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第39回 悪党の華――鈴木桃野その3

掏模の友情

快盗、義賊、色悪、ピカレスクロマン――。悪党と呼ばれる連中のすべてが、万人に憎まれていたわけではない。なかには死を恐れぬ潔さや侠気(稀に人情)、アブナイ魅力と反権力的キャラクターで喝采を浴びた者もいた。もちろん、残虐な殺人犯や極悪非道の悪人が、共感や同情を得ることはなかったが。

 私が愛する旗本鈴木桃野(180052)は、昌平坂学問所の教授を務めた知識人だが、悪党の生き方に興味を抱き、随筆に詐欺師や掏摸(スリ)の手口を書きとめている。書きとめたといっても、備忘録的にメモしたのではない。

この連載の前回、前々回で紹介したように、桃野は文筆の才に溢れ、着眼もすぐれていた。おのずと桃野が書きとめた悪党は、魅力的である。反社会的な連中が魅力的だなんて! 憤慨する読者も多いと思うが、江戸の昔の話なので(とっくに時効だ)お許しいただきたい。

 はじめは『反古のうらがき』から「すりといふ盗人」の一話。「すり」は言うまでもなく、往来や人混みで懐中の金を盗み取る悪党のこと。漢字で書けば掏摸で、巾着切(きんちゃくきり)とも呼ばれていた。江戸時代末には江戸の町だけで、1万人を超える掏摸がいたというから、いまさら「すりといふ盗人」というのも変だが、さすがに旗本の鈴木桃野教授にとって、彼らは〝向こう側の〟存在だったのだろう。

 桃野は知人の竹崖子から聞いた、ある掏摸の話を記している。それは次のようなものだった(以下、意訳で)。

 

 ――杉並の何某(名は忘れてしまった)が、歳の暮れに家の男女34人を連れて浅草観音へ見物に出かけた。途中、下谷を過ぎたところで、思いがけなく古い友人に出会ったので、思い出話をしながら道連れとなったのだが……。何某が「君は今、どこで何をして暮らしているのか」と尋ねると、友は声をひそめて「実は酒と女で身を持ちくずし、父や兄から勘当されてしまった。生きる術もないので、今は掏摸の仲間に入り、このような繁華な所で人の懐中や腰に下げた金品をこっそり頂戴して暮らしている」。友は続けて「よりによってこんなあさましい業をと、はじめは涙がこぼれたが、ひとたび経験すると、掏摸ほど面白いものはない。だから悪いとわかっていても止められないんだ」。

そう告白したのち「今はご覧のように身なりも見苦しくないし、金に不自由もしていない。それでも人混みに立ち入るのが生業なので、こうしてやって来たのさ。ところで一年の中でもとりわけ賑わう今日は、われわれ掏摸の稼ぎどきだ。君も十分注意したまえ。はやく帰ったほうがいい。僕は旧友だから忠告するが、ほかの掏摸たちは遠慮しないぞ。女連れは特にねらわれやすい」。自分は掏摸だと吹聴しているのに、友は周囲をはばかる様子もなかった(「其様あたりを憚る様もなし」)。――

 

 ここまでが話の第1幕。旧友が掏摸の業を生業(原文は「身過ぎ」)とさりげなく言い切っているのが面白い。

昨年あるテレビ番組で、長年デンマークに住む高齢の女性が、掏摸の被害にあった思い出にふれて「あちらも仕事ですから」と語った場面を思い出した。インタビューした出演者は、あせった様子で「掏摸は仕事ではありません」とフォローしていた。掏摸も仕事(生業)という感覚は、江戸時代にさかのぼらずとも、旧い世代の間に生き続けていたようだ。素振りも見せず瞬時に金品をすり取る神業の持主であれば、仕事ではなく至芸という言葉がよりふさわしいだろう。

閑話休題。第2幕の始まり。

 

 ――忠告を受けても、何某は素直に従う気持ちになれなかった(こんな話を往来でするのだから真実であるはずがない)。繰り返し帰宅をうながすのを鬱陶しく感じた何某は、「今すぐ帰るつもりはない。でも君の忠告にも一理あるので、日が暮れるまでには帰ろうと思う」と述べて友と別れた。

 ほどなく浅草観音前に着き、懐中をさぐってみると、あるはずの鼻紙袋(鼻紙や金銭、印鑑、薬などを入れる袋。鼻紙入れ)がいつの間にか消えていた。さては掏摸の仕業に違いない。ああ、友の忠告に従うべきだったと後悔しても、あとの祭り。さし当たって食事をするお金もなく、日も暮れ始めた。がっかりした何某は、しかたなく家人をひきつれて家路を辿るしかなかった。その様子はたいそう哀れだった(「いとあわれにこそ見えける」)。――

