異例の栄達を勝ち取った早熟な知性


 
 大給(おぎゅう)松平氏は、徳川宗家の始祖とされる松平親氏の孫・信光から別れた支族である。同様の松平一族はたいへん多く、その主たる親族をまとめて俗に十四松平と呼ぶ。

 大給松平氏は、信光の子・親忠の次男乗元を祖とし、代々、西三河の加茂郡松平郷大給新田を拠点としてきた。ただ、のちに大給家は本家と分家に別れ、本家は関ヶ原合戦の功で美濃岩村に二万石を与えられている。分家の祖・松平真次は、二代将軍徳川秀忠の旗本として活躍し、その子・乗次が将軍綱吉のとき、加増されて一万六千石の大名となった。ただ、その領地は一箇所にまとまっておらず、三河、摂津、河内、丹波などに分散して存在していた。陣屋は奥殿(岡崎市)に置かれたことから、奥殿藩と呼ばれるようになった。

 そんな奥殿藩主十一代目が松平乗謨(のりかた)である。

 乗謨は生まれ落ちたときから、すぐれた頭脳の持ち主であったらしい。天保十年(一八三九)に江戸で生まれた乗謨は、四歳のときに「三字経」を空で覚えてしまったという。三字経とは、中国で十三世紀前後に成立した初等教科書である。三文字で一句、偶数句末で韻を踏んでいることから三字経と呼ばれ、儒教の教えや一般常識、歴史などが記されているが、全文は大人であっても簡単に暗唱できるものではない。だから、もしこの逸話が事実であれば、まさに天才といえるだろう。

 父親の乗利が病いだったらしく、隠居した父にかわって乗謨は十三歳で家督を継いでいる。ペリーの来航に衝撃を覚えた乗謨は、軍事力の強化を真剣に考えるようになり、やがてそれは領内における農民の兵士登用(農兵制)に行き着くことになった。さらに、オランダ語やフランス語を学んだこともあり、自藩の兵制を諸藩に先駆けてフランス式に変更することにもつながっていった。

 こうした先見性が評価されたのか、文久三年(一八六三)、乗謨は幕府に大番頭に任じられた。この職は、幕府の常備兵力である大番を指揮する役目をにない、武官(軍人職)における最高格式といえた。実際、いざ戦争のときには幕府軍の一番先手を率いて戦う最前線の指揮官となる。

 しかし、その年のうちに乗謨は、なんと幕府の若年寄に昇進する。いまでいえば、内閣の副大臣クラスの高官であり、このような高位に就いた例は、奥殿藩主歴代には存在しない。まさに未曾有の大抜擢といえた。さらに慶応元年(一八六五)には陸軍奉行に就任している。おそらく、フランス式軍制の採用や農兵制度の設置が評価されたのだろう。

 乗謨は同じく西洋の制度に関心を抱く将軍後見職の一橋慶喜に愛され、その後援をうけるかたちで翌年六月には老中格へとのぼっている。

 

もう一つの西洋式城郭
 

 しかし幕府軍は、その月に始まった第二次長州征討で長州軍に敗れてしまう。ちょうどこの時期、将軍家茂が死去したため、かわって慶喜が徳川家を継承、さらに十二月になると、十五代将軍に就任した。すると乗謨も同月、陸軍総裁を兼任するようになったのである。陸軍のトップに立った乗謨は慶喜の意向をうけ、幕府軍をフランス式へと転換するとともに、フランス公使ロッシュと会見して、その意見を参考に幕政改革をすすめていった。

 このように幕政にたずさわるいっぽう、乗謨は領内では驚くべき壮大な実験をおこなった。

 周知のように、日本で初めての西洋型城郭は、武田斐三郎が設計した箱館の五稜郭である。だが、五稜郭が完成した元治元年(一八六四)、もう一つの西洋型城郭の築造工事が開始された。それが龍岡城である。この城を自ら設計し、建造させたのが、松平乗謨なのである。

 前述のとおり、奥殿藩は一万六千の小藩である。この時期の藩領は、三河国奥殿に四千石、信濃国佐久に一万二千石と、領地が大きく二分されていた。が、本拠地の陣屋は奥殿のほうに置かれていたので、乗謨はそれを信濃国南佐久郡田野口に移転するとともに、思い切って五つの稜堡を有する西洋型城郭をこの地につくろうと思いたったのである。

乗謨は、「列強からの侵略を防ぐためにはまずは海防を強化せねばならず、そのためには、沿岸に西洋型の要塞をつくる必要がある」と信じた。そして、幕閣に自説を受け入れさせ、まずは領内での築城許可を得たのだった。

 こうして元治元年(一八六四)からはじまった築城工事は、慶応二年にはやくも竣工した。ただ、小藩ゆえ、竜岡城の規模は箱館の五稜郭よりずっと小さく、その面積は一万八千六百十二平方メートル、およそ約十分の一であった。ただし、その形状は見事な星形をなしている。

 この城郭は慶応四年(一八六八)に龍岡と命名されたものの、その生涯は箱館の五稜郭と同じく非常に短命で、明治四年の廃藩置県により廃城になってしまった。このおり、建物の多くは解体され、近くの寺院や民家に再利用されてしまい、堀は埋め立てられ、敷地は小学校になってしまった。しかし、戦後になって復元が進み、濠は掘り返されてよみがえり、現在ははっきりと西洋型城郭であることがみてとれる。また、巨大すぎて売れ残った御台所は、そのまま小学校の校舎として転用され、いまなお校内に健在である。

