歴史探訪京都から

-旧木津川の地名を歩く会-

秦家 を含む記事

特別展「人間国宝・江里佐代子の截金」

今日、素晴らしい方からお便りを頂き感激しています。2003年に京都府文化功労賞、2007年に(財)仏教伝道協会から第41回仏教伝道文化賞を受賞され、現在龍谷大学客員教授としてもご活躍の仏師・江里康慧(えりこうけい)先生からです。初めてお会いしたのは、今年の祇園祭宵山の日、下京区の秦家(京都市登録有形文化財)でのことです。7月19日付けブログで「座敷机の前に向かい合う人々がいずれも高名な先生」と書きましたが、そのお一人が江里先生でした。紹介してくださった方が「江里・・・」と言われた途端、「えっ、截金(きりかね)の!」と反応してしまいました。

2006(平成18)年夏、第3回目の京都迎賓館一般参観に 応募し、幸運にも当選。7月24日に出かけてきました。目に入るもの全てが匠の技で素晴らしく、溜息混じりに眺めておりました。中でもその日強く印象に残ったものの一つが、江里佐代子さんの截金でした。晩餐室「藤の間」の舞台を仕切る6枚の檜扉に繊細で緻密な文様が描かれていて、その美しさに心を奪われました。「截金」という名称を知ったのもその時でした。

「截金」は、1㍈以下の薄さの金箔、銀箔、プラチナ箔を極細の線に切り、膠(にかわ)で1本ずつ直線や曲線に貼って文様を描き出す技法です。仏像を美麗に飾るこの技術は平安時代の中・後期に最盛期を迎えますが、精緻な技術が必要なため鎌倉時代以降に衰退したと言われています。

佐代子さんは、康慧先生と結婚後に「截金」の技法を学ばれ、先生が彫り出された仏像を美しく飾る一方、香合などの茶道具や飾り箱、屏風、衝立など生活空間の室内装飾や調度品のデザインへも展開されました。2002(平成14)年には、当時最年少の56歳で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。次々生み出される「美」の世界に、次はどんなものを見せていただけるのかと思っていた矢先、2007年10月3日、訪問先のフランスで脳出血で急死されたことを報道で知りました。まだ62歳の若さで、「惜しい方が亡くなられた」と、とても残念に思いました。 

7月16日秦家の座敷机を囲んで、しばし佐代子さんの思い出話を聞かせていただいたのが、今年の夏の大きな思い出でもあります。初対面の私が奥様のことを知っていたことを覚えていて下さって、「香雪美術館」(神戸市東灘区御影)で開催される「人間国宝・江里佐代子の截金〜康慧とともに伝える荘厳の美」のご案内をいただきました。初日の9月15日午後2時から、康慧先生の講演会も予定されています。当日は午前中、恒例の古文書勉強会ですが、終えてから美術館へ行ってみようと思います。先着50人ですから聴講は難しいかもしれませんが・・・。
チラシ表

チラシ裏

祇園祭〜7月16日(2)

青木家8423青木家8422
貴重なお話を聞かせていただいた芦刈山町内の青木さん宅「屏風祭」です。青木さんのお話から、先人の心意気を継承する「町衆」の誇りを感じました。1カ月間に及ぶ祇園祭ですから、大変なご苦労があると思います。青木さんとの出会いは、見えている山鉾の向こうにある山鉾町の人々の「心」に思いを巡らす大切さに気付かせてくれました。
吉田家8426鍾馗さんと幕8428
吉田家の「屏風祭」、モダンな絵柄ですね。あちこちで鍾馗さんを見かけました。昔ながらの京の町家にお祝いの幕が張られ、そこに鍾馗さんがいる・・・それだけで嬉しい眺め。
秦家8402秦家アップ8403
約束の午後4時、太子山の提灯が掲げられている京都市登録有形民俗文化財の秦家に行きました。ずっと眺めていたい素敵な外観です(写真の上でクリックすると拡大表示されます)。左写真の後方に僅かに提灯が写っているのが太子山。太子山町は鉾町では一番西の端に位置しています。

秦さんからいただいた資料によると、江戸時代末期の元治元(1864)年の禁門の変(どんど焼け)で焼失、明治2(1869)年に再建されました。土壁で塗り込めた「虫籠窓(むしこまど)」の中央に木製の看板があります。そこには「奇應丸」の文字が刻まれています。

秦家の創業は元禄13(1700)年で、初代松屋與兵衛さんから12代にわたり薬業の商いをされてきました。小児用の虚弱体質、ひきつけ、乳吐き、夜泣き、大人の癪など何にでも効く妙薬として広く用いられた家伝薬「奇應丸」を製造販売しておられた商家です。
     太子山会所飾り8433
秦家の幕をくぐると、太子山の懸装品が並んでいました。同家は会所飾りの場でもありました。正面の白い布の奥におられるのがご神体の聖徳太子像。しゃがんでみると16歳の太子の顔が拝見できました。町内の人が「明日午前6時から、太子山にこれらの懸装品を飾り付ける」と説明してくれました。

