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第35回 戦の鬼

諸侯会議は描かれず

 今回は坂本龍馬が京都で暗殺される慶応3年(1867)11月から翌12月末までの話。
 前回書いたが、史実では大政奉還後、10万石以上の大名を京都に集めて諸侯会議を開き、投票(入り札)でトップを決めて新政権をスタートさせるはずだった。だが、投票が行われたら、トップには前将軍の徳川慶喜が選出される可能性が高い。


 坂本龍馬が有名な「新政府綱領八策」と呼ばれる文書を書き上げたのも、この時である。人材登用、外国との交際、律令の制定、上下議院、海陸軍や親兵、為替レートの設定など8カ条に分け、これから誕生する新政権の構想を示す(創作された可能性が高い「船中八策」とは違う)。そして、トップの名を「〇〇〇」と伏せ字にし、「諸侯会盟の日を待って云々」と述べる。

 だが、西郷らは慶喜を何としても政局から排除したい。だから投票が行われる諸侯会議の開催を阻止して、王政復古の大号令という「政変」で強引に新政権を誕生させた。これが、明治政府のはじまりである。

 その間のスリリングな駆け引きは、井上勲『王政復古』(中公新書)などに詳しい。一連の経緯が「西郷どん」ではドラマチックに描かれるのかと思いきや、諸侯会議の話は一切出て来なかった。

 「広く会議を興し、万機公論に決すべし」(『五箇条の誓文』の第一条)をスローガンにした明治維新が、実は万機公論の会議潰しから始まっているという矛盾。その立役者のひとりが、「明治150年」の大河の主人公なのは、とっくに明らかになっている史実である。そろそろこのあたりを、しっかり描き込んだドラマが登場しても良い頃だとは思うのだが。

 

西郷の変節

 「禁門の変」や「長州征討」のさいは、あれほど現代的な平和主義者だったドラマの西郷が、突然「戦の鬼」になっている。

 徳川慶喜は政権を返上した。にもかかわらず、ドラマの西郷は平和裡に解決する気はない。ひたすら「武をもって徳川をたたき潰す」と言い張る。今度は遮二無二、戦争を引き起こすことが、民のためだと言う。民にすれば、大きなお世話であろう。己の願望を満たすため、「市民のみんなが……」などと言い、民意を背負っているかのように主張するのは、しょうもない政治家の常套手段である。

 この西郷、どうやら前回描かれていた、慶喜が薩摩をフランスに切り売りしようとしたという話が、よほど気に食わないらしい。だから江戸に浪士を送り込んで撹乱させ、旧幕府を挑発して、ついには戦争に持ち込もうとする。ドラマとはいえ、相当無理がある変節ぶりのような気がした。

 国を売ろうとした幕府と、それを阻止した薩摩の西郷という単純明快な図式は、かつて薩長閥が構築した明治維新ストーリーそのものである。

 

慶喜の変節

 変節と言えば、敵対する慶喜もよく分からない。

 かつてドラマの西郷は主君島津斉彬から命じられ、慶喜を将軍にするため、エピソード集の写本を作ったり、ボディーガードを務めて人まで殺した。しかし、肝心の慶喜は将軍職に興味は無く、江戸の妓楼に入りびたり。それでも西郷は、日本を救えるのは慶喜しかいないと言っていたと記憶する。

 それが文久2年(1862)に幕閣に復帰するや、突然、島津久光にケンカを売って、性格の悪さをアピールしていた。この時からドラマの慶喜は救世主から一転し、倒されて当然の「敵」として、視聴者の前に再登場した。ふと気になったのだが、なぜ、慶喜は変わってしまったのだろう。

 史実では王政復古の後、鳥羽・伏見の戦いに勝利した西郷ら新政府軍は、慶喜の恭順を認め、江戸城を無血開城させる。徳川家も駿府(静岡)で、70万石の大名として存続が認められた。

 民思いの西郷だったら、ここで戦争を終わらせるはずだ。にもかかわらず史実では、戦火は東北に拡大し、ますます凄惨な殺戮が繰り広げられてゆく。「西郷どん」では、これも民のためだと言うのだろうか。あるいは、こんな時だけ西郷の真意ではなかったことにするのだろうか。今後に注目である。

 ドラマでは、西郷のことが理解出来なくなった龍馬は、

「乗る船が違うようじゃ」

 と呟いて去り、間もなく暗殺されてしまった。主人公の西郷よりも、この龍馬のひと言に、感情移入してしまいそうな回である。

<了>

 

