歴史探訪京都から

-旧木津川の地名を歩く会-

2012年12月

映画「路傍の石」

例会が終わった後、京都文化博物館へ行き、映画「路傍の石」を観ました。前日も「重要文化財指定記念 八瀬童子〜天皇と里人」展を鑑賞した後で、「河内山宗俊」が上映されると知り急遽観ました。「河内山宗俊」は昭和11(1936)年公開の日活太秦映画で、山中貞雄監督。まだ初々しい原節子さんが出演されています。二人の人気のせいか、午後5時からの上映にもかかわらず、たくさんの観客が詰めておられました。

「路傍の石」も昔読んだような記憶があったのですが、内容を忘れているので、改めて映画で観ようと出かけました。いっぱい泣く映画かと勝手に想像していたのですが、鑑賞後は全く逆で、フツフツと湧いてくる力を感じました。原作は山本有三さん、監督は田坂具隆さん。主人公の愛川吾一少年を片山明彦さんが熱演しています。映画監督島耕二さんの息子さんで、薄幸の母親役の滝花久子さんは田坂監督夫人。昭和13(1938)年公開の日活多摩川作品です。

1937年元旦から6月18日まで朝日新聞に掲載された小説を映画化したものです。当時戦時色が濃くなり、軍部からの圧力を受けた山本有三さんは途中で連載中止に追い込まれます。そのため、映画は少年時代の吾一少年のみを描いています。

明治30年代の吾一少年の家は貧しい。父は元武士の家柄で今では士族と呼ばれていますが、気位だけは高くても変化する社会にうまく適応できず、自分の正当性を証明するために上京し訴訟に明け暮れています。病弱な母は袋貼りや裁縫で辛うじて家計をやりくりし、少年もそれを助けて寄り添うように生きています。小学校で成績一番の吾一少年は誰より学ぶ意欲が強く、中学に進学したいのですが、それを許す家計ではありません。当時は金持ちの子どもしか中学に行けなかったのです。そんな中、担任の先生の奔走で、中学進学を支援してやろうという人が現れます。嬉しそうに本屋さんに報告する吾一少年に、店の主人がくれた本は福沢諭吉の『学問のすゝめ』。少年はそれを食い入る様に読みます、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」。

その時、父が戻ってきます。「人の善意は信用しちゃならない」と進学支援の話を反故にするだけでなく、勉強が全くできない同級生と、勉強ができる妹のいる呉服屋へ丁稚奉公に出されます。店の主人は「吾一の名前は商家にむかん。呼びにくい。難しい吾ではなく、簡単な一、二、三、の五に助や。お前はお辞儀しても頭をあげるのが早すぎる。それではいかん」と丁稚の心得を話します。小学校時代は勉強ができる吾一を慕っていた妹も、店で「五助どん」と呼ばれ「へーい」と返事している様子に段々態度も変化し、中学校へ通う妹の履物を揃える吾一を蔑みます。思春期の子どもの心にどれほどの痛みとなることか。同級生だった兄は算数の宿題を吾一にやらせる始末。中学の勉強を垣間見ることができるのは喜びだったかもしれませんが、厳しい奉公で身体はクタクタ。

そんなある日、母が急病になり本屋さんの世話で入院しますが、また父が帰ってきて一騒動。母は河に身投げします。知らせを受けて夜中に実家に戻った吾一は、背中を震わせて泣きます。「身投げした女の子どもを置いておくと聞こえが悪い」という店の主人の判断で、仲介人の手で連れて行かれたのは東京の下宿屋。沢村貞子さんが意地悪な姉を演じ、妹も吾一をこき使います。ここでも「吾一」とは呼ばれません。吾一は自分の名前で読んで欲しいと言いますが「生意気言うんじゃないよ」と却下されます。観客も一緒に吾一少年の胸の内を思いやったことでしょう。小学校の時、鉄道で肝試しをやり危うく死にかけたことがありました。担任は黒板に大きく吾一の名前を書き、「お前の名前は、吾は一人なりと書く。この世にお前は一人しかいない。良い名ではないか。自分を大切に生きていかなかればならない」と諭します。

この下宿にいるポンチ絵描きの黒田は、吾一を可愛がります。ある日「部屋に遊びに来い」と誘われ、2階の部屋に行ってみると、床にたくさんのポンチ絵が広がっています。「おじさんはどうして普通の絵を描かないの?」と聞く吾一に対し、「絵には2種類ある。1つはモノ言わぬ絵、もう1つはモノ言う絵。俺はモノを言う絵を書きたい」と答えます。その広がっている絵の中にダルマの絵があり、「ダルマさん、ダルマさん、足を出して自分の足で歩いてご覧」と書いてありました。それまでじっと苦難に耐えている吾一少年の気持ちで観ていましたので、この絵には突き動かされる衝撃を覚えました。

映画は、下宿屋の姉妹の暴言を耳にしていた吾一少年が、ランプ磨きの手を止め、それを投げ捨てて、『学問のすゝめ』を懐に入れて下宿屋を出るところで終わります。観終わったあと、一人の観客が「もっと可哀想な映画かと思っていたけれど、こんな希望のある映画だとは思わなかった。ほんとうに素晴らしい。こんな映画をもっと子どもたちに見せてあげなきゃ」と大きな声で話しました。それに触発されてか、それまで3つ離れた席で見ていた男性が帰り際に、私に「男子たるもの、こうでなきゃ!!」と話しかけました。「ええ、そうですね」と答えたものの内心では「女だって、こうでなきゃ!!!」と思っていました。映画館を後にする観客の足音がいつもより力強く感じました。皆、「そうだ、そうだ!!」と力を得て床を踏み鳴らしているような・・・。

山本有三さん自身、高等小学校卒業後、父親の命令で東京の浅草に奉公に出され、一度は逃げ出し故郷の栃木に戻ります。上級学校への進学の希望は叶えられず、家業の呉服商を手伝うことになります。後には上京し東京帝大独文学科に入学し、著名な作家になりますが、この映画には自身の生い立ちが反映されていますね。

監督の田坂さんは広島の出身。5歳で母に死別しています。第三高等学校(現京大)進学後、父親の事業の失敗で中退。病弱で兵役免除となったのを機に撮影所に入りました。代表作に「真実一路」「路傍の石」「五人の斥候兵」(1938年、ヴェネツィア国際映画祭イタリア民衆文化大臣賞受賞)「土と兵隊」(1939年、ヴェネツィア国際映画祭日本映画総合賞受賞)などがあります。終戦の年1945年に召集され、8月広島の部隊で原爆に遭い、戦後は長い闘病生活を送られました。

この日の例会で鳥羽作道を歩いていますと、街道沿いに風情ある旧家がたくさん目に止まりました。「虫籠窓」の話をしている時、会員が「『はしごを外す』って言うでしょう。あれは奉公が辛くなった丁稚さんが、夜中に2階から降りて逃げ出して親元に帰らないように、はしごを外しておくことからきたそうよ」と教えてくれました。年季が明ける前に逃げられては元も子もありませんから、雇う方も知恵が働きます。どんなに辛い目にあっても唇をぎゅっと噛み、まっすぐに前を見る吾一少年の澄んだ目に大いに励まされました。映画は少しも古くなく、非正規雇用者が大半を占める今の日本社会と同じような気がしました。

あと半日で新しい年を迎えます。来年こそ希望に満ちた良い年となりますように



第27回例会「鳥羽作道と鳥羽離宮を歩く」(4)

昼食を食べた場所の背後、公園北側に小高い丘がありました。「秋の山」です。東西約40㍍、南北約30㍍、高さ約4㍍。鳥羽離宮の中にあった庭園の築山で、地上に明確に残るほぼ唯一の庭園遺構です。
鳥羽離宮
南殿、付属の仏殿証金剛院、秋の山の東側一体に広大な池があり、舟で行き来できるようになっていたようです。前回載せた「鳥羽離宮南殿跡」の説明文によれば、北殿は名神高速道路京都南インターチェンジにあり、その遺跡は近くの鴨川の氾濫のために壊されていたそうです。付属の仏殿・勝光明院がありました。東殿にも安楽寿院と成菩提院・不動堂、田中殿には金剛心院がありました。末法時代を反映するかのように院御所は寺とセットで増築されていったようです。

国道1号線沿い、城南宮の向かいに有名な「おせき餅」を売る老舗があり、そこで皆土産を買いました。栞に、江戸時代この地に「せき女」という美人娘がいて、茶屋を設け、鳥羽街道を往来する旅人に編笠の形をした餅を売り、茶を供したとあります。昭和7(1932)年に京阪国道敷設とともに現在地に移りました。京都市内への行き来でいつも前を通り過ぎていましたが、初めて買うことができました。美味しかったことは言うまでもありません。

