森山孝盛と『賤のをだ巻』


 森山孝盛(もりやま・たかもり 
17381815)という旗本をご存じだろうか。

その日記『自家年譜』は、寛政期の幕政や武士社会の貴重な史料であり、随筆『蜑の焼藻の記』(あまのたくものき)も、幕臣たちの就職活動等をリアルに記録していて捨てがたい。しかし彼の著述では、なんといっても随筆『賤(しず)のをだ巻』がオススメだ。

 どこがどうオススメなのかを語る前に、孝盛の幕臣としての経歴をざっと辿っておこう。明和8年(17713月に34歳で家督を継ぎ、翌安永元年(1772)に将軍家治に初御目見え。翌年4月に将軍の親衛隊である大番に召し出された。

 以後、小普請組頭、徒頭を経て、寛政3年(17915月に目付に昇進する。折から諸改革を推進していた老中松平定信の目にとまったのである。

孝盛は役人として有能だったばかりでなく歌を詠むなど教養豊かな男で、定信好みだった。同63月に先手鉄炮頭(さきて・てっぽうがしら)に転じ、翌年5月から火付盗賊改を務めた。長谷川平蔵の後任だったが、二人は以前から仲が良くなかった。目立ちたがりでハッタリに長けていた平蔵とは、性分的に相容れなかった。

 孝盛の評判もかんばしいとは言えない。水野為長は、寛政4年、主君の定信にこう報告している(『よしの冊子』)。「森山源五郎、人の事をわるくいはねば立身はならぬと申見識のよし。甚存違の心根に可有之とさた仕候由」。森山源五郎孝盛は、人の悪口を言わなければ(ライバルの足を引っ張らなければ)昇進できないと思っている勘違い男で、仲間の評判が悪いというのだ。

さらに「御見出しには候へども、最初とは大に違ひ候よしのさた」とも。老中(定信)が森山を抜擢したのは間違いだったのでは……。そんな評判すら立っているという。

 享和2年(180212月に若君(後の12代将軍家慶)付きとなり西丸に異動。西丸持弓頭、西丸鎗奉行を務め、文化9年(18129月に75歳で職を辞した。文化12年没。享年78。当時としてはまぎれもない長寿だった。

 『賤のをだ巻』は、享和23月(「春の末つかた」)に「埋木の人しれぬ翁」の名で著した随筆である。齢65に達した孝盛が、たっぷりある時間を費やして書き上げたのは、往時の思い出や見聞の数々だった。

 序を開いてみよう。「何事も古き世のみぞしたはしき」という『徒然草』の一節を引用しながら、孝盛は老いの身には過ぎ去った昔のことだけが、朝夕思い出されると述懐する。思い出に浸るのは老人の習性だ。

しかしそれは悲しむべきことだろうか。孝盛は思い出を積極的に記録しておこうとした。「見聞を記録しておけば、子や孫がそれを学んで新しい知見を得る助けになるだろう。そして長い年月が過ぎても、私が生きた時代、ひいては私に思いを馳せるかもしれない」(意訳)。

 子孫に〝温故知新〟の教材を提供するために、それにもましてわが身の人生と時代が忘却されぬよう、この記録を残したというのである。

 

文箱からこぼれ出る匂い


 
60代半ばの老人が、子孫のために往時の見聞を記録する。いかにもありそうなことだ。ところが森山老人の場合はちょっと違う。目の付けどころが斬新なのである。『賤のをだ巻』には、凡庸な懐古談には見られない見聞が記されている。

香(かおり)もそのひとつ。孝盛の姉の結婚が決まり、嫁ぎ先に連れて行く女中を募集していたときのことだという。目見え(面接)に訪れた女たちの中に、藤掛数馬の家来の娘がいた。数馬は書院番を務めた旗本藤懸永貞であろう。

当時、孝盛はまだそこらを駆け回って遊ぶ少年だったが、彼女のことを記憶に刻み込んでいた。季節は夏。玉子模様の帷子を着て面接を待って軒下にたたずんでいた姿にも心惹かれたが、それ以上に彼女が掛香(かけごう)を身につけ、言葉では表現できないような芳香を漂わせていたからだ。

 掛香は、小さな絹袋に入れた携帯用の香料。その香が上質だったので(「えもいはずよき掛香を入たり」)、孝盛少年(通称は源五郎だから源五郎少年と言うべきか)を魅了してしまったのである。孝盛は「其比(そのころ)は女奉公人もよかりけり」と往時を懐かしんでいる。

 陪臣の無名の娘さえ香に気をつけていた。大奥勤めを経験した女ともなれば、なおさららだ。それもただの大奥女中ではなく、大奥を取り仕切る年寄(老女)となった女ともなれば。