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第34回 将軍慶喜

兵庫開港の勅許


 今回は慶応2年(1866)7月、第二次長州征伐中の将軍徳川家茂の病死から、慶応3年10月の大政奉還までが描かれる。この間、幕府・長州の休戦協約、慶喜の将軍就任、孝明天皇崩御、四侯会議、兵庫開港勅許、討幕の密勅降下などといった年表に太字で記されるような、歴史的重大事が目白押しである。

このドラマ、どうでもいいような話(大抵はフィクション。たとえば、斉彬と西郷が相撲をとった相撲大会)を、たっぷり時間を費やして描いたかと思うと、突然急ピッチで話が進んだりして、視ている側はちょっと戸惑ってしまう。

 たとえば、兵庫開港の問題だけでも、1話を費やしても描き切れないほどの内容と歴史的意味を持っている。

 孝明天皇は慶応元年10月、幕府が安政のころ諸外国との間に締結した通商条約にようやく勅許を与えたが、「兵庫開港」だけは認めないまま崩御したことは、以前に書いた。

 ところが幕府が列強と約束した兵庫開港の期限は、慶応3年12月7日(太陽暦で1868年1月1日)に迫っている。しかも開港するなら半年前に布告が必要だから、6月7日までに勅許を手に入れなくてはならない。


 そこで15代将軍となった徳川慶喜は、3月5日、朝廷に兵庫開港の勅許を求めるが、19日に却下された。22日、慶喜は再び開港を求めたが、やはり29日に却下されてしまう。朝廷内では、まだ排他的な攘夷論が強かったのだ。

 それでも慶喜は、不退転の決意を固める。なんと28日にはイギリス・オランダ・フランスと、4月1日にはアメリカの代表と大坂城で会見し、兵庫開港を約束の期限までに実行してみせると宣言した。


 こうした慶喜の強引な態度が、薩摩藩の西郷や大久保一蔵の態度を硬化させる。慶喜の動きに歯止めをかけさせようと、島津久光(薩摩)・松平春嶽(越前)・山内容堂(土佐)・伊達宗城(宇和島)が上洛し、長州処分(まだ朝敵の烙印が消えていない)と兵庫開港問題につき話し合う。久光らは、兵庫開港は「勅許」ではなく、天皇側に主導権を持たせた「勅命」で行わせようと考えた。


 つづいて四侯は慶喜に会い、長州処分を優先するよう求める。ところが、時間的にも兵庫開港優先を唱える慶喜との間に対立が生じ、結局、四侯はうまく反論出来ないまま会談は終わってしまう。

 そこで西郷などは、慶喜に兵庫開港を失敗させ、国際的信用を失墜させて、政権交代に持ち込もうと企む。そのため勅許が出ないよう、朝廷内の人事にも裏工作をする。


 ところが5月23日夜から24日午後にかけて、慶喜は朝廷に乗り込み、長い会議で奮闘したすえ、ついに勅許を獲得してしまう。そして兵庫(じっさいは神戸)の開港は、期日どおり実現することになる。


 出るはずが無いと思っていた勅許が出たことに対する西郷らの衝撃は、大きかった。1月に皇位に就いたばかりの16歳の睦仁親王(明治天皇。即位礼は8月)を、慶喜が抱き込んだと見た。

 西郷は慶喜に、ここで一本とられた。

 だからこそ、武力を行使しての政権交代=「挙兵討幕」という案が、現実的なものとして浮上して来る。長州藩はまだ「朝敵」だったが、西郷たちは水面下でその提携を強固なものとしてゆく。

 

負けっぱなしの西郷


 このように武力討幕の機運が高まると、土佐藩から大政奉還のプランが出て来る。慶喜が朝廷に政権を返上し、二院制の議事院を設けるという「公議政体論」である。

 6月22日、土佐藩の後藤象次郎ら重役たちは、西郷・大久保・小松帯刀と京都で会談した。この席には、土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎も同席している。

 ここで西郷らは、後藤から提案のあった大政奉還建白に同意した。武力討幕を諦めたからではない。西郷は、慶喜がみずから政権を返上するはずがないと考えた。だから、土佐藩の大政奉還建白は失敗すると見た。


