歴史探訪京都から

-旧木津川の地名を歩く会-

聴講

鍾馗さん

1月24日、第5回陽明文庫講座「今、紐解く宮廷文化」の第1回目を受講しました。最初に公益財団法人陽明文庫の名和修文庫長の講演「究極の手鏡『大手鏡』」、続いて東京国立博物館の島谷弘幸副館長の講演「『大手鏡』の書」がありました。手鏡とは、著名な古人の優れた筆跡の断簡などを集めて押した帖のことで、古筆の愛好家が蒐集した古筆切を観賞保存しておくためのアルバム帖のようなもの。古筆鑑定家が、古筆の鑑定をする場合に、照らし合わせて見る見本台帳になります。

陽明文庫所蔵の「大手鏡」は国宝で、上帖は縦45.4㌢、横62㌢の22折。表68枚、裏69枚の137枚。下帖も同サイズで21折。表90枚、裏78枚の168枚。合わせて305枚が納められています。名和文庫長が「大きいことは良いことだ」と話されたとおり、会場には高精細デジタル画像で複写した実物大サイズの「大手鏡」も展示されていましたが、文庫長が「最大の特長」といわれた大きさを目で見て知ることが出来ました。上帖は17㌔、下帖は16㌔もあり、「下手するとギックリ腰になる」ズッシリとした重さだそうです。

「大手鏡」を編集したのは、五摂家の筆頭・近衞家熈(いえひろ。1667〜1736年)さんで、彼の学術文化人としての一つの見識を表すものです。スライドで家熈さんが10歳の時に描いた「鍾馗図」も見せて頂きました。同じく10歳の時の「道風之手本」の書写もあり、小さい頃から類い希な才能の持ち主であったことが分かります。延宝5(1676)年当時、既に鍾馗さん信仰があったのだなぁと思いながら聞いていました。

さて、講演後に会場で販売していた書籍の中から、淡交社別冊『五節句に遊ぶ〜茶の湯の趣向に役立つヒント』を買いました。帰りの電車の中で頁を繰っていて「おやっ」と思ったのが鍾馗さんについての文章。今日庵の筒井紘一文庫長が書かれた「茶趣と宮中行事」にありました。歳暮の茶の待合掛として最適な掛物が鍾馗さんなのだそうです。何となく鍾馗さんは端午の節句と関連があるように思っていたので意外でした。「中国では鍾馗の絵は本来、火の神・竈神と結び付いて、大晦日に掛けるものだった」のだそうです。以下に引用。

…鍾馗は唐代の玄宗皇帝のときに進士の試験を受けにきた地方の若者ですが、落第したために帰国できず宮中の階から飛び降りて自殺してしまいます。哀れに思った玄宗は、彼を丁重に弔うように命じます。
 安禄山の不穏な動きで国情不安な中、不眠状態に陥っていた玄宗の夢の中に、子鬼が出て大切なものを盗み去ろうとした時、大男が出現して鬼を捕らえてくれました。名前を聞くと鍾馗と名乗り、弔って頂いたお礼ですと答えます。そこで目を覚ました玄宗は、心のもやもやがなくなって久しぶりにすっきりとした朝を迎えられました。折しもその日が大晦日。そこで玄宗は鍾馗の姿を画家の呉道子に描かせて、邪鬼を払う絵として天下に薦めたといわれます。…

茶のたしなみのない私は、今ごろになって初めて知り、知識のタンスの引き出しが一つ増えました。新年を迎えたばかりで子鬼に笑われそうですが、来年の大晦日には鍾馗さんの絵を飾ろうと思います。ひょっとしたら、節分前の今の時期に掛けるのが良いのかも知れません。
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     第31回はんなり京都嶋臺塾会場「嶋臺」の設え(2015年1月20日)


  ブログ名を「歴史探訪京都から―旧木津川の地名を歩く会ー」に変更しました。

第37回例会「京都府立山城郷土資料館特別展見学と上狛環濠集落など探訪」

10月12日に実施した第36回例会は、宇治田原町の三社祭り還幸祭を見学しました。当日の様子がなかなか紹介できないでいますが、近いうちに。後ろめたさを感じながらも、先に第37回例会の連絡です。
チラシ11月23日(日)に木津川市山城町上狛の環濠(かんごう)集落を歩きます。案内は自らも集落にお住まいの淺田周宏さん。京都府の文化財指導員やこの日訪問する京都府立山城郷土資料館などでも活躍されていて、地域の歴史を勉強するには何とも心強い紳士。急な申し出にもかかわらず、快く引き受けていただきました。

ですが、当日は全国どこでも新嘗祭。とれた新穀を神様に捧げ豊かな実りに感謝する日です。淺田さんは上狛・椿井両村の鎮守社・松尾神社の氏子総代として新嘗祭の神事に参列されますので、ご案内は午後1時からにお願いしました。

民俗学的に神事そのものの見学もしたかったのですが、同資料館で12月7日まで開催中の特別展「わざの極意は道具にあり~山城の瓦づくり」を見学することにしました(要入館料)。

11月15日木津川市の相楽会館で開催された関連シンポジウム「山城の瓦製作用具から考える京都の瓦づくり~民家の瓦と寺院の瓦」を聴講しました。シンポジウムの前にパネリストの2人から講演がありました。最初に講演されたのは印南敏秀・愛知大学地域政策学部教授。演題は「山城の瓦の民具と職人文化~府有形民俗文化財の指定の意味を考える」。講演で初めて知ったのですが、印南先生は32年前、この資料館に赴任され7年間在職されたそうです。資料館第1回特別展は「山城の古瓦」(1983年)。当時としては先進的な考古の担当者と民俗の担当者が協力して実施された展覧会でした。

この当時すでに南山城の職人文化は消えつつありましたが、木津には鍛冶屋が何軒かあり、加茂町に棒屋(尾崎家)が1軒ありました。彼らは連携して使いやすい鍬など高度な道具を生みだしました。その道具を使った先進農業によって収穫した商品作物は、近郊都市で高く売れ、更に技術が向上するという文化の特色がありました。瓦づくりにも彼らとのコラボが重要。大量生産ではなく、地元にあったオーダーメイドの道具が作られたことが大きく貢献しました。今回の特別展は、印南先生等が開館以来30年をかけて収集してきた明治時代以降の「山城の瓦製作道具」が、今年3月京都府指定有形民俗文化財になったことを記念して開催されました。

しかしながら、鹿背山に1軒あった浦田家が1982(昭和57)年で瓦製造を止め(今は施行のみ)、現在府内で製造しているのは、この後講演された寺本甚兵衛製瓦さんと浅田製瓦工場の2社のみ(共に伏見区)だそうです。浅田製瓦工場については、私が鍾馗さんに興味を持つ契機となった小沢正樹さんの著書『鍾馗さんを探せ!!』で知りました。この日の講演会場は有名な生駒の山本瓦工業さんを始め、たくさんの瓦関係者が詰めかけて熱心に耳を傾けておられました。

続いて講演された寺本光男さんは、選定保存技術〔屋根瓦葺(本瓦葺)保持者〕認定者で、国宝「東福寺三門」、重文「二条城本丸御殿」など多くの重要な建物の屋根の修理を手がけておられます。少なくとも江戸時代初期に遡る瓦の家系だそうです。その寺本さんが最初に話されたのが「瓦屋は絶滅危惧種になりつつある」。和風建築が減って瓦の需要が低迷し、職人さんも減少傾向にあります。どこの世界でも言えることかも知れませんが、わざの継承が年々難しくなっています。一度途切れると復活は難しいのが常。演題は「みやこの瓦づくり〜文化財を守り伝える仕事の流儀」。瓦屋の仲間組織には①大佛組②深草組③西組散在の3グループがあったこと、瓦づくりの変遷、京都の瓦の特色など興味深い話が聞けました。

「お寺の瓦は長くもてばもつほど良いと考えるが、民家の場合、一昔前は孫子の代までと考えていたが、今は一代持てばいいという考えに変わってきている。便利な方へ、便利な方へと向かっていくのが今の文化」、「土地にあった土で焼く。焼いた近辺で使うのが一番いい。凍害が一番怖い。京都で焼いた瓦を山陰で使うと翌春に駄目になることもあり得るかもしれない」等という話が印象に残りました。

鍾馗さんへの関心から屋根瓦にも興味津々の私は、23日に特別展を見学するのがとても楽しみです。参加者の皆様にとっても関心をもって貰えれば尚嬉しいです。そう願っています。

つい瓦への思い入れが深いので長々書いてしまいましたので、あとは簡単にコースを紹介。内容の詳細は例会実施後に書くことにします。

探訪コース:JR上狛駅(午前9時半集合)ー高麗寺跡(平安時代初期の日本最古の説話集『日本霊異記』に登場。出土した瓦から7世紀初頭の飛鳥時代に創建と考えられています。寺域は東西約190㍍、南北180㍍)ー府立郷土資料館ー(昼食)ーJR上狛駅(午後1時)ー環濠集落(中央に山城国一揆で有名な狛氏が居館を構えていました)・「狛どんの大井戸」・西福寺(狛氏の菩提寺)などー小林家住宅(南山城最古の民家、国指定文化財。外から見学)ー椿井の松尾神社(表門両脇の土塀に高麗寺跡や蟹満寺、平城宮跡から出土する白鳳や奈良時代の瓦も使われています)ー玉台寺ーJR上狛駅で解散。

今回の例会は、「木津川の地名を歩く会」と名乗りながら、それ以外の地域を探訪していることを指摘した会員のリクエストに応じて企画しました。眼前にゆったり流れる木津川が眺望できます。それと以前訪問してとても印象が良かった玉台寺の紅葉を是非皆さんに見ていただきたかったこともこの時期に設定した要因です。当日はご住職夫妻のあたたかいお話もきけるだろうと思います。

弁当、飲み物、敷物、雨具等持参。小雨決行。以上です。


第9回映画の復元と保存に関するワークショップ(7)

吉岡映像㈱吉岡映像代表の吉岡博行さんは、40年間ほどキャメラマンをされていました。その後、独自の手法で8㍉、9.5㍉、16㍉の小型映画フィルムを中心にテレシネ作業(映画フィルムをDVD等に変換)をしておられるほか、マイクロフィルム、写真ネガ、ビデオテープなどあらゆる映像メディアの修復に取り組んでおられます。

3・11で被災したビデオテープや熊本の豪雨災害にあったビデオテープや写真、フィルムの修復を手伝った他、昨年1〜7月には、沖縄県那覇市琉米(りゅうべい)文化会館にあったCIE映画294タイトルを東京光音と共同で修復し、DVDに複製されました。すでにビネガーシンドローム(フィルムのベース素材が空気中の水分と結合して加水分解を起こし、酢酸ガスを放出しながら溶解していく状態)に至っていたそうです。

不勉強の為、CIE映画と言われてもピンとこなかったので、ネットで検索してみました。中村秀之さんが書かれた論文がこちらです。戦後GHQが民主主義教育として全国に配布。元は524タイトルもあり、アメリカのナトコ映写機で上映しましたが、吉岡さんの話では「酒田市に1台残っていて、あとはフィルム共々捨てられたらしい」とのこと。世界にはCIE映画の研究をしている人もおられるので、これが見られるようになったのは意義あることです。

今一番救出を急がねばならないのは、昭和39(1964)年東京オリンピックの頃に全盛だった「ダブル8」だそうです。酸っぱい臭いが強ければ進行の度合いはピークかそれ以前で、この時点ではまだ修復が可能ですが、それを超えてアンモニア臭に変化すると難しいようです。身近にあれば、ぜひご確認を。
DSCN9097最終講義のナックイメージングテクノロジー遠藤和彦さん。正直、素人の私には、内容が難しかったです。同社はアリフレックスというドイツのプロ用映画カメラメーカーの代理店。

アリ社はフィルムから非圧縮(4K)のデジタルカメラを開発しました。そのアリ社は、同じ技術を使ってデジタルからフィルムに起こす双方向の研究を欠かしませんでした。アリ社が開発したデジタルデータをフィルムに変換する「アリレーザー」は2011年度米国アカデミー科学技術賞でオスカー像を受賞しました。この分野では数年に1度しか出ない名誉ある賞です。連れ合いは閉会の挨拶で「どうしてもナックさんに話しをして貰いたかった」と何年も前から要望していたことを話しましたが、皆さんに聞いてもらいたかったことは、この「双方向」という点にありました。日本は地デジ対応という国策から、デジタル一辺倒ですが、欧米では今もフィルムは大切だと考えて研究開発を進めています。フィルムでの保存は絶対だと考えられています。

欧米では従来から「モノ(有形)で残す」ことを重視しています。新しもの好きの日本では、双方向の研究をしなかったので、フィルムで保存することはコストがかかり高くなってしまいます。最初から両方の開発を進めていたら、もっとコストを抑えることができたと思われます。一方、デジタル(無形)で残すとすれば、規格が変わる度に更新していかなければ失ってしまう恐れがあり、アナログより高コスト。これを「デジタルジレンマ」と言います。「行政や企業はデジタル一辺倒で動いているから、こういう発想は出てこない。だから、民間のワークショップを開催して、問題を提起している」と連れ合い。その声はなかなか届かず、大海に小石を投げているようなものかも知れません…。

当日配布された資料は、他に広島市中区の「八丁座 映画図書館」℡082(546)9113、一般社団法人日本写真学会の画像保存セミナーの案内=11月7日午前9時55分〜午後5時20分、東京工芸大学芸術情報館メインホール。有料。10月20日締め切り。℡03(3373)0724 。

期間中、文化庁の佐伯さんと一緒に食事する機会に恵まれました。私が「私の男」の撮影で、熊切和嘉監督が撮りたい映像によって16㍉、35㍉フィルム、デジタルと使い分けていたことについて話したとき、「それは熊切(監督)だから」と返ってきたことが今も忘れられません。熊切さんの力量が優れているという意味なのでしょうが、私が伝えたかったのは、撮りたいときにフィルムも、デジタルも選択できるように環境を守る支援をして欲しいと言うこと。日本では、フィルムは過去のものと捉えられているようですが、フィルムならではの良さ、味わいがあり、デジタルならではの良さもあるでしょう。選択肢は多い方が良いと思うのです。もう一つ感じたのは、「東京からの視点」。上手く言えないのですが「関西からの発信力をもっと高めなければいけないし、関西人はもっと自信を持ったらいい」と思いました。

会場で知り合った女性から、メールが届きました。
「フィルムは次々と製造中止になり、映画館は続々とデジタルのみになっていく現状。古い映画、古いフィルムがどうなるかという問題が目白押しですね。デジタル化するためのお金が捻出されても、利潤がとれないと判断された作品や大切な記録、小さな名作等々は、デジタル化されない限り、映画館でも見られず、DVDでも見られず、いつか酸っぱくなって、人知れず廃棄され、無くなってしまう現状が、堪らないです(略)」。

この女性から、中村錦之助さんのファンの方や月形龍之介さんの親族が、コツコツお金を貯めては、フィルムを映写機にかけられる形に焼き直し、東映に寄贈しているということを教えて貰いました。日本映画の黄金期に活躍した銀幕のスターといわれた方々でも、そういう動きをしなければ次世代に作品を残せないのだと思うと、この国の映画に対する文化度に溜息が出ます。

脇にそれますが、8月29日朝日新聞夕刊のコラム「マンガ遺稿を生かす道は」に目がとまりました。
「マンガ家が亡くなった後、その遺稿を保存するための仕組みは未成熟だ。巨匠クラスのマンガ家は死後も著作権管理のためプロダクションが存続するが、多くの場合、原稿の保管は遺族に任される。様々な事情や経済的な理由などから、売られたり、捨てられたりするケースが少なくないと聞く」。映画のケースとよく似ているなぁと思いながら読みました。

ともあれ、ワークショップを見ていると、若い人も一緒になって「映画の復元と保存」を真剣に考え、取り組んでおられる様子に感激し、頼もしく思いました。彼らの多くに留学の経験があり、海外での見聞がこの活動のエネルギーになっているのかもしれません。また、来年お会いするのを楽しみにしています。ありがとうございました。



第9回映画の復元と保存に関するワークショップ(6)

6月10日付けで書いた「連載『寄り道遍路』四国発㉙」で紹介した朝日新聞記者長谷川千尋さんが無事結願(四国八十八ヵ所の全てに参拝すること。連載88回)、今日の夕刊〈番外〉で連載が終了しました。連載第1回は4月28日。歩きながら各地でレポートし、発信し続けるのは大変なご苦労があったことでしょう。お疲れ様でした。先日、その連載29回目で触れた森田恵子さんから、ドキュメンタリー映画「旅する映写機」のDVDが届きました。フィルム映写を続ける「大心劇場」(高知県安田町)の館主小松秀吉さんを主人公にしたドキュメンタリー映画です。この作品については後日書くことにします。
神戸・板倉氏さて、ワークショップ2日目、次の講演は神戸大大学院国際文化学研究科板倉史明准教授と神戸映画資料館支配人の田中範子さんによる「神戸における民間アーカイブと大学の連携」。

1970年代にできた同映画資料館は安井喜雄館長が個人収集した約1万本もの膨大な映画資料があります。国内外の研究者が訪問したり、上映やアーカイブに貸し出しもしていますが、これまでアーカイブ活動の補助は一切受けておられず、調査のための調査もできていない状態でした。7年間ほど東京国立近代フィルムセンターで研究していた板倉さんは、「この資料館があったので2年前に神戸に移った」のだそうです。専門家と協力して資料整理(大学院生も協力)する中で、昭和初期の大阪で活躍した映画作家・森紅(もりくれない)監督の貴重なフィルムや「ホノマトン」(1930年代に日本で普及)で録音されたプラスチック製レコードが見つかりました。その他にも貴重なフィルムが発掘され、その様子は当日配布された「神戸の映像文化ー『神戸と映画』『神戸映像アーカイブプロジェクト』の取り組み」(2014年3月31日発行)で知ることができます。連携によって今後どんな成果が得られるのか、とても楽しみです。
福岡・松本氏IMG続く、福岡総合図書館(福岡市早良区)の松本圭二さんの講演「無声映画『義民 冨田才治』復元プロジェクト」は、右写真1枚が配布されただけ、饒舌な話芸(?)で強く印象に残りました。

文化庁の佐伯さんが示された年表を見ると、1996年に福岡市総合図書館(映像資料課)が開館しています。今年3月6日付け産経新聞に同図書館が紹介されています。記事によると、アジア各国には、劣化しやすいフィルムを保存できる「フィルムアーカイブ施設」が余りないことから、市民のアジア映画への関心が高い福岡市が収集を始め、アジア映画など約千本のフィルムが保管に最適な環境の収蔵庫で管理されているそうです。最も古い作品は、約120年前に撮られたフランスのリュミエール兄弟によるサイレント映画「リュミエール・プログラム」で、「フィルムの状態は当時のまま。うまく保管すれば約500年はもつ」と八尋義幸学芸員は胸を張るーと載っています。

その図書館で、松本さんはフィルムの保存作業をする映像管理人をされています。配布された写真は、京都市生まれの俳優で監督の中根龍太郞(1901〜44年)。マキノプロにいましたが、昭和3年中根龍太郞喜劇プロダクションを設立して失敗。女優で妻の泉春子の実家がある唐津で浪花節芝居をしていましたが、その後また戻りました。90本以上に出演し、12本監督しています。最後に出演したのは木村荘十二監督のトーキー「音楽喜劇ほろよい人生」(昭和8〈1933〉年)。松本さんは、唐津で発見された「義民 冨田才治」を上映する前に、「映画の主役を演じているのが、ひょっとしたら中根龍太郞ではないか、この写真と見比べてご覧下さい」と呼びかけました。

内容は明和8(1771)年、肥前国唐津で起きた「虹の松原一揆」を描いています。一揆は殆ど失敗しましたが、これは成功した例です。とはいえ、首謀者を処罰した時、冨田才治は自ら名乗り出て死罪になりました。それが後年忘れられていったので、郷土の偉人を忘れないように、唐津の寺の人が、鎮魂のために昭和3年か8年に中根に頼んで自主制作したと考えられています。完成後、活弁付きで唐津で上映されていますが、赤字が出たので、ワンカット抜きもして紙芝居にして上演もしています。フィルムはIMAGICAウェストで不燃性に直した15分の白黒サイレント映画。冒頭がクライマックスになっているなどバラバラに繋いだもので、発見当時のまま。当時見た人を募っても、どれも記憶があやふやなので、次の資料が出てくるまで、今は保留。これをどう復元するかがテーマだそうで、情報を求めておられます。

大げさなキメのある芝居がサイレント時代でしたが、中根はトーキーに対応できなかった役者さんでした。「そういう人は他にもいただろう」と松本さん。有名な榎本健一は中根の弟子にあたるそうです。ところで、主役が中根本人かどうか、時代劇と帽子を被ったダンディな出で立ちでは、余りに様子が異なるので判断ができませんでした。ご覧になった皆さんの意見はどうだったのでしょうか?

