歴史探訪京都から

-旧木津川の地名を歩く会-

心のこもったカレンダー

今日は、東京から活動写真弁士片岡一郎さんにお越しいただいて、開催中の没後50年記念「オールスター映画の巨匠 池田富保監督作品上映会」をしました。代表作の一つで主演を務めた「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助最晩年の『忠臣蔵』、松之助主演千本記念『荒木又右衛門』、そして明治維新150年の今年最後を飾るにふさわしい『地雷火組』の3本をご覧いただきました。

「『忠臣蔵』が大好き」という方や、「最近無声映画と活弁に興味があって」という方が関西はもとより、東京からもお越しいただき、狭い会場はいっぱいになり、大変嬉しかったです。

その東京からお越しいただいた方の中に、名画座として知られる「ラピュタ阿佐ヶ谷」の支配人石井紫(ゆかり)さんの姿も。紫さんからいただいた素敵な手土産はおもちゃ映画ミュージアムの方で紹介するとして、ここでは彼女のご両親からの手土産をご紹介します。

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彼女のお父様が、60歳から習い始めた日本画の中から選んで初めて作られた美しいカレンダーです。古希を迎える節目と描き始めて10年になることを記念して、新しい年号が始まる2019年に、奥さまの恵子さんの提案で製作されました。

1月が水仙、2月が椿、3月が白木蓮、4月が桜草、5月が筍、6月が花菖蒲、7月が凌霄の花(ノウゼンカズラ)、8月が朝顔、9月玉蜀黍(とうもろこし)、10月が栗、11月が柿、12月が山茶花。どの月の絵もとても美しく、丁寧に描かれていて、優しさが感じられます。

実は、お母さまの恵子さんは、私が主宰していた頃の「木津川の地名を歩く会」の会員でした。カレンダーには優しい言葉が綴られたお便りも同封されていて、古文書の勉強会やあちこち見て歩いた時のことも懐かしい思い出だと書いてありました。ご実家がある鳥取県に伝わる流し雛を手作りしてプレゼントしていただいたこともあり、夕べは、そんな思い出があることなども紫さんにお話しました。

恵子さんのお嬢さんが、ラピュタ阿佐ヶ谷の支配人をされていることは、私が会を卒業した日の帰りにおしゃべりしている中で偶然知ったことで、「何と世間は狭いのか!」とびっくりしたものです。こうして、親子2代にわたって交流できる縁をいただいていることに、ただただ感謝しています。「木津川の地名を歩く会」は11月で活動を終えましたが、そこでの思い出はこれからも大切にしていきたいです。

「木津川の地名を歩く会」活動終了。印象深い菅浦探訪や古文書勉強会。併せて滋賀に残るヴォーリズ建築探訪なども

先日、久し振りに懐かしい声の電話を受け取りました。着信表示名でそのお名前を見付けて直ぐに「毎年恒例の忘年会のお誘いだ。今年は何を食べるのかしら」とよだれを垂らさんばかりに電話に出ましたら、「今日の古文書の勉強会の時に、急に『古文書の勉強会は今日で最後にします』と先生から言われたので、『木津川の地名を歩く会』の活動も今日で終わりになりました」との連絡でした。いずれは、こういう日が来るだろうとは思っていましたので、一抹の淋しさを覚えはしましたが、仕方ないかと。

おもちゃ映画ミュージアムの休館日を利用して、自宅でこれを書き始めています。その背後には、2007年4月21日から活動を開始し、2015年1月に代表を引退するまでのたくさんの資料ファイル類が並んでいます。引退後に受け取ったいくつかの例会の探訪案内もファイルしていますが。

新聞を読んでスクラップをするのが好きだったこともあり、いずれ役立つかもと思って、周辺自治体毎の各ファイル、古代、中世、近世、近代、そして現代とそれぞれの大まかな区分で分けたファイル類も所狭しと押し入れを占領しています。

それらは正直、2015年5月に開館したおもちゃ映画ミュージアムの活動で自由になる時間もないことから、ほぼ出番を迎えることもないままです。でも、時折取り出して眺めては、夢中になって歴史や民俗のことなどを調べていた頃を懐かしんでいます。捨てようと思いながらも捨てられずにいるのは、かつての自分がスクラップされているからなのかもしれません。愛しい思い出です。

このブログを2011年2月6日に書き始めたきっかけも「木津川の地名を歩く会」の記録として残せたら良いなぁと思って、愚息に教わりながら始めました。書き始めのページから「これまでのことも振り返りながら」と宣言しつつ、やはり日常のことに追われて実行できないままだったことを反省しています。

会を引退してからは、発足当初から会員として力を貸してくださり、2011年4月16日から月一で古文書勉強会の指導もして下さった平 文さんに随分お世話になりました。深く御礼申し上げます。古文書の勉強会は、私の個人的な願いから始まりました。地域史を研究するにあたり「ご自分でもとになる資料を読まれたのですか?」と言われたことから、読む力がなければ書くこともできないと思い知ったから。

もともと古文書専門の平さんに頼みこんで、ご多忙の中を引き受けてもらいました。それから7年7カ月も続いたのは本当に凄いことだと思います。当初は仕事をしながら、その後は介護をしながらですから、大変な負担だったことだろうと思います。この間、会員の皆さんは随分と力を付けられたことと思います。残念ながら、私は脱落組で、未だミミズがはったような文字は苦手です。

古文書勉強会では、いろんな資料を教材にして学びを続けました。京都府南部の加茂町でたまたま田んぼで燃やされる直前の古文書を私が入手。それを退会するまで教材の一つにして勉強しました。今も余生でその続きができ、何らかの纏めができることを願っています。読み進めた加茂の文書から、自然災害や突然の不幸に見舞われ、年貢の供出がままならない事態に陥っても、今のように「自己責任」ばかりが声高に叫ばれるのではなく、共同体として村に救済の制度があり相互扶助の精神が息づいていたことを知ることができました。今よりもっと江戸時代の方が情けがありました。

