越前屋を探せ 

 江戸城に観賞用の鳥類を納める御用商人に越前屋がいた。奥坊主小道具役の記録のひとつ、弘化4年(1847)の『御慰言贈帳』を調査していると、越前屋の記事がすくなからず登場する。

越前屋とは何者か。辞典その他の文献で調べてみても「越前屋」にはたどり着けない。例によって困ったときのインターネット頼み。「鳥屋 越前屋」で検索すると、最初に出て来たのは、大阪北新地の焼き鳥屋「越前屋」。とはいえ検索のお蔭で、八代市立博物館の所蔵資料の一点に、お目当ての「越前屋」に関する記事を発見した。尾田勝延という絵師が描いた丹頂鶴の写生図に「江府本郷越前屋ト申鳥屋ニ居候を文政二年七月尾田法眼勝延生写」なる文章が添えられていたのである。

 江戸の本郷にある越前屋という鳥屋にいた丹頂鶴を、文政2年(18197月に写生したという意味。ほかに「見世物興行年表」の安政3年(18563月の項に引用された『藤岡屋日記』にも越前屋が出ている。インターネット検索、おそるべし。

 さっそく手元にある『藤岡屋日記』(これは本)でその箇所を開くと、次のような内容の記事が。

本郷1丁目の鳥屋、越前屋彦四郎の番頭忠兵衛が、主人(彦四郎)から鳥類を買って開帳に見世物として出したところ、大いに受けた。悦に入っていたところ、3月晦日の夜、キツネでも忍び込んだのか、オランダ渡来の丹頂鶴や孔雀、錦鶏鳥、鴛鴦など計5羽が食い尽くされてしまった。鳥の購入費50両余が泡と消えた。

 番頭の忠兵衛にはとんだ災難だった。それはともかく、『藤岡屋日記』の記述によって、本郷の越前屋で、見世物にして多くの客を集められる珍しい鳥が売られていたことがわかる。それにしても、5羽で50両余とは。

 

御用鳥屋のお仕事

 越前屋についてある程度わかったところで、弘化4年の『御慰言贈帳』をひもといてみよう。

 この年の越前屋の当主は太三郎(多三郎とも表記されている)。正月から7月にかけて(8月以降はまだ調査していない)、越前屋から担当の小納戸を通じて江戸城に納められた(あるいは購入の伺いが出された)鳥は、「唐かけす」「蒼鵞」「鶯」「白鶉」「小鴨」「巴鴨」「尾長鴨」「羽白鴨」「目白」「よし切」「こま」等々。このうち「よし切」はヨシキリ。あとは大体想像がつくと思うので、どうしてもという読者は、ネットや鳥類図鑑で調べてほしい。

 注目したいのは、どのような鳥かではなく、どのような手続きで江戸城に納められたかである。ひとつは越前屋からの売り込み。222日の条に「替鳥伺 越前屋より差出候」とある。変わった鳥が入荷したので、いかがですか? というのだ。「替鳥」「替り鳥」は珍しい鳥を意味するのだろう(あるいは一定期間を置いて新しい鳥と取り替えるようになっていたのかもしれない)。

516日には「暑中御鳥伺書」を提出し、暑中に相応しい鳥の注文を伺ったのに対し、担当の奥坊主小道具役から「珍敷(めずらしき)替り鳥 此節何も無之 見当次第早々可申上」と申し渡している。ここのところ珍しい鳥がいないので、見つかり次第報告するようにというのである。

 越前屋が売り込むだけではない。担当の小納戸や奥坊主から、珍しい鳥すなわち公方様はじめ御台様、若君様、姫君様などのお慰みになるような観賞用の鳥類を差し出すように越前屋に対してしばしば督促があった。「珍敷替り鳥伺候様甲斐守殿被申聞候処 越前屋替り山から(中略)甲斐守殿え出す」(318日)というように。珍しい鳥が手に入ったら、その旨申し上げるようにという朝比奈甲斐守(小納戸)の指示を受けて、越前屋からヤマガラが差し出されたのだった。

 鳥を江戸城に納めるといっても、もちろん無料で献上したわけではない。越前屋は当然高く売れることを望み、担当役人はできるだけ安く買おうとした。売り買いの原則は、御用商人と幕府の間でも変わりはなかった。

 越前屋の鳥にはどのくらいの値がつけられていたのか。明記された金額を拾ってみよう。「替り文鳥」が2羽で22分、「替り小鴨」が22両1分、「鶯」の雌が13分、「替羽白鴨」が32分、「鶉」2両1分。丹頂鶴のような大形の鳥でもないのに、さすがに高額だ。かりに1両が銭6貫文(6000文)だとすれば、1両で二八蕎麦(にはちそば)が375杯食べられるのだから。

 なかでも「替り小鴨」の値は際立っている。この小鴨の購入に際しては、越前屋と朝比奈甲斐守の間で、〝負けろ、負けられません〟の「押合」があったと『御慰言贈帳』は記している。

 13分の値がつけられた鶯の雌(原文は「鶯之めん」)は、越前屋によれば、鳥屋業界外の者が3年程飼っていたのを、説得してようやく手に入れた鳥だった。そのため異様に高値(「法外之高直」)なので、御城に持参はしたものの売るのをためらったが、結局、興津仲(小納戸)の決定で幕府に納めたらしい。越前屋の巧みな駆け引きがあったのだろう。

