龍馬暗殺の黒幕?
 

 永井尚志(なおゆき)は、江戸幕府の若年寄である。

 一説には坂本龍馬を暗殺した黒幕は、この永井尚志だったという説がある。

 尚志は、生前の龍馬とは親しい関係にあった。のちに述べるように、尚志は勝海舟と関係が深く、土佐藩の後藤象二郎とも懇意だったことで、大政奉還の前後、龍馬はたびたび幕府の重臣である尚志の居所を訪れ、幕府が政権を返上すべきことを熱心に進言しており、暗殺される数日前も面会していた。

 尚志も大政奉還には大いに賛意を示していた。なぜなら政権を返上して幕府は消滅しても、朝廷を中心とする新政府の盟主には慶喜が就任できることになっていたからだろう。これより数ヶ月前、すでに尚志は慶喜を朝廷の摂政関白をしようと動きはじめていた。勢いづく倒幕派を牽制し、朝廷をおさえて政令が二途にならぬようにするためであった。

 なのになぜ、龍馬を殺す動機があるのか。

 それは、龍馬が土壇場で武力倒幕に転換したからである。

 慶応三年(一八六七)九月、後藤象二郎は龍馬から提示された大政奉還論を引き下げて京都にのぼり、幕府の閣僚たちに大政奉還論を必死に説きはじめた。

 龍馬も十月になると尚志と会って政権の返上を説き、その言動に尚志は「龍馬は後藤より優れている人物だ」と感嘆した。だが、その裏で龍馬は、土佐藩を薩長倒幕派と結びつけようとしていたのだ。

 すでに九月の段階で、龍馬の手紙のなかに「大政奉還をすすめる後藤を引っ込め、倒幕派の土佐藩士板垣退助を京都へ送ろう」といった言葉が出てくる。

 結局、十月半ばに大政奉還が実現するが、「龍馬はその後も土佐藩を倒幕へいざなおうとしている」少なくとも尚志はそう判断した。

 徳川の臣たる尚志にとって、土佐という大藩に倒幕を入説する龍馬は、もはや、主家を滅ぼそうとする敵でしかない。つまり、殺す動機は十分にあったのだ。

 

幕末の隠れたキーマン
 

 じつは尚志は当時、京都で新選組を統括する立場にあり、後藤象二郎に近藤勇を紹介したのも彼である。龍馬は暗殺される直前に尚志のもとを訪れているので、龍馬の居場所を知りうる状況にあったし、辞去した龍馬を部下に尾行させて隠れ家を探知するのも可能だったはず。あるいは、親密な後藤から密かに聞き出すこともできたろう。

 もちろん、永井尚志黒幕説は決定的証拠はなく、あくまで推測の域を出るものではない。

 今回は、そんな永井尚志について詳しく紹介していこう。

 文化十三年(一八一六)、尚志は三河国奥殿藩主の松平(大給)乗尹の庶子として生まれた。ただ、三歳で父を失ったあとは兄に養われ、二十五歳のときに永井能登守の養子となった。永井家は千石の旗本である。

 嘉永元年(一八四八)、昌平黌における官僚登用試験に合格し、同三年、甲府に置かれた幕府の学問所「微典館」の学頭(校長)に抜擢され、さらにペリーが来航した嘉永六年に徒士頭から目付という重職にのぼっている。翌安政元年(一八五四)になると、長崎での勤務を命じられ、同年に開設した海軍伝習所を統括する立場となった。

 このとき伝習所にはあの勝海舟も入学しているが、尚志はそうした学生たちとともに自ら率先してオランダ人教官の教えをうけたという。やがて榎本武揚も、伝習所に入学してくる。

 安政四年、尚志は学生たちとともに長崎から江戸に戻り、江戸の築地に設置された軍艦操練所の総督に就任した。このおり尚志は幕府に具申して、幕臣だけでなく諸藩の士も操練所で学べるようにしている。外圧という国難に対し、幕臣かどうかを区別せず、有為な人材を育てようと考えたのである。

