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第4回 「挑戦」をみる

はじめに

 
 1月30日(土)に蕨市中央公民館で「戦国を学ぶ「信州の知恵者真田二代と大坂の陣」~NHK大河ドラマの主役に迫る~」と題して講演をしました。約50名の方が参加され、熱心にご聴講いただきました。中学生の方も参加していましたので、拙著を謹呈しました。

 

 さて、ある筋からの情報によると、「今までの『平清盛』『軍師官兵衛』は辛口だったけど、今回は甘口じゃない?」とのお話しが。今回見る限りでは、「ちょっと辛口にならざるを得ないな」という感想を持っております。その点に触れておきましょう。

 

 さあ、第4回「挑戦」はどうだったのでしょうか!

 

武藤喜兵衛のこと


 冒頭から何か変です。織田の本陣で室賀正武が真田昌幸(役・草刈正雄)と鉢合わせになりますが、何やら自分が信長にチクったようなセリフを言います。普通は隠しておきたいことですがね。そんなに軽口を叩いてもいいのですか、と感じてしまいます。

 

 今回は、昌幸が過去に「武藤喜兵衛」と名乗っていたことが明かされます。天文22年(1553)8月、昌幸は武田氏に出仕しました。7歳のときです。その後、昌幸は武田信玄の命によって、甲斐の名族・武藤家の養子になり、「武藤喜兵衛尉」と名乗りました。これが、昌幸が武田氏に重用されるきっかけで、奉行人として名を連ねることになります。

 

 元亀3年(1572)10月、信玄は西上作戦を展開し、その中に昌幸も加わっています。昌幸は三方ヶ原の戦いで徳川家康(役・内野聖陽)と対戦し、見事に勝利を収めています。このとき家康は、あまりの恐怖に脱糞したと伝わっています。のちの戒めとして、自身の姿を絵に書かせています。これが俗に「しかみ像」(徳川美術館所蔵)と称されるものです。

 

 天正3年(1575)5月、長篠合戦において、真田家は長男・信綱、次男・昌輝を戦いで失います。二人の戦死により、三男・昌幸が真田家の家督を継承しました。繰り上げですね。名乗りを「真田昌幸」と変えたのは、その後のことです。

 

 ところで、ドラマでは三方ヶ原の戦いのことが盛んに取り上げられ、昌幸の軍功が話題になります。それは構わないのですが、家康から昌幸に、以前、昌幸が「武藤喜兵衛」と名乗っていたかを問い質すと、「さあ、知りません?」としらを切ります。そんな子供みたいな嘘が通用するのですかねえ???

 

 このとき信繁(役・堺雅人)が昌幸に同行し、家康とたまたま会話をしますが、仮に家康とすぐにはわからないにしても、身なりや服装を見れば、それなりの地位にあるとわかるはずです。掛け合い漫才みたいになっているのが、非常に気になります(毎度のことですが)。それから本多忠勝(役・藤岡弘、)は、妙な気合が入り過ぎです。

 

許された昌幸


 途中で穴山梅雪(役・榎木孝明)が登場し、裏切りの件があったので、自らの身上を心配します。そうした最中、昌幸は織田信忠との面会に臨みます。

 

 信忠は2通の書状を示します。1通は織田信長(役・吉田鋼太郎)宛に味方になることを誓ったもの、もう1通は上杉景勝(役・遠藤憲一)宛に同趣旨のことを誓っています。ここで信忠は、織田と上杉に二股をかけていることから、昌幸が不忠であると激怒します。昌幸は「書状をよく読んでほしい。上杉には態度を決めかねていると申しました」と述べます。それを受けて家康が手紙を確認すると、たしかにその通りだという。

 

 人の手紙くらいちゃんと読んでください。そんなに難しいことが書いてありますか? と思いました。いくら昌幸の身分が低いとはいえ、そりゃないでしょう。結果、昌幸は許されますが、小さなガッツポーズは不要です。ガッツポーズはガッツ石松が考えた(というか、とっさに出たポーズ)もので、当時はありませんでした。

 

 ちなみに『信長公記』には、投降した諸将の様子が描かれていますが、昌幸の姿を確認することができません。許された昌幸は、信長に馬を贈ります。『信長公記』を読むと、各地の武将が馬を献上した記事が散見されます。昌幸が信長に馬を贈ったのは事実です(『長国寺殿御事績稿』)。

 

