ロシアに相対し列強の威を知る

小栗忠順(おぐりただまさ)は、文政十年(一八二〇)に二五〇〇石の旗本・忠高の子として生まれ、安政二年(一八五五)に家督を継ぎ、役職も使番、目付と順調に昇進していった。

 万延元年(一八六〇)、江戸幕府は日米修好通商条約の批准書を交換するため、遣米使節を派遣することになったが、小栗はその一員に選ばれた。

 財政に明るい小栗は、当時問題になっていた金銀比価による金貨の流出について、アメリカの国務長官に対して堂々とその不公平を論じて是正を求めるなど、卓越した交渉能力を発揮した。そんなこともあってか、アメリカから帰国した万延元年(一八六〇)、小栗は外国奉行に抜擢されたが、文久元年(一八六一)二月、とんでもない外交事件に巻き込まれてしまう。

 ロシア船ポサドニック号が、にわかに対馬に来航し、船を修理したいと対馬藩に申し出るや、ロシア兵が続々と上陸してきたのだ。しかも彼らはなんと、建物をたて井戸を掘り始めたのである。

 この行動に驚いた対馬藩は、すぐにロシア船に撤退を求めるが、艦長のビリリョフ は一向に承諾しようせず、ついに対馬の住人とロシア兵が小競り合いを起こし、島民が犠牲になるという事態にまで発展した。

 江戸幕府もさすがにこの状況を放置しておくことはできず、外国奉行の小栗忠順にロシアとの撤退交渉を命じたのである。こうして小栗は、咸臨丸に乗って対馬へと渡り、ビリリョフと会談をおこなった。だが、ビリリョフはまったく小栗の話に耳を貸そうとせず、退去交渉はあっけなく失敗に終わった。

 すると小栗は、交渉を継続しようとせず、そのまま対馬から引き上げてしまったのである。 このためビリリョフは増長し、対馬藩主に対し、芋崎周辺の租借など十二ヵ条の要求を突きつけ、対馬のロシア領化をすすめたのだった。

 ただ、小栗のために弁明すれば、彼は江戸に逃げ帰ったわけではなかった。

 交渉の難しさを実感し、新たな腹案を幕閣に承諾してもらおうと考えたのである。

 それは、対馬を支配する宗氏を別の地域へ移封し、この地を幕府の直轄地とし、そのうえで対馬港を列強諸国に開く。そうすることで、ロシアの独占状態が解消でき、むしろその植民地化を防ぐことができるというものだった。

 だが、その主張は受け入れられず、小栗はあっさりと外国奉行を解任されてしまった。

 ちなみに対馬問題については、幕府の老中安藤信正が、駐日イギリス公使オールコックに助力を依頼した。オールコックはこれを了承し、軍艦を対馬へ差し向け、不法滞在に強く抗議し威圧してくれたので、ロシア政府も撤兵を決めたのである。

 いずれにせよ、小栗にとっては苦い経験だった。

 

開国に奔走

 もともと開国派であった小栗は、アメリカ滞在中に鉄道や工場、造船所など、さまざまな最新施設を見聞し、さらに先のロシアとの外交問題でますます近代化の必要性を実感するようになった。そこで、近代的造船所の設置を幕府の首脳部に執拗に求めるようになった。

 ところが、これに対して軍艦奉行並の勝海舟などは、「船をつくる造船所の建設には膨大な時間や金がかかる。それより、それを操縦する人材の育成のほうが優先だ」と強く反対したという。

 けれど小栗はこの構想を捨てず、やがてフランス公使のロッシュが着任すると、わざわざ彼のもとを訪れて造船所について熱く語り、協力を依頼したのだった。

 すると、小栗と意気投合したロッシュは、その願いを快諾したのである。そこで小栗は老中たちを強く説得し、ついにフランス政府の技術や莫大な資金援助を得て、慶応元年(一八六五)、横須賀に近代的造船所を建造することに成功したのである。

