はじめに
 

 ようやく暖かくなってまいりました。私の近所の公園では、桜が美しく咲いております。たまには、ゆっくりと散歩にでも出かけたいものですね。

 

 春に合わせたわけではないですが、『十六世紀史論叢』8号(十六世紀史研究学会)、『論集 赤松氏・宇喜多氏の研究』(歴史と文化の研究所)を刊行いたしました。魅力的な論文がたくさん載っていますので、この機会にぜひお求めいただければと存じます。

 

 大河ドラマの毎回のサブタイトルが名作の映画やドラマのタイトルをもじっていることは、ネット上で大変話題になっているようです。いろいろと苦労がしのばれるのですが、肝心の視聴率はやや低迷気味です。13回目のテーマの「徳政令」は、話題としてはやや地味なもの。どうなることやら。

 

 今回はおもしろかったのでしょうか? 確認していきましょう。


 

女はだめですか?
 

 直親(役・三浦春馬)が亡くなったので、直虎(役・柴咲コウ)が井伊家の家督を継ぐことになります。ただ、南渓(役・小林薫)の説明があったように、実際は家督を継いだというよりも、虎松(のちの直政)が成長するまでの中継ぎ役というのが正しいようです。

 

 前回の批評の「おわりに」のところで触れましたが、こうしたケースは決して珍しいことではありませんでした。明応5年(1496)に播磨など3ヵ国の守護・赤松政則が亡くなると、赤松七条家の政資の子息・道祖松丸(さえまつまる。のちの義村)を養子に迎えて、赤松家の家督を継がせました。その際、重臣たちの承認があったことは注目されます。

 

 ところが、道祖松丸は幼かったので、政則の後家である洞松院尼(細川勝元の娘)が後見となりました。誤解があってはいけないのですが、洞松院尼は別に権力を掌握し、専横を振るっていたわけではありません。先例を受け継ぎながら、良い形で義村にバトンタッチしようとしていたのです。

 

 それにしても、直虎が家督を継承したことに家中は猛反対です。そこはドラマ上の「おんなが家督を継ぐ(中継ぎ役も含めてか)のはダメ」という演出なのでしょうが、実際はそうではなかったであろうことを申し添えたいと思います。

 

 ドラマのなかで南溪が直虎に対して、「今川仮名目録」を勉強するようにと指示していました。「今川仮名目録」は、戦国大名今川氏が制定した領国支配の基本法典で、東国でもっとも古い分国法として知られています。大永6年(1526)4月14日、まず今川氏親によって33ヵ条が制定されました(黒川本は31ヵ条)。氏親が亡くなる2ヵ月前のことです。その後、義元により条文が追加されました。

 

 制定に至った目的は、時代の流れからこれまでにない事案が発生しており、それらに対応すべく分国の新しい裁判基準を明確にした点にあります。また、以前にも今川氏自身は個別に法令を発布していましたが、そうしたものも「今川仮名目録」に取り入れ、基本法典としての性格を明瞭にしています。

 

 制定に際しては、氏親の妻・寿桂尼が関与していたとの説があります。寿桂尼は、氏親の晩年頃から政務に携わっていました。寿桂尼が関与した理由としては、①氏親の死が迫っていることを寿桂尼が予期していたこと、②文体が女性特有の「仮名混じり文」であること、③「分国のためひそ(秘)かにしる(記)しをく」とあるように、いつの間にか制定しているように取り計らっていること、が挙げられています(久保田昌希『戦国大名今川氏と領国支配』吉川弘文館)。

 

井伊谷三人衆のこと
 

 前回も少し出ていましたが、井伊谷三人衆について触れておきましょう。井伊谷三人衆とは、菅沼忠久、近藤康用(やすもち)、鈴木重時の3人のことです。

 

 菅沼忠久は、井伊氏の支配領域内の都田(浜松市北区)に本拠を置いていました。忠久の父・元景は、井伊直親に仕えていたといわています。ちなみに、同族の菅沼定盈は野田城(愛知県新城市)に本拠を置き、家康に仕えていました。

 

