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第32回 「復活の火」をみる

はじめに


 この1週間は、世界陸上をずっと録画して見ておりました。大会の後半、日本勢は男子4×100mで銅メダル、男子50km競歩では銀、銅メダルと大活躍! 大変感動いたしました。毎度のことですが、勝つと思っていた人が負け、思いがけぬダーク・ホースが金メダルを獲得するなど、ドラマが盛りだくさんです。「おんな城主 直虎」も感動のドラマを展開してほしいものです。

 

 今回のタイトル「復活の火」は、いったい何がもとになったのでしょうか? これはいうまでもなく、1964年に発表された小松左京のSF小説「復活の日」になりましょう。1980年には、草刈正雄主演で映画化もされました。この映画は、昨年亡くなった私の叔母と見に行った記憶があります。壮大なスケールの映画で、ストーリー性も現代のSF映画より優れていると思います。

 

 さて、今回はどうだったのでしょうか!!!

 

徳川家の動向


 井伊家が取り潰しとなり(実は潰れていない)、小野政次(役・高橋一生)が家を乗っ取った前回の続きです。今川氏真(役・尾上松也)はすでに苦境に立たされており、焦りに焦っています。戦いは近づいていました。徳川家康(役・阿部サダヲ)の居城・岡崎城では、武田信玄(役・松平健)からの手紙を受け取り、軍議を開催しています。数日後、武田氏は駿河侵攻を開始するので、そのタイミングに合わせて、家康にも遠江の掛川に侵攻するよう求めたものです。

 

 ところが、ここで困ったことが起こります。というのも、家康は井伊と結んでいたのですが、井伊が取り潰しになったという情報を得ます。おまけに、家臣の酒井忠次は気賀に調略に向かっていましたが、どうも浜名湖沿岸の国衆たちは、今川氏に心を寄せているようです。つまり、素直に攻め込んでいっても、激しい抵抗が予想されました。

 

 その日の夜、家康は妻の瀬名(役・菜々緒)に対して、現在の井伊家の状況を語ります。井伊家は政次によって乗っ取られ、虎松(役・寺田心)も殺害されて首を取られてしまったことなど。瀬名の母・佐名は、政次の父によって今川家に送り込まれました。ゆえに、小野に対する怒りは大変激しいものでした。そして、家康は「井伊谷三人衆」を今川から寝返らせ、政次を討ち取るつもりだと言います。

 

 そこへ、井伊家からの書状が届きます。それは、井伊家が取り潰されたこと、虎松が殺害されたことはすべて見せかけと書かれています(虎松は三河の鳳来寺で修行中)。実は、裏で直虎(役・柴咲コウ)と政次はつながっており、徳川が攻め込んだときに井伊の目付(関口氏経)を捕らえ、差し出す計画だったというのです。

 

 一方の今川方は、すっかりヘロヘロです。重臣の関口氏経らは軍議を催しますが、氏真のイライラは止まりません。氏真は信玄に対抗すべく、北条氏や上杉氏をアテにしているのですが、作戦・計画がなかなか捗らないようです。おまけに、氏経の様子が少しおかしいようですね。氏真は怒ってばかりなのですが、少しは落ち着いてほしいものです。

 

その後の動き

 井伊家の使者の傑山(役・市原隼人)が家康の書状を持って、龍潭寺に帰ってきました。南溪(役・小林薫)は書状を読んで、徳川が井伊への支援を表明しているので安堵します。すると、政次が直虎のもとへやって来ました。そして、氏経が駿府に引き上げたことについて、武田に寝返った可能性があるとの情報をもたらします。今川氏は万事休すです。

 

 直虎は政次に徳川からの書状を渡し、徳川が井伊を攻めてきた時は素直に開城し、臣従を誓えばよいと申します。そうすれば、井伊は徳川家の国衆に加えられるわけです。直虎はすべてのことが終われば、政次に家督を譲ってもよいと考えます。しかし、政次は商人、百姓、盗賊までもが慕っているのだから、そこまでする必要はないと言います。

 

 さて、ここでラブ・ロマンスです。政次は自邸に帰ると、「なつ」(役・山口紗弥加)にこれまでの経緯を話します。すると、「形だけだが、夫婦に」と政次は「なつ」に持ち掛けます。政次の弟の亡きあと、「なつ」は未亡人のまま政次に近侍していました。ゆえに誤解する人が多かったのですね。今風に言うならば「一線は超えていません!」ということになるのでしょうか。これで、「めでたし、めでたし」です。