自分の記憶のために書いているので長くなっていますが、あと1回で終わり、併せて当日配布された他の資料の紹介と、「旅する映写機」のことを書いて終わります。

第9回映画の復元と保存に関するワークショップ(5)

今日の午前中、とっても嬉しいニュースが飛び込んできました。モントリオール世界映画祭で吉永小百合さん主演、初プロデュースの「ふしぎな岬の物語」が最高賞のグランプリに次ぐ審査員特別グランプリ、「そこのみにて光輝く」の呉美保(おみぽ)監督が、最優秀監督賞を受賞しました。

「そこのみにて光輝く」は今年3月16日に大阪アジアン映画祭のクロージング作品として、ワールドプレミア上映された時に観ました。その時の舞台挨拶で、司会者の質問に呉監督は「いつも頑張っている」と言葉少なく答えられた表情が印象に残りました。いろんなものを抱えた家族、不器用な生き方しかできない登場人物たちに戸惑いがあったのではないかと思いました。「新しいことに挑戦した。この作品は自分にとってターニングポイントかな」と話しておられました。そうして頑張ったご褒美は、素敵な最優秀監督賞!!。本当におめでとうございます。モスクワ映画祭で最優秀作品賞を受賞した熊切和嘉監督の「私の男」(脚本は宇治田隆史さん)同様、この作品でも撮影は近藤龍人さん。4人共大阪芸大映像学科の卒業生ということで、自分のことのように嬉しい。

さて、ワークショップの続きです。2日目は川崎市民ミュージアムの岩崎歩さんの講演から始まりました。
川崎・岩槻氏DSCN9065川崎市は公害のイメージを払拭するためにこれまでの市長さんは、文化行政に力を入れていたそうです。公立施設が多く、映画関連施設も多くあります。1988年に博物館部門と美術館部門からなる市民ミュージアムができました(京都文化博物館と同じ年)。「複製芸術」に力を置いたコレクションで、全ての学芸員がプロジェクトを結成して事業にあたるそうです。映画・映像に関しては、戦後の独立プロダクションが制作した作品を収集するほか、20世紀を記録した映像・20世紀に登場した新たな映像も収集しています。2004年には「平和記念都市ひろしま」(1948〜49年)の復元もされました。

民俗に興味があり、随分前に知り合いから民族文化映像研究所の姫田忠義さん(昨年7月死去)のことを教えて貰ったことがありましたが、その貴重な映像も紹介されました。そこまでは良かったのですが、次の話には驚きました。最近千本の16㍉フィルムが寄贈されましたが、市から「場所をとるから廃棄するように」と指示が出たのだそうです。なんと乱暴な意見でしょう。「貴重なものがあるから調査中」だと主張して、今のところ廃棄をストップ。

その中の「毎日トピックス№4」(16㍉、白黒、365feet、毎日映画社製作、教育映画配給社配給)が上映されました。「国体 水のパレード 神奈川」(沖縄が戦後初めて参加した国民体育大会)、「南の国境線」(奄美群島、ハブ、ノロ、徳之島の闘牛、与論島の八月踊り、南の国境)、「テレビ電話とは?ーアメリカ」(サンフランシスコのテレビ電話実験)、「ソーク・ワクチン 日本に来たけれど」(小児まひの特効薬を在日アメリカ人児童にだけ接種)、「マナスル登頂一行」、「動物愛護週間、木村荘八画伯、猫12匹」、「油揚げをさらう鳶」、「山形・チンドン屋コンクール」、「吉田の龍勢」(秩父・吉田町椋神社例大祭神事)で、どれも興味深い映像ばかり。神奈川国体、マナスル登頂などから昭和30(1955)年撮影と考えられています。戦後の混乱から立ち上がり、ナレーションにはユーモアもあり、温かみが感じられます(因みにこの年、日米原子力協定調印)。

中でも私が身を乗り出して見入ったのは、与論島の八月踊りと木村荘八の映像。踊り手たちが顔を隠すのは、奈良春日大社の「春日若宮おん祭り」(国指定重要無形民俗文化財)で演じられる「細男(せいのお)」を彷彿させました。アトリエでの木村荘八の動画もとても珍しい映像ではないかと思います(猫好きだったんですね)。今年になって、木村荘八の父親・荘平(しょうへい)の出身が山城国田原郷名村(現・京都府綴喜郡宇治田原町南)だと地元の郷土史家・茨木輝樹さんが調べて発表されました(『木村荘平の生涯「いろは大王」と呼ばれた男の物語』)。

この父親の人生がとてつもなく面白いので、「映画になる」と思いましたら、成澤昌茂監督によって既に映画化されていました。小幡欣治の原作は「あかさたな」ですが、当時の東映岡田茂社長の一声で「妾二十一人 ど助平一代」に改題(1969年3月6日公開)。主演は三木のり平さんです。「成澤監督作品は5本しかない。溝口健二監督の脚本も書いているのでプライドもあっただろう。岡田社長の勝手な改題は、成澤さんにとっても不本意だったと思われる」と連れ合い。今は「喜劇あかさたな」にタイトル変更。この作品を何とか観たいというのが、私の願い事の1つなんですが…。

連れ合いが復元した『海軍爆撃隊』(1940年)は、特撮の神様・円谷英二の初特撮監督作品で、監督は木村荘十二。木村荘平の十二男で、荘八は異母兄にあたります。そんな経緯もあるので、短いニュース映像でしたが、岩崎さんがよくぞ廃棄処分をストップさせてくださったと感謝感激の一瞬でした。千本のフィルムには他にどんなお宝映像があるのか楽しみです。自治体トップの判断で文楽などの文化が翻弄される事例は、どこかの市でもありました。「場所をとるから捨てろ」等とおっしゃらずに、もう少し温かい目で見てほしいと願います。
文化庁・佐伯氏続いて、文化庁芸術文化調査官・佐伯知紀さんの基調講演「映画振興と文化庁」。「1984〜2002年、国立近代美術館フィルムセンター(NFC)にいたが、当時はフィルム復元・保存はほとんど仕事にもテーマにもなっていなかった。映画の制作は華やかだが、バックヤードを大切にしている人たちが、こんなにもいるということを知って感激した」と最初に感想を述べられました。
そして、文化庁がどのようにみて、施策してきたかを2014〜1945年まで年表で遡って話してくださいました。2009年から国として、映画フィルムの保存に注力することになりました。その後NFC相模原分館増築が認められ、国営のフィルム保管庫ができました。それ以前の国の芸術祭は、音楽、美術、演劇を全面展開し、映画などの複製系は民の扱いでしたから、この意義は大きいです。

佐伯さんがNFCで活躍されていた時の大きな出来事が、平成4(1992)年の幻の名作伊藤大輔監督「忠次旅日記」(1927年、無声映画)の復元です。広島の映画フィルムコレクターから寄贈されました。京都文化博物館の伊藤大輔監督の資料を参考に、練馬の育映社という町のラボの協力で、NFCがアナログ版を完成し上映したところ、1992年10月10、11日の2日間で3千人もの人が鑑賞。長い列を成す写真を見て、どれほど多くの人がこの映画の上映を楽しみにしていたのか知ることができました。これが復元第1号。世の中に、古い名作は大切だとわかってもらった最初だそうです。1999年には溝口健二監督「滝の白糸」最長版をIMAGICAウェストの協力で復元。そうした経験から「同じ方向を向けば、道はある。モノがあるのは強い。捨てないで」「政策・施策は現場もよくわからないとダメ。こんなに関心がもたれる分野になるとは思ってもいなかった」と述べて講演を結ばれました。

講演で、日本一の映画フィルムコレクターだった広島の杉本五郎さんの話も紹介されました。身寄りがなかった彼が亡くなった後に、佐伯さんらが家を訪れ、1缶ずつ中身を確認する作業をドロドロになりながら続けたそうです。家の中はもちろん、倉庫の中もビッシリ詰まっていて凄まじい状態。戸を開けた途端、杉本さんの情念が籠っているように感じられ、宮司さんにお祓いをしてもらったそうです。その時の様子を写真で紹介しながら、言語に尽くしがたいほど大変だったひと夏の体験談を披露されましたが、私は聞いていて吹き出しそうになりました。連れ合いが、それに近い状態だからです。コレクターというのは、しようがないものです。

第9回映画の復元と保存に関するワークショップ(4)

昨日の朝日新聞夕刊に、第9回映画の復元と保存に関するワークショップのことが紹介されていました。多忙な中、連日聴講された熱心な記者さんによって、とても上手に内容を纏めて頂きました。ありがたいことです。こうした取り組みが広く知られることは、ある意味時間との戦い(フィルムの劣化と散逸)である「貴重な映像文化」を後世に継承する上で大きな力になります。
DSCN9033さて、1日目午後に行われたライトニングトークの続き。左からコミュニティセンター「Fシネマプロジェクト」の神田麻実さんと西川亜希さん。近年急速に上映のデジタル化が進んでいますが、作り手たちの思いや意図を出来る限り忠実に再現するために、フィルムで撮影された作品はフィルムで上映するのが適切だと考えて、2013年フィルムでの上映環境を少しでも長く保持し続けるためのプロジェクトを立ち上げました。上映素材の確保、映写機材の現状、映写技師の確保などを調査し、関係者のネットワークを構築して情報を共有できるよう取り組んでおられます。

隣は京都大学大学院の久保豊さんで、日本の映画学におけるホームムービー研究の現状と課題について発表されました。日本では1960年代から映画研究が始まりましたが、ホームムービーは横におかれていました。欧米では1986年から研究され始めたそうです。盛んに行われている背景にはフィルムアーカイブへのアクセスが容易にできることがあるそうです。この日のライトニングトークでは、ホームムービーについて、活発な意見を聴くことができました。

右隣は映像作家で東京藝術大学講師の三好大輔さん。同大「風景と心の修景および創景事業プロジェクトチーム」によって収集された映像や音源を編んだ「よみがえる大船渡」のダイジェスト版が上映されました。津波に襲われヘドロまみれになったフィルムのヘドロを除いた部分が青く見えていました。大船渡の老人センターなどで上映した時、カツオの水揚げの映像を見た人が突然「カツオ!」と反応したそうです。彼は普段言葉を発しない人で、元漁師だったそうです。映像を用いた回想法の効果は他の人からも聴くことができました。今は福島の立ち入りが難しい地域でもフィルムの収集を開始、他にも記録映像「東京駅100年の記憶」(2014年12月開業100周年を迎える)の為に東京駅のフィルムと、小豆島8㍉フィルムアーカイブとして小豆島で撮影した映像も募集しておられます。

その隣の㈱ワトソンズの高橋克三さんは、昨年4月から始まった東京都北区の映像アーカイブ活動を紹介。10カ月でホームムービーが200本も集まったそうです。年3回上映し、応募者700人の中から500人が観賞。会場からホームムービーがたくさん集まった理由を尋ねられた高橋さんは、「図書館と博物館にチラシを置き、窓口になって貰ったことが功を奏した。行政との連携が信頼に繋がった」と答えておられました。着眼点が凄いなぁと思いました。「アーカイブの共通の分類基準を早急に作る必要がある。ホームムービーには思いが詰まっている。ガイドラインもなくプライベートなことに立ち入ることになるので、こうしたことも今後の課題だ」と話されました。重要な提言だと思います。

右端の根津映画倶楽部の島啓一さんは、「ホームムービーの日」の説明と今年予定している会場を紹介。2003年アメリカのNPO法人The Center for Home Moviesが、地域や家庭に眠るフィルムを持ち寄って上映する記念日(10月第3土曜)を立ち上げました。「ちいさなフィルムのためのちいさな祭典」は、今や世界各地に広がり、同時開催されています。「引っ越しや、持ち主が亡くなった後の遺品整理で直ぐ捨てられる筆頭がホームムービー。見つけること、残すこと、活かすことが大切。日本の会場の最新情報はネットなどで検索の上、近くの、あるいは旅行先から参加してください」と呼びかけました。
DSCN9039右端の共進倉庫㈱の田沢宏和さんは、フィルム保管庫の案内。調布には映画関連施設が多いことから、25年前にフィルム保管サービスを開始。2009年、より良い環境で保管できるよう倉庫の環境を変えたそうです。調布は行ったことがありませんが、話を聞いて「映画のまち調布」を訪ねてみたくなりました。

左隣は映画保存協会と協力して災害対策部の活動をしているコダカ社の中川望さん。8月2日に実施した「“神戸と映画”神戸・新長田の震災学習ー映像資料篇」の簡易フィルム洗浄ワークショップの様子を報告されました。このところの異常気象で広島や福知山など大きな自然災害が相次いでいます。対策部の出番がないのが一番なのですが、万一に備えるこうした試みも大切なことの一つでしょう。

その左は9月からカンボジアへ行かれる㈱東京光音の鈴木伸和さん。5月に隣国ラオスへ行かれた時の様子を話してくださいました。同国に映画館は一つもなく、移動映画で観ます。国立ラオシネマデパートメントは唯一映画が観られる施設で、フィルムやビデオの保存庫としては素晴らしいのですが、予算は昨年度180万円だったそうです。国によってフィルム・ビデオアーカイブの現状は様々です。
 
左の女性はサイレント映画ピアニストの柳下美恵さん。映画が誕生して来年で120年になりますが、約40年間は映像に生演奏が付いた形式で上映されていました。欧米では各映画館にピアノやオルガンが常設されていました。参考にバスター・キートンの「探偵学入門」(1924年、アメリカ)の一部を上映。キートンは映写技師役、確かにスクリーンの前にピアノ伴奏者が映っていました。映画上映に映写機が備品として必要なように、備品として「映画館にピアノを!」と訴えておられます。

日本では余り知られていませんが、イタリアのポルデノーネ無声映画祭は33回目を数え、世界中からファンや研究者が集まります。ボローニャ復元映画祭は28回目。4つの映画館のうち1つはサイレント映画専門館で、野外でオーケストラの伴奏が付くこともあるそうです。ベルギー王立シネマテークは3館あるうちの1つがサイレント映画専門館でピアニストがいるそうです。国内でもアカデミー賞を受賞した「アーティスト」でサイレント映画が人々に受け入れられ、少しずつピアノを置いている映画館が出てきました。

日本でも初期には音楽と共に活動写真弁士が語りました。8月27日付け京都新聞連載橋爪紳也・大阪府立大学教授の「京滋モダン観光の誕生」№.68は、観光ガイド本『大京都』 (1928年)を採り上げ「新京極での最大の楽しみは、芝居や映画の鑑賞であった。(略)『最もモダーン』だと高評価を得たのが洋画専門館の松竹である。 伴奏の質や館内設備が群を抜いており、心地よい。大作の連続上映を試みて映画ファンを熱狂させるいっぽう、『時々内外人の舞踊あり、音楽あり、小芝居ありて男女学生連の観客多し』と書かれていると紹介。ディズニーの「アナと雪の女王」で歌ったり、インド映画で踊ったりという映画館での楽しみ方が広がっていますが、何も新しい現象ではなさそうです。

左から2番目は、女優・轟夕起子(1917〜67年)と映画監督・春原(すのはら)政久(1906〜97年)の研究をしている山口博哉さん。高校時代に読んだ猪俣勝人さんの轟夕起子さんを紹介した文章を読んで虜になったというから、文章の影響、力というのも凄い!産経新聞昨年11月22日夕刊掲載山口さんの寄稿文「昭和の名女優 轟夕起子」を読んでいて面白いことに気付きました。宝塚娘役トップの彼女(19歳)が、映画会社に引き抜かれたのは昭和12(1937)年のこと。それも宝塚(東宝系)とライバル関係にある日活に。当時としては総理大臣の年俸の3倍に当たる3万円という破格の契約金です。デビュー作は「宮本武蔵 地の巻」(1937年)のお通役。この年は、経営難に喘いでいた日活が大阪の興業主森田佐吉(8月27日付けワークショップ〈2〉で掲載)を社長に招いた年。常務には人気活動写真弁士から映画館興行主になって財を成した東京の大蔵貢が就任。山口さんは「彼女の温かい素顔は、まるで金色に輝く秋の実りのようだ」と表現していますが、そんな彼女の傍らで、大人たちの欲と金が蠢いていたのかと思うと複雑な思いがします。

もう一人の春原監督についても、今年7月1日産経新聞夕刊掲載山口さんの寄稿文「フィルモグラフィーの重要性」を読んで遅まきながら気付きました。連れ合いが1995年に復元した映画「僕らの弟」(1933年、日活)は春原さんの第1回監督作品でした。復元にあたって、監督にお会いして話を聞くことができたと言います。このブログでも「僕らの弟」について以前書いたことがあるのに、点と点がちっとも結べてなかったことを反省しました。ともあれ、山口さんは二人のことを調べて本を出版すると張り切っておられます。さらなる情報があればお寄せください。

そして左にいるのがワークショップの代表をしている連れ合いです。内々で進めている「おもちゃ映画ミュージアム」構想と、10月に開催される第1回京都国際映画祭について紹介しました。ライトニングトークは以上15組。短時間の制約がある中で、それぞれの団体が熱心に取り組まれている活動の様子を知ることができました。来年も、より進化・深化した発表を聴くのを楽しみにしています。

第9回映画の復元と保存に関するワークショップ(3)

IMG_3539A東京国立近代美術館フィルムセンターの研究員大傍正規さんは、今年5月にマケドニア共和国の首都スコピエで開催された第86回FIAF(国際フィルム・アーカイブ連盟)年次総会の話から始められました。会議のテーマは「デジタル化の推進とアナログ技術の継承」だったそうです。

同フィルムセンターでは、非常勤も含め18人のスタッフで、年間2千本弱のフィルムをデータ化。平成26年度収蔵フィルムは72290本(外国8812本、日本63478本)だそうです。講演で印象に残った言葉に「オーセンティックに保存する」があります。オーセンティックは真正な状態、映画が公開された当時の状態に再現するということ。ヒヤリングや文献で調査し、元素材に残存する色彩を復元、入手可能な技術(アナログ、デジタル)を用いて複製を行う。そうした成果は保存するばかりでなく、企画上映やフィルム映写でのアクセス対応も行う取り組みをされています。

アナログ技術の継承については、生フィルムのストックを調査をし、場合によっては共同でフィルム製造業者に働きかけることも必要だと話されました。講演でイタリアのFerraniaがフィルムを再生産すると聞きました。早速ネットで調べてみましたら、それはもうすぐのこと。既にカウントダウンが始まっています。とても明るいニュースです。国内には現在3つの現像所が残っていますが、既に一社も残っていない国もあります。復元ラボで仕事できる特別なエキスパートを育てることが大切で、IMGICAウエストの技術者を「宝だ!」と話されたのはこの時。私も3日目のワークショップで若い技術者等の活躍を目の当たりにして、とても頼もしく感じました。
DSCN90441日目午後に行われたライトニングトークで、IMGICAウエストの柴田幹太さんは、玩具映画の短いナイトレートフィルムから、作られた時代、国、全長、監督、題名などを探ろうと調査した過程を報告されました。「基礎情報を提供し、映画研究者やフィルムアーキビストと相談していく。復元の技術だけでなく、意識を高めていきたい」と力強く話す姿勢に感銘を受けました。
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同じくIMGICAウエストの松尾好洋さんと久保真人さんは、文化財であると同時に危険物でもあるナイトレートフィルムを多く復元してきた経験から、劣化した同フィルムを安全に取り扱う上で知っておくべき物性を探ろうと発火テストを実施。その検証結果について報告されました。より安全に作業するために、科学的な知見を得ようと取り組まれる姿勢にも心強く思いました。写真向かって左、マイクで話す松尾さんは第43回(2013年度)柴田賞を受賞されました。映画・テレビ制作に関する諸技術に概ね10年携わり、他の模範になり得る業績、著しい業績のあった人に贈られる賞です。
IMG_3614A同じくライトニングトークで、東洋現像所の川俣聡さんが、6月7日から公開中の「ゴジラ」(1954年)のデジタルマスター版制作について話されました。昨年から6月までかかった作業の中で、「フィルムが持つ潜在的な可能性の高さを再認識した」「媒体がかわっても、フィルムが残っていれば作ることができる」と話された言葉が印象に残りました。
DSCN9057今回も米国から駆け付けてくださったAudio Mechanicsの宮野起さんは、ライトニングトークで、音声素材の保存とデジタル化について話してくださいました。同社では、これまで映画約150本、4千以上の音声素材を評価選別した上で、デジタルファイル化。その時、素材毎に関連情報を明記しているそうです。その経験から、デジタル保存するには「ファイル名に関連情報を含める」「デジタル化された素材に、写真や文書を添付する」「特定の素材が保存された理由を客観的に説明する」など、アーカイブの過程でアーカイブすべき情報は何か、分かりやすく話してくださいました。

