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第11回 「さらば愛しき人よ」をみる

はじめに
 

 少しずつ暖かくなったのですが、今週は再び冬の天気に戻るようです。私もボチボチ50歳になりますが、急激な気温の変化には耐えがたい状況です。春が待ち遠しいものです。

 

 先日、某週刊誌から「おんな城主 直虎」について、コメントを求められました。「うーん~~~」と唸ってしまいました。と申しますのは、「おんな城主 直虎」に特に難はないのです。こっちがドラマを見ていて「それはおかしい!」ということで、「えい、やあ!」と突っ込むところがあまりありません。無難な作りです。では、おもしろいのかと言われると、そうでもありません。ハイライトである桶狭間の合戦シーンも寂しいものでした。

 

 手堅い作りかと言えば、そういえるかもしれません。前回は日本中が熱狂したWBCの影響で視聴率が下がりましたが、思ったほど視聴率は低くありません。大河ドラマは紅白歌合戦と同じで、「おもしろくなくても必ず見る!」という固定客がいるように思います。それゆえ、民放のドラマのように2・3%で低迷ということもありません。

 

 ただ、ドラマに「大河」を冠しているので、それなりの内容は求められています。一言でいうと、スケールの「でかさ」でしょう。予算もかなり大きいと聞いています。とはいえ、週刊誌に寄せた私のコメントはいささかシャープさを欠き、歯切れが悪かったかもしれません・・・。

 

 では、今回の見どころはどこにあったのか、確認していきましょう。

 

人質の交換
 

 永禄3(1560)年5月の桶狭間の戦い以降、松平元康(のちの徳川家康。役・阿部サダヲ)は今川家から徐々に距離を置くようになります。その点を少し確認しておきましょう。

 

 自立化を目論んだ元康は今川方から離反し、同時に信長とも抗争を繰り広げていました。元康と信長の両者が和睦を結んだのは、翌永禄4年頃といわれています。両者の和睦の内容とは、①領域確定、②戦線協定(ただし自力次第とする)、③攻守同盟の3つであるといわれてきました(清須同盟)。ただ、基づいた史料の性質が悪く、現在では①の領域確定だけが締結されていたのではないかと指摘されています。

 

 通説によると、これまで両者の同盟は、永禄5年(1562)1月に元康が清須城の信長のもとを訪れ、会見後に締結したとされてきましたが、清須同盟については疑問視されています。元康は東三河で今川氏と交戦しており、城を空けて清須を訪問する余裕はなかったと考えられます。お互いが顔を突き合わせて同盟を結ぶというのも不自然です。

 

 清須同盟を結んだという一次史料は残っていません。二次史料のなかでも比較的信頼性が高い『信長公記』『松平記』『三河物語』などにも清須同盟についての記述がなく、清須同盟が結ばれたという説は否定的な見解が占めています。とはいいながらも、まだ信長は出ませんね??? 番組の告知では、市川海老蔵さんが担当する予定です。

 

 以後、元康は大躍進をし、永禄5年2月には、鵜殿長照が籠もる西郡上之郷城(愛知県蒲郡市)を落とし、長照を討ち果たしています。これが、前回のドラマでも問題になった1件です。それだけでなく、元康は長照の2人の子を捕えていました。実は、長照の母は今川義元の妹であり、氏真(役・尾上松也)と長照は従兄弟同士だったのです。もちろん、鵜殿長照は寿桂尼(役・浅丘ルリ子)の孫にあたる訳です。

 

 元康が長照の2人の子を確保したのには大きな理由がありました。元康の妻・瀬名(のちの築山殿。役・菜々緒)、嫡男・竹千代(のちの信康)、長女・亀姫が駿府で捕らわれの身になっていたのです。前回、瀬名は今川家から自害を言い渡されていましたね。今回、瀬名はいよいよ死ぬのではないかという、非常に厳しい状況に陥っていたのです。

 

 ところが、元康は長照の2人の子と自らの妻子との交換を求め、これに成功しました。瀬名たちは助かったのです。史実としては、次郎法師(役・柴咲コウ)の仲介で助かったわけではないので、救援に駆け付けたというのは、ぎりぎりの演出になりましょう。寸止めですな。以降、氏真の威勢はますます衰え、永禄6年(1563)5月を最後にして、三河における戦いはなくなります。

 

井伊家罠に陥る
 

 井伊家では直親(役・三浦春馬)にも嫡男が誕生し、楽しい毎日を送っていましたが、今川から離反するという方向に動きます。

 

