歴史REALWEB

歴史の常識が変わる!洋泉社歴史総合サイト

第23回 寺田屋騒動

クセが強い? 西郷


 今回は、文久2年(1862)4月23日の「寺田屋騒動」をクライマックスとして描く。西郷は下関での待機命令を待たずに、上方に向かったため、薩摩藩国父の島津久光の怒りを買う。

 西郷を切腹させると息巻く久光に、その側近が、西郷は「クセ」が強い人物だと、先代藩主の島津斉彬が言っていたと、とりなす場面がある。これは、もと越前藩主の松平春嶽の回顧録『逸事史補』に出て来る斉彬の言、

 

「彼(西郷)は独立の気象あるが故に、彼を使う者私ならではあるまじく」

 

 などが元になっているのだろう。ただ、このドラマの「西郷どん」は「クセ」が強いというより、お人よしのおっちょこちょいといった単純なキャラクターである。何か信念を貫こうとしている時だけ、ふてくされたような表情になるが、いきなり「クセ」が強いと言われても、ちょっとピンと来なかった。

 「クセ」が強い人物を魅力的に描いたドラマや映画は枚挙に暇が無いが(いちいち例は挙げないが)、「西郷どん」はそのような、深みのある人物像ではなかったはずだ。出来るなら、「クセ」の強い「西郷どん」を見てみたかった。

 結局西郷は切腹を免れ、鹿児島に連れ戻され、のち沖永良部島に流される。

 

凄惨な場面


 久光は千人の兵を率いて上京。孝明天皇から、浪士を取り締まるようにとの詔を賜る(僕の記憶に間違いがなければ、このドラマにおける初めての天皇登場である)。これにより、久光は京都滞在の大義名分を得た。

 そして久光は、伏見の船宿・寺田屋に集まり、九条関白襲撃などを企てる誠忠組過激派の有馬新七らに、大山格之助ら鎮撫使を差し向けて、9名を上意討ちに処す。寺田屋騒動である。

 近頃の大河ドラマにしては珍しく、殺し合いの場面を血糊も沢山使って凄惨に描いていた。史実では斬り合いの現場には居なかった西郷の実弟である西郷慎吾(従道)が、やたらと登場するが、これは何かの伏線なのかも知れない。慎吾は年少ゆえ帰藩を命じられ、翌年6月の薩英戦争ころまで謹慎させられている。

 

明治維新の観光偽装


 番組末尾の紀行コーナーにも登場したが、京都市伏見区の「寺田屋」は、いまも「史跡」として観光客が訪れ、有料で内部を公開している。確か大河『龍馬伝』放映の年に、週刊誌が現存するものは幕末当時の建物ではないと報じ、「平成の寺田屋騒動」などと話題になった。僕などはずっと以前から鳥羽・伏見の戦いで焼けて、その後再建されたと繰り返し書いて来たので、何を今更という感じだったが、世間では驚かれた方も多かったようだ。

 以後、明治維新関係で言えば、亀山社中、長崎花月楼、幾松、明保野亭、高杉晋作生家などが「観光偽装」(言い得て妙)としてつるし上げられていた。いずれも、お粗末なものである。いままで「偽装」して来た側はせいぜい逆ギレするだけで、論理的な反論はしないし、出来ないというのが特徴のようだ。しかも、以後は開き直ったのか、何の反省もなく「営業」を続けている「史跡」が多いのにも呆れてしまう。しょせん、無理が通れば道理が引っ込むのである。

 こうしたエセ史跡、エセ文化財づくりは、時に政治家や行政の「権威」を利用して行われる。だから博物館の要職にある者が平然と乗っかって、お墨付きを与えたりする。誤って与えたならまだしも、真相を知った上で保身のために手を貸したケースを、僕はいくつか見て来た(お断りしておきますが、僕はやっておりませんし、ご協力するつもりもございません、あしからず)。

<了>

  洋泉社歴史総合サイト

歴史REALWEBはこちらから!

