歴史探訪京都から

-旧木津川の地名を歩く会-

新風館にオープンしたグローブ スペックス京都で、メガネを新調しました‼

今日、メガネが出来上がったので受け取りに新風館へ行って来ました。とってもお洒落なお店で、今日も行列。訪問したのは3度目。行く度にメガネもそうですが、店の設え、空間美に魅せられています。
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関西初出店のグローブ スペックス京都店。知り合いがFacebookで、「新風館にNHK『世界はほしいモノにあふれている』で紹介されたメガネ屋さんが入っている」と書いておられたのを読んで、26日知恩寺塔頭を訪問した足を伸ばして「どれどれ」と物見遊山の心境で行ってきました。1時間以上行列に加わったと思います。とにかく凄い人気。

中に入って分かったのですが、この日はNHKの『世界はほしいモノにあふれている』サブタイトル「人生が変わるメガネを探す旅 フランス」で紹介されたグローブ スペックス代表岡田哲也さんが来ておられました。普段ほとんどテレビを見ていないにもかかわらず、最初の放送だけでなく、6月25日の再放送も偶然リアルタイムで見て、興味を持っていました。まさか、その放送翌日にご本人が来ておられるとは思いもせず、タイミングの良さに内心小躍り。

番組で、良いメガネを日本のみなさんに紹介したいという岡田さんの拘りにとても好感をもったことによります。今岡田さんのブログを検索したら、6月30日A1:00~も放送されていたようです。よほど反響があったのでしょう。

メガネ、鞄、靴は、自分の中では、しっくりくるものとなかなか出会えず、いつも溜息をついています。番組で見た岡田さんのセンスが良くて、品物を厳選するプロの目で選んでこられた中に、ひょっとしたら初めて満足できるメガネと出会えるかもしれないと思いました。

普段は無給で「おもちゃ映画ミュージアム」運営に頑張っている自分へのご褒美があってもいいだろうと思って、根気よく行列に並びました。漸く順番が来てゆっくりと見て回りましたが、値段もそれなりに。なので、頭の中で候補をいくつか選んで出直すことにしました。そして、27日再び行列に加わりました。
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この日も皆さんマスク着用は当然で、アルコール消毒の後、それぞれ透明手袋をしてコロナ感染防止。これがなかなかメガネ試着に厄介で。でも、緩和されたらしく、今日は手袋省略になっていました。
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『クラッチマガジン』8月号で数頁に亘って特集されていましたが、ここに書かれているとおり、本当にメガネのミュージアムのようです。とにかくアンティーク家具、調度品が素晴らしい。
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3度目行って漸く気付いたアンティークな引き出しにも、メガネがきちんと揃えてディスプレイされていました。新風館の建物が、1926年に京都中央電話局としてレンガ作りで建てられた歴史ある建物として京都市登録有形文化財第1号に登録されていたこともあり、烏丸通側(緑の木が生えているのが烏丸通。京の街を南北に貫くメインストリート)は保存されました。

その建物の歴史を尊重して、2018年から時間を掛けて収集された1920年代を中心としたアメリカ、フランス、イギリス、日本などのアンティーク家具や、オブジェがさりげなく置かれています。「古いものにしかない風格や味わいにとても惹かれる」と岡田さんの意見に全く同感です。壁の赤と青の、メガネのオブジェは1920~30年代頃にフランスで使われていた眼鏡店の看板だったのだそう。

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結局私は、フランスのアンバレンタインのメガネを買いました。フランス南西部の都市トゥールーズにあるアンバレンタインのアトリエは数十年前に創業し、ネットで検索すると、そのメガネを身につけた人物の真実に一層迫る「生きたメガネ」を創造することを目標にしているとのこと。メガネ負けしないよう頑張らないといけないと気が引き締まります。
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この男性の方の次に、私は岡田さん(写真右)によって、検査をして頂きました。とても丁寧にして貰った結果、遠近両用メガネをお願いし、両眼とも乱視だと言うことで、その対策もレンズ加工して貰うことに。

そのメガネを持ち帰って、今日から掛けているのですが、遠くはクッキリですが、近くはコツを習得し慣れるまで2週間は辛抱しなければならないようです。以前も遠近両用を作ったのですが、慣れないままに結局、老眼鏡だけを使っていました。しょっちゅうメガネを外したり、掛けたちしているうちに、「メガネは何処へ行った?」と彼方此方探す羽目に。今度こそ自分の目に投資したのですから、掛け続けて慣れるようにしなければと思っています。

新風館地下にはアップリンク京都が入っていて、新風館が開館した6月11日の前夜に内覧会に行ってきました。
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カラフルで、可愛らしいシアターが4つ。音響が自慢のようです。代表の浅井さんとも挨拶を交わしましたが、そのすぐ後に、パワハラ問題で提訴されたのは残念でした。このコロナ禍で映画界全体が苦境に陥っている中、経営者、そこで働く人、映画館同士が互いに協力しながら良い関係で前向きに進んで行けたら良いのにと願います。
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新風館開業前日の様子。全20店舗が入居し、新名所とあって、今日7月5日も大変な賑わいでした。

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これもオープン前日の日本初進出エースホテル京都。写真の姉小路通から建設中、その外観の面白さに注目していましたが、建築家として有名な隈 研吾さんが建物のデザイン監修をされているのだそうです。ホテル業界もこのコロナ禍で大変だろうとは思いますが、いずれコロナが収束した後は、海外からのお客様を始めとして、きっと京都観光の目玉になる施設になることでしょう。

古い建物を活かしながら、そこに新しい工夫を盛り込んだ素敵な新風館の今後が、大いに楽しみです。

京北町のワラビ

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4月22日京都市右京区京北町の「黒田百年桜」を見に行った折り、桜を管理している「おーらい黒田屋」さんに新鮮なワラビが売っていたので、2束購入。灰をプレゼントしてくださったので、帰ってからネットで調べてアク抜きに挑戦。田舎生まれのくせに、な~んにも知らずに年ばかりを重ねて、生まれて初めてワラビのアク抜きです。

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洗ったワラビを大きめの鍋に並べ、灰をまぶします。その上から、沸騰したお湯を注ぎ、蓋をして一晩おきます。
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アクが出て、凄い色になっています。水を取り替えて、また蓋をして放っておき、
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水が澄んだ色になったので、夕ご飯のおかず用に食べやすい長さに切って、
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カレイの煮付けに添えました。春の味が口中に広がり、食感もとても良かったです。
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残りは、水分を取り除いて、塩漬けにして保存。こんなに簡単なら、もっと買ってきたら良かった、とチト後悔。

先日KBS京都テレビを見ていたら、市内のわらび餅屋さん特集をしていました。私もこのプルンプルンした食感が大好きです。ふと、ワラビとわらび餅の関係が気になって、ネットで調べてみました。わらび餅は、その名の通り、元々はワラビの地下茎から取り出したデンプンで作られていたもののようです。

根を掘り出し、叩いてほぐし、洗って、デンプンを取り出し、乾かす作業は大変手間がかかるだけでなく、取れる量が10キログラムのワラビの根から僅か70グラムなのだそうです。それで、テレビで紹介されたお店の材料までは記憶にありませんが、一般的に目にするわらび餅は、サツマイモやタピオカから取れたデンプンや、くず粉を使用したものが殆どだそうです。そのくず粉も葛の根から取れるデンプンを精製して作られた本葛粉は高価。なので、良く目にするくず粉はジャガイモやサツマイモなどのデンプンが用いられています。