太子山は、聖徳太子が四天王寺(大阪市天王寺区)建立に際し、自ら良材を求めて山に入り、老人に大杉の霊木を教えられ六角堂を建てたという伝説を題材にしています。それぞれの山には神の依り代である真木に松の木が立てられますが、太子山だけはその故事に倣って杉の木を立てています。7月7日朝、太子山町内の人が京都市北区の山林へ「杣入(そまい)り」して切った杉の木は、17日の巡行で真夏の青空に聳えていました。

玄関から案内されて部屋に上がりました。「遠慮」を知らない私は、すすめられるままに奥の座敷に。先客が何人もおられました。床の間に聖徳太子の軸が掛けられています。立派な屏風の前に長い座敷机があり、それを囲んで咲いていた話の輪に厚かましくも参加。そして向かい合う人々がいずれも高名な先生と分かり、赤面するやら興奮するやら・・・。
     秦家庭8430
宇治田原町産の煎茶を水出しで淹れた谷口さんお手製の冷茶を戴きながら、奥座敷から奥庭に目をやると、そこにキリシタン灯籠(写真左端)がありました。『京の町家 おりおりの季節ごはん』などの著書がある秦家のお嬢さん・めぐみさんに「なぜ、ここにキリシタン灯籠があるのか」と尋ねましたら面白い話が聞けました。

川端康成著『古都』の冒頭に描かれているのがこの庭なのだそうです。昔、川端氏が京言葉を調べるために秦めぐみさんのおじいさまを訪ねて来ました。よほど強い印象を受けられたのでしょうか、眺めた庭の様子が千重子の目を通して『古都』に綴られています。

めぐみさんによると、今は小説に描かれたもみじの古木はありませんが、川端氏が秦家を訪問した時には古木があり、確かに幹のくぼみにすみれが咲いていたそうです。そのもみじの根かたに古い灯籠があって、小説の中で、千重子の父はキリシタン灯籠だと教え、「この灯籠は、庭師か石屋が持って来て、すえたんやろ。」と千重子に話しています。

キリシタン禁制の時代、茶人としても有名な古田織部が考案したと伝えられて「織部灯籠」とも呼ばれています。つくばいの鉢明かりとしてセットで据えることが好まれたようです。めぐみさんによれば、このつくばいは水琴窟になっていて、興趣をこらした庭造りです。

店舗棟、住居棟、土蔵を中庭と奥庭の二つの庭がつなぐ「表屋造り」の家で、建物の入り口から奥まで貫く土間は約30㍍もあるそうです。京の町家が「ウナギの寝床」と言われたりするのも納得。素晴らしい京町家を見せていただき、そこで祇園祭の情緒も味わえ、素晴らしい人々との出会いもあり、幸せな時間を過ごすことができました。

秦家では様々な活動をされています。関心がある方はこちらをどうぞ。URL:www.hata-ke.jp
横山商店8437平将門塚8448
西洞院通綾小路南西角の横山商店の屏風祭。森寛斉画「四季耕作図」が正面に飾られています。黒留め袖の絵柄は大河ドラマ「平清盛」に合わせて源平合戦図です。「だんだん、屏風祭をするところが減ってきた」と話しておられました。右の写真は、下京区四条通新町西入ル下ル新釜座町にあった平将門ゆかりの神田神宮です。京に運ばれた平将門の首は、写真奥に見える尖った石の上に晒されたとの伝承があるそうです。
       鷺踊8453
午後6時半から八坂神社で奉納される島根県の石見神楽(無形文化財)で「鍾馗」が奉納されないかと思い、八坂神社へ向かいました。途中、四条通で人集りしていたので覘いてみましたら、鷺踊を奉納していました。真剣な表情が何とも可愛い。
スサノヲ8483DSCN8497
  大蛇(オロチ)を退治するスサノヲ。     大蛇は4匹もいました。

宵山の人混みをかき分け、ようやく辿り着いた八坂神社では大勢の人が能舞台に集まっていました。その演目は「神楽」「天神」「牛若丸」「大江山」「大蛇」で、残念ながら「鍾馗」はなかったです。でも激しい動作で一生懸命演じられる石見神楽に感動しました。蒸し暑い京都でさぞかし大変だったでしょう。今年は『古事記』1300年ということで、7月28日から京都国立博物館で、特別展覧会「大出雲展」が開催されます。それに関連して八坂神社での奉納となったようです。

良いものをたくさん見聞した一日でした。出会った人々皆様に感謝で一杯です。













祇園祭〜7月16日(1)

梅雨明け宣言が出された7月17日、祇園祭のハイライトの山鉾巡行が炎天下の京都市内で行われました。仕事をしながら、横目でテレビの中継を見ていました。これまで山鉾巡行は何回も見ていて、その都度の思い出があるのですが、今回は山鉾町の会所飾りや屏風祭をいくつか見てあるき、話を聞いたりしたので例年とは違う思い入れがあります。