yosensha_banner_20130607



第44回 紅葉山文庫の修復同心

書物同心・山本庄右衛門


 今の仕事は自分には合わない(ふさわしくない)。もう嫌だ。ほかの部署に移りたい――。滅私奉公を旨とする幕臣の社会でも、勤め人となれば、現代のサラリ―マン諸氏と心情は大差がない。紅葉山文庫を管理する書物方の奉行や同心の中にも、1日も早くこんな地味で将来性のない(?)職場から離れたいという人がすくなくなかった。

 同じ異動願いでも、書物奉行の場合は「役替願」と称し、書物同心のそれは「場所替願」と呼ばれた。前者が役職の異動であるのに対し、後者は配置転換(職場の変更)といったところだろうか。奉行(旗本)の役替は『寛政重修諸家譜』ほか幕府の編纂物や記録に載っているが、同心(御家人)の場所替の詳細はわかりにくい。という理由もあって今回は『御書物方日記』から、書物同心の場所替願いとその背景についてご紹介しよう。

 主人公は、天明2年(1782)5月に42歳で小普請組から書物同心になった山本庄右衛門。高15俵3人扶持というから書物同心の中でも平均以下の薄給の御家人だ。

 山本が初めて場所替を願い出たのは、書物同心になって12年目の寛政5年(1793)12月である。書物奉行に提出した文書で、山本はまず自分がこれまでいかに厚遇されてきたかを述べている。「私のような不調法者に結構な御奉公(職務)を仰せつけられ、御書籍御修復(紅葉山文庫の蔵書の修復)を拝命したばかりか、3年にわたって(修復御用に対する)御褒美を頂戴しました。そればかりか世話役助(同心を束ねる世話役の補佐)まで仰せつけられ……」。


 現状になんの不満もなく、むしろ感謝の念ばかり。しかし山本は続けて(これからが本音だ)、もし可能であれば「御三卿様附人」(徳川三卿に幕府から配属される幕臣)の空きポストに異動させていただけないかと願い出ている。

 山本が希望したのは、三卿のうち田安家の附人だった。山本の祖父も父も田安家で役人生活を終えたので、思い入れが深かったのだろう。古い知人や縁故もあったのかもしれない。しかし書物奉行から田安家の家老に打診したところ、希望は叶わないと判明。山本は田安家への場所替を断念せざるをえなかった。

 
場所替願いの条件


 書物同心は、誰でも希望すれば場所替願いを出せたのだろか。寛政7年9月18日の『日記』に、場所替願いを提出できる条件が次のように同心たちに申し渡されたとある。要約すると――

 

  勤続20年以上の者

  20年未満の場合は、学問と筆算(書道と算術)の能力ありと判定された者

  忌服も看病断(看病休暇)もとらず、3か年皆勤し、勤務ぶりが良い者は、①②の条件を満たさなくてもよい。

 

 ほかに「誰殿声懸り等は、急度懸合無之候得ば不取上」とも。幕府の有力者や重職の特別の推挙(紹介)や受け入れ先から要請があるという場合でも、その事実が確かでなければ(場所替願い)は受理しないという意味だろう。

 山本の場合は、おそらくに該当していた。寛政9年正月11日、山本は素読を教えた者たちが家に集まるからという理由で、午後2時頃に役所を退いたが、早引き願いの文言中に「御場所之晴にも御座候間」とある。自分が素読の師範を務めたのは、書物方の誇りでもあるというのだ。

また同年6月16日の『日記』には、新調した彼の判が押されている。印文は「有如皦日」。『詩経』王風のうち「大車」の詩句で、「私の言葉は白く輝くお日様のように確かだ(ウソはない)」という意味である。山本は漢学にたけた教養人だった。

 田安をあきらめ切れぬ山本は、3年後の寛政8年(1796)正月18日にも「田安附火之番」への場所替を願い出た。悠然院様(田安家の初代、田安宗武)の遠忌に墓所の勤番を務めたく、火の番に欠員があればぜひ、というのだ。田安附火の番の並高は8石2人扶持。異動が実現した場合は現在の高に2俵3斗の足高をお願いしたいと述べている。


