神話と古代史


 この連載もついに最終回。従来ともすれば否定的にみられがちだった『日本書紀』や『古事記』を用いて、古代国家の成立過程を論じるという当初の目論見が、はたして成功しているかどうかは読者の判断にゆだねたいが、これまで、タイトルに神話をかかげながら、その実、神話そのものにはほとんど触れなかった。その理由は連載冒頭で述べたとは思うが、まったく神話に言及しないのもいかがかと思うので、最後にすこし思っていることを語りたい。

 一般に記紀神話と一括している日本の神話だが、両者には大きな違いがある。まず『古事記』の神話が、それまでの諸説を集成したものであることは、その序文が「削偽定実」と述べていることから明らかで、そこから本来の神話を論じるのはむつかしい。たとえば、『古事記』の神話をそのまま外国の神話と直接比較するのは、あまり意味がないというか、かえって危険だと思う。その点では『日本書紀』の本文や一書といわれる別伝のほうが、『古事記』よりも集成される前の神話を考える材料となるだろう。

このことは神話以外の歴史時代の記述にもいえることであって、私は史料としては『日本書紀』のほうが有効な場合が多いと考えている。

 それはさておき、『日本書紀』の神話も、それが『日本書紀』に採用されるまでにはすでにいくぶんか変化している可能性は否定できない。もともと『日本書紀』や『古事記』にみえるような物語だったかどうかは問題があるのである。もちろん、記紀神話の核となる部分はヤマト政権の神話とみられるが、それにヤマト政権の全国統一の過程で、他の小国家のもっていた神話がとりこまれていった可能性があるということである。

 この際、検討するうえで留意したいのが、本稿で私がとったスタンス、つまり、ヤマト政権も小国家から発展したのであり、そのような国家はほかにもいくつか存在したという視点である。私は本稿を通じて記紀の記述からその過程に迫れることを示したのだが、そうすれば神話もまたそのような観点から考えるべきであろう。つまり、記紀が記すヤマト政権の歴史が特別なものでないのと同様に、記紀神話もまた特別な神話ではないということである。これは津田左右吉以来の、記紀神話が皇室の由来とその統治を正当化するためにつくられたとする考えの対局の観点である。

この観点にたって、記紀神話の成立を古代国家の成立過程と関連させて考えてみると、わかってくることがあると思われる。

 ある地域がまとまっていくときに、それらの地域の神々が、血縁関係をもつものとしてまとめられるケースがある。その代表的な例が播磨(はりま)の場合である。『播磨国風土記』には、伊和大神(いわのおおかみ)の小神が揖保(いぼ)郡、讃用(さよ)郡、神前(かんざき)郡にみえる。もともと伊和とは宍粟(しそう)郡の地名で、伊和大神はそこの神であったと思われるから、その地の勢力が揖保郡、讃容郡、神前郡に拡大し、地域の神々をみずからが奉じる神の子神として位置づけていったとみられるのである。

ところがヤマト政権の場合、地域の神々はかならずしもその神統譜のなかに位置付けられているとはいえない。アマテラスの弟とされたスサノヲ以外には、アマテラスとスサノヲの誓約(うけい)で生まれたという宗像(むなかた)三神や伊弉諾(いざなき)命の禊(みそぎ)で誕生した住吉(すみよし)三神などが思い浮かぶ程度である。つまり、ヤマト政権は服属した地域の神々をみずからの同族として組織することにあまり熱心ではなかったということである。

 それにたいして、ヤマト政権は地域の神々を祀ることは行っていた。『日本書紀』欽明1311月条の仏教伝来の記事では、国家つまり天皇が天下の王たるのは、「天地社稷百八十神」を春夏秋冬に祭ることにあるとみえる。じつにそれが天皇の第一の任務だったのであるが、それも記紀によれば当初からのことではなく、崇神天皇の時代になってからのことという。

 それはすでにこの連載でも触れたように、崇神天皇の時代の疫病流行が三輪(みわ)の大物主(おおものぬし)神の祟であって、それを鎮めるために三輪の祭祀が始まったのだが、そのとき同時に占いに他の神を祭ることも吉と出て、そこから八十万の神を祭ることになったという(崇神711月己卯条)。

つまり、それまではヤマト政権は自分たちに関係のある神々は祭るけれども、征服地の神々にたいしては、その祭祀すらおろそかにしていたのであって、まして自分たちの祭る神々と血縁関係を結ぶなど思いもしなかったであろう。つまり、それだけヤマト政権は被征服者にたいして強圧的だったのであって、その後も基本的には、自分たちの神々の系譜に被征服者の神を取り入れることはあまりなかあったのである。

このようにみればヤマト政権がみずからの神統譜に組み込んだ神々は、ヤマト政権にとって特に重要な神々であったのであろう。たとえば、住吉三神は神功(じんぐう)皇后の朝鮮出兵にかかわりの深い神であり、応神の王位継承の正当性を保証する神であったのである。そしてすでに述べているように、出雲の神はヤマト政権にとって恐るべき祟り神であったのであって、とくに神統譜に組み込まなければならない神だったのである。したがって、もともとヤマト政権が伝えていた神話は、出雲的要素を省いたものであったはずである。そして、それは、単純な天上世界での神々の物語とその子孫の地上への降臨を述べたもので、そのような神話は各地に普通に存在したと思われるのである。