 そうなれば政権交代は、西郷らの考える武力討幕しか道が無くなる。西郷らは武力討幕をスムースに行うため、大政奉還建白を認めたのである。

 だから武力討幕の同志となる長州藩との関係は、ますます強まる。このころ、奇兵隊軍監の山県狂介(有朋)が事情探索のため京都の薩摩藩邸に潜伏して、西郷・大久保・小松らと今後の道筋につき話し合っていた。その席では、武力討幕を匂わすような話も出て来る。島津久光は帰国する山県に、ピストルを贈った。


 7月6日、長崎でイギリス水兵殺し事件が起こり、その嫌疑が土佐の海援隊にかかる。後藤や龍馬が対処に追われ、結局二カ月ほど大政奉還建白運動は停滞してしまう(この時は解決しなかったが、後年福岡藩士が犯人だったことが明らかになった)。

 それでも9月になり、後藤は土佐から京都に上って来て、大政奉還の実現に向けて、走り回る。そして、幕府側を説き伏せてゆく。


 ところが、6月の時点では大政奉還建白に賛同したはずの西郷たちが、状況が変わったとして武力討幕を主張して譲らない。薩摩からは、軍勢が大坂に到着したりする。薩摩・長州両藩とも、上層部の多くは危険きわまりない武力討幕に反対だった。だから藩の内側を統一するため、ドラマにも出て来た「討幕の密勅」が作られたりする。


 そして西郷らの当初の予想に反し、慶喜は土佐藩から出された大政奉還建白を受け入れた。10月14日に朝廷へ願い出て、15日に許可される。手放すはずがない政権を、慶喜は手放し、武力討幕は大義名分を失う。

 西郷はまたも一本、慶喜に取られてしまった。


 ただ、大政奉還により慶喜は、征夷大将軍の官職を手放したわけではない。翌16日からも変わらず内政、外政ともに慶喜が担当する。

 新しい政権は近日中に10万石以上の大名が京都に集まり、諸侯会議を開き、誕生する予定になっている。その席で政権のトップを投票で決めるのだ。慶喜が選ばれるのは、目に見えている。大政奉還を行った慶喜は、再び合法的な形で新政権のトップの椅子に座ることが、ほぼ約束されていたのである。


 このまま諸侯会議を開かせたら、慶喜を頂点とする新政権が誕生してしまう。慶喜にやられっぱなしの西郷は焦る……。

 以上が、大政奉還の実現へ至る経緯だが、ドラマはかなり本筋の部分を変えてしまっている。

 

ふきはスパイ?

 ドラマでは平和主義者として描かれて来た西郷が、なぜ、慶喜と戦争を始めようとしているのか。

 一番首をかしげたのは、西郷が慶喜の側室ふきと京都市街で偶然会い、鰻屋の店先に腰掛けて話をするシーン。まず、お互いの立場を考えたら、どう考えてもありえない。しかも人目につくところで、わざわざである。非常識にも程がある。

 さらに凄いのは、ふきは立ち聞きした慶喜とフランス公使・イギリス公使の密談の内容を、知っている限り西郷にぺらぺら喋ってしまう。薩摩藩から幕府側に送り込まれたスパイという設定ならまだしも、ふきはなんと軽率な女なのだろう。それでも、ふきに悪意は無いようで、慶喜・西郷と三人で仲良く過ごした昔日を思い出したりする。この時の話がきっかけとなり、西郷は慶喜がフランスに薩摩を与えるとの条件で、フランスの支援を取り付けたと知り、なにがなんでも戦争を起こす決意を固めてゆくのである。


 あまりのバカバカしさに、作り手たちの歴史に対する感覚を疑う。失礼かも知れないが、よくぞ、こんな脚本がパスしたと感心した。


 つづいて西郷は、大坂でイギリスの外交官サトウに会う。サトウは、慶喜とフランスの接近を知らせる。そして、イギリスは薩摩藩を援助してもいいと言う。西郷は「日本のことは、日本人で解決せねばなりません」と、サトウの申し出を突っぱねる。


 国を切り売りする慶喜と、それを絶対許さない西郷……ますます勧善懲悪の、変なドラマになって来た。

<了>

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第33回 糸の誓い

パークスとの会談


 今回は慶応2年(1866)1月23日夜、坂本龍馬が伏見寺田屋で伏見奉行所の捕吏に襲撃された事件から始まる。西郷は龍馬とその妻お龍(おりょう)を連れて鹿児島に帰国し、イギリス公使パークスと会談した。この間、第二次長州征討が行われたが、薩摩藩は出兵を拒否。そして同年10月、西郷は鹿児島を発ち、上京する。