 さらに小栗は、大砲製造所の建設、フランス士官を招いての洋式陸軍の整備など、幕府の軍事力を急速に強大化させていった。

 また、開港を予定していた兵庫に商社を開設させたり、洋風宿泊施設『築地ホテル』をつくる際、民間の資本を集めた株式会社形式を提案するなどした。

 小栗は、勘定奉行、江戸町奉行、歩兵奉行、陸軍奉行など、めまぐるしく役職をかえている。これは、剛直で自分の主張を変えず、たびたび上司と衝突して罷免されてしまうからであった。ただ、極めて有能な官僚だったため、すぐに再登用せざるを得なかったのだ。そうしたなかで小栗は、次第に幕府の中枢にのぼり、とくに勘定奉行を長く経験したことで、幕府の財政運営上、なくてはならない存在となった。

 小栗は、反幕府勢力に対抗するうえで、フランスの郡県制を構想していたといわれる。

 おそらく江戸幕府のもとでも、小栗がいれば、日本は近代国家に転身できたろう。

 だが、幕府は慶応二年に第二次長州征討で長州藩に敗れ、以降、薩長倒幕派が急激に力を伸ばしてくる。そうしたなか、新たに将軍になった慶喜のもとで、小栗はさらなる軍事改革を加速させたものの、結局、慶喜の判断によって慶応三年十月、政権を朝廷に返還してしまう。

 しかし、十二月九日、倒幕派の策謀によって王政復古の大号令が出され、朝廷に新政府が樹立され、その夜、小御所会議において、慶喜に対する辞官納地(内大臣の辞任と領地の返納)が決定されたのである。

 これは、倒幕派が旧幕臣を暴発させて武力で徳川家を倒すための策謀だった。

 しかし慶喜は挑発に乗らず、京都の二条城から大坂城へと撤退した。

 そこで薩摩の西郷隆盛は、江戸にいる浪人たちを使って、さかんに江戸や関東に治安を乱して旧幕臣たちの暴発を誘ったのである。

 

小栗の決戦構想

 これに対して江戸にいた小栗は、無法な薩摩藩との対決を決意する。

 そして、江戸の治安を守る庄内藩士らとともに、江戸の薩摩藩邸へ軍隊を派遣し、焼き打ちを実行したのである。

 小栗は薩摩ら倒幕派と戦っても勝てると踏んでいたのである。じつは小栗は、幕臣たちに金銭を拠出させ、その金で集めた傭兵を中心とした精鋭部隊をつくり、直接フランス士官に徹底的な訓練をほどこさせていた。結果、すでにこの時期、三千以上の伝習隊と称する最強の陸軍部隊が成立していたのだ。

 幕府の首脳部も戦争が必至になると、小栗に期待し、十二月二十八日、彼を陸軍奉行に登用したのである。また、薩摩藩邸焼き討ち後、旧幕府軍や佐幕派諸藩の兵も続々と西上していった。

 いよいよ戦いがはじまるのである。

 実際、それから数日後の明治元年一月三日、大坂城の旧幕府軍が江戸での事件を知り、新政府からの薩摩勢力排除をかかげて京都への進撃を開始、鳥羽口と伏見口で薩長軍と激突した。だが、戦いは旧幕府軍の大敗となった。しかし、関東からは次々と旧幕府方の軍勢が向かいつつあったので、十分、逆転は可能だった。

 ところがである。慶喜は薩長軍に朝廷から錦旗が渡されると、朝敵になることを嫌い、大坂城から兵を捨てて敵前逃亡をはかったのだ。

 結果、旧幕府軍は瓦解、新政府は慶喜を朝敵として東征軍を編成、東下をはじめたのである。

 一月十二日、大坂から逃亡した慶喜が開陽丸で品川沖に到着、そこから小舟に乗り換えて浜海軍所(現在の浜離宮恩賜庭園)に上陸した。

 すぐに江戸城で今後の対策会議が開かれたが、このとき小栗は強硬に主戦を説いた。小栗には、薩長に勝てる自信があった。

 彼が考えた迎撃作戦は、次のようなものであったという。

 当時、徳川には軍艦八隻、輸送船七隻があり、とくに二十六の砲門を備える最新鋭艦の「開陽」があり、その海軍力は他藩を圧倒していた。そこで小栗は、この艦隊を駿河湾に派遣し、東海道を進んでくる新政府軍に徹底的に砲撃を加える。とくに敵後方へあらん限りの砲弾を撃ち込んで敵の退路を断つ。

