、酒に浮かべてやってみましょう。

「上狛の『精霊踊り』存続危機」の記事を読んで

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今日の京都新聞朝刊の記事「精霊踊り存続危機」を読んで、とても驚き、そしてものすごく惜しく思っています。このニュースを読まれた方が検索されたのか、2012年8月14日に山城町上狛で「精霊踊り」を見学した記事を幾人もの方が読んでくださったようです。それはこちらです。

このお祭りに一人見学で付いて歩いた時、初盆を迎えた家の前で、最年長のシンボチと呼ばれる大団扇を持った男性が「天国からようこそ里帰りされました。わずか4、5日の間のことですがゆっくりしてください。精霊踊りの一節を仕り候。な~むあみだぶつ。やい、よいとこせ~」と朗々と口上を述べられました。その時、何と表現したら良いのかわからないほど「良いなぁ~」と思ったことが、9年経った今でも忘れられない感動でした。良い伝統行事だなぁと思っていたのですが、後継者難から存続の危機に面しているとのこと。ちっとも知らずにいただけに、驚きました。

私が「木津川の地名を歩く会」を率いながら、郷土史に関心を持っていた頃は山城地方にも中世から続く宮座が残っていましたが、今はどうなのでしょう?その頃でさえ、同じ木津川市内のある宮座行事がサラリーマン化や少子化の影響で存続が危ぶまれたことがありましたが、それからどうなったかなぁ?と気になってきました。

精霊踊りを見た翌日、奈良県大柳生の太鼓踊り(奈良県指定無形民俗文化財)が見納めになると知って「一度途切れたら、復活は至難の業だ。それは大変だ」と思い、大柳生を訪ねました。その時いろいろ教えて下さった地元の世話役さんから、その後「中学生達が伝統を引き継ごうとしている」と教えて貰って本当に良かったと嬉しく思ったものです。中学生達がこの祭のことを勉強しようと取り組んだ日のことはこちらで書きました。山城町の精霊踊りも何とか伝統の灯を消さないで済む方法はないものでしょうか。消えてしまうには、何とも惜しい素晴らしい伝統行事です。

祇園祭で、今頃知ったこと

先日、テレビで俳優の林遣都さんが、大島優子さんと結婚へという話題をしていました。普段ならさほど気にも留めない話題ですが、26日にお借りしていたDVD『京都の密かな愉しみ~祇園さんの来はる夏」(2019年、NHK)を見て、林遣都さんが祇園祭放下鉾の囃子方の役で出演されていたことから、目が留りました。

DVDをお貸しくださったのは、放下鉾の囃子方をされている堀さん。このドラマ制作に放下鉾の皆さんも協力されていて、堀さんは林遣都さんが演奏する祇園囃子の笛の指使いをとても褒めておられました。音こそ放下鉾の皆さんの助けがあったようですが、指使いは正確で、しっかり覚えておられたので、そのプロとしての姿勢に感心されたのです。「それに引換え」というのが、映画『祇園祭』のヒーローとヒロインのお二人だとか。多忙だったでしょうし、ヒロインの「あやめ」役を誰が務めるのか、二転三転したようですから、マスターする時間も足りなかったでしょう。

壬生寺で綾傘鉾の棒振り囃子の稽古風景が描かれていました。今月4日、たまたま通りかかった梛神社境内(京都市中京区壬生)から祇園囃子が聞こえてきて、誘われるように境内へ。
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神社の方にお聞きしたところ、梛神社での綾傘鉾(会所は綾小路室町西入ル)の棒振り囃子奉納は初めてのことなのだそうです。

梛神社は、祇園囃子発祥の地をアピールしようとしていると耳にしたことがあります。ネットで国立国会図書館のレファレンス事例を見ました。

「疫病を鎮めるとされる牛頭天王 (ごずてんのう)(=素戔嗚尊・すさのおのみこと)を東山の八坂に迎えるとき,牛頭天王の神霊を一旦安置したのが神社の起源と伝えられています。梛の森に祀ったことから『梛ノ宮』と言われました。
その後,神霊を八坂にうつすとき,地元民が傘をかざして棒をふり,音楽を奏して神輿を送りました。これが祇園祭の傘鉾のはじまりだとも伝えられ,『元祗園社(もとぎおんしゃ)』とも呼ばれます。」と書いてあって、伝承ですから本当のところはわかりませんが、興味深く読みました。これから梛神社で祇園囃子棒振り奉納は、恒例になるかもしれませんね。

ドラマで知ったことですが、綾傘鉾囃子方の稽古は壬生寺でやることが多いのだそうです。梛神社と壬生寺は直ぐ近所。綾傘鉾は応仁の乱以前の記録にも出てくる歴史の古い鉾ですが、元治元(1864)年の禁門の変で焼けたり、住む人が少なくなったりして、二度も途絶えたそうです。けれども、残り少ない鉾町の人々の情熱で、昭和54(1979)年に復活。写真には棒振りは写っていませんが、この後3人の男性が棒振りという踊りを披露するのを見学しました。

この棒振り囃子という踊り付きの珍しいお囃子は、壬生の六斎念仏保存会の人たちが担当しておられるそうです。六斎念仏と綾傘鉾は江戸時代からの付き合いがあり、祇園祭綾傘巡行の時には、壬生の六斎念仏保存会が奉仕されるのだとか。ドラマでは「頼りになる専属楽団」と表現していたのがわかりやすかったです。

これもドラマで知ったことですが、全部で来年鷹山が復帰すれば34を数える山と鉾のうち、囃子方がいるのは14基だけなのだそうです。映画『祇園祭』には、菊水鉾と放下鉾そのものが“出演
し、その囃子方に加え、長刀鉾囃子方も“参加されました。長刀鉾は、この映画の為に昭和27(1952)年再建した菊水鉾をモデルに新造されました。「なぜ、この三鉾なのか?」と学生時代に囃子方として映画に“参加”された方に尋ねましたら、囃子方が直ぐ揃うのがその三鉾だったからではないか」と仰っていました。

堀さんも仰っていましたが、私たちが耳にする祇園囃子はコンチキチン♪とどれも同じに聞こえてしまいますが、映画『祇園祭』をご覧いただきましたら、「あっ、これはうちの囃子や」「あっ、これは余所や」と聞き分けておられました。「それぞれ独特の囃子方や曲目をもっておられて、昔の人は近付いてくる囃子の違いで、次の鉾を言い当てられた。放下鉾は囃子言葉がたくさん入るのが特徴や」とはドラマの台詞。

7月1日放下鉾の「吉符入り」の様子も映っていました。この日、それぞれの鉾町で祇園祭の神事が始まります。1ヵ月にわたる祭の無事を祈り、祭に関わる人々の絆を深める直絵(なおらい)が行われ、放下鉾では蒲鉾を出すのが恒例だそうです。外の鉾町ではどうなのでしょうか、興味があります。

7月1日放下鉾では会所二階の窓をあけて囃子の稽古をする二階囃子が始まります。いよいよ京都の夏が来たという感じで気分も盛り上がります。この日京都市議会議場で「籤取り式」が行われます。定位置を持つ「籤取らず」の山鉾は今年9基でしたが、来年は鷹山も加わって10基になります。残りの山鉾で巡行の順番を決めます。縁起が良いとされる一番籤は毎年注目の的。受け取った籤は箱にしまっておき、巡行の日の「籤改め」まで保管されます。

