「キチガヒ」と呼ばれて喜ぶ

 信濃国松代藩で医者を務める渋谷修軒は、中国宋代の文人(政治家でもあった)蘇軾(10361101 東坡と号し蘇東坡の名で知られる)の大ファンだった。「春宵一刻値千金」の詩句で知られるあの大詩人である。修軒は蘇軾だけでなく、その父の蘇洵も弟の蘇轍も大好きだった。

 蘇軾、蘇轍、蘇洵は、いずれも宋代を代表する詩人かつ文章家で、唐代・宋代の卓越した8人の名文家(唐宋八家)に選ばれている。8人のうち3人が蘇父子だなんて、すごいことだ。このため3人あわせて「三蘇」と呼ばれていた。

 江戸時代の文人の評価は、漢文と漢詩をいかに巧みに作るかで決まった。当時の知識人の教養の多くが、儒学ほか中国の学芸だったことは言うまでもない。医学だって漢方が学ばれ、西洋医学を学ぶ医者はごくわずかだった。

 だから渋谷修軒が三蘇に傾倒したのは不思議ではない。問題はその傾倒ぶり。いくら大ファンだとしても、心酔の度がちょっと異常なのである。

 まず「唯有蘇斎」と号した。「ただ蘇だけ」という意味。「蘇軾さま命」と意訳しても間違いではないだろう。文集から雑著まで三蘇の作品を読み尽くしたのは言うまでもない。3人に関する書物を片っ端から読み、3人が活躍した宋の元祐年間(108693)に発行された元祐通宝という古銭まで蒐集した(江戸後期以降、古銭の蒐集が盛んになり、多くのコレクターがいたので、中国の古銭も比較的容易に入手できたのである)。

 さらに修軒は蘇軾の像(木像か)まで造らせ、住居の一間に安置して朝夕これを拝み、香をたきながら「蘇文」(蘇軾の文章)一篇を読むのを楽しみにしていた。誰かに三蘇の履歴や事蹟を問われれば、よく聞いてくれた(待ってました!)とばかりに、豊富な知識を披露した。3人の経歴なら月日まで正確に記憶していたのだ。

 私が蘇軾(蘇東坡)が揮毫した「宸奎閣全碑」を手に入れたと知ったときも……。そう書いたのは、浦賀奉行・京都町奉行・江戸町奉行などを歴任した旗本、浅井長祚(181680)である。名は「ながよし」と読むらしい。梅堂の号でも知られる。

そう、渋谷修軒に関する逸事は、浅井が維新後に著した『寒檠璅綴』(かんけいさてつ)という随筆に書きとめられている。

 ぜひ拝見したいと手紙を寄越した修軒。中国の書物や書画の研究家でもあった浅井が、機会をこしらえて見せてあげると、修軒は狂ったように感激して拝観した(「拝喜狂ノゴトシ」)。「これでようやく生涯の願望が叶いました」というのである。人柄は快活でいつも楽しそう。まるで「憂患」(心痛)という言葉すら知らないかのようだったと、浅井は修軒の印象を記している。加えて次のような話も(意訳)。 

 

  人を訪問するときはいつも腰に弁当を下げ、弁当を食べ終わると、瓢簞から、持参した「銀鍾」(銀の盃か)に酒を注いで、3杯飲む。なぜ3杯か。蘇軾が3杯の酒を飲んだ例に従ったのである。

 

 たぶん「銀鍾」は彼だけのマイ盃だったのだろう。だから人に酒をすすめることもなかった。ひとりだけで3杯の酒を飲み、蘇軾の世界に浸りきっていた。

 性格は悪くないとしても、やっぱり変だ。人はみな、彼を名前で呼ばず「東坡キチガヒ」(原文)と呼んだ。怒ったかって? とんでもない。大好きな蘇東坡の名で呼ばれた修軒は「愈(いよいよ)喜ンデ自得ス」、ますます喜び、得意になったという。「キチガヒ」と笑われてもいい、「東坡キチガヒ」ならば大満足というわけ。

 

さまざまな癖(偏愛)

 本連載でお馴染みの幕臣、大谷木醇堂(183897)も、明治半ばに著した『醇堂叢稿』で、旧幕時代の著名な(といっても私は1人も知らなかったが)趣味人(オタク)を挙げている。

 曰く。――石川与次右衛門という老人は「瓢を好み」(ひょうたんマニアで)、大小の瓢を秘蔵するばかりか、座敷の張付(紙や布を張り付けた戸や壁)から承塵(長押)、衣服の模様、調度の形まで、瓢簞尽くし。「千器万物これならざるはなし」という凝りようで、「瓢簞石川」と呼ばれていた――。