 

武田軍の猛攻

 永禄11年(1568)12月6日、甲斐を出発した武田軍は、駿河へと侵攻します。氏真は家臣の進言に従って賤機山城で籠城すべく、家臣たちに出撃の準備を命じました。しかし、氏経ら重臣はすでに武田方に寝返っており、本陣には誰もいませんでした。このとき今川を離反した重臣は、21人に上ったといわれています。結局、賤機山城も武田氏に奪われてしまいます。

 

 同じ頃、家康は陣座峠へ向かっており、「井伊谷三人衆」(菅沼定久、近藤重用、鈴木重時)と面会します。3人は徳川に味方することを約しており、また井伊が徳川に与することも知っていました。「井伊谷三人衆」が徳川に味方する領地配分の条件は、極めて良いものでした。しかし、ここで近藤が政次のことで異論を唱えます。

 

 近藤からすれば、政次なる男はまったく信用できず、徳川に寝返ったふりをして、家康の首を掻くようなことがあるかもしれないというわけです。家康は瀬名のことを思い出し、少し考え込んでしまいますが、近藤が先に行って様子を確かめるというので、それに従うことにしました。家康は直虎と政次の関係を少し疑っていたのですね。

 

 政次の存在が一つのポイントなのでしょう。直虎と政次は心と心でつながっているのにもかかわらず、周囲には気付いている者、気付いていない者がそれぞれいるわけです。

 

攻められる政次

 直虎と政次の心が通じていることを知らなかったのは、中野直之(役・矢本悠馬)でした。直之は直虎から、政次を手助けするよう命じられますが、それを拒否します。どうしても政次が信用できないからですが、命令無視とはちょっと考えられないですね。直之という人も氏真と同じく、いつも怒ってばかりなので残念です。

 

 政次のもとには、徳川軍が遠江に侵攻するとの情報が寄せられます。すると、政次は関口氏の配下の者を捕らえ、小野が徳川に城を明け渡すこと、そして井伊家を再興することを高らかに宣言します。政次は井伊と小野は二つで一つだといいます。まるで、子供の頃に見た「超人バロム・ワン」ですね。今川家のもとで生き残るため、井伊と小野は互いが牽制する形でやって来たのですが、今日でそれもおしまいだと言います。

 

 要は、井伊と小野は憎み合うフリをしていたということになりますが、別にそんなややこしいことをしなくてもと思うのは私だけでしょうか??? 今回の一件についても、小野の配下の者はすべて承知をしていたと言っておりましたが、それではまったく意味がないのでは???

 

 直虎と直之は徳川軍の一行を待ち、徳川方の家臣・酒井忠次と挨拶を交わします。直虎は、政次との取次を担当することになりました。もちろん「井伊谷三人衆」も一緒です。ただし、先述のとおり三人衆は政次に疑念を抱いていたので、いささか不審な動きを見せています。

 

 酒井忠次は政次に対して、開門を要請すると、政次は素直に応じます。門から政次が姿を見せますが、何かを企んでいることに気付いた直虎は、政次に門を閉めろと叫びます。すると、何処からともなく大量の矢が放たれました。そして、近藤の「かかれ!」という声が発せられると、軍勢が一斉に門に殺到します! 果たしてどうなってしまうのか!

 

 同じ頃、駿府に侵攻した武田軍は、今川館に火を放ち、氏真は朝比奈氏の居城・掛川城へと逃げ込みます。あとは、次回のお楽しみです。

 

おわりに

 ここまでは、直虎と政次が周囲に気付かれないように、仲が悪いフリをしていたという設定になっていましたが、どうも周囲は気付いていたようです。「敵を欺くにはまず味方から」と申しますが、ちょっと合点がいかないような気も致します。そんなことが本当にあるのかと。

 

 家康や信玄が出てきて、少しは見どころが増えたような気がしますが、もっとダイナミックさが欲しいですね。

 

 今回の視聴率は、12.0%と少し上昇しました。世界陸上も終わったので、ここで一気に盛り返してほしいものですね。

<了>

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第34回 もうひとつの幕末維新史――厚化粧と薄化粧

女性のファッションに注目せよ

 幕臣であれ藩士であれ、江戸時代の武士たちは、意外なほど同時代の女性を見つめ、その身なりやファッションの変化を記録している。単純に性的関心からではなく、そこに社会や世相の変化を見たからである。