大傍さんも、一連のフィルム・プロセシング(現像、タイミング、プリント作業、フィルム映写)に関して記憶されるべき情報を正確に残しておく(文書化、設計図)ことが大切だと講演で話されました。また、最良の映写環境を守るためにも、映写機、レンズなど機器の入手が困難になった場合は図面や設計図を入手・保管するなどの対策を講じることも必要だと述べ、最後に「日本では民間企業と協力して、アナログ復元、アナログ映写を守っていく」と締め括られました。同センター相模原分館には、昨年50万缶収めることができる安全な収蔵庫ができました。最終的に安全な保管場所ができたことは、何よりも心強いことです。とにかく映画フィルムは捨てないことが重要です。貴重な文化遺産である映画フィルムは次世代に継承する道が拓かれています。

第9回映画の復元と保存に関するワークショップ(2)

全国各地から100人以上の「映画の復元と保存」に関心を寄せる熱い人々が集い、繰り広げられた9回目のワークショップ。開催中も、閉会後も「今後も継続して開催して欲しい」「この場所なら、同じ思いの人と思う存分話しができる」「情報交換できて勉強になる」「手作りで、このような内容の濃い催しが継続開催できていることが素晴らしい」等という声をたくさん聞くことができました。関係者の皆さんの情熱と尽力の賜物です。心から御礼申し上げます。
DSCN9063専門的な話は素人の私には難しくて分からないので、レクチャーの中から印象に残った事柄をいくつか思い出して、書いてみたいと思います。

最初に京都文化博物館の森脇さんが、同館のアーカイブへの取り組みについて話されました。「復元には財源の問題が大きい。何を残したら後の人に伝えられるのか考えてアーカイブしている」「単発映画上映だけでは駄目で、しっかり耕していかないと支持が得られない」と映像の未来を担う国内外の子どもから若い世代を対象とした、あるいはまた府立盲学校を対象とするなど様々に展開しているワークショップの様子を紹介頂きました。

「日本のハリウッド」と言われた京都の土地柄もあって、収蔵資料の8割以上が映画産業からの資料。映画制作関係者の資料が豊富で、文庫形式の収蔵などの特徴があるそうです。その中で興味を持ったのが、「森田佐吉文庫」。不勉強で、初めて聞く名前でした。後で確認したところ、森田佐吉(1874〜1944)は宇治で茶卸を家業としていました。高利貸しなどもして儲けたお金で、大阪で映画や芝居の興業をしていました。そうした経緯もあって日活映画に招かれ、1937〜41年に社長を務めました。1937年頃から、日活には阪東妻三郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵など大スターが入社しています。文庫の資料はお孫さんから寄贈されたものだそうです。

今日職場で、「宇治茶の商いで高利貸しなどもできるほど儲かっていたのでしょうかね」と話したら「昔はそうだったかもしれないね」ということに。今やお茶離れは深刻で、茶処の南山城地方でも急須のないお宅がたくさんあるようです。2日目に見た復元映画「京都府の茶業」(大正12〈1923〉年、モノクロ・サイレント、9分)と「続・京都府の茶業」(同、30分)も興味深く見ました。いずれも衛生教育劇協会作品。宇治茶の茶摘みに集まった娘さんたちの何と人数の多いこと!驚くばかり!!その行列が延々と続きます。今では想像するのも難しいですが、往時の茶の商いは確かに儲かったのでしょう。今京都府では、2020年の宇治茶世界文化遺産登録を目指して取り組みを進めています。こうした貴重な映像も、その活動に生かせればいいですね。

ところで、今回のワークショップに合わせて、同館上映プログラムに、23日は阪東妻三郎出演「雲母阪」(大正3〈1924〉年、マキノ等持院作品の断片)▼桜木梅子・秋田伸一出演「祇園小唄 絵日傘 第1話舞ひの袖」(昭和5〈1930〉年、マキノ御室作品、54分、掲載写真はその一部)▼澤村国太郎、浅間昇子出演「祇園小唄 絵日傘 第2話狸大尽」(同、6分の断片。※第3部草枕は発見されていない)の3本の復元映画を上映。24日は平成21〈2009〉年7月10日に日本で初めて映画フィルムが重要文化財に指定された「紅葉狩」(9代目市川団十郎、5代目尾上菊五郎の歌舞伎「紅葉狩」を明治32〈1899〉年に撮影した作品。モノクロ・サイレント、5分)▼「御大典 昭和御大禮の盛儀」(昭和3〈1928〉年、モノクロ・サイレント、10分)▼「戦前の山鉾巡行記録映像」(昭和5〈1930〉年、モノクロ・サイレント、2分)と先に述べた茶業2本の計5本の復元記録映画が組み込まれました。

両日午後1時半、ワークショップ参加者も一般参加者に混じって観賞しました。「紅葉狩」はわずか5分ですが、映画が日本に紹介されて百十余年経ち、初めて映画フィルムが「文化財」として保護の対象になった記念すべき作品です(2009年7月10日、重要文化財指定)。日本人により撮影された最初期の作品でもあり、これを観られたのは良かったのですが、無声映画についてさほど関心がない一般の人には、どのように受け取られたのか気になりました。上映後に会場から出てきた年配の男性が「あぁ、良く寝られた」と話されたのを耳にしたときにはとても残念に思いました。真っ暗な場所で、静かなモノクロ画面を見れば、そのように思う人もおられるのは無理もないことでしょう。

「祇園小唄」3部作が公開された時には、舞妓姿の女優が字幕に合わせてスクリーン脇で「月はおぼろに東山/霞む夜毎のかがり火に/夢もいざよう紅桜/しのぶ思いを振袖に/祇園恋しや だらりの帯よ♪」(長田幹彦作詞、佐々紅華作曲)と唄う興業形態がとられ、大ヒットしたそうです。字幕に歌詞が映れども肝心の唄が聞こえないのではつまりません。当日のライトニングトークではサイレント映画ピアニスト・柳下美恵さんが「映画館にピアノを!」の活動を紹介、受講者には活弁士・山崎バニラさんも参加されていたので、彼女らに協力して貰って上映していたならば(大がかりな楽器を用意しなくても)、決して「あぁ、よく寝られた」の言葉は発せられなかったはず。伴奏付き、あるいは活弁付きで無声映画を観て貰えたら、きっと彼にも面白さが伝わったことでしょう。「しっかり耕していかないと、支持は得られない」はその通りだと思います。会場入口に、ワークショップのチラシを置いておかなかったのも、一般の人に取り組みを知って貰えるチャンスを逃がしたと思います。何ひとつ手伝いもしなくて言うのはおこがましいのですが、次回への教訓にしたいと思います。

第9回映画の復元と保存に関するワークショップ(1)

3日間にわたって開催された「第9回映画の復元と保存に関するワークショップ」が本日無事終了しました。
チラシ表チラシ裏連れ合いが、ロシアで発見された映画「何が彼女をそうさせたか」(1930年公開、鈴木重吉監督)を1997年から翌年にかけて復元したのが契機になって、残存している日本映画が既に劣化の途上にあり、戦後の名作も散逸の危機に直面していることがわかりました。そこで、手をこまねいているわけにはいかないと立ち上げたのが2006年の第1回目のワークショップ。それから今年9回目を迎えることができました。その間のことは日本映画テレビ技術協会『映画テレビ技術』(2014年8月号)で紹介しています。

私は、昨年初めて参加し、今年は2回目。会場は、全国各地、海外からもかけつけてくださった人々の熱気で溢れていました。それは博物館・美術館のアーキビストたち、研究者、映画関連企業、一般・学生の方も含む「映画の復元と保存」に関心がある人々と多様です。毎年ここで再会し、情報交換するのを楽しみにしておられる人も多く、参加者相互のネットワークが確実に広がっています。

文博を会場にした2日間では合計23のレクチャーを受講。実に盛りだくさんな内容で多くのことを学ばせて頂きました。

そして、今日は希望者による現場体験実習が3箇所で開催されました。3会場とも受け入れ定員があり、キャンセル待ちの人気振りでした。私は、希望が叶ってIMGICAウエストさんに参加。ラボ内見学の他、フィルム繋ぎなどの体験をさせて貰いました(手先が不器用な私には難しい作業でした)。様々な状態のフィルムも見せて貰いました。劣化が進んだ貴重なフィルムを復元する職人技を、東京国立近代美術館フィルムセンターの大傍さんは、講演で「宝だ!!」と表現されましたが、「本当にそうだ」と思いました。

貴重な体験の場を提供して下さったIMGICAウエストさん、吉岡映像さん、神戸映画資料館さんに心から御礼申し上げます。3日間の学習の場で見聞した中から、素人の私が印象に残ったことのいくつかを後日紹介したいと思います。

普代村と鵜鳥神楽(3)

今日の晩ご飯は、いただいた掘りたて筍と普代村の特産品「すき昆布」の炊き合わせ。2、3㍉幅に刻み乾燥させて作る「すき昆布」は、昭和44年に太田名部(おおたなべ)の青年たちによって作り始められたのだそうです。いただいた資料に3〜4㍍にもなる大きな肉厚の養殖昆布が写っています。昆布がこんなに大きくなるとは知らなかった!!天然物だけではなく安定供給のため養殖に力を入れているそうです。村では2009年から「ふだいの昆布で村おこし!プロジェクト」を展開中で、他にもいろいろ美味しそうなものが紹介されています。消費地がサポートすることが被災地の「水産力」再生への力になります。今はワカメの最盛期だそうです。

資料を見ていて今頃気付いたのですが、NHK  朝ドラ「あまちゃん」に出てきた「北三陸鉄道袖ヶ浜駅」は、普代村の「堀内駅」だったのですね。あの青くて綺麗な海はここだったのかとガッテン!

鵜鳥神楽を見た翌日の3月22日付け朝日新聞別刷に、磯田道史先生の連載「備える歴史学」が、普代村のかつての村長だった和村孝得(わむらこうとく)さんのことを取り上げていました。3.11の震災では巨大津波により沿岸地域で甚大な被害がでましたが、普代村では海へ船を見に行った1人が今も行方不明ですが、亡くなられた方はゼロでした。座談会でお聞きした話では、行方不明になられたのは鵜鳥神楽衆のメンバーだそうです。他に家が流されたメンバーもおられるそうです。東京の国立国会図書館へ行って和村さんの回想録『貧乏との戦い四十年』を読んだ磯田先生は、明治29(1896)年の明治三陸大津波で302人、昭和8(1933)年三陸大津波で137人が亡くなっていることから、「二度あったことは、三度あってはならない」と村の人を守るために東奔西走、尽力した和村元村長を讃えています。

前回掲載した資料「ふだい村がいちばん。」の中にも和村元村長の顔写真とその時のことが載っています。15.5㍍の高さがある太田名部防潮堤は昭和42(1967)年完成、普代水門は昭和59(1984)年に完成しました。普代水門の総延長は205㍍。財源や土地の活用に対する村の人の反対や県や国の意見に対しても、この高さが必要だと訴え続け、説得して実現させたそうです。明治三陸大津波では15.2㍍の津波が記録されていました。三度目の大津波では、600隻のうち550隻が被害に遭いましたが、亡くなった方、住宅の被害が少なかったのは普代水門・防潮堤のおかげだと座談会でも話がでました。

さて、陸中沿岸地方の廻り神楽は、普代村鵜鳥神社(漁業の神)の「鵜鳥神楽」と宮古市黒森神社(火伏せの神)の「黒森神楽」があり、北の久慈市から南の釜石市まで南北に巡行します。それぞれの神社を起点に、南廻りの年と北廻りの年を交互に行います。普代村から北の久慈市は近いですが、南の釜石市まではかなりの距離がありますね。1月8日前後に出立の儀式「舞立ち」をして、神降ろしの歌で獅子頭に入魂し、権現様に姿を変えた神様と共に神楽衆は巡業の旅に出ます。3年ぶりの巡業だった今年は南廻りで、10ヵ所以上の神楽宿を取ることができたそうです。来年は「じぇ、じぇ、じぇ」で有名になった久慈市へ行く北廻り。

橋本先生の説明によれば「普通は神様のところへ行くが、鵜鳥は神様が家に来てくれると、宿主は涙を流して喜ぶ」そうです。神楽宿では舞い込み、儀式、休んで、夕ご飯後に神楽を舞います。それも何時スタートではなくアバウト。だいたい午後7時から真夜中の12時、1時ごろまで6時間ほど。神楽宿では「神様が泊まっていってくれたから、今年は大丈夫」と安心するそうです。そして、日中は権現様を奉持して一軒一軒訪ねて「門打ち」。悪魔払いの祈祷をして、人々に祝福と慈愛をもたらします。演目は54ほどあり、今回のように場に応じた出し物が選ばれます。誰もが知っている演目だとなおさら楽しめますね。ごちそうを食べて神楽を見る陸中沿岸地方の心豊かな暮らしの一面を知ることができました。

黒森神楽も気になって、ネットで検索してみました。2006年に国の重要無形民俗文化財に指定されています。こちらもなかなか興味深い神楽です。遠野郷八幡宮HPによれば、2年に一度の南廻りの神楽宿をされていて、来年3月頃に遠野巡行の予定だそうです。来年3月なら見に行けるかもしれないとカレンダーとにらめっこ。

普代村と鵜鳥神楽(2)

座談会「震災から3年、神楽と漁業で地域づくり」には、鵜鳥神楽舞で大活躍された工藤さん、鵜鳥神社宮司の熊谷さん、普代村広報の森田さん、それに主催者の追手門学院大の河合先生と橋本先生が出演されました。
表紙1表紙当日は参加者全員に、特産品の「すき昆布」と普代村に関する資料をいただきました。ここに掲載したのはその資料の一部。「何て美しい景色なのだろう」と思いながら頁をめくります。そして目に入ったのが1編の詩「いちばんの朝」

新しい朝が 北緯40度東端の村ふだい村にやってくる。
北京よりもマドリードよりも、ニューヨークよりも先に
いちばん最初にふだい村に朝がやってくる。

いちばん最初の「おはよう」は、海に出ている漁師さん。
暗いうちから漁に出たごほうびだ。
大漁ならなおさらいい朝。
(略)
次から次へ、村のいのちがすべて目覚める。
風が運ぶ潮の匂い、暮らしの匂い、町の匂い。
靴の音、車の音、船の音、一番列車もそろそろ着くころ。
さあ新しい未来が始まるよ。
北緯40度のいちばん東の小さな村に、
今日もいちばんの朝が来た。

とっても良い詩です。3年前に津波で大変な被害に遭ったのに、そんな辛さを微塵も表さないで前向きで、言葉がキラキラ輝いています。広報誌もネットで見てみました。普代村を思う気持ちに溢れています。広報担当10年の森田さん、昨年4月から担当の下道さんが作る素敵なこれらの発行物に感動しました。人口わずか2944人、世帯数1131(2月末現在)。私の身近で例えれば京都府唯一の村「南山城村」とよく似た規模と言えるのかも。こちらは人口3021人、世帯数1246(3月1日現在)。

座談会で聞いてて驚いたのは、小さい村だからこそ、他所にはない良い点があるという発想。100歳以上が4人もいて、実は隠れた医療と福祉の村だったのです。例えば高校まで医療費と学校費用が無料(給食費が8千円だけ)。とはいえ、漁業の後継者問題、民俗文化の後継者問題はどこも同じ。そこで教育委員会が、小・中学校と連携して「こども神楽の教室」をやり、中学校には神楽の同好会もあるそうです。神楽を学校で学ぶことでコミュニケーション能力UP効果も。地域ぐるみで教育を支え、伝統文化を守ろうと取り組んでおられる様子が素晴らしいと思いました。印象に残った言葉に「子どもが育つと、大人も育つ。子どもが変わると、大人も変わる」「神楽は人が一歩踏み出せるツールになっている」があります。普代村の魅力がこの言葉からも伝わってきます。

中学生の時から17、18年やっているという工藤さんは「何が楽しくて見に来るんだろうと思っていたが、神楽の良さを学者から教わった。今は来てくれる人の幸せを願って、楽しんで帰ってもらう」ことを思って舞っているそうです。そして巡業の変化も話してくださいました。昔は権現様(獅子頭)や道具を肩に背負って、村から村へ歩いて行き、一回行けば2カ月くらいかかり、終われば船で帰ったそうです。今は土日がメインの日帰り。神楽宿も民家でやるのは今は数軒で、主に公民館で神楽を見せるだけになっているそうです。宿をする家の住宅事情や生活スタイルの変化、神楽衆の職業もサラリーマンなど様々で、かつてと同じような巡業を求めてもそれは無理というものでしょう。時代にあったスタイルでも伝統文化の火が燃え続けて貰えたら良いなぁと思いながら聞いておりました。

熊谷宮司さんは、震災後「お祝いが神楽の役目だと思って、犠牲になられたところを廻るのは、やるべきではないと考えた。今年3年ぶりに本格的巡業をして、思った以上の反響に正直とまどった。『神楽には念仏もあるので、神様に来て貰って清めて欲しい」と思う神楽宿の人が多かった」、「5月最初の例大祭の鵜鳥神楽奉納には、三陸沿岸の人がたくさん来て『ここに来ないと一年が始まらない。上手くいかない』と言った」、「震災後の例大祭の時、宮古の人が『家が流されたけど、船が残ったんで、参りに来た』という漁師が来た」という話をして下さいました。主に漁師さんを中心に、深く篤く信仰されている様子が伝わってきました。

今年も旧暦4月8日、鵜鳥神社の朱塗りの神楽殿で鵜鳥神楽が奉納されます。今のカレンダーに直すと5月6日GW最終日ですね。できることなら普代村で見てみたい。

普代村と鵜鳥神楽(1)

3月21日、大阪府茨木市の茨木神社で行われた鵜鳥神楽(うのとりかぐら)奉納が見られる催しに参加しました。追手門学院大学地域文化創造機構の主催です。鵜鳥神楽(国選択無形民俗文化財・岩手県指定無形民俗文化財)については、2012年9月29日、国立民族博物館へ行った折り、会場の一画に鵜鳥神楽の展示があったことで初めて知り、その時から関心を持っていた民俗芸能です(2012年9月30日付掲載)。民博では、その年の10月21日に企画展「記憶をつなぐー津波災害と文化遺産」関連として鵜鳥神楽が披露されました。

茨木神社での奉納も民博同様、橋本裕之・追手門学院大学地域文化創造機構特別教授の解説で進められました。2012年3月まで盛岡大学教授だった橋本先生は、岩手県文化財保護審議委員会で民俗文化を担当する唯一の委員だったことから、岩手県下閉伊郡普代村(ふだいむら)鳥居に鎮座する鵜鳥神社の獅子頭である権現様を奉じて演じる鵜鳥神楽を、県の無形民俗文化財に指定する際の報告書を作成されました。その登録の手続き中に3.11の震災に遭ったのだそうです。

「これほど有名なのに、これまで登録されていなかった。皮肉にも震災があって注目されるようになった」と橋本先生。先日の国立劇場での上演では皇太子様がご覧になられたほか、震災から3年ぶりに陸中沿岸地方を巡業している様子がテレビでも取り上げられ話題になっています。今はその巡業が終わり、神上げ(神楽のため地上に招いた神霊を、祭ののち天へ送り帰すこと)が終わったばかりなのだそうです。
DSCN7044DSCN7047DSCN7045JR茨木駅、阪急茨木市駅のおおむね中間地点に位置する茨木神社。鳥居の向こうに本殿。丁度神楽衆の参拝と重なりました。東門は、説明文によれば、中川清秀、片桐且元の居城だった茨木城の搦手門を移築したものだそうです。
DSCN7051DSCN7050この日は
儀式殿1階の和室に巡業の際用いる幕を張り、「本格的な神楽家の雰囲気がある場所で、本来の鵜鳥神楽が奉納できる」と喜んでおられました。もちろん見ている方も嬉しい限り。

