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第42回 両雄激突

ドラマ化が難しい西郷

 今回は、西郷の長男菊次郎が従兄の市来宗介とともにアメリカ留学に旅立つ明治5年(1872)2月あたりから始まり、欧米を巡回した大久保利通、岩倉具視の帰国を経、西郷の朝鮮派遣をめぐり閣議が紛糾する同6年10月あたりまでが描かれる。


 西郷の生涯を、ドラマ化するのは難しい。戦前は西南の役という「叛乱」を美化しかねないとして、政府からの圧力により、西郷を主人公にした映画がお蔵入りになりかけたことがあった(拙著『幕末時代劇、「主役」たちの真実』講談社+α新書)。そして現代ならば何よりも、「征韓論」の問題である。


 昭和38年(1963)にスタートしたNHK大河ドラマも、人気、知名度が高い西郷を主人公にはなかなか据えなかった。僕が学生のころ、征韓論問題に係わる西郷と南北朝問題に係わる太平記は絶対大河ドラマ化するのは無理だとある人から聞いて、成程と思ったことがある。

 それだけに平成2年、西郷を主人公に据えた「翔ぶが如く」が大河になった時は、驚いた。しかも翌3年は「太平記」だったから、もっと驚いた。平成の初めは、まだ、そのようなタブーに挑戦しようとの意気込みがあったのだろう。


 そう言えば当時、「翔ぶが如く」の「征韓論」をめぐり閣議が白熱するシーンのスタジオ撮影を、見学させてもらったことがあった。俳優たちが口角泡を飛ばして、熱演していた。後日の放送を観ても、その緊張感がひしひしと伝わって来て感心した。もっとも、どのような解釈で「征韓論」を描いていたのか、いま思い出せない。しかし、なかなか切り込んで描いていたような気がする。

 

〝事なかれ主義〟のドラマ


 さて、それから28年後の「西郷どん」はこの「征韓論」をどう描くのか(もっとも「征韓論」の名称は出て来ない)。注目していた方も多いだろう。


 ドラマでは朝鮮国が日本の西洋化などを嫌い、新しい政権とは国交を結ぼうとしないことに、政府の首脳たちが苛立っている。武力で解決するとの強行論も出て来る。このままでは日本人居留民2000人の命が危ないとなった時、西郷が朝鮮へ使節を派遣すべきだと言い出す。それは危険だと、太政大臣の三條実美などが後込みする中、自分が使節となって朝鮮へ赴くと、西郷は言う。


 しかし、ここに汚職などにより政権の座から追われてしまった長州人たちの陰謀が張り巡らされる。木戸孝允・井上馨・山県有朋・伊藤博文は右大臣の岩倉を、自分たちの陣営に引き入れることに成功。さらに岩倉は天皇の許可を得、大久保利通を参議として閣議に参加させ、西郷の朝鮮派遣を阻止しようとする。


 長州人を絡ませてしまったから、ちょっと話がややこしくなってしまった感じだ。ドラマとしてどのように収拾するのか、次回以降に注目しておこう。

 じっさい、西郷は戦争勃発を期待していたのか、平和的解決を考えていたのか、あるいは士族の不満のはけ口を作ろうとしたのかなど、この「征韓論争」には、さまざまな説や解釈があるのは、周知のとおり。場合によっては西郷は、侵略戦争の先きがけと評されてしまう。


 それだけデリケートな問題なのだが、ドラマはひたすら無難に描こうとしている姿勢が、ひしひしと伝わって来る。朝鮮の言い分にも、西郷の真意にも深入りしない。「なんか誤解が生じたみたいだから、ちょっくら話し合って来ますわ」といった感じである。作り手側の事なかれ主義は、やはり「世相を映し出す大河」と言うべきだろう。