7月5日長刀鉾(四条東洞院西入ル)の会所二階の窓辺で、稚児舞「太平の舞」が披露されます。映画『祇園祭』で注連縄を切った生稚児は、中村錦之助さん甥の中村光輝(又五郎)さんで、後ろで支えているのがその兄の中村米吉(歌六)さんだということが今回の聞き取り調査でわかりました。
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何とか思い出話をお聞きできないものかと思って、ある方に依頼しています。
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映画『祇園祭』には稚児人形も出演していました。放下鉾の皆さんと映画を見たとき、一斉に「三光丸だ!」と声があがりました。可愛らしい顔の三光丸はご覧の通り稚児舞ができます。この人形を操っている人が誰なのかも気になります。それにしても、前々回のブログにも書きましたが、室町時代のお話になぜ稚児人形が登場したのでしょうか?
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綾傘鉾に伝わる囃子は6曲で、放下鉾は39曲もあります。演奏する曲も場所も決まっていて、指揮者役は太鼓が担当。放下鉾の堀さんが、先祭のご奉仕を終えて大切な笛も展示に貸して下さいました。手前にあるのは鉦摺り(シュモク)で、クジラのヒゲで作った柄の先に象牙の頭が付いています。その上にあるのが、
○と●で表された独特の譜面。右の音楽研究者が表した五線譜では演奏できないと堀さん。子どもの頃から稽古を始めて一人前の演奏者になるには随分と時間がかかり、進学や就職で離れる人もおられて、どこも囃子方の後継者問題を抱えておられます。

34基ある山鉾町は、北は姉小路から南は松原通まで、東は東洞院から西は油小路までの範囲にあり、鉾町を出てから八坂参道の四条通を進み、辻回しで方向転換する河原町通までは神様にお聞かせするためのゆったりとしたテンポの「渡り」のお囃子で、厳かに進みます。辻回しで河原町を進み御池通を西進し、自分の山鉾町へ戻りながら通りを清めるときは、お囃子のテンポが早くなります。「戻り囃子」は軽快で華やかな感じがします。神様の渡りが近付いていることを賑々しく人々に知らせてまわります。「神人和楽」は祇園祭の精神。

7月17日前祭の巡行は、神様がお出ましになる「神幸祭」の道を清め、24日後祭の巡行は、神様がお戻りになる「還幸祭」の道を清めるもので、昭和40(1965)年までは、ずっと2回巡行していました。翌年から平成25(2013)年までは7月17日に合同化されましたが、平成26(2014)年から後祭が復活し、今日に至ります。先祭は左回りに道を清め、後祭は右回りで清めます。先祭の最後は船鉾で、後祭のしんがりは大船鉾と、共に最後を飾るのは船の形をした鉾。幕末の禁門の変(1864年)で焼失した大船鉾は2014年に復興し、木彫りの龍頭は白木のままで巡行していましたが、今年金色の漆箔が施されました。来年は神々しい大船鉾の巡行が見られると良いですね。

まだ見学していない神事に10日に行われる「神輿洗式」があります。主祭神のスサノヲを乗せる神輿を、神職等が汲む鴨川の水で洗い清める儀式。神輿洗から戻った境内で神輿3基が飾り付けられる様子は2012年に見学しました(下掲写真)。
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そして、翌11日から鉾立が始まります。13日放下鉾見学で見た様子は、7月23日付けで書きました。この時は「縄絡み」という釘を一本も使わずに伝統的工法で組上げる集団を「作事三方」と呼ぶことをまだ知りませんでした。山鉾に縁がある建設業者らが務めます。骨組みを組上げる「手伝い方(てったいがた)」、山鉾の屋根に高くそびえる「真木」を立て、屋根を付ける「大工方(だいくがた)」、巨大な木の車輪を取り付ける「車方(くるまかた)」の三組が力を合わせて巨大な山鉾を組み立てるのです。豪華な懸装品(けそうひん)を飾り付けるのは町方衆。
228472905_4060060520778091_4650869140150069906_n13日の見学の折に買い求めた放下鉾のちまき。厄除けに御利益がありますように。ドラマでは、洛北の農家の人たちがちまきを手作りしている様子が映っていました。かつては「ちまき笹」は洛北の花背で採れたそうですが、鹿の食害で激減し、今は宮津など遠くから取り寄せているそうです。

6月初めに83歳の函谷鉾の方が来られてお話を伺ったのですが、以前河原町六角西にあった映画館前で投げたちまきが、運悪く女性にあたったことがあるそうです。それ以降、鉾の上からちまきを投げることが取り止めになり、函谷鉾の人たちは、代々その女性のお墓参りを欠かさないそうです。

お話を聞かせて下さったこの方の家は代々縄絡みの仕事をされていたそうで、縄は1巻3貫目。1つの鉾に40~50巻の縄が必要。今はコンバインで稲刈りをするので藁がなく、滋賀県の農家で作って貰っていたそうですが、現在は穂が柔らかい福井県の農家で作った藁を使用しているそうです。鉾建ての朝6~7時に会所前に縄を積んで準備しておきます。

囃子方の育成だけでなく、ちまき笹、縄など祭に必要な諸々の調達も年々難しくなっていることがわかります。いろんなご苦労があって、伝統が継承されていて、尊いことです。この方とのご縁もありましたので、函谷鉾が今年販売した刺繍入りマスクを購入しました。放下鉾はマスクを見送ったのだそうです。あればもちろん買いましたね、私。

番組を見ていて最も驚いたのは、山鉾巡行の「音頭取り」が、作事方の「手伝い方」の役目だということ。てっきり鉾町の偉いさんの役かと思っていましたが、ヘタにやると危ないから、骨組みのことを一番わかっている人が担うのですね。鉾町の偉いさんたちは裃姿で先頭を歩きます。映画では、「鉾を渡そう」と言い出しっぺの染屋の新吉(中村錦之助)と桶屋職人で鉾の車を初めて作った助松(田村高廣)が音頭取りをして、新吉が幕府方侍が放つ矢に倒れることになっています。助松はいざ知らず、新吉が音頭取りは、今のルールだと、ちょっとあり得ない?まして笛が上手な設定ですから、尚更囃子方として乗り込む方が自然だと思うのですが…、物語だから、主役だから、何でもありなのでしょうか。
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さて、山鉾巡行の見せ場の一つ、辻回しで竹板を敷いて山鉾の方向を変えるのは、車輪を取り付ける「車方」の役目で、屋根の上で障害物を避けるのは「大工方」の役目なのだそうです。
囃子方はずっと囃子方として活躍と、山鉾巡行は完全な分業制で成り立っているのですね。
7月15日宵々山の夜に八坂神社で執り行なわれる「御霊遷しの儀」もドラマで触れていました。
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2019年私も教えて貰って暗闇の中で神霊を三基の神輿に遷す「
御霊遷しの儀」を見学しました。その時のことはこちらで書いています。