 ところで、信長は黒いマントを羽織って、革靴を履いていましたね。しかも土足です。あれは本当なのか、非常に気になります。信長が出て来ると、必ず西洋風のいでたちで、ワインを片手に地球儀を回していますね。演じている吉田鋼太郎は、テレビ東京のドラマ『東京センチメンタル』のほうがいいですよ。

 

 ドラマの最後のほうで、明智光秀が織田信長にボコボコにしばかれていました。この辺りは、多くの編纂物に2人の悪かった関係が書かれています。今回は、家康の饗応役を担当したものの、肴が腐っているということで、どつかれたわけではないようです。フロイス『日本史』によると、光秀は信長に対して口答えをし、それが原因でボコられたと書いています。あの描き方では唐突なので、原因がよくわかりませんでした。

 

 『信長公記』によると、武田氏遺領の知行割が行われ、滝川一益が上野国、信濃国の小県・佐久の2郡を支配することになります。昌幸は一益の配下になったのですが、旧領のどの部分が安堵されたのかはわかっていません。

 

気になるもろもろのこと


 言ったほうがいいのか、言わないほうがよいのか悩みますが、人から注意されなくなると、その人の人生は終わりだといいます。「勝手にやってください」と人から思われるとおしまいで、見込みがあるから注意するということです。ということで、いささか愛のムチを。

 

 私は不要と思うのですが、小山田信誠とまつ(役・木村佳乃)のラブラブ・シーンが相変わらず出てきます。二人は密会しますが、これがコント仕立て。「危険を承知で」という緊張感がゼロです。幼稚なことこの上ない。結局、最後はきり(役・長澤まさみ)の機転により窮地を逃れますが、きりの「かかとがかさかさで潤いが欲しいわ」という現代的なセリフには驚倒しました。そんなセリフは不要です。

 

 奇しくも信幸(役・大泉洋)が「猿芝居はよせ」と言っていますが、まさしくそのとおりです。

 

 安土の城下町が描かれており、庶民が立ち飲み屋みたいなところで、ワインを飲んでおりました。ちょっとやり過ぎかなと思いました。

 

 また、まつを信長への人質として差し出そうと検討する場面は、はっきり言ってコントです。まったく締まりがありません・・・。ただ、まつが人質として安土城に送られたのは事実です。

 

おわりに


 やや辛口になってしまいましたが、ギャグ漫画的な要素が徐々に濃くなってきており、いささか見応えがないというのが正直な感想です。今回は生きるか死ぬかという場面ですから、もっと緊迫感、緊張感が欲しいものです。

 

 ところで、今回の視聴率は17.8%と前回からさらに下がりました。そろそろ見応えのある歴史ドラマにするのか、単なる歴史コントにするのか、決めなくてはいけません。歴史コントにするなら、今のような中途半端なものではないほうがよいでしょう。「ギャラクシー銀河」を超えるものを作ってほしいものです。次回は、再度の20%台を期待しましょう! 夢よもう一度!

 

 今日はこのへんにしておきましょう。では、来週をお楽しみに! 「ガンバレ! 真田丸」

<了>
 

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第10回 ヤマトタケルの実像

まったく違う記紀の扱い
 

 前回は『古事記』と『日本書紀』の性格の違いについて、出雲神話の扱い方を通して考えるところを述べた。そこでは、この二つの書物の性格の差は、その成立した時代の違いに帰すことができるのではないかという見通しを述べたが、『古事記』と『日本書紀』で描き方が異なっているのは、出雲についての記述だけではない。その代表的な事例がヤマトタケルの物語である。

 ヤマトタケル、『古事記』では倭建命、『日本書紀』では日本武尊と書き表されるこの人物は、景行(けいこう)天皇の皇子、小碓(おうす)皇子のことである。その母は、『日本書紀』では播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)、『古事記』では針間之伊那毘能大郎女(はりまのいなびのおおいらつめ)とあって、若建吉備津日子(わかたけきびつひこ)の娘だとする。この女性と景行天皇については、印南別嬢(いなみのわきいらつめ)のこととして『播磨国風土記』に妻問いの伝説が記されている。そこではその母は吉備比売で、父は丸部(わにべ)臣の始祖の比古汝茅(ひこなむち)というが、彼は景行の次代、成務(せいむ)天皇の時代の人とされていて、年代に矛盾がある。ヤマトタケルの母は播磨出身の女性なのは確かだが、その出自についてははっきりしないというのが無難なところであろう。