 この希望も叶わなかったが、山本はあきらめない。同年6月に「賄方」への場所替を願い出たのである。奉行たちの回答は「今、書物方は絵図や書籍の修復御用で忙しい。御用があらかた終わったら、君のことも考えるから、とりあえず修復御用に専念してほしい」というものだった。

 翌9年2月にも、山本は「私は現在書物同心の筆頭です。修復御用が済んだらしかるべき場所に番替(異動)させていただきたい」と申し入れ、「そうすれば他の同心たちの励みにもなります」(「筆下の励にも相成候間」)と訴えている。同心たちの勤労意欲増進のためにも。私の場所替は必要不可欠というわけ。この言葉から、書物同心の誰もが場所替を希望していた様子がうかがえる。


 ひと月も経たないうちに、山本は小普請組世話役への異動を打診したが、またまた失敗。懲りない男の実現しない希望。ところが5月13日に彼が「御修復物頭取」の任を解かれると、事態は好転する。奉行たちは山本の異動実現に本腰を入れて取り組み、6月になって、成嶋仙蔵ほか書物奉行連名で、若年寄の堀田摂津守正敦に山本の場所替願を差し出したのである(それまでは山本の願いは奉行の段階で止められ、若年寄に正式の願書は提出されなかった)。かくして山本庄右衛門は、阿部大学組小普請世話役へ異動することに。書物奉行として勤続16年。齢57にして山本はようやく書物方から逃げ出したのだった。

 

湿気と寒さ


 逃げ出す? 書物同心の職務はそれほど辛いものだったのか。

 前回も述べたように江戸城内紅葉山下にあった書物方の役所(会所とも)と御書物蔵は、あたりに樹木が繁茂して日当たりが悪く、風通しも良くなかった。役所の広さは26畳ほど。ほかに畳を敷いていない空間もあるだろうから、さほど窮屈だったとは思えない(通常出勤するのは詰番・加番の奉行2人と同心数人だった)。風雨で頻繁に雨漏りし、雪隠が詰まることもあったが、最大の問題は湿気と寒さである。


 天明2年(1782)12月8日の『日記』に「御蔵湿地之御場所ゆへ湿含強」と見え、湿気の深刻さがうかがえる。湿気は書物や絵図の保存に悪影響を及ぼす。書物方では毎年夏季に大々的に「風干」(虫干し)を行い、冬季にも「寒干」(「寒風入」とも)を実施した。

 書物方の人々(奉行と同心)にとって湿気にもましてこたえたのが、冬の寒さである。寛政2年(1790)12月、書物方は役所で温かい湯茶が飲めるよう、茶瓶(薬缶)と火鉢の使用を許していただけないかと伺書を出した。なんとそれまでは(書庫内は当然として)、役所にすら火鉢は置かれていなかったのだ。さいわい書物方の願いは叶い、以後、役所を退出する際に「元火」(火種)を御宝蔵下番の者に返し、火鉢と茶瓶を預けるという条件で、わずかながら暖を取ることが可能になった。


 それにしてもなぜ寛政2年の末なのか。理由は翌3年から書物同心たちの手で蔵書の修復が本格的に行われるようになったから。従来、御書物師(幕府御用達の本屋)の出雲寺が「風干」の際に職人を派遣して行わせていた修復作業を、経費節減と幕臣の有効活用を兼ねて(特に熟練した技術を要する絵図や貴重書を除き)「御修復御手前細工」と称して、書物同心の手で行わせるようにしたのである。職人の手から同心の手へ。些細な事ながら、これも寛政の幕政改革の一環だった。

当然同心たちは、今までより長時間役所に居残って手作業に励まなければならない。手が凍えていては、大切な書物を汚したり傷つけてしまうかもしれない。それにもまして、ただでさえ不満が高じている同心たちの勤労意欲をそいでしまうに違いない。かくして寛政2年の末、役所内への火鉢の持ち込みが初めて許可されたのだった。