 パークスとの会談は薩摩とイギリスの接近という、日本外交史上でも重要な意味を持つ一場面だろう。ただし、パークスが西郷に心を開いてゆく過程が、ちょっとお粗末すぎた気がする。
 ドラマのパークスは島津久光らの連日の饗応にうんざりして、怒って帰ろうとする。そこへ西郷が船に乗り込み、パークスに会って「薩摩が天子様のもとにこの国をまとめてみせる」との決意を披瀝し、「民をないがしろにする」と、幕府を非難した。するとパークスは、たちまち西郷を信頼するようになるというもの。


 相手が西郷に理屈抜きでほれ込んで話が進むという、このドラマの毎度おなじみのパターンである。イギリスの凄腕の外交官をたちまち味方にしてしまうのだから、「西郷どん」には神がかった魅力がなければならない。しかし、これまで32回を使って西郷の人物像がしっかり描けていないから、ろくな話し合いもないまま、パークスが西郷に心服してしまうのが不思議な感じである。


 史実では西郷がまずパークスと話したのは、兵庫開港問題だった。西郷は幕府が西洋列強との間に結んだ貿易の条約は不正だと言うと、パークスは内輪の問題など関心が無いと突っぱねる。それでも西郷は、幕府から外交権を朝廷が奪うことの利点を粘り強く説いた。こうしてパークスの心は、じょじょに幕府から離れ、薩摩へと傾いてゆく。


 これは、幕末外交史の大変重要な場面である。外交の話だから、お互いの腹を探り合ったり、丁々発止の言い合いがあったり、双方が利害を理屈っぽく突き詰めたりという交渉過程は描く気がないようだ。

 

龍馬とお龍


 今回のスペシャルゲストとも言うべきは、龍馬とお龍の夫妻である。龍馬が第二次長州征討最中の下関へ向かったのは史実だが、お龍が追いかけたというのはフィクション。戦場で夫婦揃って派手に暴れるシーンがあるのかと思いきや、少なくとも今回は描かれなかった。


 ドラマでも描かれていたが、龍馬とお龍は確かにぶっ飛んだ夫婦だったようだ。お龍は維新後、回顧談を残している(拙著『わが夫 坂本龍馬』朝日新書)。その中から、いくつか逸話を紹介しておこう。


 龍馬とお龍が夜の伏見を歩いていると、新撰組に遭遇した。ところが龍馬はさっさとお龍を残して逃げてしまう。お龍は新撰組にあれこれと尋問されたが、なんとか言い逃れた。隠れていた龍馬はお龍と再会し、「あいつらに引っかかると、どうせ刀を抜かねば済まぬから、それが面倒で隠れたのだ。お前もこれくらいの事はふだんから心得ているだろう」と言ったという。女性を置き去りにして、とっとと逃げる龍馬は微笑ましい。


 あるいは、西郷とともに薩摩藩軍艦で鹿児島に向かうさいのこと。退屈になった夫婦とその仲間は、夜の玄界灘に徳利を投げ込んでマトにして、ピストルで撃つという危ない遊戯を始めた。船頭は「やめて下さい」と懇願するが、聞く耳もたず。西郷は囃し立てたという。

 極め付けは高千穂に登り、「天の逆鉾」を抜いたという逸話だろう。ドラマ本編では描かれなかったが、最後の紀行のコーナーでは紹介されていた。逆鉾につき、お龍は、「ひと息に抜いて倒したままで帰りました」と回顧する。

さすがに、倒したままをドラマにするのはまずいと思ったのか、8年前の大河「龍馬伝」では、抜いた逆鉾をちゃんと元の状態に戻すところまで描かれていたと記憶する。今回の紀行も、逆鉾の映像に「現在、触れることは出来ません」というテロップが入っていた。


 悲しいかな、この国には自分がヒーローの「龍馬」であると信じて疑わない、エエ年をした大人たちが存在する。何かお気に召さないことがあったようで、僕もかつて「斬ったるぜよ」と、暗殺予告をいただいたことがある。

殺人はともかく、抵抗しない逆鉾相手なら抜き捨てる真似をしかねない。こんなテロップが必要なのも、分かる気がする。

<了>

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