それだけで切腹?
 

 天保5年(18348月、幕府旗本で中奥小性(なかおくこしょう)を務める酒井隠岐守が、三田台町(港区)にある菩提所の大円寺を仏参に訪れた。

彼がそこで何も見なければ、いや、たとえ見たとしても、言葉をかけずに通り過ぎれば、ひとりの武士の命が理不尽にも奪われることはなかっただろう。

 しかし、酒井は言葉をかけずにはいられなかった。なぜなら寺の墓所で、麻上下を着た武士が今にも切腹しようとしているところに出くわしたからだ。切腹人の脇には介錯役(切腹人の首を落とす役)の武士もいた。酒井は介錯人に「いったいどのような罪で切腹させるのか」と尋ねたが、介錯人は「やむをえない理由で」と明確な回答を避けた。

 このまま見過ごすわけにはいかない。酒井は、自分は酒井隠岐守であると名乗ったうえで、再度事情を問い質した。相手が天下の旗本と知って、さすがに軽くあしらうこともできず、介錯人は酒井に事情を語った。

 なぜ切腹しなければならないのか。その理由は驚くべきものだった。介錯人は、自分たちは松平大隅守(鹿児島藩主の島津斉興)の家来であると述べ、切腹人が「此程門限定刻を欠き候ゆへ斯の仕合」に至ったことをあきらかにした。なんと藩邸の門限を破った罪で切腹を命じられたというのだ。

 

 酒井「えっ、それだけ? ほかに落ち度はなかったのですか」

 介錯「ただ門限の定刻に遅れただけです」

 酒井「それは気の毒だ。なんとか命を助けてさしあげたい」

 介錯「ありがたいお気持ちですが、この場に至っては…」

 

 門限を破っただけで、切腹とはあんまりではないか。憐愍と義憤にうながされた酒井は、介錯人に、自分は島津家の先代藩主の渓山公(島津斉宣)と茶の湯の友であり、藩邸にも出入りを許された懇意の間柄であると告げた。私から渓山公に直訴すれば、切腹人は死なずに済むだろう。だから、しばらく切腹の執行を遅らせていただきたいと述べたのである。

介錯人は「では助命が叶ったら、その旨お知らせください。明日の昼過ぎまで(切腹の執行を遅らせ)この寺で吉報をお待ちしています」と答えた。

 さて、その後、酒井は島津家の屋敷を訪れ、渓山公(当時62歳)に事情を話し助命を懇願した。渓山は近習に調べさせ、はたしてそのような事情で切腹を申し渡された家士がいる事実を確認すると、「承知致候趣」(助命願いの儀を承知した旨)を酒井に返答した。

喜んで帰宅した酒井は、さっそく大円寺に人を遣わしてその旨を告げたのだが……。

 

とんでもない結果に
 

 ところがその後、介錯人からなんの音信もない。不審を抱きながら酒井は渓山のもとで開かれる定例の茶会に参上した。しかし通されたのは、いつもと違う別席。給仕の侍に例の切腹人と介錯人のことを尋ねても「いずれ渓山公と面会の際にお話があると思います。私からはなにも申し上げられません」との答えが返ってきた。

 ほどなく藩の重役とおぼしき者が現れ、その口から、驚くべきどころか、想像を絶する事実が語られた。

 その前に、この一件を記録した『天保雑記』の著者についてふれておきたい。

著者の名は藤川貞。通称は弥次郎右衛門で、整斎と号した。上野国沼田藩主(土岐家)に剣術指南として仕えた藤川近義の孫として寛政3年(1791)に江戸で誕生。生涯仕官せず、祖父を継承して剣術の師を生業とするかたわら、『出石紀聞』『整斎随筆』『文政雑記』『天保雑記』『弘化雑記』ほかの著述をのこし、故実、武具、兵法の研究にいそしんだ。墓は文京区本郷5丁目の喜福寺に現存し、墓石の正面に「整斎藤川貞先生墓」と刻まれている。文久2年(1862)閏8月没。享年72

 話を続けよう。島津藩重役が語った驚愕の事実とは…。

 

 貴殿は先達て当家の家来某の助命を願い、渓山公はこれをご承諾なされたが、当家としては助命を叶えるわけにはいかない。門限の定刻に遅れ切腹を申し渡されていた某は、切腹が遅れたことを咎めた上で、翌日切腹させました(「別段切腹におくれ候段不届に付、翌日切腹申付」)。

 

 酒井による助命工作は、先代藩主(渓山)の承認にもかかわらず実現せず、酒井に助命を約束された切腹人某は、切腹をためらったのが「不届」とされ、翌日切腹させられたという。「不届」とされたのは、定められた日時に切腹せず、酒井の言葉で切腹をためらったのが、武士(薩摩藩士)として恥ずべきことと見なされたためだろう。