 

書物の修復も同心のお仕事に


 書物の修復作業とは、――切れた綴じ糸の交換(綴じ直し)・虫に喰われた箇所の繕い・虫喰いが酷かったり破れたりした紙の裏に薄紙を貼って補強する「裏打」・傷んだ表紙の交換・糊が剥がれた箇所の貼り付け――などだが、錯簡(綴じ違えで頁が前後している状態)や落丁(頁の抜け落ち)を見つけて正しい状態に戻すのも、修復作業のひとつだった。手の器用さだけでなく、知識と細心の注意が求められる、なかなかしんどい仕事なのである。

 もちろん作業を担当した同心たちには、作業時間(出勤日数)や成果に応じて手当や御褒美が支給された。

寛政3年5月7日に当年の「定式御修復掛り」に任ぜられたのは、山本庄右衛門ほか計5人。翌4年5月まで885冊を修復した。寛政4年9月14日の『日記』に毎月の「御修復日」が、2日・7日・13日・19日・25日とあり(ちなみに寛政7年は2日・10日・19日・23日・26日)、修復作業は月5日。当日の出勤時間は午前8時頃だが「終日」かかると記されている。「終日」とは退庁まで、それとも日が暮れるまでという意味だろうか。御修復日には「日々増夕御台所」(寛政3年5月7日)とあるように、夕食も支給されたようだ。

 寛政5年の「御修復掛り」は、山本ほか計3名。4月20日にメンバ―交替して山本は掛りから外れたが、9月23日に「御書籍御修復骨折に付」金2両の御褒美を頂戴した。翌6年、山本は修復掛り(計3名)に復帰し、修復掛りは、同年5月から閏11月25日までの7か月で599冊を修復している。

 話が細かくなってしまったが、要するに山本は、書物修復の中心的存在として、居心地の悪い書物方の役所や書庫で日々過ごしていたのである。

 

侍か職人か

 寛政8年になると、書物だけでなく国絵図や城絵図など絵図の修復も本格的に始まり、書物同心のほかに賄六尺見習の西村二作も絵図修復担当として書物方に出役(出向)となった。

同年8月26日に申し渡された「御修復日数之定」によれば、書物同心のうち3名が「日勤」で、修復に従事する日数は年に200日。1日の手当は1人銀9分7厘5毛で、皆勤すれば年に銀195匁になる。金1両が銀60匁とすれば金3両1分。

 同様に5名が「隔番」で年100日の作業。1日の手当は1人銀6分7厘5毛。8名が「四番」で年50日。手当は銀6分5厘6毛余。ほかに「絵工方」が本工1名と手伝1名で、1年の手当はそれぞれ銀180匁、75匁と定められている。山本は「日勤」で、西村は「絵工方」の本工だったに違いない。


 作業日は糊がよく乾くよう晴天の日に限定され、元旦から12日の間は作業は行わなかった。また「日勤」の者は病気などやむをえぬ場合、10日間は有給休暇とされ、11日を超えると1日休むごとに銀9分7厘5毛ずつ年間手当から差し引かれ、差し引いた分は皆勤者に振り分けた。

 それにしても「日勤」の場合、年200日も修復作業に従事するとは。いくら薄給の御家人とはいえ、山本は漢学の教養に富み、祖父も父も田安家に仕えたれっきとした武士だ。しかも年齢も50代の半ばを過ぎて後がない。書物修復の技術を磨き、隠居後の趣味を兼ねた副業にしようと考えていたならともかく、そうでもなければ……。


 武士として、幕臣として(そして知識人として)のプライドを人一倍持ちながら、職場でひがな1日、虫穴をふさぎ、剥がれた箇所を糊付し、糸切れを綴じ直す作業に従事させられた山本庄右衛門。いったい自分は武士なのか職人なのか。そんな鬱屈と煩悶から彼は懲りずに場所替を願い出たのだろう。