機会があれば、本物のワラビ粉を用いたわらび餅(少し黒っぽい色をしている)を食べて見たいです。

桜守の佐野藤右衛門さん親子が育てた「黒田百年桜」と京北町のさくら、櫻

COVID-19 の感染拡大を防ぐため、国や京都府から休業要請を受けて、取りあえず5月6日の大型連休明けまで、おもちゃ映画ミュージアムは休館しています。日本のみならず、世界中が猛威を振るうこのウイルスに振り回されていますが、一日も早く平穏な日々が取り戻せるよう、ただ祈るばかりです。

ミュージアムにいて、寄贈受けた9.5ミリのフィルムのテレシネ作業をしたり、今後計画している催しの準備をしたりと休館中も仕事をしています。考えたら気が塞ぐことばかり続き、今年は満足に桜の花も見ていないと思い、昨日、思い切って車で京北町まで出かけて花見をしてきました。2、3年前に鳥取県から来られた方から、「京北町に見事な桜がある」と教えて貰ったことがあり、それを思い出したのです。丁度新聞で「黒田百年桜」のことが載っていたので、「不要不急」を気にしつつ、車で出かけました。
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黒田へ向かう途中、常照皇寺(京都市右京区京北井戸町)に立ち寄りました。30年ほど前に一度訪れた記憶があります。調べもせずに出かけたのですが、こちらの寺も休みになっていて、4人の方を見かけただけで、境内は静まりかえっていました。「大雄名山万寿常照皇寺」というのが正式名で、以前は常照寺と略称されていたそうです。
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南北朝時代の北朝初代光厳上皇が1362年頃開創され、臨済宗天龍寺派の寺です。駒札によれば、天台宗系の成就寺という廃寺を改めたとも伝えられているそうです。

戦国期の1579(天正7)年、織田信長の命を受けた丹後の守、明智光秀の山国全焼戦により寺域が全壊する憂き目に遭いましたが、その後、江戸期の後水尾天皇の志納などで漸次回復。幕末から明治期の王政復古もあって、皇室経済は由緒寺院への下賜金を繰り返し、堂宇庭園を拡大しましたが、第二次世界大戦の煽りを受けて多くの寺田や寺の資産を失いました。その後今の姿に復元されたということです。
左写真は、勅額門。それをくぐった屋根に、たくさんの小さなスミレが咲き群れていました。
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左写真が勅使門。右写真が碧瓢池。満開の桜が目を惹きました。後でネット検索したら、国の天然記念物「九重桜」や御所より枝分した「左近の桜」、一重と八重が一枝に咲く「御車返しの桜」など名木があるそうで、これは、そのうちのどれなのかしら。「ホーホケキョ」の鶯の鳴き声が直ぐ近くで聞かれ、姿は見えねども、のどかさに癒やされました。
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拝観休止のため、遠くより覗くしかなかったのですが、茅葺きの方丈が見えます。例年なら、有名な桜を愛でに、大勢の人が押しかけていたでしょうけど、本当に静かな境内でした。右写真は山國御陵(光厳天皇山國陵、後花園天皇後ろ山國陵、後土御門天皇分骨所)です。
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麓にも美しい桜の木があって、満開でした。可愛らしい花を、こうして間近でまじまじ見たのは、ひょっとしたらこの春初めてかも。毎日COVID-19のニュースにばかり接していて、春を遠くに置いたままでした。自然はきちんと順序よく巡ってくるというのに、心に余裕がないと、こうした美しいものさえ見過ごすことに。。。
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もうひとつ、白っぽい桜の木も視界に。羽を広げたクジャクのようで、その花も可愛らしい。

常照皇寺を後にして、「黒田百年桜」を目指します。
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これが、右京区京北宮町にある「黒田百年桜」。丁度満開で、大変に美しい眺めでした。京都市内で最も遅く咲く桜として知られているそうです。
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ヤマザクラの突然変異で、10~12枚の八重の中に一重が混じる珍種で、赤色の大輪の花が手鞠のように固まって咲きます。幹周りは約3.1㍍、高さは約8㍍、樹齢は三百余年ともいわれています。
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突然変異のため種子はできませんが、有名な桜守の佐野藤右衛門さん親子が、1977(昭和52)年、約30年にも及ぶ執念で苗作りに成功し、父の15代目佐野藤右衛門さんが、この幻の品種を「黒田百年」と名付けられました。

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桜吹雪が美しくて振り返った先に、木材を曳く人形の展示が目に入りました。伏条谷杉巨木群の黒田は、昔から森林業が盛んです。周辺には、多くの森林業の看板がありました。来る途中も帰る途中も天に向かって、真っ直ぐ伸びる杉の山がずっと連なっていました。
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「黒田百年桜」があるのは、春日大社の向かって左。鳥居の右側にも美しい「松月桜」が。少し「黒田百年桜」の方が色が濃いピンク色。その神社の由緒によれば、古来藤原氏と縁があり、奈良の春日大社のご祭神を勧請してお祭りされているそうです。都が奈良から京に遷ったとき、黒田の地域は禁裏御料地となり、平安京造営のためにたくさんの木材が筏によって運ばれたそうです。そうした歴史的背景もあって、林業が今も盛んに。
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春日神社宝蔵は、京北地域における現存最古の珍しい形式を持つ板倉で京都市指定有形文化財に指定されています。この拝殿の様子は京都府南部でいくつか見かけたものと似ているなぁと思って、写真を撮りましたが、うっかり宝蔵を撮るのを失念。拝殿の向こうにある本殿は、京北では少ない三間社造りで、鎌倉時代の1265年に造営され、1703(元禄16)年に現在の本殿が造営されたと由緒にあります。
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この木の花を見るには、少し遅かったようですが、まだいくつか紅梅が待っていてくれました。「生命力の神秘」と掛札が。先に書いたように本殿が建てられたのが317年前ということですが、その本殿建築の記念に植えられた紅梅だそうです。300年も生き続けていて、痛みが激しい状態ですが、それでも大変美しい花をたくさん付け、人々を驚かしていることから、今では、そのたくましい生命力にあやかろうと、木を撫でて願掛けをする人が多いそうです。

そうと知って、早速COVID-19退散をお願いし、世の人々の平安を願いました。御利益がありますように。

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「松月桜」、とても可愛い花です。

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今年は暖冬で早咲きの予想でしたが、低温の日が続いて平年並みの満開時期となりました。おかげで、「黒田百年桜」とこんな可愛い「松月桜」を見ることが出来ました。

帰りは、道路工事中だったこともあり、鞍馬の方に向かうことに。
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桂川(大堰川)の源流の鎌倉谷川に架かる鎌倉谷橋の直ぐ近くに、もの凄く美しい桜の木々が満開の状態で、ひっそりと出迎えてくれました。
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優しいピンク色の夢のような美しい世界。人家も見当たらないような場所でしたが、地元の人々が草取りもされて、丁寧に世話をされているのでしょう。COVID-19にやり込められて辛い日々が続いていますが、そんな中で見る人がいなくても、一生懸命美しい花を咲かせている桜を見て、「仕方ない、できるだけのことを頑張らねば」という気持ちになりました。
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皆さんも、辛く不安な日々をお過ごしでしょうが、何とか歯を食いしばって、乗り切りましょう。とにかく、感染しないようくれぐれも用心して、過ごすことが一番大事!!!!!