神楽幕の向こうに神様が居られます。幕の手前、向かって右に太鼓と横笛、左に鉦奏者が座ります。
DSCN7055DSCN7058DSCN7064最初の演目「清祓」。
「悪魔外道がいたら清め申す」と神楽を演じる場を清めます。太鼓を演奏する胴取(どうとり)の三上さん(89歳)と鉦奏者の男性が歌を歌い、賑やかに神楽が始まりました。
DSCN7073DSCN7074DSCN7076続いて「斐の川」。
斐の川の上流に住む八岐大蛇をスサノオが退治する有名な話。先ほどまで鉦を敲いていた人が爺やの役で「8人の娘を取りに来る。もう7人取られてしまった。あぁ、怖いやい、怖いやい」と呟きます。そこへ現れたスサノオは、嘆き悲しむ爺やから事情を聞き、八岐大蛇を退治したらクシナダヒメを貰う約束をします。「じゃ、爺やもあとからついてこい。婆やもあとからついてこいよ」のスサノオのセリフに、すっかり神楽の世界に入り込んでしまった観客の女性が、思わず「ハイハイ」と答えて会場の笑いを誘っていました。
DSCN7077DSCN7079DSCN7081一同が下がった後に登場した八岐大蛇。
スサノオの狙い通り、置いてあった酒を浴びるように飲んで酔っ払います。
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毎年娘を一人ずつ食べたせいか、お腹周りがポッチャリして、怖い顔に似合わず愛らしい。格闘の末、見事スサノオは八岐大蛇を退治してクシナダヒメを娶ります。「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」目出度し、目出度し。後で調べると、茨木神社の祭神の一人がスサノオだったので、相応しい演目ですね。
DSCN7095DSCN7096DSCN7098続いて「羅生門」。主役の工藤さんは本当に芸達者で、若手代表。次の「恵比寿舞」もですが、いくつもの主役をこなし大活躍。
「羅生門」は会場が茨木神社ということで、茨木童子が登場する演目です。平安時代に大江山を本拠に京の都を荒らし回った鬼の一人で、酒呑童子の家来となった茨木童子が、源頼光四天王の一人・渡辺綱と羅生門で戦った故事が演じられます。
DSCN7099DSCN7101DSCN7103大立ち回りの末、茨木童子の腕を切り落とします。「あぁ、息が切れた!」。セリフを忘れた工藤さんに会場から様々な掛け声。すると「あっちこっちから聞こえてわかんなくなる。えー、あと何だっけ?」。爆笑が会場全体を暖かく包みます。

実は、神楽衆のメンバーで今回の公演の段取りをしていた深渡さん(普代村教育委員会次長)が急死されるという悲しい出来事がありました(チラシには勿論のこと、私が公演のことを知った2月6日付毎日新聞夕刊にも出演者の一人としてそのお名前があります)。さらに前日から急速に発達した低気圧の影響で北日本は大雪に見舞われ、雪で立ち往生して間に合わなかったメンバーも一人おられました(ちなみに
岩手県久慈市3月21日午前10時の積雪は62㌢で3月としては統計開始から最多)。そのため、急遽何役も務めることになったので、セリフ忘れは致し方ないこと。赤い頬被りをした門番を務めるのは先ほどの爺や役の男性。この方もなかなかの芸達者で笑わせてくれます。
DSCN7106DSCN7109DSCN711080歳に傾く養母が渡辺綱に会いに来て、切った鬼の腕を見せて欲しいと門番に訴えます。「白内障でよく見えんので、手に触らせてくれ」と手を伸ばしますが、門番は代わりに自分の手を触らせて騙そうとします。「随分おじいちゃんのような手」と養母。門番が自分が着ている着物の袖口を丸めて差し出すと「今度は白い布」と養母。「白い布と見えているなら目が悪くないじゃないか」と門番が返します。このやりとりには、ゴーストライター騒動の佐村河内さんを思い出してしまいました。仕方なく門番が、鬼の赤い手を差し出した瞬間、養母はさっと腕を取り返し、茨木童子に変身。
DSCN7111DSCN7118DSCN7119元気になった茨木童子は観客の間に座り込んでリラックスしたり、挙げ句の果ては、急遽引っ張り出された茨木市のキャラクター茨木童子くんに戦わせて、自分は片肘ついて寝そべったり…と気まま。ついには二人とも渡辺綱に切られますが。実は茨木童子は茨木村の出身で、散髪屋の前に捨てられ床屋の子として育てられという伝承があるのだそうです。鵜鳥神楽の「羅生門」はコント仕立てのお芝居で、祈りながら笑って貰う演目。大いに笑わせて貰いました。

余談ですが、3月26日京都の四條南座で「三月花形歌舞伎」夜の部を見ました。出し物は「御摂勧進帳(ごひいきかんじんちょう)」から尾上松緑が熊井太郎を演じる「暫(しばらく)」と同じく弁慶を演じる「芋洗いの弁慶」、尾上菊之助が白拍子花子をあでやかに演じる「京鹿子娘道成寺」。
「御摂勧進帳」には即興のセリフもあり、笑わせてもらいましたが、鵜鳥神楽は華やかで大仕掛けの歌舞伎には及びませんが、その原点を見たように思いました。観客の目と鼻の先で、時には観客と入り交じって、素朴に演じる様は、とても楽しいものでした。陸中沿岸地方の人々が神楽の巡行を楽しみにしている気持ちが良くわかります。

そして最期の演目「恵比寿舞」に入る前に「お花(祝儀)の御礼」がありました。横笛担当の人が「ひとつ金は金一封なり。右は○○様より」と読み上げます。私の故郷富山県砺波市の伝統芸能獅子舞でも「トーザーイ トーザーイ(東西東西)、モークロク(目録)一つ、名義は○○様より」と「お花の御礼」を声を張り上げて述べるので、とても懐かしく思いました。
DSCN7122DSCN7125DSCN7137恵比寿舞は鵜鳥神楽の一番大切な曲。釜石と久慈の間を行き来しながら、ずっと大事にされてきた演目だそうです。

ピンチヒッターとして鉦を担当している橋本先生が、何やら観客の女性の耳元で話しています。どうやら元気よく泳ぐ鯛を演じて欲しいとの依頼のようです。やがて、恵比寿様から投げられた釣り針に鯛を結び付け、鯛は見事に恵比寿様の手元へ。
DSCN7144DSCN7148DSCN7152鯛を釣り上げた恵比寿様の舞で鵜鳥神楽奉納は無事終了しました。鵜鳥神社は漁業の神様として漁業関係者の信仰が篤く、目出度い演目での舞終いです。

この後、参集殿に会場を移して、座談会「震災から3年、神楽と漁業で地域づくり」が行われました。続きは後日。




和の伝統技術と文化を未来へ

5月の遊子庵5周年祝賀会で知り合った若者のFBで、日本の大工技術を「世界無形文化遺産」に登録しようという動きがあることを知りました。彼は、社寺、数寄屋建築、一般建築を手がける工務店をしていて、石場建てを含む伝統工法木造建築に取り組んでいます。彼からの情報で、公益財団法人竹中大工道具館から、ハーバード大学へ日本の大工道具一式が寄贈されることになり、それを記念して現地で大工仕事を紹介する展覧会「The Thinking Hand:Tools and Traditions of Japanese Carpentry」が開催(1月15日〜3月25日)されることも知りました。

竹中大工道具館のHPによれば「『シンキング・ハンド』とは、熟練した手仕事こそがものづくりの原点であり、そのために手の動きと材料を媒介する『道具』を大事にするという、日本の職人の考え方を切り取ったコンセプト」。茶室の実物大構造模型を現地で組み立てて展示したり、映像をまじえて匠の技などを紹介されるそうです。このところ、正倉院、薬師寺、東本願寺、知恩院の修理修復現場や貴重な家屋を多々見学する機会に恵まれ、日本の大工技術の素晴らしさに心打たれている私としては、とても嬉しいニュースです。

さて2014年の幕開けはもうすぐです。古来から正月、宮中では雅楽が演奏されてきました。12月12日付京都新聞は、渡辺信一郎・京都府立大学長の著書『中国古代の楽制と国家ー日本雅楽の源流』を紹介。それによれば、日本雅楽の源流は、古代中国の宮廷音楽の燕楽(えんがく。宴会音楽)だそうです。「7世紀初頭の遣隋使以後に燕楽が日本に本格的に入り、8世紀初頭に楽制が整い、随唐に範をとる宮廷音楽が確立した」そうです。「東大寺の大仏開眼供養(752年)では、中国の燕楽方式をまね、天皇権力を内外に示した。音楽自体に政治性があるわけではない。音楽の特質が人間の言葉や意思を超えて、感情での一体感を醸し出す。それが音楽の良さだが、それゆえに政治性も帯びやすい」と話しておられます。「なるほどなぁ」と思いつつ、雅楽ではありませんが、大阪のように国歌を歌っているか口元をチェックするのは如何かと思います。

11月17日に聴講した「2013年陽明文庫講座ーいま世界にはばたく宮廷文化③」で、岩波滋・元宮内庁式部職楽部主席楽長(重要無形文化財保持者)が、同文庫所蔵の笙三管を演奏されたのも印象深い出来事でした。配布された雅楽年表によれば、大宝元(701)年に治部省に雅楽寮が設置され、翌年正月、「五常太平楽」が演奏されています(唐楽曲名最初の記録)。東京大学史料編纂所の研究チームが、今年8月100年ぶりに陽明文庫所蔵笙3管を開けました。分解・補修された時に、その内の笙「菊丸」の17本ある竹の1本に銘があることがわかり、赤外写真から建治3(1277)年に正暦寺(奈良市菩提山町)の笙工房で制作されたものと推定されました。演奏できる笙としては国内最古。残る笙も室町時代の作と推定されるものと、貞亨2(1685)年の銘がある「雲龍」と歴史あるものです。

「夕べは指をオイルマッサージして今日に備えた」と名和修・陽明文庫長から聴衆に明かされてしまった岩波さん。指の圧力がぶつかるだけで音が混じるほどデリケートな楽器なので、息に集中して指が自在に扱えるようにとの配慮だそうです。最初に「笙の魅力」について話されたあと、いよいよ3管を演奏。音色の違いを楽しませていただくという得難い時間を過ごすことができました。736年前の音色が会場に広がりました。「本来の演奏ができるようになるのに40年もかかっている。『無』になって笙と一体になって捧げるのが一番か」と話された岩波さん。貴重な3管を手に演奏する同氏の高揚感がよく伝わってきました。

「鳳笙」の美名もある笙は、美しい形をしていて、他の楽器と混じり合って奏でる楽器。独奏曲は1曲もないそうです。息を吸っても吐いても鳴る楽器なので永続する音色、悠久の和音で包みます。嬉しい、悲しいなどの感情を移入しにくい楽器でもあるそうです。笙の音色は、世の中の平穏無事を祈るに相応しいと思いながら目を閉じて聞き入りました。

いろいろ難しいことが山積みの社会ですが、どうか新しい年が「悠久の和音で包まれますように」と願って、今年のブログを終えます。お読みいただきありがとうございました。どうぞ良い年をお迎え下さいませ。
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甘南備山(京田辺市薪)に沈む今年最後の夕日。広辞苑の「かむなびやま」に「神の鎮座する山の意」として載っている山の1つです。

聴講「はんなり京都嶋臺塾㉘」

11月12日、伝統的な京町家「嶋臺(しまだい)」で開催された、京都大学地球環境学堂・学舎・三才学林主催の講演会を聴講しました。テーマは「極地を生きるちから」。

講師は、プロの登山家・竹内洋岳(ひろたか)さんと京大工学研究科の高橋重成先生。正直に告白すれば、運動音痴と高所恐怖症なこともあり「登山家竹内洋岳さん」のことは存じませんでした。でも、かつて参加したこの塾はとても面白く勉強できるので、迷わず申し込みました。そして、それは大正解でした。
14座












私の宝物の一つ、竹内さんに当日サインしてもらったはがきです。ミーハーなので写真も一緒に撮らせてもらいました。

竹内さんの演題は「頂(いただき)へ」。「凄いなぁ」と感心しながら読んだ著書『標高8000メートルを生き抜く 登山の哲学』(NHK出版、2013年5月)の著者紹介から引くと

…1971年、東京都生まれ。ICI石井スポーツ所属プロ登山家。立正大学客員教授。酸素ボンベやシェルパを使用しない速攻登山を中心に、数々の8000㍍峰に挑戦。12年にダウラギリⅠ峰の登頂に成功し、日本人初の8000㍍峰全14座完全登頂を果たす。第17回植村直己冒険賞受賞。…

メモを頼りにお聞きした話を幾つか紹介。
「世界には8000㍍の山が14座ある。ヒマラヤにはチベット人が住み、彼らは神としてそれらの山を崇めている。敬意を込めて『座』と呼ぶのは日本人だけ。『座』と呼べるのは幸せ」。

はがきのイラストが示すように8000㍍は飛行機が飛んでいる高さです。その高さを竹内さんは歩いて登っているのです。想像するだけでクラクラします。「歩いて宇宙に行くような感覚」だそうです。そこでは酸素が3分の1しかありません。ー30度、立っていられないほどの強風ジェットストリームが吹いています。「そんな過酷な状況を行くのはアネハヅルとインドガンだけで、たぶん嫌々ヒマラヤ山脈の上空を飛んでいるのだろう。アネハヅルは仮死状態でエベレストを越えるという説もある。生き物を寄せ付けない超高所へ敢えて立ち入っているのは人間だけ」。

「5000㍍にベースキャンプを置き、キャンプ1、キャンプ2、キャンプ3、頂上へ。そこでは3歩歩くと100㍍ダッシュしたようなもので、頭が痛く、嘔吐し、眠れない」。「死の地帯」と呼ばれる過酷な世界です。「そんな危険なところにどうして行きたいのか」と私は思ってしまうのですが、イギリスの登山家ジョージ・マロリーが「なぜ、あなたはエベレストを目指すのか」と問われて「そこに山があるから」と答えたという逸話のように、竹内さんも「高所登山の魅力」の虜になって「挑戦を続ける喜び」を更に追い求めたいのだろうと想像します。そして、この日の講演は、プロとしてその面白さを一般の人にも伝えたいと引き受けられたのだろうとも勝手に想像しています。

14座全て登頂されたのだから、特別強靱な人かと思うのですが、生まれた時は医者から「余命3ヵ月」と言われ、その後も病弱で、運動が苦手な子どもだったそうです。中学1年の時は小さくて前から5、6番目だった竹内さんですが、今は身長180㌢、体重65㌔のスラリとした体格。ゴッツイ逞しい山男を連想しがちですが、見事に裏切られました。筋肉量は山に登らない一般の人よりも少ないかもしれないそうです。

しかも、2007年7月のガッシャブルムⅡ峰(8035㍍)で雪崩に遭遇し、全身打撲、片肺が潰れ、背骨の一つが破裂骨折、肋骨5本が折れるという大怪我をされました。その時一緒にいた仲間2人が亡くなるという経験もされています。「それでも山に登る」精神力は、怖がりの私にはわかりません。

「酸素がもたらす生物の進化」を演題に話された高橋先生との対談でも、面白い話が聞けました。「『地球環境』は『保全』が掛詞だが、環境はどんどん変化している。それに適応するほうが早いし、可能性があるのではないか。人類で一番深いところに潜っていけるジャック・マイヨールの体には、ブラッドシフトという能力があった。人類は海から陸に上がった。いつか海に潜るための能力を体にとっている。恐竜は非常に薄い空気の中を生き延びた。鳥はそれを受け継ぐ。7000㍍くらいまでは先祖から受け継いだ能力。7000㍍に壁があるという人もいるが人類はその先に入っている。高いところに行って、あるいは、クジラのように海へ潜って生き延びる人がいるかも知れない。環境で生き延びたものだけが、生き延びる。人間は変化・進化する伸びしろをまだまだ持っている。いつか発揮することがあるかもしれない。如何に潜在能力を引き出せるか。先祖から受け継いだ能力の他にこれから獲得していく能力があるかもしれない」。

等々、人類の先をも見据えた話で盛り上がりました。職場に山登りが趣味の若者がいます。竹内さんの著書に彼の名前も入れたサインをしてもらい、翌日「山登りのお守りに」と言ってプレゼントしました。彼にとって竹内さんは神様のような人。とっても喜んでくれました。お正月休みには、八ヶ岳へ登るそうです。竹内さんのように無事に帰って来て欲しいと今から願う日々です。

聴講「2013年陽明文庫講座①」

9月21日、会員ミニ発表会を無事に終えて、急ぎ「2013年陽明文庫講座〜いま世界にはばたく宮廷文化」①を受講しに行きました。陽明文庫所蔵『御堂関白記』(国宝)が、今年6月にユネスコ記憶遺産に登録されたばかりで、京都文化博物館で開催中の「陽明文庫の名宝3」では、その『御堂関白記』も展示されています。今回はその『御堂関白記』に関連しての講演内容です。なお、文博では、昨年の陽明文庫講座で注目された僧俊寛の自筆書状(兵範記紙背文書)も初公開されています。開催は10月27日まで。

文博の「陽明文庫の名宝」展も3回目なら、立命館大朱雀キャンパスで開催されるこの陽明文庫講座も3年目。毎回熱心な聴講者で盛況です。3回シリーズの初回の講師は、五味文彦放送大学教授・東京大学名誉教授と島谷弘幸東京国立博物館副館長。五味先生の演題は「陽明文庫所蔵『枕草子』と『御堂関白記』」。『御堂関白記』(自筆本は長徳4〈998〉年に始まり、長保元〈999〉年から記事がある)には書かれていない歴史を補うものとして『枕草子』を採り上げられました。古典文学の知識がないので難しい話は分からなかったのですが、自分なりに面白いと思ったことを幾つか。

1、有名な「晴はあけぼの」で始まる清少納言の「枕草子」は、おそらく4冊だったものが、何かの事情で最初の1冊がなくなっていたのではないか。
2、原本が残っていないので、段数は色々な刊本によって違いがある。陽明文庫所蔵三巻本には、「安貞2(1228)年3月 耆老愚翁」の奥書があり、九条家に仕えていた藤原定家(当時67歳)が書写したものではないか。娘の民部卿が翌年に後堀河天皇の中宮に仕えることになっていたので、書写して与えようとしたことが考えられる。
3、跋文から、一条天皇中宮の定子が「天皇に献呈された紙には中国の『史記』が書かれることになったので、こちらでは何を書きましょうか」と尋ねたので、清少納言は『史記』の連想から四季、春夏秋冬を枕にした和様の作品を書くことを提案。『枕草子』は最初から宮(定子)に見せる前提で書かれた公的性格を帯びたもの。
4、「清少納言」と称されたのは、清原(きよはら)氏出身の少納言だから。少納言は中・下臈の女房名で、宮に仕えたもう一人の少納言は源氏出身の「源少納言」と称された。
5、清少納言は藤原道長(『御堂関白記』の筆者)の推挙で、正暦2(991)年宮に仕えるようになったのではないか。

五味先生は、「不慮の事故で脳挫傷になり、2カ月絶対安静だった間に、枕と親しくなった」と大変な経験をされたにも関わらず、ユーモアを交えながら『枕草子』の読み方を話して下さいました。そこで披露していただいた話は、随分昔に学校で習ったものと異なっていて新鮮に感じました。来年2月に本が出るそうです。幸いにも『枕草子』が書かれた京都にいるのですから、その本を手引きにして、清少納言の世界に触れてみたいと思います。

続いての島谷先生の演題は「陽明文庫所蔵の宸翰(しんかん)について」。宸翰は天皇自筆の文書のことで、陽明文庫には、平安時代〜江戸時代まで、歴代天皇とその周辺の人物の貴重な書が伝わっています。講演ではそれらの書を見ながら解説して頂きました。9月8日迄開催されていた東京国博の特別展「和様の書」でも、陽明文庫所蔵の宝物がたくさん紹介されたそうです。毎日新聞日曜版で島谷先生は「書の美」を連載されています。その中で7月21日付けで掲載された内容にとても興味を持っていました。慶長19(1614)年に松花堂昭乗が書いた書「長恨歌」の写真を添え、

…寛永の三筆として知られる松花堂昭乗(1584〜1639)の筆跡である。この寛永の三筆の名は人口に膾炙(かいしゃ)しているが、近衞信尹(このえのぶただ)が慶長19(1614)年に逝去しているので、実はおかしい名数といえよう。今後は、より適切な名前が必要である。「幕末」の言葉は定着しているが、それに対する「幕初」はいかにも唐突なので「江戸初期の三筆」としておこう…

幸い、講演でもこの話に触れられました。特別展「和様の美」では「江戸初期の三筆」に変えたそうです。ネット検索してみますと、「近衞信尹(号は三藐院〈さんみゃくいん〉)、本阿弥光悦、松花堂昭乗を〈寛永の三筆〉と呼ぶが、この呼名もおそらく明治以降であろうといわれ、1730年代(享保年間)には寛永三筆を〈京都三筆〉と呼んでいる」とありました。島谷先生の連載を読むまで何の疑問も持たず、例会の案内文などで松花堂昭乗について「寛永の三筆の一人」と書いてしまっていました。

手元にある『松花堂茶会記と茶の湯の世界』(2002年、八幡市立松花堂美術館)に掲載されている谷晃さんの論文「寛永の文化人 松花堂昭乗」にも「寛永の三筆の1人に挙げられ」とあり、「寛永文化の時期は、寛永年間(1624〜1643)だけでなく、それより少し前の1620年ころから、正保・慶安年間を含む1650年ころまでの約30年間ほどとするのが通例である」と書いておられます。「寛永の三筆」の言い始めはどなただったんでしょう?その頃の時代把握は1620年ころよりもっと遡って幅広くとらえていたのでしょうか?