そして、例会で探訪し、それ以前の古文書の学習として皆で勉強した「菅浦文書」も強く思い出に残ります。それは、2014年3月15日の第33回古文書勉強会のことで、その日は午後から希望者だけで大津歴史博物館へ行って、企画展「古都大津のこもんじょ学」見学もしました。そして、翌4月19日第33回例会「探訪:桜の名所・海津大崎」で毎年恒例の花見をした折り、持ち前のダメもとの精神で屋形船「大井丸」の船長さんに直談判して、中世の集落の様子が今も残る菅浦まで連れて行って貰いました。当時のブログはこちらに書いています。キラキラ輝く湖面の向こうに見える菅浦の村の光景に感動したことは、今も鮮明に思い出すことができます。
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その後、2014年6月に菅浦の集落は「国の重要文化財的景観」に選ばれ、村に中世から伝わっていた「菅浦文書」は今年、国宝に指定されました。菅浦が大好きな私は、これまで何度も書いていますので、可能でしたら、このブログで「菅浦」と入力して検索していただけたら、その魅力が少しはお分かりいただけるかと思います。

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少し、脇道に逸れますが、「菅浦文書」が国宝に指定されたのを契機に、11月12日同文書を保存している滋賀大学経済学部附属史料館に行って来ました。平成30年度企画展「菅浦文書国宝指定記念 中世近江の惣村文書」が10月15日から11月16日迄開催されていることを偶然テレビのニュースで見て知り、会期中に実物を見ることができました。

「村の住民たちが作成や他からの受け取りに直接関わり、長きにわたって地元で伝えられてきた古文書が国宝となるのは初めてです」(リーフレットの「ご挨拶」から)。村の文書が国宝になるとは本当に凄いことです。

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この建物が彦根市にある滋賀大学経済学部附属史料館。見学に来る人がまばらだったこともあり、ゆっくりと見学することができました。もっとたくさんの資料が展示されているかと想像していたのですが、菅浦だけではなく「中世近江の惣村」に伝わる文書ということで、他にも「今堀日吉神社文書」、「大嶋神社・奥津嶋神社文書」、「伊藤晋家文書」も展示されていました。その奥のスペースでは近江商人について常設展として紹介されていました。

どうせ、中国へ旅行中だったから聴講はできなかったのですが、11月4日に太田浩司・長浜市市民協働部学芸専門監の講演「菅浦と大浦の堺争論~中世村落社会の実像~」もあったようで、聴講出来なかったことを大変残念に思っています。
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史料館建物の向かって左にあった小ぶりの建物がとても風情があり、帰って調べたら、案の定ヴォーリズ建築設計事務所の設計でした。経済学部前身の彦根高等商業学校同窓会館として、1938(昭和13)年に建設。国の登録有形文化財。スペイン瓦、淡いクリーム色の外壁、玄関廻りの市松模様など、スペイン風のデザインでまとめられて、ヴォーリズらしさがうかがえます。内部は非公開でした。
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もう一つ、素敵な建物が目を惹きました。滋賀大学正門を入って、すぐ右側にあったやはり登録文化財の木造建築「講堂」。1924(大正13)年文部省建築課によって設計された旧彦根高等商業学校講堂です。

ネットで検索した説明によれば、「桟瓦葺きの切妻造りの屋根に正面の妻面上部にコ―二ス(軒蛇腹)を用いてぺディメント(三角形)を型取り、柱型付け玄関を設ける。屋根には、半円形の屋根窓や、ドーム屋根の小塔があり大きな屋根にアクセントをつけています。外装は、ほぼ全体を下見板貼りとし、上下階で連続性を持つ窓を配しています」ということです。中は板敷きの広々とした空間でした。こちらも内部は非公開。
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帰りに見た彦根城。この後ライトアップして綺麗でした。予備情報も持たずに、ただ「菅浦文書」見たさだけに訪れましたが、今も残る素晴らしい近代建築を見ることができてラッキーでした。

話を元に戻して、発足当初は「木津川の地名を歩く会」の名付け親である民俗学者で、日本地名研究所長だった谷川健一先生と沖浦和光・桃山学院大学名誉教授の対談なども計画していましたが、風呂敷を広げてもうまくいくはずもないと断念し、身の程にあった活動をボチボチとしてきました。その間にお二人とも別の世界に旅立ってしまわれました。おもちゃ映画ミュージアムを運営している今だったら実現は可能だったかもしれません。モノが熟すには時間と経験と熱意が必要だったと今にして思います。

2015年1月の私の卒業式の日に、それまでの活動記録を整理して皆さんにお配りしました。今そのデータをアップすれば良いようなものですが、パソコンが壊れた時にバックアップに失敗し、その折に全てのデータが消えてしまう悲しい出来事がありました。今、その時お配りした印刷物を見ますと、探訪は37回(数え誤りで実際は38回ですが)、古文書勉強会は41回、会合は17回となっています。それからも今年11月17日に「活動終了」が告げられるまで存続していたのですから、都合11年8カ月も続いたことになります!!!!!

