命運を分けた判断

 熊本出身の徳冨蘆花は、「熊本の維新は、明治三年に来ました」(『竹崎順子』より)と不思議な一文を記している。

 だが、確かに、それは間違いではないのだ。これについては追々話していくとして、熊本の地に維新をもたらしたのは、同年、歴代藩主細川氏の家督を継ぎ、熊本知藩事となった細川護久(もりひさ)であった。

 護久は、細川家十二代当主・斉護(なりもり)の三男として天保十年(一八三九)三月一日に生まれた。万延元年(一八六〇)、十三代当主となった兄・韶邦(よしくに)に跡継ぎが生まれなかったため、慶応二年(一八六六)には世嗣となっている。

 当時、熊本(肥後)藩は、大きく三つの派閥に分かれていた。学校党、勤王党、実学党だ。藩校「時習館」を母体とする保守的な一派が学校党。尊皇攘夷を主張する勢力が勤王党。そして、横井小楠を中心とする実学を重んじ、開明政策を主張するのが実学党である。

 幕末、藩主の韶邦を奉じて藩政を牛耳っていたのは、学校党であった。だが、慶応三年十月、将軍徳川慶喜が朝廷に政権を奉還し、二五〇年以上続いた江戸幕府が形式的に消滅した。このため、幕末の政局に日和見してきた熊本藩も、そろそろ態度を鮮明にしなくてはならなくなった。

 韶邦の妹・亀姫が越前藩主の松平春嶽に嫁いだ関係もあり、熊本藩は親徳川という方針をとり、同年十二月、倒幕派のクーデターで王政復古の大号令が出され、朝廷に新政府が樹立された後は、越前藩や土佐藩などの公議政体派に同調した。

 十二月半ば、護久も新政府から呼び出しを受け、熊本から京都へ向かうが、その途中の大坂で、前将軍慶喜から「自分のいる大坂城へ来るように」と命を受ける。しかし護久は「朝廷からの呼び出しを受けている」という理由で、大坂入城を拒んだのである。十二月二十八日のことであった。

 その数日後には鳥羽・伏見の戦いが勃発しているから、このときもし護久が大坂城に入っていたなら、熊本藩は幕府方と見なされ、それこそ厳しい立場に立たされていたことだろう。まさに的確な判断をしたわけだ。

 

改革の志を胸に当主の座に就く


 かくして戦火をくぐって京都へ入った護久だったが、それからも熊本藩は、積極的に新政府につこうという姿勢を見せず、逆に、東北に兵を出すのを躊躇したり、新政府に徳川方との和睦を献策したりしている。

 こうした戊辰戦争での煮え切らない態度は、新政府首脳部の疑いを誘うことになった。「政府高官の襲撃が相次いでいるが、裏で熊本藩が糸を引いているのではないか」とか、「反抗的だから領地を四分の一減らしてしまえ」とか、「反政府的な熊本藩を征伐すべきだ」といった意見が出るほどだった。

 この状況に大いに心を痛めたのが、細川護久である。護久は、新政府に議定として登用されており、新政府に重きをなす肥前藩主鍋島直正の娘・宏子と明治元年十一月に結婚していた。このように政府の中枢にいた護久であればこそ、熊本藩の頑迷さと、その先に待っている藩の将来に危機を感じ、軌道修正のため立ち上がる決意をした。

 そして明治二年七月、熊本にいた護久は、四歳年下の弟で政府の参与になっていた長岡護美に次のような手紙を送って協力を求めた。

「根本的な藩政改革が必要だ。ぜひ東京にいる藩主韶邦公を連れてお前に熊本に戻ってきてもらいたい。この機会を逃してしまうと、永遠に改革はできないと心配している。諸藩が驚くような大改革をしなければならない大事な時期なんだ」

 おそらく護久はこの頃、実学党と密に接触していたと思われる。開明的な彼らを登用して学校党を排斥し、大規模な藩政刷新を考えていたようだ。

 冒頭の徳冨蘆花の父・一敬は庄屋をつとめる豪農の出で、横井小楠第一の高弟といわれた。そんな一敬はこの頃から、同志で義兄弟の竹崎律次郎とともに毎日部屋に籠もって藩政改革案を練り始めていた。おそらく、護久の依頼であったと考えられる。