 今回の瀬名の救出のお礼として、元康から次郎法師に使者が派遣され、贈り物を送られます。それだけだったらよかったのですが、これを機として、直親は今川家との関係を断ち切り、元康と同盟を結ぼうと決意します。今川家は落ち目だったのですから、自然なことかもしれません。しかし、のちほど明らかになるとおり、使者による贈り物や書状に記された鷹狩りへの誘いは今川家の罠だったのです。

 

 直親は信頼する小野政次(役・高橋一生)と話し合い、元康のもとに向かいます。ところが、あとで考えてみるとわかるのですが、直親が会った元康は偽物で、直親に送られた元康の手紙も当然偽物だったのです。ついでに言うと、次郎法師のもとに贈り物を届けた山伏も偽物だったのです。しかし、冷静に考えてみると、おかしいとは気づかなかったのですかね? 脇が甘い。

 

 このことにより、井伊家は苦境に陥るわけです。途中の場面で、直親、政次、次郎法師の3人が井伊家の井伊家初代が誕生した井戸に来て、幼いころからの友情を確かめ合うような場面がございましたが、それはその後の悲惨さを強調するための伏線と言えましょう・・・。

 

試練の直親、政次
 

 ここから直親と政次には、試練が訪れます。まず、元康の正式な使者が訪れ、先の使者が偽物であることが判明します。政次は元康との連携を直親と推し進めたのですが、駿府に行って寿桂尼からそのことを詰問され、何も答えられなくなります。そりゃそうでしょう。答え方しだいによっては、殺されるわけですから。

 

 政次は直親と厚い友情で結ばれ、元康との同盟についても協力を固く誓っていましたが、ここに来て翻意して今川家に与します。苦渋の決断でしょう。頭の中を亡父の言葉がよぎります。それは、政次が父と同じ生き方(井伊家を裏切る)をするはずだという、亡父の予言めいたものです。

 

 このような経緯もあって、今川家から直親に対して出頭命令が出ます。元康と和睦を結んだ件についての弁明ということになりましょう。しかし、行けば99%の確率で殺されることが確実です。井伊家では家臣が雁首を並べて相談します。多くは今川家と干戈を交えても仕方がないという結論に至りますが、それを直親は自身の失態であるからと却下します。男らしいですね。

 

 一方、次郎法師は井伊家の危機に際して、元康の合力を得ようと奔走します。そこで、次郎法師は瀬名の救出に一役買ったことから、その口利きで元康の助力を得ようとしました。しかし、一説によると、瀬名は元康の母の於大の方に嫌われており、岡崎城へ入城できず、近くの惣持尼寺で過ごしていたといわれています。まあ、今川家の関係者ですからね・・・。

 

 次郎法師は瀬名に元康の説得を頼みますが、もちろん断られます。それでも次郎法師は諦めず、いったん瀬名に井伊家の人質になってもらい、交換条件として元康の合力を得ようとします。強引というよりも、ほとんどめちゃくちゃな方法ですが、次郎法師は必死なので「本当にあったのかな」と思ってしまいます。

 

 しかし、いよいよ出発という段になると、瀬名は「行けません」と言います。ドタキャンです。当然といえば、当然でしょう。常識で考えるとあり得ません・・・。

 

おわりに
 

 結局、次郎法師の奔走にもかかわらず、ついに元康の合力は得られませんでした。直親は次郎法師と二人だけで会って(不倫じゃないか?)、決意を語ります。次郎法師は「自分が男として生まれ、井伊家の家督を継げばよかった」といい、直親は「次郎法師が女でないと美しい思い出はなかった」と言います。いやいや、この場面にはホロリとしました。大河ドラマを見て泣いたのは、何年振りでしょうか? ただ、直親が「無事に戻ったら結婚してくれ」というセリフにはしらけましたが・・・(このセリフは余計だったと思いますが、いかがでしょうか?)。

 

 と、涙、涙の別れのあと、直親はわずかな手勢を率いて駿府に向かいます。果たして、直親はどうなってしまうのでしょうか! それは次回のお楽しみ。

 

 今回の視聴率は、また13.7%と少し上昇しました。ライバル番組がなかったのですから、まだまだ厳しい数字ですね。次回は、大いに期待いたしましょう。

<了>

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第29回 本丸御殿の「赤い部屋」


紅葉の山より美しい

 文政9年(1826)に夫の井関親興が亡くなった後も井関家の屋敷に住み続けていた隆子は、天保11年(1840)3月28日の日記に次のように記している(深沢秋男校注『井関隆子日記』)。ちなみに隆子はこの年56歳。4年後の11月に「卒中」(脳梗塞か脳出血)でこの世を去った。