 女と香のテーマで孝盛が言及したのは、天明期の大奥年寄として知られる瀧川である。田沼意次派と松平定信派が対立する中、定信の老中就任に異を唱えたというくらいだから、彼女の政治力は尋常ではない。しかし『賤のをだ巻』に記されているのは、彼女が大奥を退いて悠々自適の生活を送っていた折のことである。

 瀧川の姪と歌の道で交際があった孝盛は、やがて瀧川とも親しくなり、ある日、孝盛の娘に瀧川から手紙が届いた。娘が文箱(手紙を入れた箱)を開くと、「えもいはず匂ひたり」。なんとも言いようのない芳香が立ちのぼり、嗅覚を陶然とさせた。そのときの感動を、孝盛は「扨も扨も女はかくこそあるべけれ。いかなる仕方にてかくは匂ふやらんと思ふくらゐなり」と記している。

女の雅びとはこういうものなのか。感心すると同時に、それにしてもどうすれば、これほどの芳香が文箱に籠められるのかと、不思議でならなかった。

 

香り過ぎる上司、嗽の流行


 香の秘伝? いや、女中の面接に訪れた陪臣の娘でさえ、芳香を漂わせていたではないか。香は瀧川のような豪勢な女の特権ではなかった。化粧と香は女のイノチ。

『賤のをだ巻』が出色なのは、男の香についても記している点である。

「六十にあまる迄、あまたの人に突合たれど、夏、匂袋をたしなむ人さへ絶てなし」。六十を過ぎた現在まで多くの人(この場合、ほとんどは旗本だろう)と知り合ったが、夏に匂袋(掛香)を身につける人にお目にかかったためしがない。汗で臭いが気になる夏でさえ、匂袋を用いない人ばかり。

旗本の身だしなみの悪さ(臭いに対する無関心)をこう歎いたうえで、希有な例として、孝盛は横田十郎兵衛と杉浦出雲守(のち丹後守)の名を挙げている。

 横田十郎兵衛は、徒頭、目付、佐渡奉行を経て、享和元年(1801)に一橋家老になった人。「夏冬ともにうすく能程(よきほど)の掛香を嗜み」(夏も冬も、香が強烈でない上品な掛香を身につけ)、とても奥ゆかしく感じられたという。

 杉浦出雲守(丹後守)については、上司として身近かに接しただけに、より具体的だ。大番の同じ組に所属していた杉浦と孝盛は、泊番のときも同じ番所に詰

めていた。2人の経歴から見て、安永2年(1773)から天明4年(1784)の間ことである。

同じ組といっても、杉浦は大番頭で、平の大番で末座に着座していた孝盛よりはるか上座に居た。座敷は30畳。ふたりの間はかなりの距離があったに違いない。

 それでも、杉浦の身体から流れ出た芳香は、孝盛が居る末座まで漂ってきた(「末座までことごとく匂ひたり」)。茶人で「風流者」(風流人)でもあったという杉浦は、どのような香を用いていたのだろうか。『賤のをだ巻』にもさすがにそこまでは書かれていない。それにしても、30畳敷の座敷が芳香で満たされたとは……。

 天明49月、孝盛は小普請組支配組頭に転じ、杉浦はその翌月、御側(御側衆)になった。上司と部下の関係がなくなってからも、杉浦の存在は孝盛の鼻を刺激した。

ある日、城内で杉浦と行き合った孝盛は、杉浦を先に行かせ後から付いていった。2人の距離は45間(約7メートルから9メートル)あったが、杉浦の身体から出た芳香がしっかり嗅ぎ取れたというのである。

 こんな男がわれわれの周囲にいたら……。職場では鬱陶しがられるかもしれないし、うなぎの老舗では入店を断られるに違いない。香の強さはやはり横田十郎兵衛くらいが賢明か。とはいえ孝盛は杉浦を非難していない。汗臭い旗本たちがひしめく夏の殿中では、杉浦のような〝芳香過剰男〟も一抹の涼味だったのだろう。

 『賤のをだ巻』にはこんなことも。

孝盛が大番を務めていた安永・明和の頃、「男のうがひすることなど流行たり」。当時、男(やはり旗本であろう)の嗽(うがい)、口すすぎが流行したというのである。

 ――人の屋敷を訪ねても、主人は食事のあとはかならず嗽茶碗を出し嗽をしてから挨拶した(「必ず膳後にはうがひ茶わんにうがひをとらせ挨拶したり」)。男は手水鉢の水で口を清めるものだったが、嗽茶碗の水を用いるとは、まるで女のようなふるまい。しかし今では男の嗽はぴたりと止み、当時嗽を欠かさなかった連中もしなくなった。嗽茶碗どころか、手水鉢の水で嗽することさえなくなった。まったく人情は「愚なるものなり」――。

 いったいなにがきっかけで、旗本たちの間で嗽が流行し始めたのだろう。旗本(男)の柔弱化(女性化)か、それとも口臭予防か。

 私としては後者の方が望ましい。そうならば、今日の話がニオイでまとまるからである。

<了>

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