ともあれ、松花堂昭乗についての表現が今後どのようになるのか興味津々です。久しぶりに『松花堂茶会記と茶の湯の世界』を繰っておりましたら、最後の頁の「松花堂昭乗関係系図」が目に入りました。6月30日の例会で訪れた上野城主藤堂高虎の長女が小堀遠州と、次女は松花堂昭乗の実兄中沼元知に嫁いでいます。公家、武家、町方と様々な立場の人々が交わって華開いた文化サロン、この時代も面白そうですね。
カレンダー
「2013年陽明文庫講座」を主催する東京大学資料編纂所から、お土産に来年のカレンダーを戴きました。テーマは「船」だそうです。同編纂所には30万点以上の史料が蒐集されていて、カレンダーもその史料を用いて作られています。

この日は、その史料の中から「国宝島津家文書 江戸大地震之図」の複写パネルもロビー展示されていました。安政2年10月2日(1855年11月11日)午後10時ごろ、関東地方南部に発生したM7を越える直下型地震(最大震度は6強と推定)を描いた絵巻物です。

地震を描いたものとしては日本で唯一のもので、近衞家伝来とされるほぼ同様の絵巻がアイルランド・ダブリンのチェスター・ビューティー・ライブラリーにあるそうです。








鮎香る川

8月7日付読売新聞朝刊と産経新聞夕刊に、淀川水系の鮎が激減していることが載っていました。先月30日夕方に聴講した第27回はんなり京都嶋臺塾「鮎香る川」で、鮎についての話を聞いたばかりでしたので、興味深く読みました。大阪市の「淀川大堰(おおぜき)」では、昨年4〜6月に魚道を遡上したのは163万匹いましたが、今年はわずか3万匹だったそうです。「激減」という言葉以上の驚きの数字です。

以下は新聞記事の引用。
鮎は秋に海に下って体長6〜10㌢の稚魚に成長。春先、河口付近の汽水域に集まり、春の雨による河川の増水で水温と塩分濃度が下がるのを感じとって遡上を始める。今年は3〜5月に記録的な少雨だったため、国交省淀川河川事務所は、河口から約10㌔上流にある淀川大堰を閉めて、大阪市中心部を流れる大川の水量を維持。この結果、淀川河口付近の汽水域に流れ込む真水の水量が減り、水温や塩分濃度が十分に下がらなかったため、遡上のタイミングを逃した可能性がある。鮎研究の高橋勇夫さんは「淀川水系での今年の産卵数も激減するだろうから、来年以降も遡上数が減る可能性が高い」と指摘。

淀川水系の木津川の鮎はどうなのだろうと気になって、翌日木津川漁業協同組合(山城町上狛)に聞いてみました。お金がかかるので、データ調査は一切していないそうですが、「今年は天然ものの鮎のひきが全体的に少ないが、大型鮎は釣れている」とのことでした。淀川水系では、琵琶湖でとった稚魚を放流したものも「天然」と呼ぶそうですから、木津川での影響は記事ほどではないのかもしれません。

さて、はんなり京都嶋臺塾の講師は、嵐山の「熊彦」ご主人・栗栖基さん。演題は「京料理と鮎」、もうお一人は、京都大地球環境学堂の宮下英明教授。演題は「石垢と鮎」。鮎について何にも知らなかったので面白く聴講し、メモした中から幾つか紹介。
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江戸時代、高瀬川三条に「生洲(いけす)」ができてから、音曲を嫌い料理に集中する料理屋が生まれ、料理人ができました(8月1日付読売新聞連載「時代の証言者」②〜京料理「美濃吉」佐竹力総さんによれば、享保元〈1716〉年創業時には、京都所司代から認められた「川魚生洲八軒」があったようです)。「京料理」の言葉は昭和になってから使われました。

昭和初期、板前割烹ができ、腕に自信がある人は、京から関東などへ腕試しに出て行き、京料理が広まりました。栗栖さんのお祖父様が京料理「たん熊」を創業されたのは昭和3年12月13日のことだそうです。郷土料理とは、自分が住んでいる3里4里四方でとれる山海川もの、発酵物を使って作る料理、地産地消に適うもの。京は三山三川に囲まれ、コイ、フナ、モロコ、スッポン、ヒガイ(鰉)、アマゴ、カワマス、ゴリ、ドジョウ、そして鮎など川魚とは切っても切れない関係にあります。これらは鮮度が命、生きたものを使うのが原則でした。

鮎には海産鮎と陸封鮎があり、前者は上掲新聞記事にある鮎。3月過ぎから遡上し、中流域に入ったところから水苔を食(は)むようになると、下唇が出て顔つきが変わります。後者は一生湖で暮らす小鮎(約10㌢)ですが、中には遡上するものもいるそうです。鮎は欲張りな魚で、年魚(1年で死ぬ)。1㎡の縄張りで食べるだけ食べて体力を付けます。その習性を利用して友釣りをするので、名人は鮎の食み跡から縄張りを探そうと五感を研ぎ澄まし、川をよく見ているそうです。

鮎は水温15度くらいが適温で、本州辺りが丁度あっているそうです。9月から下降して産卵に向かいます(落鮎)。天然鮎はスマートで、スイカやキュウリのような香りがして、ほろ苦くもありますが、それが良いのだと思っていました。けれども最近の人は、脂がのって軟らかい養殖鮎を好むとか。養殖鮎の餌はビール酵母だそうです。

「川藻を食べるのは鮎だけ。鮎はベジタリアンなのです」という話も面白かったです。同じ平瀬の中ではより深い場所、流れの速い場所を好むそうです。鮎の食み跡にはビロウドランソウが生えています。この藍藻はタンパク質など栄養価が高く、「水前寺海苔」も藍藻を利用した食品の一つ。つまりビロウドランソウを食べる鮎は栄養価も高いということですね。

鮎は汚れた川には遡上しないので、清流の指標とされています。雨を降らすのは神様の管轄ですから人間は如何ともし難いのですが、せめて川を汚さないようにみんなで心がけたいものです。
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「美濃山廃寺」をテーマに埋蔵文化財セミナー

5月25日、八幡市文化センターで開催されたセミナー「今明かされる古代寺院 美濃山廃寺の姿」を聴講しました。京都府教育委員会、公益財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター主催、八幡市教育委員会共催で、発掘調査に携わった3人が意見を発表。約150人が熱心に耳を傾けていました。

興味深かったのは、「古寺」という小字名が発掘の手がかりになっていたこと。平成の市町村合併でたくさんの大字小字が消滅し、どこに置き換えても通用するような「きれいでおしゃれな」没個性の地名を目にするようになっています。ところが竹林が広がっていた地名「美濃山古寺」に、文献に載っていない寺がかつて存在していたことが明らかになったのです。「地名は語る」という事例です。

さて、今回の発掘調査は、新名神高速道路整備事業とそれに関連する事業のため、平成23(2011)年度のほぼ1年をかけて行われました。それに先駆けて平成11〜15年に、周辺開発進行に伴って市教委が広大な竹林を発掘調査、古代瓦や寺院の区画跡を発見し寺院の範囲をほぼ特定していました。
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美濃山廃寺の位置は、八幡市の南西部で、京田辺市、枚方市に隣接した場所。奈良時代においては、山背国綴喜郡(やましろのくにつづきのこほり)に属していました。写真はセミナーで市教委の小森俊寛さんが示されたもの。左は発掘調査前の竹藪が広がる様子、右写真は発掘調査地の全景。
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発掘調査の出土品。左写真に須恵器の壺(水瓶)、土師器の鉢、奈良三彩の瓶、奈良三彩の二彩壺(仏花瓶)、須恵器壺(仏花瓶)、右写真にひさご形土製品、塼仏、土饅頭のような覆鉢形土製品(底径約9.5㌢、高さ4.5㌢)、面白い形をした土器。
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ひさご形土器と覆鉢形土製品は一緒に多数出土したそうです。不明土製品は、何のための道具なのでしょうか、興味深い形ですね。タイルのように用いた塼仏(せんぶつ)は3点出土したそうですが、展示されている小さな塼仏には金が残って小さく輝いています。
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先日新聞各紙で報道された「西寺」押印のある瓦。担当した引原調査員の発表で、1970年に平安京西寺跡から出土した「西寺」押印瓦拓影と重ねると、ピッタリ一致しました。美濃山瓦窯群には5基の窯跡が見つかっていて、1号窯(美濃山廃寺創建期の軒平瓦が出土。7世紀後半〜8世紀初め頃)は美濃山廃寺の南側、2〜5号窯は美濃山廃寺北東側の丘陵東側傾斜地で見つかっています。2回造り替えられていることが判明した2号窯からたくさんの瓦が出土、八幡市志水廃寺出土の瓦と同笵の物もあることから、供給先が近隣地域に拡大も。操業時期は8世紀後半頃。3号窯は平瓦片が出土、操業時期は8世紀初頭〜前半で、美濃山廃寺整備期の瓦を焼成。4、5号窯は有畦(ゆうけい)式平窯で、常に瓦を生産できるよう交互に操業していた可能性があり、その時期は出土物から9世紀頃と考えられるそうです。

「西寺」押印瓦は、4号窯の畦(あぜ)の構築材として使用されていたそうです。焼成部から出土した瓦や壁面の修理瓦と調整や胎土が似ていることから、4、5号窯で焼かれたもののようです。元は西寺造営のために熨斗瓦として焼成されたものを転用したのでしょうか。ここから西へ5㌔の枚方市坂瓦窯(さかがよう)や九頭神(くずがみ)廃寺からも、字体が異なる西寺関係押印瓦が出土しているそうです。
史跡西寺阯6950マンホール6955













昨年12月23日の例会「鳥羽作道と鳥羽離宮を歩く」で探訪した「西寺跡」。弘仁14(823)年、守敏に下賜された官大寺でした。見つかった瓦の押印は「西寺」と僅か2文字ですが、美濃山の歴史を考えるのにとても重要な意味を持ちます。

セミナーでは、主に金堂相当施設推定地周辺から出土した「ひさご形土製品」(30点ほど)、「覆鉢形土製品」(40点ほど)が話題になりました。小さな塔をたくさん作ることによって功徳が得られる「小塔供養」は、平安時代中期以降盛んに行われましたが、奈良時代の美濃山廃寺で既に行われていたことがわかりました。

これまで、奈良時代後半の宝亀元(770)年に称徳天皇による「百万塔」が「小塔供養」の始まりと考えられてきました。担当した埋文研の筒井さんは、出土遺物から奈良時代前半に遡って「小塔供養」が行われていて、最も古い例の一つとなると考えていると発表されました。「ひさご形土製品」についても、今のところ国内で唯一の出土例だそうです。これに対して、市教委の小森さんは、8世紀中葉頃の製品と推定し、「百万塔」に大きく先行する考え方をとる必要はないと話されました。何れにしても、文献に現れない美濃山廃寺から奈良三彩の瓶等が出土したり、珍しい土製品が出土したりと本当に興味深いことです。一番多く出土した瓦類(総出土量は8000㌔以上)についてもいろいろ話されたのですが、ここでは省略。

一部9世紀代にかかる土器も出土していますが、それ以降の土器が見つかっていないことから、この頃に美濃山廃寺は廃絶したものと考えられています。小森さんが「八幡(はちまん)さんが八幡(やわた)に来る頃になくなったのではないか。八幡さんが来て大きく変わる。それが寺がなくなる大きな理由ではないか」と話されたのが印象に残りました。調べてみれば、貞観2(860)年4月に、八幡大菩薩は男山に遷宮。9世紀の美濃山と石清水周辺で何があったのでしょう?
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個人的関心としては、たくさんの横穴群の中央に美濃山廃寺が位置することです。今も京田辺市域の松井で横穴墓が見つかっています。埋葬された人々と美濃山廃寺の関連が明らかになれば面白いなぁと思っています。
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左写真は、今年2月初めの女谷・荒坂横穴墓群の様子。右写真は2010年1月末の現地説明会で展示されていた鏡など。同じく女谷・荒坂横穴墓群から出土しました。9世紀中期の国産青銅鏡で、おそらく美濃山廃寺で使用されていたものを副葬品として埋葬されたと考えられています。

「佐川田喜六昌俊〜没後370年」イベント

京田辺市薪区文化委員の方々が2年の歳月をかけて準備された「佐川田喜六昌俊」縁の催しが、無事終了して、もう11日が経ちました。
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酬恩庵一休寺の総門をくぐった参道は、新緑が美しい。右写真は、虎丘庵(京都府登録文化財)。トンチの一休さんでお馴染みの一休禅師(1394〜1481)が、京都東山から移して居住した建物です。今回の催しの主役・佐川田喜六昌俊(1579〜1643)は、一休さんの禅を慕っていました。寛永15(1638)年に淀藩を致仕し、家督を子・俊甫に譲った後、一休寺境内に草庵「黙々寺」を結んで隠棲、1639年から晩年の4年をここで過ごしました。
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昌俊が亡くなったのは、寛永20年8月3日、65歳でした。それから370年経った今年4月21日、一休寺で法要が営まれました。方丈(重文)で田辺宗一住職による法要と説話に続き、邦楽演奏会。事前申し込みで参加を募った約100人が方丈の間を埋め尽くし、箏や、尺八の音に耳を傾けました。その後、一休寺境内の佐川田喜六昌俊と一族のお墓参り。住職が墓前でお経を唱え、尺八奏者二人が、鎮魂の曲を捧げました。古風な響きが竹林に響く様はとても風情がありました。
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墓地には、2基の石灯籠〔昭和3(1928)年の黙々寺跡復旧工事の際、竿部が天地逆に据え付けられたことが、今回の調査で拓本をとって判明したそうです。住職にお聞きしたところ、昭和3年は一休さんの500回忌。そのために先代住職の願文によって整備されたそうです。残念ながら火袋の向きも誤っています〕、手水鉢、林羅山撰文「佐河田壺斎黙黙叟碑銘」、26基の墓石等が並んでいます。

この手前に黙々寺の庵があったことが、寛政元年(1789)2月の「霊瑞山妙勝寺酬恩庵諸建物絵図面」に描かれています。右写真は昌俊の墓。自然石に「是什麽(ぜじゅうま)」とだけ刻まれているシンプルなもの。背後の墓碑とは対照的。親交があった大徳寺の沢庵和尚の影響かも知れません。文化委員の説明では、沢庵和尚は「自分の葬式はするな。香典は一切もらうな。死骸は夜密に担ぎ出し、後山に埋め二度と参るな。墓をつくるな。位牌をつくるな。法事をするな。年譜を残すな」と遺言しているそうです。聞き慣れない「是什麽」という言葉ですが、禅語なのだそうです。「什麽」は「如何」ということで、「是什麽」は「是れ如何に」「これなんぞ」という意味だとか・・・。
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昌俊が亡くなった翌年(1644)3月3日に建てられた墓碑。亀趺(きふ)にのり、立派なものです。経年劣化で摩耗しているのが惜しまれますが、上部には阿吽形の双龍、1行60〜62字、21行から成る碑文周辺にも雲文が刻まれています。右下に「夕顔巷林道春撰」、左下に「俊甫立」と刻まれています。文化委員の説明では、道春(林羅山)が入京した折に俊甫が懇願し、昌俊と親交があった石川丈山の口添えもあって碑文建立が実現。完成法要には、丈山も参列しているそうです。
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黙々寺の東にあった茶室「打睦亭」と維摩堂跡です。絵図面によれば、打睦亭南斜面上に鎮守、黙々寺南側に湯殿、雪隠が2つ、西に柴小屋もあったようです。室町時代の一休さんの時代に花開いた文化サロンが、松花堂昭乗、小堀遠州、大徳寺の禅僧・江月宗玩和尚らと交遊を深めた昌俊によって江戸時代に再び薪の里で展開していたのです。
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昼食後に一休寺境内「江庵」で開催された講演会。堺市博物館学芸員の矢内一磨さんが「佐川田喜六家と薪・酬恩庵の歴史」と題して話されました。著作『一休派の結衆と史的展開の研究』(思文閣出版、2010年)を読んだこともあり、今回の講演をとても楽しみにしていました。

一番驚いたのは「佐川田喜六昌俊は、国文学の世界では有名な人で、結構研究も進んでいる」ということ。このイベントに合わせて発行された薪区文化委員会と京田辺市郷土史会発行冊子いずれにも「殆どの人が知らない人物である」「地元でも案外知られていないのが現状である」と綴っています。この催しを機に学問の世界と地域が協力して、地域の文化遺産を発信していけば良いと思いながら聞いていました。昌俊は永井家に仕えた武人ではありましたが、近世初期を代表する文人のひとりと数えられた人物でした。矢内さんよれば「この時代は今のように専門家化していない。マルチに活躍するのが普通」だったそうです。

「この時代も人間関係でストレス社会。人間の命は今より軽く、絶えず死と隣り合わせ」「人間どこで死ぬかは大切なこと。人生、死ぬ場所を探しているともいえる。室町時代後期の連歌師・柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)は『自分は一休の傍で死にたい』と綴っている。昌俊も同じような気持ちだったのではないか」「江戸時代に酬恩庵を助けた加賀百万石前田家に比べ、一般的には知られていないが、薪に佐川田昌俊の墓と寺跡があることはもっと知られていい」「薪は地域文化の拠点であった。21世紀のサロン再興を考えることは大切」「『かつて立派な人がおられた』と顕彰するだけで終わらせず、一休没後に法統を受け継いだ一休派、薪との関係を継げた『佐川田喜六家』のことも史的展開のひとつとしてとらえ続けていくことが大切だ」というようなお話が印象に残りました。
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会場を方丈に移して、田辺住職からお寺の説明がありました。方丈中央に一休禅師木像(重文)が安置してあります。禅師自ら高弟墨済禅師に等身の像をつくらせ、自らの頭髪と髭を植え付けられました。大坂の陣で木津川に陣をしいた加賀城主前田利常は酬恩庵に参詣しました。その時目にした寺の荒廃ぶりを嘆き、慶安3(1650)年に再建しました。この方丈だけでなく、庫裏・唐門・東司・鐘楼・浴室(いずれも重文)も前述の通り「江戸時代に酬恩庵を助けた加賀百万石前田家」によるものです。襖絵もこの頃に描かれたもので、江戸初期の将軍家絵師・狩野探幽斎守信(1602〜74年)の筆です。

方丈庭園(名勝指定)は松花堂昭乗、佐川田喜六昌俊、石川丈山合作といわれています。美しく刈り込まれた庭木の向こうに見えるのが先に紹介した虎丘庵。左隣が一休禅師が眠る墓所。文明7(1475)年、82歳の一休さんが自ら建立されたもので、廟前庭、虎丘庭園とも茶祖・村田珠光作庭といわれています。一休禅師は後小松天皇皇子なので、御廟所は宮内庁管轄です。
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最近は直ぐに鬼瓦に目が行く私ですが、御廟所の鬼瓦が阿吽形の龍なのに惹きつけられました。「龍頭瓦(りゅうずがわら)」というのだそうです。龍は仏法を守ると信仰されています。先月27日から宇治の平等院のミュージアム鳳翔館で、60年ぶり大修理中の鳳凰堂(国宝、平安時代)大屋根から降ろされた「龍頭瓦」が初公開されています(9月27日まで)。新聞各紙に掲載された写真「龍頭瓦」は鳳凰堂北側の室町末期に作られたとみられる一対、南側にも江戸前期と思われる一対があります。「龍頭瓦」は一休寺など全国で5例しか知られておらず、鳳凰堂のものはその中では最大、最古級と報じています。御廟所と鳳凰堂の「龍頭瓦」の関連は何なのでしょう?

