11月3日、木津川市加茂町兎並寺山の御霊神社へ行ってきました。先月30日に見損ねて残念な思いをしていましたので、今にも雨が降り出しそうな鉛色の空模様でしたが迷わずに出かけました。
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この石段を登ったところに御霊神社があります。本殿と棟札2枚が重要文化財です。祭神は崇道天皇(早良〈さわら〉親王)、井上内親王、他戸(おさべ)親王、藤原吉子(ふじわらのよしこ)、文屋宮田麻呂(ぶんやのみやたまろ)、橘逸勢(たちばなのはやなり)、吉備真備(きびのまきび)、火雷神(ほいかづちのかみ=菅原道真)。吉備真備は△ですが、無実の罪で非業の死を遂げた人々の怨霊を鎮める御霊神社らしい祭神揃いです。
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今回の見学は、かつてこの地にあった燈明寺のことを知りたいと思ったからです。御霊神社は、燈明寺の鎮守社として奈良の氷室神社(奈良国立博物館新館の道路を挟んで向かい側)の古社殿を移築したと伝えられているそうです。南北朝時代に創建された三間社流れ造りの檜皮葺。本殿左右に舞楽の彩色画が描かれていました。現在は兎並の産土神として祀られています。
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燈明寺の仏像5体や宝物を収蔵する建物が見えます。今回の「木津川市秋の社寺秘宝・秘仏特別開扉」に合わせて、4日まで無料公開されていました。近くの石碑に、燈明寺本堂についての説明が刻まれていました。それによれば、昭和23(1948)年の暴風雨で大破した本堂は、昭和57(1982)年に横浜の三渓園に移築されました。また、東京都の正法護持財団が昭和60(1985)年にこの収蔵庫を造り、燈明寺の観音像5体と燈明寺関係資料を収め保存しました。その後、平成元(1989)年に収蔵庫一式は川合京都仏教美術財団に引き継がれることになり、今日に至っています。
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収蔵庫前正面にある石灯籠。江戸時代中期に造られた模作(高さ240㌢)です。元の石灯籠(高さ233㌢)は鎌倉時代中期に造られ、「燈明寺型」として名物灯籠の一つに数えられています。江戸時代中期の享保12(1727)年ごろ、本堂等が大破して、その修理費捻出のため三井家に売却され、今は、京都の真如堂にあるということです。代わりに造られたのがこの石灯籠なのです。「燈明寺型」の特徴は、火袋の燈明を載せる台が高くなっていることだそうです。
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石造十三重塔。鎌倉時代末期のもので、基礎側面は近江系の蓮華文で飾る南山城に少ない造形。この場所より東南に倒壊して、笠の一部と相輪を欠いていたのを復原されました。梵鐘(高さ137.5㌢)は、貞享5(1688)年5月4日に、日進(軫)と檀家が協力して鋳造したものです。

収蔵庫に安置されていた千手観音、十一面観音、不空羂索観音、聖観音、馬頭観音の5体はどれも素晴らしい像でした。特に旧本尊と伝えられる木造千手観音立像(像高172㌢)は素敵でした。漆箔仕上げ、頭体幹部はほぼ檜の1材彫り出し、鎌倉時代後半頃の作と考えられています。国の指定は受けていませんが、近頃の文化財海外流出問題などが頭をかすめ、しっかりと文化財を守る体制づくりが急務だと思いました。
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「マムシに注意」の掲示を見ながら近くの小高い場所へ。ここに康正2(1456)年に建てられた燈明寺の三重塔(高さ約24㍍、重要文化財)がありました。大正3(1914)年に横浜市の三渓園に移築されました。今回の木津川市の企画テーマは「四塔をめぐる」です。岩船寺三重塔(重要文化財、嘉吉2〈1442〉年、加茂町当尾)、海住山寺五重塔(国宝、建保2〈1214〉年、同町瓶原)、浄瑠璃寺三重塔(国宝、12世紀前期、同町当尾)、そしてこの旧燈明寺三重塔跡です。燈明寺三重塔は4塔の中で一番のノッポさんです。
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横浜市の三渓園のパンフレットに旧燈明寺三重塔が写っています。庫裏は寛文12(1672)年に建てられました。一重寄棟造本瓦葺、四方庇付桟瓦葺。吹き抜けで、大きなオクドさんがあるそうですが、非公開。貴重な建物のように感じましたので、大切に修理・保存されるといいなぁと思います。
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御霊神社社務所で、燈明寺関係資料が展示されていました。
見学していると、丁度三渓園の方が来訪されました(右写真のスーツ姿の男性)。厚かましくも一緒にお話を聞かせていただきました。ご案内は、NPO法人ふるさと案内・かも最高齢会員だという柳(正しくは旧字の柳)紀(おさむ)さん(オレンジ色のジャンパー姿の男性)。