例会探訪記録を挙げれば▼第1回=南山城村パート1▼第2回南山城村パート2。京都府無形民俗文化財「田山花踊り」見学▼第3回=笠置町パート1。「太平記」の舞台を歩く▼第4回=笠置町パート2。切山へ▼第5回=大山崎から長岡京市まで。恵解山古墳、サントリー京都ビール工場見学▼第6回=島本町。開業・開館したばかりのJR島本駅と町立歴史文化資料館見学。ふれあいセンター屋上から三川見学挑戦▼第7回=城陽市の水度神社から鴻ノ巣山へ。イルミネーション見学▼第8回=山城町棚倉周辺。国重文「居籠祭」見学▼第9回=伏見の御香宮から大和街道を歩いてJR小倉駅まで。最後に宇治公園塔の島「さくらまつり」見学▼第10回=京田辺市天王で、無二荘牡丹園、朱智神社、極楽寺、三国峠見学▼第11回=八幡市松華堂庭園・美術館見学と東高野街道沿い社寺を探訪▼第12回=城陽市長池から青谷。城陽酒造の蔵開き祭見学▼第13回=枚方市の楠葉台場跡から八幡市の背割堤まで歩き花見。橋本遊郭の風情も見学▼第14回=平城遷都1300年祭で賑わう平城宮跡見学▼第15回=伊賀街道加茂宿から奈良坂へ▼第16回=奈良市の滝坂の道を歩く。円成寺、様々な磨崖仏見学▼第17回=久御山町東一口探訪。安養寺の双盤念仏や排水機場見学など▼第18回=大和郡山の城址見学と花見▼第19回=河井寛次郎が愛した精華町の旧村の佇まいと学研都市の今を見学▼第20回=和束町の茶源郷と史跡探訪▼第21回=亀岡市内探訪と国文祭「民俗芸能の祭典」見学▼第22回=淀小橋掛け替え直しの古文書に出てくる地を探訪▼第23回=木津の相楽神社餠花祭見学と周辺探訪▼第24回=京田辺市の一休寺文書で学んだ佐川田喜六昌俊についてご住職に話をお聞きした後、花見と遺跡見学をしながら大住の国重文「澤井家住宅」へ▼第25回=新緑の大仏鉄道遺構を歩く。約13キロ▼第25回(数え誤りで本当は26回ですが、掲載済みブログとも関連するので、このままで通します)=当尾南部の石仏巡り。浄瑠璃寺や岩船寺で紅葉狩り▼第26回=古文書で学んだ松尾芭蕉ゆかりの幻住庵、義仲寺、竜が丘俳人墓地などを巡り、大津歴史博物館へ▼第27回=鳥羽作り道と鳥羽離宮跡を歩く▼第28回=新緑の和束茶源郷の古道と石仏を巡る▼第29回=古事記のふるさと田原本町と重要伝統的建造物群保存地区に指定されている今井町を散策▼第30回=芭蕉のふるさと伊賀上野を歩く▼第31回=物集街道から松尾大社まで。数々の遺跡や国登録文化財「山口家住宅」見学も▼第32回=奈良街道の六地蔵から木幡、黄檗、宇治橋まで。石造物を見ながら紅葉を楽しむ▼第33回=桜の名所 海津大崎。大井丸に乗船し約800本のソメイヨシノ並木の花見を楽しむ▼第34回=伏見街道の深草、藤森、墨染を歩く。約12.5キロ。伊藤若冲縁の石峰寺、丈六の廬舎那仏を360度間近で見た欣浄寺など▼第35回=国東半島弾丸ツアー。さんふらわぁで船中2泊し、国東半島史跡巡り観光バスで満喫旅▼第36回=宇治田原町の『田原祭』還幸祭と周辺探訪。奈良春日大社の「春日若宮おん祭」に似ている点も見受けられる祭▼第37回=京都府立山城郷土資料館特別展見学と上狛環濠集落などを巡る。史跡高麗寺跡、古文書(東大所蔵)で知られる浅田家、国指定重要文化財「小林家住宅」など見学。玉台寺住職のお話と紅葉を楽しむ。

途中の出入りはありましたが、例会や古文書の勉強会に参加していだいた皆さま、あるいは、例会時にご案内いただいたり、情報を提供して応援して下さった多くの皆さまに心から御礼を申し上げます。キョロキョロ好奇心のままに見て歩くのが大好きな私に、ようこそお付き合いくださいました。ただただ感謝でいっぱいです。ありがとうございました。

皆さま、くれぐれも御身大切になさって健やかにお過ごしくださいませ。


「木津川の地名を歩く会」そのものの記事はこれで終わりますが、引き継いで極まれに書いている「歴史探訪京都から」は、これからも時々書き継いでいこうと思っています。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。

もうすぐ12月12日午前0時になります。何度かこのブログで書いた「泥棒除け札」の日になります。「あれ、何のことだろう?」と思われる方は、「泥棒除け札」と、このブログで検索して見てください。きっと、どこかのお宅の12歳になるお子さんが、眠い目をこすって「12月12日」と書く準備をしていることでしょう。ありがたいことに、今現在も「泥棒除け札」をお読みくださっている人が何人もいてくださるようです。書いていれば、まだ見ぬどなたかと一瞬でも繋がれる喜びがあると実感しています。書くことは命なんだなぁと思います。

山城町の蟹満寺探訪

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9月9日におもちゃ映画ミュージアムで、日本のアニメーション草創期に活躍した木村白山について考える催しをしました。この人は、生没年も生い立ちや経歴に関してもほとんどわかっていません。数々のアニメーションを作っただけでなく、『聖戦美談 興亜の光』『大東亜決戦画集』といった戦争をテーマにした市販の挿絵集にも名だたる挿絵画家に伍して、多くの作品を残しています。1939~1944年まで、戦死者を合祀する靖国神社春と秋の臨時大祭期間中に設けられた野外の幅数十メートルにも及ぶ大ジオラマの背景画を書いていたという証言もあり、現場では格別の「画伯」であったとも言われています。でも、その割には、残された記録がほとんど見当たらず、謎は深まるばかり。それで、「木村白山って、何者?」というタイトルで3人の研究者をお招きして発表して貰い、作品もまとめて上映後に、茶話会を楽しみながら、皆で木村白山像に迫ろうという内容でした。
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その彼が1924年に作った唯一の影絵アニメーションが「蟹満寺縁起」です。

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製作は「飢餓海峡」(1965年)などで有名な内田吐夢監督。木村白山のほかに、同じく生没年不詳の奥田秀彦も参加しています。

どうして、この作品を作ろうとしたのか、その背景が知りたいところ。南山城地方に住む身としては、蟹満寺の名称は馴染みがあるのですが、ほとんどの人にとってはそうでないらしく、「蟹満寺って、本当にあるのですか!」と一様に驚かれます。それも残念ですし、悔しいとも思うので、8月20日に休館日を利用して探訪しました。「木津川の地名を歩く会」の例会で訪問して以来のことですが、本堂が見違えるように美しくなっているのにびっくりしました。
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これが影絵アニメーションに登場する蟹満寺。
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そして、これが今の普門山 蟹満寺。
1953年、寺の南約3㎞で「三角縁神獣鏡」が30数面出土して、卑弥呼の墓ではないかと騒がれた前方後円墳の椿井大塚山古墳があります。また、蟹満寺周辺で、5世紀後半の古墳3基も発見され、7世紀後半まで続く南山城地方最大の「車谷古墳群」の終末期が寺の創建に繋がると見られています。
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蟹満寺の創建は7世紀後半の白鳳期に遡り、境内周辺の発掘調査で、背後の天神川を越えてほぼ二町の広大な寺域を有していたことがわかっています。創建金堂は、現境内の本堂と庫裏の下に遺存しており、藤原京本薬師寺や平城京薬師寺の金堂とほぼ同規模・同構造の巨大な建物であったと考えられています。

