例会が終わった後、京都文化博物館へ行き、映画「路傍の石」を観ました。前日も「重要文化財指定記念 八瀬童子〜天皇と里人」展を鑑賞した後で、「河内山宗俊」が上映されると知り急遽観ました。「河内山宗俊」は昭和11(1936)年公開の日活太秦映画で、山中貞雄監督。まだ初々しい原節子さんが出演されています。二人の人気のせいか、午後5時からの上映にもかかわらず、たくさんの観客が詰めておられました。
「路傍の石」も昔読んだような記憶があったのですが、内容を忘れているので、改めて映画で観ようと出かけました。いっぱい泣く映画かと勝手に想像していたのですが、鑑賞後は全く逆で、フツフツと湧いてくる力を感じました。原作は山本有三さん、監督は田坂具隆さん。主人公の愛川吾一少年を片山明彦さんが熱演しています。映画監督島耕二さんの息子さんで、薄幸の母親役の滝花久子さんは田坂監督夫人。昭和13(1938)年公開の日活多摩川作品です。
1937年元旦から6月18日まで朝日新聞に掲載された小説を映画化したものです。当時戦時色が濃くなり、軍部からの圧力を受けた山本有三さんは途中で連載中止に追い込まれます。そのため、映画は少年時代の吾一少年のみを描いています。
明治30年代の吾一少年の家は貧しい。父は元武士の家柄で今では士族と呼ばれていますが、気位だけは高くても変化する社会にうまく適応できず、自分の正当性を証明するために上京し訴訟に明け暮れています。病弱な母は袋貼りや裁縫で辛うじて家計をやりくりし、少年もそれを助けて寄り添うように生きています。小学校で成績一番の吾一少年は誰より学ぶ意欲が強く、中学に進学したいのですが、それを許す家計ではありません。当時は金持ちの子どもしか中学に行けなかったのです。そんな中、担任の先生の奔走で、中学進学を支援してやろうという人が現れます。嬉しそうに本屋さんに報告する吾一少年に、店の主人がくれた本は福沢諭吉の『学問のすゝめ』。少年はそれを食い入る様に読みます、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」。
その時、父が戻ってきます。「人の善意は信用しちゃならない」と進学支援の話を反故にするだけでなく、勉強が全くできない同級生と、勉強ができる妹のいる呉服屋へ丁稚奉公に出されます。店の主人は「吾一の名前は商家にむかん。呼びにくい。難しい吾ではなく、簡単な一、二、三、の五に助や。お前はお辞儀しても頭をあげるのが早すぎる。それではいかん」と丁稚の心得を話します。小学校時代は勉強ができる吾一を慕っていた妹も、店で「五助どん」と呼ばれ「へーい」と返事している様子に段々態度も変化し、中学校へ通う妹の履物を揃える吾一を蔑みます。思春期の子どもの心にどれほどの痛みとなることか。同級生だった兄は算数の宿題を吾一にやらせる始末。中学の勉強を垣間見ることができるのは喜びだったかもしれませんが、厳しい奉公で身体はクタクタ。
そんなある日、母が急病になり本屋さんの世話で入院しますが、また父が帰ってきて一騒動。母は河に身投げします。知らせを受けて夜中に実家に戻った吾一は、背中を震わせて泣きます。「身投げした女の子どもを置いておくと聞こえが悪い」という店の主人の判断で、仲介人の手で連れて行かれたのは東京の下宿屋。沢村貞子さんが意地悪な姉を演じ、妹も吾一をこき使います。ここでも「吾一」とは呼ばれません。吾一は自分の名前で読んで欲しいと言いますが「生意気言うんじゃないよ」と却下されます。観客も一緒に吾一少年の胸の内を思いやったことでしょう。小学校の時、鉄道で肝試しをやり危うく死にかけたことがありました。担任は黒板に大きく吾一の名前を書き、「お前の名前は、吾は一人なりと書く。この世にお前は一人しかいない。良い名ではないか。自分を大切に生きていかなかればならない」と諭します。
この下宿にいるポンチ絵描きの黒田は、吾一を可愛がります。ある日「部屋に遊びに来い」と誘われ、2階の部屋に行ってみると、床にたくさんのポンチ絵が広がっています。「おじさんはどうして普通の絵を描かないの?」と聞く吾一に対し、「絵には2種類ある。1つはモノ言わぬ絵、もう1つはモノ言う絵。俺はモノを言う絵を書きたい」と答えます。その広がっている絵の中にダルマの絵があり、「ダルマさん、ダルマさん、足を出して自分の足で歩いてご覧」と書いてありました。それまでじっと苦難に耐えている吾一少年の気持ちで観ていましたので、この絵には突き動かされる衝撃を覚えました。