 幕府の旗本で、宝永2年(1705)に85歳で大往生を遂げた天野弥五右衛門長重もそのひとりだ。天野は、4代将軍家綱が亡くなった延宝8年(1680)に「大猷公 厳有公両世之改儀 次第不同」と題して、家光(大猷公)・家綱(厳有公)の在職時代(162380)に起きたさまざまな変化や改革を五十箇条にわたって挙げている(『思忠志集』)。

 殉死(追い腹)の禁止、証人(大名等から人質を取る制度)の廃止、新吉原遊廓の創設(「鬼門之方角に傾城町出来候事」)、玉川上水の開削など、歴史上名高い事柄と並べて天野が挙げたのは、「女のかつ着」が見られなくなったことだった。

 「かつ着」(かずき)は「被」または「被衣」と表記される。公家や武家の女性が外出の際に頭から被る薄い単(ひとえ)の衣のことで、小袖を被る場合は「小袖被衣」と称した。いずれにしろ顔を隠すためのもので、古くから行われていたが、3代将軍家光と4代将軍家綱の在職期間に、なぜか見かけられなくなったというのである。

 

女性が気になってしかたなかった上京の旅

 下総国佐倉藩士で、維新後は文部省に出仕し、のちに華族女学校長や貴族院議員を務めた西村茂樹(18281902)は、明治時代の道徳思想家として歴史に名が刻まれている。政府の欧化政策の行き過ぎで国民道徳が劣化するのを憂慮し、日本講道会(のち日本弘道会)の会長となり、宮内省の命で『婦女鑑』を編纂。ほかに『日本道徳論』『国家訓』などの著書がある。

 西村茂樹。どちらかといえば、堅苦しい道徳先生の印象が強い人物だが、晩年に往時の記憶を記録した『記憶録』には、意外な記述も。それは旧幕時代から維新後にかけて、5回にわたって上京、すなわち京都へ出かけたときの記述だ。5回は以下の通り(【 】内は年齢)。

 

天保13年(1842) 【15歳】

安政3年(1856)  【29歳】

安政5年(1858)  【31歳】

明治元年(1868)  【41歳】

明治10年(1877)  【50歳】

 

 天保13年、茂樹は支藩の下野国佐野藩の重臣だった父(西村芳郁)に従って上京した。東海道の旅籠代が士分1泊200文で、木曾街道では164文の所があったとか、宿ごとに駕籠や重荷を担う雲助と称する者がいて、うち勇壮な者は1日中ほとんど裸体で過ごしたとか。途次の見聞を記している。

注目したいのは、「婦人の風俗は、三州の入口までは江戸風にして、吉田辺より京都風となれり」という記述。三河国(現在の愛知県東部)までは女性の風俗(身なり)は江戸風だったが、吉田(現在の愛知県豊橋市のうち)から京都風に変わったというのだ。のちの国民道徳提唱者は、15歳(満年齢なら13歳か14歳)にして女性の身なりの変化に敏感に反応したのである。すこしませていたのか、それとも変化がそれほど顕著だったのか。

 安政3年、2回目の上京のとき、茂樹はすでに家督を継ぎ(1850年)、安井息軒から儒学を学んだほか、蘭書を読み、西洋砲術も学んでいた。嘉永6年(1853)のペリー来航の際には、佐倉藩主堀田正睦に意見書を提出し、老中の阿部正弘にも海防策を献じている。安政3年は、老中職にあった堀田正睦が外国御用取扱を拝命した年で、茂樹はその腹心として外交上の機密書類を取扱っていたという。

 前回とは比べものにならない重要なポストで京都へ向かった茂樹だったが、『記憶録』の記述は簡潔だ。「安政三辰年余年二十九の時、再び京に上りし時は、旅籠の価一泊、弐百五十文、高きものは三百文となれり。婦人の風俗は三州は不残江戸風に化し、尾張に至り初めて京都風となれり。其外大抵以前と替ることなし」とあるだけ。

 旅籠代(宿泊費)の値上がりはともかく、やはり「婦人の風俗」を記憶しているのは、よほど女性の身なりが気になったのだろう。ともあれ、三河国の女性の身なりがすっかり江戸風に染まり(当然吉田宿以西も)、尾張国(愛知県西部)に入ってようやく京都風が見られたというのは、風俗生活史上貴重な証言だ。女性の身なりについて、江戸風が西へ広がり、京都風が衰退傾向にあった様子がうかがえるからである。

 