 

  右大将様の御痘瘡の症状はたいそう穏やかなものだというから、とりあえず心配はない。それでも御側に仕える人たちは、みな紅色の衣をまとっているという。このようなとき黒や紫は禁物。にわかに紅色の衣に替えたのである。衣だけではない。右大将様の御膳やさまざまな調度も紅で彩り、柱まで赤い毛氈で包まれているとか【意訳】。

 

 右大将様とは、後に13代将軍となる徳川家定で、この年17歳。3日前の3月25日に痘瘡(疱瘡とも。今日は一般に天然痘と呼ばれる。痘瘡ウィルスがひきおこす病)を発症した旨が触れられ、紀伊大納言はじめ群臣が御機嫌伺いに総出仕したと『慎徳院殿御実紀』(『徳川実紀』)は伝えている。

当時、赤色は痘瘡から子どもを守るとされ、赤一色の版画(赤絵)や赤色のオモチャ(赤物)が痘瘡除け、あるいは痘瘡の症状を軽くするために贈られたことをご存じの読者もすくなくないだろう。しかし、江戸城の御殿内までそんな風習が大々的に行われていたとは、ちょっと驚きだ。なにしろ隆子ですら、家定が床に臥す部屋全体が赤一色となったと聞いて、次のように感嘆しているのである。

 

  「伝え聞にもさる御しつらひ、目も耀(かがよ)ふばかりにて、紅葉の山にわけ入ぬとも、さばかりはあらじとなむおしはからる、痘瘡の神の御棚、其わたりの御しつらひ仕うまつる人なども、皆赤う装ひぬとぞ」

 

 隆子は、家定が臥す一間の中が人々の衣服から調度、柱まで赤色で覆われていると聞いて、「紅葉真っ盛りの山中でも、これほどみごとではないかも」と楽しげに想像している。痘瘡平癒のために設けられた神棚で痘瘡神を祀る人々の装いまで赤一色であることにも言及。赤く染まった理由が痘瘡という忌まわしい病魔であると承知のうえで、彼女は「なんて美しい!」とウキウキしている。まるで「ぜひ拝見したいわ」とでもいうように。家定の症状が軽いと知って心配が解けたからかもしれない。

 

赤尽くしの効能
 

 それにしてもどうして赤(紅や桃色も)なのか。なぜ黒と紫は忌まれたのか。

 江戸時代の人々にとって、それは荒唐無稽な迷信でも、あやしい呪術でもなかった。あやしいどころか、ジェンナーの種痘法が伝来しその効果が証明されるまでは、一流の医師たちも赤が痘瘡に効果があると確信し、あわせて黒と紫の害を説いていた。

 豊前中津藩主の侍医を務め、のちに京都に隠棲した香月牛山(1656~1740)もその一人だ。牛山は、元禄16年(1703)に著した『小児必用養育草』(しょうにひつようそだてぐさ)の中で、痘瘡の治療法について、こう述べている。

 

  痘瘡の患者が臥す一間は、きれいに掃除して屏風を引き回し、乳香を焚くべし。不浄や穢れを避け、冬は暖かく、夏は蝿や蚊が痘瘡(皮膚に生じる水疱や膿疱)の上にとまらないよう蚊帳を吊るべし【意訳】。

 

 まあ常識的なところだろう。問題はこの先で、牛山は「屏風衣桁に赤き衣類をかけ、そのちごにも赤き衣類を着せしめ、看病共みな赤き衣類を着るへし」と述べている。病室に置かれた屏風や衣桁(衣類を掛ける台)には赤い衣類を掛け、痘瘡に罹った「ちご」(子ども)だけでなく看病人も、みな赤い衣服を身に着けよ、というわけ。

 再び問う。なぜ赤なのか。答は痘瘡の形や色の善し悪しを述べたくだりにあった。

「痘の色、紅(くれない)にして黄なる色を面部にあらはす者は吉也」。痘瘡で皮膚に発するできもの(水疱膿疱)の色が紅(赤)で、顔面が黄色くなれば軽症で済むという意味だろうか。牛山はこうも述べている。「痘出て、其色紫黒にしてかはき枯(かるる)者、九死一生もなし、大悪症としるへし」。膿疱が痂(かさぶた)になったときの色が紫黒だったら重症。まず助かる見込みはないというのである。