16日、幸運にも秦家(京都市下京区油小路通仏光寺下ル。京都市登録有形文化財)を訪問する機会に恵まれました。祇園祭に同家来訪の客人に、宇治田原町の煎茶で淹れた冷茶を接待している方の紹介です。町家に興味津々で、機会があれば訪問したいと思っていただけに嬉しさもひとしおです。約束は午後4時。それまでに少し時間があるので、山鉾巡りをしました。
 大船鉾8385船鉾8387
    大船鉾                   船鉾
大船鉾の鉾は、幕末の「蛤御門の編」の大火で木組や車輪が燃えてしまい永く休み鉾でしたが、今回142年振りにご神面を収めた唐櫃で巡行に参加されました。焼失を免れた懸装品などが会所で披露されていました。2014年、鉾での巡行参加復活を目指しておられます。船鉾も神功皇后伝説を題材にしていて、船首に船を先導する金色のゲキ(想像上の鳥)がいます。
木賊山会所8399木賊山8397
世阿弥作「木賊(とくさ)」を題材にした木賊山。我が子と生き別れた悲しみのうちに木賊を刈る翁がご神体。足台に元禄5年墨書があるそうです。
油天神山会所飾り8407油天神山8406
油天神山。すぐ近くに、天神様を祀る神社がありました。油小路にある天神様から付いた名前ですね。前田青邨画「紅白梅」の綴織が綺麗です。
芦刈山荷茶屋8416芦刈山小袖8410
7月14日付京都新聞に、芦刈山の荷茶屋(にないちゃや)が見つかったと掲載されていました。巡行中にお茶を飲みたい人がいたら、担いでいたお供の人は荷茶屋を下ろしてお茶をたてていたそうです。そのための茶釜も残っています。上部の四角い穴に棒を通して担いでいたのでしょう。「一服したら、『さぁ行こか』とのんびりしたもんや」と話してくれた顧問の青木茂夫さん(84歳)は「蔵の隅にあるのは知っていて遊んだ覚えはあるが、担ぐ人が要るのでいつの間にか廃れたのではないか」と推測。

写真右のご神体の老翁が着ていた「綾地締切蝶牡丹文片身替小袖」は、襟のところから天正17(1589)年、織田信長から拝領したことが記してあるものが見つかり、山鉾最古の衣装であるとして昭和45(1970)年に重要文化財に指定されました。これも長持ちの隅に括ってあったそうです。今の衣装も町内の協力で新しく拵えたものだそうです。
芦刈山ご神体8446芦刈山燕子花図8413
世阿弥の謡曲「芦刈」が題材。ある事情で妻と離れ離れになった夫が難波の浦で芦(蘆)を刈る場面です。やがて3年ぶりに二人は再会、仲良く都へ戻っていくストーリー。夫婦円満・再縁・縁結びを願う人はここの粽を飾ると良いそうです。左写真の右端には、ご神体の旧御頭が納めてあります。天文6(1537)年、七条仏師・運慶の末弟である運助の7代目にあたる康雲作の墨書銘があるそうです。ご神体(老翁)の前に供えてある和紙製灯明(?)の名称が何か青木さんにお聞きしたのですがわかりませんでした。でもこれを献納する人は毎年同じ人で、不幸があった今年は和紙の巻き方が違うらしいことを教えてもらいました。

南山城地方のある神社の行事を調べていて、不幸があった家はその年「神様にまつわることは遠慮する」と聞いたばかりなので意外に思いました。青木さんは「身内に不幸があっても毎年お供えを欠かさない。開かれた祭や。いちいち省いていたら、祭なんかできひん」と話してくださいました。右の写真の燕子花(かきつばた)の胴懸は尾形光琳図の綴織、見送は「唐子嬉遊図」です。
芦刈山鶴図8414芦刈山8421
山口華楊図「鶴図」の見送。会所入り口には、中央アジアから輸入した立派な織物が何枚も綴られた懸物が飾ってありました。青木さんは「今のように補助金とか何もない時代、皆が力を合わせてひときれずつ買ったものや。見送には寄付した人の名前が書かれている。昭和二十数年には、アメリカ人が見に来て買おうとしていたが、貧乏していても売らなかった。職人の町やから残ったんや。昔の人は偉かったなぁ」と話して下さいました。

「明日の山巡行にはどの胴掛けを飾るのか」とお聞きしたところ、「その時の気分で決める」と返事が返ってきました。テレビで芦刈山の巡行を見ていましたら、前懸にライオン1頭を描いた山口華楊画「凝視」、胴懸に「燕子花図」、見送は「鶴図」でした。このようなお宝が万一雨に濡れたら、乾くまで2ヵ月はかかるそうです。どの山鉾も晴天に恵まれて本当に良かったですね。






     


 
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