薄化粧と厚化粧

 京都風ファッションを侵食して西へ広がる江戸風ファッション。安政5年、3回目に上京したとき、この傾向はさらに進んでいた。「婦人の風は伊勢に入りても、罕(まれ)には江戸風を見る」。尾張国どころか、さらに京都に近づいた伊勢国(現在の三重県の大半)でも、まれにではあるが江戸風の身なりをした女性を発見したという。

 明治元年夏、4回目の上京の際には、女性の身なりについての記述(記憶)はない。このときはまだ戦争状態だったのに加え、大雨でそれどころではなかったらしい。しかし明治10年、文部省大書記官として学事巡視のため5回目の上京をしたときは……。

新橋から神奈川までは汽車の便がある。道中はどこでも人力車を利用できる。箱根以下関所は全廃された、等々。これまでより格段に便利になった東海道の旅について記したあとで、こんな記述が。「婦人の風俗は、京都の市中にも亦(また)江戸の風を模する者あり」。江戸風による京都風の侵食は、ついに本丸の京都にまで達し、京都市中でも江戸の女性と変わらぬ身なりの女性が見かけられたというのだ。

ところで「婦人の風俗」の江戸風、京都風というのは、具体的にどのようなことを指すのだろうか。江戸風と京都風とでは、なにがどう違っていたのか。

 髪形、着付け、装身具、着物の丈や柄などいろいろ考えられるが、私は、最も目立った違いは化粧、すなわち白粉(おしろい)の濃淡だったと推測している。

文政7年(1824)に大坂の中川芳山堂が出版した『江戸買物独案内』は、江戸のグルメガイドを兼ねたショッピングハンドブックだ。そこに戯作者として知られる式亭三馬が経営していた売薬店で販売されていた化粧水の広告文が載っている。

ひとつは「江戸の水」。ニキビほか顔の出来物に効くだけでなく、肌を白くきめ細かにするという。もうひとつが「薄化粧」。「あつ化粧をきらひ給ふ御方 或は四十才以上の御女中様方けばけばしくけしやうおきらひなされ候に妙なり」と商品説明が添えられている。厚化粧が嫌いな女性、または40歳を過ぎて厚化粧が鬱陶しくなった御殿女中にオススメという意味だろう。

大奥や大名の奥向に仕える女性たち(「御女中」)は概して白粉べったりの厚化粧だったが、さすがに40以上になると、どぎつい化粧は似合わない。そんな方のための特製の化粧水だというのである。

 「薄化粧」は化粧水の商品名にとどまらず、当時の江戸の女性の流行でもあった。江戸後期から幕末にかけて、深川や新橋の芸者の間では、鼠色の一見地味な身なりと薄化粧が粋(いき)とされ、その美意識が一般の女性たちにも浸透していた。一方、京都では……。

 幕末から明治初年にかけて、初めて京都を訪れた2人の幕臣が、口裏を合わせたように京都の女性の白粉の濃さに注目している。

 ひとりは将軍家茂に従って上京した某(姓名・役職とも不明)。慶応3年(1867)に江戸の家族にあてた手紙の中で、某は京都の女は「おしろいは尤(もっとも)白く、唯何となくじゝむさき処有之」と記している。白粉をとても厚く塗るので、あか抜けないと訳しておこう。

 もうひとりは超が付く著名人である。幕府の奥儒者で外国奉行の要職にも就いた成島柳北(なるしま・りゅうほく)は、明治になって「朝野新聞」等を舞台にジャーナリストとして活躍した。彼は、明治7年(1874)に著した『京都花街見聞記』で、京都の芸妓を「華粧濃抹」(かそうのうまつ)と評している。白粉過多の厚化粧というのだ。柳橋の芸者ほか江戸色街の女性に慣れ親しんできた柳北にとって、祇園の芸妓は好みに合わなかったようだ。

 

幕末維新史のマンネリを打破せよ

 薄化粧と厚化粧。私の推測通り江戸風と京都風の最大の違いが化粧(白粉)の濃淡だったとすれば、幕末から明治にかけて、江戸風の薄化粧が京都風の厚化粧圏を侵食し、薄化粧圏が拡大したことになる。

いや、たとえ西村茂樹が記憶していた「婦人の風俗」が化粧の厚薄でなかったとしても、江戸風が京都風を追いやった事実に変わりはない。言いかえれば、幕末維新の過程で、江戸は政治・軍事的には敗北したが、女性のファッションの面で京都に対して勝利を収めたのである。