平安時代の大規模火災で金堂が焼亡した後も観音信仰の寺として再興し、中世の動乱を越え、江戸時代初期、真言宗智山派の寺院として復興しました。

1944年の大地震、1953年の山城大水害などを堪え忍びましたが、老朽化が進み、2010年春に現在の本堂が落慶しました。新本堂は、江戸時代のものより、天井を2m高くし、広さも2倍になりました。
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蟹と蛇が彫られた扁額。本堂正面に掲げられています。
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国宝本尊の釈迦如来坐像は、白鳳期(7世紀中頃~8世紀初め)の作。数少ない初期丈六(約2.4mの高さ)金銅仏の中にあって、日本仏教美術史上最高の傑作とされる薬師寺金堂の薬師像に比肩する秀作とされています。国宝に指定されたのは、1953(昭和28)年のこと。

2007年から始まった本堂立て替えに伴う発掘調査などで、このご本尊は、約1300年間同じ場所に鎮座していることがほぼ確実になりました。
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聖観世音菩薩は、藤原時代の作。木造金泥の坐像で、高さ141㎝。「蟹満寺縁起」に深い因縁を持つ厄除聖観世音として、古より幾多の霊験譚があり、人々の篤い信仰を集めています。
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本堂入口の上に「蟹満寺縁起」の絵がずらりと並んでいました。東京にある女子美術大学の三谷青子教授が描かれたもの。三谷教授は、京都出身の日本画家として知られています。
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「蟹満寺縁起」を描いたうちの冒頭2枚。
平安時代中頃に成立した『大日本国法華経験記』や『今昔物語集』『日本霊異記』などに、蟹にまつわる寺号起因説話(蟹満寺縁起)が収録されています。お寺から頂いた冊子『普門山 蟹満寺』に「蟹満寺縁起」が載っていますので、それを紹介します。

ある日、娘は村人が蟹を捕えてなぶっているのを見て、生き物を慈しむように頼みましたが、一向に聞き入れてもらえません。娘は自分の糧とその蟹とを交換してもらい、その蟹を草むらに逃がしてやりました(右の絵)。

後日、娘の父親が田を耕していると、蛇が蝦蟇を呑み込もうとしているのが見えました。慈悲深い父親は、蝦蟇を救おうと、思いあまって「蝦蟇を放してやれば、可愛い我が娘を嫁がせよう」と蛇に言ってしまいました(左の絵)。

悄然として帰ってきた父親から事情を聞いた娘は、父を慰め、観世音菩薩に救いの祈願を込めて一心に観音経を唱えました。

日没頃、衣冠を着けた紳士が現れ、昼間交わした田んぼでの約束を迫りました。父親は嫁入りの支度を理由にして日限を付して再約して、その場を逃れました。

約束の日、絶望の窮地に追い込まれた父親は、雨戸を固く閉ざします。これを見て紳士は本性を現して、大蛇に姿をかえて怒り狂い、尻尾で雨戸を叩き打ちます。家族一同恐怖に慄気ながらも、一心に観音経を唱えていますと、観世音菩薩が眼前にお姿を現し、「汝らは慈悲の心深く、常に善良なおこないをされています。我を信ずる観音力はこの危難を悉く除く可し」と告げて、静かに姿を消されました。

一家は自然に合掌し、南無観世音菩薩と何度となく願い続けました。明け方暴音が絶えて、急に鎮まりかえったので、父親が恐る恐る雨戸を一寸ほど開けて外を覗き見ると、寸々に挟み切られた大蛇の片々と数万の蟹の亡骸がありました。

父は妻と娘を呼び寄せ、大慈大悲の観世音菩薩の御守護に感謝し、娘の身代わりになった蟹と憐れな蛇の為に「南無観世音菩薩」と念誦し、丁寧に埋めてその上に御堂を建立して、蟹と蛇の菩提を弔いました。

こうして。この寺はたくさんの蟹が満ちて、恐ろしい災難を救われた因縁で建立されたことから蟹満寺と名付けられました。
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本堂内の釘隠しも皆蟹のデザイン。
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本堂内に、蟹に因むものがたくさん飾ってありましたが、その中に浮世絵の国芳が描いた「蟹満寺縁起』ゆかりの一枚もありました。
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「蟹満寺縁起」の教えを知って貰いたいと、住職の中野泰孝さんが1974(昭和49)年から始めた蟹供養放生会。毎年、観音様の縁日である4月18日に営まれ、多くの料理人や水産業者らが参列されます。護摩供養の後、沢蟹300匹を放流します。季節の話題として、毎年紙面を飾る伝統行事になっています。

この記事中の、戦前の冬の寒い日「縁の下でいいから一晩休ませてほしい」と依頼した旅人の話に興味を持ちました。旅をしながら詩画を描いていたこの人は、亡くなる前に「昔受けたご恩のために渡して欲しい」と一枚の蟹の絵を託しました。寺に届けられた絵には蟹が描かれていました。お寺の方に尋ねると、旅人は和歌山県田辺市の野村一風さんという方で、描かれたのは1934(昭和9)年のことでした。「二代前の住職の時に、よく困っている人を泊めてあげていた」そうです。今も昔も「恩を忘ることなかれ」ですね。

お寺の人に「男前で背の高い若き日の内田吐夢監督〔当時は26歳)やアニメーションやパノラマ画や挿絵画家として知られていた木村白山が「蟹満寺縁起」の取材に訪れたことがあるとお聞きになられたことはありませんか?」と尋ねましたが、残念ながら首を横に振られました。