 その後、いったん勘定奉行に転身した尚志だが、安政六年から新たに設置された外国奉行となり、アメリカのハリスとの通商条約の締結交渉で活躍している。

 この頃から、能吏として広く知られるようになり、通商条約締結後、尚志は条約批准のため幕府の副使として渡米することに決まった。このおり、知り合いの勝海舟が強く参加を希望したので、その実現に尽力している。結果、勝は咸臨丸でアメリカへ渡ることができた。ところが尚志自身は、将軍後継問題で一橋慶喜を推していたこともあり、反対派(南紀派)の井伊直弼が大老になると、冷遇されて左遷され、とうとう免職のうえ蟄居処分となってしまったのである。もちろん遣米使節としてアメリカへ渡ることはできなくなった。

 その後、二年間逼塞していたが、この間、桜田門外で井伊直弼が殺され、さらに坂下門外で老中安藤信正が襲撃されて失脚、幕府の威信は地におちてしまった。

 だが文久二年(一八六二)になると、一橋派が復権し、越前藩主松平春嶽が政事総裁職、一橋慶喜が将軍後見職になった。このため尚志も謹慎を解かれ、いきなり、京都町奉行に就任したのである。

 以後、尚志は上方を拠点として京都守護職の松平容保(会津藩主)とともに京都の治安を守るため、浪士の取り締まりなどにあたった。元治元年(一八六四)には大名を監察する大目付に抜擢され、さらに慶応三年(一八六七)、若年寄格(十二月に正式に若年寄に就任)となる。周知のように若年寄は、幕府の閣僚である老中の補佐役である。いまでいえば副大臣にあたる。だからこの重職は、大名しか就任できないことに決まっていた。が、尚志は旗本身分だ。つまり、幕府はじまって以来の、旗本の若年寄が誕生したのである。いかに彼が優秀で、そして将軍徳川慶喜の信頼を得ていたかがわかるだろう。

 この頃から尚志は、龍馬とたびたび会見し、大政奉還に同意して慶喜にも同案をすすめた。英断した将軍慶喜が朝廷に差し出した大政奉還の上表文は、尚志が起草したものだといわれる。

 

幕府側の苦境
 

 だが十二月九日、薩摩を中心とする倒幕派の画策によって、王政復古の大号令が出され新政府が樹立された。そして同夜、小御所会議が開かれ、倒幕派の強硬な主張により、「慶喜の内大臣職を免じ、徳川家の領地(一部)を没収する」という結論を出したのである。

 おとなしく政権を移譲した徳川家に対し、極めてむごい仕打ちだが、倒幕派はそれで二条城にいる幕臣や佐幕派を暴発させ、武力で徳川家を滅ぼそうと考えたのである。

 「永井玄蕃頭(尚志)は予て台旨(慶喜の命)を奉じて鎮撫に尽したる者なれども、それすら朝廷が辞官・納地の難問題を以て徳川家に臨むに及びては、「薩長二賊を除くは今日の急務なり」と憤慨するに至れり」(渋沢栄一著『徳川慶喜公伝4』東洋文庫)

 このようにさすがの尚志も、激高したと伝えられる。だが、これを知った慶喜は、興奮する幕臣たちをおさえながら、京都を引き払って大坂城へ撤退する。さて、このときの尚志だが、慶喜の命により京都に残留して状況の打開をはかるべく活動する。

 ただ、慶喜が去った二条城の警備をめぐって、水戸藩の本国寺党と新選組が対立したため、局長の行動勇を説得して新選組を伏見奉行所へ移すなど、当初は味方の混乱の収拾に時間をとられた。

 その後は京都と大坂を往復しながら、越前藩主の松平春嶽や尾張藩主の徳川慶勝など新政府の穏健派(公議政体派)と連携をとり、慶喜を新政権に参画させようと動いた。結果、新政府内の倒幕派は弱体化し、まさにその工作が実現しそうになったのである。

 ところが、薩摩藩に雇われた浪人たちが江戸で狼藉を働き、たまりかねた旧幕臣や佐幕派の武士たちが三田の薩摩藩邸を焼き打ちしてしまう。この報が伝わると、大坂城の兵は興奮して「新政府から倒幕派の薩摩を排除すべし」と叫びはじめた。その勢いはもはや慶喜もおさえることができないほどになった。このときは尚志も「討薩」を主張したという。

 こうして慶応四年正月三日、ついに旧幕府軍は京都を目指して大坂から進撃を開始したものの、鳥羽・伏見において武力衝突にいたり、圧倒的に劣勢に陥ってしまったのである。

 