 

 気づかぬうちに懐中の鼻紙袋を盗み取られた何某は、ようやく友が正真正銘の掏摸であると知ったのである。話の結末は第3幕で。

 

 ――浅草からの帰途、下谷を通り過ぎた辺りで、「これをお返しするよ」と肩をたたく者がいた。ふり返ると先ほど別れた友で、手には盗まれた鼻紙袋が。「悪い冗談はよしてくれよ」。恨めしく思いながらも、何某は嬉しさを隠しきれなかった。「ほかの掏摸なら盗んだ金は返さないが、君たちが腹をすかせていると察して、金を戻したのさ。さあ、蕎麦でも食べようじゃないか」。友に誘われ、何某は家人ともども寛永寺門前の蕎麦屋に入った。

そこは酒も肴もある店で、酒食足りて店を出ようとしたとき、何某は「今日は君の情けで金が戻ったので、ここは僕に払わせてくれ」と懐の物を出した。すると友は笑って「金が入っていると思ってるのか」。鼻紙袋の中を調べると、金だけ抜き取られているではないか。「掏摸の作法で盗んだ金は返さないが、金以外の必要な品は抜き取っていない。安心したまえ」。友はそう言い捨てて立ち去った。

 「金を奪ったうえ、酒食の代金まで払わせるとは……」。何某は口惜しくてならなかったが、1銭の持ち合わせもないので家にも帰れない。誰々に人を遣って金を借りようか。それとも家から持参させようか。今日は店も忙しそうだ。いつまでもこうしているわけにもいかないと思い煩っていた。ちょうどそのとき、店の小女(年少の下女)が食器などを片付けにきたので、代金はいかほどか問うと、小女は「先に帰ったお連れの方が済まされました。支払い済みなので金額は覚えていません」と答えた。――

 

話は「扨は昔のよしみは捨ざりけり、あなうれしとて、急ぎて家に帰りけるとなん」という一文で終わっている。友は掏摸になった今も昔のよしみを忘れなかったというのである。めでたし。めでたし。

この話は詰まるところ美談であり、しかも、主人公はまぎれもない盗人の掏摸だった。

 

博徒の叡智

 次に紹介するのは、『桃野随筆』から「博徒」の一話。題名通り博奕打ちの話である(やはり意訳で)。

 

 ――博奕打ちが語り合っているのが耳に入った。賽子の目の勝負(=賽子博奕)は「正直」なのがいい。「作りごと」をするのは「吾徒にあらず」(われわれ博徒は作り事はしない)。――

 

 このくだり、訳が難しい。サイコロの目を賭ける丁半賭博について語っているのだが、「正直」「作りごと」の意味がはっきりしない。「作りごと」が細工をすることで、「正直」が細工をしないことだとすれば、続く文章の意味は「われわれプロの博奕打ちは、サイコロに細工をするような八百長はしない」となるが、はたしてそうか。

原文には右に続けて「天に任せて打なれば、必ず勝にはあらねど自然の数も亦あながちに片落ちなることはなき物ぞ、しからば作略によりて工拙あるとしるべし」とある。どうやら賽子博奕では、あまり考えすぎずに(「作りごと」をせず)天に任せて(「正直」に)賭けたほうが大きな失敗がない(そこそこの結果が得られる)という意味らしい。

 定石通りの「正直」な賭け方とは、どのようなものか。博奕打ちは次のように語った。

 

 ――まず100文張る(賭ける)。負けたら200文張る。また負けたら400文張る。それでも負けたら800文。このように張り続ければ、まさかずっと負け続けるはずはない(いずれ勝つ)ので、負け続けても、一度勝てば負けた分を取り戻すだろう。――

 

なるほど。100文から始めて200文、400文、800文と4回勝負し、負け続けても計1500文(1500文)の損失。5回目に1600文賭けて勝てば、損失を上回る金が手に入るというわけだ。問題はそれから先である。

 

 ―― 一度勝ったら、また100文から張れ。勝ってもまた100文。勝ったからといって賭け金を多くしてはならない。100文ずつの勝ちでもそれなりの金を得られる。一度に大勝ちしようと思うな。賭博では負け続けるのは勝ちが来る前兆だから、どうか負けるようにと思いながら張るべきだ。一度勝てば十分。勝ちを重ねる必要はない。この理を知らない者が、独り勝ちしようとして大負けするのだ。可笑しなことさ。――

 

 なんて深い知恵だろう。カジノ法案可決やギャンブル依存症対策が話題となっている昨今、識者やギャンブラーにぜひ読んでいただきたい話である。

 鈴木桃野は別の観点から博徒の知恵に学んでいる。曰く。「武士のいくさをするも、此心をもて勝敗を計らば、少しづゝ負て大に勝の理をしらん」。博奕も戦(いくさ)も勝負に変わりはない。博奕の理は戦の理に通じるというのだ。