 同母の兄に大碓(おおうす)皇子がいて、『日本書紀』ではこの兄弟は双子だというが、これも確かなことはわからない。『古事記』では、この兄をねぎ殺す、つまりひねり殺すほどの荒々しさゆえに父親にうとまれ、東西に転戦して帰郷の途上で亡くなる悲劇の英雄であり、『日本書紀』では天皇の命令を奉じて雄々しく戦う武人として描かれているが、いずれも後世になって描かれた性格であって、歴史学的にはいずれとも決められない。

この違いも、おそらくは天武朝に編纂された『古事記』と奈良時代の書物である『日本書紀』の違いを反映しているのであろう。それがいったいいかなる意味をもつのか、まだ私には十分には答えが見いだせない。『日本書紀』の描くタケルが、天皇を頂点とする古代律令国家にとって理想的な人間像であることはわかるが、『古事記』のような、時に天皇を恨むような悲劇的人物がなぜ描かれたのかはむつかしい問題である。

 ちなみに、私は彼が架空の人物ではないと思っている。結局、彼もしばしば歴史上にみえる王族将軍の一例としてなんの不都合もない。ただし、彼の場合、大きな戦果を挙げながら都に帰ることなく亡くなったことで、他の王族将軍とはちがって様々な有名な伝説がうまれたのである。その点は源義経などと同様といえるであろう。

したがって、伝説上の描写から実態を探り出すのは容易ではない。そこでのちに『古事記』や『日本書紀』という書物にどのように描かれたかを物語として考察するのもひとつの方法かもしれないが、そうするともはや歴史学として敗北宣言を出したも同然だと私には思えるから、恣意的にならない範囲で歴史上の人物としてのヤマトタケルを考えてみたい。

その場合、あまり細部にこだわるとかえって実態を見失うという考えから出発したいと思う。したがって、そのロマン的要素にはあまり触れることはできないのであって、その点では無味乾燥なものとなるのはやむを得ないのである。

 

実像と虚像を整理する
 

 ヤマトタケルの活躍したのは景行天皇の時代である。彼は父の景行に先立って亡くなったから、その年代は景行天皇の時代にかさなることとなる。実年代はもとよりはっきりしないが、景行天皇の末年には王宮は纏向(まきむく)から近江の高穴穂宮(たかあなほのみや)に遷っているので、纏向遺跡が消滅するという4世紀の中頃を景行天皇の末年とすれば、ヤマトタケルが活躍したのは4世紀前半ころとみるのがあたらずといえども遠からずといったところだと思う。

 この時代はヤマト政権にとって、いわば躍進期といえる時期であった。ここまでこの連載で述べてきたように、元来奈良盆地の南東部の局地的勢力であったヤマト政権は、周囲の勢力との婚姻などを通じて支配地域を拡大し、崇神(すじん)天皇の時代にはいわゆる四道将軍の派遣による周囲の征服や出雲の服属、ついで次の垂仁(すいにん)天皇の時代には但馬の勢力も服属させたが、さらにヤマト政権がその支配地を拡大したのは景行天皇時代であった。

そしてそのヤマト政権の躍進に抜群の貢献をしながら、ついに悲劇的な最期を遂げたのが小碓皇子だったのである。そこから彼は伝説の英雄、ヤマトタケルとなった。本稿はその観点から歴史上の彼を考えようとするのである。

先に述べたように、ヤマトタケルこと小碓皇子は、崇神朝の四道将軍などと同様の王族将軍であって、ことさら実在を疑う必然性はないと思うが、ただ、その事績については考えるべき点がある。

 まず『古事記』にみえるその活動は、大きく分けて、九州の熊襲(くまそ)征討、その帰路の出雲征討、そして東国遠征の三つだが、このうち熊襲と出雲については、実際のことかどうか問題がある。

 まず出雲の平定は、すでに前回、前々回で触れたこともあるように、『日本書紀』では崇神朝のことだし、『古事記』でも垂仁天皇の皇子ホムツワケ皇子が出雲大神を参拝したという物語があって、出雲地域が景行天皇の時代よりはやくヤマト政権の支配下にあったことは動かない。事実、『日本書紀』にはヤマトタケルの出雲平定は記されていない。

