紅葉の山より美しい

 文政9年(1826)に夫の井関親興が亡くなった後も井関家の屋敷に住み続けていた隆子は、天保11年(1840)3月28日の日記に次のように記している(深沢秋男校注『井関隆子日記』)。ちなみに隆子はこの年56歳。4年後の11月に「卒中」(脳梗塞か脳出血)でこの世を去った。

 

  右大将様の御痘瘡の症状はたいそう穏やかなものだというから、とりあえず心配はない。それでも御側に仕える人たちは、みな紅色の衣をまとっているという。このようなとき黒や紫は禁物。にわかに紅色の衣に替えたのである。衣だけではない。右大将様の御膳やさまざまな調度も紅で彩り、柱まで赤い毛氈で包まれているとか【意訳】。

 

 右大将様とは、後に13代将軍となる徳川家定で、この年17歳。3日前の3月25日に痘瘡(疱瘡とも。今日は一般に天然痘と呼ばれる。痘瘡ウィルスがひきおこす病)を発症した旨が触れられ、紀伊大納言はじめ群臣が御機嫌伺いに総出仕したと『慎徳院殿御実紀』(『徳川実紀』)は伝えている。

当時、赤色は痘瘡から子どもを守るとされ、赤一色の版画(赤絵)や赤色のオモチャ(赤物)が痘瘡除け、あるいは痘瘡の症状を軽くするために贈られたことをご存じの読者もすくなくないだろう。しかし、江戸城の御殿内までそんな風習が大々的に行われていたとは、ちょっと驚きだ。なにしろ隆子ですら、家定が床に臥す部屋全体が赤一色となったと聞いて、次のように感嘆しているのである。

 

  「伝え聞にもさる御しつらひ、目も耀(かがよ)ふばかりにて、紅葉の山にわけ入ぬとも、さばかりはあらじとなむおしはからる、痘瘡の神の御棚、其わたりの御しつらひ仕うまつる人なども、皆赤う装ひぬとぞ」

 

 隆子は、家定が臥す一間の中が人々の衣服から調度、柱まで赤色で覆われていると聞いて、「紅葉真っ盛りの山中でも、これほどみごとではないかも」と楽しげに想像している。痘瘡平癒のために設けられた神棚で痘瘡神を祀る人々の装いまで赤一色であることにも言及。赤く染まった理由が痘瘡という忌まわしい病魔であると承知のうえで、彼女は「なんて美しい!」とウキウキしている。まるで「ぜひ拝見したいわ」とでもいうように。家定の症状が軽いと知って心配が解けたからかもしれない。

 

赤尽くしの効能
 

 それにしてもどうして赤(紅や桃色も)なのか。なぜ黒と紫は忌まれたのか。

 江戸時代の人々にとって、それは荒唐無稽な迷信でも、あやしい呪術でもなかった。あやしいどころか、ジェンナーの種痘法が伝来しその効果が証明されるまでは、一流の医師たちも赤が痘瘡に効果があると確信し、あわせて黒と紫の害を説いていた。

 豊前中津藩主の侍医を務め、のちに京都に隠棲した香月牛山(1656~1740)もその一人だ。牛山は、元禄16年(1703)に著した『小児必用養育草』(しょうにひつようそだてぐさ)の中で、痘瘡の治療法について、こう述べている。

 

  痘瘡の患者が臥す一間は、きれいに掃除して屏風を引き回し、乳香を焚くべし。不浄や穢れを避け、冬は暖かく、夏は蝿や蚊が痘瘡(皮膚に生じる水疱や膿疱)の上にとまらないよう蚊帳を吊るべし【意訳】。

 

 まあ常識的なところだろう。問題はこの先で、牛山は「屏風衣桁に赤き衣類をかけ、そのちごにも赤き衣類を着せしめ、看病共みな赤き衣類を着るへし」と述べている。病室に置かれた屏風や衣桁(衣類を掛ける台)には赤い衣類を掛け、痘瘡に罹った「ちご」(子ども)だけでなく看病人も、みな赤い衣服を身に着けよ、というわけ。

 再び問う。なぜ赤なのか。答は痘瘡の形や色の善し悪しを述べたくだりにあった。

「痘の色、紅(くれない)にして黄なる色を面部にあらはす者は吉也」。痘瘡で皮膚に発するできもの(水疱膿疱)の色が紅(赤)で、顔面が黄色くなれば軽症で済むという意味だろうか。牛山はこうも述べている。「痘出て、其色紫黒にしてかはき枯(かるる)者、九死一生もなし、大悪症としるへし」。膿疱が痂(かさぶた)になったときの色が紫黒だったら重症。まず助かる見込みはないというのである。