ドラマを見ていて、もう一つ「日和神楽」奉納も見ていないことに気が付きました。16日23時、八坂神社と御旅所の間を綾傘鉾の「日和神楽」が往復して、翌日の巡行が好天に恵まれるよう祈願するのだそうです。宵山にデートしたら結ばれるのだとか。綾傘鉾も縁結びに御利益があるそうですから、来年は綾傘鉾のお守りを愚息に送って「日和神楽を見るデートに成功してくれたらなぁ」と1年先に願いを込めながら、ドラマを見終えました。知っているつもりで、知らないことがまだまだたくさんある「祇園祭の愉しみ」でした。










祇園祭「神霊渡御祭」見学

7月17日と24日、おもちゃ映画ミュージアムで二週続けて映画『祇園祭』(1968年)に関する講演会と参考上映をしました。その振り返り記事はもう少し後に、ミュージアムのホームページで書こうと思っています。24日は催し後のオプションとして、コロナ禍の昨年同様営まれる「神霊渡御祭」見学を実施しました(昨年の「神霊渡御祭」は祇園祭史上初めて)。三分の二の方が参加して下さり、久々のウォーキングガイドにやる気満々。丁度故郷の姉が丹精込めて育てた夏野菜が届き、冷やしておいたトマトを召し上がっていただきました。コロナ前はいつもやっていた懇親会の雰囲気が、いっとき甦ったかのよう。
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祇園祭の催しらしく、この日は和服姿が3人揃いました。見た目は涼しそうですが、やはり京都の蒸し暑さは尋常ではなく、私は着慣れない浴衣を常着に着替えて、18時15分頃に、いざ出発。因みに私が締めている坂本頼光弁士作「サザザさん」の帯は、一緒に映っている女性が手作りしてプレゼントして下さったもの。この日は帯とお揃いの手作り「サザザさん」マスクも着用しました。優しい思いやりが嬉しいです💝
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さて、本来なら24日は、祇園祭還幸祭。17日の先祭に続き、24日の後祭で“動く美術館”とも称される山鉾巡行によって神様をもてなしつつ、お渡りになる道が清められ、夕刻に3基の御神輿が四条御旅所を出発。市内縁の地にお参りされながら、午後10時頃再び八坂神社にお帰りになるというのが還幸祭。2019年祇園祭創始1150年の時は、3基の御神輿が祇園祭発祥の地と言われている神泉苑に集まり、そのまま京都三条商店街にある八坂神社御供社にも勢揃いするという特別な還幸祭でしたので、皆さんをご案内して喜んで頂きました。

コロナ禍の昨年は、山鉾建ても中止になって祇園祭に関する諸行事が縮小されていましたので、神泉苑や八坂神社御供社での「神霊渡御祭」が営まれたことを翌日の新聞記事で知って、文字通り「後の祭り」で残念に思っていました。失敗を教訓に今年も行われるとみて、見学を企画したわけです。
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せっかくなので、近所の観光案内からスタート。最初に案内したのは、昔政治犯を収容していた六角獄舎跡。坂本龍馬の妻おりょうさんの父、楢崎将作も勤王家の医師であったため、ここに捕らわれていました。駒札と並んで、「日本近代医学発祥之地」と「勤王志士平野國臣外数十名終焉之跡」の石碑が並んで建っています。元治元(1864)年「禁門の変」の大火により京の町は大変な被害を蒙りましたが、燃えた山鉾もたくさんありました。映画『祇園祭』に出演した菊水鉾もそのひとつで、昭和27(1952)年篤志家の寄付を得て再建されました。
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駒札最後の一文にある「山脇東洋観臓之地」の石碑。宝暦4(1754)年に、長らく禁制だった人体解剖を、幕府の医官だった山脇東洋が許可を得て男の刑死人を日本で最初に解剖をした場所です(中京区六角通神泉苑西入南側)。
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六角獄舎跡傍にある武信神社には、坂本龍馬とおりょうさんが、父の様子を探ろうと登ったという大きな榎の木があります。追われる身となった龍馬は、自分が無事であることをおりょうに伝えるために榎に「龍」の文字を彫ったとするエピソードがまことしやかに伝えられていて、今では恋愛成就に御利益があると信仰されています。
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2019年の時に武信神社にお参りされた久世駒形稚児。今年はお稚児さんがなかったので、お参りはありませんでした。2019年の様子はこちらで書きました。DVnlzEo0











































武信神社の向かいをほんの少しだけ北に進むと、三条台若中会所。例年なら17日と24日朝の6時から神幸祭、還幸祭にご奉仕する方たちの弁当各3千食を男性だけで拵えるのに賑わう会所です。四角いしゃもじを使うと聞いたことがあるので、「なぜ四角い形を用いるのですか?」と先日お見かけした方に尋ねましたら「江戸時代から、そうしているから」ということでした。

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そのまま北へ少し歩き堀川通から千本通まで東西に連なる京都三条商店街のアーケードに至ったら、東に進みます。写真の八坂神社御供社では前日に「オハケ清祓い式」という斎場を作る神事が行われました。三密を防ぐため例年より参列者が少なかったです。

御神輿にご奉仕されている宮本組縁の人に尋ねたところ「又旅御供社でのお祭りは祇園祭の発祥となったお祭りで原点となります。又旅御供社はもともとの神泉苑の南端で御霊会の行われた場所といわれています」ということでした。斎場には、主祭神の素戔鳴神、その妻の櫛稲田姫、お子の八柱御子神の三神の依代になる御幣がお供えされました。24日夕刻に営まれる用意は万端というのを7確認してから、重要文化財の「二條陣屋」へ向かいました。

「剣鉾の様な神具が掲げられるかもしれない」との事前情報を入手したからですが、修復中ということもあったのかもしれませんが、残念ながら見ること叶わず。

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外観は、いつもと代わらぬ様子でしたが、こちらのサイトに見たいと思っていた光景が載っていました。下掲写真2枚は、そのサイトから。
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還幸二条陣屋_1小川家所蔵の高張提灯の上に3つの御幣が飾られていて、そこにある額に「感神院」と書かれているというのが本当に興味深いです。明治の廃仏毀釈以前の八坂神社の名称だからです。













この建物は寛文10(1670)年頃に建てられたそうですから、この額から感神院と呼ばれていた当時を偲ぶことができますね。2019年還幸祭の時は、御神輿がここで休憩されていました。来年、コロナの心配がなければ、ぜひこの光景を見たいものです。
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そうして、御池通の神泉苑に到着。良き案内人が絶好の場所を教えて下さり、前回とは異なる位置でその時を待ちました。

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待っている間に、目の前に参列されている方の出で立ちがとても素敵なので、はしたなくもお声がけしてしまいました。提げ物、象牙の根付け、印籠と、お着物や帯だけでなく、小物の粋さにもう感激。
































その御仁は、向かい側で参列されていたもうお一方にもお声掛けくださって、ミーハーの私を喜ばせてくださいました。その方の提げ物、煙管、煙草入れ、蒔絵の印籠も素晴らしく、こうした装いで参列される京都の粋な人々の様子に、「やはり京都ならでは」と感心しきり。
DSC04694 (2)つい先日のアンティークフェアで、こうした提げ物も見てきたばかり。私も押絵の印籠を見つけて、この日は浴衣の帯に提げていました。小さな小物一つで気分が高揚します。女性には帯留めや髪飾りの楽しみもありますね。