 翌年になると、護久は弟の長岡護美とともに兄の韶邦に強く引退を迫った。まだ三十代半ばであった韶邦も、その求めに折れ、ついに明治三年三月二十六日、家中に隠居の内意を通達したのだった。

 この二日後、長岡護美は、明治政府の大久保利通に宛てて次のような書簡を送っている。

「これまで知藩事の韶邦をはじめ、私たちは藩政の一新に取り組んできましたが、なかなか旧来の陋習を打ち破ることができませんでした。しかしこの度、兄の護久が上京して朝廷の意向を奉じ、大義によって熊本藩を一新させる覚悟です。もし改革に反対するような輩がいれば、容赦なく一刀両断にするつもりです。必ず目的を達成する覚悟なので、ご安心ください」

 これによって熊本藩の藩政改革は、新政府の承認のもとに開始されたことがわかる。あるいは、熊本藩の動向を危険視する大久保利通ら政府高官の強い意向で、護久と護美は動かざるを得なかったのかもしれない。

 細川韶邦は五月三日に知藩事を辞職し、かわって家督を継いだ細川護久が八日、正式に知藩事となった。

 

熊本城破却? 驚きの改革案


 護久が最初に断行したのは、人事の刷新であった。それはすさまじいものだった。徳冨蘆花は、「郡代十六人、目附二人、及び附属の役人二百五十人が一挙に廃せられ」(前掲書)た、と述べている。これにより、藩政を牛耳っていた学校党の勢力は壊滅した。

 かわって護久は、弟の護美を大参事に抜擢、さらに元家老で米田虎雄と酒田県権知事をしていた元京都留守居役の津田山三郎を権大参事に任じた。二人とも実学党の中心人物だった。そのほか重職には、元田永孚(のちに教育勅語を起草)、安場保和(後に岩倉使節団に参加)、太田黒惟信(箱館戦争で活躍)といった実学党の熊本藩士たちが就いた。また、実学党の豪農からも重役が抜擢された。藩政改革案を立案した徳富一敬と竹崎津次郎である。

 六月十一日、知藩事細川護久は、役人や藩士たちを一同に熊本城内に集め、改革宣言をおこなった。

 藩政改革は、徳富と竹崎が練った案をもとに進められていった。

 以下がその改革案だ。

「昔の君主は人びとから意見を聞いて政治をおこない、自らで訴訟も担当してきた。それがやがて尊大になり、世の中や人情にも疎くなったので、国家がうまく統治できなくなった。だから君主たるものは毎日政堂に出座し、みずから人びとの意見を聞いて政治をとるべきである。軽輩だけでなく、農民や商人の話も直に聞く必要がある。なお、熊本城については、天守閣など建物はすべて取り壊し、周囲の塀と門だけを残せばよい。本年貢以外の雑税は、すべて免除すべきである。藩主の鷹狩場も廃止する。

熊本藩庁には上院と下院の議会を設け、上院は知事や執政、役人で構成する。下院については士農工商の区別なく、四年を任期として各町より選挙によって有能な人物を選ぶ。そして上院とともにさまざまな課題を議論させる。また、下院議員のうち有能な者は、上院議員に登用したり、役人に抜擢する。藩の役人についても、すべて入札公選制をとるべきだ。農村の庄屋(名主)も選挙で選ぶことにする」

 読んでわかるとおり、驚くべき大胆な革新的な案だといえよう。

 じっさい、封建制の象徴であった熊本城は取り壊されることになり、破壊する前に熊本の庶民に明治三年閏十月から開放されている。もちろんこれまでは、一般人の自由な立ち入りは許されていなかったから、物見遊山で領内から多くの人びとが殺到したという。もしこのとき、熊本城が壊されてしまっていたら、その後、私たちはあの偉容を拝めなかったわけだが、幸いこの計画は実行されなかった。理由は諸説あってよくわからないが、長岡護美が、「あえて取り壊すには及ぶまい」といったことで、そのまま残ったというのが徳冨蘆花の説だ。残念ながら天守閣は明治十年の西南戦争で焼けてしまい、現在のものは1960年の再建だが、宇土櫓や監物櫓など十数棟は現存している。ただ、先の熊本地震によって、そうした貴重な建物が石垣とともに大きな被害を受けてしまったのが痛ましい。

