女性のファッションに注目せよ

 幕臣であれ藩士であれ、江戸時代の武士たちは、意外なほど同時代の女性を見つめ、その身なりやファッションの変化を記録している。単純に性的関心からではなく、そこに社会や世相の変化を見たからである。

 幕府の旗本で、宝永2年(1705)に85歳で大往生を遂げた天野弥五右衛門長重もそのひとりだ。天野は、4代将軍家綱が亡くなった延宝8年(1680)に「大猷公 厳有公両世之改儀 次第不同」と題して、家光(大猷公)・家綱(厳有公)の在職時代(162380)に起きたさまざまな変化や改革を五十箇条にわたって挙げている(『思忠志集』)。

 殉死(追い腹)の禁止、証人(大名等から人質を取る制度)の廃止、新吉原遊廓の創設(「鬼門之方角に傾城町出来候事」)、玉川上水の開削など、歴史上名高い事柄と並べて天野が挙げたのは、「女のかつ着」が見られなくなったことだった。

 「かつ着」(かずき)は「被」または「被衣」と表記される。公家や武家の女性が外出の際に頭から被る薄い単(ひとえ)の衣のことで、小袖を被る場合は「小袖被衣」と称した。いずれにしろ顔を隠すためのもので、古くから行われていたが、3代将軍家光と4代将軍家綱の在職期間に、なぜか見かけられなくなったというのである。

 

女性が気になってしかたなかった上京の旅

 下総国佐倉藩士で、維新後は文部省に出仕し、のちに華族女学校長や貴族院議員を務めた西村茂樹(18281902)は、明治時代の道徳思想家として歴史に名が刻まれている。政府の欧化政策の行き過ぎで国民道徳が劣化するのを憂慮し、日本講道会(のち日本弘道会)の会長となり、宮内省の命で『婦女鑑』を編纂。ほかに『日本道徳論』『国家訓』などの著書がある。

 西村茂樹。どちらかといえば、堅苦しい道徳先生の印象が強い人物だが、晩年に往時の記憶を記録した『記憶録』には、意外な記述も。それは旧幕時代から維新後にかけて、5回にわたって上京、すなわち京都へ出かけたときの記述だ。5回は以下の通り(【 】内は年齢)。

 

天保13年(1842) 【15歳】

安政3年(1856)  【29歳】

安政5年(1858)  【31歳】

明治元年(1868)  【41歳】

明治10年(1877)  【50歳】

 

 天保13年、茂樹は支藩の下野国佐野藩の重臣だった父(西村芳郁)に従って上京した。東海道の旅籠代が士分1泊200文で、木曾街道では164文の所があったとか、宿ごとに駕籠や重荷を担う雲助と称する者がいて、うち勇壮な者は1日中ほとんど裸体で過ごしたとか。途次の見聞を記している。

注目したいのは、「婦人の風俗は、三州の入口までは江戸風にして、吉田辺より京都風となれり」という記述。三河国(現在の愛知県東部)までは女性の風俗(身なり)は江戸風だったが、吉田(現在の愛知県豊橋市のうち)から京都風に変わったというのだ。のちの国民道徳提唱者は、15歳(満年齢なら13歳か14歳)にして女性の身なりの変化に敏感に反応したのである。すこしませていたのか、それとも変化がそれほど顕著だったのか。

 安政3年、2回目の上京のとき、茂樹はすでに家督を継ぎ(1850年)、安井息軒から儒学を学んだほか、蘭書を読み、西洋砲術も学んでいた。嘉永6年(1853)のペリー来航の際には、佐倉藩主堀田正睦に意見書を提出し、老中の阿部正弘にも海防策を献じている。安政3年は、老中職にあった堀田正睦が外国御用取扱を拝命した年で、茂樹はその腹心として外交上の機密書類を取扱っていたという。

 前回とは比べものにならない重要なポストで京都へ向かった茂樹だったが、『記憶録』の記述は簡潔だ。「安政三辰年余年二十九の時、再び京に上りし時は、旅籠の価一泊、弐百五十文、高きものは三百文となれり。婦人の風俗は三州は不残江戸風に化し、尾張に至り初めて京都風となれり。其外大抵以前と替ることなし」とあるだけ。

 旅籠代(宿泊費)の値上がりはともかく、やはり「婦人の風俗」を記憶しているのは、よほど女性の身なりが気になったのだろう。ともあれ、三河国の女性の身なりがすっかり江戸風に染まり(当然吉田宿以西も)、尾張国(愛知県西部)に入ってようやく京都風が見られたというのは、風俗生活史上貴重な証言だ。女性の身なりについて、江戸風が西へ広がり、京都風が衰退傾向にあった様子がうかがえるからである。

 

