今日の晩ご飯は、いただいた掘りたて筍と普代村の特産品「すき昆布」の炊き合わせ。2、3㍉幅に刻み乾燥させて作る「すき昆布」は、昭和44年に太田名部(おおたなべ)の青年たちによって作り始められたのだそうです。いただいた資料に3〜4㍍にもなる大きな肉厚の養殖昆布が写っています。昆布がこんなに大きくなるとは知らなかった!!天然物だけではなく安定供給のため養殖に力を入れているそうです。村では2009年から「ふだいの昆布で村おこし!プロジェクト」を展開中で、他にもいろいろ美味しそうなものが紹介されています。消費地がサポートすることが被災地の「水産力」再生への力になります。今はワカメの最盛期だそうです。

資料を見ていて今頃気付いたのですが、NHK  朝ドラ「あまちゃん」に出てきた「北三陸鉄道袖ヶ浜駅」は、普代村の「堀内駅」だったのですね。あの青くて綺麗な海はここだったのかとガッテン!

鵜鳥神楽を見た翌日の3月22日付け朝日新聞別刷に、磯田道史先生の連載「備える歴史学」が、普代村のかつての村長だった和村孝得(わむらこうとく)さんのことを取り上げていました。3.11の震災では巨大津波により沿岸地域で甚大な被害がでましたが、普代村では海へ船を見に行った1人が今も行方不明ですが、亡くなられた方はゼロでした。座談会でお聞きした話では、行方不明になられたのは鵜鳥神楽衆のメンバーだそうです。他に家が流されたメンバーもおられるそうです。東京の国立国会図書館へ行って和村さんの回想録『貧乏との戦い四十年』を読んだ磯田先生は、明治29(1896)年の明治三陸大津波で302人、昭和8(1933)年三陸大津波で137人が亡くなっていることから、「二度あったことは、三度あってはならない」と村の人を守るために東奔西走、尽力した和村元村長を讃えています。

前回掲載した資料「ふだい村がいちばん。」の中にも和村元村長の顔写真とその時のことが載っています。15.5㍍の高さがある太田名部防潮堤は昭和42(1967)年完成、普代水門は昭和59(1984)年に完成しました。普代水門の総延長は205㍍。財源や土地の活用に対する村の人の反対や県や国の意見に対しても、この高さが必要だと訴え続け、説得して実現させたそうです。明治三陸大津波では15.2㍍の津波が記録されていました。三度目の大津波では、600隻のうち550隻が被害に遭いましたが、亡くなった方、住宅の被害が少なかったのは普代水門・防潮堤のおかげだと座談会でも話がでました。

さて、陸中沿岸地方の廻り神楽は、普代村鵜鳥神社(漁業の神)の「鵜鳥神楽」と宮古市黒森神社(火伏せの神)の「黒森神楽」があり、北の久慈市から南の釜石市まで南北に巡行します。それぞれの神社を起点に、南廻りの年と北廻りの年を交互に行います。普代村から北の久慈市は近いですが、南の釜石市まではかなりの距離がありますね。1月8日前後に出立の儀式「舞立ち」をして、神降ろしの歌で獅子頭に入魂し、権現様に姿を変えた神様と共に神楽衆は巡業の旅に出ます。3年ぶりの巡業だった今年は南廻りで、10ヵ所以上の神楽宿を取ることができたそうです。来年は「じぇ、じぇ、じぇ」で有名になった久慈市へ行く北廻り。

橋本先生の説明によれば「普通は神様のところへ行くが、鵜鳥は神様が家に来てくれると、宿主は涙を流して喜ぶ」そうです。神楽宿では舞い込み、儀式、休んで、夕ご飯後に神楽を舞います。それも何時スタートではなくアバウト。だいたい午後7時から真夜中の12時、1時ごろまで6時間ほど。神楽宿では「神様が泊まっていってくれたから、今年は大丈夫」と安心するそうです。そして、日中は権現様を奉持して一軒一軒訪ねて「門打ち」。悪魔払いの祈祷をして、人々に祝福と慈愛をもたらします。演目は54ほどあり、今回のように場に応じた出し物が選ばれます。誰もが知っている演目だとなおさら楽しめますね。ごちそうを食べて神楽を見る陸中沿岸地方の心豊かな暮らしの一面を知ることができました。

黒森神楽も気になって、ネットで検索してみました。2006年に国の重要無形民俗文化財に指定されています。こちらもなかなか興味深い神楽です。遠野郷八幡宮HPによれば、2年に一度の南廻りの神楽宿をされていて、来年3月頃に遠野巡行の予定だそうです。来年3月なら見に行けるかもしれないとカレンダーとにらめっこ。