「武断統治」をめぐる対立


 
1919年(大正831日、朝鮮全土で激しい抗日独立運動が巻き起こった。時の総督は長谷川好道(陸軍大将。はせがわよしみち。1850-1924)で、独立宣言文の筆頭に署名した人物は天道教教主の孫秉熙(ソンビョンヒ。1861-1922)だった。長谷川は、この独立運動に激しい弾圧をもって臨み、その残虐さゆえに厳しい国際的批判を浴びて辞任へと追い込まれた。他方、孫秉熙らが宣言した朝鮮独立の叫びは、人を介して朝鮮の津々浦々に広がり、一大国民運動として朝鮮全土を揺るがした。

それは1910年に統監から横滑りして初代朝鮮総督に就任した寺内正毅が推し進めた憲兵警察による力の支配、いわゆる「武断政治」への朝鮮民衆の批判の動きにほかならなかった。31独立運動は寺内から長谷川に総督が交代した後に起きた事件だが、寺内自身も1年前の1918年に日本国内で米騒動に直面し、民衆運動の波の前に総理大臣辞任へと追い込まれていった。

したがって、寺内、長谷川はともに日朝両国民の、新しき時代の動きを読みきれぬままに、旧き時代の統治者として歴史の舞台の傍流に消え去る運命を共有していたのである。  

他方、孫秉熙らの独立宣言は、その後の朝鮮近代史の中心に位置づくこととなる。

 

軍人一筋の道を歩んだ唯一の朝鮮総督


 
1910年(明治4310月の日韓併合から19458月の敗戦までの35年間に、9名の朝鮮総督が就任した。初代の寺内から始まり、以下、長谷川、斎藤実、宇垣一成(臨時代理)、山梨半蔵、斎藤実(2回目)、宇垣、南次郎、小磯国昭、阿部信行がそれらである。

2度就任したのは斎藤と宇垣の2人だが、宇垣の場合は、斎藤が1927年にジュネーブで開催された海軍軍縮会議に全権代表として参加したため、5ヵ月間だけ総督をつとめた臨時代理だった。そして、ほかが陸軍大将だったのに対して斎藤だけが海軍大将だった。そのなかで、長谷川を除くすべての総督は大臣経験者であり、しかも最後の阿部は総理経験者だった。

こう見てみると、長谷川だけが格下のように見えるが、さにあらず、朝鮮民衆への弾圧という面では、彼こそが1910年代にもっとも深く朝鮮統治にかかわり、そしてもっとも朝鮮民衆から激しい攻撃の対象となったのである。

 長谷川は、1850年(嘉永3)に長州藩支藩の岩国藩士の家に生まれた。同じ長州出身の児玉よりは2歳年長ということになる。剣術師範の父から、幼少のころより剣術を仕込まれ、戊辰戦争に参加し、軍人の道を志す。

1877年の西南戦争では陸軍中佐として西郷軍と干戈を交えた。1884年の日清戦争時には陸軍少将、近衛師団長として旅順攻略戦を担当、1904年の日露戦争時には陸軍中将として遼陽会戦で活躍、190408年までは、陸軍大将・韓国駐軍司令官として、伊藤とともに05年の第二次日韓協約、07年の第三次日韓協約を推し進め、これに対して朝鮮全土で義兵闘争が広がると、憲兵警察網を張り巡らして、これを弾圧した。  

1912年に参謀総長に就任、そして寺内正毅を次いで1916年から19年まで朝鮮総督をつとめた。19193月に31独立闘争に直面、8月にその責任をとって総督を辞任し、後任を斎藤実に譲り、5年後の1924年に死去した。

 

一大勢力と化した民衆宗教の担い手


 一方、
31独立運動で指導的役割を演じた孫秉熙は1861年に朝鮮の忠清北道(チュンチョンブクド)清州(チョンジュ)郡に生まれた。朝鮮では185060年代にかけて、金玉均(キムオッキュン)や朴泳孝(パクヨンヒョ)など、多彩な人物が輩出されているが、彼らの青年期が朝鮮の激動期と重なるからであろう。