薄化粧と厚化粧

 京都風ファッションを侵食して西へ広がる江戸風ファッション。安政5年、3回目に上京したとき、この傾向はさらに進んでいた。「婦人の風は伊勢に入りても、罕(まれ)には江戸風を見る」。尾張国どころか、さらに京都に近づいた伊勢国(現在の三重県の大半)でも、まれにではあるが江戸風の身なりをした女性を発見したという。

 明治元年夏、4回目の上京の際には、女性の身なりについての記述(記憶)はない。このときはまだ戦争状態だったのに加え、大雨でそれどころではなかったらしい。しかし明治10年、文部省大書記官として学事巡視のため5回目の上京をしたときは……。

新橋から神奈川までは汽車の便がある。道中はどこでも人力車を利用できる。箱根以下関所は全廃された、等々。これまでより格段に便利になった東海道の旅について記したあとで、こんな記述が。「婦人の風俗は、京都の市中にも亦(また)江戸の風を模する者あり」。江戸風による京都風の侵食は、ついに本丸の京都にまで達し、京都市中でも江戸の女性と変わらぬ身なりの女性が見かけられたというのだ。

ところで「婦人の風俗」の江戸風、京都風というのは、具体的にどのようなことを指すのだろうか。江戸風と京都風とでは、なにがどう違っていたのか。

 髪形、着付け、装身具、着物の丈や柄などいろいろ考えられるが、私は、最も目立った違いは化粧、すなわち白粉(おしろい)の濃淡だったと推測している。

文政7年(1824)に大坂の中川芳山堂が出版した『江戸買物独案内』は、江戸のグルメガイドを兼ねたショッピングハンドブックだ。そこに戯作者として知られる式亭三馬が経営していた売薬店で販売されていた化粧水の広告文が載っている。

ひとつは「江戸の水」。ニキビほか顔の出来物に効くだけでなく、肌を白くきめ細かにするという。もうひとつが「薄化粧」。「あつ化粧をきらひ給ふ御方 或は四十才以上の御女中様方けばけばしくけしやうおきらひなされ候に妙なり」と商品説明が添えられている。厚化粧が嫌いな女性、または40歳を過ぎて厚化粧が鬱陶しくなった御殿女中にオススメという意味だろう。

大奥や大名の奥向に仕える女性たち(「御女中」)は概して白粉べったりの厚化粧だったが、さすがに40以上になると、どぎつい化粧は似合わない。そんな方のための特製の化粧水だというのである。

 「薄化粧」は化粧水の商品名にとどまらず、当時の江戸の女性の流行でもあった。江戸後期から幕末にかけて、深川や新橋の芸者の間では、鼠色の一見地味な身なりと薄化粧が粋(いき)とされ、その美意識が一般の女性たちにも浸透していた。一方、京都では……。

 幕末から明治初年にかけて、初めて京都を訪れた2人の幕臣が、口裏を合わせたように京都の女性の白粉の濃さに注目している。

 ひとりは将軍家茂に従って上京した某(姓名・役職とも不明)。慶応3年(1867)に江戸の家族にあてた手紙の中で、某は京都の女は「おしろいは尤(もっとも)白く、唯何となくじゝむさき処有之」と記している。白粉をとても厚く塗るので、あか抜けないと訳しておこう。

 もうひとりは超が付く著名人である。幕府の奥儒者で外国奉行の要職にも就いた成島柳北(なるしま・りゅうほく)は、明治になって「朝野新聞」等を舞台にジャーナリストとして活躍した。彼は、明治7年(1874)に著した『京都花街見聞記』で、京都の芸妓を「華粧濃抹」(かそうのうまつ)と評している。白粉過多の厚化粧というのだ。柳橋の芸者ほか江戸色街の女性に慣れ親しんできた柳北にとって、祇園の芸妓は好みに合わなかったようだ。

 

幕末維新史のマンネリを打破せよ

 薄化粧と厚化粧。私の推測通り江戸風と京都風の最大の違いが化粧(白粉)の濃淡だったとすれば、幕末から明治にかけて、江戸風の薄化粧が京都風の厚化粧圏を侵食し、薄化粧圏が拡大したことになる。

いや、たとえ西村茂樹が記憶していた「婦人の風俗」が化粧の厚薄でなかったとしても、江戸風が京都風を追いやった事実に変わりはない。言いかえれば、幕末維新の過程で、江戸は政治・軍事的には敗北したが、女性のファッションの面で京都に対して勝利を収めたのである。

リョウマ、シンセングミ、ショウイン、キヘイタイ、サイゴウ等々が脚光を浴び続ける幕末維新史。「またかよ」というマンネリを打破するためには、今回のような斬新な(?)視点が必要かも。それにしても「もうひとつの幕末維新史」というタイトルは大袈裟すぎたと反省している。

<了>

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