<了>

洋泉社歴史総合サイト

歴史REALWEBはこちらから!

yosensha_banner_20130607

第10回 ある村社の再生

◆荒廃した神社を目の当たりにして神職に


 これまで、現代の多くの神社を取り巻く財政・運営面での問題を取り上げ、小規模神社の厳しい現実に光をあててみた。

 しかし、氏子減少、財政難といった逆境にさらされながらも、奮起・奮闘している神社が存在しないわけでは決してない。

 今回は、そうした神社のひとつを紹介してみたい。

 

 関西の郊外に位置するA市はかつては農業が主体で、のどかな田園風景が広がっていた。だが、196070年代の高度経済成長期に入ると宅地化が進み、現在では「ベッドタウン」という表現でくくられることが多い。

 そんな風土に古くから産土神として鎮座しているのが、今回紹介するB社である。

 B社の創建年代は不詳で、昭和戦前における旧社格は村社であり、決して規模の大きい神社ではないが、一説に平安時代にはその原型ができていたともいわれている。

 そして、B社と深い関係をもっているのが1キロほど離れた場所に鎮座するC社だ。C社は星辰(せいしん)信仰(星を神格化して崇拝する信仰)に由来する神社で、平安時代にはすでにあったといわれている。小高い山ひとつをまるごと境内とするが、明治時代以降は、B社の境外摂社というかたちをとって続いている。

 B社もC社も、現在は立派な社殿が建ち、境内はいつもきれいに掃き清められ、地元の人々が足しげく参詣してにぎわっているが、そうした光景がみられるようになったのは、じつをいえば、比較的最近のことになる。

 現在、B社の宮司を務める(摂社C社の宮司も兼務)大原直彦氏(仮名)が最初にこの地を訪れたのは、今からおよそ40年ほど前の昭和50年頃のことだ。

 当時、大原氏は近隣の市で自営業をしていて、とくに実家が神職というわけでもなく、神職とは無縁の暮らしをしていたが、星辰信仰に興味があり、まずC社を参詣したのだという。だが、当時はC社もそしてB社もかなり荒廃していた。

C社の参道は草木が生い茂り、灯篭はどれも傾いていて、拝殿はこわれ、内部には枯れ葉がたまっていました。B社も荒れていて、草ぼうぼうの境内は夜になると近所の方々の駐車場になっていました」

 B社にはいちおう宮司はいて、C社の宮司も兼務していたが、60歳を過ぎていて、週に1度くらしかやって来なかった。夏祭りなどを行っても、集まる氏子は20人程度にすぎなかった。

 だが、こんな荒んだ神社の姿をみて、大原氏の信仰心が逆に刺激された。

「すばらしいところなのに、気の毒なことだ。なんとかしなければいけない」

 そんな思いに駆られ、仕事の合間をみて参拝し、境内の清掃をし、自分の小遣いで負担してお社の補修も行うようになったのだ。

 こうして神社通いがはじまったが、数年がたつと、「このままでは中途半端になってしまう」という思いにも強く駆られるようになっていた。そうしたなか、当時の大原氏はまだ30代で家族もいたが、ある日、ついに自営の仕事を整理して、神社奉祀に専心することを決意する。

 そしてまず、先代宮司のすすめで神職養成講習会を受講して、神職の一番下のランクである直階(ちょっかい)の階位を取得し、はじめは、近隣の神社の手伝いなどもしながら日銭をかせぐ生活が続いた。また、神楽の横笛を独学で習得して方々の神社の祭りに奏者として奉仕し、それで得た謝礼を生活費の足しにすることもあったという。

 

◆玉垣をつくって復興資金を集める


 やがて先代宮司が高齢で引退することになったため、氏子にも推されていよいよ大原氏がその後を継ぐことになり、正式に
B社の宮司に就任し、同時に境外摂社C社の管理も託されることになった。これが今から20年ほど前のことである。

