大久保甚太夫は二度死ぬ
 

 本連載の25回・26回で、薩摩藩士の並外れた武闘性にまつわる話を取り上げた。2回分の話は、ほぼそのまま(若干の修正あり)先月(20173月)刊行された『増補版 大江戸残酷物語』(歴史新書y069・洋泉社刊)に「薩摩の鞘割」と題して収録(増補)された。

 とりあえず幕臣とは関係ないが、今回はもう一度、薩摩藩士の話題を取り上げてみたい。薩摩藩士といっても、実は今回の話に薩摩藩士は一人も登場しない。ならばなぜ薩摩藩士の話なのか。

東海道蒲原宿(江戸日本橋から15番目の宿場)は現在静岡市清水区に編入され、宿場跡には所々に史跡の解説が掲げられている。

 問題は、宿場の西木戸跡に立てられた解説板。

そこには――承応2年(1653)、高松藩士で槍の名人の大久保甚太夫が、江戸へ向かう途中、この地(茄子屋の辻)で薩摩藩の大名行列と遭遇し、槍の穂先が触れたことが原因で口論となり、多くの命が失われる大乱闘に発展。甚太夫は追っ手に殺害され、遺骸は竜雲寺の住職によって葬られ、甚太夫の槍の穂は同寺の宝として現在も保存されている――という内容が書かれている。

 承応2年、高松藩の藩主は初代の松平頼重だった。高松藩士の大久保甚太夫が、蒲原宿で薩摩藩の行列とニアミスし、あろうことか槍の穂先を当ててしまう。激昂した薩摩藩士と甚太夫の間で死闘が繰り広げられ、現場は血の海になる。薩摩藩の士風を考慮すれば、十分にありうる話だ。出典こそ記されていないが、事件が起きた年も「承応二年」と明記されている。それにもまして解説の作成者は「静岡市」、史実でないはずはない。

 はずはないのだが、なにかおかしい。高松藩士の小神野与兵衛(おがの・よへえ)が安永5年(1776)頃まとめた『盛衰記』をひもといてみよう。

同書には、大久保甚太夫が蒲原宿で大喧嘩の末に殺害された一件が詳しく記されている。事件が起きた年は書かれていないが、やはり初代藩主松平頼重の時代だという。ところが驚くなかれ、喧嘩の相手は薩摩藩士ではなく、「本多内記殿家中」すなわち大和国郡山藩主本多内記(名は政勝)の家来となっているのだ。

 薩摩藩(鹿児島藩とも。728700石)と郡山藩(19万石)。蒲原宿の史跡解説と『盛衰記』の記述と、どちらが正しいのか。甚太夫の命はひとつだけ。薩摩藩士に殺されたとすれば、郡山藩士に殺されたはずはなく、その逆も不可能だ。それとも甚太夫は二度死んだのだろうか。まさか。

 

郡山藩士の逆襲
 

 ともかく『盛衰記』で事件の概要を辿ってみよう。

 英公(初代藩主松平頼重)の時代、100石取りの藩士大久保甚太夫の主従3人が、江戸から国許へ帰るとき、品川に泊まって遊女屋で遊んだ。同じ遊女屋に泊まっていたのが本多家(郡山藩)の家臣牛田又助ら5人。大久保と牛田は遊女を争って、牛田は唐紙越しに大久保に対して悪口を浴びせたが、大久保は、場所柄をわきまえてじっと堪えた。

 翌朝、大久保も牛田も品川を発った。牛田らは道中でも後になり先になり悪口や揶揄を申しかけた。大久保の我慢ももはや限界。先に着いた蒲原宿で覚悟を決めて牛田一行を待ち構えた。さて、牛田一行が到着すると、大久保は苦もなく牛田を槍で屠り、牛田の家来四人も主従3人で討ち留めた。3人は軽傷を負ったが、喧嘩は大久保側の勝利で終わった。

 ところが……。その場を立ち去る途中、槍の鞘を置き忘れたことに気がつき、蒲原宿に戻ったところを本多家中の者たちに発見されてしまう。彼らは見ぬ振りをして大久保らを逃がし、大久保主従は近くの山中に姿を隠した。折からの暑気と空腹、負傷(しかも大久保は肥満体だった)で疲弊した主従は、昼間は木陰で睡眠を取り、夜陰に乗じて立ち退くことにした。

 一方、本多家中の者たちは、土地勘のある蒲原宿の者に大久保主従の捜索を頼んだ。主従の居場所がわかると、20人ほどで襲いかかり、主従をさんざんに切り刻んだ(原文は「甚太夫主従三人を鱠の如く切申候由」)。本多家中の仕打ちは「比興之致方」(卑怯なやり方)と笑われたが、大久保主従を討って喧嘩の後始末(復讐)をして役割を果たしたとも言える。

彼らは国許の郡山に帰り、大久保の遺骸は蒲原宿の本陣の取り計らいで埋葬された。

 