 

税制改革とその顛末


 また、二院制議会や役人の公選制についても、あまりに革新的過ぎたのか、実施されなかった。ただし、領民に対する雑税の廃止は実行された。

 明治三年七月、知藩事細川護久は自ら書いた文章を木版刷りにして領内に配布した。

「このたび、私が知藩事の重職に就くことになった。朝廷の御趣意を奉じて、領内の四民(士農工商)が憂いなく生活できるようにしたいと願っている。なかでも農民は、暑い日も寒い日も、雨でも風でも骨を折って働き、年貢を納め、夫役をつとめている。そのため老人、子供、病人さえ安楽な生活を送れないでいる。これは、ひとえに重税のためであると、私は深く恥じている。何とかその苦しみを解いてやりたいと考え、雑税を一切免除することにした。だから今後はさらに農業に力を入れ、老人や子供の養育をしてほしい」

 こうして廃止された雑税だが、これは全体の税のうち三分の一(九万石)に該当した。だから熊本藩の領民は、この措置に狂喜したのだった。

 しかし、この措置が大きな波紋をもたらすことになったのである。

 これを知った九州他藩の農民たちが、「うちの藩や地域でも熊本藩のように雑税を免除してほしい」と主張しはじめたのだ。とくに新政府の直轄地だった日田県では、それが大規模な一揆にまで発展した。

 これにより、再び熊本県に政府の疑いの目が向くようになった。護久はこうした混乱に責任を感じ、明治四年三月に知藩事の辞職を政府に申し入れた。だが、その願いは却下された。それでも再び五月に辞職願いを出しているから、おそらく護久は、藩政をとるのに嫌気が差していたのだろう。同じく長岡護美も辞表を提出している。

 だが、それから二ヵ月後の七月、新政府は突如、廃藩置県を断行する。これにより二七〇以上存在した藩が一日にして消滅したのである。まさに青天の霹靂といえた。

 知藩事は東京居住が命じられ、中央からは県を統治する役人・県令が遣わされることになった。このため知藩事を免ぜられた護久も東京へのぼった。

 こうして旧熊本藩は熊本県となるが、なぜかすぐに県令が遣わされることはなかった。だから政務もそのまま実学党が担うことになったのである。

 

教育にかける情熱


 はじめて土佐出身の安岡良亮が県令として熊本の地に赴いたのは明治六年のことであった。これにより実学党の人びとは野に下ることになった。

 なお、長岡護美は前年からアメリカへ留学してしまい、明治十二年まで日本に戻らなかった。

 ただ、最期の藩主・細川護久は東京に居住していた。

 知藩事在任中、護久は藩校・時習館をはじめ、郷学や医学再春館などを一斉に廃止し、大規模な教育改革を推進していた。その流れを受けて明治四年、熊本藩立熊本洋学校が創設され、廃藩置県後もアメリカのリロイ・ジェーンズの指導のもと、学校はますます発展していった。だが、明治五年に文部省は学制を発布し、この規則に基づいて学校を運営することを命じ、諸藩の洋学校や医学校の廃止を命じたのである。もし私学として存続させるとしても、国費や県費には頼れない。ここにおいて、熊本洋学校も廃校の危機に陥った。

 そんな窮地に救いの手をさしのべたのが、護久であった。

 明治七年、護久は白川県(熊本県)に対して次のような願書を提出した。

「文部省の規則どおり、熊本洋学校が廃止されたら、現在学んでいる百余名の生徒は、学業をやめなくてはならない。それでは、これまでの教師や生徒たちの努力は水の泡である。実に残念なことだ。私はこの学校の発起人であり、自分の義務として家禄のなかから相応の資金を提供する。だからそのまま教師を継続して雇用し、民費学校として本校を再興し、生徒の学業を継続させてもらいたい」

