若き藩主が迎えた明治維新
 

  加納久宜(かのうひさよし)の実父・立花種道は、筑後三池藩主(六代)立花種周の五男として生まれたが、久恒が八才のとき、安政の大地震で妻とともに屋敷の下敷きとなって死んだ。

 一瞬にして両親を失った久宜は、実兄・立花種恭のもとに身を寄せた。当時、種恭は死去した従兄弟・種温の家督を継ぎ、陸奥下手渡(しもてど)藩主となっていた。幼い久宜は、そんな種温の養母・延子と種温自身に養育されてのびのびと育ち、十九才の慶応二年(一八六六)八月、急遽、上総一宮藩主に就いた。同藩の藩主・加納久恒が急死し、加納家を継承したためである。

 満年齢でいえば十八才、ちょうど高校三年生にあたる。

 しかし、藩主になってわずか一年後に将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返還(大政奉還)し、形式的に江戸幕府は消滅、翌月、京都に朝廷を中心とする新政府が樹立された。

 このおり、新政府の倒幕派は、強引に慶喜の辞官納地を決定したため、倒幕派と旧幕臣・佐幕派との間で、いまに武力も衝突がおこりそうな状況となった。

 実兄の立花種恭が幕府の老中格だったこともあり、久宜は幕閣の命で兵を率いて西上したが、その途中、鳥羽・伏見の戦いが勃発し旧幕府軍が瓦解したことを知り、そのまま江戸へと引き返した。

 いったん藩領一宮へ戻った久宜は、三月、海路で西上して京都へ入り新政府に忠誠を誓い、本領を安堵された。そして明治二年(一八六九)の版籍奉還後は、知藩事として藩政改革をすすめた。

 もともと加納氏は、代々紀州藩士の家柄だったが、藩主徳川吉宗が八代将軍になるにあたり、主君に供奉して江戸に入り、のち一万三千石を与えられて譜代大名となった。藩主久儔の文政九年(一八二六)、加納氏は陣屋を上総国長柄郡一宮へ移したのである。

 久宜はこれまで重臣たちに藩政を任せてきたが、知藩事になると、新たに議事員五名を政務に加えることとし、議事員を藩士たちの選挙で選ばせた。結果、これまで幅をきかせていた重臣たちは新進気鋭の議事員たちに圧倒され、一宮藩の実権は彼らが握るようになった。さらに久宜は、禄の思い切ったフラット化をすすめた。藩士の禄は、二五〇石から五両二人扶持までと非常に幅広かったが、久宜はなんと、士族(一般の藩士)は一律三十俵、卒(軽輩)は二十五俵としたのだ。

 しかし、改革は明治四年に突然終わりを告げた。廃藩置県が断行されたからだ。

 ここにおいて久恒は、十七町歩の田んぼを藩有とし、家中で帰農を希望する者にこれを分け与えるなどして、彼らの生計を立つようにしたのち上京した。


新潟の骨太校長
 

 その後は、意外にもフランス語の塾に通い、フランス人を家庭教師に雇いはじめたのである。じつはフランスへの留学が、久宜の宿願だった。知藩事の頃も渡仏を決意していたが、これを知った家臣たちの大反対にあい、断念した経緯があった。

 だが、またも家中の反対にあって留学の夢は叶わず、結局、明治六年に文部省の役人として新政府に仕官することになった。文部省では督学局に属し、督学官として全国の学校を視察して歩いたが、明治十年に岩手県師範学校の校長に任じられ、さらに明治十二年、新潟学校の校長となった。

 この新潟学校というのが、くせ者だった。男女あわせて五百名を超える大規模な学校で、とくに男子学生の気風が荒く、次々と学校長が退職してしまうような問題校だった。

 そこで久宜は赴任するや、全校生徒を講堂に集め、「君たちがストライキが得意なことはよく知っている。私は大学者ではなく、単なる俗吏に過ぎない。が、誠心誠意、本校の教育のために力を尽くし、君たちの前途の幸福のために努力していく所存だ。にもかかわらず、君たちが暴挙によって不法な行動をとり学生の本分を誤るのなら、私にとって四、五百名の学生を追放することなど朝飯前である」そう凄んだのである。

