「虫酸」に生きる細菌

 

「虫酸(むしず)が走る」ような、キモイ経験がひとつやふたつはあるだろう。「むしず」は「虫唾」(虫のよだれ)とも書く。昔の人は、お腹のなかに「虫」がすんでいて、「虫の知らせ」「腹の虫がおさまらない」「腹の虫が鳴く」といったときにうごめき出す、と信じていた。「虫酸」は二日酔いなどで口の中に胃液が逆流してくるときに感じる、なんともいえない不愉快なすっぱいツバである。

胃液の主成分は塩酸。すっぱいわけである。空腹時には、pH12という自動車のバッテリーなみの強い酸性になるが、食事をとるとpH45 に下がる。胃液はたんぱく質、脂肪、炭水化物を消化して吸収を助け、同時に病気の原因になる細菌やウイルスを殺して感染を防ぐ役割も担っている。

だが、こんな環境で生きている細菌がいたのだ。それがヘリコバクター・ピロリ、略して「ピロリ菌」である。いまや「日本人最大の感染症」という地位を獲得した。健康診断で、この菌の検査や除菌を奨められた人は多いはずだ。「ヘリコ」はヘリコプターと同じ語源で「らせん」を意味し、バクターは「細菌」、そしてピロリは胃の出口の「幽門(ゆうもん)」を意味する。23回ねじれた形状で48本の鞭毛(べんもう)をもっているのでこう呼ばれる。
これがピロリ菌の姿

これがピロリ菌の正体








 

19世紀以来、胃のなかにらせん状の尾をもつ細菌は発見されていたが、たまたま「居合わせた」もので、胃に巣くっていると信じる人はいなかった。この常識を打ち破ったのが、オーストラリアのロビン・ウォーレンとバリー・マーシャルの2人の研究者だ。

胃の中からピロリ菌をみつけだし、苦心の末1982年に培養に成功した。普通の細菌よりも増殖の速度がはるかに遅く、なかなか培養が確認できなかった。たまたま復活祭の休暇をとって、培養器を5日間ほったらかしにしていたら、培養が確認できた。

マーシャルは、培養液を飲むと胃炎が起き、抗菌剤を使って菌を除去すると胃炎が治ることを自分自身の胃袋で実証した。当時は、胃炎や胃かいようはストレスが原因と信じられていたため、この菌の発見はほとんど注目されなかった。その後、胃がん、胃かいよう、十二指腸かいよう、慢性胃炎の元凶であることもわかってきた。ふたりは、2005年のノーベル医学生理学賞に輝いた。

阪神・淡路大震災の直後、胃かいよう患者が増えてストレス説が復活してきた。しかし、神戸大学医学部附属病院の検査では、胃かいようにかかった人の83%がピロリ菌の保菌者だった。ピロリ菌に感染していない人は、地震後でもほとんど胃かいようにならなかった。

 

ピロリ菌の正体

 

ピロリ菌は、人類よりもはるかに古い進化の歴史がある「常在菌」の一種である。常在菌は名前の通り、日常的に人体に生息する細菌だ。人体のほぼあらゆる場所にすんでいる。とくに、皮膚、口、眼、鼻、気道、尿路、肛門、女性器など外部環境にさらされる部分は、つねに細菌が取りついている。

米国ブラウン大学のスーザン・ハウス教授らの分析によると、これまで人体からみつかった常在菌を部位別にみると、舌には7947種、ノドには4154種、耳の裏側には2359種、大腸には33627種、女性器の入口には2062種にもなる。

口から肛門までの間の腸管には、消化を助ける大腸菌や乳酸菌や酪酸(らくさん)菌、臭いおならをつくり出すウェルシュ菌など大量にすむ。ノドからは肺までの気道には肺炎球菌、肺炎桿菌(はいえんかんきん)、皮膚にはニキビの原因となるアクネ菌やフケの原因になるマラセチア菌や水虫の原因になる白癬(はくせん)菌などが生息する。女性器の住人はカンジダ菌、ビフィズス菌(乳酸菌)などが代表的なものだ。 

米ノースカロライナ州立大学の生物学者ロバート・ダンらのチームは2011年に、「おへそ生物多様性計画」をスタートさせた。へそにすんでいる常在菌をすべて洗い出そうというわけだ。おへそを洗うことは滅多になく、形からして清潔に保つのが難しい。へそのゴマは、皮膚の細胞、うぶ毛、ホコリ、細菌などが皮膚の脂や汗の成分が固まったものだ。細菌にとっては絶好の生息場所である。

60人のボランティアのへそのゴマを培養したところ、計2368種もの細菌がみつかり、そのうちの1458種は新種の可能性があるという。

へそを洗った記憶がないという人からは、極地の氷冠(ひょうかん)や深海底の熱水噴出孔などにすむ「極限環境微生物」が2種類みつかった。これまで日本の土壌でしか発見されたことがない細菌もみつかったが、この「持ち主」は日本に行ったことがなかった。

口のなかには100億個、皮膚には1兆個以上はいるとされる。常在菌の総重量は1300グラムになるというから、脳なみの重さである。その数は、人体を構成する細胞数の10倍以上、つまり数百兆個になると推定される。ピロリ菌はこうした「その他大勢」の一員にすぎなかった。

 

共存共栄してきた常在菌

 