 『古事記』の物語は、九州からの帰途にタケルが出雲のイヅモタケルを、河での水浴びに誘って、太刀と木刀をすり替えて殺してしまうというもので、『日本書紀』にみえる出雲振根(ふるね)が弟の飯入根(いいいりね)を謀殺する物語と同工異曲で、「やつめさす 出雲建が 佩(は)ける刀 つづらさは巻き さ身なしにあはれ」という歌まで共通している。おそらく、もともとは出雲を舞台とした伝説が、ヤマトタケルを主人公とするものとして中央豪族層で語られるようになったのであろう。

また、それに先立つ熊襲征討も、コンパニオンよろしく女装して熊襲建を謀殺するなど、実際とは思えず、熊襲がもともとは熊(くま)と襲(そ)のふたつの地域を指す言葉が合成されたものであることからみても、後世につくられた物語である可能性がつよい。実際は現地では景行天皇の遠征として伝承されていたらしい。この物語は『日本書紀』の景行2712月条に川上梟帥(かわかみのたける)との闘争として記されているので、小碓命がヤマトタケルという名を奉られる物語として人口に膾炙(かいしゃ)していたとは思われるが、それだけ有名なお話だったということであろう。

 なお、この時代、九州に実際に遠征したのは、『日本書紀』が記していて、現存している肥前国と豊後国の風土記や逸文として伝わっている肥後国などの九州の風土記にも記載があるように景行天皇自身であった可能性がたかいと思う。この点については、邪馬台国の問題ともからんでくるので、次回にでも取り上げることとしたい。

 

東国遠征、その広大な範囲
 

 これにたいしてリアリティを持つと思われるのが東国遠征である。だがこれも『古事記』と『日本書紀』では細部に違いがある。

 まずその遠征の経路である。『古事記』では、天皇から「東方十二道(ひがしのかたとおまりふたつみち)」の荒ぶる神、まつろわぬ人を平定せよとの命令を受けて、伊勢の大御神宮(伊勢神宮)に参り、叔母のヤマトヒメに「天皇は自分を死ねと思っているのか」と愚痴ったあと、草那芸剣(くさなぎのつるぎ)と嚢(ふくろ)をもらって、尾張に至り、ミヤズヒメと帰還してからの結婚を約束して東国に出かけたという。そして、相武(さがむ)国焼津(やきつ)での遭難と走水(はしりみず。浦賀水道)での海難とオトタチバナヒメの入水を経て、悉く「荒ぶる蝦夷」と「山河の荒ぶる神」を平定して帰還、途中、足柄(あしがら)の坂本(さかもと)で坂の神を打殺し、坂に立って「あずまはや」と述べたという。そこから甲斐の酒折(さかおり)で夜警の篝火を焚いていたという「火焼の老人」と歌の掛け合いをおこなった。そこから科野(信濃)に越え、その坂の神を言向けて、尾張に帰還した。

『日本書紀』では、今度は大碓皇子に東国の平定を任そうとしたのに逃げてしまったので、天皇は大碓を美濃に封じたところ、ヤマトタケルが「臣(やつかれ)、労(いたは)しといふとも、頓(ひたぶる)にその乱れを平(む)けむ」と積極的に発言して、遠征にゆくこととなった。彼は伊勢神宮に参り、ヤマトヒメから草薙剣を授けられる。尾張でのミヤズヒメとの一件は記されない。遠征中の出来事としては、『古事記』と同じく焼津での遭難と、馳水(走水)での海難を記すので、この出来事は東征中のこととして有名だったのだろう。だがそこからは『古事記』とは違ってくる。上総から陸奥に入り、海路をとって蝦夷(えみし)との境に至り、竹水門(たかのみなと。現在地は未詳)というところで大きな鏡を懸けた船に驚いて降服した蝦夷の首帥を捕虜にして従者としたという。つまり『古事記』ではたんに東方の平定とあるのにたいして、『日本書紀』では蝦夷の平定が重要な課題のひとつとなっているのである。

この蝦夷の平定は佐伯部(さえきべ)の起源を述べることでもある。つまり、この時に捕虜とされた蝦夷は伊勢神宮に献上され、ついで大和の御諸山(みもろやま。三輪山)の傍に安置され、そこで人民を脅かしたので「邦畿の外」(畿内より西)に分散されて、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の佐伯部の祖となったという(景行51年8月条)。