 こうして前進するしか方法がなくなった敵が箱根を越えて仕方なく小田原まできたところを、フランス式精鋭部隊「伝習隊」をはじめとする一万五千の旧幕府陸軍を中核に徹底的な攻撃をおこなわせ、殲滅するというものであった。

 その後、さらに海軍の一部を神戸や兵庫方面へ差し向け、残る薩長軍に砲撃を加え、西国諸藩との連絡を遮断すれば、九州諸藩や日和見している諸藩も挙兵をためらい、新政府の倒幕派は壊滅するだろうというのだ。

 もしこの作戦が実行されていれば、歴史が変わった可能性がある。

 だが、すでに徳川慶喜は、新政府に対する恭順を固く決意していた。そこで小栗案を即座に拒絶したのである。

 

直訴むなしく江戸を去る

 諦めきれない小栗は、席を立ってずかずかと慶喜の近くまで行き、「徳川は逆賊の汚名を着せられている。非はすべて薩長にある。なぜ速やかに正義の一戦を遂げないのです!」そう言って、なんと慶喜の袖をつかんだという。

 ひるんだ慶喜は、顔面蒼白となって小栗の手を振り切り、その場から退出してしまったと伝えられる。

 一月十五日、小栗はすべての役職を罷免されてしまった。

 すると、小栗は意外な決断をする。

 一月二十八日、「知行地のある上野国権田村に土着したい」という願書を提出したのである。

新政府に恭順することがきまったため、徳川家にとって主戦派の小栗は疫病神である。遠くに去ってもらえるなら、願ったり叶ったりであり、すぐにその願いは聞き届けられた。

 それにしてもなぜ、小栗は江戸から離れようとしたのか。

これに関しては、江戸を去る前日、小栗のもとを尋ねてきた渋沢成一郎に、彼は次のように語ったという。

「自分はもちろん考えるところがあって、はじめ、開戦をとなえたけれども、それが、おこなわれなかった。いまでは、主君は恭順の意を示して、江戸は、他人のものになろうとしている。人びとの心は、挫折し、もはや、たたかうことはできない。たとえ、会津、桑名の諸藩が東北の大名をひきつれて、官軍とたたかっても、将軍がもうすでに、恭順せられている以上は、なんの名義もたたないのである。数月の後には、戦いは一応、おさまるであろう。しかし、それから後は、強藩が互いにその勲功をあらそい、内部から、内輪ものとなって、ついには群雄割拠するということになるかも知れぬ。もしもこのような時機がきたならば、われわれは、主君を奉じて、天下に檄をとばすことにしよう。三百年にわたって施した徳川家の恩沢を、まだ忘れない者も、多くいるであろうから、国内をふたたび統一することは、さして難事ではない。われわれは、いまは、時を待つよりほかはない。自分は、これから、権田に住み、民衆を慰撫し、農兵をやしない、事あらば、雄飛すべく、またもし事なければ、領民となって、一生をおわろうとおもう」(蜷川新著『小栗上野介』千代田書院 

 

新政府の魔手

 ちなみに小栗が権田村を選んだのは、戦国時代に権田城があったことでわかるとおり、ここが要害の地だったからだ。しかも名主ら村の有力者たちは、小栗を全面的に支持してくれていた。

 こうして二月の末、洋式歩兵十数名とともに権田村に入った小栗だが、この時期、権田村周辺では世直し一揆が吹き荒れていた。

 やがて、一揆勢は権田村へもやってきた。小栗は穏便に一揆勢に退去を求めようとしたが、彼らは言うことを聞かず、二千の大軍で村内になだれ込んできたのである。このとき小栗は、部下と農兵を巧みに指揮して、見事に一揆勢を撃退したのだった。

