『甲子夜話』巻五十三

 先日、あるテレビ局から、バラエティー番組で〝鳴かぬなら鳴くまで待とうほととぎす〟について解説してほしいという依頼があった。あわせてこの句を記した『甲子夜話』と『耳嚢』についても、どのような書物なのか説明してほしいという。体調がすぐれないこともあって出演はお断りしたが、転んでもただでは起きない貧乏性の私は、この機会にあらためて『甲子夜話』『耳嚢』ほか諸書をひもといてみた。

 〝鳴くまで待とう〟は、よく知られた句なので読者はご存じとは思うが。念のため『甲子夜話』巻五十三の記述を挙げてみよう(中村幸彦・中野三敏校訂 平凡社東洋文庫『甲子夜話』4より)。

 

  夜話のとき或人の云けるは、人の仮託に出る者ならんが、其人の情実に能く恊へりとなん。

  郭公を贈り参せし人あり。されども鳴かざりければ、

  なかぬなら殺してしまへ時鳥  織田右府

  鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊 太閤

  なかぬなら鳴まで待よ郭公   大権現様

  このあとに、二首を添ふ。これ憚る所あるが上へ、固より仮託のことなれば、作家を記せず。

  なかぬなら鳥屋へやれよほとゝぎす

  なかぬなら貰て置けよほとゝぎす

  (文中、郭公・時鳥・杜鵑はいずれもホトトギスの別名。ホトトギスと読む)

 

 肥前国平戸藩の老公松浦静山(まつら・せいざん 17601841)は、鳴かないホトトギスについて織田信長、豊臣秀吉そして徳川家康が詠んだという句を『甲子夜話』に書きとめた。語り手が誰であるかは記されていないが、『甲子夜話』に書きとめられたのは、文政7年(1824)、静山65歳の年である。

 もちろん、3人が一座して句を詠んだとは思えないし、句そのものも3人の作ではないのはあきらかだ。それでも句の内容が、3人の性格に照らして、さもありなんと思われるというのである。

3人はどう詠んだのか。信長は「鳴かないなら殺してしまえ」と詠み、秀吉は「鳴かないなら、私が鳴かしてみせよう」。そして家康は「鳴かないなら、鳴くまで待とう」。

語り手(「或人」)はさらに2首(2句)を紹介したが、どうせ偽作に違いないし、名を出すのは遠慮されるという判断から作者の名を秘したという。

「鳥屋へやれよ」「貰て置けよ」がなぜ遠慮される(「憚る所ある」)のか不明だったが、前者についてはやがて疑問は氷解した。著者、成立年代とも不詳の『天保風説見聞秘録』に、「なかずんば殺してしまへ時鳥 織田信長公」「なかぬならなかせて聞ん郭公 太閤秀吉公」「なかずんば啼くまでまたふ子規 徳川家康公」に続いて、「なかずんば売てしまへよ蜀魂 御十一代」とあるのを知ったのである(蜀魂は時鳥・郭公・子規と同じくホトトギスのこと)。

「売てしまへ」は、鳥屋に売ってしまえという意味で「鳥屋へやれよ」に通じる。問題はその作者が「御十一代」すなわち11代将軍の徳川家斉とされていること。どうやら「鳥屋へやれよ」の作者も家斉とされていて、静山は将軍の名を出すのを憚ったようなのだ。

しかし、もうひとつの「貰て置けよ」が誰の作とされていたかは依然として不明である。ちなみに右の記述を知ったのは、ひとえに太田為三郎編『続日本随筆索引』のお蔭で、私が博学だからではない。

 それはともかく。3人の句はそれぞれの性格をよく示している(「其人の情実に能く恊へり」)という指摘はうなずける。性急で実力行使をためらわない信長と、万事積極的で謀略にたけた秀吉、そして苦労人で忍耐強い家康というわけだ。

 やはり、成立年代も著者もさだかでない『百草露』という随筆でも、「なかぬなら殺してしまへほとゝきす」「鳴ぬならなかせて見せふ時鳥」「なかぬなら鳴まで待ふほとゝきす」の3句を挙げて、「右信長、秀吉、神君、三将の人となりを深く考へ弁ふべし」と記されている。三者三様、それぞれの性格をよく示すホトトギスの句という見方が、広く受け容れられていたのである。

 

『耳嚢』巻八

 松浦静山がこの逸事(伝説あるいはフィクションと言うべきかもしれない)を『甲子夜話」に記すより早く、勘定奉行や町奉行を務めた旗本の根岸鎮衛(ねぎし・やすもり 17371815)が、ほぼ同じ内容の話を『耳嚢』巻8に書きとめていた。巻8は文化5年(1808)か6年に成ったというから、『甲子夜話』に採録されるより156年早い。

