中央豪族の祖・武内宿禰とは何者か
 

前回は、いわゆる神功皇后の「三韓征伐」の真相について考えたが、その実態は『日本書紀』が神功皇后の記事の後半に載せた朝鮮半島南部への出兵のことで、その時期は九州での仲哀天皇の死後まもなくのことで、その時に用いられた兵力は仲哀天皇が九州遠征に率いていたものだったと思われるとした。

この遠征は、神功皇后の九州制圧の直後に行われたもので、目的は加羅(から)地域に進出していた新羅(しらぎ)勢力の駆逐と半島南西部を百済(くだら)と協力して制圧することであったらしい。その後、半島南西部は百済領に編入されたから、神功皇后は百済の為に一肌脱いだというわけだが、その見返りとして、百済は毎年ヤマト政権に「調(みつき。朝廷への物納税)」を貢上することとなったわけである。これらの成果は、九州に駐留中の神功皇后一行によってなされたもので、仲哀が遠征に出発したあとの中央政府のあずかり知らないものだったのである。つまり、神功皇后は九州で中央政府とは独自の動きを示したのである。

さらに遠征中、九州で仲哀と神功との間に皇子が誕生した。『古事記』と『日本書紀』ではこの誕生は仲哀天皇の死後のこととされ、住吉(すみよし)の神によって神功皇后の胎内にいるときからこの国を治めることを託されたように神秘化されているが、それはこの皇子が大王位についたことを正当化するレトリックであろう。実際には、この皇子を擁して、九州で独自の軍事・外交活動を始めた神功皇后の勢力が、軍事力をもって中央政府を打倒して政権を掌握したのである。記紀が忍熊王(おしくまおう)の乱と記している出来事である。この政権の確立に欠かせない人物が武内宿禰(たけしうちのすくね)である。

では、そもそも武内宿禰とは何者なのか。彼が歴史上に登場するのは、景行天皇の時代で、東国に派遣されて蝦夷についての情報を報告したという。さらに景行の子、成務天皇のもとで国・県という地方支配の制度を整備するのに尽力したという。そして仲哀天皇の九州遠征に同行し、神功皇后の神がかりの時にも同席して彼女が語る神の言葉を聞いたとされる。その後、神功皇后の一行が凱旋する時は、皇子を擁して紀伊の水門に向かい、神功に抵抗する仲哀の子、忍熊王を滅ぼすことに力を尽くすのである。つまり、神功政権の確立は彼なくしてはありえなかったといってよい。この功績によってであろうが、彼を始祖とする奈良盆地南西部の豪族が、大臣(おおおみ)というヤマト政権の重臣に就任することとなるのである。

これは武内宿禰を歴史上の人物とみた場合の見方だが、現在、彼を実在の人物とみる学者はすくない。それはなにより、彼が異様な長寿を保ったとされているからである。先に見たように彼は景行天皇の時代からヤマト政権の一員として活躍し、『日本書紀』によれば仁徳天皇の時代まで生きていたという。神功皇后を含めて6人の大王につかえたわけで、『日本書紀』の年代を踏まえれば、二百数十年にも及ぼう。比叡山の僧、皇円(?~1169)が平安時代後期に著した『扶桑略記』には、仁徳55年に282歳で亡くなり、6代に244年にわたって仕えたとある。したがって、武内宿禰は実在の人物ではなく、大臣の地位についたような有力豪族の共通の始祖として作り上げられたものだというのである。そのモデルとしては蘇我馬子や中臣鎌足が候補として挙げられている。

もっともな疑問に思われるが、はたして彼はそのような架空の人物なのだろうか。私は、この人物をあらためて歴史の中で位置付けてみたく思うのであるが、それは無茶なことだろうか。