リョウマ、シンセングミ、ショウイン、キヘイタイ、サイゴウ等々が脚光を浴び続ける幕末維新史。「またかよ」というマンネリを打破するためには、今回のような斬新な(?)視点が必要かも。それにしても「もうひとつの幕末維新史」というタイトルは大袈裟すぎたと反省している。

<了>

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第31回 「虎松の首」をみる

はじめに


 暑い日が続きますね。かんかん照りではないのですが、曇りがちな天気が湿気を呼び(台風5号の影響)、一日中蒸し蒸しします。こういうときはアルコールを控え、逆に熱いふろに入って、しっかり睡眠をとることが重要です。エアコンはタイマーを用いず、朝までつけるのが良いとのこと。エアコンが途中で切れると、夜中に目が覚めるので、かえって逆効果です。先日から世界陸上がはじまったのですが、私はライブで見るのは諦め、録画をして見ています。

 

 今回のタイトル「虎松の首」は、いったい何がもとになったのでしょうか? 映画関係では、任侠映画に「総長の首」(主演:菅原文太、1979年)が確認できますが、あまりにマイナーなような気がします。また、小説関係では「~の首」というタイトルが散見しますが、こちらもピンとくるものがございません。まあ、「~の首」というのは、比較的ありきたりなのでしょうかね? よくわかりません。

 

 さて、今回のドラマはおもしろかったのでしょうか!!!

 

直虎危機一髪!


 前回の続きで、瀬戸・祝田の百姓たちは関口氏経(役・矢島健一)の宿所の前で、徳政令を望まないことを連呼します。氏経の配下の者は、百姓を激しく殴りつけますが、決して逃げようとはしません。そこへ、直虎(役・柴咲コウ)の首もとに刀を当てた政次(役・高橋一生)が登場します。政次は百姓の抗議行動について、直虎が指示したのかと詰問します。

 

 すると、直虎を慕う百姓たちは、直虎の指示ではなく、自分たちが勝手にやったと主張しました。政次と百姓は一触即発となりますが、直虎は止めに入ります。政次は直虎に畳みかけるように、井伊氏が徳政令を発布すると申せ、と迫ります。直虎は政次を信じていたので(「おとわ、俺を信じろ!」=小野政次の言葉)、徳政令を受け入れます。政次はすぐに氏経への面会を求めました。

 

 直虎は百姓たちの苦労をねぎらいますが、そうは暢気にしていられません。政次は突然の百姓の抗議行動に対して、とっさに判断して徳政令を受け入れさせたのでしょうか? しかし、徳政令を受け入れると、井伊家が潰れるのは前回申しあげたとおりです。

 

 政次は直虎を半ば連行するかのように、氏経の面前へと連れていきます。すでに徳政令を発布する文書は作成されており、氏経の署名と花押が据えられていました。氏経の側の者が徳政令の文書を読み上げると、直虎に同意を求めました。直虎は求められるままに署名と花押を据え、これで終わりです。井伊谷に徳政令が発布されることになりました。

 

 それにしても、このシーンは金に困った人がヤミ金を訪れ、悪い人に促され借金するような感じでしたね。まあ、徳政令は金絡みですから、これでよかったのでしょうか?

 

 恐らくこの文書が、永禄11年(1568)11月9日付の井伊直虎・関口氏経連署状のことでしょう(「蜂前神社文書」)。たしかに井伊谷の徳政令が延期されていたのは事実で、氏経が関係したことも史料で裏付けられます。ただし、百姓たちの抗議行動があったとか、政次が直虎を説得したのかは不明です。

 

隠れ里へ

 直虎が徳政令の発布に同意したので、ドラマの筋書きでは井伊家はオシマイです。直虎は井伊家に戻ると、家の者はいささか動揺しています。そこへ政次がやって来て、即刻の立ち退きを命じました。直虎はトラブルを避けるべく、早々に屋敷をあとにし、取り急ぎ虎松(役・寺田心)らを龍潭寺から連れ出し、一行は隠れ里を目指すのでした。

 

 直虎の一行がたどり着いたのは、これまでの井伊家が危機に陥ると逃げ込んだ隠れ里です。ここに来て直虎は、虎松にことの次第を打ち明け、井伊家が潰れたことを伝えます。その後、直虎は井伊家を復活させると高らかに宣言し、井伊谷に徳川家が攻め込んでくると言いました。すでに井伊家は徳川家と通じており、徳川家が井伊谷に攻め込んだ際は、氏経の首を獲って徳川家に差し出すという魂胆です。これがうまくいけば、たしかに井伊家は復活します。

