呆気なく困難を克服

 

 今回は主に、明治14年(1881)の群馬が舞台だ。

 美和は亡き姉寿との約束でもあった、群馬の女性たちの学びの場を設ける。遠く萩では杉民治が、松下村塾を再興する。

 群馬県令の楫取素彦は、官営富岡製糸場の閉鎖を「決定」した中央政府に乗り込み、農商務卿の西郷従道に直談判する。そして、念願だった群馬の女学校開校式の最中、富岡製糸場閉鎖中止の電報が届き、一同大喜びとなる。その時、楫取は少女たちを前に「色と香りは花が生きる力です」との演説をしており、背後には「至誠」と大書した額がわざとらしく掲げられている(個人的なことだが、最近「至誠」という文字を見ると、なんかもう、うんざりしてしまうのは、はっきり言ってこのドラマのせいだ)。

 さらに阿久沢勧業課長夫婦は、楫取と美和に再婚を勧めるところで、今回はおしまい。

 毎度のごとく大半は、フィクションだ。時代考証も目茶苦茶怪しい。それはもう、ドラマだからよい。

 ただ、主人公たちが眼前に立ちはだかった困難の壁を、いかにして乗り越えて人生を前進させてゆくかを描くのが、ドラマではないのかといった、素朴な疑問が沸く。基本中の基本だが、ひとつひとつのエピソードを、作り手側が熱意と愛情をもって、もっと丁寧に展開させてやらなければ、視聴者側に何の印象も残るわけがない。

 たとえば、今回のタイトルにもなっている富岡製糸場閉鎖の問題にしても、工女たちが嘆願書を書き、その束を楫取が西郷のもとに届けると、なぜか呆気なく解決してしまう。政府により一度「決定」された方針が、あまりにも簡単にひっくり返ってしまう。こんな甘っちょろい政府など、世界中のどこにも存在しないことは、子供でも分かりそうなものだ。

 有名な話だが…、黒沢明監督が「隠し砦の三悪人」(昭和33年)という、数々の困難を乗り越え、敵中突破を果たす数人を描く戦国時代劇を製作した時のこと。複数の脚本家が、一軒の旅館で合宿して脚本を書き進めた。黒沢は、次のように語っている。

「シナリオを書いている時、朝起きて僕が絶対に突破出来ないという設定を作る。すると他の三人(菊島隆三、橋本忍、小国英雄)が、何とか突破しようと苦心する。こうして毎日少しずつ書き進めて出上がったもので…」

 このドラマは、こうしたディスカッションが、まともに行われていないとお見受けする(もし行われていたとしたら…それは余りにも失礼なので、言えません)。なんでもかんでも、「至誠」のひと言で片付けられるものでもあるまい。今後、「至誠」を座右の銘とすると言う政治家がいたら、僕は笑ってしまうかも知れない。ともかく、あと2回で終わりである。

 

富岡製糸場と楫取の関係

 

 史実では、明治5年9月に開設された富岡製糸場は官営の模範工場とされたが、経営の収支上では数々の問題点があった。政府は明治13年11月に官営工場の払い下げを発表し、大半の官営工場は明治17、8年ころまでに払い下げが完了する。

 ところが富岡製糸場は、規模が大きすぎたため、なかなか買い手がつかず、政府は閉鎖も検討したという。しかし紆余曲折を経て明治26年11月、三井家に12万1460円で払い下げられる。以後経営者は変わったが、昭和62年(1987)まで続いた。

 近年、閉鎖の危機から救ったのは、楫取だったのではないかとの説が出ている。地元の新聞には「富岡製糸場を救った楫取」の見出しで、記事が掲載されたという。

 その根拠は国立公文書館蔵「公文録」中にある、楫取が明治14年11月に農商務省へ提出した意見書のようだ。これによると富岡製糸場が全国製糸工場の模範となったこと、欧米にも名声が広がっていることを列挙して、政府が廃滅したら恥になるなどと訴えている(石田和男「楫取素彦と群馬県政」『男爵楫取素彦の生涯』所収)。

 ただし、この楫取の意見書が官営の継続に直結しているのか否か、どれほどの影響力があったのかについては、いま少し検討の余地があるように思えてならない。

 この点、僕は調べていないのだが、本当に明治政府はドラマのように閉鎖を「決定」したのだろうか。「決定」が一県令の意見書一枚でひっくり返ったとすれば、それはもう「奇跡」だろう。しかも、その「奇跡」の「史実」が百年以上、埋もれていたのは、もっと「奇跡」だと思うが、真実は如何に。ただ、ドラマの影響が現実の社会の中で、楫取の神格化に繋がらないことを祈るのみである。

 なお、ドラマには登場しないようだが、富岡製糸所の所長を二度も務め(3代・5代)、世界的な生糸価格下落も乗り切ったりした速水堅曹の功績は、いまも語り継がれている。払い下げにさいし速水は、

「おもひきや 手植の菊も この頃の 雨と風とに あはむものとは」

 と詠んだ。丹精込めて育て上げた製糸場を、手植えの菊になぞらえたのだ(今井幹夫「官営富岡製糸場」『産業遺産を訪ねる・上』所収)。

 

上州人の土性骨

 

 今年10月末、群馬県富岡市の富岡製糸場を訪ねてみた。昨年、ユネスコの世界遺産に登録された創業当時の壮麗な建物は圧巻だったが、それとは別に面白い発見があった。

 大変失礼ながら僕は訪れる前、富岡の町じゅうが「花燃ゆ」の幟で埋め尽くされ、ドラマのテーマ曲が流れたりして、楫取が「恩人」として崇められているのではないかとの悪い想像をしていた。そのような、捏造まみれの「お国自慢」光景を、他所で嫌というほど沢山見て来たからである。

 ところが、上信鉄道上州富岡駅から富岡製糸場までの間(徒歩10分ほど)、土産物を売る店が軒を並べてはいたものの、「花燃ゆ」の幟や看板などは見当たらない。いただいたリーフレットには、「花燃ゆ」や「楫取素彦」の文字はない。建物の内外にいくつもある説明板やキャプションなどにも、「楫取素彦」の名は出ていなかった。いずれも僕が見つけられなかっただけかも知れぬが、即席でドラマに迎合しようといった、安易で下品な印象は受けなかった。そこにこそ僕は、富岡の「至誠」を感じた。

 また同じ日、群馬県高崎市倉渕町権田の小栗上野介(忠順)の史跡にも行ってみた。さすがに「花燃ゆ」の幟が立っているとは思わなかったが、それでも楫取が治めた群馬県の一部である。

 ちなみに小栗上野介とは幕末、横須賀製鉄所の建設を推進したりした開明派の幕臣だ。江戸城開城に異を唱え、戊辰戦争の最中、押しかけて来た新政府軍によって知行地であった権田の河原で斬首されるという、悲劇的な最期を遂げている。近年山口県のマツノ書店が小栗の伝記を3冊も復刻しているのを見ても分かるとおり、大変魅力的な人物だ。

 小栗墓所のある権田の東善寺では、住職が中心となって、顕彰活動が熱心に行われていることは知っていた。同寺で発行されている「小栗上野介情報 60号」には本年、世界遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」の一覧が掲載されているのだが、住職は「横須賀製鉄所こそ慶応年間から蒸気機関で稼働していたほんとうの『幕末明治日本産業革命の地』」だと主張する。さらに「問題点」として、

「『4萩城下町』『5松下村塾』『19グラバー邸』は産業革命遺産とは無関係」

 と指摘。これには、びっくりぽんである。

 いずれも、中央政府から「治め難い」と敬遠された上州人の、逞しい土性骨を見たような気がした。


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