婦人画報創刊115周年記念特別展「婦人画報と京都 つなぎ、つたえる『人』と『家』」の見学

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日本を代表する仏師・江里康慧先生から昨日招待状を頂いたので、早速美術館「えき」KYOTOへ行ってきました。奥様の江里佐代子さんの截金作品も展示されていて、何度見てもその美しさに見惚れます。女性で初の人間国宝となられましたが、惜しいことに2007年訪問先のフランスで急逝。身体はなくなっても、生み出された素晴らしい芸術作品は、こうして後々の代まで継承されるのだと改めて思いました。江里康慧先生との出会いや見学した展覧会のことはこちらで書いています。
http://blog.livedoor.jp/rekishi_tanbou/archives/1709144.html

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今日は冷泉家歌道二十五代冷泉貴実子さんのギャラリートークがありました。いくつかある蔵の一つが先の台風の被害で屋根が飛んだため建て直すことになりましたが、国はコンクリート造りでないとダメだというのだそうです。景観にも合った蔵にしたいので、おそらく自前で建てるしかないと仰っていました。近代の美術館・博物館は冷暖房が行き届き、温湿度管理がなされていますが、厚い土壁の蔵ではもっと高い湿度の自然のままの状態で、藤原定家の時代から引き継ぐ貴重な資料が保存されてきました。ですから、こうした展覧会で貴重な資料をご覧頂くのも、紙の劣化を考えると随分気になるのだそうです。

もう一つ興味深く思ったの
は現代短歌との違い。明治に入ってから国は自我を投影する芸術の考え方を採り入れましたが、それ以前の大和の文化は「型」の文化だったという話。日本の春を表す表現は「梅に鶯」、一番に咲くのは梅と決まっていたし、春を喜ぶ初釜に活けるのは柳というのが大和の文化の型。平安・鎌倉期からずっと続く文化を継承されている冷泉家の営みにも教わることがたくさんあるなぁと思いながら、以前見学した乞巧奠のことを思い出しました。それはこちらで書いています。http://blog.livedoor.jp/rekishi_tanbou/archives/1626264.html 

冷泉家からお借りして展示してあったのは、百人一首かるたや貝合せ。百人一首は、今日見られるような素早く札を取る競技としてのかるた遊びではなく、もっと優雅なものだったようですし、貝合せも1セット360個もの貝が用いられ、それぞれの貝の模様で対になる貝を当て、それが合っているかどうかを見極めるのが、貝裏に描かれた絵なのだそうです。「絵だけを見て、対の片方を探すなら簡単なことだ」と今まで思っていましたが、どうやら勘違いを長くしていたことに漸く気付きました。360個もあるのですから、随分時間を掛けて遊ぶのんびりした遊びだったのでしょう。
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「婦人画報」は明治38(1905)年に創刊され、戦時中も一度も休刊するとなく発行され続けてきたそうです。

画家の藤田嗣治が1938年に「婦人画報」に発表した国防服のデザインも展示してありました。もんぺの膝から下が細く絞ったシルエット。贅沢が禁止された時代にあっても、ぎりぎりまでお洒落なデザインを読者に提案しようとした編集者の心意気が伝わってきます。言論統制下では「戦時女性」と改題(昭和19年5月号)し、ページ数も減りましたが、それでも発行継続。12月4~28日、おもちゃ映画ミュージアムで「戦争プロパガンダ展-ポスター・雑誌・映画ー」を開催し、当時の『写真週報』や『朝日グラフ』など河田隆史さんが集められた戦時中の雑誌もご覧頂きました。そこに今回展示された「婦人画報」や子ども向けの雑誌などもあると、もっと国中が戦争一色に飲み込まれていった様子が分かったかも知れないと思いながら拝見しました。

写真は115年間の表紙がミュージアムのエントランスにズラリと並んでいる圧巻の光景‼20日まで開催中ですので、ご都合良ければ、ぜひお出かけください。

「世界を変える美しい本」展

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8月18日が最終日だと知って、急いで観に行ってきました。南インドのチェンナイにある小さな出版社「タラブックス」の本を紹介する展覧会。1994年、二人のインド人女性が設立しました。

インドの民族画家が描いた絵を、ふっくらとした風合いの紙に、版画の手法で印刷し、それを糸で製本したハンドメイドの絵本。インド各地に残るお話や、固有の表現を活かしながら、画家、編集者、デザイナー、印刷職人らが一緒に生み出す本は、とても美しいです。

珍しく、作品全てを写真撮影しても良いということでしたので、その雰囲気をお伝えしたいといくつか載せます。

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「夜の木」の原画。インド中央部に暮らすゴンド族の芸術家たちが描いた様々な「夜の木」。説明によれば「ゴンド芸術は知的かつ詩的で、複雑な描線と見事な構図が特徴で、共同体に共通する記憶に深く根をおろした伝統的な物語や信仰、象徴などを表現する一方で、どんなことでも描く柔軟性を備えている」。
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ゴンド族の画家たちが、夜の間に別の姿を見せる木の物語を描き出した絵本で、彼らにとって、木は再生と成長の力の象徴で、動物や鳥、植物、人間などと共に描かれるそうです。シルクスクリーンで印刷。この初版表紙は、刺繍してあるように見え、とても綺麗でした。
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ゴンド族の木彫。
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随分前に中国の少数民族を調べていた時に、文字を持たない部族の女性たちは、刺繍などに自分たちのお話や生きるための必要な知識を縫い込め、また、歌にもそうしたことを歌詞にこめて、娘に口伝えしていたのを知りました。同じようにこの展示で紹介されている人々も古いお話を絵巻に描き、それを歌い説くことで、次世代に継承していました。
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とても良いなぁと思った絵。
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初めてイギリスにいった画家が描いた「ビッグ・ベンが鶏になるとき」。『ロンドン・ジャングル ブック』に収められている一枚です。
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このカタツムリも好きです。
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展示方法も素敵で、とても真似はできませんが、道具など参考になりました。

たくさんの人が熱心にご覧になっていました。もう少し早めに気付いていたら、ご案内できたのに。。。でも、京都近郊の皆さんは、今日までですから、時間に余裕がございましたら、ぜひお出かけください。


観て良かった!!!「energy~笑う筋肉」


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吉本興業さんからご招待を受けたので、3月13日「energy~笑う筋肉」を観に行ってきました。3月2日「太陽の塔」内部見学会に参加した折り、大阪城公園の管理運営について話を聞いたこともあり、どのような状態なのか自分の目で見てみたいという思いもありました。

JR大阪城公園駅から玉造筋沿いに南下し、会場の「COOL JAPAN PARK OSAKA」へ歩いて向かうと、途中の駐車場なども整備されて、木々も手入れされ、すっきりした景観になっています。
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最初に見えてきたのは、「COOL JAPAN PARK OSAKA」WWホール。ご招待を受けた『KEREN』Grand Premier公演が2月24日にありましたが、ぼーっとしているうちに満席になり、来週19日に見せて貰うことになりました。2月25日からロングラン公演開始。リーフレットによれば「世界最高峰のデジタルアートと、伝統的な歌舞伎の仕掛け、ブロードウェイの振付によるダンス。海外でも評価されるタップダンス・殺陣。ストーリーはなく、すべてを呑込み圧倒的なスピード感と没入感で駆け抜ける70分!」だそうです。楽しみです‼ 詳しくはこちらをどうぞ。