 大原宮司は当時のことをこう回想する。

「宮司になってから、どうすればこの神社は復興できるのか、と考えたのですが、摂社のC社はもともと星辰信仰の神社でしたので、70年以上途絶えていた〈星祭り〉を復活させることを思いつきました。

 ただ、復興するにも、資金が全然ありません。

 それでも、ひとりで掃除から社殿の修復までコツコツとやっていると、その姿を見るに見かねてか、徐々に周りから『お手伝いさせてくれんか』と声をかけられるようになり、手伝ってくださる方々が出てきました。

 そして、神社の御札を手作りでつくり、それをもって氏子の方々をまわりました。すると、少しですが、お金が集まるようになったのです」

 そして、こうした努力をしながら〈星祭り〉を毎年つづけていると、それが新聞で取り上げられるようになり、地元にもしだいに祭りのことが浸透して、神社の活動に協力してくれる人が少しずつ増えてゆき、摂社C社とあわせて本社B社の復興も勢いづいていった。


 だが、それでも最初のころは赤字続きで、資金難に見舞われた。

「そこで、玉垣をつくって浄財を集めるのはどうかな、と思ったのです」
 玉垣とは、神社の周囲や参道の両側によく設けられている垣根のことで、現代では短い石柱状のものを建て並べているタイプのものが多い。そうした列柱の11本に人の氏名や企業名が刻されているものを見かけることがあると思うが、それはふつう、その神社に寄進・寄付をしてくれた氏子・崇敬者の名前のはずである。

 つまり、社殿の復興あるいは改築の資金を、たとえば1口数万円、あるいは数十万円という単位で氏子・崇敬者に募り、応募してくれた人には、その謝礼替わりに氏名を玉垣の柱に陰刻する。玉垣をたてることは、もちろんそれなりの費用はかかるものの、境内や参道の整備になることは確かだし、また、寄付した側からすれば、氏神・鎮守に自分の名前を半永久的に記録してもらえることは、やはり誇らしくうれしいことには違いない。そして、そうした氏名の刻された石柱がずらりと建ち並んでいるということは、神社をみんなで支えているという精神を視覚化することにもなるし、それはまた、信仰心・崇敬心のあらわれということにもなろう

 こうして、神社に玉垣が新たに巡らされて、資金が集められた。もちろん、集められた資金は、社殿の修復や改築の費用であらかた消えてしまうわけだが、これによって境内の整備が進み、そして神社への協力者も確実に増えて行ったのである。

 

◆手作りの神事で地元の信頼と信仰を得る


 大原宮司の資金集めは、玉垣作りだけではない。

 祈禱やお祓いにも真剣に取り組んだ。

 正月の祈禱は1件につき1000円、2000円という単位だったが、神社の復興とともに、家族みんなで毎年祈禱をお願いにくる、というケースが増えて行った。そして現在では、正月ともなれば朝から夕方まで参拝の人々の列がとぎれることがなく、1時間待ちはざらだという。

 また6月、12月の大祓では、手製の人形をつくり、祝詞をコピーして参列者みんなにもあげてもらうかたちにして行うようにした。

「最初のころは参列される方は数名でしたが、それが10人、20人とだんだん増えて、今では60人ぐらいいらっしゃいます。20人に達したときは、本当にうれしかったですね」

 また、10年ぐらい前からは毎朝、境内に地元の人々が集まってラジオ体操が行われるようになり、これも神社復興を後押しすることになった。

 ラジオ体操は、ある氏子から「神社でラジオ体操させてもらえないだろうか」という話がきたのがきっかけだったが、大原宮司も必ず参加し、毎朝、全員が神殿に向かって拝礼をしてからはじまる。みずから箒をもってきて朝から境内の清掃を手伝ってくれる人もいる。