主君の撤退、そして閉門へ
 

 一月六日、すでに戦意を喪失した慶喜は、新政府に恭順する真意は漏らさず、老中の板倉勝静と若年寄の永井尚志を招き「大坂から江戸へ戻ろうと思うがどうか」と下問した。すると二人とも「おっしゃるとおり、とりあえずいったん、お戻りになるほうがよいでしょう」と賛成したので大坂を離れる決心を固めたと、慶喜は後に回想している。

 だが尚志が賛同したのは、「江戸に戻ったら、慶喜はそこで防御態勢を整え、江戸城で倒幕派を迎え撃つつもりだ」と考えていた可能性が高い。

 この日、尚志は慶喜の命をうけて旧幕府軍の撤兵を指揮するため戦場へ向かった。が、夜戻って見ると、驚くべき事態が起こっていた。

「公(慶喜)、城に在らず、問へば肝人あり、公に海路の東帰(江戸への帰還)を勧め、

已に軍艦になりと云ふ」(戸川安宅(残花)編『旧幕府 第五号)』所収「永井玄蕃頭伝」)

 なんと、慶喜は尚志をはじめ、幕臣たちを置き去りにして、会津藩主松平容保ら数名を連れて、大坂城から脱走して船に乗って江戸へ向かってしまったのである。「肝人」が勧めたわけではない。慶喜の意志であった。

 これを知って尚志は衝撃を受けたが、その後、老中ら重職たちと話し合い「大坂城を守り、江戸の進止を聴む」(『前掲書』)と決めた。だが、慶喜が遁走したという衝撃で味方の動揺は激しく、結局、撤退することになった。

なお、薩長を中心とした新政府軍に錦旗が与えられたことで、津藩をはじめ続々と新政府方に寝返る藩が出て、多くの旧幕兵たちは、江戸へ戻る途中で殺害されていった。尚志は紀州藩を経て江戸に戻ったが、到着してみると、すでに慶喜には戦う意志はなく、謹慎してしまっていた。

 主戦派だった尚志は若年寄を罷免され、官位を剥奪されたうえ江戸城への登城を禁じられ、二月十九日には「逼塞」が命じられたのである。いっぽう慶喜は、大久保一翁、勝海舟など恭順派を登用した。慶喜から全権を委任された勝海舟は、三月十四、十五日の両日、新政府軍のリーダー西郷隆盛と会談し、江戸無血開城が決定された。江戸城の総攻撃を中止してもらうかわりに、江戸城を無条件で明け渡すのである。明け渡しの五日前の四月七日、逼塞にくわえ尚志は閉門に処せられた。

 

新天地への船出
 

 徳川家はあっけなく新政府に降伏してしまったが、その後、東北では新政府と東北諸藩でつくる奥羽越列藩同盟側との戦いがくり広げられていった。そんな同年八月、旧幕府艦隊を統括していた榎本武揚が、新政府への艦船の引き渡しを拒否して品川沖から脱走したのである。なんと尚志は、この艦隊に身を投じたのである。どうしても戦わずしてこのまま屈することができなかったのだろう。

 旧幕府艦隊は海から奥羽越列藩同盟側を支援したが、残念ながら東北戦争は同盟側の敗北に終わった。しかし旧幕府艦隊は、新政府軍に投降しなかった。やがて蝦夷地へ向かったのである。そして旧幕府艦隊の兵たちは、十一月に蝦夷地全土を征服する。

 翌十二月十五日、箱館で全島平定祝賀会が大々的に催された。港に停泊している軍艦は五色旗で飾られ、一〇一発の祝砲がとどろいた。

 諸国の領事や外国船の艦長、豪商などが、脱走軍に招待され、盛大な祝宴が開かれた。市街も花燈などで鮮やかに彩られ、提灯行列なのも出て、たいへんな賑わいだったという。

 榎本武揚はこれ以後、政権としての本格的体制づくりに入った。まずは政権のリーダーだが、むろん、榎本しか将たるべき存在はなかったのだが、彼はアメリカ合衆国のシステムをまね、選挙(入れ札)による投票を提案した。ただしこれは、士官約八〇〇人による制限選挙であった。