 早いというだけではない。「ほぼ同じ内容」と言ったが、『耳嚢』のそれは、『甲子夜話』に記されたものとは、ずいぶん違っている。『日本庶民生活史料集成』第16巻所収の『耳嚢』から、「連歌其(その)心自然に顕るゝ事」と題するその話を挙げると…。

 

  古物語にあるや、また人の作り事や、夫(それ)はしらざれど、信長秀吉、乍恐(おそれながら)神君御参会の時、卯月のころ、いまだ郭公を聞ずとの物語り出でけるに、信長、

    鳴ずんば殺して仕まへ時鳥

  とありしに秀吉、

    啼ずとも啼せて聞ふ時鳥

  とありしに

    なかぬなら啼時聞ふ時鳥

  とあそばされしは神君の由。自然と其御徳化の温順なる、又残忍、広量なる所、其自然をあらはしたるが、紹巴も其席にありて、

   啼ぬなら鳴ぬのもよし郭公と吟じけるとや。

 

 ――古い物語に載っているのだろうか、それともただの作り話か。信長と秀吉、そして畏れ多くも神君家康公が参会された4月のある日、4月だというのにホトトギスの初音が聞こえないことが話題にのぼり、3人がそれぞれに句を詠んだ――。

 3人の句を『甲子夜話』のものと較べると、信長と秀吉の作はほぼ同様だが、家康の句はすくなからず異なっている。『甲子夜話』が「鳴まで待(まつ)よ」なのに対して「啼時聞ふ(なく時きこふ)」。しかし、同じく家康の忍耐強い性格を物語ったもので、句の心に違いはない。

 私は当然のように句の心は「家康の忍耐強い性格」と言ってしまったが、根岸の〝読み〟はそう単純ではない。たしかに家康の対応は「温順」(穏和)で、信長は「残忍」、秀吉は「広量なる」(度量が広い)と述べているが(文脈からすると、「残忍」も「広量なる」もやはり家康を指しているとも取れるが、さすがに神君を「残忍」と言い切ることはないだろう)、三者三様としながらも、実は3人の権力者に共通する、常人とは異なる性情を強調しているように思えるのだ。

 信長の場合、殺してしまえばホトトギスの音を聞く当初の目的は達せられない。かならず鳴かせてみせると断言する秀吉も、その積極性と自信は評価すべきだが、どう頑張っても鳴かない場合もあるだろう。そのときは面目まるつぶれだ。鳴くまで待つ(鳴いたときに聞こう)という家康はどうか。ホトトギスを生かし続け、目的を達するまで待ち続けるのは、要するになにがなんでも言うことをきかせる(自分の思い通りにする)決意を示したものにほかならず、しかも絶対に失敗のない方法だ。たしかに老練である。

しかし、ホトトギスにとっては、力尽きるまで(あたかも兵糧攻めのように)じっくり待ち続ける家康もまた、〝残忍〟なのではないだろうか。ホトトギスは年貢を増徴される百姓ほか被支配者一般と言いかえてもいい。

忍耐強く度量が広いだけでは天下は取れない。家康が最終的に天下を掌握できたのは、目的を達するまではあきらめない〝待つという残忍さ〟をあわせ持っていたから。曲解かもしれないが、私にはそう読み取れるのである。

 

紹巴と山頭火

 私の感想がまったく的外れではない証拠に、根岸は最後に3人と同席していた連歌師の紹巴(じょうは 15341602)の句を挙げている。

紹巴は僧侶出身で、豊臣秀次の連歌の師も務めた。その紹巴が「啼ぬなら鳴ぬのもよし郭公」と詠んだという。「ホトトギスよ、鳴きたくなければ鳴かなくてもいい」と意訳しておこう。どうしても鳴かせようとする3人の権力者の句と較べ、紹巴の句は常識的で心やさしい。自然を愛惜する日本の心を感じさせるし、なにより3人の句のあとだけにホッとする。根岸は紹巴の句で話を締めくくることで、残忍であれ温順であれ、絶大な権力者の異常な支配欲を際立たせているのである。

 鳴かなくてもいい。そういえば、放浪の俳人種田山頭火(18821940)もほとんど同じ句を詠んでいた。昭和15年(1940)に出版された句集『草木塔』に「鳴かぬなら鳴かなくてもよいほととぎす」とある。

<了>
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