彼は『古事記』では第8代孝元天皇の皇子、ヒコフツオシノマコトノミコトの子で、母は木国造(きのくにのみやつこ)の祖、ウヅヒコの娘の山下影姫(やましたかげひめ)であったという。つまりは天皇の孫ということになる。これにたいして『日本書紀』では、ヒコフツオシノマコトノミコトは武内宿禰の祖父ということになっていて、武内宿禰は孝元天皇の曾孫ということになる。つまり、『古事記』では武内宿禰は第10代崇神天皇のいとこということになる。『日本書紀』では第11代垂仁天皇と同世代ということとなるわけである。

このように記紀で異説があるということは、武内宿禰が記紀編纂に近いころに創作されたような人物ではないことを示しているのであって、中臣鎌足(なかとみのかまたり)や蘇我馬子(そがのうまこ)をモデルにして造作された人物だという説には無理があると私は思う。

ちなみに、武内宿禰は300歳の高齢を保った人物とされ、実在性が疑わしいとされているが、これは天皇の治世を延長した結果であって、景行天皇から仁徳天皇までの神功皇后を含めると6代に仕えたのは、4世紀初頭から5世紀初頭にかけてのことで、実年代では100年程度に収まるだろう。仮に120歳ほどの長寿とすればありえないことではない。また彼は崇神天皇か垂仁天皇と同世代になるが、年齢がはっきりしないから、その活躍が崇神の孫の景行天皇の時代からであるのは、矛盾したことではない。

そこで私は、本稿で武内宿禰を実在の人物として、ヤマト政権の発展の歴史に位置付けてみたい。もちろん、これが史実と断言はできないにしても、いちがいに否定してしまうのはヤマト政権の歴史を考察する観点のひとつを封殺することになると思う。

このような観点に立ってヤマト政権の歴史を論じれば、彼の出自からもヤマト政権の発展を推測することができる。武内宿禰の母は木(紀伊)の豪族の娘だが、『古事記』によれば、武内宿禰の異母兄(『日本書紀』では弟)に葛城(かつらぎ)のタカチナビメを母とするウマシウチ宿禰がいた。彼女の兄のオホナビは尾張連(おわりのむらじ)らの祖で、尾張氏が葛城の出身であることがこれでわかる。孝元天皇の時代といえば、四道将軍の派遣などでヤマト政権が大きく拡大する直前の時期で、紀伊や葛城の首長と婚姻を通じて結びつきを深めていったさまがうかがえるのである。

 

葛城地域の豪族たち
 

このように彼の誕生そのものからヤマト政権と紀伊、葛城の豪族との関係がうかがえるのだが、とくに葛城を中心とする奈良盆地南西の地域は、武内宿禰の子孫が分布する地域で、彼とのかかわりが深い。この地域は古墳も多く、また近年、古墳時代の遺跡がいくつも発見されて、ヤマト政権の中枢と思われる奈良盆地東南部とならんで、この時代の非常に重要な地域のひとつと考えられている。この地域の歴史を文献から迫ってみたい。

葛城は奈良盆地の南西部、金剛・葛城山地のふもとに広がる地域である。尾張氏は火明命(ほあかりのみこと)を祖神としている氏族で、いつから葛城に住み着いたかはよくわからない。火明命は九州の高千穂(たかちほ)に降臨したニニギノミコトの子で、この出自を信じれば九州起源の氏族だということになる。神武天皇以外にも九州から東方に移住した集団がいくつもいたというのが私の主張であることは、読者の皆さんにはすでにおわかりだと思うが、尾張氏もその一例で、神武天皇などよりも早く九州から奈良盆地に移住し、金剛・葛城山地の東麓に住み着いたのであろう。

いっぽう葛城には事代主(ことしろぬし)神が祭られていた。『日本書紀』には、天孫降臨神話の第2の一書にフツヌシ神に帰順した神として、大物主(おおものぬし)神と事代主神の名がみえている。これは、一種の国譲りの神話で、奈良盆地の神がヤマト政権に服属したことを示している。つまりは、奈良盆地に外部から侵入したヤマト政権の祖先、具体的には神武天皇一行に盆地土着の勢力が帰順したことをあらわしているのであろう。このうち大物主は三輪(みわ)の神であるが、もうひとりの事代主神が葛城の神であった。