いや、武士の戦だけではない。桃野が書きとめた〝博徒の叡智〟は人生の知恵そのものではないか。〝負け続ける人は幸いなり。いずれ勝つときが訪れるから。勝ち続けても大勝ちしようと思うなかれ。勝ち続けた人には必ず負けるときが来る〟

 なんだか、ますます桃野が好きになった。

<了>

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第2回 立派なお侍

西郷の「愚民観」

 今回は西郷隆盛18歳というから、弘化元年(1844)の薩摩が舞台。同年から西郷は「郡方書役助」として、薩摩藩に出仕している。民政に直接携わる仕事だが、それを通じて西郷は武士という為政者が、いかに生きるべきかを模索し、苦悶している。安易に「そうだ!身分制度を無くしてしまおう」などと言い出さないところが良い。

 ただし、史実を言えば西郷ら「志士」や「政治家」が持っていたのは「愚民観」であり、武士である自分たちが統治・指導してやらなければと、上から目線で考えている。それが、支配者である武士として生まれた者の使命だと信じていたのだ。だからこそ「立派なお侍」になるため、真面目な武士は修練を積むのである。

 お断りしておくが、それを現代の感覚で「差別だ」「悪口を言った」と騒いでも、何の意味もない(最近こういうことが理解出来ない、歴史ファンとか研究者と称する方が増えている気がする)。

 全体的に構成にムダが無く、しっかりしていたというのが見終わった印象である。

 西郷は単純で、おっちょこちょいで、お人よしで、真面目で、優しいという、絵に描いたような愛すべきキャラクターだ。これは18だから良いとして、今後どのように影をつけて成長させてゆくのか、注目したいところである。

 冒頭、借金のために売られそうな村娘を、西郷がとりあえず助ける。そのため、給金を家に持って帰れない。家族からはさんざん文句を言われる。後述するように、西郷は栄達を遂げてからも、金銭には淡泊だったと言われる。

 

武の薩摩、文の長州

 そこへ大久保正助(利通)が登場、記録方へ勤務が決まった旨を知らせる。つづいて祝宴が開かれ、酒を勧められた大久保は、胃が痛いと言って断る。

 すると幼なじみ(史実は元服後の付き合い)有村俊斎が「頭はよかどん、相変わらずひ弱な奴じゃ」とからかう。前回、祖母が剣術と相撲の修行に励む少年の西郷に「学問はほどほどでよか」と言っていたが、あれに通じるものがある。

 僕はかねがね薩摩は体育会系で、長州は文化会系だと考えている。尊敬されている(あるいは尊敬しなければならない)明治維新関係の人物は、薩摩(鹿児島県)は西郷、長州(山口県)は吉田松陰。その肖像画を並べると、ふたつの「国」の気質の違いが見えて来る。

 「文武」というが、薩摩は「武」ばった、長州は「文」に長けたイメージの持ち主の方を尊重するようだ。もし、薩摩に松陰が生まれていたら、一定の尊敬はされたかも知れないが、文に長けた、理屈っぽい軟弱な奴という非難が起こったかも知れない。逆もまたしかり。

 関ヶ原で敵中突破して帰国し、家康の呼び出しに応じなかった島津は、敗戦国でありながら、理屈ではなく、武ばった態度を貫くことで、薩摩・大隅・日向の領土を守り抜いたのだ。元からの土壌もあったのだろうが、「武」に対する信仰のようなものが強まったのではないか(このあたりは、昨秋出した拙著『明治維新とは何だったのか』に書いたので、お読みください)。

 

失望感で終わる

 西郷は郡方書役助を十年以上続けた。しかし、その間のことは殆ど伝わっていない。ゆえに今回のエピソードの大半は、フィクションである(フィクションが悪いと言うわけではない)。原作にもほとんど描かれていないから、ドラマのオリジナルのようだ。

 豊作・不作にかかわらず、一定の年貢高が決まっている「定免法」が百姓を苦しめていると感じた西郷は、藩の実力者・調所広郷に訴え、「改善」してもらう。

 ところが、西郷は農村で隠し田を発見する。百姓は焦る。西郷としては、見逃すわけにはいかない。出来高に応じて年貢を納めることになれば、困る百姓が出て来るという、新たな問題に直面してしまう。

 善人そうな百姓のずる賢さを描くところは、物語が少し深まって面白い。このあたり、黒沢明監督「七人の侍」(昭和29年)の影響が感じられた。

「七人の侍」では、百姓たちが落武者狩りを行って来た事実を知り、衝撃を受ける侍たちの姿が描かれる。そこへ、もと百姓のエセ侍である菊千代が飛び込んで来て、喚きながら言う。