<了>


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第41回 新しき国へ

西郷の苦悩


 今回は廃藩置県後、岩倉遣欧使節団が出発する明治4年(1871)11月あたりから、西郷が明治天皇の行幸に従い鹿児島へ帰省する翌5年6月までが描かれる。

 このままだと、急がなければ西南の役までたどり着けないからだろうか。なにやら目まぐるしく、ひたすら年表を説明するように、どんどん話が進んでゆく。


 一番の問題は、西郷が明治という新時代の何に戸惑い、苦悩しているのかが、よく分からないことだ。近代化に戸惑い、西洋化を憎み、腐敗を憎むといったこのあたりの西郷の思いは、たとえば『南洲翁遺訓』などを読むと伝わって来るものがあるのだが、そのあたりをじっくり描く暇が無いのだろう。


 明治維新を描くならば、ここが作り手にとって最大の腕の見せ所かも知れない。西郷は討幕戦争までは、旧政権を破壊するヒーローだった。しかし以後は、よく言えば、明治維新によって日本から失われてゆく様々な価値観の代弁者のような存在になってゆく。


 西郷役の俳優は相変わらず熱演で、いつも苦しそうな顔をして、時に寂しげにつくり笑いをする。だが、それ以前の台本が西郷の苦悩を理解していないから(あるいは描き込めていないから)、当然観る側にはその痛みがいまひとつ伝わって来ないのが残念だ。

 

テロと権力者


 史実では明治4年に上京した西郷は、東京日本橋人形町あたりに2633坪を占める、広大な屋敷に住んでいた。もとの、姫路藩邸である。そこには書生15人、下男7人が住んでいたという。猟犬も何頭か飼っていた。もっとも、あまりにも広大な屋敷なので、持て余した西郷は屋敷内の長屋で起居していたそうである。


 前回も書いたが、ドラマでは政府参議である西郷は、東京の貧乏長屋に住んでおり、そこで庶民の新政府に対する怨嗟の声を聞く。現代で言うなら、総理大臣がSPも付けず、四畳半一間の風呂・トイレ無しのアパートに住んで、隣人から政府批判を聞くような話だ。

 あるいは西郷の潔さ、決意を示すために、このような目茶苦茶な設定にしたとすれば、面白い。


 現代でも権力者が、これだけ潔ければ無差別テロも減るはずである。たしかに武士の時代の権力者は、権力を持てば持つほど警護をわざと手薄にするという美学の持ち主が多かった。権力者が警護を厚くするのは、みっともないこととされた(その感覚は、現代でも時代劇などに残っている)。


 たとえば万延元年(1860)3月3日、桜田門外で大老井伊直弼が呆気なく暗殺されたのも、警護の人数が少なかったからである。権力者は、それだけ堂々としていたし、いつでも生命を投げ出す覚悟だった。明治はじめ、大村益次郎、広沢真臣、大久保利通といった政府高官が次々と暗殺されたが、その原因は警護の手薄さにあった。


 そうした政治家とテロリストとの間に生まれる緊張感が、明治維新の原動力のひとつだったと、僕は思っている(そのうちテロにつき、一冊書く予定です)。


 しかし、特に戦後、政治家からそうした決意が消えてゆく。

 総理大臣の岸信介が昭和35年(1960)7月14日、東京の首相官邸で右翼の壮士に刃物で刺され、大騒ぎして護衛の者に担がれて逃げる姿など、僕には権力者の醜態に見えて仕方ない(あるいは失禁していたとも。その時の写真は、ネットで見れます。その方のお孫さんが、やたらとテロを恐れるのも理解出来る気がします)。


 テロを賛美するわけでは決してない(これは重々言っておく)。権力者一人をターゲットにしたテロと、無差別テロとは違う。しかし、やたらとテロ(言論も含む場合もあり)を恐れる現代の政治家が「テロに屈するな」「テロ撲滅」を声高に唱え、「テロリスト」を極悪非道扱いして、ひたすら警護を厳重にしている姿は、ちょっと首をかしげざるを得ない。


 無差別テロが起こる背景のひとつは、そこにあるわけで、史実の井伊や大久保、そしてドラマの西郷などを見習って、権力者が丸裸になれば、罪もない一般市民が巻き込まれることも少なくなると思うのだが……。


