今日は立春。長引く風邪でうんざりしていますが、「立春」の響きには救われる思いがします。春が近づくと他に先駆けて「まず咲く」ことから転じたともいわれる「マンサク」の花が咲いたというニュースも見ました。今年は例年よりも降雪量が多く、対策に苦慮された地域も多かったようですが、あと少しの辛抱です。
     神符    豆
2月2日、恒例にしている京都市左京区の吉田神社へ節分詣。クチナシ色の「疫神齋(えきじんさい)」の神符(おふだ)を戴くためです。この文字は後水尾天皇の御宸筆(ごしんぴつ)で、吉田神社に伝わる悪病災難除けの神符。節分の3日間だけ授与されます。

貞観元(859)年、藤原山蔭が一門の氏神として奈良の春日大社から神を勧請したのが吉田神社の始まりといわれています。鎌倉時代以降は卜部氏(後の吉田家)が神職を相伝。吉田神道を創始した吉田兼倶が、室町時代の文明16(1484)年にその拠点として境内に末社・斎場所大元宮(重文)を建てました。明治になるまで吉田家は全国の神職の任免権を持つなど神道界で大きな力を持っていました。

昨年2月8日付京都府立総合資料館メールマガジンでは「(略)日本における追儺の歴史は、706年の疫病祓いに遡るとされます。当時は宮中のみの行事でしたが、徐々に神社や寺、民間へと普及しました。追儺は今も全国で行われており、京都の吉田神社には室町時代から続く伝統行事があります(略)」とありますが、昨日の朝日新聞の吉田神社追儺式の記事では「追儺式は『鬼やらい』とも呼ばれ、平安時代の宮中行事だったものを、昭和初期に同神社が復活させた」とあります。「あれれっ?」
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たこ焼き、イカ焼きなど露店から漂う匂いに釣られ腹拵えしながら、神社に到着したのは午後5時半過ぎ。境内は大勢の人出で大賑わい。その頃には午後6時から始まる「追儺式」を一目見ようと拝殿周辺は大変な人垣が出来ていました。係りの人に尋ねましたら、午後2時頃から並んで待っている人もおられたとか。
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「追儺式」の神饌です。手前から時計回りに御神酒、小豆、ナツメ、白ご飯、白小餅が用意されています。榊を挟んだ向こうには、弓矢が用意されています。
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手前にあるのが、魔力を封じると言われている桃の木で作った弓とアシの茎で作られた葦矢(あしや)。
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人垣で、伸びるのはカメラを持つ人の手ばかり。何も見えない中で辛うじて手を伸ばして撮れた写真2枚。神職による神饌リレーと方相氏の上半身。方相氏は赤い顔に黄金四ッ目があるということですが、遠すぎて分かりません。仕方なく耳をダンボにしてアナウンスに聞き入りました。最初に陰陽師が祭文を読み上げます。8人の神童を連れた方相氏が登場。そこに暗闇の中から怒りを表す赤鬼、悲しみを表す青鬼、苦悩を表す黄鬼が現れ、金棒を持って暴れ回ります。盾と矛を打ち鳴らしながら方相氏が鬼たちを追い詰め、年男が務める殿上人らが先ほどの弓で矢を放つと鬼たちは山へ退散。めでたし、めでたし。

葦矢が弧を描いて飛んでいくのは見えました。待った甲斐があったと納得して、大元宮へと向かいました。境内に作られた火炉は直径、高さ各5㍍もあり、大元宮と同じ八角形をしています。3日夜11時の火炉祭で焚かれる古神符がたくさん納められていました。私が持参した古い「疫神齋」の神符も中に入れて貰いました。
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大元宮へ行くのも、抽選付きの福豆を買って神社から帰るのも大変な人の波でした。怒り、悲しみ、苦悩から解き放たれ、一年が恙なく過ごせるよう祈りながら帰路につきました。

ところで、2月1日付産経新聞に俳人・坪内稔典先生が面白い話を書いておられました。
・・・民俗学的な見方では、豆をまくのは豆にけがれや厄を移して捨てるのである。そしてその豆を異界からきた鬼が持っていってくれる。豆まきには豆で鬼を退治している感じがあるが、鬼の役目は人の厄を持ち去ることなのだ。
 折口信夫によると、大阪の子どもたちは、節分の夜、よその家の軒へ悪い癖を売りに行ったらしい。歯ぎしりとか枕をはずす癖など。軒先で「歯ぎしり、いりませんか」と小さな声でつぶやく。すると、誰かが来たと思ってその家の人が返事する。返事があったら、「売った!」と叫んで逃げた。(略)癖を捨てるのではなく癖を売るところは、いかにも商いの町・大阪の子どもだという気がする(略)」・・・

折口信夫が昭和13(1938)年、雑誌『俳句研究』に「春立つ鬼」という題で書いた子どもの頃の話だそうです。節分に治したい癖を売る発想が面白くて、連れ合いや職場の人に尋ねましたが、京都では聞かないと返ってきました。富山でも聞いたことがありません。どなたかご存じありませんか?