「COOL JAPAN PARK OSAKA」はWWホール、TTホール、SSホールの3ホールからなり、2月23日のこけら落とし公演から始まって、上方伝統芸能フェスティバル、祝賀能等々多岐にわたったエンターテインメントが既に続々行われています。今、大阪城は海外の人に人気スポットだと言いますから、国内外の人々に大阪城公園に来てもらって楽しんでいただけたら良いなぁと思います。
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さて、こちらが目的のTTホール。偶然12日真夜中にMBS放送で「OF LIFE」を見ました。番組で取り上げたのは「energy」出演者で最年長の木村克己さんでした。木村さんだけでなく、出演する皆さんが、肉体を駆使して繰り広げるスポーツミュージカルだと番組を見て知っていたので、その醍醐味を味わえると、会場入り口に立った瞬間から期待でワクワクしました。
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完成したばかりの美しい建物は、どこもみなピカピカ。番組内で出演するアスリートが初めてこのホールに立ったとき、ぐるりと見渡して「凄いなぁ、やる気出る!!」とおっしゃっていた気持ちがわかります。
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中村龍史さんは、番組でも登場されていました。「energy」の作・演出・振付を担当されています。
DSC_0338 (2)中村さんは、広い客席の一番後ろにおられました。「アスリートを表現者に変え、ノンバーバル(台詞のない)で、筋肉が音を奏でる、肉体を駆使したエンターテインメント。人は人に感動する。派手な衣装や大きな機械仕掛けもなく、身体一つで勝負する『裸一貫ミュージカル』を、日本のサブカルチャーとして、大阪から世界へ発信したい」と、熱く語っておられます。

どれも、これも神技としか表現できないくらい凄いスポーツパフォーマンスの連続。呼吸を忘れ、瞬きさえ忘れて目を見開いたままという表現は、決して大げさでないほど、繰り広げられる舞台に釘付けになりました。鍛えぬかれた身体の美しさにも感動しました。人間って、凄い‼と思いました。
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大阪での公演は、17日まで今夜を含めて6回のみ。詳しくはこちらをご覧ください。
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本当に素晴らしいスポーツミュージアカルでした。観に行って良かったです‼  来るときは舞戻った寒さに背中を丸くしていましたが、アスリートたちの超絶技巧に魅せられて、すっと背筋が伸びました。





「太陽の塔」内部見学会

3月2日「小さいとこML」で知り会った吹田市立博物館学芸員五月女さんの企画・ご案内で万博記念公園に行って来ました。待ちかねた春到来を思わせる好天気。集合時間は中央口に11時45分なので、まだ時間に余裕があったことから初めてエキスポシティを見て歩き。
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ガンダムショップの前に大きな「機動戦士ガンダム」が聳えたっていました。第一作放送から4月7日で40周年を迎えるのだとか。あと30日ですね。この写真をSNSで呟いたところ多くの人が関心を示して下さったので、今も少年時代のガンダム熱をキープしておられる人がたくさんおられるのでしょう。

一昨日ディズニーの『くるみ割り人形と秘密の王国』について、コダックメールマガジンが届きました。35㍉と65㍉フィルムで撮影されていて、とってもきれいな映像美です。このガンダムが展示されている隣の「109シネマズ大阪エキスポシティ」は、高さ18m超、横幅26m超のシネコンとしては、日本最大級の巨大‼MAXRスクリーンを有していますので、できることならこのスクリーンで鑑賞して見たい。
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さて、集合時間には、各地から大勢の学芸員たちが集まって来ました。写真パネルを掲げて説明をしておられるのが案内人の五月女さん。最近時間とお金に余裕がないこともあり、世の中のニュースに疎くなっていると実感していますが、なかでも五月女さんの話を聞いてびっくりしたのは、万博記念公園全体に指定管理者制度が導入され、昨年10月1日から、吉本興業、よしもとエージェンシーなど9社で組織する「万博記念公園マネジメント・パートナーズ」が新たな管理者として運営を開始したということです。今回の企画のテーマは正式には、「太陽の塔内部&EXPO'70パビリオン見学会・ディスカッション~展示とミュージアム運営の現状と課題について~」です。

一緒に見学した学芸員さんから大阪城公園も電通や読売テレビなど5社で組織する「大阪城パークマネジメント共同事業体」が2015年4月1日から2035年3月31日まで、管理運営することになり、木が伐採されて凄いことになっている」とお聞きしてびっくりしました。確かにネット検索したら、指定管理者決定のことなどが新聞で報道されていました。

いずれも委託料ゼロで、逆に事業収益から一部を大阪府・市に収めるというソロバン勘定が目に見えています。利益最優先ではなく、これまでの大阪城を始めとする公園全体や、万博記念公園全体の歴史・文化を大切にしながら、国内外の多くの人が憩える魅力的な場になれば良いと思います。反対を唱える厳しい視線に、ぜひとも成功事例で応えて貰いたいです。

結果から言えば、この日最後に計画していた「万博記念公園マネジメント・パートナーズ」の担当者をお招きして「太陽の塔及び一体運営されるEXPO’70パビリオン(旧鉄鋼館)の展示やミュージアム運営がどのようになされてきたのか」お話を伺うことになっていたのですが、それが実現できなかったことが残念でした。
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参加者の中には「20回以上万博に通った」という人や、お母様が好きで、「学校から帰るのを待って、万博に見に来ました。夕方からは割安なので、もう何度も。いろんなことを良く覚えています」と、噴水が回りながら動いていたこと、建物のこと、展示のことなどを懐かしそうにお話くださいました。

昨年11月に髙橋克雄展を開催した折り、EXPO'70 日本館で上映していた『ミセス21世紀』が発見され、ご長女の佳里子さんがデジタル化されたものを上映したことが話題になりました。こちらで詳しく書いています。
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これが日本館で、パビリオンの中でも最大規模を誇り、日本の国土の1000万分の1に相当する広さでした。桜の花びらを表す5つの円筒形の建物で構成し、日本文化の発展、現在日本の産業、生活、文化、21世紀の日本など、2000年にわたる時の流れを1号館は「むかし」、2、3号館は「いま」、4、5号館は「あす」を紹介し、全体として「調和」の理念を伝える展示でした。髙橋克雄さんの映像は、「あす」を紹介する21世紀の日本で上映されたのですね。
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11月の展示では、もう一つ、髙橋克雄さんが手掛けられた日立館についての設計図や様々な実験結果などが記されたノートなどの資料もありました。万博の記憶が鮮明な件の女性は、日立館のことも良く覚えておられました。
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旧鉄鋼館、現在の「EXPO’70パビリオン」の入り口。館内は、当時の様子を学ぶ施設として活用されています。この鉄鋼館は政府館の向いに位置していました。前掲日本館と日立館の写真は、現在の「EXPO’70パビリオン」で展示していたはがきからの紹介。
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五月女さんの後ろにあるのが、エキスポタワーの一部。「EXPO’70パビリオン」建物の前に設置してあります。設計は菊竹清訓さんで、高さ127mもあり、展望台や報道などの無線中継地として建設されました。DSC08852



