馬場殿は、「城南寺」の祭礼などで競馬や流鏑馬を行うために設けられました。鳥羽離宮の流鏑馬は、院を守る北面の武士ら軍事貴族による儀式。承久の乱(1221年)の時には、鳥羽上皇は鳥羽の流鏑馬を口実に諸国から兵を集めました。城南宮の東西まっすぐに敷かれた参道を歩きながら、この場所を走り抜けたのではないかと話しながら歩きました。城南宮では2005年に流鏑馬を復興し、数年ごとに実施しておられます。白河上皇や鳥羽上皇は熊野詣の時、精進潔斎の場所として城南離宮をしばしば選び、道中安全を祈願しました。方違えの宿所に選ばれることも多くあったようです。
西行寺跡白河天皇成菩提院陵7006
真幡寸(まばたき)神社、浄菩提院塚、田中殿之跡石碑を巡り、西行寺跡へ。鳥羽上皇に仕えた北面の武士、佐藤義清の邸宅跡と伝わります。江戸時代には庵室(西行寺)が建てられ、境内には月見池、剃髪堂があったそうです。右写真は油小路通西側の白河天皇成菩提院陵。約30㍍四方の大きさで、権勢を欲しいままにした白河院の陵にしては小さいように思います。発掘調査の結果、幅8㍍、深さ1・5㍍の堀や石垣が見つかり、元は後に掲載する鳥羽天皇陵、近衛天皇陵と同じ約55㍍四方だったことが明らかになりました。今はありませんが、遺骨や遺体を安置する三重塔も築かれていました。
北向不動院7009北向山不動院7007
北向不動院。鳥羽上皇の発願で興教大師を開山として大治5(1130)年、鳥羽離宮内に建立されました。不動明王(重文・伝教大師作)が王城鎮護を祈願して北向きに安置されています。応仁の兵火などで幾度か災害にあいましたが、現在の本堂は正徳2(1712)年、東山天皇の旧殿が移築されたものです。
北向山不動院の鍾馗北向山不動院の鍾馗さん
北向不動院の境内にあった鍾馗さんツリーにビックリ。
北向山不動院の危うし鍾馗さん北向山不動院鍾馗さん
イナバウアーし過ぎて、落っこちそうな鍾馗さんも。処分し辛くて、ここに納められたのでしょうか?たくさんの鍾馗さん集団に出会えて私のテンション
鳥羽天皇安楽寿院陵7015五輪塔7016
鳥羽天皇が法皇になった時に冠を埋めたという「冠石」を過ぎて、鳥羽天皇安楽寿院陵を見学。鳥羽法皇は、白河法皇に倣って自身の墓所として建立した安楽寿院三重塔に埋葬されました。塔は焼失しましたが、その後法華堂が建立されました。右写真は鎌倉時代「弘安十年丁亥二月」(1278年)の銘がある重文の五輪塔。高さ約3㍍。
白河法皇鳥羽法皇院政之地石碑7017
鳥羽離宮は、白河天皇が譲位した応徳3(1086)年から造営され、白河、鳥羽院政の70年間を通して増築されました。総面積約210㌶。院御所や寺院、広大な庭園が築かれ「都遷りがごとし」と評されました。
三如来石仏7018三如来石仏7019
安楽寿院入り口に祀られていた三如来石仏の内の釈迦三尊、薬師三尊(阿弥陀三尊は京都国立博文館屋外に展示)。江戸時代に成菩提院跡から出土したものです。
安楽寿院7022安楽寿院仏像
安楽寿院の宝物殿。ここに安置されている鳥羽上皇の念持仏と伝わる本尊阿弥陀如来坐像(重文)がこの秋の京都非公開文化財特別公開で公開されました(写真はこの時のチラシ部分)。安楽寿院は鳥羽上皇が鳥羽離宮の東殿に建立し、上皇はこの寺で亡くなりました。寺は平安後期以降衰退しましたが、豊臣秀頼により復興、鳥羽伏見の戦いでは官軍の本営となりました。
安楽寿院庭石7021近衛天皇安楽寿院南陵7024
安楽寿院の庭。発掘調査で出土した庭石が、出土状況に忠実に復元されています。右写真は近衛天皇安楽寿院南陵。近衛天皇陵も遺体を安置する三重塔がありましたが今はなく、豊臣秀頼が慶長年間に再建した美しい多宝塔が聳えています。内部に創建時のものとみられる阿弥陀如来坐像(非公開)が祀られています。江戸時代まで、安楽寿院は鳥羽天皇と近衛天皇の陵墓を管理するため、全国に63箇所の荘園が設定されていたそうです。来春の京都非公開文化財特別公開の時には、もう一度安楽寿院を訪問したいと思っています。

例会訪問地はここで終わり、近鉄竹田駅近くの店でお疲れ会をして解散。11月、12月には古文書勉強会の他に3回の例会を開催し、いつになく慌ただしい会活動でした。来年はもう少し、ゆっくりとした内容で企画したいと思っています。健康で楽しく、仲良く活動できたことを何より嬉しく思っています。













第27回例会「鳥羽作道と鳥羽離宮を歩く」(3)

実相寺から更に南下して浄土宗の誓祐寺へ。謡曲「苅萱」、説経節「かるかや」などで有名な苅萱道心(かるかやどうしん)が、鎌倉時代の建暦年間(1211〜13)に開創したと伝わり、「かやんどう」と呼ばれて親しまれています。
苅萱堂1DSCN6984
門前の「苅萱道心舊(旧)跡」碑。苅萱道心が、高野山へ登る前に暫し足を留めたと伝えます。

筑紫国の領主加藤左衛門繁氏は正妻桂子と愛妾千里との争いに無常を感じて比叡山を経て京都の法然上人のもとで出家、その後高野山で苅萱道心として修行を続けます。出家後に生まれた石童丸は、父が高野山で修行していることを知り、母千里とともに向かいますが、高野山は女人禁制。母は石童丸に父の特徴を話してきかせ麓に残り、幼い石童丸は一人山に登ります。御廟の橋で一人の僧と出会い、父のことを尋ねますが「その人は既に世にいない」と教わります。その僧こそ苅萱道心でしたが、父は修行の身、あえて名乗りませんでした。がっかりして下山して麓におりた石童丸を待っていたのは、長旅の疲れと夫に逢えない悲しみで病死した母。

一人ぼっちになった石童丸は再び高野山に登り、母から聞いた父の特徴に似た以前出会った僧に弟子入りを懇願し、許されます。名乗りを上げないまま2人の修行は続きます。時は流れ、石童丸が成人したのを見届けた苅萱道心は、石童丸に告げることもなく信州善光寺へ向かいます。善光寺如来に導かれた苅萱道心は地蔵菩薩を刻み、この地で生涯修業を続けます。苅萱道心入滅後、善光寺の方角に紫雲がなびいたのを見た石童丸は善光寺へ赴き、同じように地蔵菩薩を刻んだといいます。

昔の人はこの可哀想な話に涙したのでしょうが、価値観が違うのか、石童丸に同情しつつも父親の行動に疑問符だらけ。さて、本堂には苅萱道心の念持仏と伝える阿弥陀像が安置されているそうです。門をくぐった左手に、室町時代の小さな地蔵石仏がお祀りされていました。中世高野山で活躍した萱堂聖(かやどうひじり)の話に感動した人が石童丸を思って刻んだのかもしれないですね。
行住院行住院薬師如来6988行住院石仏6987
浄土宗の城向山行住院。中央の写真は他から移築された薬師堂で、薬師如来坐像を安置。反対側の大日堂は旧宗安寺のものだそうです。2つのお堂の前に石仏がお祀りされていました「彫りが深いので鎌倉時代」と当尾の石仏巡りをした時教わった知識を活かして解説する会員も。当日は、当尾石仏を案内してくれた石造物に詳しい会員が所用で休みだったのが残念。
バス停「奈須野地蔵前」近くの鍾馗さん
浄禅寺近く、バス停「奈須野地蔵前」斜め向かいの家の屋根に3体の鍾馗さんがおられました。
左端鍾馗さん中央鍾馗さん
左端の鍾馗さんと中央の鍾馗さん。右端は木の陰で上手く撮れませんでした。3体もある家は珍しいので有頂天になっている間に、仲間は既に浄禅寺へ。説明を聞き逃し、お寺の写真、「恋塚」の名で知られる五輪塔なども撮りこぼし・・・。
浄禅寺1浄禅寺2
恵光山浄禅寺は、平安時代末期の寿永元(1182)年、文覚上人によって旧西国街道に面して開かれたそうです。京都では、毎年8月22、23日、京への6街道出入り口に祀られた地蔵菩薩を巡拝して、罰障消滅、家内安全、無病息災、家運繁栄を願う「六道巡り」が行われます。1番札所は、奈良街道・六地蔵の大善寺、2番はこの西国街道・上鳥羽の浄禅寺、3番は丹波街道・桂の地蔵寺、4番は周山街道・常盤の源光寺、5番は若狭街道・鞍馬口の上善寺、6番は東海道・四ノ宮の徳林庵。これら6箇所に祀られている地蔵菩薩像は、平安時代の初め小野篁(たかむら)が、一度息絶えて冥土へ行き、生身の地蔵尊を拝して蘇った後、木幡山の桜一木から刻み大善寺に祀ったものと伝えられています。疫病が流行していた平安後期、地蔵信仰に篤い後白河天皇は、保元2(1157)年、平清盛に都の出入り口に祀るよう命じます。大善寺の小野篁が刻んだ地蔵菩薩像はこうして6箇所に分置され「廻り地蔵」と名付けられたそうです。

寺には文覚上人が出家する契機となった悲話があります。摂津国の武士の家に生まれた遠藤盛遠は、幼くして両親を失う。上西門院(鳥羽天皇皇女)に仕える北面の武士になります。同僚・渡辺左衛門尉渡の人妻になっている従姉妹の袈裟御前に横恋慕します。渡と縁を切ることを迫られた袈裟御前は死を覚悟して、盛遠に寝ている内に夫の首をとるよう持ちかけます。闇夜で手筈通り刎ねた首を月光に照らすと、それは渡ではなく袈裟御前の顔でした。盛遠は己の非道を恥じ出家して文覚と名乗り、袈裟御前の菩提を弔うためにこの寺を建立したという内容です。