 

 問題は政次です。この点について直虎は、政次は井伊家のために今川家の盾となっており、決して敵ではないと言います。すると、家臣たちも口々にそうであるというではないですか! ただ、政次と仲が良くない直之(役・矢本悠馬)だけは、騙されているのではないかと主張します。まあ、これで話のバランスを取っているのでしょうが、事前に何の打ち合わせもなく、政次の言葉を信じることは、普通はあり得ないところでしょう。

 

 氏経は今川氏真(役・尾上松也)のもとに帰り、政次が援軍になることを伝えました。しかし、窮地に陥っていた氏真は、お笑い芸人の「いとうあさこ」のようにイライラしており、虎松の首を差し出せと命じました。もはや、井伊家の完全な断絶しか、頭にないようですね。

 

 しかしながら、よく考えてみると、今川家はいささか段取りが悪いようです。もし私だったら、直虎が徳政令の文書にサインした瞬間に、直虎を手下に殺害させます。当主を失った井伊家は動揺しますから、追い打ちをかけるように、井伊家の重臣らを死に至らしめるでしょう。そして、虎松を探し出して、ちょっと言いにくいですが「ジ・エンド」です。

 

 今川氏はあまりに段取りが悪いので滅亡したのかもしれませんが、ここまでの流れを見ると、取っている手法が杜撰です。井伊家を滅亡に追い込みたいのでしょうが、追い込まない。どうしたらいいのですかね???

 

どうなる虎松?

 直虎は虎松が狙われていることを先刻承知で、早々に逃がすように手配をしています。しかし、逃げるよう虎松を促すと、自分も戦うと渋ります。常識的に考えると、あんな小さな子供が戦いますというわけがないのですが、そういう設定になっています。今でもアフリカではたびたび内戦が起こっており、子供たちは自らの意志でなく、従軍を強要されていると聞きますが。

 

 すると、虎松の近くに矢が刺さります。それは、僧侶の傑山(役・市原隼人)が放ったものでした。ちなみに傑山は生年不詳。南溪の弟子として、龍潭寺に入寺しました。弓矢の名人として知られ、南溪の没後は龍潭寺の住持を継いでいます。

 

 傑山は虎松の額に矢を当てながら、戦争はこういうものだと説きました。虎松はビビッて、小便を漏らしていますが、それは当然のことでしょう(ウ〇コを漏らさないだけ偉い)。直虎は虎松の父・直親が信濃に逃亡し、成長して帰還したときに井伊家に光がさしたと説明し、逃亡することを促します。結局、虎松は了承し、奥山六左衛門(役・田中美央)が供として同行することになりました。

 

 直虎が龍潭寺に戻ると、すっかり騒々しくなっていました。政次の配下の者が虎松を引き渡せと怒鳴り、直虎も連行されてしまいます。その後、直虎は井伊屋敷の庭に来るように言われますが、なんとそれは虎松の首改めのためでした。当時は写真や医学的な手段(DNA鑑定とか)による確認ができなかったので、身近な者が首実検を行いました。

 

 ちなみに、当時の人々は首に敬意を表し、討ち取った首をきれいに洗い、化粧を施し髪を整えるのが普通でした。この首の扱いも、そうした作法に倣ったのでしょうか。

 

 首を改めると、厚化粧を施しており判別できません。政次が言うには、虎松が疱瘡(天然痘。顔に跡が残る)を患っていたので(ウソ)、厚化粧を施したと弁明しました。関口家の者たちは疱瘡を恐れ動揺しますが、直虎は首を抱えてお経を読みました。直虎も違うとわかっていたはずです。ちなみに偽物の虎松の首は、政次が病弱な子供をカネと引き換えに殺害し、準備したものでした。

 

 こうして虎松は捕らえられて殺害されたことになり、難を逃れたのでした。そして、直虎は虎松と別人の首を丁重に弔ったのでした。

 

おわりに

 相変わらず見応えがありません。信長、家康、信玄は、いったいどうなってしまったのでしょうか? ローカルな話題ばかりでは、まったく場が持ちません。もっと壮大なスケールの物語を見たいものです。チマチマしすぎています。

 

 今回の視聴率は、10.6%と最低記録を更新しました。裏番組がTBSの世界陸上だったからでしょうか? もしそうならば、来週も危険ではないでしょうか・・・。

<了>


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