「せっかく、美しい影絵アニメーション『蟹満寺縁起』が現存しているのですから、上映会をされてはいかがですか?」と提案してみましたが、「興味がない」との返事。費用発生などを気にされたのかもしれず、あるいは檀家頼みのお寺のことですので、過疎や高齢化が進む地域で、これ以上檀家の皆さまに負担を掛けるのを避けられたのかもしれません。ちょっと残念な気持ちもありますが、致し方ないですね。

今回の催しもきっかけになり、蟹満寺を実際に訪れてくださる方が増えると良いなぁと思います。

幼馴染たちと楽しんだ夏の風物詩「鴨川の床」

今日は、おもちゃ映画ミュージアム休館日。テレビで祇園祭後祭の山鉾巡行を見ながらこれを書いています。
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昨日の京都新聞に8月に開催する「第13回映画の復元と保存に関するワークショップ」の紹介記事が掲載されましたので買いに行きましたら、ご覧のような祇園祭がデザインされた袋入り。連日の猛暑で大変ですが、テレビを見ている限りでは、無事に巡行していて良かったなぁと思います。地震や豪雨災害、異常な猛暑続きと自然の脅威を実感する日々ですが、山鉾巡行で神さまを持てなし、災厄が祓い清められることを願います。

祇園祭に合わせて富山の幼馴染が来京。前もって電話で「川床行くか?」と問われ「私行ったことないから、喜んで行く!」と即答しました。
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7月23日19時の集合には、少しばかり早く着いたので、好奇心のままに周りを探訪。会場は、京都市下京区木屋町五条上ルの料理旅館「鶴清(つるせ)」。1933(昭和8)年1月1日創業の老舗で、幼馴染は、約40年ほど前に、ここでしばらく板場の修業をしていたのだそうです。今は故郷で美味しい料理を提供して遠方からもお越しになる人気の仕出し・カニ料理、居酒屋「市山(しやま)」をしています。
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木造3階建ての総檜造り。「楼閣」という表現がぴったりの建物ですね。
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この東側に、鴨川が流れています。
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川は緩やかに、この右手にある五条大橋に向かって流れています。

川床がどのように組まれているのかわかりますね。いつもは対岸の道路を走りながら「良いなぁ、私もあそこに座って景色を眺めてみたいなぁ」と思っていたのが、いよいよ実現へ。
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やがて、幼馴染たちが到着。この前に伏見稲荷大社へ行ってきたのだとか。余りの暑さで、お山めぐりまではしなかったそうですが、この日京都は38.7度と猛烈な暑さでしたから、賢明な判断といえましょう。左から市山君、私、幼馴染の恭子ちゃん、市山君のお姉さん、恭子ちゃんのお友達。
_img-9.jpg鶴清川床京懐石料理
祇園祭といえばハモ料理が定番。彼も大いに修業を積んだそうで、ハモを食べる風習がない富山では、その技術を小骨が多い魚に応用して、骨まで食べて貰えるよう工夫して、お客さまに好評なのだそうです。

見た目も味も美しく美味しい京懐石。切り口が八坂神社の神紋に似ていることからか、キュウリは出てきませんでした(八坂神社の氏子さんたちは、祇園祭りの期間中はキュウリを食べない言い伝えがあります)。

仲居さんに聞くと、鴨川納涼床は「ゆか」と呼び、京都の奥座敷、貴船では「川床(かわどこ)」と呼ぶそうです。偶然、京都を紹介するテレビを見ていたら、京都の奥座敷・貴船の老舗料理旅館「ふじや」が紹介され、そこのおじいさんが、大正時代に五尺と六尺の畳ほどの大きさの床几(しょうぎ)を川の中に置いてお茶を出したのが、「貴船の川床」の元祖ということで、今日のように川床で料理を提供するのは戦後になってからだそうです。

いずれにしましても、蒸し暑い京都に涼を提供する先人たちの工夫の恩恵に私もあやかって、素敵な思い出ができました。
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陽が落ちてきました。鴨川を隔てて東山のなだらかな連峰が望めます。8月16日大文字送り火の時、写真中央の白い建物の右上に「大」の文字が浮かびます。「鶴清」3階に上ればより一層良く見えるそうです。この3階は200畳の大広間。幼馴染の話では、100件近い店が並ぶ鴨川納涼床で、一番規模が大きいのが「鶴清」なんだそうです。
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提灯に明かりが灯り、より一層幻想的。ふと「千と千尋の神隠し」の油屋を思い浮かべました。鴨川から心地よい風が吹いて、風鈴の音色も涼やかです。

風情を楽しみながら、おしゃべりの花を咲かせていたら、最後の団体客になっていました。

「40年も経っているので知っている人は一人もいないけど、雰囲気は昔とちっとも変わっていない。良かったろう?」と幼馴染が聞くので、一同大きく頷きました。木屋町の風情ある界隈をそぞろ歩きながら四条まで。名残を惜しみつつ、家路につきました。


MINIATURE LIFE展 田中達也 見立ての世界

昨日のNHK朝ドラ「半分、青い。」に、主人公の鈴愛ちゃんが、幼馴染の律君と一緒に作ったゾートロープが登場しました。ゾートロープはおもちゃ映画ミュージアムでも展示し、自由に触って遊べるようにしていることもあり、すっかり嬉しくなってツイッターやFacebookで「見てね!」と紹介しました。

1834年にイギリスのウィリアム・ジョージ・ホーナーがドラム式の装置を発表しました。これがゾートロープ。ゾーイトロープ、ディーダリウムとも呼ばれています。ドラムの内側測面に連続した絵を描き、装置を回しながら、ドラム側面に均等に開けた隙間を外から覗くと、絵が動いて見える仕掛け。小さなお子さんでも、アニメーションの原理がわかります。

5月4日にこのゾートロープだけでなく、フェナキスティコープ(驚き盤)、ソーマトロープ、マジックロールの4種類のこうしたおもちゃ作りを体験して楽しく遊ぶ催しをします。皆さん遊びに来て下さいね。小さなお子さんでも、十分に楽しめますのでご家族連れで、ぜひどうぞ‼