見逃しましたが後で調べてみますと、境内にある恋塚碑は、江戸時代の正保4(1647)年、淀川右岸の勝竜寺城(長岡京市)主・永井日向守直清の依頼を受けた儒学者・林羅山撰文の袈裟御前の貞女を讃えた碑だということです。その時直清の兄・永井尚政は淀川左岸の淀城主。その筆頭家老を務めた佐川田喜六昌俊の碑文(京田辺市一休寺境内)を林羅山が撰文したのも関わりがあるのかもしれませんね。
         林羅山が書いた佐川田昌俊の碑文
           [参考写真:佐川田喜六昌俊の墓]
さて、もう1つ後で調べてわかったことの一つに大映の映画「地獄門」の素材が遠藤盛遠(長谷川一夫)と袈裟御前(京マチ子)だったことです。菊池寛原作『袈裟の良人』、衣笠貞之助監督の本作品は、昭和28(1953)年公開の大映初のカラー作品です。第27回アカデミー賞で衣装デザイン賞と名誉賞を受賞、第7回カンヌ国際映画祭でもグランプリを受賞しました。
千本通り6995小枝橋
城南宮道と千本通りの交差点。この西に旧小枝橋。明治元(1868)年正月3日夕刻、この付近で起きた戦いが「鳥羽伏見の戦い」の発端となりました。  
    鳥羽・伏見の戦い7000
   鳥羽離宮跡公園で掲示されていた鳥羽伏見の戦い勢力図。

この付近は桂川、西高瀬川、鴨川の三川が近接し、その南で合流する低地であるため、増水することがあり佐比河原とも呼ばれ、早くから庶民の葬送地でした。沿道に卒塔婆が林立する墓地の景色が広がっていたため「千本通」と呼ばれるようになったそうです。
鳥羽離宮跡公園近くの鍾馗さん6996DSCN6998
小枝橋から鳥羽作道を少し南下した民家の鍾馗さん。眼前に鳥羽離宮跡公園が広がっています。子どもたちが寒さに負けず元気にスポーツをしていました。その公園入口に建っていた「史跡鳥羽殿跡」碑。金網越しでちょっと可哀想。  
地図
昼食は鳥羽離宮跡公園で済ませました。この時ばかりは陽も陰り寒かったので、猿団子のようになって食べました。これも良い思い出になるでしょう。
鳥羽離宮南殿跡説明文6999
石碑があった場所は、鳥羽離宮で最初に造営された南殿の跡地。その御所は上掲復元図のように池に臨んで南西から東北へ順次雁行形に配置されていました。寝殿、小寝殿、御堂、金剛院は発掘調査で確認され、大門、中門、中門廊、西対跡は鴨川の堤防下に埋もれているそうです。NHK大河ドラマ「平清盛」で伊東四朗さんが演じた白河上皇がここで院政を敷いたのかと思いながら歩きました。














第27回例会「鳥羽作道と鳥羽離宮を歩く」(2)

史跡西寺跡を見学後、羅城門遺跡へ歩みを進めている時に不思議な雰囲気の女性に声をかけられました。巳年生まれの71歳、京都市右京区の松尾から母上の介護に通っておられるのだそうです。手提げ袋からたくさんのキャンディーを取り出し、次々会員の手のひらに載せてプレゼントしてくださいました。毎日7袋のキャンディーを持ち歩き、出会った人々に差し上げているのだとか。「羅城門遺址」碑がある児童公園まで一緒に歩いていくと、どこからともなく鳩の群れがやって来ました。「『スーちゃん』が来た!!」と言って手提げ袋から今度はパンくずを取り出してバラマキ。どうやら彼女のパンくずを入れたレジ袋の音に反応してやってきた模様です。毎日1時間かけて食パン1袋を刻んで、鳩やスズメに与えているのだそうです。年に一度のサンタクロースではなく、年中街角のサンタさんとなってプレゼントしているパワフルな彼女の姿は、強烈な印象としてこれからも心に残ることだろうと思います。
羅生門遺跡6959DSCN6960
明治28(1895)年に建立された「羅城門遺址」碑です。羅城門は、平安京の朱雀大路南端に都の表玄関として建てられ、この大門を境に京の内外を分けました。柱間寸法を5.1㍍とすると、東西35.7㍍、南北10.2㍍、高さ21㍍と推定される大きな重層門でした。弘仁7(816)年に大風で倒壊、その後再建されましたが、天元3(980)年の暴風雨で再び倒壊後は再建されることがありませんでした。案内板によれば、11世紀前半に藤原道長が法成寺造営のため、門の礎石を持ち帰ったとの記述が『小右記』にあるそうで、そのころ既に礎石や基壇が残るばかりの眺めだったのかもしれません。

右京の衰えとともに、遂に再建されるともなく朽ち果てていった羅城門周辺は治安が悪化し、夜ともなれば誰も近づかず、しまいには身寄りのない死者を門の上階に捨てていく者もあったようです(『今昔物語集』)。謡曲「羅生門」は、「羅生門に夜な夜な鬼が出て人をとる」という噂を聞いた渡辺綱が、鬼退治に行き、鬼神の腕を斬り落とし退治して武名を上げたという話。

私が「羅城門」と聞いて、直ぐに思い浮かぶのは芥川龍之介の小説「羅生門」と映画「羅生門」。両者は「らしょうもん」と発音し、漢字も「城」→「「生」と異なります。謡曲「羅生門」以降この表記が定着したようですが、現在は「羅城門」(らじょうもん)に統一されています。映画「羅生門」は芥川の「羅生門」と「藪の中」を題材にした作品で、昭和26(1951)年のヴェネツィア国際映画祭でグランプリを受賞。日本映画、黒澤明監督が世界に知られる契機になりました。キャメラマンは連れ合いの恩師、宮川一夫先生。出演は三船敏郎、森雅之、京マチ子、志村喬ほか。
矢取地蔵6965DSCN6968
「矢取地蔵寺」には「矢負地蔵由来記」があり、保存会による縁起が掲示してありました。平安時代初期の天長元年に日照りが続き、国土は大干ばつ。淳和天皇は西寺の守敏と東寺の空海に雨乞いの勅命を下しました。神泉苑で「雨乞い合戦」の結果、空海の術が勝ち、三日三晩雨が降り国土を潤しました。負けた守敏は空海を嫉み、空海めがけて矢を放ったところ、黒衣の僧が身代わりとなってその矢を受け、空海は難を逃れました。黒衣の僧は実はお地蔵様で、安置されている地蔵尊の背中にはその時の傷があるそうです。このお堂は明治18(1885)年に唐橋村(八条村)の人々の寄進によって建てられました。地域の人々の篤い信仰心が伝わってきます。

右写真は鳥羽作道沿いに建つ「京都羅城門郵便局」。歴史を今に伝える名称です。その住居表示に「千本通九条下る」とあります。京都地名研究会会報「都藝泥布」(つぎねふ)」第40、41号に糸井通浩・同会副会長(京都教育大と龍谷大名誉教授)が「地所表記のカタカナ〜『上ル』か『上る』か問題をめぐって」を書いておられたのを思い出しました。

通り名に「上・下ル」の使用は室町末期から痕跡があり、江戸の地誌類を通して送り仮名はカタカナだったこと、明治22(1889)年京都市成立にあたって条例でカタカナと定められていること、現在通用の「送り仮名」の付け方の原則では、「上る」は「のぼる」と読まれ、「あがる」と読ませるなら「上がる」と送らなければならない・・・など6つの理由を述べてカタカナ表記のほうが良いと述べておられます。京都に上京して以来、ずっと「上・下ル」の表記に馴染んできた私としては糸井先生のご意見に一票投じたいと思います。
常夜塔6969北向地蔵尊6970
吉祥院天満宮への道標も兼ねた常夜塔が十条通交差点にあります。延暦23(804)年、菅原道真の祖父清公(きよきみ)が遣唐使として唐へ向かう途中、海上で霊魂を得たという吉祥天女を、帰国後にこの地に祀ったのが始まりといわれています。この地は、道真の曽祖父・土師古人が、桓武天皇から賜った白井庄(現・吉祥院)の中央部にあたり、ここにあった本宅で道真が誕生したと伝えています。道真死去後の承平4(934)年、朱雀天皇勅命により最初の天満宮として道真誕生地に創建され、天神信仰・御霊信仰で栄えたそうです。

今回は時間の関係もあり、吉祥天満宮へ立ち寄らず、道路を渡った先にあったのが「北向地蔵」。「御所にお尻を見せて拝むのね」と言った会員もいましたが、御所の方を向いてお守りしているお地蔵様といえるのかもしれません。ネットで調べてみると、あまたある地蔵菩薩像の中でも「北向地蔵」は全国に400体ほどしかなく珍しい。
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鳥羽作道の西を流れる西高瀬川が、左写真道路の突き当りに流れています。江戸時代初期、豪商角倉了以と息子素庵によって大堰川が開削され、丹波地方と京都の水運が開かれました。文久3(1863)年に渡月橋上流の嵯峨から千本三条まで更に開削され、丹波地方の木材等を京都中心部まで運ぶ運河ができました。その後も、明治3(1870)年に京都府が引き継ぐ形で、伏見の下鳥羽まで千本通り沿いに開かれ、鴨川に注がれる人工の河川です。