右写真は方丈庭園の北庭。枯滝落水の様子を表した蓬莱庭園です。
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続いて、宝物殿で開催中の「一休寺 春季宝物特別展」を見学。正面に京田辺市郷土史会が業者に依頼してとった墓碑「佐河田壺斎黙黙叟碑銘」の拓本がありました。「いつか拓本に挑戦してみたい」と仲間内で話していたこともありましたが、素人では難しいようですね。会場には一休さん、佐川田喜六昌俊、そして縁の人物たちの墨跡など貴重な品々がたくさん展示してありました。

連歌を里村昌琢(しょうたく)に、和歌を飛鳥井雅庸(まさつね)・近衞信尋(のぶひろ)に、茶を小堀遠州に、漢学を林羅山に、そして書を松花堂昭乗に学んだだけあって、美しい昌俊の書です。
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左は淀川対岸の山崎にある妙喜庵長老宛ての書状。
「よもすがら 松にあらしの 堪えかねて 雪に静けき 山の下庵   佐川田喜六(花押)」

右は部金七郎宛の書状。
「すみわびて 身をかくすへき 山里に あまりくまなき 夜半の月哉 一笑々々 黙々(花押)」

薪の里で詠まれた歌でしょう。僅かな期間ではありましたが、この里で心静かに過ごされ、尊敬する一休さんの傍で眠りについた佐川田喜六昌俊さんを偲ぶ貴重な一日となりました。







聴講「はんなり京都しまだい塾」

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3月22日夕方、京都市中京区御池通東洞院西北角の「しまだいギャラリー」へ行きました。糸屋格子と虫籠窓の構えが美しいこの建物は大規模町家建築の遺構として、平成16(2004)年に国の登録有形文化財に指定されました。昨年5月20日に「京都木工芸展」を見学に来たときには、この暖簾をくぐった部屋で開催されていました。その時も、すてきな店構えにうっとりしたものでしたが、今回は、御池通に面したこの西館ではなく、東洞院通に面した東館が会場です。
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東館の暖簾の上に、鍾馗さんがお仕事中。初めて参加する「はんなり京都 しまだい塾」が、どのような雰囲気のものなのかわからず、やや緊張しながら暖簾をくぐりました。
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今回の瓦をテーマにした塾の内容にも興味があったのですが、伝統的町家を拝見できることも大きな楽しみでした。東館に一歩足を踏み入れた途端に、その設えの素晴らしさに目を見張りました。入り口正面に四方を注連縄で囲んだ「相生井」があります。今も清らかな水が湧き出ているそうです。その奥にある蔵の素敵なこと 今はお花が生けられ、おしゃれな空間を演出されています。
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商標登録「嶋臺」の銘の酒樽を描いた立派な額が壁際に置いてありました。この額を店先に掲げ、盛んに酒造業を営まれていた頃の様子はどんな風だったのか想像してみるのも楽しいです。積まれた酒樽で壁が傷まないよう横に板をわたしているのを見ている内に、幾度か紹介した八木邸のすてきな米蔵(木津川市)を思い出しました。当然のことですが、それぞれの業種で蔵の造りも異なり、なかなか面白いです。「嶋臺」の酒名は江戸中期の公卿、関白・太政大臣を務めた近衞家熙公から賜ったものだそうです。

元々奈良出身の同家は慶長13(1608)年に糸割符商としてスタートし、後に加賀絹、丹後縮緬、生絹も扱いました。最初に掲載した写真に写る西館はその屋号「北糸」の一部分です。その後、天明年間(1781〜88)に、摂津伊丹の酒造家と縁を結んだことで伊丹で酒造業も始めます。当時は京の町中で、他国醸造酒の取扱いが禁止されていましたが、伊丹に所領地があった近衞家の計らいで、現在地にて「嶋臺」の販売ができるようになったそうです。屋号は「丸岡屋」、それがこの東館。両業を家業とし、文化14(1817)年に、山田屋五郎助店の名で江戸にも出店するなど大いに栄えました。

東は東洞院通、西は車屋町通、北は押小路、南は旧御池通まで広がる広大なお屋敷で、本居宣長、与謝蕪村、頼山陽など名だたる文人も集うサロン的な面もあった町家でした。惜しくも幕末の兵火で焼失し、明治16(1883)年に再建されましたが、昭和31(1956)年に西半分強が取り壊されたということです。
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講演場所に、可愛い土人形でできたお雛様が飾られていました。その雛壇の向こうに、先ほどの酒蔵が見えます。
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文化サロン会場の設えにうっとりしているうちに、いよいよ「はんなり塾」が始まりました。テーマは「甍(いらか)の波をおよぐ」。主催は京都大学地球環境学堂・学舎・三才学林。変わった名称ですが、2002年にできた京都大学の大学院で、この塾の開催趣旨は、先端の地球環境学の成果を「京ことば」で練り直すことにより、世界環境都市にふさわしい、あらたな力のある美意識や生活作法をさぐり、地域に広めてゆこうというものだそうです(HP参照)。嶋臺さんの協力で2004年に開始され、今回が26回目。

最初の講演は、燻し瓦(一般的に日本瓦)を作っている淡路島の瓦師・道上大輔さんの「カワラぬ価値を想う」(写真左)。まだお若い道上さんの、瓦に対する熱い思いがビュンビュン伝わってきました。兵庫県「淡路瓦」は、愛知県「三州瓦」、島根県「石州瓦」と並ぶ日本3大瓦として知られていて、400年の伝統があるそうです。「その土地で採れた土で作った瓦が一番合う。昔は日本各地に窯があったが、阪神大震災以降、瓦に対してマイナスイメージが先行して広がり、窯元が半減した」と道上さん。

「瓦の曲線は自然の摂理に叶ったもので、降った雨を瓦の曲線で受けて屋根先に流すのに比べ、真っ直ぐな屋根材では雨水が間に入ってしまう」「瓦は水を吸収するので、バチバチ弾かず、しっとり受け止める」「チタンは透湿性がないので、下の木に問題が出るだろう」「土壁、瓦は涼しい。スレートは71.8度、その屋根裏も46.1度に対し、和瓦は38.6度」「芸術・文化を大切にするイタリヤのフィレンツェはオレンジ色のテラコッタの瓦で統一している。中国雲南省麗江は瓦で統一。共に世界遺産の景観。日本のおしゃれな街も瓦が多い」「軒先の深い建物は日本の気候風土にもマッチしている。屋根と屋根が折り重なる風景は、人の関係も繋がっているように連想する」等など、多くの映像を紹介しながら瓦の良さを話してくださいました。現在は瓦の火入れ式を施主さん、大工さんらと一緒にして記念瓦を作り、実際に屋根に葺くことをして、若い人にも人気があるそうです。また、瓦で様々な工芸品を作り、ギャラリー展示もされています。こうした新しい取り組みや、学校などでの講演を通じて、多くの人に瓦の良さを知ってもらい、文化を守ることに貢献していきたいと話しておられました。

続いての講演は、上掲写真右でお話をされている鈴木祥之・立命館大教授です。演題は「伝統工法を未来につなぐ」。昨年12月2日付「国宝薬師寺東塔の瓦」で触れた先生でもあり、興味を持って聴講しました。冒頭で、「今の若い人は瓦を知らない。屋根を瓦で葺いてほしい」と話されました。講演では、昨年、鈴木先生も参加された兵庫県三木市の兵庫耐震工学研究センターで行われた耐震実験の様子を見せて頂きました。それは阪神大震災で観測した震度6強の揺れを再現し、金具などで補強せず、石場建て(基礎となる石に柱を置いた建物。床下換気ができる)、瓦葺、土壁の木造建築物がどのようになるか観測したもの。結果、建物は大きく揺れましたが、柱が礎石の上を滑るように少し浮き上りながら動き、土壁の一部にも亀裂が入ったものの倒壊しませんでした。今の建築基準法ではダメですが、固定しない方がダメージが少ないことが実験で証明されました。

この5日前に正倉院正倉の修理現場を見学したばかりでしたので、「阪神大震災で震度5を記録したが大丈夫だった。耐震検査で震度7でも大丈夫とわかった」と係の人から伺った話を思い浮かべながら聞き入りました。実験で使われた建物と同様の建築物は、寺や戦前までの民家に多く見られるそうです。阪神大震災以降、瓦の需要が減っていますが、神戸は気候が良く、在来工法はシロアリに喰われていたので倒壊した家が多かったそうです。

鈴木先生の目標は、石場建てを含む伝統的構法木造建築のための設計法を構築して、実務者が使える設計法として普及させることだそうです。屋根瓦に関して、今は地震対策で軽量化を図るため工夫して、屋根に用いる土は少なくなっています。瓦に対するマイナスの思い込みを捨て、プラス面に目を向け、演題のように「甍の波」が随所に見られる景観が取り戻せたらいいなぁ、と思いながら聞いておりました。

終了後に道上さんに聞いてみました。鍾馗さんも作っておられて、淡路島でも需要がありますが、京都周辺からの注文が多いそうです。「嶋臺」当主の山田さん(京都に出てきてから15代目)にも聞いてみましたところ、東館の屋根の上の鍾馗さんは、元々はなかったのですが、修理した時に瓦屋さんが「特別に作った」と言われたので、仕方なく引き受けたのだそうです。新しい鍾馗さんだとは思っていましたが、暖簾の上で仕事中の鍾馗さんは風情ある町家の佇まいによく似合うと思って眺めていましたので、少々意外に思いました。

「はんなり京都しまだい塾」のHPを見ていましたら、嶋臺さんの中庭に、平安宮大極殿柱礎のひとつが鎮座していると書いてありました。明治28(1895)年、平安奠都千百年記念事業として、京都市が大極殿跡に石碑を建立した折り、その揮毫をしたのが当時の当主で漢学者・書家の詠年翁でした。その御礼に市参事会が贈呈したのがそのいわれだそうです。
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3月30日、京都アスニーで開催された講演会「森幸安の世界10ー山城国図と畿内図」を聞きに行く前に、思いつきで立ち寄った大極殿跡の石碑(明治28年10月21日建立)。京都市上京区千本丸太町交差点北西角の児童公園の中に、満開の桜に囲まれて建っていました。今日HPで、この筆跡が嶋臺さん縁だと知ってビックリしています。

歴史シンポジウム「八幡宮本殿の歴史と建築」聴講

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2月23日八幡市文化センターで開催された歴史シンポジウム「八幡宮本殿の歴史と建築」を聴講しました。最初に土田充義・鹿児島大学名誉教授の基調講演「宇佐神宮と石清水八幡宮の類似と相違」、続いて田中君於・石清水八幡宮研究所主任研究員の「石清水八幡宮祭祀と修造」、島田豊・京都府教育庁文化財保護課建造物担当主査の「石清水八幡宮本社社殿の修理について」、仲政明・京都嵯峨芸術大学准教授の「石清水八幡宮彫刻彩色の謎」の3講演、永井規男・関西大学名誉教授の特別講演「武家の棟梁と石清水八幡宮の造営」とそれぞれ専門分野からの講演が続きました。

休憩を挟んで行われた対談(上掲写真)では、川嶋一雄・京都文化財建造物研究所理事長も交えて、「八幡宮本殿の歴史と建築」をテーマに鍛代敏雄・國學院大學栃木短期大学教授の司会で話が繰り広げられました。難しくて全部理解できたわけではありませんが、印象に残った話がいくつかあります。その1つは、彩色修理に1年間関わった仲先生の話。記録では、慶長11(1606)年豊臣秀頼が本殿、幣殿、舞殿、武内社をことごとく造り替え、その28年後の寛永11(1634)年に三代将軍家光が再度造り替えをしています。寛永以前の棟札が一切ないことから、石清水八幡宮の本殿は寛永期に建てられたと考えられてきました。ところが、建造物彩色に詳しい仲先生の「勘」では、本当に寛永期の造替か疑念があるというのです。

桃山期から建築ラッシュが始まり、内部彩色だけでなく外部彩色も盛んに施されるようになりました。慶長期の彫刻や彩色には写実性を失わず、優れた技術を駆使して繊細でありながらも大胆に表現、大らかでゆったりとした雰囲気があるそうです。一方の寛永期は、天井桁や見返り箇所の彩色を省き作業効率を優先させた気配があり、表現も慶長期より躍動感が少ないように思えるそうです。講演中の先生の言葉で言えば「慶長期は松の枝などうねりがあり、風を感じる絵のデザイン。到る所くまなく彩色し、細かく丁寧に描かれている」。そうした点から、「彫刻群は寛永期というより慶長期と言ったほうがしっくりくる」との意見でした。

仲先生の見解に興味を覚えた永井先生が声掛けをして今回のシンポに参加されたということです。永井先生の話によれば、年輪年代法、彫刻、金具の調査からも慶長としか言えないものがあるとか。織田信長の命によって作られた「黄金の樋」も再利用され、「信長、秀吉、秀頼、家光と4人の歴史上の武家の人物が関わり、集結された建物が石清水八幡宮本殿ではないか。このような建物は、まず他にない。当時の最高権力者であった江戸の将軍の趣味で建てた日光東照宮と比較しても、京風の建物は目立たないけれど趣味が良く、建造物としてこれほど立派なものはない。特に回廊は素晴らしい」とべた褒めでした。

田中先生は「石清水は宇佐と同じであってはならない。違うものであるべきと考え、仏殿造りに差を見出した。最初から仏殿を拵え、神主を置いたのは建ててから17年後。石清水八幡宮は最初から寺であった。八幡造の原型は石清水八幡宮であると考える」と述べられました。
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写真は2004年10月、大分県宇佐市の宇佐神宮放生会を見学した時のものです。養老4(720)年、朝廷が大隅・日向の隼人を討伐した際、宇佐八幡の神軍も参加し、隼人の首を持ち帰って葬りました。隼人の祟りを恐れ霊を慰めるために、放生会が始まったとの伝承があります。
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宇佐神宮の北辰社。八幡信仰の研究者だった中野幡能さん等は、この北辰社が八幡造の始まりだと考えられていたそうです。写真では分かりにくいですが屋根が2つ並び、右側に階段があります。正面からは入れない造りです。宇佐神宮の社殿は左から第一、第二、第三本殿が並び、第一と第三には向拝と階段があり、申殿は第二本殿のためだけにあります。「平安時代に石清水八幡宮本殿の影響を受けて変化した」と土田先生。

「神様は東の階段から入って、西の階段から出て、弥勒寺へ行かれると古文書にある」と静かな口調で話される土田先生の言葉に、旅行した時のことを懐かしく思い出しました。
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宇佐神宮境内の弥勒寺跡(本殿の西側)です。神宮寺であった弥勒寺が八幡神を祀る宇佐宮境内に移されたのは天平10(733)年。七堂伽藍が築かれた立派な建物で、平安時代には多宝塔も建っていたということです。今は礎石が残るのみですが、宇佐神宮は早くから神仏習合の場所でした。

僧・俊寛の自筆書状

今日の日中に見たテレビで、陽明文庫所蔵文書から、平安時代末期の僧・俊寛(しゅんかん)自筆の手紙が見つかったと報道していました。何かと思えば、1月20日に受講した陽明文庫講座で、講師を務められた尾上陽介・東京大学史料編纂所准教授が「陽明文庫所蔵『兵範記(ひょうはんき)』紙背文書から」の演題でお話し下さった文書でした。24日に書いたブログでは、もう一人の講師を務められた本郷和人・同編纂所教授についてのみ触れましたが、家では尾上先生の話から古文書調査に於けるデジタルのメリットについて話しました。紙背文書
写真は、当日配布された史料の一部です。他にも色々と貴重な文書についてお話し下さいましたが、ニュースで報じられていたのは、この史料の上の手紙。報道によれば、俊寛の自筆書状が確認されたのは初めてのことなのだそうです。

陽明文庫に所蔵されている『兵範記』は代々「日記の家」と呼ばれる家柄の実務官僚だった平信範(1112〜87年)が記したもので、後の人が仕事しやすいようにきちんと公事を記録したもの。紙が貴重だった時代、信範の手元にあった文書もその料紙として再利用されました。表の日記は詳細に記録されていて当時の社会を知る第一級の史料ですが、再利用された「紙背文書」も同様に重要な史料です。上の手紙は再利用された際、下の部分が切れているため差出人の名前は「法師(ヵ)快□」(『平安遺文』4845)」と解釈され、これまで確定されていませんでした。

尾上先生は参考にされた下の手紙も8月22日の日付があり、内容から見て同じ時代に書かれたものと推測。下の手紙が右衛門督だった平時忠(清盛の義弟)が差し出したものであることから、時忠の右衛門督在任期間仁安3年7月〜嘉応元年12月中の人物を探されました。その結果、諸条件に合致する人物として法眼俊寛と判断されました。判読にあたって、高精細デジタル化が威力を発揮。今までは史料の横に鏡を立てて逆さ文字を読むなど苦労されたようですが、デジタル技術で反転させたり、濃淡を調節したり、拡大したりできるので判読がしやすくなったそうです。これからもこうした研究によって、新たな歴史が分かると面白いですね。

後白河法皇の側近だった俊寛は、京都東山の麓にある鹿ヶ谷に山荘がありました。ここで法皇の寵臣の大納言藤原成親(なりちか)や西光(さいこう。藤原信西が宇治田原で自害するまでお供をしていた藤原師光〈もろみつ〉の出家後の名前。信西の乳母子)らが集まって平家打倒の企てをしていましたが、多田行綱の密告によって清盛の知るところとなり、成親、西光は殺害され、俊寛は鬼界ヶ島(鹿児島県硫黄島)へ流罪となりました。俊寛は都を夢見ながらこの島で亡くなったといいます。能「俊寛」で有名ですが、12月5日に57歳の若さで急逝された歌舞伎俳優中村勘三郎さんの熱演でも知られています。ここで改めてご冥福をお祈り申し上げます。素晴らしい俳優さんでした。惜しいことです。

陽明文庫講座「近衞家と平清盛」

1月20日午後、立命館大学朱雀キャンパスで開催された陽明文庫講座「今にいきづく宮廷文化」の連続講座2回目を受講しました。本郷和人・東京大学史料編纂所教授の「近衞家と平清盛」、尾上陽介・同編纂所准教授の「陽明文庫所蔵『兵範記』紙背文書から」の講演に続き、名和修・陽明文庫理事・文庫長を交えて、田島公・同編纂所教授の司会でパネルディスカッションが繰り広げられました。毎回熱心な聴講者が会場を埋め、熱気に包まれていました。

私は今回、特に本郷先生の講演に興味を持って受講しました。どんな話が聞けるのかとワクワクしていましたが、申し訳ないほど言い訳に終始しておられました。全てはNHK大河ドラマ「平清盛」低視聴率によるもの。本郷先生は時代考証を担当されたお一人。これまでのように著名な原作はなく、いきなり脚本が作られ、そこには最新研究の成果が反映されるという意気込みでしたが、終始低視聴率のまま終えました。

とりわけ先生を萎縮させてしまったものに、平清盛が天皇を『王家』と読んだことに対する批判がネット上で凄まじかったことがあるようです。抗議の電話が史料編纂所にも殺到し事務の人が対応に追われたとか。「権門体制論」と「東国国家論」を説明しながら、「王家というのは学術用語である。自分自身は奥州平泉を意識しての北と東と西の3つの王権論を唱えているが、左寄りであると批判されている」などと苦悩を話しておられました。私自身は、隼人の任務の1つであった「吠声」をテーマに調べたこともあり、「王家の犬にはならぬ」という清盛のセリフを耳にして以来、ずっとこのセリフが頭にこびりついていました。