…創建時期は諸説あるようだが、当初は観音寺、後に東明寺に改められ、燈明寺と呼ばれるようになったのは近世に入ってから。鎌倉時代末に大きく整備され、室町時代中期に天台宗の賢昌房忍禅によって復興され、江戸時代寛文3(1663)年頃に、本圀寺の僧日便が兎並村領主・藤堂高次の助力を得て再興。藤堂高虎は日蓮宗を信仰していて、藤堂藩がパトロンになって当尾を守っていた。この時に法華宗、本光山燈明寺に改めた。江戸時代後期には「南山城三十三箇所霊場」第3番として多くの参詣者で賑わったが、近代になって衰微。その後も寺勢回復には至らなかった。

大正3年に三重塔を三渓園に移送するとき、列車に乗せるために心柱を切って運んだ。そのままだと鉄道のカーブが曲がれないので。本堂は昭和23年の台風で壊れてしまい、解体して積んであった。ここで復元したいという声もあったが、檀家がない寺(無住になったのは昭和9年、廃寺になったのは昭和27年)でお金がなく30年も放ってあった。三渓園に買ってもらって助かった。大切にしてもらってありがたい…

横浜の国指定名勝三渓園は広さ175,000㎡の日本庭園。燈明寺の三重塔までは案内がなければ、なかなか近くまで見に行けない広さだそうです。この三重塔は、現在関東地方にある木造の塔では最古。勉強したのを契機に、ぜひ訪問して実見したいです。三渓園は明治末から大正時代にかけて製糸・生糸貿易で財を成した横浜の実業家・原三渓(本名富太郎)が、東京湾に面した「三之谷」と呼ばれる谷あいの地に造り上げた庭で、17棟の歴史的建造物が集められているそうです。
DSCN9026DSCN9036御霊神社の石段を降りてすぐ目に飛び込んだ「鍾馗さん」。漆喰の壁によく似合っています。アップで撮れなかったのが残念。築341年の庫裏の話を聞いた時、山ノ上にあるお宅が庫裏と同じくらい古いと教えて貰ったので帰りに行ってきました。藤堂高虎の本陣を務めた大庄屋さんの家で、立派な構えです(左下写真も)。
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幾つもの棟があり、大きなお屋敷です。付近には風情ある家並みが残り、心に残る晩秋の加茂の景観です。

もう一つ心に残ったことに、柳さん(80歳)のお話があります。藤堂高虎の話が出たことで、今年6月末に上野城を訪れたことを話しました。その時、「南山城地方からも上野の学校に通っていたそうですね」と話したところ、柳さん自身がその一人だったと教えてもらいました。約40分かけて通っていたそうです。

…特攻隊に志願しようと思っていた。中学2年になったら志願できるので、上野には祖母が住んでいたこともあり、旧制上野中学を目指した。神武天皇から歴代の天皇の名前を諳んることができなければ中学受験できなかった。今でも諳んじることができる。加茂は大阪への通り道にあたるので、米軍機が上空を飛んで行った。遠くで大阪が赤く燃えるのがよく見えた。翌日、大阪で燃えた紙が加茂の庭や山に落ちた…

お話を聞いた3日後の新聞で、そのお名前を拝見した時には驚きました。今年度の京都府教育功労者のお一人として表彰されました。誠におめでとうございます。「加茂が大好きだ」と話された表情がとても印象的でした。お話を聞けて本当に良かったです。