鳥羽作道周辺には趣きのある旧家が並んでいます。それらの家は石を用いて基礎を高くして建ててあります。このあたりはもともと低湿地であり、浸水を防ぐための工夫です。後に訪問した実相寺のお坊さんの話では、今も避難用の舟を保管している旧家もあるそうです。
DSCN6972鳥羽作道の鍾馗さん6974
鳥羽作道沿いに鍾馗さんを見っけ!この日は、それ迄にも鍾馗さんを何体か目にしましたが、風情あるこの道沿いに鍾馗さんはとってもお似合い 会員の方が興味を持って先に見つけてくれました。
鳥羽作道2体の鍾馗さん6978鳥羽作道の鍾馗さん6976鳥羽作道の鍾馗さん6977
2体の鍾馗さんがある家。右の鍾馗さんも良いのですが、左の邪鬼を踏みつける鍾馗さんが頼もしくて格好いい来年こそ邪鬼(天変地異も含め)を退治して、平穏無事な年となりますように
実相寺車石実相寺 車道1
鳥羽大黒天がある実行寺を経由して実相寺へ。日蓮宗正覚山実相寺は、日像上人の弟子・大覚僧正妙実上人が南朝正平7年、北朝文和元(1352)年に開創した日蓮宗妙覚寺の隠居寺。寺伝によれば、この年の夏は大干ばつだったため勅命を受けた上人が、桂川鍋ケ淵で請雨祈願をしたところ願いが叶えられたといいます。後村上天皇、後光厳院それぞれから三菩薩号と大僧正を賜り、そのことがあって創建されたのだそうです。近世初頭まで、妙覚寺筆頭末寺でしたが、慶長元(1596)年太閤秀吉の千僧供養に際し、日蓮の思想の一つ「不受不施」を通したことで弾圧を受け、打ち壊しの目にも遭ったそうです。「不受不施」は法華信者以外の布施を受けないこと、供養を施さないこと。後に妙覚寺が受布施派に転向したことで約50年ぶりに回復し、現在の住職は59代目だそうです。

左写真は先ごろ報道された車石とそれを用いて配した車道。会員には車石に関心を寄せ、熱心にあちこち出かけている人が複数おられます。それで皆夢中になって、肝心のお寺の写真を撮るのを忘れました。上鳥羽在住の入江さんが寄贈された車石を、車石研究会が敷設したものです。牛車の車輪がぬかるみに取られて運行し辛かったため、江戸時代後期、車道の車輪の通る所2列に規格化された厚板石を敷き並べ通りやすくしたものです。下鳥羽辺りから羅城門付近まで敷設されていたそうです。もっと古くから敷設されていたのかと思っていましたが、案外歴史は浅いのですね。
松永貞徳の墓6981松永昌三の墓6982
境内墓地に和歌・俳諧で有名な松永貞徳の墓がありました。右隣りに息子・昌三(尺五堂)、左隣に貞如と書かれた墓があり、これが安永9(1780)年刊の『都名所図会』に描かれている「貞徳翁塚」。その前に描かれている「芦丸屋」は今はありません。

お坊さんの話では、松永貞徳の兄が実相寺の住持だったことが縁で貞徳の墓がここにあるのだそうです。「貞門派」と呼ばれた松永貞徳の門下に北村季吟、そして松尾芭蕉が続きます。それを慕うように境内には俳諧、哲学関係者の墓が多いそうです。松永貞徳が作庭家であったことも話を聞いて初めて知りました。「雪月花の庭」と呼ばれ、清水寺「月の庭」、北野天満宮「花の庭」、妙満寺「雪の庭」と、それぞれの塔頭「成就院」に作庭したそうです。北野天満宮の「花の庭」は現存しませんが、あとの2庭は今も残っているようです。機会があれば拝見したいものです。











第27回例会「鳥羽作道と鳥羽離宮を歩く」(1)

12月23日、予定通り例会「鳥羽作道と鳥羽離宮を歩く」を実施しました。会員に「晴れ男」を自認する人がいて(実は私も「晴れ女」のつもり)、寒波襲来の予想に反して、まずまずの天候に恵まれました。NHK大河ドラマ「平清盛」をやっている間に、縁の地を歩きたいと今年春から願っていた夢をどうにか叶えることができました。当日は「平清盛」の最終回。放送開始直後から、井戸敏三・兵庫県知事の「薄汚れた画面」というクレームの影響もあってか、関西での平均視聴率は11・6%(関東では12.0%)と終始低視聴率で終えたようです。登場人物が多く、馴染みが薄いこともあってわかりにくかったように思います。それでも、宇治田原町縁の信西、京田辺市縁の近衛基通、木津川市縁の平重衡などが出てきて、それなりに楽しめました(忙しくて連続ドラマを見ることができにくいので、それほどの回数は見ていませんが・・・)。

さて、今回の案内役は、会員の中でもとりわけ勉強熱心で信頼を寄せているS氏。一生懸命下調べをして詳しい資料を作成していただきました。今回は、その資料などをもとに、訪問地を思い出しながら書いてみたいと思います。出発早々カメラの具合が悪くなるハプニングに見舞われショックを受けましたが、辛うじて写っている中から切り取った写真を添えます。

午前9時、近鉄東寺駅に集合し、最初の訪問地東寺へ。趣味のひとつに骨董があり、「がらくた市」など年に何回も訪れている場所なのですが、東寺について知らないことがたくさんあることにびっくり。南大門ひとつとっても、東寺創建1100年の明治28(1895)年に、東山の三十三間堂西門を移築されたものだと今頃知りました。仁王像がないことについては、2010年11月3日、例会で奈良市の円成寺を訪問した折に配布した資料で書きました。

・・・東寺の記録『東宝記』によれば、12世紀末に再興造仏がなされ、運慶と湛慶ら子どもが造りましたが、文明18(1486)年に焼損。17世紀初めに大修理がなされ、明治初年頃まで存在していた可能性が高い。江戸時代に書かれた名所案内記類には、仁王像が頻繁に記され有名だった・・・

仁王像がなくなったのは、明治元(1868)年の廃仏毀釈の際、南大門が焼け落ちたためだったのですね。同じように廃仏毀釈の影響で、上京区の北野天満宮から移されたという素敵な「尊勝陀羅尼」碑には目が釘付けになりました。頭の中には、1月19日に体験する「拓本」の文字がグルグル。実現は無理でしょうが、一瞬で夢見てしまいました。
東寺金堂6928尊勝陀羅尼碑6931
左写真は東寺(教王護国寺)の金堂(国宝)。延暦15(796)年創建、文明18年焼失、慶長8(1603)年豊臣秀頼の発願で再興されました。宋の時代の建築様式を取り入れた桃山時代の代表的建築物。南大門、金堂、講堂、食堂が南北一列に並び、南東に五重塔、南西に潅頂院が位置し、桓武天皇が平安京遷都に際し、国家鎮護のために西寺とともに創建した当時のままの伽藍配置を今に伝えています。

右写真は仏頂尊勝陀羅尼の碑です。嘉永6(1853)年、比叡山の僧・願海によって北野天満宮の宗像社のそばに建てられましたが、明治元(1868)年の神仏分離令によってここに移されました。京田辺市の一休寺境内にある佐川田喜六昌俊の墓碑(碑文は林羅山)を見学した折に教わった亀趺(きふ。贔屓〈ひいき〉と呼ばれる龍の九子の中で龍になれなかった一子で、巨大な亀に似た想像上の霊獣の形に刻んだ台石)の圧倒的な迫力と、石碑北面上部に刻まれた放射線状に配置された梵字に興味津々。
DSCN6933尊勝陀羅尼碑6932
贔屓は中国貴族階級の風習が江戸時代に入ってきたもので、甲羅に建つ石塔は永遠不滅と信仰されているそうです。案内板に「贔屓を擦ってから自分の悪いところを擦ると傷病が治ると信仰を集めている」とありましたので、それぞれ贔屓の周りを回って念入りに擦ってご利益を祈願しました。梵字で刻まれた「仏頂尊勝陀羅尼」は厄災を除く呪文で、インドから中国を経て日本に伝わりました。願海は陀羅尼の普及のために石碑に刻むことを発願したのだそうです。漢文の上に雲龍図が描かれています。
DSCN6936大師堂6938
隣に建つ宝篋印塔も立派でした。右写真は西院御影堂(大師堂。国宝)。東寺は弘法大師に下賜されて真言密教の道場となり、寺院として更に発展しました。御影堂は弘法大師の住房で、康暦元(1379)年に焼失し、翌年再建されました。安置されている不動明王坐像(国宝)は、大師の念持仏で日本最古の不動明王像といわれ、秘仏中の秘仏。かつてこの仏像を修理したところ、時の長者・寛信が数日後に亡くなったことに由来するようです。堂内の「大師像」も国宝。
「御土居」6940旧千本通6941新千本通6942
東寺の西側から出て、八条中学校の方角へ進みます。かつて御土居があったことを示すバス停「御土居」の前を過ぎ、旧千本通から南を見ます(写真中央)。京都で最も古い道の一つ「鳥羽作道」(旧千本通)は羅城門からまっすぐ南に通じ、淀川を経て船で運ばれてくる平安京造営の資材を、この後紹介する現在の淀小橋あたりで陸揚げして都に運ぶために、人の手で細長く土盛して作られたと言われています。思ったより狭いですね。昭和8(1933)年に京阪国道が開通するまで、大阪への主要街道として賑わい、朝鮮通信使や大名行列、幕末の新撰組隊士なども歩いた道です。右写真は新千本通です。
鎌達稲荷神社6943浄蔵貴所の塚6946
左は鎌達(けんたつ)稲荷神社(南区唐橋西寺町)で、西寺跡にあります。掲示されていた由緒記によれば、伏見稲荷大社よりも古く、元稲荷とも伝えているとか。平安朝以後、陰陽師で知られた安倍晴明の子孫・土御門家の祭祀で、主神は倉稲魂大神と猿田彦大神だそうです。右写真は境内にあった「浄蔵貴所之塚」碑。浄蔵貴所は平安時代中期の法力の僧で、「一条戻り橋」の由来に語られるスーパーマンのような人物。それは堀川一条にかかる橋を、父親の棺が渡ろうとした時、浄蔵が法力で蘇生させた逸話です。他にも傾いた八坂の塔を法力によって真っ直ぐに戻したという逸話もあります。祇園祭の山伏山のご神体は、修験者として大峰山に入山する浄蔵を表しています。その左右に宇賀神、黒主大明神、阪杦大明神などの石碑がありました。