肝心の近衞家については、系図を示して「五摂家の筆頭として残ったのは清盛のおかげ。武家との関わりによって大きな力を持った」という程度しか触れられなかったのですが、後半のパネルディスカッションで名和先生から、「京田辺市の普賢寺(地名)には、近衞基通(このえもとみち)を火葬した跡に建てた墓がある。明治時代(1882年)に近衞篤麿が玉垣を作ったが、後に開発で場所を移動(1991年)して、少しわかりにくい場所(普賢寺下大門)にある。近衞基通は普賢寺の大御堂観音寺にある観音様(国宝十一面観音立像)に惚れ込んだんですな」と水を向けられると、本郷先生が「いつの頃のでしたか、確か江戸時代の絵図の中に墓が書かれています」と答えられたのには驚きました。この絵図こそ「椿井文書」であり、本郷先生の恩師である五味文彦先生にもそれをお伝えしたことがあったからです。

さすがに「中世の絵図」とはおっしゃらなかったし、近衞基通が普賢寺に移り住み、そこで亡くなり、火葬されたのは史実ですが、「基通廟も、幕末に椿井家が田辺町(現・京田辺市)に移り住んだこともあり、現在の地の伝承も椿井文書との関連で考える必要があろう」と述べた藤本孝一先生の論考「近衛基通公墓と観音寺絵図との関連についてー『興福寺官務牒疏(こうふくじかんむちょうそ)』の検討」を名和先生もご存知だと思っていたからというのもあります。

もう1つ驚いたのは近衞(藤原)基通の世渡り術です。後白河天皇(上皇、法皇)と基通は特殊な寵愛関係にあったということ。所謂男色だと慈円著『愚管抄』(鎌倉初期)などに書いてあるそうです。調べてみますと、古くから男色というのはあったのでしょうが、平安時代、とりわけ唐で学んだ空海によって仏教が広まって以来、仏教における女人禁制、血の穢れの考え方から稚児相手の男色が僧の間に広まり、やがて貴族層にも広がっていきました。後白河上皇も男色を好み、藤原信頼を「あさましき程」(愚管抄)寵愛したことが近臣間の争いを生み、平治の乱で乳父の藤原信西を失うことになります。ドラマで言えば塚地武雅さんが信頼役で、上皇役の松田翔太さんと男色関係というのはチト辛いものがありますが・・・。

近衞基通について、伯父の九条(藤原)兼実が「君臣合体の儀、これをもって至極だるべきか」と『玉葉』(8月2日条)で批判しています。寿永2(1183)年7月25日平家都落ちの時、清盛の娘婿である摂政基通(23歳、美形だったようです)も一行の中にいましたが、途中抜けだして七条大宮から引き返しました。その事情が先の『玉葉』に記されています。基通は平家が都落ちの時、後白河法皇も連れ出そうと画策していることを知ります。平家と行動を共にしては摂関家を保てないと判断した基通は、7月20日、宮廷に仕える冷泉の局の手引きで法皇の寝所へ渡り、その謀を密告します。この時法皇は基通と「御本意を遂げた」とあります。この密告により、法皇は一足先に法住寺殿を脱出することができました。

清盛は娘徳子を高倉天皇の中宮にし安徳天皇の祖父となっただけでなく、摂政藤原基実の妻に盛子、その子基通の妻に完子を添わせるなど娘を利用して栄華を極めますが、娘たちの心中は如何だったろうかと思います。基通が法皇に身を委ねたことで、結果的に近衞家が残り、夫に捨てられた完子は壇ノ浦まで平家一門と行動を共にし、最後は捕らわれて都に戻ります。その後の消息はわかっていません。「なんだかなぁ」と溜息が出ます。近衞基通が晩年に普賢寺に移り住み、観音様の側で余生を過ごそうと考えたのも、これまでの生き方を顧みて観音様の慈悲にすがろうとしたのかもしれません。

いろいろな意味で話題になった「平清盛」でしたが、視聴率の悪さは「王家」の文言や、「画面の汚さ」だけでなく、主人公に対し、視聴者が感情移入できなかったことにあるのではないかと思います。
カレンダー
会場には、「心配で付き添ってきた」と、前年度の陽明文庫講座で、「『後深心院関白記』にみる南北朝時代の朝廷」を講演された奥様の本郷恵子・同編纂所教授も来場されていました。この日は本郷恵子先生の方から、同編纂所の説明の他に、今回はじめて編纂所で制作したカレンダーについてもお話がありました。史料編纂所所蔵史料の中から季節に応じた絵柄を選んで配されたカレンダーで、1人1部ずつお土産にいただきました。

聴講「淀屋研究会」

10月13日、大阪市中央区備後町の日本綿業倶楽部(綿業会館。2003年重要文化財指定)で開催された「淀屋研究会」主催の講演会に行って来ました。講演会はもちろんですが、最近素晴らしい歴史建造物にも関心大ですので、とても楽しみにしていました。関係者の計らいで、講演会後に、建物内部を案内していただきましたので、その様子は次回紹介したいと思います。
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会場の日本綿業倶楽部の建物です。繊維の街船場に位置し、12〜14日に「船場まつり2012」が開催され、様々なイベントが行われていました。新館7階で開催された「淀屋研究会」の例会もその中の一つです。会の方から送っていただきました「船場まつり2012」ガイドブックの「船場アミュージアム〜うんちくあるでぇ 道や橋」のページに、下記のような淀屋に関する記述がありました。

「淀屋小路」=江戸時代の豪商淀屋の裏門(南側)があった道。淀屋屋敷は、北は土佐堀川に面し、南は住友生命ビル南側の通り、東は日土地淀屋橋ビルの東側の筋、西は御霊筋付近まで及び、敷地は約1万坪あったといわれています。
「淀屋橋」=元は淀屋によって架けられたと言われています。現在の橋は大正13年に行われた「意匠設計懸賞募集」で62点の中から選ばれたデザインのもので、北に続く大江橋との双子橋です。重厚なアーチがライトアップに映えとても綺麗です。
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講演会後に船場まつりを楽しみ、辺りはすっかり暗くなっていました。折角の機会なので、「淀屋の屋敷跡」碑まで足を伸ばしました。「市政施行70周年記念」として、昭和36(1961)年に建てられたもの。
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「淀屋の碑」は、大阪北浜船場ライオンズクラブにより、昭和62(1987)年に建碑。当時の繁栄ぶりが描かれた絵の下に、宮本又次さんの顕彰文が刻まれています。碑の対岸にあるのは日本銀行大阪支店です。
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多くの人が行き交う淀屋橋は、2008年「大江橋及び淀屋橋」として重要文化財に指定されました。その向こうにライトアップされているのが日本銀行大阪支店旧館。先頃復元された東京駅を設計した辰野金吾(1895〜1919年)が手がけ、明治36(1903)年に竣工しました。
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さて、丸田恵都子さんの優しい音色のアルパ演奏を挟んで開催された講演会の講師はお二人。最初に作家・経済評論家の島  実蔵さん(写真左)の「井原西鶴が描いた船場の姿」、続いて淀屋研究会副代表の蒲田建三さんの「淀屋米市と淀屋の闕所(けっしょ)」。闕所とは、死罪や追放刑に対する付加刑で、死罪等重罪の場合は全財産没収されます。淀屋5代目の広當(こうとう)は、宝永2(1705)年に闕所・所払いに遭いました。
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広當は現在の八幡市八幡柴座に移り住み、下村个庵と名乗りました。左写真はその屋敷跡で、三宅安兵衛碑の一つ「淀屋辰五郎舊(旧)邸」碑です。淀屋の初代常安は通称與三郎、号は常安ですが、2〜5代は通称辰五郎、号は个庵(こあん)です。

元禄時代の偉大な文化人、近松門左衛門、松尾芭蕉、そして井原西鶴。その西鶴が著した『日本永代蔵』(貞享5年=1688年)は、登場人物の多くが実在の人物をモデルにして描かれた経済小説。

・・・忽(そう)じて北濱の米市は、日本第一の津なればこそ、一刻(2時間)の間に、五万貫目(米125石)のたてり商いも有事なり。その米は、蔵々にやまをかさね、夕(ゆうべ)の嵐朝(あした)の雨、日和(ひより)を見合(みあわせ)、雲の立所をかんがえ、夜のうちに思ひ入(いれ)にて、賣人有、買人有。壱分弐分をあらそひ、人の山をなし、・・・

北浜の様子は、少しでも相場が高いときに売ろうと算段した今の木津川市木津の八木邸米蔵で聞いた話を思い出します。先日見学した加島屋が活躍したのは、享保15(1730)年に江戸幕府が公認して堂島に置かれた「堂島米会所」。それに先駆けて、淀屋が始めた米市場の活況ぶりが、ここでは生き生きと描かれています。『日本永代蔵』が書かれた当時の淀屋は4代重當(じゅうとう)で、淀屋全盛期。

7月4日読売新聞夕刊で、重當の見事な危機管理手腕を知りました。諸大名への貸付総額が今の金額に換算して百兆の単位に上がった淀屋でしたが、寛文10(1670)年、重當は幕府による財産没収を見越して、番頭の牧田仁右衛門(じんえもん)に今の鳥取県倉吉市に帰郷するよう命じます(蒲田さんの資料では天和2年=1682年に帰郷)。そこで財産を秘匿し、万一の際に備えたのです。予感が的中し、闕所処分を受けた5代広當は享保2(1717)年没。その墓は八幡市の神應寺にあります。牧田家により倉吉に店を残したまま、宝暦13(1763)年に大坂で店を再開した倉吉の淀屋でしたが、幕末動乱期の安政6(1859)年、朝廷に献金して自ら店を畳んだのだとか。新聞記事には、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている倉吉の美しい蔵の風景写真が掲載されています。「倉吉淀屋」は宝暦10(1760)年に建てられた市内最古の町家建物だそうです。講演会会場で、上掲写真右のシールと物差しを戴きました。

蒲田さんの話で面白かったのは、重當が淀藩主永井尚政の孫娘を正妻に迎えていたこと。町人が大名の孫娘と結婚するのは異例のことで、この頃から幕府から睨まれたのではないかというお話でした。それほど淀藩はお金に苦労していたということかもしれません。また、2代言當の娘で、広當の祖母が元禄15(1702)年に死去したことで「幕府としては重しがとれたと判断したのではないか」という話も面白かったです。東照神君(家康公)への御用金8万貫目(今のお金で約800億円)の証文が残っていることで、なかなか取り潰しができなかったという説もあるそうです。広當の祖母はそういった事情をよく知っているしっかり者だったのかも。淀屋が町人の分限を越えた驕奢を咎められ、処分を受けたのは1705年のこと。淀屋はまんまと嵌められたのではないかと思いました。淀屋が取り潰しになって、胸をなで下ろした諸大名の様子が目に見えるようです。
 
「淀屋研究会」の講演会には初めて参加しましたが、たくさんの「淀屋」ファンがおられるのにびっくりしました。これから先、どんな研究成果が聞けるのか楽しみです。




聴講「第34回地名フォーラム」

8月26日、滋賀県の米原市から戻った足で、京都市下京区の龍谷大学大宮学舎清和館へ向かいました。午後1時半から、京都地名研究会の地名フォーラムが開催されていて、途中から聴講しました。

発表は3人。①「上ル下ルのまち京都が危機!〜通り名表記は時代に不適応なのか」
        黒田正子さん(同会会員、編集者、ライター)
       ②「井手寺(いでじ)と橘諸兄(たちばなのもろえ)」
        茨木敏仁さん(井手町教育委員会社会教育課)
       ③「三年坂(産寧坂)考〜伝承と地名」
        糸井通浩さん(同会副会長、龍谷大学名誉教授)

それぞれ興味深い発表でしたが、ここでは②の感想を書いてみたいと思います。講演は短い休憩を挟んで始まりましたが、休憩時間中も講演開始後もしばらくパワーポイントの最初の画像「山城国井堤郷旧地全図」が映されていました。いきなり江戸後期に活躍した椿井政隆作成の「椿井文書」が出てきて面食らいました。井手町で文化財担当の職員は茨木さん1人。2004年から前任者の後を受けて同町の発掘調査や煩雑な事務処理、報告書作成など1人でこなしておられるようです。後の複数の質問者が言われたとおり、まさに「孤軍奮闘」という言葉がぴったりの仕事ぶりでした。

その茨木さんは、古絵図「山城国井堤郷旧地全図」がどのような性格のものかは、もちろんよくご存じで、「所謂『椿井文書』の中のもの」「観光用パンフレットとして利用されている」「なかなか困ったもの」「橘諸兄一族の墓がみなここにあるはずがない。『それはないやろ』というもの」等という言葉で説明されました。古絵図そのものは、町内外で複数所在が確認されていますし、古絵図は井手町史シリーズ第四集『井手町の古代・中世・近世』(1982年)の表紙 を飾っているほか、町内の観光スポットにも掲示されています。

奈良時代の政治家で、左大臣も務めた橘諸兄(異父妹に聖武天皇皇后の光明皇后)は町内では「諸兄公」といって親しまれていて、昭和30年代から「諸兄の墓」だといって井堤保勝会が保護しておられる場所がありますが、発掘はしていないそうです。2003年度から始まった井手寺跡発掘調査で 「施釉線刻棰先瓦(せゆうせんこくたるさきかわら)」が出土しました。出土した奈良三彩は粘土でパックされた形で残っていたので色が鮮やかに残っていましたが、出土して以来、どうしても劣化して「さめて」(退色)きているそうです。奈良三彩は当時の朝廷か公家などしか使用できず、瓦裏面の刻印文字が聖武天皇時代の平城京と恭仁京と共通するなど、直接的に諸兄と書かれた土器片などは見つかってませんが、橘諸兄以外には考えられないと話しておられました。

このように井手寺跡と推定される地域は歴史的に重要な場所なのですが、町の財政難と人手不足もあり、調査が進んでいません。周辺は調整区域なので家は建てられませんが、最近耕作地をNPO法人が畑作に活用し始めているとのこと。田んぼからの出土物は僅か10㌢位の深さでも見つかっていますが、畑作りは20㌢位の深さで掘り起こすので、これまでも瓦や器の破片が出てきているそうですが「これは止められない」のだそうです。こういう話を聞くと素人の私でも「何とか早く手を打たなきゃ」と思うのですが ・・・。

発掘調査が進まないこと、圧倒的に人手、予算が少ないことがあって、井手町を説明するとき、町教委の担当者であっても、「なかなか困ったもの」と 思いながら、問題の多い古絵図「山城国井堤郷旧地全図」を使用し続ける姿勢に、同情しつつも疑問を抱いたというのが正直な感想です。「孤軍奮闘」で疲弊する前に、何らかのネットワークを利用して支援者、ボランティアを募り活動を展開することは無理なのでしょうか?

解脱上人貞慶さん

お叱りを受けるのを覚悟でいえば、鎌倉時代の高僧・貞慶さん(1155〜1213年)のお顔は、亡くなった父によく似ておられます。下がった眉毛、目、特徴ある鼻・・・優しそうなお顔です。何だか実家を守っている兄にも似ているように思えます。3月の初めに「御遠忌八〇〇年記念特別展 解脱上人貞慶(げだつしょうにんじょうけい)ー鎌倉仏教の本流」のチラシを見たときから、そのように勝手に思っていました。

3月7日午前10時、ローソンへ行って 、発売開始したばかりの「解脱上人 貞慶フォーラム」のチケットを買いました。その時点では、まだ貞慶さんがどのような人物かよく分かっていませんでしたが、勝手な親しみと、南山城地域とも縁がある人物だという関心からです。

5月5日午後1時、奈良市の東大寺境内にある東大寺総合文化センターで、そのフォーラムが開催されました。綺麗な会場は満員の聴衆。パネリストには、法隆寺管長・大野玄妙さん、春日大社宮司・花山院弘匡さん、東大寺別当・北河原公敬さん、笠置寺住職・小林慶範さん、海住山寺(かいじゅうせんじ)住職・佐脇貞憲さん、興福寺貫首・多川俊映さん、唐招提寺宗務長・西山明彦さん、薬師寺管主・山田法胤さん(五十音順)と有名社寺の代表者が一堂に会するというありがたい催しです。

奈良国立博物館学芸部長・西山厚さんによる貞慶さんについての分かりやすい解説の後、お一人ずつ貞慶さんとの縁を話され、引き続いてパネルディスカッションが行われました。話を聞けば聞くほど「貞慶さんは立派な人だったんだなぁ。もっと広く知られても良いのに」と思いました。

治承4年、平清盛の命令で南都が焼き尽くされます。この時、貞慶さんは26歳で興福寺の僧でした。武士が台頭し、人を殺すのが平気な暴力の時代になり、地震や飢饉などの災害も多く、誰もが「末法の時代」と感じる世の中になっていました。法然上人の極楽往生だけに絞り「南無阿弥陀仏」と唱えれば浄土に行けると説く浄土成仏に対し、穢土(えど)成仏、お釈迦様だけが浄土を望まず、この穢土(娑婆)で苦しむ人を救おうとした 「悲華経(ひけきょう)」を大切にした貞慶さんは、人を支え、国を支えられる本当の仏教を再生しようとします。由緒ある寺を次々と復興し、唐招提寺で釈迦念仏会を始めます(1202年)。

これらの活躍をされたのは、39歳で興福寺を出て、笠置寺(現・京都府相楽郡笠置町)そして海住山寺(現・京都府木津川市加茂町)に移られてから。笠置寺、海住山寺の両住職のお名前には貞慶さんの名前の漢字があり、如何に尊敬しておられるかが伝わって来ます。

奈良国立博物館で貞慶さんの特別展が開催(4月7日〜5月27日)されていますが、それに先立つ3月6日、同博物館は、海住山寺所蔵「阿弥陀浄土図」(修理中)が、京都市上京区の興聖寺所蔵「兜率天曼荼羅」と一対だった可能性があると発表しました。翌日の京都新聞に掲載された「阿弥陀浄土図」の軸木に書かれていた永仁7(1299)年の墨書写真には「海住山経蔵安養知足両複之曼荼羅修複之」と書いてあるように読めます。記事によれば「兜率天曼荼羅」の修理時の銘には貞慶ゆかりの品と記載があるそうです。「安養」は阿弥陀浄土、「知足」は弥勒の兜率天を指す言葉で、貞慶さんが阿弥陀様とお釈迦様の両方をセットで信仰していたことを示しています。奈良国博で2幅を実見しましたが、想像以上に大きく、立派な掛け軸でした。

また、「春日権現験記絵」巻16には、笠置寺般若台に春日明神を勧請するため春日大社の若宮に参詣し託宣を受ける貞慶さんと弟子たちが描かれているなど、貞慶さんは、お釈迦様への信仰に基づき、弥勒仏、観音菩薩、春日の神様など多くの神仏を信仰しておられました。

それにしても、何故一対の掛け軸の片方が、京都のお寺にあるのかしら?気になって、昨日佐脇住職さんに聞いてみました。「400年前に一切経と一緒に、興聖寺にわたったようだ。財政的なこともあったのかもしれない。以降の人は、一対だと知らずにお守りしていたのではないか」ということでした。「兜率天曼荼羅」は重文指定なので、修理費用の半分は国の補助だそうですが、「阿弥陀浄土図」は未指定なので修理費は自前。そんな懐事情を聞いていると、由緒あるお寺を維持保存していくことが何と大変なことかとお察しします。 

来る5月10日、海住山寺(℡0774ー76ー2256)にて 「解脱上人八百年御遠忌法要」が営まれます。貞慶さんは建暦3(1213)年2月3日(旧暦)、この寺で亡くなられました(59歳)。10日は午前10時半からの上人墓前法要に続き、午後2時から法相宗大本山興福寺貫首多川俊映さんを大導師に御遠忌法要。100年ぶりの法要なので、仕事を休んで見に行きたい気分ですが・・・。当日は恭仁小学校前に臨時駐車場を設け、送迎バスを運行されます。本堂は一杯になるかもしれないので、外にモニターを用意して見学できるように準備もされるそうです。八百年御遠忌法要を無事につとめようと尽力される佐脇ご住職の思いは、きっと貞慶さんにも届いていると思います。
貞慶さん
           図録表紙より

