禅と剣

 前回も登場した天野長重『思忠集』にこんな話が載っている。題して「剱術」。天和3年(1683)に長重が書きとめたものである。

 

  隠元大禅師が、武芸者の安部道昰と面会してこう語った。「剱術は生死を離れ、仏心で討つものです」。すると道昰は「剱術とは生死を離れ仏心で自ずから討つものです」と答えた。隠元は道昰の「自ずから」という言葉を褒めたという。

 

 隠元は承応3年(1654)に明から来日した隠元隆琦(1592~1673)。日本黄檗宗の開祖で万福寺の開山としても知られる名僧だ。安部道昰については私の不勉強で、どのような人物だったかよくわからない(読者のご連絡を待つ)。さらによくわからないのは二人のやりとりである。まさに禅問答で、剣で相手を斬るとき「生死を離れる」(生死を忘れる)というのはなんとなく理解できるが、どうして「仏心」で討つのか皆目わからない。

 辞書で「仏心」を調べると、まず「仏の心」「仏の慈悲心」「仏のような慈悲深い心」という意味が出てくるが、人を斬るのに仏の心も慈悲心もあったものではない。これは違う。

次に記されているのは「衆生に備わっている、仏としての本性、仏性」。これまた剣術とどう繋がるのか理解不能だが、誰にでも備わっている自然な本性と理解(曲解?)すれば、やや光が見えてくる。そう、隠元はすぐれた剣術者は、生死も邪念も超越し、人間に本来備わっている自然な心で相手を討つ(斬る)と述べたのではないだろうか。

 すると道昰は、隠元の言葉を修正した。ただ「討つ」のではなく「自ずから討つ」のです、と。恐怖も邪念もなく身体が自然に動くように(すなわち、おのずから)討つと言った方が正確ではないでしょうか、というのだ。隠元は「自ずから」という言葉に感心し、なるほどその通りだと道昰を称美したという。

 禅問答のような剣術論には続きがある。

 この問答を耳にした庄田宗心が「道昰の言うことはなるほどもっともだが、まだ十分ではない」とさらに補正したのである。

 「自ずから討つ」のどこが問題なのか。宗心は言う。「討つというときは極まった(定まった)対象がある」(原文は「ウツは極たる処御座候」)。「討てると言えば対象は定まっていない」(「ウテルは不極候」)。

「討つ」と「討てる」の違いは、「見る」と「見える」の違いと同じであるとも。だから「自ずから」というなら、「自ずから討てる」でなければならないという。誰と対象を定めて討つのではなく、対象を定めないでも自然に討てるようでなければ、というのだ。

 庄田宗心については、『寛永諸家系図伝』の奥家(医者)の項に、元和2年(1616)当時、泉州堺に「庄田宗心といふものあり。南蛮流の外科に精しきものなり。はじめは柳生但馬守か許にありて、今浪人となり此地にきたる」とある。南蛮流の外科医で、柳生但馬守(宗矩)に仕えていたが、元和2年当時は浪人して堺に住んでいたらしい。

 天野長重は、以上の話を記した文書を庄田教茂(宗心の一族であろう)から送られ、『思忠志集』に書きとめたのである。

 

泰平の世の剣術とは

 無我無心の境地に限りなく近づくことこそ剣術の奥義――。元禄2年(1689)10月23日に『思忠志集』に書きとめた「中剣術」でも、剣術の心と技の関係が説かれている。天野長重は「鈴木氏」が「秋田氏」に伝授したものとしているが、「鈴木氏」「秋田氏」が誰なのか不明である。

「鈴木氏」は言う。

――「打とうと思うと打てず」「打とうとすると打たれる」「あぶないと思うともっとあぶない」。剣術の業(技)は心を修行しなければ成り立たない――。

 心技一体と要約してしまえばそれまでだが、説かれている内容は、かなり難解だ。下手に解釈せず、伝授の要諦を原文でご紹介しよう。

 

  「唯心ニテ修行シテ、独リ柱ヘモ行当リテ、其時ノ心ト業ヲ察シ、仕ナラウベシ、人モウタレズ、我モウタレヌ所ニテ、道ニ可入者也」

 

 ――剣術の修行は自身の心から。一人で柱に行き当たったときの心と、その時の技(身体の反応)を思い描いて修行をすべきだ。それは討つべき相手も、討たれる恐れもない一人だけの場所だが、そこから剣術の鍛錬を始め始めなければならない――。