平安時代の貴族は、災厄は神や死霊がもたらす祟だと考えて恐れました。そのため官職の陰陽師や神祇官の呪術が必要とされましたが、武士の世になった後も、安倍晴明らの子孫は、天文、暦の博士として時に政策決定にも関わり重用されました。
史跡西寺阯6950マンホール6955
先ほどの東寺と対をなした西寺阯の石碑。2つの官大寺は羅城門を挟んで東西に建立されました。823年東寺は空海に、西寺は守敏に下賜されました。鎮護国家の官寺となった西寺は、その後度重なる火災で地上から姿を消しました。きれいに整備された公園中央に講堂跡が土壇として残り、大きな礎石(下の写真)が往時を偲ぶ縁として付近にありました。右写真はマンホールの蓋。
西寺礎石6951西寺礎石6953
(いずれも写真の上でクリックすれば拡大表示されます)











おぞぅ〜なった

上手く文字表現ができませんが、母がよく口癖にしていた言葉のひとつが「おぞぅ〜なった」。「体がおぞぅ〜なった」は、体のあちこちに具合の悪いところが出て、健康に自信が持てなくなった時に言っていました。「だちゃかんようになった」も同じニュアンスで使っていました。発音に「〜」を入れたのは、富山弁が語尾を延ばし抑揚を付けて発音するからです。かつて良い状態だったものが下降していく場合に使う方言と言えるのかもしれません。

「おぞい服」「おぞい方の雑巾」等とも言います。てっきり富山の方言だと思っていましたが、今ネットで調べてみましたら、「おぞい」の言葉はかなり広範囲で用いられていることがわかり、ビックリしました。「だちゃかん」も名古屋など他の地域でも使われているようです。

なぜ、急にそんな言葉を思い出したのかというと、12月19日読売新聞の記事がショックだったからです。見出しは「神木 謎の立ち枯れ」。2005年以降、少なくとも愛媛、徳島、高知、和歌山の神社7ヵ所で、合計20本のご神木が枯れ、その内6本から根本に人為的な穴が確認され、3本から除草剤が検出されたというのです。愛媛県東温市の惣河内(そうこうち)神社では、推定樹齢約600年のヒノキ2本から、除草剤「グリホサート」が検出されたそうです。直径1.1〜1.4㍍、高さ35〜37㍍もある大木で、地元の人は「実にさびしい」と肩を落としておられます。世界遺産に登録されている和歌山県の丹生都比売(にうつひめ)神社も2006年6月にご神木の杉が枯れ、根本に開けられた4つの穴から除草剤「テニルクロール」が検出されたそうです。

歴史探訪と銘打って、あちこち出かけるのを楽しみにしている私にとって、空に聳える巨木を見るのは大いなる楽しみの一つ。八百万の神をいただく国柄が遺伝子に組み込まれているのか、大きな石、大きな木を見ているだけで、あるいは手に触れるだけで言い知れぬ安心感に包まれます。自然と手を合わせたくもなります。

人々の心の拠り所になっている大切な木に、ドリルで穴を開け枯らしてしまう神経が理解できません。報道によれば、被害にあったほとんどの神社で共通するのは、枯れた直後に木材販売業者が売買を持ちかけてきたことだそうです。手口から木材に詳しい者の犯行と見られ、警察が捜査しています。1日も早く捕らえて、他に被害が起こらないようにしてもらいたいです。

それにしても罰当たりな輩がいたもので、腹ただしい限りです。母がいたら「人様の心がおぞぅ〜なった」と嘆き悲しんだでしょう。
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富山から、大好物の「かぶら寿司」が届きました。江戸時代から伝わる北陸地方の郷土食。お正月の食卓に欠かせない食べ物です。カブに切れ目を入れて塩漬けし、サバやブリの切り身を挟み、麹で数日発酵させて作ります。母が存命だった頃、帰省するたびに手作りの「かぶら寿司」を食べるのが楽しみでした。今は姉が送ってくれます。ありがたいことです。

「いつか来た道」にならないために

たまっていたスクラップを整理していて、その中の1枚に目がとまりました。毎日新聞12月11日夕刊特集ワイド「『右傾化ニッポン』なぜ」。アメリカのワシントンポストやイギリスのエコノミストなど海外の一部メディアに「右傾化」と指摘されるような状況をどう見たらいいのか、識者と考える企画でした。この段階では自民党の圧勝はまだわかっていなかったのですが、連日の報道はそれを予感させるものばかりでした。「憲法を改正して、自衛隊を国防軍とする」と主張していた安倍晋三・自民党総裁の新政権発足を間近に控え、勇ましい発言を繰り返して当選した政治家の先生方に、「いつか来た道」を歩まないように冷静な外交努力をして頂きたいと心から願っております。

記事の中で特に印象に残ったのは、坂野(ばんの)潤治・東京大学名誉教授の指摘です。先生は、今の状勢が昭和12(1937)年4月の第20回衆院選に類似していると指摘。戦前最後の正常な総選挙とされているものです。議会第1、2党は民政党と政友会で、「第三極」の一角だった社会大衆党が躍進しました。そのスローガン「広義国防」は、国民生活の改善を柱に国防政策では陸軍支持を意味するものでした。支持した有権者の多くには、生活水準の底上げとともに戦争回避への期待があり、社会大衆党がそうした声に応じて軌道修正をする前、選挙からわずか2カ月余りで盧溝橋事件が起きました。そこから日中全面戦争、太平洋戦争へと泥沼化し、多くの尊い命が失われました。

広島、長崎の被爆、福島第一原発の事故を体験した国であるにもかかわらず、「核を持っていないと発言権が圧倒的にない」(11月20日)、「日本は核兵器に関するシュミレーションぐらいやったらいい」(11月21日)と発言した石原慎太郎・日本維新の会代表が、当選して満面の笑みを浮かべる様子と、厳しい表情で会見した橋本徹・同会代表代行。もともと橋本さんは既得権益打破、政治行政改革を訴え、原発についても厳しい姿勢だったのに・・・。橋本さんの支持層が、旧・太陽との合流で、石原代表ら対外強硬勢力に糾合されていく構図が、社会大衆党によく似ていると坂野先生。

「盧溝橋事件当時だって、日本陸軍内に日中戦争を回避したい勢力があったが、開戦に至ってしまった。同様に、今偶発的事態が尖閣で起きた場合、中国側がみな理性的に対処するとは限らない。『現代は国際社会が日中の武力衝突を許さない』というのは楽観論だ」、「中国に拮抗する力を整えるには少なくとも20年かかるでしょう。安倍自民党総裁は、憲法改正、国防軍設置と言いますが、中国がそれを黙ってみているという保証がありますか」と警告しておられます。

NHKの「さかのぼり日本史」の視点が面白いです。結果があって、何故そうなったのか歴史を遡って順に見ていく構成です。遙か昔、私が学校で日本史を習った時は縄文時代から始まり、3学期は近・現代史を充分に学ぶ間もなく終わったように思います。今の学校教育はどのようなやり方かわかりませんが、できるだけ客観的で史実に基づく「さかのぼり日本史」的授業なら、日本だけでなく近隣諸国についての理解も深まるのではないかと思います。

「右傾化」とは、保守化をとおりすぎて、国粋主義的な対外強硬論に傾くことを指すことが多いそうです(同記事)。選挙があった日に乗ったタクシーの年配の運転手さんは「どこに入れても変わらないから棄権した」と話されましたが、「気がついたら軍靴が響いていた」とならないように、様々な歴史から学び、しっかり見続けることが大切だと改めて思いました。
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今日は冬至。近所の人から柚子を戴きました。

第27回例会「鳥羽作道と鳥羽離宮を歩く」とプチ拓本体験

昨日の衆議院議員選挙では、自民党が圧勝という結果になりました。自民党への支持が増えたということではなく、民主党への失望感から消去法でそうなったという感じがします。田中王国と言われた新潟の選挙区で田中真紀子文部科学大臣が落選。親子で65年間守りぬいた議席を失いました。奇しくも審判が下された日は父・田中角栄氏の命日だったそうです。

連れ合いが今秋、東京の文科省で社会教育功労者表彰を受けた際、「文部科学大臣田中真紀子」と書かれた賞状を頂きました。10月1日に大臣に就任されてまだ間もないうちでの政権交代ですから、ある意味貴重な賞状になりました。日本は大変な状況にありますから、選挙で当選した議員の方々にはしっかりと有言実行していただきたいものです。