 正月三が日だけは休みになるが、現在では平日でも50人は集まり、多いときは100人以上になるという。

 ゼロからのスタートで、すべてが手探りのなか、神事も行事もすべてが何から何まで手作りというスタイルだが、神社と地元の人々のきずなは着実に強まっていった。

 おかけで大原宮司は一年中休みなしで朝から晩まで大忙しの日々だが、現在では平日でも多くの人が参拝してくれるようになり、氏子費も確保でき、これに加えて祈禱や御札の初穂料もあるので、財政基盤が安定した状態にいたっている。

 

◆「地縁に則らなければ、神社の意義がない」


 だが、大原宮司は、今の状況に決してあぐらをかいているわけではないし、将来を楽観視しているわけでもない。
B社以外にも複数の神社の宮司を兼務している大原宮司は、昨今の小規模神社が抱える運営の難しさ厳しさを、骨身にしみて実感している。

 にもかかわらず、大原宮司が前向きでいられるのは、自身の深い体験に裏打ちされた、神社護持への強い使命感が胸に深く根を張っているからだ。

 ある年の秋祭りのとき、台風が近づいてきたので、出店の屋台は引き上げ、参列者も帰ってしまい、残ったのは宮司の他に、総代数名ぐらいということがあった。

「寂しい祭りだな、と思ったのですが、そのときはじめてわかったのです。

 ――毎年同じ月の同じ日に、神様に対して、『今年もお祭りさせていただきます、ありがとうございます。来年もまたこの村が存続してお祭りができますように』と祈る。

 この一言をいうのが、神主の役割なんだと」

 ひたすら同じことの繰り返しこそが、神社の本質であり使命なのだ、ということなのだろう。


「祭礼というのは、年ごとに変わったらダメなんです。毎年、同じ月の同じ日にできるからこそ村が存続できる。それができなくなったら、村に危機が迫ったということなんです」

 そして、祭礼を継続するには、つまり地域の神社が継続するには、地元の人々の関わり合いすなわち地縁が不可欠なのだ、ということにも確信をもったという。

「戦前の社格で村社に列格されていたような神社(地域の氏神や鎮守にあたる神社)は、結局、地縁がなければ存続できません。地縁が切れてしまった時点で、その神社は存続の意味がないし、それは新興宗教と変わらない。地域のなかで、先祖の人々が育んで守ろうとしたものを、毎年毎年くりかえし淡々と守り続ける。それが、〈一社の教学〉(その神社が持っている伝統や文化、教えのこと)となるのです」

 さらに大原宮司は「地縁に則らなければ、神社の意義がない」「一個人の救済を願うのではなく、みんなが住んでいる地域全体の安泰を願うのが鎮守の杜」とも訴える。

 

◆今、神職に改めて問われる「神への畏れ」


 
B社(摂社C社も含む)の数十年という歳月をかけての復興は、宮司の類まれなバイタリティ、信仰心が原動力となって推進されたわけだが、それだけに、どんな神社にもまねできるものでもないだろう。また、B社のある地域は、とくに過疎化が進んでいるというわけではなかったので、人口減少が急速に進んでいる地方の農村部に比べれば、氏子や参拝者の潜在数が多く、需要を掘り起こす余地に恵まれていた。つまり、「地縁」が下地としてまだ残っていたわけで、こうしたことも、神社復興には大きな利点になっていたといえる。そもそも住民の絶対数が少なければ、地縁も狭まり、その地域の神社が祭りを復興させたとしても、参列する人の数は限られ、にぎわいにも限りが出る。

 しかしかといって、人口が多ければどんな神社でも復興が可能かといえば、それも違うだろう。B社の場合、もし大原宮司が現れなかったら、とうの昔に「不活動神社」になっていた恐れがある。

 では、年々深刻化しているといわれる神社運営の厳しさを改善する道は、結局奈辺に見出すことができるのだろうか。

 國學院大学で長年神道学を講じ、また自身も神職として神社に奉祀した経験をもち、神社界の事情によく通じている、神道学者の三橋健氏(79)に話を伺ってみた。

 三橋氏はまず、「神主」(神職)の意識の問題を指摘する。

「地域の神社に祀られる氏神様は、とても閉鎖的な存在でして、じつはその地域のことしか御守護なさらないのです。神社には氏子区域というものがあり、例えば、今日は神田明神のお祭りだといっても、隣の家が日枝神社の氏子であれば、全く関係ないということになります。また、神主さんは、市長や町長のように選挙で選ばれたものでもありません。

