ネコやネズミの処分も大切なお仕事
 

今回も前回に続いて、幕府奥坊主小道具役の業務日誌『言贈帳』をひもといてみたい。

 弘化4年(1847)の『言贈帳』にはネコやネズミの姿も見える。見えるといっても、『言贈帳』にネズミが齧った跡や猫の足跡が残っているわけではない。糞がこびりついているわけでもない。

「小納戸の指揮に従ひ、将軍座右の雑具、例へば鋏、茶壺、烟草盆等の出納保管に任じ」(松平太郎『江戸時代制度の研究』)という小道具役の仕事の中に、なんと江戸城の奥や大奥で捕らえられたネズミやネコ(当然のらネコ)の〝処分〟が含まれていたのである。いや、ネズミとネコだけではなく、『言贈帳』にはヘビやイタチ、そしてウナギまで登場する。

 「なんと」と驚いてみせたが、実はこの話を、私は8年前に出版された著書(『これを読まずに「江戸」を語るな』)で紹介したし、本年刊行の『北の丸―国立公文書館報―』第49号掲載の拙稿「弘化四年『言贈帳』について」でも触れている。いわば今回で3度目の紹介なのだが、たぶん本連載の読者は誰もご存じないだろう。とりあえずそう信じて、ネコやネズミがどのように処分されたか、もう一度振り返ってみよう。

 処分といっても、それは殺処分ではなかった。殺処分どころか、江戸城では「猫落し」「鼠落し」などの罠にかかって捕獲されたネコやネズミをそれぞれ特定の場所に生きながら放している。

たとえば「猫壱疋 大和守殿にて佃嶋え御放」(223日)、「黒大猫壱疋佃嶋え御放 慥成(たしかなる)者持参候様伊豆守殿御申付」とあるように。ネコも大猫(大きなネコ)も、それぞれ小納戸頭取の江原大和守(親長)と竹田伊豆守(忠吉)の指示で、佃嶋へ運ばれて放されたのである。

 ネズミの場合も、45日に「小鼠」が江原大和守の指示で「二番中の明地」に放され、95日にも同人の指示で「中鼠」が回向院に放されている。「二番中の明地」は一橋徳川家の屋形と外堀をはさんだ北側にひろがる火除け地で、護持院原(現・千代田区)のうち。「回向院」は本所回向院(現・墨田区)である。

ちなみにヘビは本所の一つ目弁天(現・江島杉山神社)に放され、ウナギについては、弘化2年(1845)の『言贈帳』の66日の条に「中鱣一疋下り 下乗橋御堀へ御放」と見える。鱣はウナギで「中鱣」は中型のウナギ。下乗橋は大手三ノ門橋で、登城した大名がその前で駕籠を下りたことからこう呼ばれた。その下乗橋が架かっている堀にウナギを放したというのだ。このウナギもまた御庭の池で捕獲されたものだろう。

 ネコとイタチは佃島、ネズミは回向院か護持院原、ヘビは一つ目弁天という特定の場所がどのように定められたのか、残念ながら明らかでない。弁天(弁財天)は古来ヘビと深い縁があるし(詳細は割愛)、鼠小僧次郎吉が回向院の別院がある小塚原の刑場(現・荒川区)で処刑されたことは、ネズミと回向院の関係を示唆すると言えないこともない。

ネコが佃島に放されたのは、エサになる魚貝類に事欠かなかったせいかも…などなど。いろいろ考えてはみたが、はっきりした理由はわからないままだ。

 

殺さないで放した理由
 

 これらの小動物や魚を、特定の場所に運んで放したのは一体誰なのか。小納戸頭取は指示するだけ。小道具役もそれを下吏に伝えるだけで、みずから佃島や本所まで出向いてはいない。実際に運び役(そして放し役)を務めたのは、「新組」(賄方の新組だろう)の者たちだった。ネズミやネコの放し役といっても、重要な公務である。その証拠に、ネズミを放した新組の者は、任務遂行後、小納戸頭取にネズミがどちらの方向に走り去ったか報告したし、回向院や佃島側の「請取」を提出しなければならなかった。

 それにしても、捕獲された小動物はなぜ殺処分されず、わざわざ特定の場所まで運ばれ、放されたのだろうか。前掲書(『これを読まずに「江戸」を語るな』)で、私はこう書いている。

 

「将軍が住むお城では、動物とはいえ殺害は不浄な行為として忌まれたから? いや、不浄云々にもまして、彼らの祟りを真剣に恐れていたからだろう。城内とりわけ大奥の女性たちは総じて信心深く、それだけに殺生の結果、猫や鼠が妖怪と化して害をなすと信じていたにちがいない」

 