さて、表題の通り12月23日に「鳥羽作道と鳥羽離宮を歩く」を実施します。寒い時期でもありますので無理をせず、午前7時の時点で雨の場合は中止とします。

時 間:午前9時、近鉄東寺駅集合〜午後3時ごろ、近鉄竹田駅到着。
コース:東寺ー鎌達稲荷神社ー史跡・西寺跡ー羅生門遺跡ー矢取地蔵ー常夜燈ー実行寺ー実相寺ー誓
    祐寺(刈萱堂)ー行住院ー浄禅寺ー小枝橋(鳥羽伏見戦跡碑)ー鳥羽離宮跡公園(昼食)ー
    鳥羽離宮史跡巡り(城南宮など14ヵ所)ー近鉄竹田駅。
持ち物:弁当、飲み物、敷物、雨具など。

もう1つ催しのご案内。1月19日(土)にプチ拓本体験会をします。11月に「当尾の石造物巡り」をした時に、拓本体験会のことを提案しましたら、案内をしてくださった会員が快く講師を引き受けて下さいました。当日は午前10時〜11時、従来通り古文書勉強会をします。それに引き続いて、午後1時半まで拓本ごっこ。最初にタンポを手作りし、瓦を用いて一人ずつやってみることに。参加費200円です。この体験をもとに、もっとやってみたい人は後日道具を揃えて実際にアウトドアで・・・という流れにしました。

昨日聴講した陽明文庫講座「今にいきづく宮廷文化」は文科省の科研費(研究代表者は田島公・東京大学史料編纂所教授)で催されたもの。その第1回目「陽明文庫の漢籍について」で、講師の芳村弘道・立命館大学文学部教授は、最初に本家中国の、その影響を受けた日本の版本歴史について話されました。「マニアックな拓本」と受け止めた当会会員もおられましたが、講演を聞きながら、「拓本の体験は意義あることだなぁ」と思いました。近衛家凞公がコレクションされたたくさんの漢籍の中には、明代の安徽省の製墨匠・方于魯(1541〜1608年)が出版した墨型の図案集「方氏墨譜」(385図収録)もあるそうです。11月11日に偶然見学した奈良の墨運堂「墨の資料館」で見せてもらった貴重な墨の数々を思い出し、「墨を愛した文化の一端に触れてみるのもいいかなぁ」と思っています。

小惑星「Atsuhirotaisei」

今夜の空は、星が瞬いてとってもきれい。ふたご座流星群が、真夜中過ぎから明け方にかけてたくさん見られるそうです。1月のしぶんぎ座流星群、8月のペルセウス座流星群と並ぶ三大流星群の一つで、流星の数が多いので、運が良ければ私も見られるかも。

昨年の12月10日夜は、皆既月食の観察に夢中でしたが、その夜兵庫県加西市上野町で同じように冬空を見上げて皆既月食を観察していた小学6年と2年の幼い兄弟、敦弘君と汰成君が、居眠り運転の軽トラックにはねられて亡くなるという痛ましい事故が起きました。その時の悲しい思いを12月13日付で書きました。

あれから1年経った10日付朝日新聞夕刊で、兄弟の名前が小惑星に付けられたことを知りました。「18403」の番号を持つ小惑星が、今年8月に「Atsuhirotaisei」と名付けられました。事故を知った地元の天文学者らの尽力で、米国の国際天文学連合小惑星センターが命名しました。直径7.9㌔、1558日かけて太陽を一周するという「Atsuhirotaisei」は、明るさの最大が17.3等級で肉眼では見えないそうですが、心眼では、今夜のような月明かりがない澄み切った空なら見えるかも知れませんね。

天文好きだった兄弟のお母様の悲しみが、少しでも癒えるよう願っています。
さぁ、もう一度冬空を見上げてきます。願い事は・・・皆の平穏無事。

泥棒よけ札

きょうは12月12日。例年ならこの日は「討ち入り」の2日前としか思わない普通の日なのですが、11月28日付朝日新聞に載った投稿文を読んだ時から、この日のことが気になっていました。見出しは「京都の泥棒よけ札 こう作る」。

京都市下京区に住む投稿主宅玄関に「十二月十二日」と書いた札が逆さまに張ってあり、通りがかりの人からそのいわれを尋ねられたのだそうです。そのいわれとは「12月12日が大泥棒の石川五右衛門が釜ゆでにされた日で、京都ではその日付を記して逆さまにした札は『泥棒よけ』とされる」。「京都では」と書いてありましたので、市内で生まれ育った連れ合いに聞いてみましたが「知らない」といいます。他の人にも聞いてみようと思いながら、忙しくて実行できないまま今日の日を迎えてしまいました。

ネットで調べてみますと、この風習が「京都では」だけでなく、大阪、奈良と広範囲に見られることがわかりました。それも、大阪市松原市では「十二月二十五日」、大阪南部では「十二月二十三日」のように日付がまちまちです。でも、共通しているのは、家の出入り口に逆さまに張ること。これは、天井から盗みに入った泥棒が見やすいようにという配慮。泥棒の大先輩の顛末を教訓に、盗みを思い止まるようにとのおまじない。

石川五右衛門は、京都南禅寺山門の上で「絶景かな、絶景かな、春の眺めは値千両」と見栄を切った歌舞伎で有名で、義賊として描かれて民衆の喝采を浴びました。公家の山科言経の日記『言経卿記』に、文禄3(1594)年8月24日(10月8日)の記述として「盗人、スリ十人、又一人は釜にて煎られる。同類十九人は磔。三条橋間の川原にて成敗なり」とあり、イエズス会宣教師の日記にも、似たような記事があることから実在の人物のようです。

大阪府文化財愛護推進委員加藤さんがお書きになった「まつばらの民話」を読むと、石川五右衛門が釜ゆでにされたのは「堺の浜」となっています。ベースになった話があって、それが周辺へ伝播し、ご当地話に変化していったものでしょう。興味深いです。松原市のお年寄りからの聞き取りでは、「寒い寒い夜中に墨をすり、一寸幅の三寸ほどの長さに半紙を切って、その上にかきますのや。そいでな納屋や玄関など入り口ならどこでも、決まりはあらしませぇん。さかとんぼ(逆)にして糊ではりつけますのや」と書いておられます。

先の朝日新聞の投書では「数え年12歳の子が左手で書かねば効果がない」「左手で書かなくても良い。12歳の子に12月12日(になったばかりの)12時に書かさなあかん」「12月12日生まれの子が12歳のときに書かさなあかん」などとお年寄りから教わったとあります。姑が存命の頃「京都では・・・、京都では・・・」とよく注意されていたことを思い出し、「如何にも京都らしいなぁ」と首をすくめました。ちなみに「12月12日生まれの女性に書いてもらうと効果がある」と書いてあるのも見つけました。

このこだわりいっぱいの「泥棒よけ札」は有効期限があるのかしら?毎年更新なら、その条件に合う人物を捜すのも大変ですし、頼まれる方も大変。投書主さん方は、甥御さん(12月12日生まれではない)が12歳の時に左手で書いてもらった札を今も張って、効果を発揮しているそうです。

ひょっとしたら、きょうの午前0時にも、どこかのお宅で眠いのを堪えて筆をとった子どもたちがいたのかもしれません。これからは屋根の上の「鍾馗さん」だけではなく、玄関先の「十二月十二日」の逆さ札を見つけるのも楽しみに加えようと思います。
新鍾馗さん9749
9月4日にオープンした美術家岡本光博さんのギャラリー「KUNST ARZT(クンスト アルツト=独語で芸術の医者)」の鍾馗さん。薬のカプセルを持って任務遂行中。鍾馗さんがいるので泥棒も近づけないでしょう。

再び冒頭に戻って、きょうは2012年12月12日。西暦の年月日が同じ数になる日はもう22世紀までありません。母が亡くなったのは、2010(平成22)年10月10日午前3時33分、88歳でした。数字が大の苦手な私でも覚えやすい並び数字尽くしの偶然です。そんなこともあって、今夜のブログは午後11時11分に書き始めました。

南河内の叡福寺と観心寺参詣

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12月2日に訪れた大阪府南河内郡太子町太子2146の磯長山(しながさん)叡福寺。聖徳太子御廟所として信仰されています。昭和33(1958)年に建て直された朱色の南大門左右に安置された金剛力士像は素朴な印象。その間から覗いた一番奥に聖徳太子の御廟があります。
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宝塔(重文)。あいにくの曇り空の午後なので、写真が不鮮明なのですが、とても美しい造形です。承応元(1652)年、江戸の三谷三九郎の再建だそうです。本尊は東面に釈迦、文殊、普賢の三尊像、西面に金剛界の大日如来を安置。4本の柱に四天王の像が描かれています。右写真は金堂(大阪府指定文化財)。本尊は高さ90㌢の如意輪観音坐像で、平安時代より聖徳太子の本地が観世音菩薩だとする信仰に基づくのだそうです。脇侍は不動明王と愛染明王です。
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菊の御紋がある御廟。聖徳太子生母の穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后、聖徳太子、同妃の膳部大郎女の3人が一所に葬られているとされ、三骨一廟と呼ばれているそうです。
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こんもりした御廟の周辺にはたくさんの墓石、石仏、宝篋印塔などがありました。木津川市加茂町当尾の石仏巡りで石造物の見方を習ったばかりですので、ほんの少しでもその応用をと思うのですが難しいです。
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桃山時代末期の建築様式の聖霊殿(しょうりょういん。重文)。聖徳太子16歳植髪等身像と南無仏太子2歳像が祀られています。16歳像は文治3(1187)年、後鳥羽天皇から下賜されたものだそうです。
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左写真は金堂の鬼瓦。時間がなくて、ゆっくり見学できなかったのですが、客殿庭園内に、源頼朝供養塔と伝えられる巨大な石造五輪塔(大阪府指定有形文化財)もあるようです。戴いた栞に「寺伝によると推古天皇30(622)年聖徳太子の陵墓を守護し永く追福を営むために一堂を構えたのが当寺のはじまりで、神亀元年(724)聖武天皇の勅願によって伽藍を造営されたといわれ、もとは法隆寺のように東西両院からなり、東の伽藍を転法輪寺、西の伽藍を叡福寺と称したと伝えられている」と書いてあります。