薩摩藩士にすり替えられた理由
 

 薩摩藩と郡山藩の違いだけではない。『盛衰記』によれば、事件が起きたのは、江戸へ向かう途中ではなく江戸から高松へ戻る道中だったという。大久保甚太夫らが討ち果たした人数も、静岡市の史跡解説では「70人近くを倒しました」とあるのに対し、『盛衰記』では牛田又助ほか計5人に過ぎない。

そもそもの発端も、『盛衰記』では品川宿での遊女をめぐる争いで、槍の穂先がぶつかったという話は書かれていない。全体として史跡解説は講談や芝居じみていると言わざるをえない。だいいち大久保がいくら超人的な武人だとしても、70人もの薩摩藩士を突き倒すなど、ありえないではないか。

 というわけで、静岡市の解説は信憑性が乏しく、高松藩士の小神野与兵衛が著した『盛衰記』の記述こそ、史実に近いと考えられる。だとすれば、喧嘩の相手も薩摩藩ではなく郡山藩だったのだろう。すくなくとも私にはそう思われるのである。

 どうして郡山藩が薩摩藩に変わってしまったのか。ひとくちで言えば、話を面白くするためではないだろうか。連載の26回(「会津と薩摩の〝箱根戦争〟」)でも触れたように、総じて薩摩藩士は喧嘩っ早く、刀を抜けば死ぬまで戦う厄介な連中という評判が、他藩の家中の間に浸透していた。獰猛な瞬間湯沸かし器。豪傑大久保甚太夫の敵役としては、これ以上望めないタイプだ。

静岡市が作成した解説には、出典が記されていない。おそらく血湧き肉躍る「蒲原宿死闘譚」がベースになって、史跡解説が出来上がったのだろう。〝大久保甚太夫70人斬り〟は史実としては真っ黒だが、話としては面白い。わずかでも地域振興のために役立つというなら、それはそれでいい。

 

焼き討ちをまぬがれた蒲原宿
 

 『盛衰記』には、蒲原事件のその後についても記されている。事件は大久保の死で終わらなかった。終わらないどころか、大久保主従が殺害されたことがきっかけで、さらに大規模な殺戮に発展する事態が生じた。

 当時松平頼重は高松に在り、事件の一報は水戸藩主の「黄門公」(徳川頼房、松平頼重の実父)のもとに届いた。激怒した頼房は、蒲原宿の住人を一人残らず焼き殺せと息巻いた。郡山藩側に頼まれて大久保主従の居場所を捜し出し、郡山の家中に「寝首討せ候事」(油断していた大久保主従を襲い殺害させたこと)が許せなかったのだ。

 頼房は多数の藩士を従えて品川宿に到着。同時に高松藩にも出動を命じ(頼房は支藩の高松藩に対して、それほど強い力を持っていた)、高松藩は直ちに100人ほどから成る〝戦闘部隊〟を出船させた。

これで水戸藩と高松藩の連合部隊が、東西から蒲原宿に押しかけることができる。頼房は勇壮な〝出陣〟に心躍った(もともと武闘的な殿様だった)。蒲原宿は風前の灯火。

 ところがここで「待った!」が入った。同じ御三家の尾州公と紀州公が「蒲原宿には貴公の希望通りの懲罰を公儀(幕府)から申し渡すようにするから、ご自身の出馬は思い止まるように」と頼房を説得したのである。

 幕府はどう対応したか。頼房の言い分をもっともと見なし(「公儀にても御尤と思召」)、道中奉行と代官に命じて人数を差し向け、蒲原宿から一人も逃げられないよう竹垣で囲んだという。まるで網の中の魚のように。原文には「宿中之男女一人之不散様竹垣結廻し、網之魚之如く致候由」とある。信じられない話だが、幕府は頼房の要求通り、宿場の住人を焼き殺そうとしたというのだ。

 明日は焼き討ち。危機一髪のところで、またしても「待った!」が入る。蒲原宿を救ったのは「上野宮様」と「増上寺方丈」、上野輪王寺の門跡と芝増上寺の住職だった。上野も芝も将軍家の墓所であり、幕府ひいては諸大名に大きな影響力を持っていた。その二人が、頼房に使者を派遣して、「蒲原宿の者のすべてがこの件を承知していたわけではなく、大久保主従の殺害には無関係です。お怒りはもっともですが、懲罰を加えるのは郡山藩士の手引きをした者たちだけにするべきです」と懇願した。

二人からお願いされたら、頼房といえども拒むわけにはいかない。かくして蒲原宿は焼き討ちをまぬがれ、多くの人命が救われたと『盛衰記』は記している。

 それにしても、このようなことが本当にあったのだろうか。

『盛衰記』とその異本のほか高松藩側の記録はなく、未調査だが郡山藩にもありそうにない。薩摩藩士が敵役だったという話を否定したものの、かといって、『盛衰記』の記述が史実なのかと問われると、「はい、正真正銘の史実です」と断言する自信はない。

なにか情報をお持ちの方は、ぜひ教えていただきたい。郡山藩でも薩摩藩でも、どっちでもいいじゃないか、と通り過ぎるにはあまりに興味深い事件なのである。

<了>

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