 さすがに度肝を抜かれた生徒たちだったが、やがて彼らは寄宿舎の賄方(食事担当)をいじめ始めた。物価高騰のため、いまの金額で寄宿生たちの食事をつくるのが困難になり、賄方が食費の値上げを学校に求めたことが原因だった。いじめにたまりかねた賄方は、契約解除を学校側に申し出た。

 これを知った久宜は、すんなりその依願を受け入れ、以後、新しい賄方を雇わなかった。そして「おまえたちがこのような状況をつくったのだから、自分たちで新たな賄方を探してこい」と生徒に伝え、そのまま放置したのである。これにより、寄宿舎で食事が提供されなくなってしまった。驚いた学生たちは懸命に人を探すが、みな、新潟学校の荒れぶりはよく知っているので、だれ一人として引き受ける者がなかった。このため、学生たちはろくな食事も採れず大いに閉口したが、それでも久宜はこの状況を傍観し続けた。結果、ついに寄宿生たちは校長に降伏、以後、学校は平穏になったという。


不退転の決意で鹿児島へ
 

 明治十四年、新潟学校を去った久宜は、強く請われて教育界から司法の世界へ身を投じた。思い切った転身だ。ただ、最初の赴任先は、埼玉県の熊谷裁判所だった。これは想定外の人事であった。じつは久宜は、東京での仕事を強く希望していた。このため、この措置には大いに不満で、さっそく当局に苦情を言ったところ、まもなく東京にほど近い浦和裁判所支庁詰になった。けれど、それでも本人は納得できなかったようで、翌年、辞職願いを提出してしまった。

 すると、大木喬任司法大臣がその話を聞きつけ、久宜の才能を惜しんで大審院(現在の最高裁)検事に抜擢してくれたのである。こうしてそれから十三年間、久宜は司法畑を歩くことになった。

 明治二十七年、久宜は山県有朋司法大臣から直接呼び出され、にわかに鹿児島県知事への就任を打診されたのである。

 もともと法律が苦手で「法曹界は自分に合わない」と公言し、みずからを「法曹界の厄介物」と自嘲していた久宜だったので、その申し入れを喜んで受け入れた。

こうして鹿児島におもむいた久宜だったが、知事在任期間は明治三十三年までの七年間にのぼった。これは当時としては異例の長さであり、かつ、彼のおかげで「鹿児島県は大発展を見た」と言っても過言ではないほどの大きな働きを見せることになったのである。

 鹿児島への赴任にあたって久宜は、「県全体を改革するまでは任地を去らない」という決意を表明し、家族を伴って全く土地勘のない鹿児島へやって来た。

 鹿児島県はまだ西南戦争の傷跡が癒えず、さらに県内の有力者たちは民党(反政府政党)と吏党(政府系政党)に真っ二つに分かれ、互いに激しくいがみ合っていた。さらに士族と一般庶民も対立しており、こうした軋轢は地域を大いに疲弊させていた。

 これを知った久宜は、県役人の採用にあたり、「党派や身分に関係なく、技術職以外は鹿児島県人を優先的に採用し、自分の親戚・知人・旧臣は一切雇用しない」と明言した。そして職員の給与をアップし、志気を高めたのである。

 さらに鹿児島の警察官のほとんどが士族の独占状態で、彼らは県民にいばりちらしていたが、久宜は素行の悪い警部四名を即座に解雇し、都市部の警官を村落へ、農村の警官を都市部へ移動させるなどして長期赴任による汚職を防ぎ、鹿児島県警部(現在の鹿児島県警のような組織)の改革を断行したのである。

 また久恒は、これまでの知事とは異なり、誰よりも早く登庁し、一番最後に県庁を出るという熱心な仕事ぶりを見せた。さらに頻繁に県内の村落を巡視して現状の認識につとめたのである。