平安時代に記された、全国の官社を一覧にした『延喜式(えんぎしき)』「神名帳(じんみょうちょう)」には、大和国葛上(かつじょう)郡に鴨都波八重事代主命(かもつみわやえことしろぬしのかみ)神社がみえている。この神社は、現在、鴨都波(かもつば)神社として奈良県御所市にあり、しかも神社の周囲一帯が鴨都波遺跡という弥生時代からの遺跡が分布しているので、ヤマト政権に服属する以前からの葛城地域の中心地であったことがたしかであろう。そして、鴨都波遺跡の存在からみて、葛城地域は弥生時代から発展していたらしいのである。

この事代主神を祭っていたのが鴨氏であったろう。『日本書紀』によれば、第3代安寧天皇の后で懿徳天皇の母の渟名底仲媛(ぬなそこなかつひめ)は、事代主神の孫で、鴨王(かものきむ)の女だという。ということは、鴨王は事代主神の子と伝えられていたわけで、私はこの鴨王が鴨氏の始祖であったと考えている。

さらに、『日本書紀』には、神武天皇の時代に、剣根(つるぎね)命が葛城国造に任じられたと見え、その剣根は葛城直(あたい)の祖となっている。この葛城氏と鴨氏との関係ははっきりしないが、やはり別の氏族とみたほうがよいであろう。葛城地域で、鴨氏などと共存していたのではないだろうか。

つまり、神武天皇が奈良盆地に侵入してきたころ、葛城地域には弥生時代から住み着き、事代主神を祭っていた鴨氏や、同じく土着の豪族と思われる葛城氏、さらに九州から移動してきた尾張氏など、いくつかの氏族集団が住み着いていたのである。それらの氏族のうち、ヤマト政権とまずむすびついたのが国造に任じられた葛城直であったのだろう。葛城地方の弥生遺跡の調査からその実態が解明されることに期待したい。

なお葛城直は武内宿禰の後裔である葛城臣とは別の氏族である。ウジ(氏)のランキングを示す姓(かばね)が異なればウジの名が同じだとしても別々の氏族なのである。

さて葛城は、当初は国と位置付けられていて、ヤマト政権のおひざ元である盆地南東部とは、相対的に独立した地域であったらしい。これは神武天皇の時代に、葛城の国造が任命されていることからもいえる。このとき国造に任じられた剣根は、葛城土着の豪族とみてよいだろう。この時期、ヤマト政権の王たちは盆地南東部の纏向(まきむく)に王宮をかまえていた。その周辺が王権の中枢だったのである。初期の王たちはこの地域の豪族と婚姻をむすび、かれらは県主(あがたぬし)に任じられていた。それにたいして、葛城は国として把握される、また別の一地域であったのである。

ところが、いつしか葛城は大和国の一部となり、律令国家のもとでは大和国で葛上郡と葛下郡を構成するようになる。また『延喜式』の祈念祭の祝詞などでは大和の六ヶ所の県のひとつとして葛城県がみえ、郡となる前は県であったらしい。つまり葛城国は葛城県となり、国造であった葛城直は県主に格下げされたわけである。

このように葛城国が葛城県に格下げされたことは、この地域がヤマト政権によりつよく支配されるようになったことを意味しよう。これがいつのことかはあとで検討するが、すくなくとも孝元天皇の時代では、葛城の豪族は纏向の豪族、つまりのちの大王家の同盟者の位置にあり、その間に婚姻関係が形成されるような間柄だったのであろう。この葛城地域を勢力圏としたのが、武内宿禰だったのである。

 