こちらも「EXPO’70パビリオン」の展示から。当時の無線機は大きいですね。出始めの頃です。

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これは万博当時の全景模型です。

前後しますが、「EXPO’70パビリオン」見学に先駆けて、私的に主目的であった「太陽の塔」内部見学の様子を。入場券には「12時30分から13時00分まで」と時間が記入されていて、一人30分限定の見学です。入口から「地底の太陽」までの通路には、「太陽の塔」構想スケッチが掲示されています。五月女さんの説明によれば、「太陽の塔」の構想をした丹下健三さんの設計図には、「太陽の塔」が影も形もない段階から大きな穴があいた姿の大屋根が描かれていたため、岡本太郎さんが丹下さんの意に反して「太陽の塔」を突き破る提案をしたのではなさそうです。
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「地底の太陽」ゾーン。このフロアーだけは撮影が許可されていました。ネットで調べると、「撮りたい!」という声が多数寄せられ、昨年12月20日から塔内部1階のみ許可になったそうです。ネットでは再公開以前の様子や再公開後の様子など様々に上がっていますので、ご覧くださればと思います。
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「過去・根源の世界」と呼ばれた地下展示「いのり」ゾーンに岡本太郎さんが手掛けた「地底の太陽」。ここには当時、世界中から集めた仮面や神像などが露出展示され、「地底の太陽」はこの「神々の森」を司っていました。残念ながら閉幕後に行方不明になっていることから、内部公開に合わせて新しく復元されました。新たにプロジェクション・マッピングの光の演出が施されて美しい空間です。岡本太郎さんが生きておられたら、このような表現をされたのではないか、という想像に基づいているそうです。

展示されていた仮面や神像は、岡本太郎さんが人類の根源を示す狙いで、1968年5月頃に「日本万国博覧会世界民族資料調査団収集団」を組織することを東大の泉靖一先生と京大の梅棹先生に依頼し、約20人の若手研究者を世界中に派遣し、限られた予算と時間の中で47か国・地域から2600点近くの資料を収集したものです。ほとんどは国立民族学博物館で収集されていますが、内部公開に際して25点の仮面と11点の神像が民博から大阪府に移譲されて実現したものです。
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基底部は生命が誕生したとされている40億年前を表現。べん毛虫、アメーバー、ウミユリ、ポリプなど。「生命の樹」は高さ41mで、上にいくにつれて生物の進化がオブジェで表現されています。クラゲ、太陽虫、三葉虫、オストセラスペルキドウㇺ、キルトセラススデクリオ、巻貝、アンモナイト、オーム貝、サソリ、どれパナスピス、ボスリオレピス、魚類、マストドンザウルス、メゾザウルス、トラコドン、エダフォザウルス、プテラノドン、古代生物の骨格、マンモス、ゴリラ、ニホンザル、テナガザル、オランウータン、チンパンジー、ネアンデルタール人、クロマニヨン人の33種、292体の生物模型があり、そのうちの約30体が機械仕掛けで動いていました。ゴリラは頭部がむき出しになっていて、仕掛けられていた機械が見え、足の裏部分も垂れ下がっていました。会場の説明者によれば「このゴリラは、半世紀近く一度も降りたことがなく、経年劣化をありのままに見てもらおうとそのまま展示しています」とのことでした。現在は183体が展示。

下から上へ螺旋階段を上りながら、「生命の樹」を当時の黛敏郎さんが作曲した『生命の賛歌』を聞きながら見て歩くことができますが、登れるのは両手を広げた付け根部分まで。当時は階段ではなくエスカレーターでしたが、軽量化のため階段に付け替えられています。よくコンサートホールなどに音響反射板が取り付けられていますが、その走りだとも言われている「脳の襞」(岡本太郎さん曰く)が「太陽の塔」内部に張り巡らされていて、公開前に耐震工事が施され、一端全ての「襞」が取り外され、再度取り付けられました。耐震工事によって内壁は20㎝厚みが増し、その分いくらか「襞」の枚数が減ったようですが、取り外し、取り付けも大変な作業だったことでしょう。埃などを除く掃除が大変だろうと思い、尋ねましたところ「2018年3月19日公開以来、まだ一度もしていない」との事でした。維持管理するのも大変です。

クロマニヨン人より上の天井は「太陽の空間」。無限の天空をイメージしたものです。右腕から先は大屋根へ向かうエスカレーターがありましたが、今は撤去されています。かつて観客はこのエスカレーターを使って外部へ、空中展示「未来・進歩の世界」を楽しむことができました。撤去されたエスカレーター部分の鉄骨に万博のシンボルマークが残っています。エスカレーターがあった場所にある案内版は、1970年当時のものだそうです。左腕は今も非常階段になっています。
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背面から見た「太陽の塔」(高さ約70m。基底部の直径約20m、腕の長さ約25m)。塔の頂きにある「黄金の顔」(直径10.6m、目の直径2m)は未来を表し、正面胴体部にある「太陽の塔」(直径約12m)は現在を、そしてこの「黒い太陽」(直径8m)は過去を表します。それに地下展示にあった「地底の太陽」(高さ約3m、全長約11m)は「過去・根源の世界」を表しています。

私自身は田舎に住んでいたので、団体旅行で一度だけ見に来たような気がしていて、正直人が多かった記憶しかありません。ですから2日の見学が新たな私の万博の思い出になります。2025年の万博が大阪に決定し、エキスポシティでも歓迎する表示が見受けられました。五月女さんは、この万博記念公園を聖地として、プレ万博を千里で、ポスト25を夢洲(ゆめしま)で、と提案していきたいとおっしゃっていました。
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EXPO'70は日本の高度経済成長をシンボライズする一大イベントでしたが、2025年はどのようになっているのでしょうか。開催は5月3日~11月3日の185日。多くの人に夢と感動を与えられる催しになることを願っています。















心のこもったカレンダー

今日は、東京から活動写真弁士片岡一郎さんにお越しいただいて、開催中の没後50年記念「オールスター映画の巨匠 池田富保監督作品上映会」をしました。代表作の一つで主演を務めた「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助最晩年の『忠臣蔵』、松之助主演千本記念『荒木又右衛門』、そして明治維新150年の今年最後を飾るにふさわしい『地雷火組』の3本をご覧いただきました。

「『忠臣蔵』が大好き」という方や、「最近無声映画と活弁に興味があって」という方が関西はもとより、東京からもお越しいただき、狭い会場はいっぱいになり、大変嬉しかったです。

その東京からお越しいただいた方の中に、名画座として知られる「ラピュタ阿佐ヶ谷」の支配人石井紫(ゆかり)さんの姿も。紫さんからいただいた素敵な手土産はおもちゃ映画ミュージアムの方で紹介するとして、ここでは彼女のご両親からの手土産をご紹介します。

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彼女のお父様が、60歳から習い始めた日本画の中から選んで初めて作られた美しいカレンダーです。古希を迎える節目と描き始めて10年になることを記念して、新しい年号が始まる2019年に、奥さまの恵子さんの提案で製作されました。

1月が水仙、2月が椿、3月が白木蓮、4月が桜草、5月が筍、6月が花菖蒲、7月が凌霄の花(ノウゼンカズラ)、8月が朝顔、9月玉蜀黍(とうもろこし)、10月が栗、11月が柿、12月が山茶花。どの月の絵もとても美しく、丁寧に描かれていて、優しさが感じられます。

実は、お母さまの恵子さんは、私が主宰していた頃の「木津川の地名を歩く会」の会員でした。カレンダーには優しい言葉が綴られたお便りも同封されていて、古文書の勉強会やあちこち見て歩いた時のことも懐かしい思い出だと書いてありました。ご実家がある鳥取県に伝わる流し雛を手作りしてプレゼントしていただいたこともあり、夕べは、そんな思い出があることなども紫さんにお話しました。

恵子さんのお嬢さんが、ラピュタ阿佐ヶ谷の支配人をされていることは、私が会を卒業した日の帰りにおしゃべりしている中で偶然知ったことで、「何と世間は狭いのか!」とびっくりしたものです。こうして、親子2代にわたって交流できる縁をいただいていることに、ただただ感謝しています。「木津川の地名を歩く会」は11月で活動を終えましたが、そこでの思い出はこれからも大切にしていきたいです。