 このため、一揆勢に味方した周囲の村々は、小栗に謝罪してきた。そんな彼らに小栗は、「農民の次男以下にさまざまな知識を与えたいので、東善寺に寄こすように」と伝えた。おそらく、こうした周辺の若者たちを農兵に組織し、他日に備えようと考えたのだろう。

 だが、小栗に時間を与えるほど、薩長倒幕派を中核とする新政府は甘くなかった。

 小栗を朝敵の首魁と考え、四月後半になると、小栗とその家臣たちを討伐するよう東山道鎮撫総督府が高崎・安中・吉井の三藩に命令を下したのである。そこで三藩は、権田村の隣村・三ノ倉村に兵を出し、小栗に対してこの事実を告げた。

 このとき小栗は自分の無罪を主張し、養子の又一を高崎へ同道させて安中藩を通じて新政府に恭順の意を伝えた。さらに、所持していた大砲や小銃も素直に差し出した。

 そこで三藩も納得し、小栗の意向を総督府に伝達したが、総督府は「小栗は大罪人ゆえ、ただちに捕縛せよ。もし言うとおりにしなければ、三藩の存亡にかかわることになる」と恐喝したのである。

 この事実を知った小栗は、妻子や親族を新政府に敵対している会津藩領へ逃すことを決意した。そして、いったん村の有力者・中島三左衛門の手引きで、権田村の東善寺から脱走して吾妻山中へ逃れた。そのうえで妻子らを逃走させ、自分は東善寺に戻ったのである。

 一説によれば、新政府からの処罰を恐れた村人たちの裏切りにあったのだという。つまり小栗は、「あなたの恭順が新政府に認められた」と村人らにだまされ、村に連れ戻されたとするのだ。事の真相はわからないが、すでに小栗には死の覚悟はできていたはずだ。

 こうして東善寺で捕縛された小栗と家臣三名は、隣の三ノ倉村につれていかれ、取り調べも受けないまま、烏川の水沼河原に引き出され、首を落とされたのである。享年四十二才?であった。

 

徳川埋蔵金の噂

 小栗が処刑された後、その知行地はすべて没収され、屋敷や財産は競売にかけられた。

 なお、小栗の家族をどうにか会津へ届けた中島三左衛門は、斬首された小栗の首を取り戻そうと考えた。そして、その場所が館林の法輪寺だと突き止めると、夜、ひそかに境内に入り込み、同志らとともに盗掘を試みたが、よく場所もわからなかったのか、うまくいかなかった。

 そこで知り合いの法音寺の僧・明山に事情を話し、その案内で法輪寺へ行き、「小栗の墓碑を建てたい」と頼み込んだ。この話し合いのなかで、小栗の埋葬地がはっきり判明したようで、明山の黙認のうえで盗掘を再実行することになった。こうして小栗の命日にあたる四月六日、発掘が実施された。結果、土中から桶に酒漬けにされた小栗とその養子・又一の首が見つかり、小栗の首はそのまま東善寺に手厚く埋葬されたのである。

 さて、小栗といえば、徳川埋蔵金伝説が有名だろう。

 彼は幕末に勘定奉行を長くつとめ、幕府の財政を握っていた。だから権田村へ土着するさい、幕府の御金蔵から大金を持ち去ったといわれるようになった。

 しかも後年勝海舟が「幕府には三百数十万両の金があった」と述べたこともあり、その死の直後から「小栗がどこかに徳川の大金を隠した」という噂が広がり、周辺の農民たちは屋敷に入り込んで、その周辺も含めて必死に大金を探しはじめたという。

 その噂は尾ひれがつき、大正時代になると、赤城山、甲斐、群馬県の渋沢など、各地に埋蔵金伝説が広がり、戦後にはテレビ番組までつくられるようになった。

 ただ、この時期の幕府には金がなく、横須賀造船所をつくるのにもフランスから借款しているくらいだから、残念ながらそうした埋蔵金は存在するとは思えない。いずれにせよ、小栗忠順という英傑が、この埋蔵金伝説のために正当に評価されないのは残念なことである。


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