好天に恵まれた昨日、大阪府千里万博公園内の国立民族学博物館に行ってきました。11月15日まで開催中の企画展「武器をアートに〜モザンビークにおける平和構築」を見たかったのです。1学期に受講した放送大学「博物館概論」の中で、担当の吉田憲司・民博教授が第5章と第15章でこの活動について話しておられ、とても興味を持っていました。教科書が作られた2011年3月の段階では、今回の展示計画が決まっていたのか否かはわかりませんが、学んで直ぐ実物を見られるタイムリーさです。


南部アフリカのモザンビークは、右地図の赤色で塗られた場所。宣教師フランシスコ・ザビエルが日本へ向かう途中モザンビーク島に滞在(1541〜42)、天正遣欧使節がローマからの帰路、風待ちのためにやはり同島に滞在(1589〜90)するなど、古くから日本ともつながりがあった国です。
17世紀からポルトガルの植民地になっていましたが、1975年にポルトガルから独立します。しかし、その翌年から政権政党となったモザンビーク解放戦線と反政府組織モザンビーク民族抵抗運動の間で内戦が勃発し、1992年に包括和平協定が結ばれるまで17年間も内戦が続きました。終結後も住民同士の間に生じた亀裂はなかなか解消できず、大量の武器が民間に残っていました。モザンビーク聖公会のセングラーネ司教は、聖書イザヤ書に「剣を鋤に」という章句があることをヒントに、民間に大量に残された武器を人々の希望に応じて農具や自転車などと交換し、武器解除を進めることを思いつきます。
TAEプロジェクトと名付けられたこの活動では、NPO法人えひめグローバルネットワーク(愛媛県松山市)の貢献が大きいこともこの企画展で知りました。2000年から市内で放置され引き取られない自転車を、モザンビークに送り(運送費も市民からの募金や寄付で賄う)、武器と交換して渡すことで、遠くて学校に行けなかった子どもたちが学校に行けるようになったり、水汲みの負担も大いに軽減されたといいます。さらに現地での教室の補修、増設工事支援、自転車修理のワークショップ開催や、日本から贈ったミシンを活用して縫製のトレーニングなども展開しておられるそうです。


吉田先生をまじえた現地アーティストとの話し合いで生まれた作品「いのちの輪だち」(2012年10月)。犬や鳥とともに自転車に乗る家族を造形したこの作品は、自転車、ミシン、農具に変えるために、自ら手放した銃器100丁以上でできています。これらの武器は、旧ソ連、中国、ポーランド、北朝鮮、アメリカ製と外国の武器ばかりで、どれひとつとしてモザンビークはもちろんアフリカで作られたものではありません。17年間の内戦で、100万人もの犠牲者が出たといわれ、数百万丁の銃器が民間に出回ったといわれています。


フィエル・ドス・サントスさん、クリストヴァオ・カニャヴァートさんらによる制作風景。回収された武器は解体、切断され、平和を訴える作品に生まれ変わります。右写真手前は、「ギター奏者」。内戦時は音楽に親しむ余裕もなかったことでしょう。平和なればこそです。



右は楽しく演奏する人々、のんびり散歩のトカゲ、左は「パンを焼く人」(2002年)。ユーモラスな造形が、人を殺傷する武器で出来ているなんて、「武器よさらば」ですね!



左写真は「肘掛け椅子」(2012年)。自動小銃の銃身や弾倉などでできています。右上左から「水を汲む女性」「本を読む男」「キーボード奏者」、右下は「ティンビラ奏者」。このプロジェクトをモデルに、南スーダンやカンボジアでも、回収した武器を使って平和のモニュメントを作るプロジェクトが始まっているそうです。この動きが世界中に広がれば素晴らしいですね。


南部アフリカのモザンビークは、右地図の赤色で塗られた場所。宣教師フランシスコ・ザビエルが日本へ向かう途中モザンビーク島に滞在(1541〜42)、天正遣欧使節がローマからの帰路、風待ちのためにやはり同島に滞在(1589〜90)するなど、古くから日本ともつながりがあった国です。
17世紀からポルトガルの植民地になっていましたが、1975年にポルトガルから独立します。しかし、その翌年から政権政党となったモザンビーク解放戦線と反政府組織モザンビーク民族抵抗運動の間で内戦が勃発し、1992年に包括和平協定が結ばれるまで17年間も内戦が続きました。終結後も住民同士の間に生じた亀裂はなかなか解消できず、大量の武器が民間に残っていました。モザンビーク聖公会のセングラーネ司教は、聖書イザヤ書に「剣を鋤に」という章句があることをヒントに、民間に大量に残された武器を人々の希望に応じて農具や自転車などと交換し、武器解除を進めることを思いつきます。
TAEプロジェクトと名付けられたこの活動では、NPO法人えひめグローバルネットワーク(愛媛県松山市)の貢献が大きいこともこの企画展で知りました。2000年から市内で放置され引き取られない自転車を、モザンビークに送り(運送費も市民からの募金や寄付で賄う)、武器と交換して渡すことで、遠くて学校に行けなかった子どもたちが学校に行けるようになったり、水汲みの負担も大いに軽減されたといいます。さらに現地での教室の補修、増設工事支援、自転車修理のワークショップ開催や、日本から贈ったミシンを活用して縫製のトレーニングなども展開しておられるそうです。


吉田先生をまじえた現地アーティストとの話し合いで生まれた作品「いのちの輪だち」(2012年10月)。犬や鳥とともに自転車に乗る家族を造形したこの作品は、自転車、ミシン、農具に変えるために、自ら手放した銃器100丁以上でできています。これらの武器は、旧ソ連、中国、ポーランド、北朝鮮、アメリカ製と外国の武器ばかりで、どれひとつとしてモザンビークはもちろんアフリカで作られたものではありません。17年間の内戦で、100万人もの犠牲者が出たといわれ、数百万丁の銃器が民間に出回ったといわれています。


フィエル・ドス・サントスさん、クリストヴァオ・カニャヴァートさんらによる制作風景。回収された武器は解体、切断され、平和を訴える作品に生まれ変わります。右写真手前は、「ギター奏者」。内戦時は音楽に親しむ余裕もなかったことでしょう。平和なればこそです。



右は楽しく演奏する人々、のんびり散歩のトカゲ、左は「パンを焼く人」(2002年)。ユーモラスな造形が、人を殺傷する武器で出来ているなんて、「武器よさらば」ですね!



左写真は「肘掛け椅子」(2012年)。自動小銃の銃身や弾倉などでできています。右上左から「水を汲む女性」「本を読む男」「キーボード奏者」、右下は「ティンビラ奏者」。このプロジェクトをモデルに、南スーダンやカンボジアでも、回収した武器を使って平和のモニュメントを作るプロジェクトが始まっているそうです。この動きが世界中に広がれば素晴らしいですね。