武内宿禰による葛城地域掌握
 

さて、武内宿禰の支配地域は、その息子たちの分布でほぼ推測することができる。『古事記』によれば、武内宿禰の男子として、波多八代(はたのやしろ)宿禰、許勢(巨勢)小柄(こせのおから)宿禰、蘇賀(蘇我)石河(そがのいしかわ)宿禰、平群都久(へぐりのつく)宿禰、木(紀伊)角(きのつの)宿禰、葛城長江曽都毘古(ながえのそつひこ)、若子宿禰があげられており、若子(わくご)宿禰以外はみな地名を冠しており、紀伊を除けばみな奈良盆地の南西部、葛城とその周辺であることが注目される。つまり、平群は葛城の北に位置する平群郡、波多、巨勢、蘇我は葛城地域の西隣の高市(たかいち)郡の地名である。

冒頭で述べたような、武内宿禰の実在を疑う立場では、彼の子どもたちとそこから分かれた諸氏族の系譜は後世になってまとめられたということになるが、私は武内宿禰の支配地が子供たちに分割されたとみることで、あらたにわかってくることがあると思う。

しかし、葛城地域が最初から武内宿禰の勢力範囲であったかどうかについては、問題がある。というは、武内宿禰の母は先にみたように、紀伊の豪族の女性であって、その点では葛城の女性を母としている弟のウマシウチのほうが葛城との関係が深い。武内宿禰が紀伊と関係が深いことは、神功皇后一行の凱旋の時に、忍熊王が住吉に兵を集めていることを知った皇后が、ホムタワケ(のちの応神天皇)を擁して紀伊水門に向かわせていることからもいえる。それにたいして、もともと葛城に勢力を有していたのは、母が葛城の出身であったウマシウチではなかったろうか。

ここで興味深いのが、『日本書紀』応神94月条が伝える甘美内(ウマシウチ)宿禰の没落である。それによれば、武内宿禰が筑紫(ちくし)に遣わされている間に、ウマシウチが、武内宿禰が筑紫を分離して朝鮮諸国(三韓=百済・新羅・高句麗)を招いて天下を取ろうとしていると天皇に讒言し、天皇は武内宿禰を殺そうとして使者を派遣するが、武内宿禰とよく似た壱岐真根子(いきのまねこ)が彼に代わって自殺し、武内宿禰は紀水門から朝廷に帰還して、磯城川(しきがわ)のほとりで探湯(くかたち。熱湯に手を入れて真偽を判定する神判)をして無実をはらしたという。

ここでウマシウチが述べている武内宿禰の謀略は、九州で自立して政権を奪取した神功皇后の方法と酷似しているのが興味深いが、それはともかく、その結果、ウマシウチは身柄を紀直の祖に預けられてしまったという。紀直は紀国造を世襲する氏族で、武内宿禰の母の実家にあたる。

私は、このとき武内宿禰は弟のウマシウチを倒して葛城地域をも手中におさめたのではないかと思う。実年代は確定できないが、4世紀の末とみていいだろう。ここで注目されるのが、4世紀前半の巨大建物が発見されている奈良県御所市の秋津(あきつ)遺跡である。この年代が信用できるとすれば、景行・成務・仲哀の時代に相当することとなる。先に私は『仁徳天皇』のなかで、素朴に秋津遺跡を武内宿禰に関係するものだと述べたが、むしろこの遺跡はウマシウチに関係するとみるべきではないかと思い始めている。つまり、4世紀前半の王宮が纒向から近江に移る頃、葛城地域はヤマト政権の実力者であるウマシウチが支配するようになったのではなかろうか。先ほど述べた葛城国から葛城県への格下げはこのあたりの出来事であったとように思われるのである。そして、この地の支配権はウマシウチから武内宿禰に移り、さらにそれを継承したのが葛城襲津彦、いわゆる葛城氏の祖となる人物であったのであろう。

このように。これまで架空の人物とされてきた武内宿禰を再検討することで、ヤマト政権の発展過程、とくに葛城地域とのかかわりをやや具体的にあとづけることができたのではないかと思っているのだが、次回はその葛城に君臨した葛城氏の盛衰について論じてみることとしたい。

 
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