「おい、お前達…一体百姓を何だと思っていたんだ…え?…仏様だとでも思ってたのかっ…笑わしちゃいけねえや…百姓位悪ずれした生物はねえんだぜ(中略)ハハハハ…山と山の間へ行って見な…そこにや隠し田だア…正直面して…ペコペコ頭下げて…嘘をつく…なんでもごま化す…」(台本より)

 しかし「七人の侍」は、そのような歪な百姓をつくり出したのは、実はその上で威張り続け、搾取を続けた侍たちなのだと、はっきりと結論づける。「西郷どん」は、そこまで大胆な結論は出さない。西郷の思想を、あまり史実から乖離させないつもりなら、ここは逃げるしかないだろう。

 結局、西郷が望んだ改革は出来ず、村娘も売られてゆく。連れてゆかれる村娘が呟く「私はこの薩摩が大好きじゃ」は、とってもウソくさいので、蛇足。愛郷心を表したいのなら、せめて「桜島が大好きじゃ」くらいにした方が良かったと思う。

 今回も前回につづき、藩主世子の島津斉彬が鹿児島に帰国していた。斉彬は父で藩主の斉興に疎まれ、ついに斉興は、異母弟の久光を藩主名代にすると言い出す。

 史実でも斉彬は弘化三年七月、幕府の命により、琉球問題を解決するため帰国している。だからだろうか、今回は影武者を江戸に残して来たという話は無かった。多少の時間のズレはあるが、これはおおむね史実に沿っている。

 その斉彬が江戸に戻るにさいし、西郷は百姓の苦境を訴える意見書をひそかに渡そうとするが、例の村娘の件があり果たせない。斉彬も西郷も、まだまだ無力であり、変革を望みながらも思うようにゆかない。なにひとつ、思いどおりにゆかない。現実的な失望感が充満したまま、ドラマは終わる。なんでもかんでも主人公の都合よく解決するドラマではないところが、よかった。

 

イトのこと

 西郷の三番目の妻となるイト(糸子)は初回から登場していた。史実ではイトは天保14年(1843)生まれだから、文政10年(1827)生まれの西郷とは16の年齢差がある。

 ドラマを見る限り、あまり年齢差が無いように描いていたが、このあたりはフィクション。当然作り手たちは知った上で、そのような設定にしたのだから、この点に関してはいまのところ問題はない。

 
 イトは大正11年(1922)、80歳まで生きたが、管見の限りではまとまった回顧談などは残していないようだ。

 ただ、イト在世中に園田実徳という薩摩出身の実業家が、新聞に発表した「大西郷の未亡人」という談話がある。園田は西郷とイトの長男である寅太郎の妻信子の実父である。その中に、

 

「未亡人は女大学式の人ですから、外に向かって派手に活動するということは嫌いな方でしたから、翁が国事に奔走している間の未亡人の内助の功というものは、あまり外にあらわれてはおりませんが、実に偉大なものであります」

 

 などという一節があり、イトの実像はドラマとはかなり違っていた様子がうかがえる。また、今回のドラマでも描かれていた西郷の金銭感覚については、

 

「隆盛翁は金銭に淡泊な人でした。

 あればあるだけ、人にやってしまうのが常でした。困る者があると、自分の着物を脱いでまで救ってやるという風の人でしたから、未亡人は家政上のことにも非常に苦心されました」

 

 などと述べられている。ところが寅太郎没後、西郷家の家計は傾き、東京の屋敷も手放すことになった。

 談話者の娘である信子に、かなりの浪費癖があったのが、その原因と言われる。寅太郎との間に八男四女をもうけた信子だったが、西郷家を出され、四十八歳で向島のバラックで病死するという衝撃的な最期を迎える(一連の詳しい資料は、来月出す拙著『語り継がれた西郷どん』に掲載されていますので、よろしければ読んで下さい)。

 

いつでも夏のドラマ

 「花燃ゆ」の時、夏ばかりで、まったく四季が描かれていないと思ったが(しかも夏にひな人形が飾られていたりした。あれはつくり手の悪戯だったのだろうか。謎である)、今回も同じように季節は夏ばかりである。

 ロケが多く、綺麗な映像が多くて楽しめるのはよいが、数年間の出来事なのに、二回続けて青々とした夏ばかりでは、ちょっとうんざりする。

 おそらく、前年の夏から撮影を始めるからだろうが、これは問題だ。せっかく海外にも輸出されている大河ドラマなのだから、日本の四季感をもう少し工夫して出してもらいたいと思った。

