《新連載》神社の経済学

 

◆ミシュランで三ツ星を獲得した明治神宮


 久しぶりに明治神宮を参拝した。

 例年、初詣だけで300万人が参拝に訪れるという明治神宮。さすがにトップレベルの参拝者数を誇る神社だけあって、平日の日中ながら、JR原宿駅に近い南門からの参道には、老若男女の姿が引きも切らない。

 だがよく見ると、外国人の姿がじつに多い。鳥居をもの珍しげに眺め、あるいはさわり、写真撮影に興じている。往来する人が10人いたとしたら、そのうちの78人は外国人かな――という感覚である。試みに、拝殿前の絵馬掛に掛かっている絵馬のなかから日本人が書いたと思われるものを、目につく範囲で数えてみたら、2割程度だった。それ以外では中国語が多く、あとは英語、その他の外国語、外国人がたどたどしい字で書いた日本語、といった具合である。

 都心にあって、アクセスが容易な、日本伝統の‟Shinto Shrine”ということで、多くの海外からの観光客を惹きつけているのだろう。しかも緑が濃くて敷地は広大。『ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン』は三ツ星を獲得している。今や明治神宮は東京を代表する一大観光地だ。

 社殿をみると、銅板屋根の葺替えをはじめとする修築工事が行われている最中だった。2020年に迎える「鎮座百年」を記念する事業の一環だという。「日本で一番の金持ち神社」としばしば評され、抜群の資金力、集金力をもつ神社ならではの光景だろう。

 

◆顕在化する神社格差

 一方で、市町村の一画や都市部のビルやマンションのはざまに鎮座している、ごくふつうの神社に目を向けてみよう。

 ふだんは神職の姿を見かけず、参拝者の姿もめったに見ない。祭りのときだけは付近の住民が集まるのかもしれないが、はたして氏子(うじこ)はどれだけいるのか――。

 そんな神社を見受けることが多くはないだろうか。

 明治神宮のような大規模神社が活況を呈する一方で、衰退の進む小規模神社が増加しているという問題が、今、神社界で深刻化している。

 端的にいえば、大規模神社は参拝者が増えて富み栄え、小規模神社は常駐の神主もなく、参拝者も氏子も減少の一途をたどり、経済的にも行き詰まって存続の危機にさらされる――。そんな二極化が強まり、神社格差が広がっているのだ。過疎化の進んで人口そのものが急激に減少している地域では、ことに事態は深刻である。

 結局、大規模神社のにぎわいは特定の神社への参拝の集中化を示すもので、逆にいえば、地域に根付いていた小規模神社と日本人との関係の希薄化を促していたのである。

 都内の住宅街に鎮座する小規模系神社の、あるベテラン宮司(ぐうじ)はこう語る。

「神社格差というのは、昭和の時代からあったけど、平成の時代に入ってから、その傾向がいちだんと強まった。世代交代が進んで、神職も氏子も確実に人が変わり、神社に対する人々の意識が変わってしまったことが大きい」

 その一方で、「大社だから、由緒ある有名神社だから、といってあぐらをかいていられるわけではない」という声も聞こえる。たしかに、明治神宮にしても、もし外国人観光客の姿を差し引けば、境内はとたんに閑散としたものになるはずだ。神社が神道という日本の民族宗教の礼拝施設であることを考えれば、日本人の参拝者はさして多くないという事実には、うすら寒さを感じる。

 若いころに大所帯の有名神社に奉職した経験をもつ、関東のとある神社の宮司はこう語る。

「一部の有名神社では、神社ブームとかいって浮かれているけど、ブームはブームで、いずれ終わりが来る。このまま何にも手を打たなかったら、あと1020年で神社は消滅してしまうのではないか」

 これまで日本人は、そこに神社があることを、ごく当たり前のことのように思ってきた。だが、そんな「当たり前」が、今、大きく崩れようとしている。

 平成の御世はあと1年ほどで終わりを告げることになるようだが、そんな節目に、「神社」の現状と未来を探ってみようというのが、本連載のねらいである。

 