当時の多くの少年がそうであったように、孫秉熙も清州邑(村)内の書堂(ソダン。日本の江戸時代の寺小屋に類似したもの)で学び、その後は独学を重ね、1882年、21歳のときに甥の金誠芝の勧誘を受けて天道教に入信している。

天道教は、東学党の流れを汲む民衆宗教で、朝鮮独自の宗教である。東学は、崔済愚(チェチェウ。1824-1864)を創始者として生まれ、1864年に彼が大邱(テグ)で政府に処刑された後は、崔時亨(チェシヒョン)があとをつぎ、人間の平等を平易に説いていったことから民衆の間に急速に広まり、教団の組織化が進むと同時に力を増し、李朝政権の地方官吏の腐敗や汚職と対決することとなる。

1894年に東学は武力蜂起し、信徒の全棒準(チョンボンジュン。1854-95)らの軍事指導のもと、その勢力を急速に拡大した。甲午農民戦争と称されたこの反乱は、折から日清両国が朝鮮半島を巡り厳しく対決するなかで、鎮圧のための両軍派兵による対立の激化を避けるため、閔妃政権は急遽、東学の提案を受けて全州(チョンジュ)で和約を締結した(全州和約)。

しかし、日本は朝鮮の自立化を強硬に迫り清国と対立、日清両軍の衝突を契機に日清戦争へと突入する。日清戦後の1898年に崔時亨が捕捉・処刑されると、孫秉熙がその後を継承、開化派の思想を取り入れながら、大韓帝国からの強まる弾圧のなか、1901年には日本に亡命、活動を継続した。

1904年に政治団体の進歩党を結成するが、日露戦争を契機に宋秉畯(ソンピョンジュン。1857-1925)らが親日政治団体の一進会を組織して活動を展開すると、彼らを教団から追放し、1905年に東学の正当な後継者としてその名を東学党から天道教へと改称し、独立運動を継続した。

日韓併合とその後の武断政治により朝鮮民衆の不満が高まるなか、19191月の大韓帝国皇帝高宗(コジョン)の死を契機に、3月独立宣言が準備されると、孫秉熙は宣言文の33名の署名者の筆頭に名を連ねた。運動が発展、激化するなかで孫は官憲に逮捕され、懲役3年の刑を受けるが、病気で保釈され1922年に死去した。

 

1910年代の朝鮮


 長谷川好道、孫秉熙の両者がともに生き、そして対峙しあった
1910年代の朝鮮とはいったいどんな社会だったのか。日本は、日韓併合をもって朝鮮を植民地化したものの、併合前から展開されていた義兵闘争と呼ばれる抗日武装闘争は途絶えることがなく、総督府は全土に憲兵・警察を配置し、さらに戦時編成の2個師団の朝鮮駐剳軍を常駐させ、ものものしい警備体制を敷いていた。

1911年の憲兵警察機関は1613ヵ所、憲兵・警察官は、1万3971名を数えたという(武田幸男編『朝鮮史』)。

こうした武力を背景に総督府は、「土地調査事業」と「林野調査事業」を強行に推し進めた。「土地調査事業」とは、1910年から18年まで8年かけて実施されたもので、朝鮮全土の土地を対象に、その所有権を確定していくものであった。確定に当たっては「申告主義」によって確定作業が実施されたため、厳密さを欠き、その多くが国有地に編入され、耕作所有地を失う農民が続出した。

これと並行して展開された、山林を対象とした「林野調査事業」も同じく「申告主義」に基づいたため、村落共同林などが国有林に編入され、薪などの燃料の供給が絶たれて困窮化する農民が続出した。

彼らは、故郷を捨て、都市流浪民となるか、海外に新天地を求めて脱出する以外に生きる術を失った。1910年代末で、海外に移り住んだ朝鮮人は60万人以上に及ぶといわれる。元来なら、農村を放逐された農民を都市工業が吸収するというのが一般的な経済発展の道であろうが、1910年以降、総督府は「会社令」を施行して朝鮮での工業発展を抑制した。「会社令」とは、朝鮮で会社を設立する時は総督府の「許可」を得るべしというもので、「届け出制」をとっていた日本よりははるかに厳しいものであった。