町家に着物は合うような気がしますので、今回のことを機会に、長く箪笥の肥やしにしたままだったのを止めて、少しずつ着物を着る機会を増やしていけたら良いなぁと思った次第です。


禁門の変で焼失した菊水鉾を復興するために寄付をされた篤志家は福井出身の呉服商で、「室町通りに鉾がないのは寂しい」と仰ってだと教えて貰いました。

コロナ禍でレンタル着物で変身して、京都観光を楽しむ人の姿もすっかり減りましたが、この疫病が退散したら、また着物姿の人も増えるでしょう。京都には着物が似合います。
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そうこうしているうちに、19時20分過ぎに「神霊渡御祭」のご一行が到着。白馬の背中に乗っているのが神霊を遷した榊、その下の青々としたのが「お稲さん」。2019年に三条台若中会所で、お世話されている方に教えて貰ったところによると、丹波下山の八坂神社神田で育てられた稲だそうです。神輿渡御の際には、3基の神輿の一番上に飾られますが、今年は神馬の背に乗せて運ばれました。
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神泉苑は真言宗の寺院なので僧侶がお祭りされるので、昔ながらの神仏習合の形でしょうか。
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約10分の拝礼を終え、「神霊渡御」の行列は八坂神社御供社へと進みます。
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千本三条から三条通を東に進み、八坂神社御供社まで。着物姿の市長がお出迎え。
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頭に榊の葉と「蘇民将来子孫也」と書かれた護符を付けておられます。DSC04746 (2)


















神馬に乗せて運ばれた「神籬(ひもろぎ)」が八坂神社御供社に到着。

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神職が神籬を降ろし、
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神饌と一緒に祀られ、神職が祝詞を読み上げ、参列者が一人ずつ榊を奉納して無事御供社での神事が終わりました。この時点で20時15分。

翌日の新聞によると、24日18時に下京区の四条御旅所を神職や各神輿会の輿丁(よちょう)ら約80人が出発し、高辻通や御池通を通り、下京区の大政所御旅所や中京区の神泉苑で拝礼し、22時頃八坂神社へ到着。月に照らされた境内で神事が営まれたそうです。

最近は急な雷雨も多いことから天候を心配していましたが、杞憂に終わり良かったです。どうぞ、来年は、例年通りの山鉾巡行と還幸祭が営まれますように。

祇園祭2021 放下鉾の見学

7月のおもちゃ映画ミュージアムは、京都府政百年記念事業として府がバックアップし、中村錦之助さんが立ち上げた独立プロ「日本映画復興協会」が1968年に作った映画『祇園祭』(1968年)に関する資料展をしています。この作品には、有名な俳優さんが、当時の五社協定の壁を越えて多数参加しておられるのも魅力ですが、数多くの京都府市民がエキストラや祇園祭の囃子方、あるいは上映協力券を購入することで協力しました。

今は、この作品に何らかの形で関わった人々に当時の記憶、思い出を聞き取りして記録として残す取組みをしています。この作品には、映画の為に新しく作った長刀鉾だけでなく、実際の放下鉾、菊水鉾も出演し、それぞれの囃子方のみなさんも、揃いの浴衣姿に頭巾を被って太鼓、鉦、笛の演奏シーンで出演されていることがわかりましたので、その思い出をお聞きしました。そのご縁もあって、菊水鉾の川塚さんから、映画のスタッフが長刀鉾を作るとき参考にした車輪の図面(昭和27年に菊水鉾が篤志家の多額の寄付金によって復興されたときは、スラリとした月鉾をモデルにしたそうです。展示している図面はその時の大きな図面)などをお借りし、放下鉾の堀さんからも浴衣、笛、鉦の摺り、その独特な表記の譜面帳や音源、平成元年の巡行記録映像などをお借りしています。

この間、放下鉾の堀さんにいろいろ興味深いお話を伺っていて、「今まで見ているつもりで、実はボーッと見ていたに過ぎなかった」と改めて思う祇園祭の奥深さです。
放下鉾会所とその前にある礎石(2021年5月8日堀真也様より)




















これは、放下鉾会所前の道路に設けられた鉾の柱を立てる穴。映画『祇園祭』撮影の時は、完成前の新丸太町通を四条通に見立て、そこに長刀鉾、放下鉾、菊水鉾、そして山6基をたてなければならず、この4つの穴がないところで立てるのは、非常に難しいそうです。映画『祇園祭』撮影の時は、菊水鉾の大工方である竹田工務店の鉾建ての技術が発揮されたと、川塚さんから教えて貰いました。
放下鉾会所前の礎石の横に柱をさす穴が開いてます




















柱たての穴のことを教えて貰って、放下鉾のみならず、他の鉾が立つ場所の道路も見に行って、同様であることを確認してきました。今まで立派な鉾ばかりを見上げていましたが「灯台下暗し」でした。
放下鉾会所裏にある蔵



















放下鉾の堀さんに提供していただいた写真ですが、会所の裏に鉾収納の蔵があります。
放下鉾・祭が近づくと蔵へ渡り廊下が設置されます



















祇園祭が近付くと、会所二階から鉾蔵に通じる桟橋が渡されます。できることなら一度は実見してみたい眺めです。
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さて、6月26日放下鉾の会所に寄ったところ、会所二階から祇園囃子が聞こえてきました。その日が今年の祇園囃子初日でした。やはり、京都の夏は、コンチキチンの囃子が聞こえて来ないと始まりませんね。昨年に続きコロナウィルス感染拡大防止のため様々な制約があったようですが、口伝で今日まで伝えられている演奏の技は、2年もあくと廃れてしまう恐れがあるので、希望する山鉾は、巡行はできずとも鉾建てや祇園囃子の練習は可能になりました。
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そして、堀さんに教えて貰って、7月13日午後から懸装品が飾り付けられる様子を見学に。午前中到着した頃には、すでにここまで組み上がっていました。釘を1本も使わずに縄だけで組み立てる「縄絡み」は、それぞれの山鉾によって絡め方が異なるのだそうです。これを見て歩くのも面白いですね。
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梅雨の合間に放下鉾が立ち上がっていきます。鉾頭は日・月・星の三光が下界を照らす形を示し、その形が洲浜に似ているていることから「すはま鉾」ともいうそうです。堀さんの名刺に「放下鉾すはま会」と書いてあったのは、そういうわけだったのですね。今放下鉾は「三光丸」という可愛らしい人形ですが、その「三光丸」も映画に出演していました。昔は船鉾以外の鉾は全て稚児が乗っていましたが、函谷鉾が天保10(1839)年に人形としたのが人形稚児の始まりだそうで、昭和4(1929)年に放下鉾が人形になったのを最後に、今は長刀鉾以外は人形になりました。どうして、室町時代の祇園祭を描くのに三光丸が出演したのかしら?
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昼食を食べに行って戻ったら、懸装品をすでに飾り終え、大きな車輪4つを取り付ける作業中でした。右から2日の男性の足元にあるのが、大きな車輪を取り付けた最後に上から下に向かって差し込んで固定する楔。
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見ているだけで、お腹に力が入ります。車輪の中心に芯が入って
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先ほどの楔を車輪中央に上から下に向けて差し込んで西南の車輪取り付けが成功。間近で見ると、とても大きいです。