◆全国約8万の神社のほとんどは神社本庁傘下

 現在、日本国内にどれだけの神社があるのか。

 その数字は、何をもって神社とするのかという神社の定義によって異なってくるが、宗教法人の統計資料である文化庁編『平成28年版 宗教年鑑』によれば、全国の神社の総数は81,255。つまり約8万社ということになる。ただし、ここに示されている神社数は、たとえば路傍にある祠やビルの屋上にある稲荷社といったたぐいをも網羅したものではない。ここでいう「神社」は、あくまでも、宗教法人もしくは宗教団体として登記されているものに限られている。

 そしてこの81,255社のうちの78,917社、つまり全国の神社の約97%は、「神社本庁」に属し、そのほぼすべて(78,817社)は、それぞれ個別に宗教法人格を有している。

 神社本庁については「庁」とあることから、国家機関である官庁のひとつのように受け取っている人もいるようだが、それは誤解である。神社本庁は民間の一宗教法人であり、その事務所は明治神宮に隣接する渋谷区代々木1丁目に所在し、法律上では、天台宗や浄土真宗本願寺派、天理教などといった諸宗教団体と同列の地位にある。

 そしてその神社本庁が、包括法人として、78,817社の被包括法人(単位宗教法人)としての神社を包括している、というかたちになっているのだ(各都道府県には、神社本庁の地方機関として「神社庁」が置かれている)。

 ちなみに、少数ながら、神社本庁に属していな神社も存在するわけだが、それらには、神社本庁以外の包括宗教法人(たとえば、京都を中心に80あまりの神社を包括する神社本教など)に属する神社、単位宗教法人だがどの包括宗教法人にも属していない単立宗教法人の神社(靖国神社、日光東照宮など)、宗教法人ではないが宗教団体として活動している神社などがある。

 

◆神社本庁は全国の神社の本社・本宮ではない

 包括法人としての神社本庁が単位宗教法人としての全国の神社を包括する。このようなスタイルは、他のメジャーな宗教宗派と同様のものだが、相違点もある。

 たとえば、浄土真宗本願寺派は、京都の西本願寺(正式名称は本願寺)を正式な所在地とする包括宗教法人であり、全国に点在する同派の寺院(それぞれは単位宗教法人として宗教法人格を有している)を、その傘下に置いている。わかりやすく言えば、「浄土真宗本願寺派は西本願寺を本山とし、本山は全国の同派の寺院を末寺として管理している」ということになる。そして本山の西本願寺は宗祖親鸞の末裔にあたる人物をトップに置き、宗派内では絶大な権威・権力をもつ。

 また高野山真言宗は、高野山の金剛峯寺(こんごうぶじ)を正式な所在地とする包括宗教法人であり、金剛峯寺は本山として、末寺である全国の同宗の寺院を束ねている。

 ところが、神社本庁の場合は、たしかに、包括宗教法人として全国の神社を管理・指導する立場にあるが、その事務所が所在する場所は仏教宗派の「本山」のような性格は有していない。神社参りが好きな人でも、明治神宮にお参りすることはあっても、北門を出てすぐの場所にある神社本庁の建物を訪れることはまずないだろう。つまり、神社本庁と全国の神社の関係は、総本社・総本宮とその末社という性格のものではない。ちなみに、「日本人の総氏神」ともいわれる伊勢神宮も、神社本庁に属する神社のひとつであり、決して全国の神社の本社・本宮という位置づけではない。明治神宮も同様である(ちなみに、明治神宮は平成16年からの一時期、神社本庁から離脱していた。神社運営をめぐる両者の確執が要因とされるが、22年に明治神宮が神社本庁に復帰することで、両者の関係はいちおうの修復をみた)。

 神社本庁がもつ包括宗教法人としてのこのような特殊性は、そもそも神社本庁が、宗教的儀式の執行や布教というよりは、教団運営上の事務を執り行うことを主たる目的として設立された機関であることに由来しているのだが、それだけに、神社に参拝する一般人の側からみれば、「神社本庁」というものはきわめてつかみにくく、見えにくい。

 前出のベテラン宮司は取材の際にこう吐露した。

「神社本庁は、ほかの宗教団体の場合と違って、しめつけが強くないし、同業者の組合、寄り集まりみたいなもの。それはそれでいい面もあるが……」

 悪く言えば、「個々の神社の側からみれば、神社本庁はあまりあてにならない」ということだろう。こんなところにも、神社格差の遠因が潜んでいるのではないか。

 