 大奥では(たとえそれが動物の死であっても)、死穢を忌む気持ちはわれわれの想像以上に強かった。そして化け狸のような魔物が出現し、大奥の女性たちを怯えさせた話も伝えられている。死穢の不浄を忌み、(殺害された動物の)祟りにおびえる気持ちが、ネズミやヘビでさえ殺処分しなかった最大の理由であるという見解は今も変わらない。

 はたして理由はそれだけか。動物愛護(生類憐み)の思想はまったく無視していいのだろうか。

中野犬小屋の設置など一連の生類憐みの令は、綱吉の死(1709年)後、捨子や捨馬の禁止は生き続けたが、その多くは悪法として修正され葬り去られた。しかし近年は、綱吉の政策の骨子は〝お犬さま〟愛護だけでなく、乳幼児や病者など弱者を護る人命尊重だったとも評価されている。人間を含めた生類の命の重さを知らしめる政策だったという。

それにしても…。子犬を養育せずに捨てた者を斬罪にしたり、人寄せのためヘビの見世物をしていた薬売りを、「生類をくるしめ渡世仕候段不届」(生き物を苦しめて生業を営むのはもってのほか)として江戸から追放したのも事実だ。

右はいずれも『御仕置裁許帳』に載っている例だが、同書には次のようなバカバカしい話も。元禄9年(1696)、本多下総守が下城するのを待つ間、桜田門外の腰掛でウトウトしていた下総守の中間(ちゅうげん)が、ネズミに怪我をさせた罪で投獄された。ネズミが突然足に這い上がってきたので、びっくりしてはね飛ばしたらしい。中間は結局牢を出され下総守に渡されたが、その後どうなったかはさだかでない。

 偏執的将軍の悪法か、殺伐とした風潮を改め泰平の時代を確立した画期的な政策か。いずれにしろ綱吉の生類憐みによって、ネズミさえも丁重に扱われたのである。

 

優しすぎる処置
 

 ネズミでさえも。そう、いくら殺処分による不浄を嫌い、祟りを恐れたにしても、ご丁寧に護持院原や本所回向院まで運んで、元気に立ち去っていく姿を見届けるとは……。理解に苦しむのは私だけではないだろう。ひょっとしてこれは綱吉の生類憐みの残滓(ざんし)ではないか。

 ネズミやヘビにまで及んだ愛護の思想は、綱吉の死後、社会からは拭い去られたが、江戸城内、とりわけ将軍が執務し生活する「奥」や妻子が暮らす「大奥」では、長く生き続けていたのではないだろうか。

 これはあくまで臆測に過ぎない。でも弘化4年『言贈帳』の415日の日記をひらくと、この臆測もまんざらでもないと思えてしまう。それは次のような記述である。

 

御湯殿奥之番衆着替所御天井に鼠居候様子に付 御成跡にて御作事を入相改 巣有之候はゝ其侭に致置 巣立之上にて取片付候様 巣無之候はゝ鼠穴見届 鼠留致し可申 鼠捕押候はゝ明地え御放に相成候故 其心得に可致様小膳次殿御達 平右衛門え達す

 

 意訳してみよう。

 

――奥の御湯殿(浴室)の「奥之番衆」(将軍の警固や身のまわりの世話をする小性や小納戸ら)の着替所(脱衣場か)の天井裏にネズミが巣を作っている様子だ。(建築や修繕などを担当する)作事方の役人に調査させ、はたして巣があれば、そのまま放置し、巣立ちした後で巣を撤去するように指示した。巣がない場合は、ネズミが出入りする穴を見つけ出し、「鼠留」(ネズミの穴をふさぐ処置)を施せとも。またネズミを捕獲したときは、明地(空き地)に生きたまま放すことになっているので間違いがないよう(誤って殺したりしないよう)、福村小膳次殿(小納戸)から指示があり、その旨を平右衛門(作事方の役人か)に申し付けた――。

 

 なんと、小納戸の福村小膳次は、たとえ天井裏にネズミの巣があっても、(巣の子ネズミが成長して)巣立つまで、そのまま見守れ(巣を撤去してはならぬ)と指示しているのである。

福村がどのような人物だったのか、幕臣としての簡単な履歴のほかは情報がない。動物愛護の気持ちがとても強い人だったのかもしれない。あるいは子年の生まれでネズミに対し特別な思い入れがあったのかも。福村家では代々「ネズミを殺してはならない」という掟が踏襲されていた可能性もある。

 しかし小納戸という公職にある身で、そんな個人的な事情が優先されたとは考えられない。「子ネズミが巣立つまでそっとしておけ」という指示は、幕府の慣例に従ったものと考えるのが妥当だろう。

だとすれば、それは綱吉の生類憐み令にさかのぼるもので、綱吉の死後も、江戸城内で連綿と受け継がれてきた慣習だったのではないだろうか。

こんなことは、今のところ幕府の他の記録でも関係論文でもお目にかかったことがない。いや、私が知らなかっただけかもしれないが。

<了>

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