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あと車輪3つを取り付ける作業が待っています。
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軸と車輪中央が一致するように動かし、
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差し込んで、
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楔を打ち込んで、北西の車輪が嵌まり、
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4車輪全てが嵌まって、いよいよこの日から揃いの浴衣に身を包んだ囃子方が鉾に乗り込んで祇園囃子を奏でます。
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三密を避けるために分乗しての演奏。この頃はよく雷雨に見舞われていましたから、懸装品にはビニールで覆いが掛けられています。太鼓方、鉦方、笛方の皆さんが口伝で守ってこられた祇園囃子を披露。堀さんは「応仁の乱で長く途絶えていた祭だから、きっと復興したときに、新しく作られた曲もたくさんあったのでは?」と仰っています。今ほど長寿でもなかった時代での口伝えの曲ですから、そうかもしれないと思います。

紙芝居『祇園祭』に、おもちゃの鉾を作って、子どもたちが囃すように歌う場面があります。
♪すはまのおちごさん
舟鉾みたいな家たてて
ねっからお客がコンチキチン
コンチキチン、コンチキチン♪

Facebookの私の記事を読んで、堀さんを紹介して下さった映画カメラマンの武村敏弘さんは、このご縁で放下鉾囃子方に復帰されました。
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その武村さんが撮影された写真。とても素敵なので拝借しました。見送りは駒札にも書かれている皆川泰三さん作ろうけつ染め『バクダット』。金具にもふくろうがデザインされています。
前懸。胴懸は花模様のインド絨毯。綺麗ですね。

鉾に乗っての視点で撮影された素敵な1枚。
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来年はコロナを克服し、堂々と巡行して貰いたいと強く願います。
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鷹山が授与するマスクを買いに行こうと自転車で走っていたら、真新しい高張り提灯を掲げる台が目に飛び込んで来ました。中京区室町通の姉小路から三条通に連なって31基が並んでいます。この時はまだ作業中でしたが、翌22日付け京都新聞には高張り提灯を下げた写真が載っていました。付近の掲示板には「役行者山 山第一番」と籤取り式の結果が掲示されていました。茶室などで用いられている北山杉の表面を装飾的に削った柱を用いているそうです。役行者山大工方の匠の技による新調です。

IMG_1034で、新聞を見て欲しくて買いに走った鷹山(中京区三条通室町西入ル)の今年初登場した絹製マスクです。とても息がしやすいです。かつて「隼人」を調べていたことがあり、隼繋がりで猛禽類の鷹を扱う鷹匠の技「鷹狩り」を見に行ったこともあります。というわけで一目惚れ。明日の講演会で身に付けようと思っています。

来年の後祭で巡行復活を目指す鷹山のご神体人形は正しく、左手に鷹を留めた鷹遣い、犬を連れた犬遣い、酒樽を背負いちまきを食べる従者の三体からなります。文政9(1826)年の巡行で大雨に遭って懸装品を汚損したことから、その翌年から巡行に加わらず、居祭を続けてこられました。来年巡行復帰となれば、約200年近い時を経てのよみがえりとなります。コロナ禍でそれぞれの山鉾も大変だと思いますが、そんな中でも着々と創意工夫と歩みが続いていることを知りました。益々来年への期待が高まります。

石田ファームの筍

4月15日京町家に筍の贈物が届きました。贈り主は、3月7日におもちゃ映画ミュージアムにお越し下さった筍農家の石田昌司さん。石田さんに当館を勧めてくださったのが、建都住宅販売さんのブログ「京のさんぽ道」のライター・山口洋子さん。「京のさんぽ道」には、これまでも何度か石田さんが登場されているようですが、今見たら、4月15日付け最新記事に「竹と筍 京都石田ファームから発信」という見出しで、石田さんとそのお人柄を慕うお仲間達の活動記事が載っていました。

山口洋子さんは、2月7日に資料展「活動写真弁士の世界~日本映画興行の始まり」の第2期を見に来て下さり、帰り際に「京のさんぽ道」で紹介したいと仰って下さいました。翌8日、10日に取材をしていただき、2月15日付け「京のさんぽ道」で「ようこそ京町家のおもちゃ映画博物館へ」の見出しで紹介して下さいました。その丁寧な取材ぶりに感心しました。そして、山口さんが書かれたどの文章からもあたたかい思いやりが伝わってきて、「文は人なり」は本当だなぁと思うのです。幾枚もの写真をあしらって、丁寧にご紹介いただいたことに対し、“感謝”の言葉しか思い浮かびません。

私どものことをブログで紹介して下さって間もなく、別のライターさんが同じように紹介したいからと仰ったので、「参考になれば」と山口さんのお書きになられたものをお見せしたくらい。ただ書かれるだけでなく、書く前の下調べを丹念にされる姿勢に唸りました。素晴らしいライターさんです。その後も、お花をプレゼントして下さったり、向日市にある寿岳文章・しづ夫妻が住まわれた“向日庵”についての情報を教えて下さったりと、“袖触れあうも多生の縁”と申しましょうか、話していると、また次にもお会いしたくなる方です。

その山口さんに送り先を教えて貰って、石田さんは14日に掘ったばかりの筍を発送してくださいました。
皮付き筍



































付いている土からも丹精込めて手入れをされているのが伝わってきます。白くて、料亭に出せば高級料理としてお膳に並ぶような美しい筍が6本。

来館されたときに、以前依頼されて石田ファームの竹林で女声コーラス団体が合唱する様子を撮影されたことがあると仰って、その動画を見せて貰いました。

調子に乗って、私も竹林で上映会をしたいと提案しましたら、「土が傷むと困る」ということでした。やはり、筍は土の手入れが肝心要なのですね。

大切な土を痛めることがないよう対策を練りながら、そしてヤブ蚊が少ない時期を選んで、「竹林で上映会」は面白いと思うのですが。。。既に「何を」上映するかのアイデアはあります。

さて、15日夜石田さんに御礼の電話をすると、以前来られた時に京都府南部に位置する山城町の「タケノコ専門卸売市場」の様子を熱く語ったのが強く印象に残ったようで、「そんなに筍が好きなら」と送ってくださったのだそうです。2013年4月27日に見聞したその卸売市場のことは、こちらで書いています。面白いので、ぜひクリックしてお読み下さい。

石田さんによれば、最上級のタケノコは地上に全く顔を覗かせていない状態のものを言うそうですが、以前見学したタケノコ卸売市場の印象からすると、白くて柔らかくて、十分に卸売市場内の「上タケノコ」の場所に置かれると私には思えます。

山口さんのブログでも書かれていますが、石田さんは専用のホームページや通信販売のサイトを開設しておられませんが、関東方面からも口コミで注文があるそうです。ということで、石田ファームについて関心がある方は、ぜひ「京のさんぽ道」をクリックしてご覧下さい。