 ところで、ヤマト政権の神統譜には組み込まれなかったが、被征服者の神々が系譜上まとめられることはあった。それは記紀編纂時以前にみられ、その代表例が、出雲(いずも)の大国主(おおくにぬし)命と大和の三輪山の大物主神を同一神とする見方である。そしてさらに、葛城(かつらぎ)の事代主(ことしろぬし)神や諏訪(すわ)のタケミナカタが大国主命の子だというのもその例である。現在、いわゆる出雲系の神々が日本全国に分布しているのは、ひとつにはこのような神々の習合現象が原因だと思われる。

 そして、この習合現象は、記紀神話が成立したあともやむことはなかった。その点で興味深いのが『出雲国造神賀詞(いずもくにのみやつこかむよごと)』である。これは出雲国造が代替わりごとに中央に出向いて捧げる祝詞で、そのなかに一種の出雲神話が語られている。その内容はこうだ。

  高天の神王、高御魂命の皇御孫(すめみま)命に天の下大八島国を事避(ことよ)さしまつりし時に、出雲臣等が遠つ神、天のほひの命を、国体(くにがた)見に遣はしし時に、天の八重雲をおし別けて、天翔り国翔りて、天の下を見廻りて、返事(かえりごと)申したまはく、「豊葦原の水穂の国は、昼は五月蠅(さばえ)なす水沸き、夜は火瓮(ほべ)なす光(かがや)く神あり。石根・木立・青水沫(みなわ)も事問ひて荒ぶる国なり。しかれども鎮め平(む)けて、皇御孫命に安国と平らけく知ろしましめむ」と申して、己命(おのれみこと)の児、天の夷鳥(ひなとり)命にふつぬし命を副へて、天降し遣はして、荒ぶる神等を撥(はら)ひ平(む)け、国作らしし大神をも媚び鎮めて、大八島国の現つ事・顕し事、事避さしめき。

 これは記紀とはまた違った神話である。これはいったいどういう神話なのか。まず出雲の地元での神話である可能性がある。つまり、ヤマト政権の首長である大王家の始祖であるニニギノミコトと同じように、出雲の首長である国造家つまり出雲臣もまた、その始祖のホヒノミコトとアメノヒナトリノミコトが天降ったという始祖伝承を持っていたのである。アメノヒナトリは『日本書紀』崇神607月己酉条には、武日照命(たけひなてるのみこと)また武夷鳥(たけひなとり)ともあり、『古事記』にもホヒノミコトの子とみえる。そして『日本書紀』では、武日照命が天から持ってきた神宝をヤマト政権が接収したことになっている。

 このようにみれば、記紀神話が高天原から最初にホヒノミコトを降臨させたが、大国主命に媚びて帰還しなかったというのは、ホヒノミコトの降臨という点だけをヤマト政権の神話に接続させたのである。

ここで国作らしし大神というのは、オオナムチノミコトつまり大国主命のことだが、これによると、大国主命は出雲氏の始祖が降臨する前に地上にすでにいたこととなり、出雲の古代史を考えるうえで重要な論点となるが、今は明確な見解に達していない。

ただ、『神賀詞』でホヒノミコトやヒナトリの行動が皇御命のための行いだとするのは、のちになって朝廷にいわば媚びた言い回しといわざるをえない。ましてオオナムチが「皇御孫命の静まりまさむ大倭国」と言って自分の和魂(にぎみたま)を大物主と称して三輪に坐し、アジスキタカヒコネを葛城の鴨(かも)、事代主を雲梯(うなて、高市郡)、カヤナルミを飛鳥にそれぞれ皇孫命の近き守り神として坐したというのは、記紀にもみられない説であって、大国主命のもつ祟神の要素を払拭しようという出雲国造家による新たな展開といってよい。そこではカヤナルミという神があたらしく出雲系の神として出て来るが、これは記紀神話よりもさらにあらたな習合現象である。

 ちなみに、この4柱の神々を祭る神社は飛鳥・藤原地域を取り囲むように分布しており(横田健一『飛鳥の神がみ』)、まさに王権の守護神として位置付けられている。したがって、『神賀詞』にみえる神話は飛鳥・藤原に王宮があったころ、出雲国造が主張し始めたものなのであろう。まさに神話の再編は続いているのである。この現象は、大きくいえば、仏教の浸透に伴う神仏習合の先駆形態ともいえ、近年注目されている中世社会での神話の読み替え、いわゆる中世神話の問題にもはるかに結びつく日本の宗教感覚だといえるのではなかろうか。

 

後口上
 

 以上、まだまだ論じるべきことは多く残っているとは思うが、まずはここで、記紀を活用して古代国家の成立過程を追いかける企ては、いちおう幕を閉じることとしたい。時代としては雄略天皇の時代までやってきたが、このあたりからは、『日本書紀』の年代も実際とほぼ合ってくるので、まずは一区切りというところであろう。これまでの連載で記紀がこの国の古代史を考えるうえでまだまだ多くの情報を有しており、それを無視するのではなく、積極的に活用してこそ、古代史はさらに豊かになるという私の年来の主張がわずかながらでもわかっていただければ、この連載が無駄ではなかったことになる。

もちろん、私の解釈が記紀の記述についての唯一の解釈ではない。研究はさらに多くの人々によって推進されていくものと信じるが、従来のような懐疑説で、その動きを封じてしまうことだけはないように、切に願っていることを言い添えて締めくくりの挨拶にかえたいと思う。ご愛読を感謝いたします。

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