「木津川の地名を歩く会」活動終了。印象深い菅浦探訪や古文書勉強会。併せて滋賀に残るヴォーリズ建築探訪なども

先日、久し振りに懐かしい声の電話を受け取りました。着信表示名でそのお名前を見付けて直ぐに「毎年恒例の忘年会のお誘いだ。今年は何を食べるのかしら」とよだれを垂らさんばかりに電話に出ましたら、「今日の古文書の勉強会の時に、急に『古文書の勉強会は今日で最後にします』と先生から言われたので、『木津川の地名を歩く会』の活動も今日で終わりになりました」との連絡でした。いずれは、こういう日が来るだろうとは思っていましたので、一抹の淋しさを覚えはしましたが、仕方ないかと。

おもちゃ映画ミュージアムの休館日を利用して、自宅でこれを書き始めています。その背後には、2007年4月21日から活動を開始し、2015年1月に代表を引退するまでのたくさんの資料ファイル類が並んでいます。引退後に受け取ったいくつかの例会の探訪案内もファイルしていますが。

新聞を読んでスクラップをするのが好きだったこともあり、いずれ役立つかもと思って、周辺自治体毎の各ファイル、古代、中世、近世、近代、そして現代とそれぞれの大まかな区分で分けたファイル類も所狭しと押し入れを占領しています。

それらは正直、2015年5月に開館したおもちゃ映画ミュージアムの活動で自由になる時間もないことから、ほぼ出番を迎えることもないままです。でも、時折取り出して眺めては、夢中になって歴史や民俗のことなどを調べていた頃を懐かしんでいます。捨てようと思いながらも捨てられずにいるのは、かつての自分がスクラップされているからなのかもしれません。愛しい思い出です。

このブログを2011年2月6日に書き始めたきっかけも「木津川の地名を歩く会」の記録として残せたら良いなぁと思って、愚息に教わりながら始めました。書き始めのページから「これまでのことも振り返りながら」と宣言しつつ、やはり日常のことに追われて実行できないままだったことを反省しています。

会を引退してからは、発足当初から会員として力を貸してくださり、2011年4月16日から月一で古文書勉強会の指導もして下さった平 文さんに随分お世話になりました。深く御礼申し上げます。古文書の勉強会は、私の個人的な願いから始まりました。地域史を研究するにあたり「ご自分でもとになる資料を読まれたのですか?」と言われたことから、読む力がなければ書くこともできないと思い知ったから。

もともと古文書専門の平さんに頼みこんで、ご多忙の中を引き受けてもらいました。それから7年7カ月も続いたのは本当に凄いことだと思います。当初は仕事をしながら、その後は介護をしながらですから、大変な負担だったことだろうと思います。この間、会員の皆さんは随分と力を付けられたことと思います。残念ながら、私は脱落組で、未だミミズがはったような文字は苦手です。

古文書勉強会では、いろんな資料を教材にして学びを続けました。京都府南部の加茂町でたまたま田んぼで燃やされる直前の古文書を私が入手。それを退会するまで教材の一つにして勉強しました。今も余生でその続きができ、何らかの纏めができることを願っています。読み進めた加茂の文書から、自然災害や突然の不幸に見舞われ、年貢の供出がままならない事態に陥っても、今のように「自己責任」ばかりが声高に叫ばれるのではなく、共同体として村に救済の制度があり相互扶助の精神が息づいていたことを知ることができました。今よりもっと江戸時代の方が情けがありました。

そして、例会で探訪し、それ以前の古文書の学習として皆で勉強した「菅浦文書」も強く思い出に残ります。それは、2014年3月15日の第33回古文書勉強会のことで、その日は午後から希望者だけで大津歴史博物館へ行って、企画展「古都大津のこもんじょ学」見学もしました。そして、翌4月19日第33回例会「探訪:桜の名所・海津大崎」で毎年恒例の花見をした折り、持ち前のダメもとの精神で屋形船「大井丸」の船長さんに直談判して、中世の集落の様子が今も残る菅浦まで連れて行って貰いました。当時のブログはこちらに書いています。キラキラ輝く湖面の向こうに見える菅浦の村の光景に感動したことは、今も鮮明に思い出すことができます。
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その後、2014年6月に菅浦の集落は「国の重要文化財的景観」に選ばれ、村に中世から伝わっていた「菅浦文書」は今年、国宝に指定されました。菅浦が大好きな私は、これまで何度も書いていますので、可能でしたら、このブログで「菅浦」と入力して検索していただけたら、その魅力が少しはお分かりいただけるかと思います。

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少し、脇道に逸れますが、「菅浦文書」が国宝に指定されたのを契機に、11月12日同文書を保存している滋賀大学経済学部附属史料館に行って来ました。平成30年度企画展「菅浦文書国宝指定記念 中世近江の惣村文書」が10月15日から11月16日迄開催されていることを偶然テレビのニュースで見て知り、会期中に実物を見ることができました。

「村の住民たちが作成や他からの受け取りに直接関わり、長きにわたって地元で伝えられてきた古文書が国宝となるのは初めてです」(リーフレットの「ご挨拶」から)。村の文書が国宝になるとは本当に凄いことです。

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この建物が彦根市にある滋賀大学経済学部附属史料館。見学に来る人がまばらだったこともあり、ゆっくりと見学することができました。もっとたくさんの資料が展示されているかと想像していたのですが、菅浦だけではなく「中世近江の惣村」に伝わる文書ということで、他にも「今堀日吉神社文書」、「大嶋神社・奥津嶋神社文書」、「伊藤晋家文書」も展示されていました。その奥のスペースでは近江商人について常設展として紹介されていました。

どうせ、中国へ旅行中だったから聴講はできなかったのですが、11月4日に太田浩司・長浜市市民協働部学芸専門監の講演「菅浦と大浦の堺争論~中世村落社会の実像~」もあったようで、聴講出来なかったことを大変残念に思っています。
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史料館建物の向かって左にあった小ぶりの建物がとても風情があり、帰って調べたら、案の定ヴォーリズ建築設計事務所の設計でした。経済学部前身の彦根高等商業学校同窓会館として、1938(昭和13)年に建設。国の登録有形文化財。スペイン瓦、淡いクリーム色の外壁、玄関廻りの市松模様など、スペイン風のデザインでまとめられて、ヴォーリズらしさがうかがえます。内部は非公開でした。
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もう一つ、素敵な建物が目を惹きました。滋賀大学正門を入って、すぐ右側にあったやはり登録文化財の木造建築「講堂」。1924(大正13)年文部省建築課によって設計された旧彦根高等商業学校講堂です。

ネットで検索した説明によれば、「桟瓦葺きの切妻造りの屋根に正面の妻面上部にコ―二ス(軒蛇腹)を用いてぺディメント(三角形)を型取り、柱型付け玄関を設ける。屋根には、半円形の屋根窓や、ドーム屋根の小塔があり大きな屋根にアクセントをつけています。外装は、ほぼ全体を下見板貼りとし、上下階で連続性を持つ窓を配しています」ということです。中は板敷きの広々とした空間でした。こちらも内部は非公開。
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帰りに見た彦根城。この後ライトアップして綺麗でした。予備情報も持たずに、ただ「菅浦文書」見たさだけに訪れましたが、今も残る素晴らしい近代建築を見ることができてラッキーでした。

話を元に戻して、発足当初は「木津川の地名を歩く会」の名付け親である民俗学者で、日本地名研究所長だった谷川健一先生と沖浦和光・桃山学院大学名誉教授の対談なども計画していましたが、風呂敷を広げてもうまくいくはずもないと断念し、身の程にあった活動をボチボチとしてきました。その間にお二人とも別の世界に旅立ってしまわれました。おもちゃ映画ミュージアムを運営している今だったら実現は可能だったかもしれません。モノが熟すには時間と経験と熱意が必要だったと今にして思います。

2015年1月の私の卒業式の日に、それまでの活動記録を整理して皆さんにお配りしました。今そのデータをアップすれば良いようなものですが、パソコンが壊れた時にバックアップに失敗し、その折に全てのデータが消えてしまう悲しい出来事がありました。今、その時お配りした印刷物を見ますと、探訪は37回(数え誤りで実際は38回ですが)、古文書勉強会は41回、会合は17回となっています。それからも今年11月17日に「活動終了」が告げられるまで存続していたのですから、都合11年8カ月も続いたことになります!!!!!