聴講「近世京都図研究の現在」(2)

報告2の発表は、上杉和央・京都府立大学准教授の「森幸安(ゆきやす)と京都」。
森幸安は元禄14(1701)年に京都の茶麿屋町(現・高辻御幸町西・南面)に生まれ、没年は不明です。彼が作製した地図は、現物資料で400枚ほど残っていて、それを10年間で作製したそうですから、1カ月に2〜3枚のペースで地図を書いたことになります。
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上掲の地図は森幸安が作製した地図の一つをコピーしたもの(印刷用紙に合わせてサイズは調整されているそうです)。こんな緻密な地図を、10〜15日で完成させるとは驚きです。弟子にサワダロショウという人物がいたようですが、確認できていないそうです。

叔父から継いだ香具屋を罹病により29歳で辞めて、伏見、摂津へと移住します。故郷を離れたことが却って京都のことをより思うようになり、享保15(1730)年から京都地誌作成に着手します。文字でその場所を明らかにする地誌を書いているうちに、それに付属する地図を作るようになり、地図の面白さに嵌っていきます。そして地図の中に地誌を書き込むようになっていきます(地誌と地図を組み合わせるのは森幸安が初めてではないそうです)。

地図作製には、大工頭中井家が作製した地図、西本願寺や東本願寺が所蔵する地図などを参照して書いたものや、いろいろな情報から作り出した地図もあります。一番有名な地図「中古京師内外地図」(1750年)は、「中世の京都を推定して書いていて、構図が(も)ユニーク」(上杉さん言)。「城西嵯峨松尾地図」(1751年)は「書き方が面白い地図で文字情報が細かく書かれている」(上杉さん言)作品です。

上杉さんは、最後に「歴史地図以外については、情報源の特定が急務であること」と「森幸安の影響力の研究が必要だ」と述べられました。「森幸安以降の系譜をたどること、影響力の研究が必要だ」という話が特に印象に残りました。

私が関心を寄せる椿井政隆は、森幸安より後の明和7(1770)年に生まれ、天保8(1837)年に亡くなっています。彼も考証が好きで、「椿井文書」研究で活躍されている馬部隆弘さんによれば、中世文書の体裁で創作された由緒、系図、絵図などの「椿井文書」は今の段階で千点弱が近畿一円に広まっているそうです。その絵図には、細かい文字情報がたくさん書かれていて、当日閲覧した「城西嵯峨松尾地図」に似ているように思いました。

ただ、「森幸安は『私は出版する意志がない』ときっぱり明言している」(上杉さん言)点が椿井政隆と決定的に違います。森幸安は趣味的、学術的な地図作製でしたが、椿井政隆は争いの場に出没して、依頼主に有利なように絵図を創作しています。椿井政隆の姿勢を、草葉の陰から森幸安が見ていたらどう歎いたでしょうか?とはいえ、需要があったからこそ成立した椿井ビジネスです。その需要の背景を解明することが必要だと考えます。

1月8日のこの集いでは、25枚ほどの近世京都図を丁寧な解説付きで閲覧させて戴きました。実にありがたい催しでした。江戸時代初めは掛け軸のように縦長、それが四角くなり、やがて懐中図に、と地図の形も変化し、次第に商品として洗練されていく様子もわかりました。「絵図、地図は見る人によって読み方が異なる。地図は黙って読むものではない」という上杉さんの声に押されて、参加者から様々な意見が出ました。それを聞いているだけでも勉強になりました。「平安京・京都研究集会」代表の山田邦和・同志社女子大学教授によれば、このような試みは初めてなのだそうです。

京都アスニー(京都市中京区丸太町通七本松西入ル℡075-812-7222)では、京都日本文化研究センターと共同で、2011年4月〜2013年4月まで特別展「京(みやこ)の地図学者 森幸安の世界」が開催されています(1シリーズ2カ月、計12回。入場無料)。山城南部を書いた「山城国地図」はまだ展示されていないようですので、展示の折にはぜひ出かけて実見したいと思っています。

関連して、1月12日午前10時〜正午、京都アスニーで、上杉さんの講演「森幸安の世界3ー幸安の描いた日本とその影響力」があります。800円で、要予約です。 




 
 

聴講「近世京都図研究の現在」(1)

昨日、同志社女子大今出川キャンパス純正館で開催された「平安京・京都研究集会」を聴講しました。たまたまインターネットで見つけて知った催しです。そこには、最初に二人の専門家による報告があり、続いて各種刊行京都図、森幸安(ゆきやす)作製京都図、歴史考証図などを閲覧すると書いてありました。報告1のタイトル「古絵図研究の問題点」に興味を覚えました。超方向音痴の私にとって一番苦手な、そして縁遠いものが地図です。それなのに、わざわざ出かけたのは近年関心を寄せている「椿井文書」のことがあったからです。江戸後期の椿井政隆もたくさんの絵図を創作しました。講師の先生が、どんな古絵図の問題点を話されるのかも興味があったのですが、日本の絵図・地図の流れがどのようなものだったのかも知りたかったのです。

報告1の発表は、京都市歴史資料館で古地図を研究されていた伊東宗裕さん。2つの問題点について話されました。
1)書誌学の成果を取り入れる
2)被差別地域の記載
素人なので余り難しいことは分かりませんから、お話を聞いて自分の印象に残ったことを書いてみます。

・古地図を歴史資料として扱う時、「刊・印・修」の区別をすることが大切。
「刊」・・・木版の場合最初に版が作られたことで、一番最初に印刷された年を示
    す。(例)天保2年刊
「印」・・・当該本が実際に刷られたこと。
    (例)文久年間印 この絵図には文久年間の状況が書かれている。
「修」・・・埋木などで後に修正されたということ。
 刊記の表すものは刊行年だけで、後に印刷されたものにはその時代の人々の
 世界観が描かれている。これを明らかにすることが重要なのだが、現在は「
 刊・印・修」の区別がほとんど顧みられていない。


私自身、「刊・印・修」の用語について初めて教わり大変勉強になりました。仏書では同じ版木でずっと使い続けられることが多いようですが、地図などでは刊本と名付けられても、必ずしも最初に印刷されたものと後に刷られたものとが同じとは限らないのですね。

・写本の意義の理解が必要。
現在は手書きされたものより、印刷されたものの方を立派と見る向きがあるが、近世の場合は異なる。写本を作るには、もの凄いエネルギーが必要。写本の方が上ではないか。原本を正しく写したものは「写本」ではなく「謄写本」。「写本」と「刊本」の間には行き来はあるが、手書きによる古地図の良さを当時の人々は認めていた。手書きによる古地図には、刊本にはない優れた点がある。

実際、集い後半の古絵図閲覧で、手書きによるものを見たとき、緻密で丁寧な仕事ぶり、その集中力の凄さ、美しさに圧倒されました。
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写本学の藤本孝一・龍谷大学客員教授が「どんなものでも、それを次世代に伝えようとした人がいたから、今まで伝わってきた。書物や物語も書写して伝えてきた。伝えようという人の思いが重なったものの一つが、写本。(略)何百年も伝えられてきた写本に込められた、大和言葉で言うところの『こころ』を読み取ることが、一番大切だと思っています」と話された記事(2009年11月19日付読売新聞夕刊)を読んで以来、「写本」の意義についても考えるようになっています。伊東さんの話は藤本さんと違う視点からの「写本」への見方ですが、いずれにしても実際に見せて頂いたたくさんの手書き古絵図から、作者の強い思いを感じました。

・古地図には、刊本・写本の区別なく被差別地域の名称が記されることが多い。地図自体を公開しなかったり、展示や出版物の掲載ではこの部分を削除することがよくあるが、明確なガイダンスを持たない場合が多い。知識の追求のところでタブーを作ることは、歴史研究をゆがんだものにする危険性がある。

確かに閲覧した古絵図は階層によって色分けされていました。当該地域も一目で分かります。富山から上京して暮らすなかで、徐々にデリケートなこの問題の存在を知りました。難しい問題だと思います。
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閲覧した古地図には上掲のような火災図、焼け場図もありました。丁度今「古文書勉強会」で、長岡京市旧家の火消し文書をやっていますので興味津々でした。伊東さんの説明によれば、こういった火災図は京都以外の地へ被災状況を知らせる等の目的で作られました。例えば安政5年に東本願寺が焼けて大騒動になった時は、門戸さんに知らせるためにたくさん刷られたそうです。


木津川市ふれあい文化講座(2)

瀧浪貞子先生の演題は「聖武天皇〜その実像と虚像」でした。2009年10月に実施された第61回正倉院展で、光明皇后直筆「楽毅論(がっきろん)」が展示されていました。その奥書に「天平十六年十月三日 藤三娘」と太くしっかりとした文字が書かれていたのが印象的でした。「藤三娘(とうさんじょう)」とは、藤原不比等の三女という意味です。皇后と書かずに不比等の娘だと主張していることに興味を持ちました。この時、光明皇后は44歳。ちなみに聖武天皇と同い年です。奈良時代には、中国・東晋の王羲之(おうぎし)の書が随一とされ、光明皇后は王羲之の書いた「楽毅論」の模本を底本にこの書を書いたと考えられています。全体が力強く、ぐいぐい書いたという印象を受けました。

光明皇后の書「楽毅論」と聖武天皇宸翰(しんかん。直筆)「雑集」はよく並べて紹介されます。聖武天皇の文字は丁寧できちんと、繊細な印象を受けます。書の専門家は、聖武天皇の文字がよりお手本とした中国の書に近いと言います。「書はその人の如し」。どちらかと言えば聖武天皇の方がやさしく女性的、光明皇后の方が強く男性的と感じていました。下世話な表現で言えば、かかあ天下っぽいイメージで捉えていました。瀧浪先生は、聖武天皇の文字を神経質だが強い自覚を持った文字、光明皇后の文字を、あらゆるものを包み込むおおらかさを表していると話されました。天皇になるべくして幼いときから教育を受けた聖武天皇、飛ぶ鳥を落とす勢いの不比等の娘。生まれながらの環境が文字にも影響するのだと面白く思いました。

聖武天皇が実母宮子(不比等の娘)と初めて会ったのは、天平9(737)年12月27日、彼が37歳の時でした。今風に言えばマタニティブルーで長く人と会うことができなかったのですが、玄昉法師が看て欝が治り相見えることができたと『続日本紀』は記します。聖武天皇の文字の背景には充分に母に甘えられなかった幼い日のことが影響しているように思いました。

民間から光明子を皇后に迎えるにあたって、天平元(729)年8月24日に聖武天皇がのべた「立后の宣命(せんみょう)」では、「かにかくに年の六年を試み賜ひ使ひ賜ひて、この皇后の位を授け給ふ」(聖武天皇の祖母である元明天皇の言葉に従って、ともかくも6年もの間試みに使ってみて、過ちも罪もなかったので、皇后の位を授けることにした)とあり、瀧浪先生は「聖武天皇は駆け引きに長けている。藤原氏に恩を売り、そして実をとる。足入れ婚として藤原氏を臣下として見下し、『皇后にしてやる』と威圧的な態度をとっている」と解説されました。私は、反発を抑えるため聖武天皇のパフォーマンスではないかと思っていましたので、意外な見方でした。

聖武天皇の遺言『続日本書紀』神護景雲3(769)年10月1日条では「皇太后(光明子)によく奉侍(つかえはべ)れ。朕を思ひて在るがごとく」とあり、40年間連れ添った光明子に全幅の信頼を置いていたことが窺われ、『東大寺献物帳』願文の後書きには「疇昔(ちゅうせき)を追感して目に触るれば崩摧(ほうさい。崩れ落ちる)す。謹んでもって盧舎那仏に献じ奉る」とあり、「光明子の心情を仏像に預け、仏の加護を祈った。あの時代、どこへ出かけるのも一緒、夫唱婦随の夫婦であった」と女性研究者らしい解説をされました。
阿修羅像
興福寺再建の勧進に大活躍した「阿修羅像」(興福寺蔵、国宝)ですが、奈良、東京、福岡での拝観者数は折からの仏像ブームの中で傑出した記録を残したそうです。もちろん私も長蛇の行列に加わり拝見しました。その阿修羅像についても面白い見方を話されました。「正面(両耳が揃っているのはこのお顔だけ)が年長で、向かって右側が一番若く、左顔が次に若い顔。時計回りと逆に、年齢順の顔に造られている。右顔は満一歳前に亡くなった基王(もといおう)、左顔は、光明子の遠縁にあたる安積親王(聖武天皇と県犬飼広刀自〔あがたいぬかいのひろとじ。光明子の母県犬飼三千代と同族〕の子。基王が亡くなった年に誕生)。そして正面は安倍内親王(後の孝謙天皇で、重祚して称徳天皇に。聖武天皇の第2皇女)ではないか」と。

今年9月23日に「木津川の地名を歩く会」で和束茶源郷を探訪し、その折り同町白栖の和束墓へも行きました。地元では「安積(あさか)親王陵墓」と呼ばれています。茶畑が美しい円墳でした。17歳で急死した安積親王は、藤原仲麻呂(光明皇后の甥で、光明皇后や孝謙天皇に信頼された人物)によって暗殺されたという説があります。その年は744年閏1月。丁度光明皇后が「楽毅論」を書いた年。今改めてその文字(『正倉院展』図録18〜19頁、2009年)を観ますと、「十六年十月」の文字が他と比べて太く大きいのに気付きます。「楽毅論」の文字は、光明皇后の心の内を表出しているように私は思います。

元々阿修羅像があったのは興福寺西金堂で、光明皇后が実母県犬飼橘三千代の菩提のために建て、その一周忌734年1月に完成したのだそうです。この時光明子は34歳。瀧浪先生は「今の医学と違って当時としては藤原氏の血統を継ぐ男子を産むことが期待しにくいと考えたのかも知れません。阿修羅像は聖武天皇と光明皇后夫妻の熱い願いが込められた像で、安倍内親王に対する祈りのまなざしではないか」と話されました。阿修羅像に込めた思いを探りに、もう一度阿修羅像に会いに行きたくなりました。

木津川市ふれあい文化講座(1)

昨日、木津川市・木津の文化財と緑を守る会・興福寺が主催する「ふれあい文化講座」に行って来ました。講師は、奈良興福寺境内管理室室長の薮中五百樹さんと、京都女子大教授の瀧浪貞子さん。お二人は当然、私のことなぞご存じありませんが、当方は大変好印象を持っておりますので、楽しみにでかけました。

今年、論文もどきを書いたのですが、その時興福寺に関する質問をメールで致しました。どうせ、素人の質問だから返事がいただけるはずは無いだろうと思っていましたら、薮中さんご本人から丁寧なお返事を頂戴し、大変感激しました( 実はそれと同時期に、私が居住する市の議員さんにも、彼女のホームページからアクセスして、もっと些細な質問を送信したのですが、6月から5カ月経っても未だに返事は届いておりません)。

もう一人の瀧浪先生にも、随分以前のことですが講演後に質問しましたところ、「全体の講演会が終了した後で」というお返事を戴きました。その時も、「覚えておられないだろう」と勝手に想像しておりましたら、出口のところで先生自ら私を待っていて下さいました。感激したのは言うまでもありません。こうした経験が、益々勉強しようという気持ちに導いてくれます。

最初に、薮中さんの「興福寺・最近の話題ー中金堂再建、荒池瓦釜、北円堂発掘など」。現在、興福寺の中金堂が再建中ですが、そこに至るまでの苦労は並大抵ではなかったようです。自費で建築しなければならないので巨額の資金集めが大変なこと、設計図探しに奔走されたこと、建築に関する規制が厳しいこと、材料集めが困難だったこと(例えば、主柱36本の原木は直径1.5㍍、高さ10㍍が必要。国内では無理で、アフリカのカメルーン産のアフリカケヤキと巡り合って前進)等々。20年の歳月をかけて漸く、2009年10月再建が開始されました。

藤原不比等が造成した土地の基礎部分は一切触れてはならないーこれはずっと言い伝えられてきたことで、今回の再建も基壇は奈良時代のままなのだそうです。中金堂の大きさは、平城宮大極殿に匹敵する巨大さ。1300年前、権勢を誇る藤原氏の力の程が窺い知れようというものです。落慶の予定は2018年、まだまだ先の話です。その後には南大門、築地塀などの再建プランが続きますが、それは次の世代、また次の世代ということになりましょうか・・・。

「本当のことが知りたい。だから論が違う人とも仲良くする」という薮中さんの考え方のおかげで、私の「知りたい」という思いにも答えて下さったのだと、お話を聞きながら思いました。

次に瀧浪先生の「聖武天皇 ーその実情と虚像」。これまでよく耳にした聖武天皇と光明皇后のイメージとは異なる視点で語られて、興味深いものでした。

無縁社会を考える

昨日、同志社大学寒梅館で開催されたシンポジウム「無縁社会をいかに生きるか」に行って来ました。「無縁社会」という言葉に以前から関心があったからです。現代社会は血縁、地縁、社縁が希薄し「無縁社会」が到来していると危機感を伴って表現されています。最初に同大ライフリスク研究センター長の橘木俊詔教授が、地縁、社縁が希薄化した理由について「無縁社会の正体」と題して基調講演されました。続いて精神科医の香山リカさんが精神科医の立場から、京都大学大学院教授の落合恵美子教授が「家族の変化と無縁社会」をテーマに、そして反貧困ネットワーク事務局長の湯浅誠さんがご自身の活動から、それぞれ「無縁社会をどう生きるか」について15分ずつプレゼンされました。

診療現場で様々な悩みを抱えている人と接しておられる香山さんの意見にはとても説得力があり、共感を覚えました。最初に香山さんが現代を生きる人たちのことを「いっぱいいっぱいの現実」と表現された言葉が今も頭に残ります。小泉政権時代の2003年が自殺者のピークという話は分かるような気がしました。自己責任、勝ち組負け組という言葉がちまたに溢れ、他者を蹴落とし、異質なものは排除する、余計なことには関わらないように「見なかったことにする」、いつも疑心暗鬼で縮こまり、安心して暮らすことができない・・・こんな日常にくたびれ果て、立つ位置を見失い、自尊意識を持てなくなった大勢の人が心を病んでいます。無縁社会にアクセルを踏んだのは小泉政権ではないかと思っています。彼の政権時代は功罪色々あり、検証することが無縁社会を考える上で必要だと思います。

家族やジェンダーを研究されてきた落合さんは、「家族主義は家族を壊す」というエスピンーアンデルセンの言葉を紹介し、1970年以降北欧諸国が脱家族化政策を実施してきたこと、アジアではリスク回避的個人化(非婚、離婚)していることをお話しされました。「リスクになった家族ー家族を捨てるー無縁社会」の構図は余り考えたくありませんが、現実のニュースで毎日のように報道されています。家族の変化は避けられないので、それに伴う「縁」の再構築が必要だと落合さん。縁=社会的ネットワークの構築が重要です。

香山さんも「家族は病理である」という精神医学の言葉を紹介されていました。例えば圧力釜の中で暮らしているようなもので、出口がなくて苦しんでいる患者さんはたくさんおられるそうです。無縁社会の方がストレスが減っている面もあり、一人暮らしでも自信を持って安心して楽しめる社会、無縁社会でも気にせずに暮らせて、万一の時助けて貰える緩い縁があれば良いと話されました。この時、会場から多くの拍手が起きました。

湯浅さんは、「成長って何か?」ということを分かりやすい言葉で例えて話し、「GDPが上がると嬉しい、下がると悲しい」何でも良いから成長すれば良いのではなく、価値観をフリーにして、成長の質を問える社会にしていこうと話されました。被災地での活動経験から、被災しても気が抜けずにいた耳の聞こえない人の例などを挙げて、防災訓練と同じ様に、一人一人が民生委員になって、声のかけ方、対応の仕方を訓練し、色々なアンテナを張って、そういう人たちを受け止められるようにしておくことが大切だと話されました。これからは血縁、地縁、社縁のほかに志を同じくする縁「志縁」を築くことができるのかが問われていると話されました。私は「志縁」という言葉が気に入りました。

「昔は良かった」と振り返るばかりでなく、家族のあり方は変化するものと受け止めて、皆が民生委員になったつもりで「豊かな無縁社会」を作っていけたら良いなぁと思いながら会場を後にしました。
藍の花

        藍(あい)の花


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