そのあと、常陸から甲斐の酒折宮で秉燭人(『古事記』の火焼きの老人と同じ)との歌の掛け合いの記事があるのは『古事記』と同じだが、「あずまはや」の詠嘆は足柄ではなく、碓日(碓氷)坂のことという。そのあと吉備武彦を越(こし。北陸地方)に派遣したあと、信濃に進入し、大山(あとの文章から信濃坂、つまり信濃と美濃のあいだの御坂峠だとわかる)の山の神を打殺し、そのために道に迷うが白い(いぬ)に導かれて美濃に出ることができたという。そしてそのあと尾張に帰還するのである。

この相違は何に由来するのだろうか。それは史書編纂の材料が『古事記』よりも広く求められたことにあるだろう。とくに和銅6年(713)5月甲子(2日)にはいわゆる『風土記』の撰進の命令が出て、そこでは、諸国の郡内に生じる銀・銅・彩色・草・木・禽・獣・魚・虫等の物産の種類を記録し、土地の沃塉、山川原野の所由、また古老の相伝ふる旧聞・異事を史籍に載せて言上するよう求めている。

この命令にもとづいて編纂されたと思われる諸国の『風土記』のうち、現存しているのは常陸・播磨・出雲・肥前・豊後の5つにすぎない。そのうち『播磨国風土記』はその地名表記から行政組織が郡・里から郡・郷・里の郷里制に変更された霊亀3年(717)以前の成立と思われ、『常陸国風土記』も郡・里の地名表記と養老2年(718)に設置された石城国を陸奥国石城郡と記していることから同じころの成立とみられる。ともに養老4年(720)の『日本書紀』完成以前である。

注目すべきなのが、『常陸国風土記』に「倭武天皇」の記事が見えることである。ヤマトタケルの名は現地で伝承されていたのである。『日本書紀』のヤマトタケルの記事に常陸国が見えるのは、このことと無関係とは思えない。地方伝承が『日本書紀』編纂の材料とされたわけである。

 さらにヤマトタケルが陸奥まで遠征したという『日本書紀』の記述も、現地での伝承をふまえた記述と思われる。ただ『陸奥国風土記』は現存せず、逸文が残っていってそこにはヤマトタケルの記事があるが、『日本書紀』との前後関係は明確ではない。

 いずれにせよ『日本書紀』はこれらの地方伝承を採用して、ヤマトタケルの活動場所を特定していったのだろう。もちろん風土記の記事が『日本書紀』にもとづいて記された可能性もなくはない。とくに『日本書紀』成立以後にできた風土記の記事についてはそのような見解をとる見方もあるだろう。しかし、『日本書紀』の記事によってできた伝説など和銅6年に律令国家が諸国に求めた「古老の相伝うる旧聞・異事」とはほど遠いのであって、私にはその可能性はありえないと思う。

 『古事記』は諸家に伝わった帝紀(ていき)・旧辞(きゅうじ)に基づいているというが、これらは中央豪族が伝えたものなので、地理などでもあやふやなところがある。ヤマトタケルが遭難した焼津を相武つまり相模としているのもその一例である。出雲建との一騎打ちの話なども、出雲地方での伝承ではなく、中央で形成された物語なのである。そして熊襲征伐もおそらくは同様であろう。

このようにみれば、ヤマトタケルの物語を含む景行天皇時代のヤマト政権の拡大は、史料を全国から集めて書かれたと思われる『日本書紀』の記述にしたがって考える方がよいことがわかる。そして、彼の軍事的活動はおもに東国計略にあったのである。

 ところで、ヤマトタケルが登場する以前にヤマト政権の東方経営はどのあたりの範囲に及んでいたのだろうか。その点については、ヤマトタケルが遠征の前に立ち寄った伊勢と尾張、それに大碓皇子が封じられた美濃は、すでにヤマト政権の支配下にあったと思われる。タケルはそれよりもさらに東方に遠征したのである。もってその範囲の広大なことがうかがえ、彼が伝説の王族将軍となるのもわかる気がするのである。

 このようにみれば、崇神天皇の時代に派遣された四道将軍のうち、大彦(おおびこ)命が北陸、その子の武渟名河別(たけぬなかわわけ)が東海に遣わされたというが、さほど遠方には行っていなかったのであろう。『古事記』には、この二人が相津(あいづ)で出会ったと記すが、東北の会津ではなく、『古事記』垂仁天皇段に、倭(やまと)の市師池や軽池に浮かべてホムツワケ王と遊んだという二股小舟の原料となった二股杉があったという尾張の相津とみるべきであろう。

 