例会探訪記録を挙げれば▼第1回=南山城村パート1▼第2回南山城村パート2。京都府無形民俗文化財「田山花踊り」見学▼第3回=笠置町パート1。「太平記」の舞台を歩く▼第4回=笠置町パート2。切山へ▼第5回=大山崎から長岡京市まで。恵解山古墳、サントリー京都ビール工場見学▼第6回=島本町。開業・開館したばかりのJR島本駅と町立歴史文化資料館見学。ふれあいセンター屋上から三川見学挑戦▼第7回=城陽市の水度神社から鴻ノ巣山へ。イルミネーション見学▼第8回=山城町棚倉周辺。国重文「居籠祭」見学▼第9回=伏見の御香宮から大和街道を歩いてJR小倉駅まで。最後に宇治公園塔の島「さくらまつり」見学▼第10回=京田辺市天王で、無二荘牡丹園、朱智神社、極楽寺、三国峠見学▼第11回=八幡市松華堂庭園・美術館見学と東高野街道沿い社寺を探訪▼第12回=城陽市長池から青谷。城陽酒造の蔵開き祭見学▼第13回=枚方市の楠葉台場跡から八幡市の背割堤まで歩き花見。橋本遊郭の風情も見学▼第14回=平城遷都1300年祭で賑わう平城宮跡見学▼第15回=伊賀街道加茂宿から奈良坂へ▼第16回=奈良市の滝坂の道を歩く。円成寺、様々な磨崖仏見学▼第17回=久御山町東一口探訪。安養寺の双盤念仏や排水機場見学など▼第18回=大和郡山の城址見学と花見▼第19回=河井寛次郎が愛した精華町の旧村の佇まいと学研都市の今を見学▼第20回=和束町の茶源郷と史跡探訪▼第21回=亀岡市内探訪と国文祭「民俗芸能の祭典」見学▼第22回=淀小橋掛け替え直しの古文書に出てくる地を探訪▼第23回=木津の相楽神社餠花祭見学と周辺探訪▼第24回=京田辺市の一休寺文書で学んだ佐川田喜六昌俊についてご住職に話をお聞きした後、花見と遺跡見学をしながら大住の国重文「澤井家住宅」へ▼第25回=新緑の大仏鉄道遺構を歩く。約13キロ▼第25回(数え誤りで本当は26回ですが、掲載済みブログとも関連するので、このままで通します)=当尾南部の石仏巡り。浄瑠璃寺や岩船寺で紅葉狩り▼第26回=古文書で学んだ松尾芭蕉ゆかりの幻住庵、義仲寺、竜が丘俳人墓地などを巡り、大津歴史博物館へ▼第27回=鳥羽作り道と鳥羽離宮跡を歩く▼第28回=新緑の和束茶源郷の古道と石仏を巡る▼第29回=古事記のふるさと田原本町と重要伝統的建造物群保存地区に指定されている今井町を散策▼第30回=芭蕉のふるさと伊賀上野を歩く▼第31回=物集街道から松尾大社まで。数々の遺跡や国登録文化財「山口家住宅」見学も▼第32回=奈良街道の六地蔵から木幡、黄檗、宇治橋まで。石造物を見ながら紅葉を楽しむ▼第33回=桜の名所 海津大崎。大井丸に乗船し約800本のソメイヨシノ並木の花見を楽しむ▼第34回=伏見街道の深草、藤森、墨染を歩く。約12.5キロ。伊藤若冲縁の石峰寺、丈六の廬舎那仏を360度間近で見た欣浄寺など▼第35回=国東半島弾丸ツアー。さんふらわぁで船中2泊し、国東半島史跡巡り観光バスで満喫旅▼第36回=宇治田原町の『田原祭』還幸祭と周辺探訪。奈良春日大社の「春日若宮おん祭」に似ている点も見受けられる祭▼第37回=京都府立山城郷土資料館特別展見学と上狛環濠集落などを巡る。史跡高麗寺跡、古文書(東大所蔵)で知られる浅田家、国指定重要文化財「小林家住宅」など見学。玉台寺住職のお話と紅葉を楽しむ。

途中の出入りはありましたが、例会や古文書の勉強会に参加していだいた皆さま、あるいは、例会時にご案内いただいたり、情報を提供して応援して下さった多くの皆さまに心から御礼を申し上げます。キョロキョロ好奇心のままに見て歩くのが大好きな私に、ようこそお付き合いくださいました。ただただ感謝でいっぱいです。ありがとうございました。

皆さま、くれぐれも御身大切になさって健やかにお過ごしくださいませ。


「木津川の地名を歩く会」そのものの記事はこれで終わりますが、引き継いで極まれに書いている「歴史探訪京都から」は、これからも時々書き継いでいこうと思っています。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

もうすぐ12月12日午前0時になります。何度かこのブログで書いた「泥棒除け札」の日になります。「あれ、何のことだろう?」と思われる方は、「泥棒除け札」と、このブログで検索して見てください。きっと、どこかのお宅の12歳になるお子さんが、眠い目をこすって「12月12日」と書く準備をしていることでしょう。ありがたいことに、今現在も「泥棒除け札」をお読みくださっている人が何人もいてくださるようです。書いていれば、まだ見ぬどなたかと一瞬でも繋がれる喜びがあると実感しています。書くことは命なんだなぁと思います。

山城町の蟹満寺探訪

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9月9日におもちゃ映画ミュージアムで、日本のアニメーション草創期に活躍した木村白山について考える催しをしました。この人は、生没年も生い立ちや経歴に関してもほとんどわかっていません。数々のアニメーションを作っただけでなく、『聖戦美談 興亜の光』『大東亜決戦画集』といった戦争をテーマにした市販の挿絵集にも名だたる挿絵画家に伍して、多くの作品を残しています。1939~1944年まで、戦死者を合祀する靖国神社春と秋の臨時大祭期間中に設けられた野外の幅数十メートルにも及ぶ大ジオラマの背景画を書いていたという証言もあり、現場では格別の「画伯」であったとも言われています。でも、その割には、残された記録がほとんど見当たらず、謎は深まるばかり。それで、「木村白山って、何者?」というタイトルで3人の研究者をお招きして発表して貰い、作品もまとめて上映後に、茶話会を楽しみながら、皆で木村白山像に迫ろうという内容でした。
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その彼が1924年に作った唯一の影絵アニメーションが「蟹満寺縁起」です。

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製作は「飢餓海峡」(1965年)などで有名な内田吐夢監督。木村白山のほかに、同じく生没年不詳の奥田秀彦も参加しています。