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講師は、国際アニメーションフィルム協会日本支部会員の秋山好正さんにお願いしました。掲載した写真で、彼が考案したゾートロープを手に説明しています。彼が背負っているリュックサックには、いつも驚き盤とゾートロープが入っていて、ここぞという時に即席ワークショップを展開する熱い人。どうぞ、お楽しみに‼

さて、NHKの朝ドラを再開したのはどの作品だったか、既に習慣が長くなっていて思い出せませんが、前々回の「ひよっこ」は、内容そのものも面白かったのですが、桑田佳祐さんの歌で流れるタイトルバックのアニメーションが、とっても好きで毎朝、それを見るために家事を整え、テレビの前に座って見ました。
そのアニメーションの生みの親である田中達也さんの展覧会が、京都高島屋であると知り、12日閉館後に行ってきました。
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凄いなぁと思ったのは、流れている映像以外は、全て写真撮影可だったこと。自由にSNSで発信しても良いということなので、今これを書いています。

沢山撮ったのですが、その中から少しだけ掲載します。
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最初に掲げてあった作品。どの作品もですが、人形が思った以上に豆粒のように小さいです。

田中さんは毎日作品をネットで公開されていて、フォロワーの数も相当。作品を見ているとユーモアに「クスッ」と笑いがこぼれ、その見立ての発想に唸ります。
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これは、4月12日付おもちゃ映画ミュージアムのブログでも掲載しました。日本最初の映画スター尾上松之助のことを後世に語り伝えようと活動しておられるお二人を繋ぐことができた嬉しさを表現するのに用いました。
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富山の田舎で生まれ育った私には、こうした風景が懐かしく思われます。今頃は田植えのシーズンでしょうか。両親が亡くなり、だんだんと「故郷は遠きにありて思うもの」になっています。
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でもこの作品は、細かい部品が並ぶ基板を田んぼに見立てたもの。タイトルが「ほんなこて、半田ごて~」。
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チケットのデザインに使用されている食パン列車。「へえっ~」と覗きこんでいたら、突然列車が動き出したのでビックリ。一周して見ている人を驚かせます。人形のサイズが、どれほど小さいかがお分かりかと思います。
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そして、最後のコーナーに展示してあったのが、この作品。朝ドラ『ひよっこ』で桑田佳祐さんが歌う主題歌「若い広場」が流れていて、大好きだったあのタイトルを思い出しながら、いくつか用意された穴から覗きこみました。

チケットに書いてある通り、22日迄開催していますから、是非足を運んで、ご自分の目でご覧になってお楽しみください。因みに18時を過ぎていたので、半額で入場できましたよ。

JRの試験車

昨日1月23の朝11時半ごろ、JR京都駅33番線ホームで、変わった電車を見ました。
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「試運転」と書いてある電車。ほとんどの車両の窓はカーテンが引かれて中が見えなくなっています。
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U@techと側面に書いてあります。余り注目している人がおられないので、珍しくないのかもしれませんが、私的には充分興味深い車両です。

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最後尾の車両も無人で機械類がたくさんありましたが、写真で見る車両も機械ばかり。DSC03853 - コピー


















車両の窓にホームにいる人が映り込んでいますが、それでも、車両の中が機械でいっぱいなのがご覧になれると思います。私が見た範囲では、どこにも人の姿が見えませんでした。ホームにおられた駅員さんに「こ゚の電車はどういうたぐいの電車ですか?」と尋ねたら「電車の試験をしています」と至極当然なお答えが返ってきました。

あとで、ネットで調べましたら、少し古い記事ですが、こちらが割と詳しく「何をしているのか」書いてありました。興味がある方は、どうぞご覧ください。ここに書かれていることによれば、JR西日本の在来線試験車「U@tech(ユーテック)」を見かけることは滅多にないので、貴重な出来事のようでした。

ネットで他の人が動画をupしておられるのを見ると、この後園部迄走行しながら様々な運行に関するテストをしていたようです。もちろん先頭車両には人がおられて操縦されていました。吹田総合車両所構内で「基本昨日の試験をしたあと、2012年度からJR嵯峨野線を中心に試験走行をしているのだとか。珍しい車両を見ることができて、俄か撮り鉄気分を味わいました。
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珍しい電車を見たついでに思い出すのは、2011年8月23日に偶然遭遇した電気検測試験車でしょうか。京都府木津川市山城町のJR上狛駅でのことでした。その時のことは、こちらで書きました。


平成戊戌(つちのえいぬ、ぼうじゅ)元旦の初詣


年賀状2018






































皆さま、新年あけましておめでとうございます

大好きな箱根駅伝を見ながら書いています。好天に恵まれたとはいえ、今日は風がきつくて大変な中、懸命にタスキをつなぐ若い選手たちの頑張りに感動の連続です。

年末まで多忙で、ろくに家の掃除もできなかったことを悔い、ゴミ屋敷同然になりつつある我が家を掃除し、庭も掃き清めました。正月早々大きなゴミ袋が山のように積み上がっています。次男も仕事が忙しいストレスからか、買い集めて部屋いっぱいに積み上がったフィギュアの山を手放すことに方向転換。いくつかは知り会いに差し上げ、多くのものは処分。もったいないけれど、人間が窮屈な思いをして過ごすのは本末転倒かと。それでも稀少なものは明日以降お店屋さんに持っていくことにしました。

次は着なくなった服の断捨離。この貴重な年始休みは、家族そろって掃除に費やされそうです。

と言いながらも、その合間に初詣へ。
最初に向かったのは、地元の氏神さまをお祀りする月読神社。
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平安時代の『延喜式』で大社に列せられている神社です。京田辺市内には、大社に列せられている神社が他に2社もあります。毎年10月には、この月読神社で隼人舞を奉納しています。いつの時代かは確定していませんが、九州南部から移配された隼人たちが少なくとも天平時代には、この大住の地に住まいしていたことが正倉院文書から明らかになっています。

隼人舞は古来、天皇の大嘗祭や即位の礼など重要な場で奉納していたのですが、明治以降他の国栖奏や久米舞など中央の支援を得て復興したのとは異なり、抜け落ちていて、近年になって民間で復興しました。なぜ、隼人舞は中央の支援を受けなかったのかー明治政府は薩長が中心なので、もともと山幸彦(天皇家の祖)に屈して、俳優(わざおき)として仕えるようになった海幸彦(隼人の祖)の神話に依拠した隼人舞を快く思わなかったのではないか―というのが私の考えですが、今は郷土史から遠ざかり、調べる時間もないことから、心の中に据え置かれたまま。