ヤマトタケルの最期
 

尾張に帰還したあとのヤマトタケルの足跡は悲劇的なものとなる。『古事記』では、草那芸剣をミヤズヒメのもとに置いたまま伊吹山に出かける。そこで山の神の怒りをかってからは、心身ともに疲れ果て、能煩野(のぼの、現・鈴鹿市)でついに亡くなるのである。その時にタケルが歌ったというのが、
 

  倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 

山隠(こも)れる 倭しうるはし

  命の 全(また)けむ人は たたみこも 平群(へぐり)の山の 

くまかしが葉を うずに挿せ その子

  愛(は)しけやし 我が家(へ)の方よ 雲居立ち来も

  おとめの 床の辺に 我が置きし 剣の太刀 その太刀はや


という一連の歌で、もともとどういう歌であったかはともかく、故郷に戻ることなく、衰弱して死んでゆく人物の絶唱として、心に深く残る効果を発揮している。

いっぽう『日本書紀』では、剣をミヤズヒメのもとに置いて伊吹山に向かったあとは、『古事記』とほぼ同じで、その後、尾張から伊勢の尾津に到り、さらに能褒野に出て、吉備武彦を派遣して天皇に奏上したあと、そこで亡くなったという。あくまで義務に忠実な武人の最期である。なお『古事記』が記す最初の三つの国偲び歌は、九州で景行天皇が歌ったことになっている。記紀ともに、その後タケルの霊が白鳥と化して飛び去ることをいうが、ここではこれ以上触れないこととしよう。

このどちらも、後世でのヤマトタケルの描き方で、いずれが真実かとはいえない。歴史的にほぼ確かなのは、東国に遠征し、大和に帰還する前に伊勢の能褒野で亡くなったということだと思われる。そこからヤマトタケルは伝説のなかに姿を隠してしまうのである。


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第3回 「策略」をみる

はじめに
 

 1月23日・24日(土・日)と豊岡市に行き、「山名氏の終焉と織田権力」と題して講演をしてまいりました。悪天候が予報され大変心配しておりましたが、当日は幸いに好天に恵まれ、多数の皆様にご来場いただきました(約200名)。日頃の「行い」が良かったからでしょうか??? 「真田もいいけど山名もね」と申し上げておきましょう。

 

 こうして無事に帰還し、「真田丸」批評を書けることは非常に幸せです。今回から昌幸の策略が全開となり、「狐と狸のばかしあい」のような様相を呈してきました。同時に、麗しい家族愛、兄弟愛、そしてラブ・ロマンスも炸裂しております。

 

 さあ、第3回「策略」はどうだったのでしょうか!

 

登場人物いろいろ
 

 ところで、今回はさらにいろいろな人物が登場して、ドラマの展開上、見逃すことができません。その辺りについて触れておきましょう。

 

 真田一族の会議のなかで、「幸綱が武田を選んだ」という矢沢頼綱のセリフがありました。真田幸綱は頼綱の兄であり、昌幸(役・草刈正雄)の父になります。これまで「幸隆」と称されていましたが、各種史料の検討の結果、「幸綱」が正しいとされています。もともと幸綱は武田氏と対立していましたが、のちに配下に加わっています。セリフは、そのことを指しているのでしょう。

 

 もう一人の重要な人物として、真田信尹(のぶただ)が登場します。信尹は昌幸の弟で、もとは甲斐の名族である加津野氏の養子となり、武田氏に仕えていました。そのときは「加津野市右衛門尉信昌」と名乗っています。武田氏の滅亡後は「真田」姓に復し、信尹と名乗りました。ご関心のある方は、拙稿「真田信尹の諜報」『歴史街道』12月号(2015)をご一読いただけると幸いです。

 

 ところで、信繁(役・堺雅人)はモテモテでしたね。小生、ラブ・ロマンスとは無縁なので、誠にうらやましく思いました。まあ、それはよいとして、堀田作兵衛の妹である、梅(役・黒木華)という女性が登場していました。この人は、のちに信繁の妻となる人物です。信繁の正室は、のちに登場すると思いますが、大谷吉継の娘です。

 

 ついでに申しますと、きり(役・長澤まさみ)なる女性は、高梨内記の娘となっています。この女性は、信繁が九度山に赴いて以降、その妻となる女性です。いずれにしても、信繁の女性関係を意識し、史実かどうかは別として、伏線を描いているのですね。

 

出浦氏と室賀氏
 

 次回へつながる人物としては、出浦昌相と室賀正武の二人が注目されます。いったい二人はいかなる人物なのでしょうか?

