たかが小咄、されど小咄


 夏真っ盛りの8月。歴史の小難しい話は暑苦しいので、今回はいつもにもまして軽く、お気に入りの小咄から話を始めよう。

 まずは「借雪隠」という咄から。借雪隠は「かりせっちん」ではなく「かしせっちん」と読む。今風に言えば有料の仮設トイレといったところか。出典は明和9年(1772)刊の小咄集『鹿の子餅』。原文は『日本古典文学全集 江戸笑話集』に翻刻されているので、ここは意訳だけでご容赦いただきたい。


 ――不忍弁財天の開帳に参詣人が群がっていた。となると足りないのは雪隠(トイレ)である。商機到来と、茶屋の裏に雪隠を設け、一人銭5文で貸す者があらわれた。すると参詣人とりわけ女性が殺到し、もうかることおびただしい。

 「なるほど、いい思いつきだ。俺も雪隠を一軒こしらえてみよう」。意気込む隣の亭主を女房がいさめた。「今からこしらえたって、隣に一軒あるのだから、もうからないにきまっている。およしよ」。ところが雪隠をこしらえると、これまた大入り満員。しかも前からあった雪隠には誰も入ろうとしない。不思議に思った女房が亭主に理由をたずねると、亭主は「それみたことか」と自慢げに、「あたりめえだ。隣の雪隠には一日中俺が入っている」。――

 

 料金は一人5文でも使用時間に制限がないことに目をつけた賢い営業妨害の咄。ちょっと〝臭い〟のが難だが、秀逸この上ない。

 次の「蕣」(アサガオ)も好きな話だ。


 ――早起きした男が、楊枝をつかいながら垣根の隙間から隣の家をのぞくと、寝乱れ姿の娘が、縁側に腰掛けてアサガオをながめていた。

「なんて可愛らしい」。息をひそめてのぞいていると、娘は庭に下りてアサガオの花を一輪ちぎって手のひらにのせた。その優雅な風情も素敵だ。「歌でも詠もうとしているのだろう」。男はますます心ひかれて見つめていた。

すると、今度はアサガオの葉をちぎり取った。「いったい何にするのだろう」。娘はちぎった葉で「チント鼻をかんで捨た」(ここだけ原文のまま)。――


 隣の娘の思わぬ色気を(文字通り)垣間見て、さまざまに想像をふくらませる男。想像の中でどんどん優美になっていく女。しかしそれは娘がアサガオの葉をちぎって鼻をかんだことで瞬時に崩れてしまう。うら若い女性の虚像と実像を見事に描いた名作である。

もっとも娘から言わせれば、「あなた私の幻を愛したの」(尾崎亜美『オリビアを聴きながら』の歌詞)なのかも。「勝手にのぞかないで!」というわけ。いつの世も変わらぬ男女の溝。恋する男の愚かさ。

「恋病」という話も、若い女性の心理をシンプルにうがっている。

コイヤミとは言うまでもなく恋の病(恋煩い)のこと。激しく恋い焦がれながら、そうと告白できないウブな女性(多くは少女)が、鬱屈のあまり体調をくずして寝込んでしまう病気である(昨今はあまりみかけないが、昔はこの病で死に至ることもあったとか)。


 ――娘盛りのお嬢さん、どこが悪いわけでもないのに、物思いに沈んで寝込んでしまった。

 恋煩いと察した乳母がお嬢さんの耳元で囁いた。「恋しい相手は誰? 隣の繁様?」。お嬢「いいや」。乳母「ではお向かいの文鳥様か」。お嬢「いいや」。

「じゃあ、いったい誰?」。乳母の問いに、お嬢さんは憮然として「誰でもよい」(同じくここだけ原文のまま)と答えた。――


娘が鬱屈して寝込んだ原因は、恋の病というより思春期特有の性の悩みだったというオチ。

 市井の些細な出来事から少女の心の中まで。『鹿の子餅』に収録された全63話の題材はさまざまだ。当然、武士も恰好のネタとなった。「剣術指南所」という話もそのひとつである。


 ――「諸流剣術指南所」と筆太に書かれた看板をかけた家に実直そうな武士が訪れ、「何流でもよろしいから、拙者にふさわしい剣術の流儀をご伝授ください。貴殿の門弟にしていただきたい」と述べた。

 主人が「貴方は表の看板を見てお出でになったのですか」と尋ねると、武士は「さようでございます」。すると主人が言うことには、「それはとんだことで。あの看板は泥棒よけの用心ですよ」。――


 天下泰平の江戸の町では、「剣術指南所」の看板は今日の「猛犬注意」のようなものだった? 