 そう述べて、六千円という大金を拠出したのである。

 

西南戦争に際し負傷者を救う


 明治十年(一八七七)、西南戦争が勃発する。周知のように西郷軍は熊本城を目指して進撃してきた。このおり、熊本鎮台(熊本城におかれた政府軍基地)の谷干城は、敵との戦いにそなえ、城下の建物の多くを焼き払ったのである。城下の家屋が敵の拠点になるのを防ぎ、焼け野原にすれば城から敵が見えやすくなると考えたためだろう。

このおり、熊本の細川邸(北岡邸)に護久の側室・縫とその娘である嘉寿、宜、志津が滞在していた。だが、このために急遽、邸宅から立ち退き、阿蘇郡へ避難することになったのである。ところが阿蘇一揆が起こり、薩摩兵が出没するようになり、一行は難を避けて各地を転々するはめになってしまった。

 いっぽうで、この乱に同調する旧熊本藩士が出てきた。

 じつは熊本県ではその前年(明治九年)、不平士族の乱が発生していた。太田黒伴雄

を首領とする勤王党(敬神党)の不平士族たちが熊本城などを襲撃し、県令の安岡良亮や熊本鎮台司令官の種田政明を殺害したのだ。神風連の乱として知られるこの反乱は鎮圧されたが、百数十名もの旧熊本藩士が関わっていた。

 だからこの度も西郷軍に同調する動きが現れた。こうした事態に驚いた細川護久は、明治十年二月十三日付で、県下の旧藩士に対し、

「お前たちはもう私の家臣ではないが、昔のよしみをもって言う。朝廷のご趣旨に従ってほしい。昨年の神風連の乱では多くの旧藩士が賊名を被った。これは許される罪ではなく、私は憂慮に絶えず悩み続けてきた。このたび西南戦争の勃発で、明治天皇は大いに心を悩ませている。なのにまた熊本で、不穏な動きがあるという。どうか大義名分のあるところを斟酌し、決して軽挙妄動せぬよう、よく話し合ってほしい。頼む」

 だが、護久の願いむなしく、熊本隊、協同隊、瀧口隊あわせて一五〇〇名が蜂起、この三隊に多数の旧藩士が含まれていたのである。

 妻子の消息と旧藩士の動向に心を痛めた護久はその翌日の二月十四日に横浜から海路、神戸に上陸。京都で天皇に拝謁したあと、二十四日に長崎へ入った。しかし戦争のために長崎から熊本へ向かうことができず、いったん下関に行き、さらに小倉へ渡って陸路で熊本へ向かったのである。三月初旬に領内に入った護久は、九日から戦場を避けつつ、人心鎮撫のために各地を回ったのである。そして四月二〇日に北岡邸に入り、二十七日に戻ってきた妻子との再会を喜んだ。

 護久が存続に尽力してきた熊本洋学校は前年に閉鎖されてしまっていた。ジェーンズの感化により生徒の中から多数のキリスト教徒が出たため、閉校に追い込まれたのである。だが、ジェーンズ邸をはじめ学校の建物は残っていた。

 西南戦争では多数の死傷者が出たが、これに心を痛めたに大給恒と佐野常民が敵味方関係なく負傷者を救護する博愛社を設立、その拠点が熊本洋学校のジェーンズ邸とされたのだ。博愛社はまもなく日本赤十字社となった。

 護久はその後、戦禍を被った旧領民に対しても、その扶助に尽力したのだった。

 華族令が制定されると護久は侯爵に叙され、明治二十六年に五十五歳で死去した。

 なお、護久の曾孫にあたるのが総理大臣をつとめた細川護煕である。

 

 

<参考文献>

三澤純著「お姫様たちの西南戦争―史料の解題と紹介―」(『文学部論叢93』熊本大学) 『新肥後学講座 : 明治の熊本』(熊本ルネッサンス県民運動本部 企画・編集)

猪飼隆明『熊本歴史叢書5 細川藩の終焉と明治の熊本』(熊本日日新聞)

洋泉社歴史総合サイト

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