<了>

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第5回 荘園主となった大社、宮座が支えた小社

◆多額の不動産収入を得ていた富岡八幡宮


 すでに旧聞に属するが、昨年末、東京の有名神社を舞台に、センセーショナルな事件が起きた。平成
29127日夜、創祀から400年近い歴史をもつ富岡八幡宮(東京都江東区)の境内にて、女性宮司がその実弟である元宮司に刺殺され、凶行後、元宮司はみずから命を絶った。事件後明らかになった元宮司の遺書には、自分が宮司職を解かれたことへのうらみつらみが延々と書きつらねられていた。

 姉弟、一族間の多年にわたる確執が事件の根にあることは間違いないようだが、ふつうの神社なら、宮司という地位をめぐって、ここまで凄惨な諍いが起こるとは考えにくい。すでに記したように、経済的に考えれば、神職というのはあまり恵まれた職業ではないからだ。

 だが、富岡八幡宮は、うなるほど金があるという、現代の神社界においては極めて特異な状態にあった。下町という土地柄からか、個人だけでなく商店・企業も加わる氏子の組織力が強い。したがって、氏子からの奉納金が多く、神社の財政基盤が確保されている。そのうえ、由緒があり、境内も比較的広く、厄除けで知られる深川不動堂に隣接することもあって、日頃から多くの参拝者を集め、初詣には三が日だけで例年15万人が訪れるという。当然、賽銭や授与品・祈禱の初穂料といった社頭収入も多い。

 それだけではない。富岡八幡宮は境内以外にも周辺に土地をもち、不動産賃貸でも多額の収入を得ていたという。

 しかも、そうした莫大な資産は、宗教法人に帰属するものでありながら、宮司個人が思いのままに動かしうる状態にあった。

 こうしたことが背景となって、宮司という地位に対して、信仰心とは無縁のレベルの、異様な執着を姉弟がみせるようになり、悲劇的な結末がもたらされたのではないだろうか。

 それにしても、神社が不動産業を営むというのは、信仰や布教活動から逸脱した、眉をひそむべき行為のように現代人の目には映るかもしれない。

 しかし、時代をさかのぼれば、神社(または寺院)が境内地以外に広大な土地を私有し、そこから多大な利益を得るというのは、決して隠し立てすべきことでも、まためずらしいことでもなかった。

 むしろ、これから示すように、それはごく当たり前の姿であった。

 

◆中世の有力神社は広大な荘園主となった

 前回は古代の神社経済を概観したが、今回は中世・近世を概観してみたい。

 古代においては、神社の経済基盤が律令制にもとづく神戸(かんべ)・神田(しんでん)にあったこと、ただし現実にこうした国家的な制度にあずかれたのは一部の有力社に限られていたことは前回記した通りである。

 だが、平安時代なかばにはすでに公地公民を基盤とする律令制はゆるみはじめ、それにあわせて神祇官の統制力も衰え、班幣制度や官社制度といった朝廷による神社統制政策も形骸化あるいは衰退し、旧来の神戸や神田は名目上のものとなっていった。

 また、朝廷の神社行政の埒外に置かれた地方の神社は、各地の国司や在庁官人をはじめとする地方の有力者との結びつきを強めるようになった。

 こうした動きにともなって全国に増大したのが「荘園」である。貴族だけでなく、都やその周辺に所在する有力な寺院や神社が諸国に「荘園」として私的に土地を領有し、その土地から得られる収穫物や労働力に経済を依存するようになったのだ。こうした荘園には、私領化された神戸や神田も含まれる。

 また、有力寺社に対しては、信仰心に権勢欲があいまって、皇室・貴族のみならず、地方豪族や有力農民らも競って土地を寄進するようになり、荘園の拡大に拍車をかけた。また、地方の有力社には、境内とその社領をまるごと中央の権門勢家に寄進し、彼らの荘園に組み込まれることで権威を保ち、あるいは庇護を受けるというケースもみられた。

 全国に広大な荘園を有した神社の代表例としては、石清水(いわしみず)八幡宮がある。

 京都の男山山頂に鎮座する石清水八幡宮は、宇佐八幡神(八幡大菩薩)の託宣にもとづいて貞観2年(860)に創祀されたと伝えられるが、八幡神が応神天皇の霊と同一視されたためか、皇室から特別の尊崇を受けた。将門(まさかど)・純友(すみとも)の乱(承平・天慶の乱)の際には平定の祈請が行われ、天慶3年(940)、実際に乱の平定がなると、その報賽(ほうさい)として20戸の封戸(ふと)(山城、丹波各10戸)が朝廷から寄せられた(封戸25戸とする史料もある)。このようなこともあって、伊勢神宮に次ぐ「第二の宗廟」として崇敬されるようになり、国家・朝廷の守護神ともみなされて朝野の信仰を集めた。