◆神社本庁誕生の経緯

 そもそも神社本庁とは、どのような経緯で誕生したものなのだろうか。

 神社本庁に属する神社には、伊勢神宮をはじめ悠久の歴史をもつものが少なくないが、それを統べる神社本庁そのものの歴史は浅い。

 明治維新以後、神社は「国家の宗祀(そうし)」(=国家公共の祭祀施設)に位置づけられ、祭祀は法令によって定められ、神職は官吏に準じる待遇を受け、神社には公費が支出された。

 そして全国の神社は、新政府の最高官庁である太政官から特立された神祇官によって管理されることになった。国家が神社・神道を管理する、いわゆる「国家神道」が形成されたわけである。

 その後、制度には若干変更もあったが、神社は、仏教・キリスト教などの諸教とは明確に区別されて国家から支援・保障を受け、太平洋戦争開戦前年の昭和15年(1940)には神社行政の所管は内務省の外局として設置された神祇院に移った(神祇院総裁は内務大臣が兼任)。ちなみに、仏教、キリスト教などの諸教は文部省宗教局が所管した。つまり、神道および全国の神社は、行政上は「宗教」としては扱われていなかったわけである。

 しかし、昭和20年(1945815日、日本は連合国に降伏。すると、神社関係者は、敗戦処理の過程で、ポツダム宣言に示された「信教の自由」を重視するGHQ(連合国最高司令官総司令部)が神社制度に対して根本的な変革を要求し、神祇院の廃止を迫ることを予想して、神祇院に代わる機関の設立をただちに模索しはじめた。神社本庁の胎動はここにはじまる。

 当初、その活動の中心となったのは、福岡・筥崎宮(はこざきぐう)の社家の生まれである葦津珍彦(あしづうずひこ)である。当時、有力な民間の神社関係団体として、大日本神祇会(全国の神職たちの組織)、皇典講究所(神職の養成・教育機関)、神宮奉斎会(伊勢神宮の崇敬団体)の3つがあったが、1025日、葦津はこの3団体の関係者を集めて懇談会を開いた。そしてこのとき彼は、個々の神社がそれぞれ財団法人として独立し、その財団である神社が互いに連携を保つための社団法人として「全国神社連盟」という組織を作るという「神社連盟案」を提案した。ただし、伊勢神宮など皇室と縁の深い一部の神社は宮内省(のち宮内庁)の所管に移すとし、部分的に国家神道的な要素も温存されていた。

 これに対して、大日本神祇会を中心に、「神社教案」も出されていた。それは、全国の神社を宗教団体法(宗教法人法の前身)としての宗教団体である「神社教」のもとに集約させ、既成の宗教団体と同じように管長を置こう、というものだった。仏教教団の「本山―末寺」の関係にならって、中央集権的な神社教団組織を作ろうということでもあった。

 結局、11月、両案を調整するようなかたちで、新団体は教団組織ではなく公益法人をめざし、その名称を仮に「神祇庁」とする「神祇庁(仮称)設立趣意書」が、3団体を発企団体として公表された。そして月末には、名称を「神祇庁」ではなく「神祇本庁」とすることが決定し、連日のように会合が開かれて、具体的な検討が行われた。

 役所という意味をもつ「庁」という呼称が採用された理由は定かではないが「戦前の内務省神祇院に準じて、神社を統括する機関にはなるべく公的な印象をもたせたい」という関係者の思惑がからんでいたのではないだろうか。

 

◆「神道指令」により宗教法人に

 ところが、1215日、突如、GHQにより「神道指令」が発せられた。「本指令の目的は宗教を国家より分離するにある」と謳うこの指令は、軍国主義・超国家主義は神道の教理・信仰が歪曲されたために生じたと断罪し、国家による神道・神社への支援の禁止、神祇院の廃止などを命じた。要するに、国家神道の廃止、国家と神社の徹底的な分離を迫るものだった。

 このため、神祇庁案は修正を余儀なくされ、「伊勢神宮を宮内省の所管にする」という構想はあきらめざるを得なくなった。そして、伊勢神宮を皇室から切り離し、ほかの神社と同様に一私法人とする方向に話が切り替わった。

 さらに、1228日には従来の宗教団体法の廃棄にともなって宗教法人令が公布された。その結果、神祇庁を公益法人とする案はなくなり、他の宗教団体と同じように、新制度である宗教法人にするという案に変更になった。また、また個々の神社も、国家神道の廃止後は、法的には宗教法人として存続させるという方針も固まった。