 得票数は次のとおりであった。

「榎本武揚(一五〇)、松平太郎(一一六)、永井尚志(一一六)、大鳥圭介(八六)、松岡四郎次郎(八二)、土方歳三(七三)、春日左衛門(五六)、松平越中(三八)、板倉勝静(二五)、小笠原長行(二五)、榎本対馬(一)」

 なんと尚志は、榎本に次ぐ得票を得ており、いかに人望があったかがわかるだろう。

 このため、総裁には榎本武揚、副総裁には松平太郎が就き、尚志は箱館奉行に就任した。このほか海軍奉行に荒井郁之助、陸軍奉行に大鳥圭介、新選組の土方歳三は陸軍奉行並となり、開拓奉行に沢太郎左衛門、会計奉行に榎本対馬、軍艦頭に松岡磐吉が任じられた。 なお、この政権を「蝦夷共和国」と呼ぶ人もあるが、それは誤りだ。榎本たちは共和国を建国したという意識を持っていない。彼等の願いは、徳川幕府の再興だった。

 同年十一月十八日、イギリス船とフランス船が箱館に入港し、両艦長が蝦夷政府の責任者との会見を要求した。そこで尚志は榎本と会談に臨むが、両艦長は脱走軍勢力を独立国家と正式に承認し、さっそく貿易に関する取り決めをしたいと申し出たのである。

 これに対して榎本は驚き、「私たちは国家ではない。この土地も人民もすべて朝廷のもの。私たちはただ、朝廷のために働きたいだけです」と述べ、両艦長に明治政府へ上表文を届けてくれるよう依頼している。

 その文章を要約すると、「私たち徳川旧臣は三十万人あまりです。それが七十万石に領地を縮小されてしまっては、みな飢え死にしてしまいます。ですから蝦夷地を私たちに下賜していただきたい。同胞を呼び寄せ原野を開拓し、朝廷のために北方の警備を引き受けたいと存じます。新政府方の箱館府との激突は、清水谷府知事のもとへ嘆願に赴いたところ、早々に賊徒の悪名をこうむり夜襲をうけ、仕方なく応戦したまでのこと。他意はございません。また、蝦夷地に徳川家の血筋の方を一人お遣わしください。そうすれば、私たちは一層奮発して、朝廷への忠勤に励みます。第一に皇国のため、第二に徳川のため、どうぞこの願いをお聞き届けください」

 この内容から判断するかぎり、榎本たちが目指したものは、徳川旧臣のための幕府再興であったことがわかるだろう。しかしこの嘆願は、一月中旬、正式に新政府に却下された。

 

箱館の籠城戦
 

 翌年春になると、いよいよ新政府の大軍が蝦夷地に上陸、五月から箱館への総攻撃がはじまった。尚志はこのとき弁天台場に籠もって戦った。

 じつは幕府は、箱館五稜郭の築造に先立って箱館湾に台場を建設していた。箱館湾の浅瀬を埋め立てて人工の島をつくったのだ。武田斐三郎(五稜郭の設計者)はこの台場を設計するにあたり、江川太郎左衛門の築いた江戸湾品川沖の台場を参考にしたといわれている。その形状は不等辺六角形で、総延長はおよそ七〇〇メートル、面積は約三八〇アールにおよび、周囲には幅約十一メートルの土塁を盛り上げて石垣を組んだ。出入り口は一箇所だけとし、そこから橋で陸地につながる構造とした。この台場建設において石垣工事を担当したのは五稜郭と同じ井上喜三郎ら備前の石工集団で、彼等の多くが品川台場築造の経験を有していたため、比較的スムースに工事は進捗していった。

 石垣の石は箱館山から切り出し、厳冬期には雪車に積んで滑らせて港へ運び、夏は陸送ではなく船で運送したと伝えられる。この作業には箱館市民も積極的に協力したという。

 石垣は万延元年九月、土塁は元治元年九月にようやく完成した。当初は弁天岬台場以外にも、湾周辺に複数の台場を建造する予定だったが、五稜郭と同様の理由で、弁天岬台場一つで十分だと幕府は判断したようで、新たな台場が建築されることはなかった。