2007年10月27日「木津川市ふれあい文化講座」で、馬部隆弘さんは「偽文書からみる畿内国境地域史ー椿井文書の分析を通して」と題して講演されました。その時配布された資料の中に「叡福寺縁起と境内古絵図」(太子町立竹内街道歴史資料館、平成12年度企画展図録)もありました。この古絵図には、右下に建久4(1193)年9月に最初に書かれ、椿井政隆常套の模写に模写を繰り返したと、その由来を書いています(末尾に「雍州南縣椿井廣雄重再寫之」)。

木津川市から太子町まで結構離れていて遠く感じたのですが、、手腕を頼って依頼されたのか、自らのセールスかわかりませんが、現・木津川市山城町に住んでいた椿井政隆の行動範囲の広さには驚きます。
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続いて、大阪府河内長野市寺元475の高野山真言宗遺跡本山観心寺へ行きました。山門左手の敷地に立派な楠木正成像があります。その近くにこれまた立派な石碑が建っています。藤田精一博士を讃える碑で、新田義美男爵の篆額、三宅俊雄陸軍中将の撰文と書です。拝観受付の人も観光案内の人達も、どなたに聞いても藤田精一さんのことをご存知ではありませんでした。

藤田精一さんは、現・京田辺市興戸出身で、東京帝大卒業後、広島や大阪で学校教育に従事する傍ら、後醍醐天皇に忠義を尽くした『太平記』が描く楠正成を顕栄することに尽力し、大正4(1915)年『楠氏研究』を発行しています。忠君愛国の「楠公精神を門下に鼓舞し」たことが評価されての碑建立です。『楠氏研究』は、椿井政隆が創作した『南山雲錦拾要』も引用して、元弘の乱の時、南山城地方の人々が後醍醐天皇方に馳せ参じて忠義を尽くしたことにも触れています。この『南山雲錦拾要』は幕末維新期の士族編入運動に大いに活用されました。
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なだらかな参道をのぼって観心寺の山門をくぐります。ライトアップのイベントがあるので大勢の人で賑わっていました。右写真は茅葺きが美しい建掛堂(重文)。正成が湊川で討ち死にしたので、三重塔建立予定が未完に終わったことにちなむ堂名のようです。
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開山堂の右にあるのが、楠木正成首塚。菊水紋が刻まれています。湊川で正成が討ち死に後、足利尊氏の命令で、正成の首がここへ送り届けられ、祀られているということです。
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左写真は正成の首塚の五輪塔。隣りの滝覚坊(りゅうかくぼう。正成の師匠で、和田氏の子孫)墓の近くに藤田精一さんの墓、五輪塔が建っています。先ほどの碑文は「昭和13(1938)年7月5日東京で病死したので、楠公首塚の側に葬る。追慕の情に堪えず、門人で諮り、純忠の士だった博士の功績を不朽に伝えんとこの碑を建てる」と結んでいます。この年、国家総動員法が公布されています。今また衆院選で憲法改正論が争点に浮上しています。平和憲法は国の宝だと私は思うのですが。今日は太平洋戦争を始めた日。
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天誅組讃蹟碑もありました(左写真)。江戸時代末期の文久3(1863)年、倒幕運動のさきがけとなった天誅組の乱が起きました。幕府を倒して天皇中心の政治の仕組みを打ち立てようと決起した公家の中山忠光率いる天誅組は、観心寺の正成首塚に戦勝祈願をして、奈良の五條代官所を襲撃したとされています。

たくさんの石段を上ってクタクタになりながら辿り着いた後村上天皇桧尾陵(ひのおりょう)。後醍醐天皇の皇子で、幼名は義良(のりよし)親王。住吉大社で没後、ここに葬られたということです。うっかりして金堂(国宝)の写真を撮るのを忘れました。本尊如意輪観世音菩薩は秘仏(国宝第5号)のため写真でしか拝むことができませんでした。平安時代の密教美術の最高の仏像だそうです。
      観心寺














特別展「南九州とヤマト王権」見学

近つ飛鳥博物館盾持人物埴輪
12月2日、大阪府立近つ飛鳥博物館へ「南九州とヤマト王権〜日向・大隅の古墳」を見に行って来ました。秋季特別展の最終日。同博物館は安藤忠雄さんが古墳をイメージして設計された建物。何度か行ったことがあるのですが、行くたびに目にしてはその大きさに驚くのは、藤井寺市三ツ塚古墳周濠から出土した大修羅(長さ8.8㍍、幅1.9㍍。5世紀)。アカガシの二股の一本木で、重量物を運ぶためのソリのようなもの。同時に小さい修羅(長さ2.8㍍、幅0.7㍍)も出土。修羅は14年の歳月をかけて保存処理が施され、その展示のための博物館といえるのかもしれません。

特別展のタイトルから一番に連想するのは、隼人のこと。展示最終コーナーで山城国綴喜郡大住郷(現・八幡市・京田辺市付近)「女谷・荒坂横穴墓」(6〜7世紀)の発掘調査結果が展示してありました。近畿では珍しく横穴墓が集中して見つかっています。
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 2010年1月30日の発掘現場説明会(八幡市美濃山荒坂の女谷・荒坂横穴群)。
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     第2京阪道路建設に伴う発掘調査で見つかりました。
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平安時代に再利用されたとみられる1基から出土した青銅製鏡も発見されました。この時の発掘で横穴墓8基見つかり、この時点の合計は58基を数えました。     
  
これまで隼人の移配置の一つであった大住とその墓制を関連付けて考える研究がありましたが、最新の調査・研究からは見直しが必要なようです(まず、横穴墓は大隅・薩摩では在地墓制でないそうです)。でも、なぜ大住郷にこんなにたくさんの横穴墓があるのか、その理由が知りたいです。日本版中華思想で「隼人」と呼ばれるようになった南九州の人々が、いつから大住の地に移り住んだのかはっきりしませんが、『日本書紀』天武14(685)年に、大隅直に忌寸姓が与えられた記事があり、この時同時に忌寸の姓を賜った10人は近畿地方在住者であることから、大隅直も既に大住に在住していたと考えられます。

南九州地域の古墳時代前期の4世紀代〜中期の5世紀代にかけての発掘調査では、近畿・瀬戸内海で作られた須恵器や、朝鮮半島系の鉄製品、南島で採れる貝輪などが出土していて、「日向や大隅の首長たちはヤマト王権と深く関わりを持ちながら、周辺の各地域や朝鮮半島とも活発な交流を行なっていたことがあきらか」だそうです。展示されているものを見比べると、なるほど南九州と近畿地方から出土しているものが似ています。墳墓での葬送にこれらの須恵器や鉄製品など他地域の文化を積極的に取り入れている様子から、大住郷でも、女谷・荒坂地域の地形、地質などから、もともと彼らの故郷の在地墓制でなかったかもしれない横穴墓を積極的に採用したとは考えられないのかしら。

展示されていた盾持人物埴輪(リーフレット掲載)のリアルさには驚きました。特に鼻の造形。口の中には上下に歯を差し込む溝もあって、埴輪のイメージがひっくり返りました。鹿児島県曽於郡大崎町の神領(じんりょう)10号墳(5世紀)から出土したものだそうです。

周辺には古墳がたくさんあり、時間があれば見て歩きたいところでしたが、せっかく南河内まで来たので、以前から興味があった叡福寺と観心寺を訪れることにしました。それは次回に書きます。

今年の大薯

富山の実家からチューリップの球根をたくさん貰い、それを植えるための場所を確保しようと、先延ばしにしていた大薯を掘り起こしました。
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11月25日、ハート型の葉はまだまだツヤツヤ緑色。一緒に植えた朝顔はとっくの昔に枯れ、別の場所に植えているカラスウリはレースのカーテン状になって枯れているのに、大薯はいつまでも元気。
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ネットに絡みつく(しがみつく?)生命の力。容易に外せません。何箇所かにハサミを入れて枯れるのを待ちました。
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数は多いのですが、期待に反して小さいものばかり。昨年は1株に1個だったのに、今年はじゃがいものように兄弟仲良く掘り出されてきたものもありました。大薯の名の通り、「京都府南部では特大サイズで1個が4㌔程ですが、育て方次第では1個が50㌔近くになるものもある」と京都府立大農場のブログに書いてあります。「50㌔ってどんなだろう」と想像するだけで頭がクラクラ。我が家の収穫物と比べると溜息ものです・・・。不足しているのは、栄養?土質?水分?日照?愛情?