 このような紆余曲折を経て、新団体の名称も神祇庁から神社本庁と変更になり、昭和21123日、神社本庁創立総会が開かれ、神祇院が廃止された22日の翌日、宗教法人「神社本庁」が東京都渋谷区若木町(現・渋谷区東。現在は國學院大学の校舎が建っている)に正式に発足したのである。

 またこのとき、本来的には皇室の所有である伊勢神宮も国家管理から切り離され、神社本庁に属する一宗教法人となったが、別格の扱いとされ、「神社の本宗(ほんそう)」として位置づけられることになった(神社本庁庁規第61条「神宮ハ神社ノ本宗トシ、本庁之ヲ輔翼ス」)。「本宗」は国語辞典にも載っていない語句だが、皇室と不可分の関係にあって特別な存在である伊勢神宮を、一般神社と区別するために、また仏教宗派の「本山」や神社神道の「本社」「本宮」と区別するために、あえて創出された表現といえるだろう。

 終戦後の伊勢神宮をめぐる動きについては、触れるべきことがまだ多くあるのだが、それについては回を改めて詳述したい。

 

◆神社格差は戦後神社制度の疲弊が原因か

 このように、神社本庁ひいては戦後の神社制度は、終戦直後の未曽有の混乱のなかで、急ごしらえで整えられたものであった。したがって、全国の神社・神職の結束のもとにつくられたものではあったが、GHQによる占領下を想定したものであったため、長期的な展望に乏しいままスタートしてしまった、という面があったことは否めないだろう。実際、昭和27年に占領が終わると、神社本庁の指導力・求心力の乏しさが神社界で指摘されるようになっている。

 神社本庁発足時の神社関係者のなかには、「今は急場しのぎで民間の宗教法人になったが、占領軍が去り、国の復興が進めば、また神社が国家管理になる道も拓けるのではないか」と考えていた人もいたのではないだろうか。少なくとも伊勢神宮については、そう考えるのが当然だったはずである。

 また、もともと「神社連盟案」が議論されていたことが示しているように、最初から神社関係者の中には、仏教宗派の「本山―末寺」のような強固なピラミッド的な組織を想定していなかった、もしくは必要とは考えていなかった人たちがいた、という点も重要である。神社というものは、そういうあり方が難しいと考えられたのかもしれない。

 その意味で、「神社本庁は神社の寄り集まりみたいなもの」という前出のベテラン宮司の言葉は、示唆的である。つまり、神社界は、きわめて巨大な組織でありながら、中心がいまひとつ曖昧、と言えそうなのである。

 このようなことを踏まえて、現代の神社界の問題をマクロな観点から見つめなおすならば、こう言えるのではないか。

 ――近年顕在化する神社格差の拡大という問題の本質は、神社本庁を核とする急造の戦後の神社制度が、70年という歳月を経てその疲弊がいよいよ露呈してきた、という点にあるのではないだろうか。戦後神社界の制度疲労が、各神社――とりわけ小規模神社――の孤立化を一気に促進した、ということなのではないか。

 もちろん、70年の歴史の中で神社本庁の活動にも変遷があり、神社格差の問題視にしても、2年ほど前から、神社本庁は「不活動神社対策」事業を実施して、氏子の減少などにより活動が困難になった神社への支援が行われはじめているようだが、その本格的な成果はまだ未知数であろう。

 前出の関東のとある神社の宮司は、こんな印象的な言葉を口にした。

「今の神主の多くは、神社の杜(もり)の中からずっと外を見つづけていて、周りに住んでいる人はみんな氏子だと勝手に思っている。でも、杜の外の人は、自分がその神社の氏子なんかだとは思っていない。神主は時代の感覚が昭和戦前のままなんだよ」

 次回からは、観点をミクロのレベルに移し、現代の神社運営の具体的な仕組みを探り、個々の神社が抱えている切実な問題点――とりわけ経済的な問題点――について迫ってみたい。

 

 

《参考文献》

神社本庁総合研究所監修『戦後の神社・神道』神社新報社

神社新報社編『増補改訂・近代神社神道史』神社新報社

鎌田純一『神道史概説』神社新報社

岡田莊司編『日本神道史』吉川弘文館

 


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