 繰り返し言うが、僕はテロを賛美するわけでも、推奨するわけでもない。

 ドラマの西郷のあまりにも無防備な姿に、そのような現代の権力者(しかも明治維新をやたら賛美する)への痛烈な皮肉が込められているとすれば、面白いと思った次第である。

<了>

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第40回 波乱の新政府

大久保利通が主役

 今回は明治4年(1871)1月の西郷の上京あたりから、同年7月の廃藩置県実施までが描かれる。

 ドラマでは、財政上の理由から廃藩置県の早急な実現を唱えるのは、西郷の盟友である大久保利通である。史実でも、明治3年9月から大納言岩倉具視や右大臣三條実美に廃藩を説き、さらに鹿児島から西郷を引っ張り出すなど、下準備を進めた。


 ドラマの大久保は時期尚早と廃藩に反対する長州の木戸孝允を、土佐・肥前(佐賀)勢力への対抗意識を煽って味方に引き入れ、西郷に親兵をつくらせて反乱に備える。そして、薩摩が陣頭に立ち、日本を一等国にするため、西洋を真似るのだと西郷に宣言した。


 一連の経緯は、史実とは異なる部分も多い。西郷は4月の段階で、廃藩の意志は無いと島津久光に伝えている。ドラマでは勢いが良い佐賀藩出身者(江藤新平ら)だが、史実ではこの時期、まだ薩長土の三藩出身者よりも遅れている。東京に集められた親兵も、薩長土からだった。

 あるいは史実では政府の首班も、薩長土の中から一人選ぶのだと、西郷は桂久武あての書簡で述べている。結局、明治4年6月、西郷・木戸がツートップの「参議」となり、他の参議は「卿」に格下げとなる。ちなみに参議だった大久保は、大蔵卿となった。


 貧乏長屋に住み、閣議に持参した握り飯を頬ばるドラマの西郷の暮らしも、質実剛健といった「分かりやすさ」を重視した結果だろうが、あまりにもデフォルメが過ぎて、学習漫画のようでちょっと苦笑させられる。

 

山県有朋の活躍


 ドラマには登場しなかったが、廃藩置県のキーマンのひとりに、長州出身の兵部少輔山県有朋がいる。以下、山県側の伝記などから見てゆこう。


 明治4年6月30日、鳥尾小弥太や野村靖ら長州出身の官僚が山県を訪ね、廃藩を説く。これで意を決めた山県は、7月6日、西郷を訪ねて、廃藩実行を説く。

 同日、鳥尾は長州出身の民部少輔井上馨を説き、井上は木戸と話し合う。早くから廃藩を考えていた木戸は、もちろん賛成。

 山県に説得された西郷は、大久保を訪ねて廃藩の決意を述べる。


 7月8日、西郷・木戸の参議ツートップが会談して、廃藩の決意を合意し、その後調整や手続きを経て14日には早くも詔が出る。

 廃藩には異を唱えると見られていた西郷が説得に応じたのは、山県をそれだけ高く評価していたからだ。大体、西郷は長州人とはウマが合わなかったにも、かかわらずである。


 慶応3年(1867)後半、情勢探索のため京都の薩摩藩邸に潜伏していた山県は、西郷らと話し合い、挙兵討幕を約束したことがあった。薩摩藩でも、久光などが挙兵討幕に反対だった頃だ。

 だから当初、長州藩も動こうとしなかった。それでも山県は命がけで、西郷との約束を守ろうとする。部下の奇兵隊を率いて脱藩し、西郷の挙兵計画に合流するつもりだった。


 結局薩摩藩も長州藩も、挙兵討幕の方向に進むのだが、以後、約束を死守しようとした山県に対する西郷の信頼は厚くなる。現代ではクリーンな西郷とブラックな山県という、両極端のイメージが出来ているようだ。しかし、その信頼関係が、廃藩置県を急ピッチで進めさせたというのが面白い。


 ずっと以前、山県家の史料を拝見させて頂いた時のこと。山県あての西郷・高杉晋作書簡を各2、3通ずつを収め、一巻の巻子としたものがあったと記憶する。同じ長州の高杉と山県の関係の深さは、あらためて述べるまでもない。これらの手紙を一巻にまとめたところに、山県の二人に対する特別な思いを見た気がした。

<了>

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