どうして、この作品を作ろうとしたのか、その背景が知りたいところ。南山城地方に住む身としては、蟹満寺の名称は馴染みがあるのですが、ほとんどの人にとってはそうでないらしく、「蟹満寺って、本当にあるのですか!」と一様に驚かれます。それも残念ですし、悔しいとも思うので、8月20日に休館日を利用して探訪しました。「木津川の地名を歩く会」の例会で訪問して以来のことですが、本堂が見違えるように美しくなっているのにびっくりしました。
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これが影絵アニメーションに登場する蟹満寺。
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そして、これが今の普門山 蟹満寺。
1953年、寺の南約3㎞で「三角縁神獣鏡」が30数面出土して、卑弥呼の墓ではないかと騒がれた前方後円墳の椿井大塚山古墳があります。また、蟹満寺周辺で、5世紀後半の古墳3基も発見され、7世紀後半まで続く南山城地方最大の「車谷古墳群」の終末期が寺の創建に繋がると見られています。
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蟹満寺の創建は7世紀後半の白鳳期に遡り、境内周辺の発掘調査で、背後の天神川を越えてほぼ二町の広大な寺域を有していたことがわかっています。創建金堂は、現境内の本堂と庫裏の下に遺存しており、藤原京本薬師寺や平城京薬師寺の金堂とほぼ同規模・同構造の巨大な建物であったと考えられています。

平安時代の大規模火災で金堂が焼亡した後も観音信仰の寺として再興し、中世の動乱を越え、江戸時代初期、真言宗智山派の寺院として復興しました。

1944年の大地震、1953年の山城大水害などを堪え忍びましたが、老朽化が進み、2010年春に現在の本堂が落慶しました。新本堂は、江戸時代のものより、天井を2m高くし、広さも2倍になりました。
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蟹と蛇が彫られた扁額。本堂正面に掲げられています。
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国宝本尊の釈迦如来坐像は、白鳳期(7世紀中頃~8世紀初め)の作。数少ない初期丈六(約2.4mの高さ)金銅仏の中にあって、日本仏教美術史上最高の傑作とされる薬師寺金堂の薬師像に比肩する秀作とされています。国宝に指定されたのは、1953(昭和28)年のこと。

2007年から始まった本堂立て替えに伴う発掘調査などで、このご本尊は、約1300年間同じ場所に鎮座していることがほぼ確実になりました。
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聖観世音菩薩は、藤原時代の作。木造金泥の坐像で、高さ141㎝。「蟹満寺縁起」に深い因縁を持つ厄除聖観世音として、古より幾多の霊験譚があり、人々の篤い信仰を集めています。
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本堂入口の上に「蟹満寺縁起」の絵がずらりと並んでいました。東京にある女子美術大学の三谷青子教授が描かれたもの。三谷教授は、京都出身の日本画家として知られています。
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「蟹満寺縁起」を描いたうちの冒頭2枚。
平安時代中頃に成立した『大日本国法華経験記』や『今昔物語集』『日本霊異記』などに、蟹にまつわる寺号起因説話(蟹満寺縁起)が収録されています。お寺から頂いた冊子『普門山 蟹満寺』に「蟹満寺縁起」が載っていますので、それを紹介します。

ある日、娘は村人が蟹を捕えてなぶっているのを見て、生き物を慈しむように頼みましたが、一向に聞き入れてもらえません。娘は自分の糧とその蟹とを交換してもらい、その蟹を草むらに逃がしてやりました(右の絵)。

後日、娘の父親が田を耕していると、蛇が蝦蟇を呑み込もうとしているのが見えました。慈悲深い父親は、蝦蟇を救おうと、思いあまって「蝦蟇を放してやれば、可愛い我が娘を嫁がせよう」と蛇に言ってしまいました(左の絵)。

悄然として帰ってきた父親から事情を聞いた娘は、父を慰め、観世音菩薩に救いの祈願を込めて一心に観音経を唱えました。

日没頃、衣冠を着けた紳士が現れ、昼間交わした田んぼでの約束を迫りました。父親は嫁入りの支度を理由にして日限を付して再約して、その場を逃れました。

約束の日、絶望の窮地に追い込まれた父親は、雨戸を固く閉ざします。これを見て紳士は本性を現して、大蛇に姿をかえて怒り狂い、尻尾で雨戸を叩き打ちます。家族一同恐怖に慄気ながらも、一心に観音経を唱えていますと、観世音菩薩が眼前にお姿を現し、「汝らは慈悲の心深く、常に善良なおこないをされています。我を信ずる観音力はこの危難を悉く除く可し」と告げて、静かに姿を消されました。

一家は自然に合掌し、南無観世音菩薩と何度となく願い続けました。明け方暴音が絶えて、急に鎮まりかえったので、父親が恐る恐る雨戸を一寸ほど開けて外を覗き見ると、寸々に挟み切られた大蛇の片々と数万の蟹の亡骸がありました。

父は妻と娘を呼び寄せ、大慈大悲の観世音菩薩の御守護に感謝し、娘の身代わりになった蟹と憐れな蛇の為に「南無観世音菩薩」と念誦し、丁寧に埋めてその上に御堂を建立して、蟹と蛇の菩提を弔いました。

こうして。この寺はたくさんの蟹が満ちて、恐ろしい災難を救われた因縁で建立されたことから蟹満寺と名付けられました。
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本堂内の釘隠しも皆蟹のデザイン。
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本堂内に、蟹に因むものがたくさん飾ってありましたが、その中に浮世絵の国芳が描いた「蟹満寺縁起』ゆかりの一枚もありました。
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「蟹満寺縁起」の教えを知って貰いたいと、住職の中野泰孝さんが1974(昭和49)年から始めた蟹供養放生会。毎年、観音様の縁日である4月18日に営まれ、多くの料理人や水産業者らが参列されます。護摩供養の後、沢蟹300匹を放流します。季節の話題として、毎年紙面を飾る伝統行事になっています。

この記事中の、戦前の冬の寒い日「縁の下でいいから一晩休ませてほしい」と依頼した旅人の話に興味を持ちました。旅をしながら詩画を描いていたこの人は、亡くなる前に「昔受けたご恩のために渡して欲しい」と一枚の蟹の絵を託しました。寺に届けられた絵には蟹が描かれていました。お寺の方に尋ねると、旅人は和歌山県田辺市の野村一風さんという方で、描かれたのは1934(昭和9)年のことでした。「二代前の住職の時に、よく困っている人を泊めてあげていた」そうです。今も昔も「恩を忘ることなかれ」ですね。

お寺の人に「男前で背の高い若き日の内田吐夢監督〔当時は26歳)やアニメーションやパノラマ画や挿絵画家として知られていた木村白山が「蟹満寺縁起」の取材に訪れたことがあるとお聞きになられたことはありませんか?」と尋ねましたが、残念ながら首を横に振られました。

「せっかく、美しい影絵アニメーション『蟹満寺縁起』が現存しているのですから、上映会をされてはいかがですか?」と提案してみましたが、「興味がない」との返事。費用発生などを気にされたのかもしれず、あるいは檀家頼みのお寺のことですので、過疎や高齢化が進む地域で、これ以上檀家の皆さまに負担を掛けるのを避けられたのかもしれません。ちょっと残念な気持ちもありますが、致し方ないですね。

今回の催しもきっかけになり、蟹満寺を実際に訪れてくださる方が増えると良いなぁと思います。
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