 それでも某の場合は、もともと切腹を宣告されていたのだから、さほどむごい仕打ちを受けたとは言えない。むごいのはもう一人の家来、酒井からの知らせを待った介錯人に対する薩摩藩の仕打ちだった。重役は続いて介錯人の処罰についても語った。

 

 介錯人もまた(貴殿の言葉で)切腹人の首を落とすことを遅らせたことを咎め、やはり切腹を申し付けました(「介錯手おくれ候段不行届に付、是又切腹申付」)。

 

 なんと、酒井による助命が叶うと期待して切腹執行を延期させた薩摩藩の介錯人もまた、介錯の任務を怠ったとして切腹させられたというのである。

 唖然とした酒井。いくら尚武の家風とはいえ酷すぎませんか。酒井は薩摩藩の処分を非難しようとしたに違いない。ところが続いて重役が次のように述べると、そんな気持ちも吹っ飛んでしまった。原文を引用しよう。

 

切腹被申付候段は全く御許様(おもとさま)故之事と 親族共御恨に存罷在候 彼者共次向へも出居候事 万一如何様之義出来仕候節は恐入候故 例席えも御通し不申 当席へ御通し申候

 

意訳すれば、「切腹させられたのはすべて貴殿のせいであると、介錯人の親族どもが恨みを抱いて(貴殿の命をねらっています。万一の事態が生じないように本日はいつもの席にお通しせず、こうして別席にご案内したのです」。

 もはや薩摩藩の処分に憤慨し、とやかく批判している場合ではない。危機はすぐそこに迫っている。酒井は気分が悪くなったと言って茶会の出席を辞し、そそくさと薩摩藩邸をあとにした。

 

酒井隠岐守とは
 

 私はかつてこの一件を『週刊文春』の連載(「江戸の悪知恵」)の一話として紹介した。それを目にした歴史作家の桐野作人氏が「膏盲記」と題するブログで取り上げ(「芝・大円寺での切腹騒動」)、『薩陽過去帳』(鹿児島県資料集・第14集所収)から切腹人が櫛原喜十郎で、介錯人が大山彦八であることを明らかにした。

 ならば主人公の酒井隠岐守とはどんな旗本だったか。週刊誌の連載では紙幅の関係で触れられなかったので、ここで補っておきたい。

酒井隠岐守、名は忠丈。通称は仁三郎、あるいは栄之助、権兵衛とも称した。大番頭や「若君様御側」などを務めた酒井但馬守忠宣の子で、文政3年(18201212日に新規に召し出されて西丸小納戸となり、文政81212日に中奥小性を拝命した。

薩摩藩の切腹人の助命を試みたのは中奥小性の時代で、その後「大納言様(家定)御小性組番頭」、書院番頭、大番頭などを歴任して弘化4年(184749日に没している(『柳営補任』、小川恭一編『寛政譜以降 旗本家百科事典』)。なお名は忠丈と言ったが、『柳営補任』には忠大とも忠文ともあり、残念ながらここで忠丈であると自信をもって断言できない。

 では年齢は。国立公文書館が所蔵する江戸城多聞櫓文書のうち、「大番八番組番頭酒井隠岐守忠□」(□は虫損)の明細短冊に、「天保十三寅年正月十一日 大番頭被仰付之」とあり、また「寅五十」と記されている。天保13年(1842)に50歳だとすれば、島津藩士の命を助けようとした天保5年は42歳だったことになる。大名や旗本は、年齢を数歳上乗せする場合が多かったから、あるいは30代だったかもしれないが、いずれにしろ若造でも老いぼれでもない年齢だ。

 

柔弱礼賛
 

 それにしても、なぜこの事件を再び取り上げたのか。薩摩藩の残虐なまでの規律厳守を批判するためでも、酒井隠岐守の心やさしさ(人道主義?)を賛美するためでもない。弁解めくが、話題に事欠いたからでもない。それはこの一件が、当時の旗本たちに共通するメンタリティをよく示し、「続幕臣伝説」の話題としてふさわしいと思ったからである。

江戸後期の旗本の多くは、江戸で生まれ育った江戸人で、諸藩の家臣のように財政窮乏の名目で減俸されることもなかったから、とりあえず食いっぱぐれる心配もない。加えて各種の文学、芸術や遊芸、美食、そして趣味の花咲く大江戸で暮らせば、おのずと知識や教養も身についただろう(たとえ、それが正統な儒教的教養や実学ではなかったとしても)。

 めぐまれた都会人である旗本にとって、薩摩藩の極端に武闘的で融通のきかない気風は、粗野で非常識と感じられたに違いない。もちろん戦えば薩摩の方が強いに決まっている。都会人は総じて享楽的で柔弱で、武士ではあっても、戦士には向いていないからだ。

しかしその分、現代のわれわれ、とりわけ私のような柔弱男子には親しみ深い。勇猛でヒトゴロシに長けた薩摩藩の男たちより、臆病で優柔不断な幕府旗本の方がずっと好ましいのである。

 <了>



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