それでも嬉しくて、早速山かけ丼、お好み焼き、短冊切りしてサクサクいただきました。ネットリ、フワフワ感がとっても良くて、栄養満点。味もほのかに甘みがあります。

何回かに分けて美味しくいただきましたが、もったいないので一番大きいのを保存しようとして失敗。下にした部分から白いカビが生えてきました。掘り出す前に、京都府立大農場のブログを読んでおけば良かったのですが、「後悔先に立たず」です。泥を落とした後の乾燥が足りなかったのがカビ発生の原因でした。表皮が硬くなるまでしっかり乾燥させることが重要だったみたいです。南方の植物なので寒さには弱く、痛みの進み具合は他の芋に比べ早いように思いました。「こんな展開になるなら、さっさとすりおろして冷凍保存すれば良かった」とこれまた後悔。

連作障害があることも、今ブログを読んで知りました。「来年はどうしようかなぁ」と思案しつつ、食べ損ねた大薯のリベンジを果たしたいという思いもあります。巡る思いはこれから訪れる厳冬を通り越して、春へ。

墨の文化

薬師寺東塔保存修理現場見学を終えて、近くのお好み焼き屋さんの暖簾をくぐりました。気さくで世話好きそうなおかみさんが「墨の資料館へ行ってきたか?まだなら行っといで。今なら真っ黒になって一生懸命墨を拵えているのが見学できる」と教えてくれました。
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教わった通り歩いて、着いたところが「がんこ一徹長屋」(奈良市西の京町215−1)。薬師寺と目と鼻の先です。筆職人、奈良一刀彫職人、茶筌作り職人などの工房が並んでいました。その隣接地に墨の資料館(奈良市六条1−5−35)とその母体㈱墨運堂の工場があります。

資料館は見学無料。雨降りのためか大きな資料館なのに見学者は私一人。静かに階段を上って行くと、ガラス戸越しに墨まみれになって作業している職人さんがおられました。会釈をしてから、しばしその作業を見学させていただきました。
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煤(素焼きの皿に菜種油などの植物油を入れて灯芯を燃やし、素焼きの蓋についた煤を採取)と膠(にかわ。墨用の膠は動物の表皮の下にある真皮の部分に水を加えて煮沸抽出したもの)の溶液を良く練って作った墨の塊が墨職人さんの膝下にあります。撞きたての餅のような軟らかさですが、膠を混ぜていることで温度が低くなると硬くなります。そのため体温で温めておられるのでしょう。必要になるたびに膝下から取り出して適量をちぎって計測しておられました。膠の匂いを消すために龍脳や麝香(じゃこう)などの香料を混ぜています。「墨の匂い」と聞いてイメージするのはこの香料だったのですね。計測した墨を梨の木で作られた型に入れて成型しておられます(写真右)。梨の木を用いるのは、キメが細かい、水に強い、彫りやすい、欠けない等の利点があるからだそうです。
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空気が入らないよう良く揉み込んで型入れしたら、プレス機にかけてしばらくおいてから型出し。その後、1日乾燥後耳削りをして整え、木灰の入った箱にいれて乾燥させます。乾燥させる期間は大きさによって異なりますが、急速に乾かすと歪んだりするそうです。乾燥したらさっと洗って汚れを取り除いてから、日向海岸で採れたハマグリの貝殻で磨いて艶出し・・・等々細かい行程を経て墨ができます。

3階には古今東西の著名な書家たちの作品や様々な墨、硯などが展示してありました。そこの責任者の方が、丁寧な説明をしてくださり、貴重な硯などにも触れさせてくださったりと親切にして頂き感激しました。「墨は呼吸している。古い墨ほど馴染んで落ち着き、色も良い」と話された言葉が印象に残りました。

ビデオ「墨のできるまで」で観た昔の墨職人さんが器用に足で煤と膠を混ぜておられる様子は、大変な重労働でした(今は混和機を使用)。溶かした膠は高熱で常に火傷の危険と隣り合わせ、乾燥させるための木灰は空気中に飛散して作業時に肺に入る恐れがあります(マスクを着用)。そんなこんなで、若い人のなり手がなく、11軒の墨屋があっても、職人は10人程度しかおられないそうです(全盛期には200人ほどおられたとか)。写真の職人さんは10年ほどのキャリア。貴重な人材ですね。

墨作りは冬場だけの半年仕事。冬場の奈良の乾燥した気候が墨作りに適しているそうです。杜氏さんのように、静岡県などからその期間だけ出稼ぎにきて作業しておられました。全国の墨の9割以上が奈良市内の墨屋で生産されています。

昨日の朝日新聞教育面に、神奈川県鎌倉市立七里ヶ浜小学校で、習字で使った墨に興味を持った子どもたちが墨作りに挑戦している様子が紹介されていました。そうしたことに着目した子どもたちも凄いなぁと思います。お正月まであとひと月を切りました。年賀状の準備をしなければと思いつつ後回しにしていますが、責任者の方は「せめて1年に1度、年賀状ぐらいは筆で書いて欲しい」と話しておられました。墨運堂さんの創業は、文化2(1805)年だそうです。
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一昨日、京都市考古資料館(京都市上京区)で見学した日本最古級の平仮名文字が綴られた墨書土器です。28日に京都市埋蔵文化財研究所の発表を受けて報道されましたので、私が訪れた時もたくさんの人が来ておられました。
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            土師器皿外面
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    小さい土師器の脚部にびっしり書き込まれた平仮名。
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昨年の調査で見つかった「三条院釣殿高坏」。調査地の京都市中京区のJR二条駅西側ロータリー西側は、平安時代前期の右大臣藤原良相(よしみ、813〜867年)の邸宅「西三条第」跡地であったことが、この出土物でわかりました。藤原良相は漢文や仏教に造詣が深い人物だったそうです。どのようなシチュエーションで、墨書きされたのか想像してみるのもいいですね。



国宝薬師寺東塔の瓦

11月11日の薬師寺東塔保存修理現場見学会に参加したことを前回書きました。DSCN0146DSCN0147
国宝の古代釘を見ているうちに、今年7月14日に観たドキュメンタリー映画「鬼に訊け 宮大工西岡常一の遺言」のことを思い出しました(7月15日付で書きました)。映画は薬師寺の白鳳伽藍復興に取り組む西岡常一棟梁を追ったものです。西岡さんは古代建築復興にあたり、木の持ちを良くするために、仕上げにヤリガンナを用います。綺麗に削るために試行錯誤した結果、そのヤリガンナは鍛錬した鉄で作られた古代釘を再利用して刀鍛冶に作ってもらったそうです。

法隆寺金堂修復で建築学者が鉄材での補強を主張したのに対し、木の性質を熟知している西岡棟梁は、鉄材を用いることの弊害を説き、「木は鉄を凌駕する」と一歩も引かなかったそうです。9月22日付「京都新聞」で、木造家屋の研究や森林保護に取り組む名古屋市のNPO法人「緑の列島ネットワーク」の活動記事を読みました。震度6強を記録した1995年の阪神大震災の揺れを再現し、礎石となる石に柱を載せて固定しない土壁の2階建て、しかも金具などで補強しない木造建築物で耐震実験を行ったそうです。その結果、建物は大きく揺れましたが倒壊せず、鈴木祥之・立命館大教授は「木造建築の巨大地震に対する安全性が証明された」と話しておられます。1300年の歴史を誇る東塔を間近で見学しながら、西岡常一さんの遺言をずっと思い出しておりました。
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最上階の見学場所で展示されていた瓦です。創建当初の瓦がどれほど残っていたのか、今回の修復でその内の何枚が再利用されるのか興味があります。


鬼瓦を見ることも最近の楽しみの一つ。以下にご紹介。
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どれも皆違っていて面白いです。鬼瓦を改めてじっくり見ているうちに、昔習った中国殷王朝とほぼ同じ時代のものとみられる四川省三星堆の遺跡から出土した青銅の仮面を連想しました。飛び出た眼と大きな耳をもっていて、一度見たら忘れられないインパクトがある造形です。

2011年6月26日「木津川市ふれあい文化講座」で、岩戸晶子・奈良国立博物館工芸考古室研究員の「東アジアの鬼瓦」を聴講しました。鬼瓦は棟の端の水漏れを防ぎ、屋根の四隅に鬼の顔をつけて外敵から防ぐために置かれます。ニノ鬼が置かれるようになるのは中世からで、これは日本オリジナルなのだそうです。鬼瓦が屋根に葺かれるようになったのは平城遷都の頃からで、当日配布された資料を見ていると、唐代や高句麗の鬼瓦とよく似ています。百済の鬼瓦は蓮華文が多いので、ちょっと趣が違っています。中国や韓国の影響を受けた日本では鬼瓦が発展してきましたが、お手本にしたそれらの国では、もっと早い段階で廃れてしまったそうです。様々な文化の吹き溜まりの日本で、進化してきたものの一つが鬼瓦なんですね。
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昨日見学した京都市考古資料館で、展示されていた本能寺跡出土の「戴輪宝(さいりんぽう)鬼瓦」(桃山時代)。2010年11月、石清水八幡宮で、江戸後期に本堂が再建された時に奉納された密教法具の輪宝が出土しました。地鎮に用いられたもののようです。その輪宝が額に載った鬼瓦。これもインパクトがあります。
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他にも桃山時代の金箔が施されたゴージャスな軒丸瓦、軒平瓦も展示されていました(上段に上京区日野殿町出土瓦、下段左側に上京区三丁目出土瓦、右側に伏見城城下町出土瓦)。豊臣秀頼が改修した石清水八幡宮回廊からも金箔の瓦が出土したと今年3月に発表されました。瓦も権力の象徴だという歴史が分かります。



 






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