 当初の封戸20戸は神戸にあたるものと考えられるが、これをきっかけに次々に封戸を寄せられるようになり、平安時代末には300余戸に及んだ。

 荘園は、936年(承平6)には成立していた河内国(大阪府)矢田庄を皮切りとして増え続け、1072年(延久4)には山城、河内、和泉、美濃、丹波、紀伊の6カ国に荘園を有し、その場所はあわせて34カ所に及んでいた。その後、一部の荘園は整理されたが、結局増大を続け、12世紀なかばには、荘園や別宮を含めた石清水八幡宮の社領は33カ国、100カ所にも及んでいた。石清水八幡宮が領する荘園は「石清水八幡宮領〇〇国●●荘」などと呼ばれ、荘園主はその土地の生産物を収納し、神社の経営にあてることができた。

 ただし、石清水八幡宮は創建当初から神仏習合色が濃く、八幡神勧請以前から男山にあった寺院が神社を管理するというかたちをとり、神社と寺院が一体化した「宮寺」という性格を有していたことに注意する必要がある。つまり、この頃の石清水八幡宮は、実質的には、神社というよりは寺院に近い存在であった。また一般に、近世までつづく神仏習合体制では、本地垂迹思想の影響で、神社よりも寺院の方が優位にあり、神社に隣接する(あるいは境内を同じくする)寺院(神宮寺、別当寺などと呼ばれる)の僧侶(社僧)が神社を管理・運営していた。したがって、全国に広大な荘園を領有したところも、延暦寺・興福寺・東大寺・園城寺といった大寺院が目立ち、神社は劣勢である。また、藤原氏の氏神である春日大社も多くの荘園を有したが、神宮寺である興福寺に支配される格好となったため、その社領は興福寺領に包括された。

 

◆御厨・御園を有した伊勢神宮と賀茂神社

 神社の荘園には、特殊な形態として、「御厨(みくりや)」あるいは「御園(みその)」と呼ばれるものもあった。

 御厨とは、本来は神への供物・贄となる魚菜類を貢進するために設けられた土地をさし、おもに漁民が対象となった(その見返りとして、調・庸などの負担は免除になった)。厨とは台所のことで、はじめはその調理場の建物をさしたが、のちに神社の貢進を担って供物を出す土地という意味になり、やがて神社の所領と同義になった。異称の御園は、神に供える蔬菜を栽培する土地というのが本義である。

 ただし、御厨を有した神社は、伊勢神宮と賀茂神社に限られたらしい。鎌倉時代初期の『神宮雑例集』によると、伊勢神宮の御厨・御園は全国で450余所にわたっていた。また、鎌倉後期には1300カ所以上に及び39カ国に分布していたといい、とくに東国・東海に多くみられた。

 

◆近畿を中心に出現した神社運営組合としての宮座

 このように、平安末期からは神戸・神田に代わって荘園が神社の主たる収入源になり、石清水八幡宮のように全国にわたって広大な荘園を有してそれを私有地化し、莫大な収入を得るところも現れた。そうした神社は信者からの御供料も多く集まる。そのため、院政期の石清水八幡宮や日吉社は、潤沢にある稲や財物を農民や地方官人に貸し付けて利息を得るという金融業のようなことも行っていて、さらに資産を増やしている。

 しかしもちろん、それは一部の大社に限ってあてはまる話であった。権力者との結びつきの薄いごくふつうの神社はどのようにして財政を賄っていたのだろうか。

 結論から先にいえば、当たり前のようではあるが、最終的には、在地の有力者や住民が中心となって自治的・自主的に神社を管理・運営されるスタイルが確立した(神宮寺・別当寺の支配力が強い神社では、寺院側の経済に依存していた場合もあろう)。

 とくに注目したいのは「宮座(みやざ)」の成立である。

 宮座とは、一口にいえば、荘園や村落の住民によって結成された神社運営と祭祀継承のための協同組合のようなものだ。

 その特徴をいくつか列挙してみよう。

 

〇平安末期もしくは中世以降に発生し、近世に広まった。

〇近畿地方を中心とした西日本地域に多くみられ、関東から東北にかけては少ない。

〇宮座の構成員は座衆・座人などと呼ばれ、女性は稀有であり、原則として荘園・村落の有力者層を構成員とし、特定の家だけで宮座を継承していった。

〇宮座は祭祀を含めた神社の運営と管理を担い、金銭や米麦などを拠出して、神社運営にかかわる経費を負担した。

〇座人の家に生まれた男子は、一定の年齢に達すると神社での「座入り」の儀式をへて座人となり、宮座帳に姓名が登録された。

〇神事・行事における座席・着座の順序が宮座組織内の序列に対応していて、神仏に一番近いところに指導者層の人物が座った。

〇宮座の幹事長的な役にあたる、神事・行事を仕切る座人は、頭屋(とうや)、当屋、当家、頭人などと呼ばれ、ふつうは座人が一年交替の輪番式で就いた。頭屋に就くことは非常な栄誉とされた。