 しかも巡視は形式的なものではなく、「文書による千回の指令よりも一回の巡視のほうが効能がある」という信念のもと、県下の町村をあまねく回って民情の視察をおこない、現地では人びとを集め、膝を交えて細かい指導をおこなった。

 また、このおり感じた巡視結果をこまかく記し、のちにその問題点を文書にまとめ、官吏に改善するよう指示したのだった。

「この知事は、本当にやる気だ」

 ということが、県の職員全体に認知されることになった。

 晩年、久宜は次のような言葉を残している。

「政事は方策に在るが之を行ふは人に在る、人の手腕と熱心さとを欠いた日には地方行政の効果は決して挙るものではない」(『地方改良運動講演集』内務省地方局編纂)なのに「役所の役人たちは、消極的で受け身である」そう感じ、自ら役人としての手本を見せようとしたのだろう。


「絶対的進歩主義者」の大改革
 

 久宜は、知事在任中はどこに行くにも小さな手帳を持ち歩き、明日やらなくてはいけないことや思い浮かんだこと、参考にできると感じたことをすぐさま手帳に記録し、翌日、県庁へ出勤すると、手帳に書いたことを片っ端から実行していく仕事ぶりを見せた。

 思い立ったら即座に実行、それが役人の正しい姿勢であり、久宜はこれを絶対的進歩主義と称したのだった。  

 とにかく知事としての久宜は、鹿児島県の殖産興業に力を入れた。

 まずは、下等とされた県下の米の品質を向上させるためにあらゆる努力をはらった。具体的には、肥料・農具の改善指導や稲の正条植えなど栽培法の指導、排水改田工事の推進、米商人の不正を取り締まるため米穀業者の組合の設立などだ。結果、県下における米の生産量と品質は急激に向上していった。

 米以外にも柑橘類や茶などの県の特産品とすべく、有能な技術者を鹿児島県に招いたり、品評会を催すなどした。また、私費を投じて鹿児島柑橘園と称する苗園をつくり、無償で農家に苗や会報を配りはじめたのである。そんなことは前代未聞だった。さらに驚くべきは、県産の柑橘類を海外へ売りだそうと、販路を開拓に乗り出したことだ。これは、当時としては極めて斬新な発想だった。

 桑園も私費でつくり、長野県から購入した良い桑を接ぎ木して見事な桑苗を育て、それを農民に無料配布するとともに、蚕糸同業組合を立ち上げ、県費を補助して養蚕業の振興をはかった。同じく茶についても模範茶園を私費で創設し、その普及につとめた。

 このように久宜は、自分の金銭を鹿児島県の発展のために惜しげも無く投じたのだった。 「見聞に狭く経験に乏しき民衆に対しては特に言行一致実践躬行、まず自ら之が模型を示して開導するに非れば得て期すべきに非ず」(大囿純也著『加納久宜 鹿児島を蘇らせた男』高城書房)という自身の信念のもと、久宜は身銭を切って農民たちに手本を示したわけである。だが、そのために拠出した金銭は、二万円という莫大な額にのぼり、加納家の家政を圧迫するほどだったという。彼の本気度がわかるだろう。

 ところで加納久恒は、幼い頃から馬が大好きだった。だから県知事になってからも白馬に乗って登庁していた。そんな久恒は、鹿児島県がかつて名馬の産地であったことを知るや、これを復活させようと積極的に動いたのだった。まずは県下に種馬組合を発足させ、県が直接種馬を購入し組合に貸与する制度をもうけた。また、久宜自身も私費で種馬を購入し、無料で農民たちに馬を利用させたのである。ちなみに知事退任後、久宜は仲間とともに東京競馬会を発足させ、はじめて馬券付き競馬を開くなど大いに日本競馬界の発展に尽くし、晩年は東京競馬倶楽部の初代会長となった。

 久宜は県下のインフラ整備にも力を注ぎ、鹿児島鉄道の創設、鹿児島港の近代化などに力を尽くした。続いて顕著な業績を上げたのが教育分野であろう。「未来の国家に尽くすべきは児童教育」と考えた久宜は、まずは小学校の就学率を上げるべく諸政策を展開した。