 右の意訳が正しいかどうか、はなはだ心もとないが、剣術は心の修行であり、だから相手がいない自分だけの空間で行うべきだという教えは、わかるような気がする。なまじ相手がいるとそれは修行ではなく、ただの斬り合い、あるいは真剣(たとえでも竹刀)を用いた〝殴り合い〟と変わりないからだ。戦乱の世ならともかく、泰平の世にそんな精神性を欠いた武術はふさわしくなかったのだろう。

 

柳生但馬守の至言

 隠元の禅問答や〝無名の〟人々の剣術論では満足できないという読者のために、これ以上はないという剣客の逸話もご紹介しよう。

 天野長重は、延宝8年(1680)9月18日に耳にした話を、「家光公御剣術」と題して『思忠志集』に書きとめている。主人公は柳生但馬守(宗矩)。家康、秀忠、家光と三代の将軍に仕え、兵法指南役そして大目付を務め、正保3年(1646)に76歳で没した大和国柳生藩初代藩主にほかならない。

 

  ある年、湯治から帰った但馬守が家光公の御前に参上した。家光公が「湯治先で剣術について何か新しい発見があったに違いないと思うが、いかが」(原文は「今度湯治の先にて剣術之工夫可有之」)と尋ねた。但馬守が「謹んで申し上げます。剣術を忘れてしまいました」(「謹てもふさく、剣術失念仕たる」)と答えると、家光公は「さても」(「扨も」)と感心した。将軍の反応を見て、但馬守は「上様の兵法が上達されたことがよくわかりました」と申し上げたとか(「御兵法あがり申と肝に銘じたる旨申上候」)。

 

「剣術を忘れてしまいました」という達人の意外な答えに、「余を愚弄しているのか」と怒るのではなく、「なるほど」と深く感嘆した家光。そんな様子を見て、但馬守もまた、剣術の弟子である家光の上達を確信したというのである。「家光公御剣術」には次のような話も。

 

  家光公が晴れ渡る空に真っ白な雪に包まれた富士山をご覧になり、その面白さをどう表現したらよいか、側にいた者たちに尋ねた。「側にいた」といっても小姓や小納戸などの旗本ではない。最初に指名されたのは酒井讃岐守(忠勝)。家光政権で老中、大老を務め、武蔵国川越藩主のちに若狭国小浜藩主となった幕府の重鎮である。

  家光に「あれはいかに」と尋ねられた讃岐守の答えは、「まるくしろくて面白山」(原文のまま)。しかし「違うなあ」(「左様にてはなし」)と家光公。次に指名されたのは、やはり幕府の重鎮でその才智から〝知恵伊豆〟と称された松平伊豆守(信綱)だった。伊豆守は「うまく表現できません」(「とかくの義は申上げ難し」)とかわそうとしたが、家光公は「とにかく申してみよ」(「先如何」)と許してくれない。しかたなく「三国一の山と申し伝えていますが、実は風景も他の山とは異なっています」と申し上げた。しかし家光公は「それも違うなあ」(「それにてもなし」)と満足されなかった。

 

 たしかに酒井忠勝の答は、語調はちょっと面白いが、見たまま過ぎて工夫がない。一方、松平信綱の答は、知識を言葉にしただけで面白くも何ともない。どちらも文才もユーモアも意外性もなく、家光ならずとも満足しないだろう。

 さて、家光が三番目に指名したのが、今回の主人公、柳生但馬守宗矩だった。以下はまず原文で。

 

  「柳生但馬守参れと被召(召され)、面白さはいかにと仰有つるに、剣術の心をもつて、言にも不被及(およばれず)と被申上(もうしあげられ)つるに、思召も同事なると上意にて、渦(えつぼ)にいらせたもふと承候事

 

 意訳してみよう。

――「柳生但馬守参但馬守を側に召して「今日の冨士の面白さを語ってみよ」と仰せられたところ、但馬守は、剣術の心をもって、「言葉では言い表せません」と申し上げた。その答えに家光は「余の思いもまったく同じだ」と、我が意を得たと言わんばかりに笑みを浮かべたということである――。

「剣術の心をもつて……」はどう訳すべきか。とりあえず「剣術の奥義と同じで、言葉では表現できない」と解したが、はたしてそれでよいのか自信がない。
 ともあれ家光と柳生但馬守が、剣術の師弟の関係を通じて主従相互の理解を深めていた様子がうかがえる。戦乱の世から遠ざかり、武士が斬り結ぶ場面がほとんど見られなくなってからも、剣術は人殺しの技術を超え〝心の技〟として進化(深化と言うべきか)していた。

<了>


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