映画は、下宿屋の姉妹の暴言を耳にしていた吾一少年が、ランプ磨きの手を止め、それを投げ捨てて、『学問のすゝめ』を懐に入れて下宿屋を出るところで終わります。観終わったあと、一人の観客が「もっと可哀想な映画かと思っていたけれど、こんな希望のある映画だとは思わなかった。ほんとうに素晴らしい。こんな映画をもっと子どもたちに見せてあげなきゃ」と大きな声で話しました。それに触発されてか、それまで3つ離れた席で見ていた男性が帰り際に、私に「男子たるもの、こうでなきゃ!!」と話しかけました。「ええ、そうですね」と答えたものの内心では「女だって、こうでなきゃ!!!」と思っていました。映画館を後にする観客の足音がいつもより力強く感じました。皆、「そうだ、そうだ!!」と力を得て床を踏み鳴らしているような・・・。
山本有三さん自身、高等小学校卒業後、父親の命令で東京の浅草に奉公に出され、一度は逃げ出し故郷の栃木に戻ります。上級学校への進学の希望は叶えられず、家業の呉服商を手伝うことになります。後には上京し東京帝大独文学科に入学し、著名な作家になりますが、この映画には自身の生い立ちが反映されていますね。
監督の田坂さんは広島の出身。5歳で母に死別しています。第三高等学校(現京大)進学後、父親の事業の失敗で中退。病弱で兵役免除となったのを機に撮影所に入りました。代表作に「真実一路」「路傍の石」「五人の斥候兵」(1938年、ヴェネツィア国際映画祭イタリア民衆文化大臣賞受賞)「土と兵隊」(1939年、ヴェネツィア国際映画祭日本映画総合賞受賞)などがあります。終戦の年1945年に召集され、8月広島の部隊で原爆に遭い、戦後は長い闘病生活を送られました。
この日の例会で鳥羽作道を歩いていますと、街道沿いに風情ある旧家がたくさん目に止まりました。「虫籠窓」の話をしている時、会員が「『はしごを外す』って言うでしょう。あれは奉公が辛くなった丁稚さんが、夜中に2階から降りて逃げ出して親元に帰らないように、はしごを外しておくことからきたそうよ」と教えてくれました。年季が明ける前に逃げられては元も子もありませんから、雇う方も知恵が働きます。どんなに辛い目にあっても唇をぎゅっと噛み、まっすぐに前を見る吾一少年の澄んだ目に大いに励まされました。映画は少しも古くなく、非正規雇用者が大半を占める今の日本社会と同じような気がしました。
あと半日で新しい年を迎えます。来年こそ希望に満ちた良い年となりますように
「路傍の石」も昔読んだような記憶があったのですが、内容を忘れているので、改めて映画で観ようと出かけました。いっぱい泣く映画かと勝手に想像していたのですが、鑑賞後は全く逆で、フツフツと湧いてくる力を感じました。原作は山本有三さん、監督は田坂具隆さん。主人公の愛川吾一少年を片山明彦さんが熱演しています。映画監督島耕二さんの息子さんで、薄幸の母親役の滝花久子さんは田坂監督夫人。昭和13(1938)年公開の日活多摩川作品です。
1937年元旦から6月18日まで朝日新聞に掲載された小説を映画化したものです。当時戦時色が濃くなり、軍部からの圧力を受けた山本有三さんは途中で連載中止に追い込まれます。そのため、映画は少年時代の吾一少年のみを描いています。
明治30年代の吾一少年の家は貧しい。父は元武士の家柄で今では士族と呼ばれていますが、気位だけは高くても変化する社会にうまく適応できず、自分の正当性を証明するために上京し訴訟に明け暮れています。病弱な母は袋貼りや裁縫で辛うじて家計をやりくりし、少年もそれを助けて寄り添うように生きています。小学校で成績一番の吾一少年は誰より学ぶ意欲が強く、中学に進学したいのですが、それを許す家計ではありません。当時は金持ちの子どもしか中学に行けなかったのです。そんな中、担任の先生の奔走で、中学進学を支援してやろうという人が現れます。嬉しそうに本屋さんに報告する吾一少年に、店の主人がくれた本は福沢諭吉の『学問のすゝめ』。少年はそれを食い入る様に読みます、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」。