最後にもう一話。当時(18世紀後半)の武士の行動に取材した「尻端折」(しりはしょり)をご紹介しよう。


 ――非番の武士二人が連れだって両国橋を渡ろうとしていた。折しも橋の中ほどで喧嘩が始まり、「そりゃ、刀を抜いたぞ」と人々は大騒ぎ。喧嘩の場を避けてこのまま跡へ戻ったら、武士がすたる。二人は勇ましげに尻を端折り、腕をまくり、刀を落し差しにして身ごしらえをした。さて喧嘩の場に駆けつけるかと思ったら…。

●「身ごしらえは出来たか」。

 ▲「出来た」

 ●「では、急いで大橋へ廻ろう」――


 尻を端折って身ごしらえをしたのは、喧嘩の場を突っ切るためでも仲裁に入るためでもなく、両国橋からかなり下手にある大橋まで速やかに迂回して大川(隅田川)を渡るためだった、という話である。

 戦う精神を喪失した惰弱な武士であるとも、「君子危うきに近寄らず」の思慮深い行為であるとも、作者は一言のコメントも加えていない。けなすでもほめるでもなく、当時の一般的な武士の生態が、わずか数行の文章で活写されている。たかが小咄と言うなかれ。作者はただ者ではない。




人事を動かした狂歌力


 作者は、木室卯雲(きむろ・ぼううん 171483)という幕臣の戯作者である。

卯雲は号で、名は朝濤(ともなみ)。庄左衛門のちに七左衛門と称し、ほかに白鯉館、馬場雲壺などの号も持つ。幕府の役人としては、御徒目付、小普請改役を経て、宝暦6年(1756)に小普請方に。『寛政重修諸家譜』にこのとき「班をすゝめられて」とあり、御家人から旗本に昇格したことがわかる。

その後、明和5年(1768)、55歳の年に広敷番の頭となり、安永8年(1779)に辞職。天明3年(1783)に70歳で没した。著書としては、『鹿の子餅』のほかに『奇異珍事録』『譚囊』『見た京物語』があり、狂歌集『今日歌集』も。

 狂歌集? そう、木室卯雲は、狂歌作者としても大田南畝(おおた・なんぽ)の先輩格に当たる人だった。のみならず卯雲が詠んだ狂歌は幕臣の間でなにかと話題になったようで、南畝が晩年に綴った随筆『奴師労之』(やっこだこ)にも、卯雲の狂歌に関する逸話が紹介されている。

 まずは小普請方のとき詠んだ狂歌から。

 卯雲は小普請方になって久しいのに、なかなか昇進の機会に恵まれなかった。そうこうするうちに加齢のため頭が禿げ、頭部が赤みを帯びてきた。加えて生来の色黒。そんなわが身を自嘲して詠んだのが、「色黒く頭の赤きわれなれば 番の頭になりそうなもの」の一首だという。

 「番の頭」は、言うまでもなく役人の番頭(ばんがしら)だが、同時にクイナ科の鳥の鷭(バン)の頭を連想させる。鷭は全身が灰黒色で、額の部分が赤い。すなわち卯雲は、「禿げて赤みを帯びた自分の頭は鷭の頭とそっくり。ならばバンガシラ(番頭)に昇進してもいいはず」と愚痴ったのだった。前述の履歴から、これは明和5年(1768)、55歳のときだったと思われる。

 初老の役人の自嘲と愚痴。本来なら「こんなもの」と無視されるのだろうが、どうしたわけか、老中たちの耳に入り、いたく同情された結果、卯雲は「広敷番の頭」に昇進したという。老中のなかに彼に好意的な人がいたのか、それとも卯雲が狂歌を詠むだけでなく、積極的に働きかけたのか。真相は不明だが、ともかく一首の狂歌が幕府の人事を動かしたのである。このような〝事件〟が幕臣の間で話題にならないはずはない。




人生の達人


 とはいえ、当然ながら狂歌がいつも人事を動かすわけではなかった。

 次に挙げるのは、安永3年(17744月、61歳の卯雲が詠んだ狂歌である。

61歳といえば当時はまぎれもない老人だったが、卯雲は役人としてさらに上の「裏門切手番之頭」のポストをねらっていたらしい。ところが真方五平次が依願免職となったのち後任を拝命したのは、卯雲ではなく日野小左衛門だった。落胆した卯雲が悔しまぎれに詠んだ狂歌が、「けなげなりなるも最もさねかたの あいたところへ日の小左衛門」。

 あきらかに下ネタ風。残念ながら、逐語訳ができるほどこの方面の造詣が深くないので、大意だけ意訳してみよう。

「さねかた」が裏門切手番之頭の前任者の真方五平次で、「日の小左衛門」が後任の日野小左衛門であるのは言うまでもない。ところで「さねかた」の「さね」には、女性の核(さね)(陰核=クリトリス)の意味があり、「日の小」は男根を意味する「へのこ」と音が近い。「さね」に陰核だけではなく女陰そのものを意味させれば、狂歌の解釈はおのずとあきらかだ。

「真方が免職になって空いたポストに日野小左衛門が就くのは当然さ。空いた(主がいない?)女陰に男根が入るのだから」というのである。

 小咄の秀逸さと比べれば、たまたま紹介した二首の狂歌の出来はいまひとつ。それでも小咄と狂歌で名を成した木室卯雲の生き方は、泰平の世の幕臣としては理想的なものかもしれない。自嘲も落胆も狂歌のネタにしてしまう彼はまた、人生の達人であったとも言える。

                 <了>




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