この後何処へお参りに行こうかと考えて、久しぶりに石清水八幡宮へ向かいましたが、適当な駐車場が見当たらないことから、そのまま京都市内へ。町家に届いている年賀状が気になったこともありますが、次男が「行ったことがない」というので、いったん町家に行ってから、近くの神泉苑へ。
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京都市中京区御池通神泉苑町東入ル門前町166の神泉苑。二条城の南に位置します。平安京大内裏に接して造営された禁苑で、今は境内は小さくなりましたが、元は二条通から三条通まで南北約500m、東西約240mの池を中心にした広大な大庭園でした。『日本紀略』のよれば、延暦19(800)年7月19日に桓武天皇が行幸し、延暦21年に雅宴が催された記述があり、神泉苑はこの頃から天皇や貴族の宴遊の地でした。
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淳和天皇の天長元(824)年、西寺の守敏と東寺の空海が祈雨の法を競い、天竺の無熱池から善女龍王を勧請した空海が勝ち、以降も密教僧による雨乞いが何度も行われています。神泉苑の池にはこの龍神が住むと言われています。

また、清和天皇の貞観5(863)年に疫病が流行った時にも、神泉苑で御霊会が行われ、貞観11(869)年には、神泉苑の南端(現・京都三条会商店街にある八坂神社三条供御社の位置)で、当時の国の数66本の鉾を立てて祇園社から神輿を出したことが、現在の祇園祭の始まりとされています。

他にも、源義経が白拍子の静御前を見染めたのも、神泉苑だという言い伝えもあり、縁結びのパワースポットとしても注目されています。次男にもそろそろお嫁さんが来て欲しいので、手を合わせて良縁を祈りましたら、連れ合いが申すには「神さまにお願いごとをするところではなく、一年の報告とお礼をするのが本来らしい」というので、ちょっと首をすくめました。そうですよね、僅か100円のお賽銭でどんな願い事も叶えて貰おうとするのは、ちょっと厚かましいかも、ですね。
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日本で唯一の恵方社で、今年の良い方角は南南東と書いてありました。「えーっと、南南東って、どっち?」と超方向音痴の私が、お日さまの位置を確認しながら呟くと、傍におられた年配の男性が「このお社の方向が南南東だ」と教えて下さいました。聞けば毎年12月31日の夜10時に、神主さんが祈祷をして、このお社が乗った丸い台座をぐるりと回して恵方に直されるのだそうです。これなら、私のような方向音痴も間違えずに恵方に向かって祈ることができます。

ミュージアムへ戻る途中、武信神社へ。坂本龍馬とおりょうさん縁の言い伝えが評判になり、ここも恋愛成就のパワースポットとして、近年人気があります。ご多聞に漏れず、私も次男があやかれるようにと、またもや願い事をして手を合わせました。そして、町家にくっ付くようにお祀りされている長野弁財天さまにも手を合わせて、一年の無事を祈りました。年々年老いていくのが実感されるだけに、日々つつがなく過ごして行けることが一番の願いです。
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次男が「北野天満宮にお参りしたことがない」というので、日も暮れた北野天満宮へ向かいました。大変な人出です。参道には出店がずらりと並び、良いにおいを振りまき空腹を刺激しますが、先ずはお参りを。立派な楼門に巨大な絵馬が掲げられています。檜製で、幅3.3m、高さ2.25m、重さ120㎏もあります。京都市北区にお住いの日本画家三輪晃久さん(83歳)が年男の気合を込めて描かれました。日の出を背景にした柴犬と北野天満宮御神木の梅の花を描いたジャンボ絵馬は25日迄ご覧になれるそうです。
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本殿前も大変な人。大勢の人々に混じって家族の健康と平穏を祈りました。この夜のお月さまは満丸く、とってもきれいでした。月夜に照らされながら、日本映画の父牧野省三ゆかりの蔵、上七軒、歌舞練場などをそぞろ歩きしながら見歩いて、2018年元旦の初詣を終え、家路に向かいました。先ずは穏やかな年の始まりに感謝です!

冬桜

日々忙しくて余裕がなく、自分のブログ更新ままならず。このままだとブログが消えてしまうのではないかと不安に思うので、久しぶりに書きます。
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大阪府南河内郡太子町にある叡福寺東団地で見かけた冬桜。12月3日撮影です。
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キンカンの木には黄金色の実がたくさん。満開の冬桜とキンカンの共演もなかなかのものです。
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ネットで検索すると、花言葉は「冷静」。冬の寒く澄み切った空に凛とした姿で咲くことがその名前の由来だそうです。葉が小さいから「小葉桜」、4月とこの時期の2回咲くことから「四季桜」の呼び名も。
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春には春の桜の良さがありますが、背中を丸めて歩きがちな寒い冬に、清楚で凛と咲く冬の桜も良いですね。

盆の釜あき

最近MyCollection に仲間入りした人形を初披露(写真の上でクリックして下さい。拡大表示されます)。
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木彫「盆の釜あき」で、作者は平安有職 永田行一。ちょっと珍しい人形で、私ももちろん初めて見ましたが、売っていた骨董品屋さんも初めてなんだとか。買うか、我慢しようか迷った末、「今買わなければ、一生後悔する」と思って、エイヤ―ッと買いました。静岡から来た別の骨董店主が、私が購入したのを知るや、地団太を踏んで悔しがっていましたから、ちょっといい気分。自分の目を信じて、本当に好きなものを買うのが一番。この骨董店主さん、W大学の先生にたくさんのマジック・ランタンを販売したのだとか。世の中は狭い!幻灯機、覘きからくりの話題でプチ盛り上がり。

さて、この人形一式は、とても小さいもので、全て木彫りで彩色されています。売っていた骨董屋さんも「初めて出して、今並べ終わったところ」だったとか。縁があったんですねェ。京都の旧家から出たそうです。