〇祭祀を直接執行するのは神職の仕事だが、原則として専業の神職を置かず、頭屋が神主を務めたり、頭屋とは別に座人から神主を選んだりした。

〇神社経費をまかなうために、宮座が神田(律令制下の神田とは区別される。座田・講田などともいう)を所有し、それを頭屋や座人が耕したり、小作に出されたりすることもあった。神田は基本的に領主からの年貢を免除された。

〇神田とは別に、座人の各戸から、米や麦を一戸につき一升というように「初穂」として徴収し、それが神社や神主の収入にあてられることもあった。その年の最初の収穫物を報謝として神に奉献するというのが初穂の本来の姿だったと考えられるが、近世には、座人が納める氏子費のような性格のものになっていた。現在、お守り・お札を買うときに神社に納めるお金のことを「初穂料」というが、この表現は、宮座の初穂にルーツをみることができる。

 

 中世・近世における宮座の発展は、血縁よりも地縁を重視する地域の守護神としての氏神・鎮守の全国的な形成に大きな影響を与えた。そして座人に「氏人(うじびと)」ではなく「氏子(うじこ)」という意識を覚醒させ、それが近代の氏子制度の基礎にもなった。

 明治に入ると多くの宮座は消滅したが、夜支布(やぎゅう)山口神社(奈良市大柳生町)、御上(みかみ)神社(滋賀県野洲市三上)など、平成になっても遺存した例もみられる。

 なお、宮座というのは明治以降に確立した学術用語で、実際には、祭座、お座、明神講、座株など、地域・時代によって多様な呼び方がみられる。

 

◆院政期~近世の宮座の形成・発展のプロセス

 ここで、平安時代なかばから中世・近世にかけての、座の成立・発展にいたるプロセスをイメージしてみよう。

 公地公民制を柱とする律令制が形骸化すると、それに代わって全国に皇室や有力貴族、有力寺社の私領である荘園が増大する。

 その荘園内をみると、荘園ができる以前からそこには地元の住民から崇敬されていた神社があった。そうした神社は、その土地が荘園になると、荘園の鎮守社として改めて祀られることになった。

 また、荘園内に、荘園領主と関わりの深い神社が鎮守社として勧請(かんじょう)されたり分祀されたりすることもあった。たとえば、興福寺の荘園には春日社、石清水八幡宮や東大寺の荘園には八幡宮、延暦寺の荘園には日吉社といった具合である。

 こうした荘園鎮守社では、当初は、荘園領主に任じられて派遣された神職が祭祀を司り、やはり領主に任じられて現地で荘園経営にあたっていた荘官(地頭、公文(くもん))がそれを支えるというかたちをとっていた。

 しかし、中世に入り荘官が徐々に武士化してゆくと、荘園鎮守社はそうした在地の武士一族の氏神へと変質してゆき、同時に領主との関係が希薄化してゆく。やがて、武士や地侍のあいだで頭屋を順番に務めて祭祀を取り仕切り、神社を運営するという自治的な方式が生まれる。宮座の誕生である。

 近世になって荘園制が崩壊すると、武士たちの氏神は今度は農村・漁村の氏神へと変質し、宮座は村人たちによって営まれるようになった。

 宮座の成員となる権利は、当初は田畑や屋敷をもつ有力農民(名主(みょうしゅ)、本百姓)やその血縁的な特定の家系に限定されて継承され、一種の特権的な身分とみなされた。

 しかし、時代が進み座外の農民も勢力をもつようになると、宮座の加入をめぐって村内に軋轢が生まれた。宮座が多くの農民に開放される場合もあったが、分裂や崩壊が生じたり、座人の権利が株として売買されたりと、混乱もみられるようになった。

 明治維新に至ると、多くの宮座が解散した。

 

◆隅田八幡宮の宮座の歴史

 宮座の好例としてよく挙げられるものに、和歌山県橋本市隅田(すだ)町に鎮座する隅田八幡神社(かつては隅田八幡宮)の宮座がある。ここは中世からの記録が残り、しばしば調査研究の対象となってきたので、その歴史や実態が詳細にわかっている。

 隅田八幡神社そのものの草創ははっきりしていないが、鎮座地一帯は平安時代中期には石清水八幡宮領の荘園になっていて、隅田荘と呼ばれた。したがって、隅田荘が成立したのち、その鎮守社として、領主である石清水八幡宮の祭神(八幡大菩薩)を勧請したのが、隅田八幡神社のはじまりであると考えられている。