で、15日遅くに帰宅して早速大きな鍋を取り出して、筍を湯がきました。やり方は石田さんに電話で教えて貰った通りに。

1.筍は皮付きのままで、穂先を少し斜めに切り落とす。背中に包丁で切れ目を入れても良い。ということで、穂先を斜めに切り落とし、背中に切れ目を入れました。

2.水から筍を入れ、糠を加えて、落とし蓋をして火にかける。最初は強火でも良いが、プツプツと泡が出てきたら火を弱めて、30分ほどゆがく。

3.竹串を刺してみて、すうーっと通ったら火を止めて、そのまま冷ます。

4.冷めたら、取り出して皮を剥く。

皮をむいた筍
































教わった通りにしたら、筍の皮が面白いようにスルリと剥けました。新鮮な幼い筍なので、多少皮の剥き残しがあっても大丈夫(目が悪いのに、メガネを掛けずに作業をした言い訳💦)。

若竹煮


















先ずは一般的な「若竹煮」。夜遅かったので買い物に行けず、絹さやや山椒の葉っぱなどという気の利いたものがなくて、彩りにキュウリという恥ずかしい盛り付けですが、味はバッチリ。本当にえぐみが一切無くて、柔らかい歯ごたえ。春を味わいました。ワカメは、3月20日に無声映画演奏家の柳下美恵さんから手土産にいただいた神奈川県の湘南産。その週早々に採って乾かした新鮮なワカメだそうです。

残りは、水を張ったタッパに入れて保存。さて、今夜はどう料理しようかしら。暫くは筍で春の贅沢を味わいます。山口さん、石田さんとの出会いに、改めて乾杯‼

……
京都 長岡京の竹林で
一年を通し、農薬・化学肥料一切なしで
手塩にかけて育てた筍は
まさに土から生まれる宝物

ウグイスのさえずりのもと優しく丁寧に
赤子をとりあげるように土の中から掘り起こしていきます

朝の堀り立てを
筍のほんとうの味を知ってください

京都 乙訓 筍の里 石田ファーム 石田昌司
……

今年のサクラ見物

昨朝の京都新聞1面に滋賀県高島市マキノ町の海津大崎のサクラがほぼ満開だと載っていました。
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主宰し、結構長く続けられた「木津川の地名を歩く会」の探訪でも、海津大崎のフィ-ルドワークは忘れられない思い出の場所。丁度、会で月に一度開催していた古文書勉強会のテキストに菅浦文書をしていたことから、花見船の方にお願いして、大浦から菅浦まで回っていただき、湖上から菅浦の景色を眺めたときの嬉しかったことは、幾年経っても鮮やかに思い出すことが出来ます。個人的にも菅浦を歩いたことを綴りました

上記の新聞記事によれば、「日本のさくら名所百選」に選ばれている海津大崎の約4キロにわたる800本のソメイヨシノが3月中に満開を迎えるのは、記録が残る2014年以降初めてのことだそうです。30、31日も良いお天気が続いていますので、今日あたりが一番の見頃でしょうか。青空と湖面に映えるサクラ、羽根があれば飛んで見に行きたい気分です。

今年のサクラ見物は、前回ブログで書いた3月7日京都の一条戻り橋の河津桜から。ちょっと色が濃くて、本当に可愛らしい早咲きのサクラでした。
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そして、テレビで映される各地のサクラ便りに心が浮ついて仕方がないので、3月29日休館日の日の午後、京都市北区の原谷のサクラを見に行ってきました。一昨年から関心を持ち始めた「満州国」について、昨年夏におもちゃ映画ミュージアムで開催した「『満州国』って、知っていますか」展覧会の折りには、幾人もの方が原谷から見に来て下さいました。

1945年8月9日旧ソ連軍が中国東北部にあった「満州国」の国境を越えて進軍してきて、それまで日本から国策として送出された満州開拓団の人々は命からがら逃げ惑い、大勢の人が命を落としました。第11次京都市送出の廟嶺京都開拓団の人々も例外ではありませんでした。その大変な状況の中を家族を失った一人の男の子が生き抜いて帰国しました。昨年8月23日にその経験を黒田雅夫さんにお話して頂きました。黒田さんは、引揚げ当時の過酷な状況を経験した貴重な語り部として今も活動されていて、時々そのお話を電話で聞かせて下さいます。

世界遺産仁和寺の北、金閣寺の西に位置する原谷には、帰国された開拓団の19世帯の人々が再度入植され、荒地を開かれました。昨年の催しの折りに、立命館大学国際平和ミュージアムの学芸員さんから当時のことをよくご存じの方がおられることを教えて貰い、繋いで頂きました。一度聞き取り調査をしたいと思っているうちにこのコロナ禍。ヒヤリングはもう少し落ち着いてからと連絡を差上げましたが、原谷のサクラも綺麗だと教えて下さる人がおられたので、花見がてら下見に出かけました。
2021年3月29日原谷中央公園(開拓記念)


















仁和寺の東側の決して広くはない道路をクネクネクネクネ走りながら漸く辿り着いたところは、想像していた鄙の町ではなく、たくさんの家が建つ静かな街でした。うららかな日よりもあって、春休み中の子ども達が遊んでいました。何処にでもみられるのどかな風景。

再入植されたときの様子は、いずれお話を聞かせて貰ってからになりますが、昨年5月17日付け京都民報に掲載された鳥越一朗さんの記事によれば、19軒の人々は荒れた土地を切り開き、農業や畜産を始めたそうですが、酸性土壌のため成績は芳しくなかったようです。

その後、昭和40年代から宅地化と道路整備が進み、バブル期を経て平成の始めには住宅やマンションが建ち並び、大学のグラウンド、福祉施設などが整い、今では京都のベッドタウンに。
2021年3月29日原谷中央公園の満開の桜















開拓を記念して造成された原谷中央公園には、サクラが満開でした。
その公園の片隅に、目指す「開拓魂」と刻まれた石碑がありました。
2021年3月29日原谷の開拓碑正面





























2021年3月29日原谷の開拓魂碑



















入植されたのは1948(昭和23)年10月12日のことで、皆さんが苦労されて55ヘクタールを切り開かれたと書いてあります。それから15年経つのを記念して1963(昭和38)年に、この立派な石碑が建立されました。

2021年3月29日原谷の開拓魂碑裏の入植者氏名







「満州」から引き上げて来られた千振開拓団の人々が再入植された那須高原に取材に行きたかったのですが、これもコロナ禍で実行出来ませんでした。NHKの再現ドラマと当事者達の語りで構成された『開拓者たち』をみると、再入植地がどれほど過酷なところだったかがうかがわれ、原谷も同様だったのだろうと想像しています。

流した血と汗が、眼前に広がる光景の礎となったのです。












そして、今朝は壬生寺のサクラを見ました。満開🌸 先日お会いした方から、昨日資料が届きました。『壬生村遊女屋絵圖』というのがあると聞いて、俄には信じられないという顔をしたからでしょう。その絵図が載っている本『京都遊郭見聞録』(京を語る会 田中泰彦編、1993年)の該当ページを複写して送ってくださったのです。
2021年3月31日壬生寺