さて、「地獄の釜の蓋もあく」という言葉があります。「正月の16日とお盆(7月)の16日は、みんな仕事を休みなさい」という意味です。お盆と正月は、鬼でさえ休みがもらえることをご存知でしたか?でも、休みだからといって地獄の責め苦を休むわけにもいかず、鬼たちは大晦日とお盆の前日は、地獄の釜の蓋を閉めて、亡者を蒸し焼きにします。

休みになった鬼たちは、釜の蓋を開けた後、閻魔大王さまに休みをいただくお礼と、これからも一生懸命働きますということを示しに挨拶に行きます。鬼たちが休みをもらっている間、地獄にいる亡者たちも休むことができました。人形はこの場面を表しています。

地獄にいる亡者たちでさえ休むことができるのだから、この世にいる我々も休んでよいだろう、というのがお盆休みの始まりなのだそうです。

休みをもらってリラックスしている鬼たちが可愛らしい。どのように並べたら良いのかわからず、自己流です。売っていた骨董屋さんも同じことをおっしゃっていました。ネットで検索しても、同じような人形は見つかりません。どなたかご存知でしたら、お教えください。

作者筆「盆の釜あけ」の銘入り共箱入り。もちろん私のお気に入り。今は7月15日、地獄で鬼たちが亡者を釜の蓋を閉めて蒸し焼きにしている頃でしょうか?おぉ、怖い怖い。この日に合わせておもちゃ映画ミュージアムで展示しています。今日の研究発表会に参加される皆さま、とくとご覧あれ‼


カラスウリの花

寝苦しい日が続きますね。朝、ぐったりしながら窓を開け、植木への水やりは、この時期欠かせない決まり事。昨日の朝も「気持ちいいねぇ、さぁ、たっぷり飲みなさい、浴びなさい」と水やりをしていると、いつもと違う何かに気が付きました。カラスウリの花、一輪。
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「えぇっ!」と我が目を疑いました。何となく、「カラスウリの花は珍しい」と読んだことがあったような気がしていたからです。

「これから、まさしく咲こうとしているのかしら?」と思い、カメラを取りに行き…と俄かにバタバタ。狭い場所なので、上手く撮れず、ほとんどピンボケ。

でも、残念でした。先ほどネットで検索したら、この花の状態は開花ショーが終わった後でした。まぁ、開花ショーの始まりだったとしても仕事へ急がねばならぬ時間でしたから、いずれにしても観察はできなかったでしょうが。

カラスウリの花について素敵な写真と文章で書いてあったのがこちら。「日没とともに花が咲き始め、夜明け前には閉じてしまうのです」とありますから、毎日夜遅くまで仕事していて帰宅が遅いので、私が蕾に気付くこともなかっただろうとは思います。

それにしても白い糸状、というか白いレース糸で繊細に編んだような花の美しいこと‼ 小さいので「妖艶な」という修飾語は似合わないのでしょうが、それなのに、花言葉に「男ぎらい」というのがあるのが不思議。一夜限りの妖艶な花に、惹かれて、誰が花粉を運ぶのか…。やがて赤いカラスウリの実がなる、だったら良いなぁ。

隣には、2007年10月21日(日)、「木津川の地名を歩く会」第1回目の地名探訪で、京都府南部の南山城村を歩いたときに、山路でみつけたアケビから芽吹いた三つ葉アケビが、小さいけれど鈴なりに実を付けています。昨年より個数は断然多いです。初めて実を付けているのを見つけた日の喜びはこちらに綴っています。桃栗三年、柿八年、アケビも種を撒いてから8年後に実を付けて喜ばせてくれました。

昨日見つけたカラスウリも、実は2017年10月21日に山路で見つけて持ち帰った赤い実の種から咲いたもの。実に10年越しの花というわけです。何だか簡単に実がなるような気がして、植えてしばらくは蔓が伸びるままにして、アケビとカラスウリのグリーンカーテンにしていたのですが、伸びる伸びる。他の植木にもグルグル巻きしてしまうので、手を焼き、限度を超えないようにアケビはどんどん蔓先を切り、待てど暮らせど一向に花が咲かないカラスウリは、雑草に準じた扱いでむしり取るありさま。

それでも、どこからか芽を伸ばし、気が付くとまた植木をグルグル巻きにして、なんとシブトイと思っていた矢先。咲き終わった一輪の花を見て、一転「ういやつよのぉ」と勝手なもの。

「咲かない、ちっとも咲かない」と諦めかけていても、いつか花開く時がくることを、小さな花は教えてくれました。

【後日追記】
朝ゆとりがなく気付かないでいましたが、よく良く見ればカラスウリの花は今が盛りと、あちこちで開花ショーの名残や、これから咲くわよ、という蕾がたくさんありました
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白い糸状の花びらが、開花ショーを終え丸まっていますが、小枝にグルグル巻きついているのがわかります。生存をより強固にという感じかしら。
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花茎の先に小さな可愛いカラスウリの実が膨らみつつあります。
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そして瑞々しい緑色の可愛いカラスウリを見つけました。「なってるやん‼」と嬉しくて、嬉しくて。

そこここにたくさんの花を確認しましたので、順調にいけばこの先、真っ赤なカラスウリの実をたくさん目にできるかも。連日の暑さですが、それも楽しみにして、せっせと水やりに精を出しましょう。

【後日追記その2】
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そして、7月24日19時半ごろ、ついにカラスウリの開花ショーの目撃者になれました。白い糸状の花を広げた直径は約10㎝もありました。暗闇で、手ぶれでひどい写真ですが、実見できた喜びが勝っています。
【後日追記その3】
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7月25日18時41分、「今から咲くわよ」という感じの蕾を見つけました。白いレース状の花弁はきちんと折り畳まれて開花の瞬間に備えています。
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それから1時間ほどで、白いレースを360度全開に。
2日にわたって開花する様子を見ることができて大満足

【再度・後日追記】
季節は静かに移りゆき、気が付いたらカラスウリの実が赤くなっていました。
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今年初めて夜に繰り広げられた開花ショーを目撃した時の興奮を思い出します。でも、全てが結実したわけではなさそうです。2017年9月27日






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