 

維新の苦渋を経て名を変える
 

 慶応三年十月、将軍慶喜が二条城で大政奉還を公言し、朝廷にそれを申請したことにより、江戸幕府は二百六十年の歴史に幕を閉じた。だが、江戸にいた幕閣たちは大政奉還の知らせに仰天し、慶喜を翻意させようとした。そんな閣僚の代表が乗謨であり、彼は老中で海軍総裁の稲葉正巳とともに急ぎ軍艦に乗って大坂に上陸、京都の二条城に入って慶喜と会談した。

 このおり乗謨は慶喜に対して、上下の議事院を設置し、上院のトップに将軍が就き、さらに諸藩の軍事力を解体して統一的な陸海軍を創設、これも将軍のもとに置くべきだと説いた。おそらくナポレオン三世の第二帝政の仕組みをロッシュなどから聞いており、それを参考にしていた可能性が高い。

 だが、慶喜はその意見を退け、むしろ乗謨に対して江戸の幕閣を説得するよう諭したのである。そこで仕方なく乗謨も納得し、しぶしぶ江戸へ戻って閣僚たちに慶喜の意向を伝え、その沈静化につとめたのだった。

 だが、その間、王政復古の大号令が出され、新たに誕生した朝廷の新政府は、慶喜に対して辞官納地という厳しい処分がくだした。このため、ついに翌明治元年正月、旧幕府軍が新政府から薩摩など武力倒幕を唱える勢力の排除をかかげ、京都へ入ろうとした。結果、それを防ごうとする薩長軍(新政府軍)との間で鳥羽・伏見の戦いが起こったのだ。

戦いは旧幕府方の敗北に終わり、慶喜は江戸に逃げ戻って上野寛永寺で謹慎してしまう。

 すると同年二月、田野口藩に新政府からの藩主に対する出頭命令が届いた。そこで乗謨が翌三月に京都へ出向いたところ、「鳥羽・伏見の戦いが起こったあとも老中職にあったのは、罪に値する」として、謹慎を申し渡されてしまったのである。だが、五月になると謹慎状態は解除され、明治二年には龍岡藩(田野口藩が明治元年に改名)の知藩事となった。

 これより前、乗謨はそれまでの幕府高官時代の思い出を捨て去るように、自分の名前を一新した。大給恒(おぎゅうゆずる)と称するようになったが、本稿では松平乗謨で通したい。

 そして明治四年に廃藩置県によって藩自体が消滅すると、乗謨はその才能を見込まれて新政府の左院に少議官として出仕することになった。明治六年六月には式部寮御用掛となり、賞牌取調御用掛専務を仰せつかった。簡単にいえば、勲章制度の調査・創設を命じられたのである。

 

勲章制度の祖
 

 中村勝美氏によれば、乗謨が幕府の陸軍奉行だったとき、フランスから招いた軍事顧問団の一人であるシャノワーヌ大尉が胸に勲章をつけており、「これに興味をもった乗謨が大尉に資料の提供を求めたところ、わざわざナポレオン三世から『各国勲章図解』が送られてきた」ので、「乗謨はひそかにこの研究に当たっていた」ところ、「幕府も本格的に勲章制度をとりあげることになり、乗謨に命じてその案を練らせた。乗謨も当時日本に来ていたフランス士官の胸に輝く勲章を参考にしてこの検討に入った。しかしほどなく大政奉還、この作業も中絶することになった」(『もう一つの五稜郭』(株式会社櫟)のだという。

 そういった意味で、新政府での賞牌取調御用掛という職は、乗謨にとってまさにうってつけの仕事であった。

 先の『もう一つの五稜郭』で中村氏は、勲章制度に長年たずさわった平林吉利が乗謨の寄与について、次のように語ったと紹介されている。

「公はもっとも思考力に富まれ、かの旭日章をはじめ、あらゆる勲章、記章、功牌一つとして公の手にならざるものはない。ようも案出せられたるものだ。人にひとことも助言を請わず、一点の考案も求めず、各意匠を異にして、光彩陸離たるもの、外国人また緻功に感服せり」

 乗謨自身が勲章のデザインまで考えていたとは驚きである。

 いずれにせよ、日本の勲章制度は大給恒が中心になって完成されていったのである。

 明治十年に西郷隆盛が鹿児島で挙兵したことで西南戦争が勃発したとき、緒方洪庵の適塾で人命尊重の精神を学んだ佐賀出身の佐野常民は、敵味方関係なく負傷者を救う博愛社の設立を企画、これに全面的に賛意を示し協力したのが松平乗謨であった。

 明治十九年、日本政府がジュネーブ条約(赤十字条約)に加入したので、翌年、博愛社は日本赤十字社に改称し、現在にいたるまで多くの人びとを救い続けている。

 さて、それからの松平乗謨である。明治二十二年に貴族院が設置されると、乗謨は貴族院議院となり、明治四十三年、七十二歳で死去した。

 危篤となったさい、明治天皇はこれまでの勲功を鑑みて、乗謨を正二位に叙し、勲一等旭日桐花大綬章を与えた。黄泉に旅立つ乗謨にとって一番の手土産となったことだろう。

 

 


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