 そう、赤、紫、黒といった色はたんなる呪術的な迷信ではなく、多くの症例から得られた医者の経験知だった。

 ついでにもう一例、痘科医(痘瘡の専門医)で、幕府に招かれ医学館(漢方医学の教育と研究のための機関)の医官となった池田錦橋(1735~1816)の著書『痘疹戒草』(とうしんいましめぐさ 1806年刊)をひもといてみよう。

 痘瘡治療の第一人者が、一般向けに著したものだけに、記述は『小児必用養育草』に劣らず具体的でわかりやすい。なにしろ錦橋は、医師であるにもかかわらず、神棚を設けて痘瘡の神(いわゆる疱瘡神)を祀る方法まで懇切に解説している。そうすれば痘瘡が軽く済むということらしい。一部を要約すると。

 

 ――家の入口や病室の入口に紅紙で幣を垂らしてもいいし、病室に神棚を設け、紅紙を敷いた上に達磨や猿面を飾る場合もある。祭り方はさまざまだ。ただし供物の菓子や魚も赤い物でなければならない。たとえば紅団子に赤小豆飯、赤鯛、アカメバル、ホウボウ、イトヨリダイ、カナガシラというように(赤鯛以下、どの魚も赤みを帯びている)。とにかくすべて紅色に――。

 

 錦橋は「唐土にても痘の正色は紅を貴ひ喜慶(よろこび)」とも述べている。痘瘡が軽い場合、水疱膿疱は紅色なので、中国でも紅色を〝正しい色〟として喜ぶというのだ。紅(赤)は重症でない(命が助かる)ことを示すという。牛山の見解と同じだ。

着衣や供物まで赤色で統一せよという言説は、純粋に医学的な治療法とは思えない。しかし周囲を赤く染めることで痘瘡の疱まで赤くしよう(症状を軽くしよう)とするのは、いわゆる類感呪術の一種であり、それによって患者や看病人に安心感をもたらす効果はあったのではないか。

 

奥坊主小道具役の日誌にも
 

 旗本井関家の未亡人隆子が思い描いた家定の病室は、紅葉の山にもまさる美しさだった。はたして家定が病床に就いていた本丸御殿では、実際に病室の赤色化が行われていたのだろうか。

 ここで伝家の宝刀、奥坊主小道具役(坊主といっても僧侶ではなく、まぎれもない幕臣だ)の執務日誌『御慰言贈帳』をひらいてみよう。前回、前々回は弘化4年(1847)の日誌だったが、今回はまさに天保11年(1840)の日誌である。

 『実紀』では「右大将様」(家定)の疱瘡が発表されたのは3月25日だったとあるが、『御慰言贈帳』では3月23日に「右大将様御疱瘡御治定に付」とあり、数日前から奥務めの役人の間で周知されていた様子がうかがえる(当然と言えば当然)。

 そして3月23日の『御慰言贈帳』にはこんな記述も。「紅摺錦絵早々上け候様 村田へ申付候」。紅摺りの錦絵、すなわち赤絵を早急に持参するよう申し付けたというのだ。

 赤絵だけではない。達磨などの赤物の用意も命じられ、さらにそれらの品を包む紙も赤い奉書紙と指定している。水引もすべて赤だった。以下、日誌をめくっていくと。

 

【3月25日】

    細工  目かた

  一 紅  五匁

   右縫殿頭断 左衛門殿え出す

【3月26日】

  一 張子達摩  壱

   右縫殿頭殿え被下に相成候

【3月28日】

  一 ヲルコール 壱

   桃色天張   

 

 細工に用いる「紅」の染料、張り子の達磨(当然赤色)、桃色のオルゴール。このほか「赤御手遊ひ物」(赤色のオモチャ)、「朱塗」の手提なども用意された。

家定の容体が大事に至らずに済むと判明した4月13日には、生きた〝赤物〟まで取り寄せられた。それは「緋音呼」、すなわち緋色のインコ(オウム科の小形鳥)。緋インコ一羽を越前屋に注文し、4月18日、御城の開門と同時に差し上げるよう手配したのである。

 越前屋とは何者か。弘化4年の『武鑑』に「御小鳥類」として浜松屋善蔵と越前屋彦四郎の名が挙げられている。店の住所はそれぞれ桜田伏見町と神田明神下。江戸城の奥や大奥で観賞用に飼われていた小鳥類の注文を承る(積極的にセールスすることもあった)御用町人だ。

 錦絵、達磨、各種オモチャから小鳥まで、小納戸と奥坊主小道具役が中心となって、さまざまな赤色、緋色そして桃色の品が集められ、疱瘡を病む家定の身辺は赤尽くし。そんな赤の世界を覗いてみたいのは隆子さんだけではない。タイムマシーンが実現したら、私もぜひ。

<了>
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