宝永年中(1704ー1711)に壬生寺の裏側千本通に面した東側、寺の南の仏光寺通の南側に娼家が並んだそうです。

天保13(1842)年頃でも、この辺りは葛野郡の片田舎で田んぼが多く、寺侍の住居があったくらいで、表通りの坊門通より裏の千本通が南北に延びた古い通りにすぎず、「この辺の遊女は百姓相手か島原よりも手軽な女と云うので来た客があったにすぎず」「京の人は昔火除の神として愛宕神社に月詣をしましたが、その帰途此所へ立ちよって女を求めたらしく、以前に行ったと云う老人に壬生郭の話を聞きましたが」云々のくだりに、「ええーっ」と目を白黒。ここから島原へは南へ2キロぐらいかと。

この項の最後は「明治12、3年頃には全部なくなってしまっていたようです。仏光寺通の壬生寺南門前の民家の二階にそんな面影が見られます」でしたので、南門前に行ってみました。
中京区壬生辻町














この本の編者が指しているのがこの光景か否かはわかりませんが、風情ある建物だなぁと以前から思っていました。中京区壬生辻町。

千本通に面した東側にこうした民家は見られません。本には書かれていませんが、北門側に風情ある建物が並んでいます。
南梛ノ宮町西から














南梛ノ宮町。絵になる光景ですね。この赤い消火栓の北側にも同じような佇まいの民家が並んでいます。これらの建物の背中合わせにあるのが、とてもモダンな建物の下掲写真の末松工務店私邸。広大な敷地に建っています。いつかこの工務店さんの歴史をお聞きしたいと思いつつも、まだ実行していません。
末松工務店















あと数日はサクラが持ちそうなので、仕事の合間にチャリンコで、一人サクラ見物を楽しみたい。新型コロナウイルス変異型の勢いが怖いですが、どうにか封じ込めて、来年は堂々と花見をしたいものですね。

一条戻橋の河津桜

昨日は、河津桜が満開だとSNSで知って、「どれどれ」と京都市上京区堀川通一条の「一条戻橋」まで、自転車でひとっ走り。

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隣にも小さ目の河津桜がありましたが、手前の一本の桜花の見事さよ。今が盛りと可愛らしい少し濃いピンクの花を一杯に咲かせていました。

時折吹く風に、煽られるように揺れる表情をみせる花々の可憐さ。

こんなに近くに河津桜が咲いていたなんて、ちっとも知りませんでした。

この橋は、平安京造営時に造られた「一条戻橋」以降、何度も造りなおされていて、写真にみえている橋は1995年からのものだそうです。

この橋の名前の由来は、平安時代の漢学者・三善清行(みよしのきよゆき)の葬列が、この橋にさしかかったとき、清行が一時蘇生したことから、冥府からこの世へ戻る「あの世」と「この世」を繋ぐ橋として「戻橋」と呼ばれるようになったと伝えられています。

100㍍ほど北に、平安時代の陰陽師・安倍晴明を祀る晴明神社があって、そこには、1995年まで架かっていた橋の欄干や柱を使った「一条戻橋」のミニチュア版があるそうです。安倍晴明が式神(陰陽師が用いた道具や呪法で、擬人化された鶏や牛の妖怪とされているそうです)をこの橋の下に隠したといったいう逸話が残っていたり、あるいはまた、祇園祭「山伏山」のモデルといわれる浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)が一時的に父親の息を吹き返らせたとの逸話も伝わっています。

一条通は、平安京のいちばん北の通りで、洛中と洛外を分ける橋でもありました。そういう位置だからこそ、いくつもの伝承があるのでしょう。
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とても美しい河津桜。これから毎年春の楽しみが増えました💝

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BFI所蔵映像と、写真などでみる明治の日本

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春めいて穏やかな気候の2月21日、自転車に乗って京都市岡崎にある京都国立近代美術館へ。親しくさせていただいているサイレント映画ピアノスト柳下美恵さんが伴奏を務める無声映画の上映会へ行ってきました。英国映画協会(BFI)が所蔵する海外の人が明治の日本を撮影した珍しいフィルムを観る催しでした。
京都国立近代美術館のピアノ上映されたのは
☆日本の学童たち(1904年、2分)…尋常小学校で子ども達が体操している映像。
☆日本の葬列(1904年、1分)…神式の葬列を撮ったもの。
☆日本の祭列(1904年、1分)…大阪の坐摩神社の祭り。
☆日本の舞踊(1905年、2分)…翁、鬼、おかめ、狐の仮面などを着けた舞踊。
☆保津川の急流下り(1907年、7分)…京都の保津川下りを出発から渡月橋まで撮影。
☆ピクチャレスク・ジャパン(1907年、9分)…大阪道頓堀、京都四条大橋、奈良公園など景観や風物、職人などを記録。
☆日本の祭 横浜開港五十年祭(1909年、6分)…山車巡行、輸入商青年会による大名行列や魚河岸連の囃子屋台などが街の景観や賑わいと共に記録されている。
☆日本の稲刈り(1910年、8分)…稲刈り、脱穀、籾摺り、選別などの収穫作業が生き生きと記録。
☆京都の祭(1911年、8分)…京都島原の太夫道中、七条大橋を渡る伏見稲荷の祭礼、滋賀県長浜市の曳山祭。太夫さんが3名映っていたような、かつては賑やかだったのですね。
☆鵜飼(1911年、10分)…長良川の鵜飼の様子を記録。多くの鵜が魚を咥えちゃ、吐き出さされて、その繰り返し。鵜も大変。
☆日本人の中で(1911年、2分)…木立の中で日本髪の女性と人形を作る女性の映像。
☆日本のアイヌ(1913年、3分)…北海道の平取コタンで撮影されたもののようです。成人女性が口のところにヒゲのような入墨をしていた映像が、今日見てきた展示「イッツ・ア・スモールワールド」と重なります。
☆日本の軽業師(1914年、6分)…大人の男性、青年2人、少年2人の5人の団員が足で樽を回す曲芸などを披露。当時ドイツやイギリス、その他欧州各国で仕事をしていた日本人の軽業師が結構おられたようです。

民俗に興味があるので、どれもこれも興味深い映像でした。海外の人が好奇心一杯に日本人や日本の文化を捉え、撮られている側の日本人も、負けず好奇心一杯のまなざしをカメラに向けていました。映像で当時の様子が分かるのは、とても貴重ですね。

さて、その柳下さんから「是非見に行って」とお勧め頂いて、今日見学してきたのが京都伝統産業ミュージアムで28日まで開催されている展示「イッツ・ア・スモールワールド:帝国の祭典と人間の展示」でした。
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京都国立近代美術館の直ぐ傍にある「みやこめっせ」地下一階にある京都伝統産業ミュージアム企画展示室で開催されています。
とにかく展示されている写真や絵葉書などが多くて‼その数約1500点だそうで、全て企画したキュレーターの小原真史さんが約10年を費やして集められた資料。
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ポスターに使われているのは1903年、大阪で開催された「第5回内国勧業博覧会」の時、場外余興の一つとして民間業者が行った「学術人類館」で撮影した集合写真。