その時、父が戻ってきます。「人の善意は信用しちゃならない」と進学支援の話を反故にするだけでなく、勉強が全くできない同級生と、勉強ができる妹のいる呉服屋へ丁稚奉公に出されます。店の主人は「吾一の名前は商家にむかん。呼びにくい。難しい吾ではなく、簡単な一、二、三、の五に助や。お前はお辞儀しても頭をあげるのが早すぎる。それではいかん」と丁稚の心得を話します。小学校時代は勉強ができる吾一を慕っていた妹も、店で「五助どん」と呼ばれ「へーい」と返事している様子に段々態度も変化し、中学校へ通う妹の履物を揃える吾一を蔑みます。思春期の子どもの心にどれほどの痛みとなることか。同級生だった兄は算数の宿題を吾一にやらせる始末。中学の勉強を垣間見ることができるのは喜びだったかもしれませんが、厳しい奉公で身体はクタクタ。
そんなある日、母が急病になり本屋さんの世話で入院しますが、また父が帰ってきて一騒動。母は河に身投げします。知らせを受けて夜中に実家に戻った吾一は、背中を震わせて泣きます。「身投げした女の子どもを置いておくと聞こえが悪い」という店の主人の判断で、仲介人の手で連れて行かれたのは東京の下宿屋。沢村貞子さんが意地悪な姉を演じ、妹も吾一をこき使います。ここでも「吾一」とは呼ばれません。吾一は自分の名前で読んで欲しいと言いますが「生意気言うんじゃないよ」と却下されます。観客も一緒に吾一少年の胸の内を思いやったことでしょう。小学校の時、鉄道で肝試しをやり危うく死にかけたことがありました。担任は黒板に大きく吾一の名前を書き、「お前の名前は、吾は一人なりと書く。この世にお前は一人しかいない。良い名ではないか。自分を大切に生きていかなかればならない」と諭します。
この下宿にいるポンチ絵描きの黒田は、吾一を可愛がります。ある日「部屋に遊びに来い」と誘われ、2階の部屋に行ってみると、床にたくさんのポンチ絵が広がっています。「おじさんはどうして普通の絵を描かないの?」と聞く吾一に対し、「絵には2種類ある。1つはモノ言わぬ絵、もう1つはモノ言う絵。俺はモノを言う絵を書きたい」と答えます。その広がっている絵の中にダルマの絵があり、「ダルマさん、ダルマさん、足を出して自分の足で歩いてご覧」と書いてありました。それまでじっと苦難に耐えている吾一少年の気持ちで観ていましたので、この絵には突き動かされる衝撃を覚えました。
映画は、下宿屋の姉妹の暴言を耳にしていた吾一少年が、ランプ磨きの手を止め、それを投げ捨てて、『学問のすゝめ』を懐に入れて下宿屋を出るところで終わります。観終わったあと、一人の観客が「もっと可哀想な映画かと思っていたけれど、こんな希望のある映画だとは思わなかった。ほんとうに素晴らしい。こんな映画をもっと子どもたちに見せてあげなきゃ」と大きな声で話しました。それに触発されてか、それまで3つ離れた席で見ていた男性が帰り際に、私に「男子たるもの、こうでなきゃ!!」と話しかけました。「ええ、そうですね」と答えたものの内心では「女だって、こうでなきゃ!!!」と思っていました。映画館を後にする観客の足音がいつもより力強く感じました。皆、「そうだ、そうだ!!」と力を得て床を踏み鳴らしているような・・・。
山本有三さん自身、高等小学校卒業後、父親の命令で東京の浅草に奉公に出され、一度は逃げ出し故郷の栃木に戻ります。上級学校への進学の希望は叶えられず、家業の呉服商を手伝うことになります。後には上京し東京帝大独文学科に入学し、著名な作家になりますが、この映画には自身の生い立ちが反映されていますね。
監督の田坂さんは広島の出身。5歳で母に死別しています。第三高等学校(現京大)進学後、父親の事業の失敗で中退。病弱で兵役免除となったのを機に撮影所に入りました。代表作に「真実一路」「路傍の石」「五人の斥候兵」(1938年、ヴェネツィア国際映画祭イタリア民衆文化大臣賞受賞)「土と兵隊」(1939年、ヴェネツィア国際映画祭日本映画総合賞受賞)などがあります。終戦の年1945年に召集され、8月広島の部隊で原爆に遭い、戦後は長い闘病生活を送られました。
この日の例会で鳥羽作道を歩いていますと、街道沿いに風情ある旧家がたくさん目に止まりました。「虫籠窓」の話をしている時、会員が「『はしごを外す』って言うでしょう。あれは奉公が辛くなった丁稚さんが、夜中に2階から降りて逃げ出して親元に帰らないように、はしごを外しておくことからきたそうよ」と教えてくれました。年季が明ける前に逃げられては元も子もありませんから、雇う方も知恵が働きます。どんなに辛い目にあっても唇をぎゅっと噛み、まっすぐに前を見る吾一少年の澄んだ目に大いに励まされました。映画は少しも古くなく、非正規雇用者が大半を占める今の日本社会と同じような気がしました。
あと半日で新しい年を迎えます。来年こそ希望に満ちた良い年となりますように