 そう、赤、紫、黒といった色はたんなる呪術的な迷信ではなく、多くの症例から得られた医者の経験知だった。

 ついでにもう一例、痘科医(痘瘡の専門医)で、幕府に招かれ医学館(漢方医学の教育と研究のための機関)の医官となった池田錦橋(1735~1816)の著書『痘疹戒草』(とうしんいましめぐさ 1806年刊)をひもといてみよう。

 痘瘡治療の第一人者が、一般向けに著したものだけに、記述は『小児必用養育草』に劣らず具体的でわかりやすい。なにしろ錦橋は、医師であるにもかかわらず、神棚を設けて痘瘡の神(いわゆる疱瘡神)を祀る方法まで懇切に解説している。そうすれば痘瘡が軽く済むということらしい。一部を要約すると。

 

 ――家の入口や病室の入口に紅紙で幣を垂らしてもいいし、病室に神棚を設け、紅紙を敷いた上に達磨や猿面を飾る場合もある。祭り方はさまざまだ。ただし供物の菓子や魚も赤い物でなければならない。たとえば紅団子に赤小豆飯、赤鯛、アカメバル、ホウボウ、イトヨリダイ、カナガシラというように(赤鯛以下、どの魚も赤みを帯びている)。とにかくすべて紅色に――。

 

 錦橋は「唐土にても痘の正色は紅を貴ひ喜慶(よろこび)」とも述べている。痘瘡が軽い場合、水疱膿疱は紅色なので、中国でも紅色を〝正しい色〟として喜ぶというのだ。紅(赤)は重症でない(命が助かる)ことを示すという。牛山の見解と同じだ。

着衣や供物まで赤色で統一せよという言説は、純粋に医学的な治療法とは思えない。しかし周囲を赤く染めることで痘瘡の疱まで赤くしよう(症状を軽くしよう)とするのは、いわゆる類感呪術の一種であり、それによって患者や看病人に安心感をもたらす効果はあったのではないか。

 

奥坊主小道具役の日誌にも
 

 旗本井関家の未亡人隆子が思い描いた家定の病室は、紅葉の山にもまさる美しさだった。はたして家定が病床に就いていた本丸御殿では、実際に病室の赤色化が行われていたのだろうか。

 ここで伝家の宝刀、奥坊主小道具役(坊主といっても僧侶ではなく、まぎれもない幕臣だ)の執務日誌『御慰言贈帳』をひらいてみよう。前回、前々回は弘化4年(1847)の日誌だったが、今回はまさに天保11年(1840)の日誌である。

 『実紀』では「右大将様」(家定)の疱瘡が発表されたのは3月25日だったとあるが、『御慰言贈帳』では3月23日に「右大将様御疱瘡御治定に付」とあり、数日前から奥務めの役人の間で周知されていた様子がうかがえる(当然と言えば当然)。

 そして3月23日の『御慰言贈帳』にはこんな記述も。「紅摺錦絵早々上け候様 村田へ申付候」。紅摺りの錦絵、すなわち赤絵を早急に持参するよう申し付けたというのだ。

 赤絵だけではない。達磨などの赤物の用意も命じられ、さらにそれらの品を包む紙も赤い奉書紙と指定している。水引もすべて赤だった。以下、日誌をめくっていくと。

 

【3月25日】

    細工  目かた

  一 紅  五匁

   右縫殿頭断 左衛門殿え出す

【3月26日】

  一 張子達摩  壱

   右縫殿頭殿え被下に相成候

【3月28日】

  一 ヲルコール 壱

   桃色天張   

 

 細工に用いる「紅」の染料、張り子の達磨(当然赤色)、桃色のオルゴール。このほか「赤御手遊ひ物」(赤色のオモチャ)、「朱塗」の手提なども用意された。

家定の容体が大事に至らずに済むと判明した4月13日には、生きた〝赤物〟まで取り寄せられた。それは「緋音呼」、すなわち緋色のインコ(オウム科の小形鳥)。緋インコ一羽を越前屋に注文し、4月18日、御城の開門と同時に差し上げるよう手配したのである。

 越前屋とは何者か。弘化4年の『武鑑』に「御小鳥類」として浜松屋善蔵と越前屋彦四郎の名が挙げられている。店の住所はそれぞれ桜田伏見町と神田明神下。江戸城の奥や大奥で観賞用に飼われていた小鳥類の注文を承る(積極的にセールスすることもあった)御用町人だ。