 石川与次右衛門は、大番組頭、先手鉄炮頭などを経て弘化2年(1845)に老衰を理由に引退した(「老衰御免」)旗本、石川与次右衛門政徳であろう。

 醇堂が次に挙げたのは、片桐靫負。――この人は沐猴(サル)をこよなく愛し、身の回りの品はすべてサルの形にしていた(「何品たるもこの形ならさるなし」)。これまた人呼んで「猿片桐」――。

 片桐靫負は千石の旗本で、安政年間(185460)に小性組に所属していた。

 醇堂が「奇なる」マニアとして挙げた3人のなかには、春画のコレクターもいる。――古郡栄之助は、古今の春画を蒐集し所蔵していた。かといって特に好色な人ではなかった――。

 好色でもないのに、春画の蒐集に熱中したこの人物は、安政年間に留守居与力だった幕臣(御目見以下)古郡栄之助と思われる。小石川白山御殿跡に250坪の居屋敷があった。

 醇堂は自身の趣味にも触れている。友人から「すゞり醇堂」と呼ばれたほどの硯マニアで、端渓・龍尾・澄泥など中国産の名硯をはじめ国産の名硯、さらには羅生門・国分寺・橘寺の古瓦(瓦を硯として用いた)など、さまざまな形の物を所蔵していた。ある日、秘蔵していた橘寺の瓦硯ほかを、親交のある河野雪巌に贈ったとも。

 河野雪巌という人も前の3人に劣らぬ奇人だった。雪巌が愛を注いだのは、なんと木魚。衣服の紋にまで木魚(の形)を添えていたというのだから尋常じゃない。みずから「木魚道人」と称していたという。奧州三春藩の人というから、明治大正期の政党政治家、河野広中の親族かもしれない(いずれ調査しなければ)。

 木魚マニアというだけでなく、画もよく描き、江戸に出て芝高輪に「希有の家屋」(豪邸という意味だろうか。それとも趣向を凝らした変な邸だったのか)を普請して住んでいた。醇堂はしばしば訪れて歓談していたらしい。醇堂は最後に次のように述べている(意訳)。

 

  諺に〝無くて七癖、有って四十八癖〟と言うが、喜悦癖・笑癖・仁慈癖・愛隣癖は結構だが、憤怒癖・侫媚癖・諂諛癖はいただけない。酒癖にも困ったものだ。ところで予(私)の癖は古今珍書癖である。

 

 ちなみに「侫媚癖」は、やたらおべっかを言う癖で、「諂諛癖」はこびへつらう癖。「古今珍書癖」は、古今の珍しい書物を蒐集する癖。醇堂は、硯だけでなく珍書や稀覯本の蒐集家だった。いずれにしろマニアやコレクター、そしてオタクの偏愛が「癖」で総称されているのは面白い。『日本国語大辞典』(第二版)で「癖」の語義を調べると、「かたよりのある好みや傾向が習慣化したもの」とある。

 

旗本の刀剣癖

 瓢簞、猿、春画、そして木魚。硯と珍書を加えたとしても、武士の「癖」としては、いささか見栄えがしない。かりにも武士なのだから、もっと勇壮な「癖」があってもいいのではないか、とお嘆きの方の期待に応えるわけではないが、旗本の刀剣「癖」にも触れておこう。出典は同じく『醇堂叢稿』。これはまず原文で。

 

  列侯にて刀剱を多く所有せる家は彦根侯也 また万石以下の籏下にては久貝因幡守也 久貝家如きは内福の聞へある家なれども 近習の士に両人刀掛りと云ふありて 連日交番して錆を防ぐ事のみに従事し居ると云々

 

 大名で多くの刀剣を所持していたのは彦根藩主井伊家。1万石未満の旗本では久貝因幡守だったという。久貝(くがい)因幡守は、留守居・大目付・講武所総裁兼帯・講武所奉行などを歴任し、慶応元年(1865)に60歳で没した久貝正典であろう。5500石で牛込加賀屋敷に3000坪の居屋敷があった大身の旗本だ。

禄高以上に裕福だった久貝家では、正典の刀の錆を防ぐ仕事を2人の近習が毎日交代で務めていた。驚くなかれ、2人の仕事は刀を錆びさせないこと、ただそれだけだったというのである。久貝正典は、当然多くの刀を所持していたはず。醇堂は維新前に目にした光景も紹介している。

 

  久貝氏の登営の時 その佩ふる所を見に 連日の登営に一日々々に替りて 凡そ弐ケ月を閲せされは さきに帯する所の物を見ず 其多きや察せらる

 

 久貝正典が江戸城に出勤するところを見たが、腰に差している刀は日替わりで、同じ刀は2ヶ月後にならないと再び見ることができなかった。つまり60振近く所持していたというのである。これまた武士の心得というよりは、刀剣癖と言うべきだろう。

<了>


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