ちなみに第4回内国勧業博覧会が開催されたのが、この京都・岡崎でした。1895年のことで、その時に周辺一帯が整備されました。

1851年にロンドンで始まった万博は先端技術をみせる「産業の祭典」の側面が強かったのですが、次第に植民地拡大に邁進する帝国主義国が国威をアピールする「ショーケースのような空間」になっていきます。世界中から集められたモノだけではなく、1889年のパリ万博では、現地集落を再現してアジアやアフリカ人を住まわせて見せる展示が人気を集めたそうです。それは1893年のシカゴ万博でも同様で大規模にやっていたそうです。

人権が叫ばれる今日ではちょっと考えられない発想ですが、第5回内国勧業博覧会で、日本も人間の展示に乗り出します。「学術人類館」では、明治になって日本に併合された北海道のアイヌの人々や沖縄の人々のほか、台湾、中国、朝鮮の人々を連れて来て生活しているところを見せる計画でした。そこには、日清戦争で勝利を得た記憶をより深く人々に印象づける狙いもあったでしょう。けれども、中国や朝鮮、沖縄から抗議が出て「人類館事件」と呼ばれる騒動になります。小原さんの話では、アイヌの人や沖縄の人、台湾のような植民地、東アジアやインド、トルコ、アフリカなどの人々が展示されたそうです。
第5回内国勧業博覧会を描いた袱紗



















これは、私の手元にある第5回内国勧業博覧会の会場を友禅染で精緻に描いた袱紗です。西南の角に会場入り口の門が描かれていますが、「学術人類館」はそのゲートの向かいにあったようです。

人間を見世物にする展示は、1958年のブリュッセル万博まで続いたそうです。博覧会のために人々を連れてきて、そこで生活させて、それを見学するという発想が、多くの観客を集める「ドル箱」として63年前まで続いていたことに唖然とします。中には、個人の考え、意思に基づき能動的に自分たちの体を見せていた人もいたでしょうけど。

この袱紗は京都の裕福な家のお嬢様がお嫁入りに持って行かれたものの一つだそうです。初めてイルミネーションが取り付けられ、5色の照明でライトアップされた大噴水などが評判になり、昼間だけでなく夜間も人が押しかけ、内国勧業博覧会始まって以来最高の入場者数を記録したそうですから、きっとお嬢様も評判の博覧会に見学に行かれたことでしょう。けれども今回の学びで、私はこの袱紗を見る度に、この大きな写真を思い出すことになるでしょう。

「イッツ・ア・スモールワールド」は京都国際舞台芸術祭の一環で28日まで開催されていて、最終日14~16時に吉田憲司・国立民族学博物館館長と小原さんのトークイベントがあり、YouTubeで無料公開(予約不要)される予定です。詳しくはこちらをご覧下さい。

壬生寺節分詣

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今年はいつもより1日早い立春でした。とはいえ、肌寒い日が続いて、「春は名のみの風の寒さや♪」です。

一昨年秋に京都市内に引っ越すまでは、吉田神社節分祭詣でを続け、梔色の厄除け札「疫神斎」を頂くのが恒例でした。

2月2日仕事に行こうと表に出たら、「きんつば」で有名な和菓子店「幸福堂」の前に行列が。それぞれの人の手に黄色い紙袋を提げておられて、「そうか、皆さん壬生寺へ節分詣でに行かれたのだな」と納得。それでは、ということで私も出かけてきました。一昨年の壬生寺道は縁日の屋台で大賑わいでしたが、今年はコロナ禍で少なかったです。

「お寺の掲示板大賞」というのがあるようですが、お寺の前を通るとき、つい読んでしまい「なるほど」と思ったり、「ふ~ん」と思ったり。で、壬生寺の掲示板は「寒さにふるえた者ほど、太陽の暖かさを感じる」でした。

壬生寺















沢山の人がお参りに来ておられました。近いのに、私は大晦日除夜の鐘の時以来。

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こんな近くで、古くから人々を見守ってくださるお地蔵さんがおられるのですからありがたいです。
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壬生狂言の時に演じられる「炮烙割」は、なかなか迫力がありますが、その時割られる炮烙は、この時みなさんが奉納されたもの。「節分に炮烙を納めると厄を祓って福を招く」との民俗信仰に基づく伝統行事です。私も初めて招福を願って奉納しました。直径約25センチの素焼きの炮烙の上の方に「奉納」と墨書されるのは、この長机向かいの世話方さんたちの手で。それに「太田家」と家族4人の名前と数え年、そして願い事を書きます。掲げてあるお手本には願い事一つでしたが、たまたまお隣になったご婦人に「願い事は一つですか?」と尋ねましたら、「いくつ書いてもいいのではないかしら」と言って下さったので、欲張って3つ書きました。炮烙500円+奉納料100円=600円で、家内安全、除災招福、厄除開運と思い付いた4文字熟語を書いて祈りました。
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丁度修験道による厄除け大護摩祈祷の準備中。
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細長い棒の一方が黒く塗られたお供えものが、以前京都府南部の木津川市加茂町銭司・春日神社の「才木」を思い出したので、修験者の方にお聞きしましたら、これは「ニューボク」と言うのだそうです。「才木」は上になる方に墨を塗ってしるし付けをされていましたが、「ニューボク」は黒くしるしを付けた面を下に置くのだそうです。大護摩祈祷は仕事に戻ったので見学できなかったのですが、これは燃えさかる炎の中に投げ入れられるのだそうです。来年はぜひ、自分の目でその様子を見たい。
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「ニューボク」が写真向かって左側に置かれています。
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こんなに沢山の修験者を見たことがないので、ずっと見ていたかったです。3日もされるのかと思いましたら、3日は別の場所で護摩祈祷をされるのだそうです。
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「金運上昇」「子孫繁栄」に御利益があると信仰されている弁財天には行列が。

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弁天堂の創建は不詳ですが、江戸時代中期には既に存在していたことが諸記録よりうかがえるそうです。この線香立てには、ご覧のように弘化4(1847)年の刻銘があります。

本尊の秘仏弁財天は清水寺の延命院から移された厨子入りの塑像で、弘法大師作と伝えられているそうです。節分の時だけなのか分かりませんが、堂の前に「特別開帳 秘仏弁財天御前立佛」と書いてありましたので、御利益があるように私も手を合わせて祈りました。
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壬生寺の門をくぐって直ぐ右手にある「一夜天神」の前に可愛らしい小ぶりの撫牛。1月26日付け京都新聞によれば、菅原道真が左遷により九州へ向かう際に一夜を過したとされる地に建つのが「一夜天神」。江戸時代前期、壬生寺の支院「寂静庵」を開いた僧侶が夢で道真の命を受けて神像を刻み、建立したとされていて、今年は道真が太宰府へと左遷されてから1120年の節目ということから、寺が設置。前日の25日に開眼法要が営まれました。

「一夜にして知恵を授かる」という言い伝えがあることから、北野天満宮だけでなく、壬生寺のこの撫牛も受験祈願に御利益がある、かも。さしずめ私は、老化で物忘れが酷くなって困っているので、撫牛の頭を撫でて、その手で自分の頭を撫でました。信ずる者は救われる。どうぞ、御利益がありますように‼

【参考写真】壬生狂言演目の一つ「炮烙割」の様子です。今年は新型コロナウイルスのため壬生狂言『節分』上演も取り止めになりました。残念‼

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