 錦絵、達磨、各種オモチャから小鳥まで、小納戸と奥坊主小道具役が中心となって、さまざまな赤色、緋色そして桃色の品が集められ、疱瘡を病む家定の身辺は赤尽くし。そんな赤の世界を覗いてみたいのは隆子さんだけではない。タイムマシーンが実現したら、私もぜひ。

<了>
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第10回 「走れ竜宮小僧」をみる

はじめに
 

 3月も中旬になりましたが、いささか気温が低めで、春はまだ遠しというところでしょうか? 天候もすかっとせず、曇天や雨が多いようですね。

 

 この前、同じマンションの住人の方から、「井伊直虎の生涯はほとんどわかっていないといわれているが、ドラマであれだけ大活躍しているということは、実は詳しく知っている人がいるのではないか?」という趣旨の質問を頂戴しました。

 

 この質問は「ジャパニーズ・スマイル」で凌ぐしかないほどの難問ですが、答えは「テレビ・ドラマだから」としか回答のしようがないのが正直なところです。ストーリーはおおむね史実の流れに沿って構成されていますが、直虎の活躍については、もはや史料がないので検証のしようがありません。つまり、脚本家の先生の創造の産物であり、史実に影響をきたさない範囲で、視聴者の興味をそそるような内容にまとめているのです。

 

 昨年の「真田丸」の主人公・真田信繁(役・堺雅人)の前半生でさえ、ほとんどわかっていないのですが、ドラマをおもしろくするために、いろいろな人物と絡ませています。そうしないと、無味乾燥でおもしろくも何ともないですからね。いろいろと大人の事情があるのです・・・。

 

 さて、今回はおもしろかったのでしょうか? それとも・・・。

 

小野政次の扱い
 

 奥山朝利(役・でんでん)と小野政次(役・高橋一生)が「なつ」(役・山口紗弥加。政次の弟の妻)の扱いをめぐって、斬りあいになってしまいました。政次の弟の玄蕃(役・井上芳雄)が桶狭間の戦いで戦死したので、朝利は娘の「なつ」を取り戻そうとしたのです。結果、二人は揉み合いになり、政次は身を守ろうとして、図らずも朝利を殺してしまうわけです。ちなみに、朝利が殺害されたのは、永禄3年(一五六〇)説と永禄5年(一五六二)説の二つの説があります。

 

 ここで奥山氏について、簡単に触れておきましょう。井伊家には数多くの庶流が存在し、奥山氏もその一つでした。同じ井伊家庶流の赤佐俊直から3代目に朝清がおり、朝清は遠江国引佐郡奥山郷(浜松市北区)に本拠を定め、奥山を姓とするようになりました。朝清から数えて4代目として登場するのが朝藤で、朝藤の孫が親朝、そして親朝の子息が朝利なのです。

 

 そのまま政次は逃亡し、次郎法師(役・柴咲コウ)に匿われます。一方の井伊家中では、政次の処分をめぐって激論が交わされました。家臣の意見の多くは、「政次を討つべし」ということになりましょう。政次の父も因縁のある人物でしたから、必然的にそうなったのですね。実際は不可抗力と言えましょうが、誰もその事実を証明する者はいません。

 

 そのような状況下、名代として派遣されたのが「なつ」でした。「なつ」の必死の弁明により、政次は何とか許されることになりました。直親(役・三浦春馬)は「なつ」の言葉を信じ、家中の者たちの反対意見を押し切って、政次を許すことにしたのです。麗しい友情になりましょう。

 

 この裁定に対して、朝利の娘で直親の妻である「しの」(役・貫地谷しほり)は、いささか不満があったのかもしれません。しかし、家中の輪を保つために、直親はあえて政次(というか名代の「なつ」の言葉)を信じ、許したということになると思います。次郎法師は政次の今後を考え、朝利の菩提を弔うべく、写経をするように勧めます。これにより、政次は周囲の信頼を取り戻したようです。やはり、次郎法師は竜宮小僧だったのです。

 

 ところで、この時点において、故・直盛(役・杉本哲太)の妻・千賀(役・財前直見)は、夫の死にもかかわらず、まだ髪を下していませんでした。普通、武家の妻は、夫が亡くなると落飾するのです。今川氏親の妻・寿桂尼(役・浅丘ルリ子)も夫が亡くなったがゆえに、出家したのです。しかし、あとの場面では、ちゃんと千賀も出家姿になっていましたね。ちなみに、後家の影響力は非常に強く、このドラマのモチーフである「女城主」(「女戦国大名」とか)につながるのです。

 