とくに1910年代初期にはその傾向が強く、第一次世界大戦勃発による好景気の影響が朝鮮にも出てきて日本からの企業進出が積極化する1910年代半ば以降は、その制限が緩和されるが、それでも日本よりは厳しい規制を受けていたことは間違いない。

このため、「会社令」は朝鮮人実業家に悪評だっただけでなく、朝鮮への進出を希望していた日本人企業家にも不評だった。

1910年代後半に朝鮮は、日本ほどではないにしても「大戦ブーム」の時代を迎える。表面的には好景気に沸いたように見えるが、内実は、貧富の格差が拡大し、インフレの進行は、貧困層の生活困窮を推し進めた。小作争議や労働争議が増えて、一部の活況と同居して世相は騒然とした雰囲気を増し始めていた。

 

31運動の勃発と展開
 

1910年代後半の朝鮮における不安定な経済状況と不満の高まりに、第一次世界大戦中のロシア革命の勃発、大戦後のベルサイユ講和会議での米大統領ウイルソンの民族自決の提唱の影響波が重なり、なにかのきっかけさえあれば、大きな独立運動の高まりが生まれる条件が成熟しつつあった。

おりしも髙宗の死去の原因として日本による毒殺説が流れ、朝鮮人の反発の雰囲気が高まるなか、19192月初めに東京の朝鮮人留学生600人が東京神田のキリスト教青年会館に集まり、独立宣言文を発表して内外世論に訴える行動を起こし、運動を広げるために朝鮮各地に散っていった。朝鮮内では、天道教、キリスト教、仏教の主だった指導者が結集し、独立運動を計画した。著名な歴史家であり、作家でもあった朴殷植(パク・ウンシク。1859-1925)が執筆した独立宣言文に、天道教教主の孫秉熙を筆頭に33名の宗教界の代表が民族を代表して署名したことは前述したとおりである。この独立宣言文は31日にソウルのパゴタ公園で発表された。別の場所に集まっていた宗教指導者たちは即座に逮捕されたが、パゴタ公園の学生をはじめ一般の民衆は、ソウルでデモ行進を開始した。しかし、「朝鮮独立万歳」の叫びは瞬く間に朝鮮全土に拡大した。3月後半から4月にかけての運動の拡大と先鋭化ともに日本側の弾圧は強化され、武力的対決の様相を呈し始めた。

当初は、日本側も「武器の使用は万止を得ざる最後の時期までこれを差し控えること」としていたが、4月初めからは「我が命令に抗しあるいは騒擾を反復する等のごとき場合に在りては軍隊は断然所要の強圧手段を用い彼らをして畏服屏息せしむると同時に一般民衆をして相戒めしむるところあらしめ以って速やかに鎮圧平定の功を挙げんこと肝要成り」(『朝鮮三・一独立騒擾事件』)として強硬策に出ることを命じていた。

そして日本側は4月以降、兵力6個大隊を増強して運動の鎮圧に努め水原(スウォン)郡提岩里(チエアムリ)でのキリスト教徒虐殺にみられるような力攻めに出た結果、多くの犠牲者を出して運動は沈静化した。朝鮮人の被害は、死者7509人、負傷者15961人、逮捕者46948人、焼却民家715戸、焼却教会47、学校2に上った(武田幸男編『朝鮮史』)。

 

31独立運動をめぐる総督府内の確執


 
当然こうした事態に対して、朝鮮総督府内では責任問題が表面化したことは言うまでもない。その矛先は、朝鮮の「武断政治」の要をなす憲兵警察制度に向けられていた。しかし、憲兵警察制度をいかに変えるかという問題は、すでに31独立運動が勃発する前から日本の政界のなかで論議されていた。憲兵警察制度を日韓併合前後の時期に施行するのはある程度やむを得ないとはいえ、その後、たとえ義兵闘争が朝鮮の随所で展開されているにしても、一般住民まで巻き込んだ日常生活にまで憲兵や補助憲兵が監視の目を光らせることに対しては、かえって治安上逆効果となるのではないか、という危惧を感じていたためである。