 近藤康用は、祖父・満用が松平清康に仕えていたといわれています。満用が清康に従って三河宇利城(愛知県新城市)を攻撃した際、勝利の恩賞としてそのまま宇利城を与えられました。その後、今川氏の配下に加わりましたが、さらに家康へと転じたと考えられます。康用は永禄11年(1568)12月の遠江での一連の戦いで重傷を負い、晩年は井伊谷で過ごしたと伝わっています。

 

 鈴木重時は、父・重勝が柿本城(愛知県新城市)に本拠を置く三河国足助氏の流れを汲む一族です。当初、二人は今川氏の配下にありましたが、のちに離れて家康の配下に加わりました。その後、重時は堀江城を攻撃した際、討ち死にをしていることを確認できます。

 

 このように井伊谷三人衆の来歴を確認すると、それぞれは東三河に本拠を置く豪族であり、もともとは井伊谷とはあまり関係がなかったようです。家康の遠江侵攻の際、この3人が活躍したので、のちに「井伊谷三人衆」と称されたと考えられます。

 

 ドラマのなかでは、この3人が井伊家の後見役として、新たに加わったわけです。井伊家の家督を直虎が引き継いだ件について、話し合う場面もありました。

 

直虎の徳政令
 

 今回のハイライトは、やはり直虎による徳政令の適用でしょう。直虎が井伊家の家督に就くと、瀬戸村の百姓が代替わりの挨拶にやってきました。百姓たちは直虎が女性なので、大いに驚きます。まあ、それはよいとして、百姓たちには要求がありました。

 

 戦乱の世であるため、百姓たちはときに出陣を余儀なくされ、耕作ができなくなることもありました。当然、田畑からの収穫は期待できません。おまけに田畑は荒れ放題で、将来を悲観した百姓のなかには田畑を捨て、逃亡するものが続出しました。それどころか、百姓たちは商人・瀬戸方久(役・ムロツヨシ)から借金をしているありさまでした。

 

 百姓たちはこのままでは生活が成り立たないと考え、直虎に徳政令の発布を懇願するのです。徳政令とは、売買や貸借の無効や破棄を意味するものでした。しかし、金を借りた方は得をしますが、貸した方は損をします。戦国大名のなかには、その辺りの塩梅を見ながら、政策的に徳政令を交付していました(徳政令を適用されない特例を認められることもありました)。

 

 直虎は百姓を哀れに思い、徳政令の発布を約束します。そこへ件の瀬戸方久が直虎に代替わりの挨拶にやってきます。方久はかつて直虎が子供時代に会ったことのある乞食でした。方久は井伊家からもらった銭から商売をはじめ、その商才により、高利貸しとして巨万の富を築いていました。これは、「わらしべ長者」の逸話をモチーフとしたものでしょう。

 

 実は、井伊家も戦費を用立てるため、方久から多額の借金をしていたのです。直虎は徳政令を発布する旨を方久に伝えますが、それなら貸した金を耳を揃えて返してほしいと申します。困惑した直虎は考え直し、百姓らに徳政令はなかったことにしてくれと言い渡します。いい加減なものですね。

 

 そこで、直虎は方久を家臣に加え、瀬戸村と祝田村を与えることにより、苦境をしのごうとします。つまり、百姓の借金は年貢で支払われるというものです。そして、方久の商才により、村全体で金もうけをすればという話になるのですが、そんなにうまくいくものなのか・・・。

 

 これには井伊家の重臣らも大反対し、百姓たちも納得しません。そこで、一計を案じた百姓たちは、ウルトラCで今川氏に徳政令の発布を直訴しようとするのですが・・・。一方で、井伊家筆頭家老の井上政次(役・高橋一生)が何やら・・・。

 

おわりに
 

 徳政令そのものは歴史の教科書に出てきますが、そんなになじみ深いものでありません。ドラマのなかでは、ややコントちっくな扱いです。普通に考えると、互いに生きるか死ぬかの話ですから、ぱっと思いついて即実行できるものではないでしょう。

 

 次回は、百姓たちが今川氏真(役・尾上松也)のもとに行って、徳政令の発布を依頼する回です。果たしてどうなるのやら。

 

 今回の視聴率は、また13.1%と少し上昇しました。徳政令の話はややマニアックな話題のようでしたが、皆さんの評価はいかに。次回は、大いに期待いたしましょう。

<了>


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