常在菌は体内で互いに排除したり共生したりしながら、一定の調和を保って共存共栄している。とくに、100兆個もの細菌がすみ、多様性の高い腸内では、見事に発達した植物群集にたとえられて「腸内フローラ」と呼ばれる。これらの常在菌は人体が健康である限り、危害を与えることはほとんどない。動物は常在菌と持ちつ持たれつの関係で、進化の長い歴史を共存してきた。

腸内に住み着いている、ヨーグルトのCMでおなじみのビフィズス菌は、その典型である。胃酸などでは消化しきれない食べ物を消化してくれ、新たに侵入してきた菌をよそ者として排除して有害な菌から私たちを守ってくれる。

「善玉菌」「悪玉菌」というよばれ方もするが、菌同士は競争的に共栄しているので、善玉が悪玉になったり、その逆になったりしている。病原性大腸菌「O157」の流行で、悪玉のイメージが定着した大腸菌は、きわめて重要な役割を果たしている。私たちは大腸菌なくして生きていけない。

人体はこうした細菌を飼い慣らして、「常在菌」として平和共存を図ってきた。だが、新たな「野生菌」が入り込んだり、人体が免疫を失って無防備状態に陥ったときに突如として牙をむくのだ。

無害にみえる細菌が突然に凶悪化したものは、日和見菌(ひよりみきん)とよばれる。高齢者がインフルエンザにかかると、気道にいる細菌が肺炎を起こしたり、抗がん剤や抗生物質を長期間投与された患者では、常在菌が異常増殖することがしばしばある。

エイズに特有のニューモシスチス肺炎(以前はカリニ肺炎といわれた)やカポジ肉腫を引き起こすのも、健康なら無害の常在菌やウイルスの仕業だ。日本人の5人に1人以上がかかる「アトピー性皮膚炎」も、皮膚の常在菌であるマラセチア菌の一種がつくりだすたんぱく質が関与している疑いが強い。

 

巧みな生存術

 

ピロリ菌も突如として有名になった常在菌のひとつだ。菌の大きさは、1ミリの250分の1ほど。ふだんは弱い酸性の胃粘膜細胞表層で、アミノ酸やペプチドを栄養源にして増殖する。胃内部が強い酸性になるとウレアーゼとよばれる酵素をつくりだして、胃の粘液中の尿素をアンモニアと二酸化炭素に分解する。このアルカリ性のアンモニアで胃酸を中和して「安全な」環境を保っているのだ。

かつてはほとんどの人が感染していたらしい。現在でも、世界人口の半数が保菌者とみられる日本でも5000万~6000万人、人口の半数近くが菌をもっている。50歳以上の人では7割が感染しているが、若い人では2030%ほどだ。

これだけ多くの人が感染していながら、胃かいようなどの病気になる人は少ない。発病する人は感染者の25人から50人に1人といわれる。しかし、国立がんセンターの研究では、ピロリ菌の感染者が胃がんになるリスクは、無菌者の5倍も高いという。

誰でも胎内にいるときは無菌状態だが、出産時にまず産道に存在している菌に感染し、生まれた直後からさまざまな菌に感染する。ピロリ菌は経口感染だ。フン便に混じっているものが、他の人の口へ入ることで感染する。母親が赤ちゃんに口移しでものを与えることも主要な感染経路といわれる。最近の研究では、免疫力が未発達で胃液の酸性度も弱い乳児から10歳ぐらいまでに感染し、成人になってからの感染は稀という。

感染率は水洗トイレの普及率など、衛生状態と関係が深い。発展途上地域では9割以上の人が感染しているが、先進地域では12割だ。日本の中高年層の感染率が高いのは、子どものころの衛生状態が悪かったためと考えられる。若い年代が低いのは、環境がよくなった証しであろう。

 

菌の南北問題

 

不思議なことに欧米やアフリカ諸国では、日本と同様にピロリ菌に感染している人は多いが、胃がんは少ない。同じ東アジア内でも、南にいくほど胃がんの発症率は低くなる。世界保健機関(WHO)の2008年の統計によると、世界の胃がんの発生率は人口10万人あたり14.1人なのに対して、東アジアは30.0人で、ヨーロッパの10.3人、北米の4.2人と比べても圧倒的に高い。

国別のワースト5をみても、①韓国41.4人 ②モンゴル34.0人 ③日本31.1人 ④中国29.0人 ⑤グアテマラ28.6人と、圧倒的に東アジアに集中している。

大分大学医学部の藤岡利生教授らによって、欧米とアジア諸国のピロリ菌ではその遺伝子型が異なること、さらにアジア各国の民族によってもピロリ菌の遺伝子型は必ずしも同一ではないことを明らかにされた。この違いが胃がんの発生率の差になっている可能性が高いという。

東アジアの人びとの胃にすむピロリ菌の9割以上は、胃の粘膜に炎症を起こしたり、萎縮させて胃がん起こす遺伝子をもっている。他方、欧米人のピロリ菌はその遺伝子が約34割にしかすぎない。

ピロリ菌は、胃壁の細胞を攻撃するので、そのダメージが蓄積して胃がんを起こしやすくする。それに他の危険因子が加わることで、胃がんのリスクが増大する。ピロリ菌の「保菌者で喫煙する人」は、「無菌の非喫煙者」に比べて11倍、「保菌者で非喫煙者」に比べても1.6倍も胃がんになりやすい。同じように「保菌者で高血糖の人」は、この数字が「無菌で正常の血糖の人」の4倍、「保菌者で正常の血糖の人」の2.2倍になる。ピロリ菌を除菌しても胃がんの発症がゼロになるわけではないのでご用心。