併合後から陸軍省では、憲兵警察制度は臨時の措置にすべしという意見が出され、長谷川総督の下で事実上の政務を仕切っていた政務総監の山県伊三郎(やまがたいさぶろう)も武断統治体制を改革すべしという見解をもっており、総督の長谷川とはこの点で微妙な温度差を示していたという。政友会のなかでも1913年の第一次山本権兵衛内閣時に朝鮮総督府官制改正の動きがみられた。しかし、山本内閣は翌142月のシーメンス社の日本海軍高官への贈賄事件(シーメンス事件)で総辞職したため、この改革案も実現せずに終わった。

また、政友会の中心人物である原敬は、積極的な「内地延長主義」者であり、朝鮮での武断政治の根幹である憲兵警察制度に対しては批判的で、普通警察制度への切り替えを念頭に置いていた(『日本の植民地支配と警察』)。

一方、こうした議論に対しては、山県有朋、寺内正毅、長谷川好道らは批判的で、憲兵警察制度の存続と強化を主張していた。とくに長谷川は、憲兵による武断統治に関しては、強い信念を持っていた。彼は前述したように、併合前の1904年から08年まで韓国駐軍司令官として、武力をもって併合への道を突き進み、義兵闘争と真正面から向き合う姿勢をもち続けた人物であり、その姿勢を持ったまま朝鮮総督に就任した経歴を持っていた。

朝鮮人の反日闘争と向き合ったという意味では、寺内とともに、否、韓国駐軍司令官として現場を指揮していたという意味では寺内以上に、武力による弾圧と平定にこだわり続けたといえなくもない。頑固一徹な彼の性格と相まって、総督府内での確執は、31独立運動の勃発とともに、その激しさを増していったとしても不思議はあるまい。

 

大戦後の朝鮮社会


 
31独立運動の衝撃が、朝鮮総督府の機構改革問題に火をつけたことは間違いない。長谷川は事件の責任をとって19198月に総督を辞任したが、問題は後任をだれにするかであった。寺内、長谷川両総督時代の政務総監だった山県伊三郎が候補の一人にあがった。彼の養父は、山県有朋であり、しかも彼は総督府機構問題では改革的意見の持ち主であったため、その意味では最適な候補の1人だった。

原敬は彼に白羽の矢を立てたが、肝心の山県有朋の合意を取り付けることができなかった。彼自身は、総督就任へ意欲を示したが、養父の同意が得られないとすれば、断念せざるを得ない。山県伊三郎が後継者となれば、彼も長谷川同様31独立運動の責任を背負う立場にいたわけで、当然世論の批判を受けたことは間違いない。養父山県有朋はその辺を配慮したのではないか。

結局、後任には、海軍大将の斎藤実が就任し、政務総監には水野廉太郎が就いた。斎藤は、性格温厚で国際感覚に優れ、欧米各界に多くの友人をもつ人物で、一時混乱した朝鮮を収拾するには最適の人物だった。

彼は、のちに515事件で犬養毅が暗殺された後の事態収拾のため総理大臣に就任しているが、1936年の226事件で青年将校によって暗殺された。水野は内務省官僚として優れた行政能力を有し、斎藤と組んで1920年代の「文化政治」を指導した。弾圧一辺倒の武断政治に替えて、教育を重視し、親日派を育成し、産米増殖計画を推進するなど、一連の産業政策を推進して支配の様相の転換を図ったのである。しかし、それは支配そのものを廃棄するものではなく、あくまでも支配の巧妙さを追求するものにほかならなかった。

 

 

≪参考文献≫

市川正明編『三・一独立運動』1 原書房 1983

岡本真希子「政党内閣期における文官総督制―立憲政治と植民地支配の相克」(『日本植民地研究』⒑。1998年7月)

武田幸男編『朝鮮史』山川出版社 1985

朝鮮憲兵隊司令部編『朝鮮三・一独立騒擾事件』厳南堂 1969

松田利彦『日本の朝鮮植民地支配と警察』校倉書房 2009

李炎姫「第一次憲政擁護運動と朝鮮の官制改革論」(『日本植民地研究』3 19908月)


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