 

 出浦氏は信濃村上氏の支族であり、長野県坂城町大字上平出浦を名字の地とし、出浦城の城主を務めたといわれています。もともとは昌幸と同じく、武田氏に仕えており、忍者の統括をしていたといわれています。それゆえ、ドラマでは出浦氏が忍者を用いて信幸を襲撃したり、信繁が出浦氏に「今度、忍術を教えてください」というセリフを述べていたわけです。

 

 一方の室賀氏は北信濃の国衆であり、信濃村上氏の支流・屋代氏の流れを汲むといわれています。正武の父は、武田氏に仕えていました。出浦氏同様、武田氏滅亡後は去就に迷っていましたが、昌幸とは所領が接していたので、たびたび揉め事があったといわれています。

 

 ドラマのなかでは、それを象徴するかのように、室賀氏の領内の者が真田領内に侵入し、無断で木を伐採している様子が描かれていました。今でこそ、燃料はガスや電気のスイッチを捻れば事足りますが、当時は水なども含めて、非常に重要かつ貴重なものでした。それゆえ、こうした事件が起こるわけです。まさしく命がけの戦いであったように思います。

 

 ちなみに、農民は武器を持っていなかったと思われがちですが、決してそうではありません。最近では、農民が刀や鉄砲を所持しており、近隣の農村との紛争に備えていたといわれています。ドラマでは農民が鎌などを持って戦い、信繁は竹の棒で敵を打ち払っていました。ドラマのイメージからか、凄惨な人殺しは描かれていませんでしたが、実際はもっと激しかったと思います。

 

昌幸の策略
 

 今回、もっとも重要なのは、まさしく策士として名高い、昌幸による「策略」になりましょう。ドラマのなかでは、もともと昌幸は織田信長に与するといっていましたが、出浦氏や室賀氏の猛烈な反対を受けて、いったん白紙に戻してしまいます。

 

 その後、昌幸が信幸(役・大泉洋)を呼び出し、「(上杉)景勝につくぞ!」と告げます。あまりに昌幸の考えが二転三転するので、信幸は非常に驚愕しますが、昌幸は保険のようなものだと申します。これはそのとおりで、当時の戦国武将は情報戦に重きを置き、簡単に立場を鮮明にしません。ギリギリまで待って、「ここぞ!」というときまで、のらりくらりと「グレー」な態度を示していました。

 

 昌幸は信幸を上杉氏への使者とし、書状を託します。その際、佐助(役・藤井隆)が添えられます。ところが、信幸は室賀氏に待ち伏せされ、書状を奪われてしまいます。散々な目に遭った信幸は、死をも覚悟して父と面会します。しかし、それは昌幸と出浦氏が仕組んだ作戦で、あえて書状が室賀氏を通じて織田方に伝わるようにしたというのです。

 

 これと似た話は、『加沢記』という軍記物語に書かれていますが、信幸が使者とは書かれていません(使者は北条方にも送りこまれたとあります)。しかし、あえて使者が捕まるように仕向け、書状が信長のもとで披露されたことを意図したというは、かなりアクロバティックなもので胡散臭いように思うのですが、いかがでしょうかね。

 

 信幸は「何で本当のことを言ってくれないのか」と憤り、自分が信頼されていないのではと悩みます。この直後、昌幸と信繁は信長との面会に向かいますが、信幸は同行を許されません。信幸は、自分が信頼されていないとさらに悩みます。

 

 しかし、昌幸は「われらに何かがあったときは、嫡男のお前が・・・」とその意味を語ります。「あれ、待てよ?」という話になるわけです。「じゃあ、何で上杉氏への使者に信幸を選んだの?」ということですね。途中で殺される可能性があるのは同じですから、大いに矛盾を感じたところです。

 

おわりに
 

 ところで、現在は凶悪犯罪が連日報道され、他人を騙すどころか、親が子を殺し、子が親を殺すという戦国時代以上の惨劇が展開されています。そう考えてみると、「真田丸」における親子愛、兄弟愛、麗しい純愛物語は、精神衛生上よろしいのかもしれませんね。

 

 ところで、今回の視聴率は18.3%とやや低迷。ただ、大河ドラマとしては、久々の高水準を維持しているとのことです。次回は、再度の20%台を期待しましょう!

 

 今日はこのへんにしておきましょう。では、来週をお楽しみに! 「ガンバレ! 真田丸」

<了>
 

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