 幕府(小納戸)の方も言い値で購入していたわけではない。越前屋がせっかく持参した鳥も、姿形が悪いといって買い上げないこともあれば、しばらくして「御用無之」(必要なし)と戻す(返品?)ことも。病んだ鳥は越前屋に引き取らせたし、26日の『御慰言贈帳』には次のような記事も。

 

  将軍が品川筋に御成になったとき、西久保八幡前の山本屋万吉(やはり鳥屋か)方で鶉を番(つがい=オス・メス一対)で買い上げた。ところが後で2羽ともオスと判明。あらためて(山本屋から)メスを取り寄せ、しかるのち越前屋を急遽呼び出して、竹田伊豆守(小納戸頭取)の指示で、2羽のオスのうち良い方を選ばせた。選ばれなかったオスは山本屋に戻し、これで鶉の番が揃った。

 

なんともトリビアな内容で恐縮だが、越前屋の主人や代理の者が、なにかにつけて御城に呼び出され、その専門的な知識で御用に応じていた様子がうかがえる。越前屋は鳥を納入し、そのアフターケア(病鳥の治療など)をするだけでなく、小納戸ほかの役人から鳥に関するさまざまな質問を受け、適切に答えるよう求められたのである。おのずと小納戸たちの知識や鑑定眼もブラッシュアップされたに違いない。

 

旗本の鳥ビジネス

 観賞用鳥類の扱いや鑑定に長けていたのは江戸城の奥で務める小納戸だけではない。大名や富裕な町人がペットとして鳥類を求めるようになるにつれ、鳴き声の美しい鳥や珍奇な鳥の価格は急騰し、旗本のなかには、商売として鳥を飼育するものも出現した。斑入りの植物を栽培して高く売るように、鳥を育てて高価な値で売る幕臣のペットビジネスが生まれたのである。

 馬場文耕が著した『世間旗本形気』(1754年序)に登場する二番町辺の旗本、笹井巳之介(ささい・みのすけ)もその一人だ(『世間旗本形気』に取り上げられた旗本には実在のモデルがあったが、笹井巳之介についてはさだかでない)。

部屋住みの淋しさをまぎらわすためにヒワやメジロを飼い始めた巳之介は、飼育術が上達すると、オシドリ・カモ・アヒル・ナンキンバト・キジ・マガモ・マガンなどさまざまな鳥を飼うようになった。屋敷はさながら「鳥部屋」と化し、巳之介はさらに秘術を尽くして飼育に精を出した。

 弟の右内も兄に倣って飼育術を鍛錬し、昼夜心を砕くありさま。本所深川辺の知人から小鶄(ゴイサギか)やヨシキリの卵を貰って孵化飼育して57両で売ったり、四谷新宿辺からヒバリやウズラを巣ごと取り寄せて同じく金に換えたり。お蔭で家は裕福で、いまさら幕府の役に就くまでもないと、病と称して頭に対面しようともしなかった。

やがて鳥だけでなく、サル・ウサギ・チン(狆)、さらにはイノシシの類を日光筑波の山奥にまで買いに行くようになった。

 

はずれた目論見

 そんな巳之介のもとに、ある日麹町の平字屋という鳥屋から、さる奥向の御側を務める方が、拝領した「きうくわん」(九官鳥)を売りたがっているという情報が入った。急にお金が必要になったので、50両なら売りたいとのこと。この鳥は人の言葉を真似るのが巧みで、「高砂」の小謡も得意な「大名鳥」。売れば300両位にはなる掘り出し物だという。

 喜んだ巳之介は、早速50両で買い取り、同好の仲間を招いて手に入れた珍鳥を前に夜が更けるまで遊び騒いだ。三味線にあわせて浄瑠璃をうなる者もあれば、歌舞伎役者や志道軒(人気の講釈師)の声色を真似る者も。ドンチャン騒ぎの翌日、平字屋が訪れ、早くも四国筋の大名から話があり、気に入れば500両以上で売れるだろうと言う。巳之介が喜んで「きうくわん」を大名の屋敷に持ち込んだのは言うまでもない。

 きっと気に入るに違いない。ほくほくの巳之介だったが、意外にも一両日で「御用に立がたし」と返されてしまった。この鳥は人の言葉をよく真似るというが、高砂を謡わないばかりか、役者の声色などばかり真似る。下品で上のお慰みにならないというのだ。そう、ドンチャン騒ぎの間に、鳥はめでたい「高砂」の謡を忘れ、のみならず下品な声色を覚えてしまったのである。

 その後も大名のご隠居や富裕な町人のもとに持参したが、結果は同じ。高砂の物真似はすっかり忘れ、役者や志道軒の声色を真似る鳥は、何処にも買い取ってもらえなかった。仕方ない。巳之介は両国の見世物芝居の興行主と交渉し、手に入れたのと同じ額の50両で売る約束をしたのだが…。

 なんという不運。山師(興行主)が訪れる前日に鳥は死んでしまった。馬場文耕はその理由を、「誠に此鳥も近き頃迄は貴き御寵愛を請て金殿の住居を引換へ、乞食芝居の見世物に出んことを恥けるにや、其日の昼つかたよりいかにあたふれ共餌をくわずして、夜中に空しくなりける」と記している。つい最近まで高貴な方に御殿で飼われていた身が、見世物になるのを恥じて餌を食べなくなり、絶命したというのだ。

 珍奇な(高価な)鳥と旗本の話。今回の話題はいつもにもまして地味で瑣末だが、十分史料的価値があると筆者は自讃している。読者のご感想はいかに。

<了>


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