直政の誕生
 

 朝利が亡くなるというアクシデントもございましたが、直親と「しの」の間には、ようやく男子が誕生しました。この子が直政なのです。いうまでもないですが、この時代は後継者たる男子を生むことが、武家の妻にとって重要なことでした。二人の間にはなかなか子供が生まれませんでしたが、ようやく待望の男子に恵まれたことになります。

 

 『寛政重修諸家譜』の「直政」の項目には、「永禄四年、遠江国井伊谷に生る」と記されています。幼名は「虎松」。「万千代」の名は、のちに徳川家康から与えられたといわれています。ただ、幼少期の虎松については、もちろん知るところは少ないです。おいおい、ドラマのなかでも多くのエピソードが披露されるはずです。大いに期待しましょう。

 

 虎松が誕生したので、井伊家中は喜びに包まれました。しかし、いつものことですが、政次は家中の輪の中には入っていません。あとからお祝いの品を持参するわけです。政次のお祝いは一風変わっており、かつて直盛から与えられた所領(直親の父・直満の領地)を返上するというものでした。せっかく与えられた所領を返還したわけですから、直親の恩義を感じてのことでしょう。

 

風雲急を告げる
 

 井伊家には不幸(朝利の死)と幸運(直政の誕生)が交互にやってきましたが、主家である今川氏はかつての輝きをすっかり失っていました。前回、桶狭間の戦いで今川義元(役・春風亭昇太)が横死し、家督は子息の氏真(役・尾上松也)が継ぎます。

 

 しかし、往時のような勢いは失われ、敵対する尾張の織田信長が台頭し、かつて人質であった松平元康(徳川家康。役・阿部サダヲ)が離反するわけです。元康は桶狭間を機に、本拠地の岡崎城に帰還していました。前回のドラマでも取り上げていましたね。

 

 永禄4年(1561)4月以降、元康は東三河に侵攻して、氏真とたびたび合戦を繰り広げました。一連の戦いを挙げると、次のとおりになりましょう。

 

 ①永禄4年4月―――宝飯郡牛久保での戦い。

 ②同年5月―――――八名郡宇利、設楽郡富永口の戦い。

 ③同年7月・8月――八名郡嵩山での戦い。

 ④同年10月――――設楽郡島田での戦い。

 

 この間、氏真はじっと黙って見ていたわけではありません。元康の戦いを受けて立ち、配下の者たちに感状を多数発給していることを確認できます。そうした感状類を見ると、「岡崎逆臣」「松平蔵人逆心」(いずれも元康のこと)などと激しく非難した文面になっています。あるいは、「三州錯乱」「参州忩劇」とあるので、三河国の混乱ぶりや両者の戦いの激しかったことがうかがえます。

 

 従来説では氏真と元康の関係について、永禄4年1月に将軍・足利義輝が今川氏と松平氏(家康)の間の和睦を仲介したので、戦いは永禄3年からはじまっていたとの説がありました。しかし、義輝による仲介は永禄5年1月のことで、今川氏と松平氏(家康)の戦いは、永禄4年4月からはじまったのが正しいと指摘されています。

 

 また、桶狭間合戦後、元康は氏真と断交して交戦していましたが、一方で西三河を制圧すべく、三河と尾張の国境付近の刈谷、小河、挙母・梅ヶ坪を主戦場として、信長とも戦っていました。両者の戦いは桶狭間合戦の直後から、翌年の永禄4年2月頃まで続いたといわれています。

 

おわりに
 

 今回の最後の見どころは、今川館に残された元康の妻・瀬名(役・菜々緒)の扱いになりましょう。先述のとおり、元康が今川氏を裏切ったので、必然的に窮地に立たされたわけです。この状況を知った次郎法師は、居ても立ってもいられなくなり、すぐに今川館へ向かいます。このドラマのモチーフである「竜宮小僧」の面目躍如たるところです。

 

 早速、次郎法師は寿桂尼に面会し、瀬名を解放するように直談判します。それも相当な覚悟で臨むわけです。しかし、寿桂尼は今川家を守らなければならず、また孫の鵜殿長照が牛久保で元康と交戦中に戦死したので、態度を硬化させます。まあ、それが当然の対応と言えましょう。そのうち瀬名は助命どころか、死罪を申し付けられるのですが、果たして運命はいかに!

 

 今回の視聴率は、また12.5%と最低視聴率を更新しました。裏番組のWBC「日本対オランダ戦」が影響したのでしょうか。次回は、大いに期待いたしましょう。

<了>


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