 当時、鹿児島県の子供たちは半数程度しか小学校へ通っておらず、全国平均を大きく下回っていた。そこで久宜は、学務委員に各村を巡回させ、保護者へ児童の就学を強くうながし、場合によっては違約金を出させることにしたのだ。逆に優良な学校や児童個人を積極的に表彰した。また、学校での紙や墨などの必需品は町村費で購入し、貧しい者に分与し、校舎不足に対応するため寺院や神社、民家を利用させた。こうした政策の結果、鹿児島県の就学率は急速に上昇していった。さらに農業学校や中学校、高等学校の創設をすすめ、鹿児島県を教育先進県に変えたのである。


明治のマイクロクレジット
 

 知事を退任した後、久宜は東京の入新井村(東京都大田区の一部)に居住した。ただ、隠居したわけではなかった。地方行政に見事な手腕を発揮したということで、各地で講演を求められ、さらに各団体の会長職を引き受けさせられたが、久宜はそのすべてを熱心にこなしつつ、新たな取り組みをはじめたのである。

 それが、信用組合と産業組合の設立だ。

 明治三十五年に久宜は、近隣をまわって出資者を募り、イギリスの協同組合を参考にした入新井村信用組合を設立した。久宜はいう。

「金持は金融の機関を持って居る」、「これに反して貧乏人はさうはいかない、金の要るときには如何にするかといふと、金融の機関がないのである」、「下層の人民をして如何にせば十分金融の便宜を得さしむることができるかといふたならば、国民銀行即ち信用組合である。此信用組合の目的は、即ち物に対して信用を置くのではなく、人に対して信用を置くのである、対物信用ではなく対人信用である。対人信用であれば、たとえ公債証書はなくても、土地家屋は持って居ないでも、其人の正直と其人の性行の信ずべき程度に於いて、金を貸すことができるのである」(「産業組合の活動」『第二回、第三回 地方改良講演集 上巻』内務省地方局編纂 所収)

 このように、貧しい者であっても金銭を借りることができるよう、久宜は信用組合という新しい金融システムを居村に構築したのである。さらに続いて産業組合もつくり、共同で商品を安く購入して分配する仕組みを立ち上げた。こうして久宜は、荒廃していた入新井村を見事に復興したのである。


大臣の座を蹴って一町長に
 

 やがて久宜は貴族院議員となり、さらに明治四十五年に清浦奎吾が組閣するさい、農商務大臣を打診されたという。しかしこれを固辞し、なんと、一宮町長に就いたのである。旧領地である一宮町の人びとの強い要望に応えたのだ。

 そして大正七年までその地位にあり、全国切っての名町長とうたわれることになった。

 前年の大正六年には一宮町の青年ら七十人を率いて久しぶりに鹿児島県を訪問、駅は旧県知事を歓迎する人びとで埋め尽くされたという。久宜はこれを喜び、「昔植えたミカンを早く見たい」と語ったと伝えられる。

 大正八年二月二十六日、久宜は静養していた別府で七十二歳の生涯を閉じた。

 加納久宜の伝記を記した伊佐秀雄は、彼の人生を次のように評している。

「出世第一主義などは全く念頭になく、大宰相たらずんば大町長たらんとの信念を以て事実坐らうと思へば坐れたかも知れない大臣の椅子などには振向もせず」、「七年でも八年でも与へられた仕事に没頭し、何者も惧れず、何物をも顧みない信念の人であった。この意味では彼は官界の変り者であった。しかし彼のやうな変り物があつたからこそ、わが自治行政は順調に進み、わが産業界は鎖国政策二百五十年の立遅れからよく脱却して僅々七、八十年で欧米諸国に匹敵し得るまでに至つたのである」(伊佐秀雄著『馬産界の功労者 加納久宜』日本出版社)

 

<参考文献>

 伊佐秀雄著『馬産界の功労者 加納久宜』日本出版社

 内務省地方局編纂『第二回、第三回 地方改良講演集 上巻』博文館

 大囿純也著『加納久宜 鹿児島を蘇らせた男』高城書房 



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