 しかし、そういうなかで、地域の長い歴史や伝統、しきたりなどを守り、継承してゆくのが神主さんの務めなのです。つらい仕事でもありますが、でも、現代の神主さんにはそういう意識がなくなってきているように思います。その土地にふさわしい人が神主になれば、神社というものは経営して行けるのではないでしょうか」

 さらに三橋氏は「神主さんが唱える祝詞は『掛け巻くも畏(かしこ)き、〇〇大神の大前に』と始まり、末尾は『畏(かしこ)み畏みも白(まお)す』となっていて、口では『畏れる(恐れ多い)』と言っていますが、本当のところでは神さまへの畏れを抱いていない神職が多いのでは」と手厳しい。

「私は若い頃、11年間神社に奉職しましたが、毎日、神様の御前で奉仕を繰り返していますと、だんだん慣れてきて、神様を恐れる気持ちが薄らいでゆくことがあります。こうした慣れが危険だと思います」

 大原宮司は「同じことの繰り返しこそが、神社の本質であり使命」という趣旨のことを語っていたが、三橋氏の言う通り、たしかにこのことは、ともすると「慣れ」に堕するリスクがあろう。だが、大原宮司の場合は、「慣れ」を「習熟」に向かわせる意識が働いて、そのリスクを回避させていたといえる。

 では、どういう神職をめざすべきなのか。

「一流の神主さんというのは、神様と対話ができる。そのためにはどうするかというと、毎日神様の御前に出て、祝詞をあげることしか近道はありません。そうすると、神様の方から御守護をして下さいます。私たちは、神様に祈っておりますが、神様も私たち以上に祈っていることに気づかされるのです。一流か二流かを分けるのは、人間が決めた正階とか直階とか、そんな階級ではないのですよ。神様と一体となって、神様の言葉をいただけるかどうかということでしょう。

 難しい問題ですが、現在では『信教の自由』ということで、町内会・自治会から神社の維持費を集められないということがあります。でも、氏神と氏子の関係を、地域の人々に神主さんがわかりやすく説明してあげる、そういうことも必要なのではないでしょうか。

 そして、何といっても大切なことは信仰です。信仰がなくなれば、経営もできなくなる」

 さらに三橋氏は言う。

「心底から神様を畏れる神主さんになれば、そのような神主さんを氏子さんたちは見捨てることはないでしょう」

「信仰」という精神論を持ち出すのは、ある意味では楽観的で、そしてまた正論にすぎる見方であるようにも筆者には思えたが、B社の再生への道のりは、三橋氏の言葉をみごとに証明している。

 

 繰り返しになるが、B社の場合の氏子区域は過疎化がとくに進んでいる地域ではなかったので、過疎化や人口減少に悩む地域の神社には、B社の復興は必ずしもモデルケースにはならないかもしれない。しかし、「祭り」と「祈り」を前面に押し出しての宮司の奮闘は、神社護持の王道を指し示しているともいえよう。

 ところで、B社の大原宮司は復興の仕上げとして大鳥居の建立を計画中だという。それには1億円近い資金が必要になるそうで、当初、この計画を口にしたときは、総代からは「何を血迷ったことを」とあきれられたそうだ。だが、最近では「本当にやるんなら、寄付金を出しますよ」と言われるようにもなり、周囲には無謀とも映った計画も現実味を帯びはじめているという。「神様を畏れる神主」を氏子はほうっておけない――ということなのだろうか。

 大原宮司のまなざしは、100年、200年、いや500年先の神社のすがたを見据えているような気がした。

 

洋泉社歴史総合サイト

歴史REALWEBはこちらから!
yosensha_banner_20130607

 

プロフィール

rekishireal

QRコード
QRコード