 この弁天岬台場に尚志は新選組ら二百四十人と立て籠もって激しく抵抗した。新政府軍がいくら猛攻を加えても、ついに弁天岬台場は陥落することがなかった。結局、すべての弾薬を使い果たしたため、これ以上戦えないと判断した尚志をはじめ新選組らが、新政府の降伏勧告を入れて台場の門を自ら開いて降伏するにいたったのである。

 尚志は、仲間とともに箱館の寺院に閉じ込められ、やがて東京へ護送されて辰口の牢獄に収監された。罪人ゆえ生活環境は劣悪で、ようやく許されたのは二年半後の明治五年一月のことであった。その後、ただちに開拓使(北海道の開拓を管轄する役所)に出仕することになったが、赴任しないうちに左院(新政府の立法機関)の少議官に任じられた。これは、大政奉還を機に意気投合した元老院の議長・後藤象二郎の引きだったと考えられる。  しかし明治六年の征韓論争で、後藤は政府を去ってしまう。すると左院は廃止される。このため尚志も免官となった。けれど明治八年に後藤が政府に復帰して元老院(立法機関)副議長(長官が欠員なので実質上のトップ)に就任すると、尚志は権大書記官に抜擢されている。やはり後藤が引っ張ったのだと思う。

 だが翌九年、人員整理のために尚志は免官となった。すでに還暦を迎えていたからだろう。以後、亡くなるまで尚志は公職にはつかなかった。

 

慶喜の拒絶
 

 明治十一年五月、尚志は静岡におもむいた。

 徳川家は江戸城無血開城後、七十万石に減ぜられ、静岡へ移された。慶喜の身柄は上野寛永寺から故郷水戸へ移り、さらに静岡の駿府に居を移していた。すでに廃藩によって徳川家は消滅したが、慶喜はそのまま駿府で生活していた。

 尚志は慶喜の右腕ともいえる重臣で能吏であり、旧幕府時代は絶大な信頼を得ていた。だからきっと慶喜は大いに自分を歓待してくれるだろうと信じていた。

 ちょうどこの日、慶喜の家臣だった渋沢栄一も慶喜邸を訪れていた。

 そんな渋沢の記録には「五月十八日、永井尚志と同日に伺候せしに、余には面謁を許し給ひけれど、永井は遂に謁見を得ざりし」(渋沢栄一著『徳川慶喜公伝4』東洋文庫)とある。

 還暦を過ぎたかつての寵臣がわざわざ東京から訪ねてきたのに、慶喜は面会を許さなかったのだ。なんという、冷たさであろう。

 だが、慶喜にとってみれば尚志は、裏切り者であった。戊辰戦争のさい、慶喜は新政府に恭順し、幕臣たちにも無抵抗を説いた。にもかかわらず、尚志はそれに反して旧幕府艦隊に投じて蝦夷地で新政府に抗い、さらに降伏後、新政府に仕えたのである。そのわだかまりを慶喜は解くことができなかったのだろう。

 だが、尚志にしてみれば、旧主の拒絶は大きなショックだったと思う。ただ、その心情は一切記録に残されていない。

 

孤独な晩節
 

 尚志はそれから十数年を生きた。隠居の地は隅田川のほとり、寺島村であった。かつての親友で四十代で死去した幕府の能吏・岩瀬忠震の旧宅を「岐雲園」となづけて静かに暮らした。ただ、生活は苦しかったようで、長崎伝習所以来のつきあいである勝海舟からたびたび借金をし、彼が管理している徳川家の資産管理を手伝い、その手間賃で生計を立てていたという。

 そして明治二十四年七月一日、七十六歳の生涯を閉じたのである。危篤だと知った勝は、尚志のために政府にその功績を申し立て、官位の復活を求めた。その願いはただちに認められ、従五位が与えられたので、勝はすぐに尚志のもとを訪ねたが、残念ながらその日の朝に死去してしまっていたという。

 

 

  

<参考文献>

戸川安宅(残花)編『旧幕府 第五号)』所収「永井玄蕃頭伝」

高村直助著『永井尚志―皇国のため徳川家のため―』(ミネルヴァ書房)

渋沢栄一著『徳川慶喜公伝4』(東洋文庫)

渋沢栄一編、大久保利謙校訂『昔夢会筆記』(東洋文庫)


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