 荘園鎮守社としての隅田八幡宮の祭祀は、神宮寺としてもうけられた大高能(だいこうのう)寺の供僧(くそう)や、石清水八幡宮から派遣された神職たちが司った。

 しかし、下級神職には現地の有力者が任じられた。そうした在地有力者のひとりに藤原忠延がいた。彼は隅田党(隅田一族)と呼ばれる武士団の始祖と伝えられ、平安時代末に隅田八幡宮の俗別当となって祭祀を司るようになり、また隅田荘の荘官にも任命されて隅田荘の経営にもあたるようになり、その職は子孫が相伝していった。忠延を伝説上の人物とする見方もあるが、武士が成長するなかで、在地の豪族である隅田氏が隅田八幡宮と隅田荘の実権を握るようになったことは確かだろう。

 鎌倉時代に入って石清水八幡宮の支配が薄らぐと、隅田八幡宮は、荘園鎮守社から、俗別当を世襲する隅田氏の氏神へと変容してゆく。それと同時に、宮座も形成される。

 隅田八幡宮の主要祭礼行事に毎年正月に行われる御朝拝神事があったが、この神事の頭人は、隅田氏を中心として在地の人々によって結成された「庁座」の座衆から選ばれた。庁座は行事での座席の位置に対応して西座南、西座北、東座南、東座北の4座からなり、頭人は各座から1人ずつ出て合計4名がこの役を務めた。こうして、隅田八幡宮は、庁座という宮座の運営を介して隅田氏の精神的紐帯となり、繁栄をみることになる。

 隅田氏の本家は南北朝の争乱で衰亡してしまうが、これに代わって葛原氏や上田氏など、隅田一族の庶家が台頭し、彼らを中心にして庁座も継続した。

 しかし戦国時代になると隅田一族は弱体化し、隅田荘内では村落の形成が進む。近世には隅田八幡宮はそうした村々の農民を氏子とする地縁的な氏神へと変質し、宮座もより開かれた性質のものへと変わっていった。

 

◆宮座では氏子が交替で神職を務めた

 宮座は、本来的には、神社というよりは祭祀の継承を主眼とした組織だと考えられるが、ここで筆者がとくに注目したいのは、神職のあり方である。

 繰り返しになるが、宮座が運営する神社では、専門的な職能をもった神職は置かれず、宮座の頭屋や他の座人が交替で神職を務める方式が定着していた(廻り神主、一年神主)。

 ただし、室町時代に吉田神道が興隆して、朝廷・幕府の支持を得た吉田家が地方の神職を支配するようになると、吉田神道あるいは吉田家に対抗した神祇道家の白川家から免許を受けた専門神職に宮座祭祀が委ねられるケースもみられるようになった。宮座から宮守や掃除人のような役目に任じられて神社に住み着いた人物の子孫が、近世になって公認された専門神職になった場合もあった。

 さらに付言しておくと、大社ではなくても、以前からその神社の神職を担ってきた社家が歴史をへても衰亡せず、宮座が形成されなかったところも、もちろん存在した。

 さて、現代の神社界では、神職が常駐していないために衰退化してゆく神社の増加が問題視されるようになっている。しかし、神職が常駐していない神社には、たしかに不活動状態になってしまっているものもあるが、宮司に頼らず、実質的には地域の住民・氏子によって管理・運営されて継続しているところも珍しくない。佐賀県には、宮司(代表役員)が欠員状態でも、氏子たちによって祭礼行事が行われている神社も存在するという。ここには、かつての宮座のあり方に近いものが感じられる。そうなると、神職が常駐するかしないかということにこだわるのも、さして意味がないことのように思えてくる。

 とはいえ、現代の神社界とかつての宮座には決定的な違いがある。宮座の座人は、「座入り」という儀式によって、自分が地域の氏神を支えるメンバーとなったことを強く自覚することができた。そしてこうした参入儀礼や継承される宮座祭祀は、座人や村落の住民の氏神への信仰を堅固にし、氏神を彼らの精神的紐帯となした。

 しかし、現代の神社には、「氏子」としての自覚をもたせる参入儀礼がほぼ姿を消してしまっている。初宮参りや七五三詣でというならわしが、かろうじてその役割の一端を果たしているにすぎない。少子高齢化、地域の過疎化という現代社会固有の問題が、氏子の絶対数そのものの急激な減少をもたらしている、という現実もある。

 この違いが、宮座と現代の神社を安易に比較して、神社の将来を楽観視することを難しくさせている。

 

【参考文献】

肥後和男『宮座の研究』1941

高牧實『宮座と祭』教育社歴史新書、1982

萩原龍夫「近世祭祀団成立序説」、『日本歴史民俗論集6 家と村の儀礼』(吉川弘文館、1993年)所収

新谷尚紀『氏神さまと鎮守さま』講談社選書メチエ、2017

 
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