鈴木桃野という旗本

 「幕臣の中で一番好きな人は誰か」と聞かれたら……。私が挙げるのは、前回登場した根岸鎮衛(『耳嚢』の著者)でも小栗忠順でも川路聖謨(としあきら)でもなく、幕府や幕臣について貴重な記録を遺しながら、維新後は不遇な余生を過ごした大谷木醇堂(おおやぎ・じゅんどう)でもない。勝海舟や榎本武揚といった幕末維新史の有名人でも。

 その人の名は鈴木桃野(とうや)。幕府の書物奉行を務めた鈴木白藤(はくとう)の長男で、寛政12年(1800)に生まれ、ペリー来航の前年、嘉永5年(1852)に53歳で亡くなった旗本である。桃野のほかに詩瀑山人、酔桃子、桃花外史と号した。なぜ号でなく名を挙げないのか。名は成■だが、■の字があまりにも複雑怪奇だからだ(言葉で説明しても混乱するので、■を用いたというわけ)。

 ※ちなみにこんな字=


 名前も読めないのに一番好きというのは変。それにもまして桃野は〝活躍した幕臣〟ではない。天保
10年(1839)に40歳で部屋住みから昌平坂学問所教授になっているから、とりあえず知識人だったのは確かである。嘉永5年にようやく家督を相続し、甲府徽典館(甲府に設けられた幕府の学問所)の学頭に
も任ぜられたが、赴任前に病に倒れてしまう。履歴はお世辞にも華々しいとは言えず、幕臣としても儒者としても、これといった業績は見当たらない。

 儒者としては、姉が嫁いだ古賀侗庵やその子(すなわち桃野の甥)茶渓(謹一郎)の方が名高い。とりわけ謹一郎は、洋学も修めて外交使節の応接掛に任ぜられ、のちに製鉄奉行や目付などを歴任した。幕臣として桃野とは比べものにならないほど〝活躍〟した。

ちなみに母方の祖父は、医者で幕臣(与力)の多賀谷安貞。安貞の長男は書家として向陵と号し、次男は画家で酔雪と号した。叔父さんたちもそれなりに名が知られていた。

 学問芸術にたけた血を受け継いだ桃野だったが、著書は『無可有郷』『反古のうらがき』『酔桃庵雑筆』『桃野随筆』などの随筆のみ。このうち『反古のうらがき』は怪談・奇譚集としてそこそこ知られているが、『耳嚢』と比べ知名度は著しく低い。他の随筆に至っては、ほとんどの読者は(たとえ歴史好きであっても)、耳にしたこともないのでは。

とはいえ『反古のうらがき』以外の著述も評価は高い。たとえば『日本古典文学大辞典』(岩波書店)は、桃野を「わが国近世の随筆家としては、第一等にあげられるべき人である」と評している。鈴木桃野とは、知る人ぞ知る幕臣なのである。

 

傘を穏便に取り戻す方法

 桃野の随筆はどのように面白いのか。とりあえず『酔桃庵雑筆』から私好みの一話をご紹介しよう。あくまで私好みで、読者の多く(ほとんどかも)は「こんな話のどこがいいの?」と思われるかもしれないが、そこは著者の特権で押し切りたい。

例によって意訳で述べるのでいささか冗長になるが、この点もご容赦いただきたい。さて、「傘」と題するその話とは。

 

 年の初め、鈴木の家では(家の当主は父親の白藤)教え子らが集まって宴を催すのが恒例になっていた。教え子たちに来客も加わり、酒を飲んだり書画の筆を揮ったり、朝から夜まで遊び興じた。

ある年のこと。あいにくの雨で、訪れた人々は雨が小やみになるのを待って、それぞれ家路についた。客の一人、画師の雪庵もそろそろ帰宅しようとしたが、どうしたわけか、持参した傘が見当たらない。雪庵の傘は白張で白紙の札が付けてあったが、いつの間にか消え失せていたのだ。これは大変。鈴木家では当日訪れた教え子や来客の「名かひ付たる帳」(名簿)をめくって、一人ひとり調べたが、誰は雨が降り始める前に帰ったし、誰々は家から届けられた傘をさして帰ったし。とりあえず雪庵の傘を持ち帰ったと思われる者はいなかった。ただ一人を除いては……。

 さる藩の家臣で当日訪れる予定だった人が、都合が悪くて欠席し、代わりに同じ藩の人がやって来た。その人が来たときは、まだ晴れていたので傘は持参していなかった。ところが帰るときはザアザア降り。家から傘が届けられた様子もない。あの雨の中、傘もささずにどのようにして帰ったのか。かくして雪庵の傘を断りもなく持ち帰ったのは、この人に違いないということになった(原文は「ことわりもなく有合せたる傘さしてさりしは此ひとに極りたり」)。

 翌日、鈴木家に教え子たちが集まって、犯人を「けしからぬ奴じゃないか。誰を傘を取り戻しに行かせようか」(「さても心太き人の仕業かな。誰行て取て来らん」)と糾弾かつ傘を取り戻す方法を相談していた。しかし、傘を持ち帰ったという確かな証拠はなく、相手に何と言うべきか難しい。結局どうすべきか結論が出なかった。

 すると桃野がこう述べた。「相手に下手なことを言えば無礼になるし、かといってほかに方法もない」。相手は陪臣とはいえ武士であることに変わりはなく、たかが傘とはいえ、断りもなく持ち帰ったのかと問い詰めれば、武士の名誉を汚されたと気分を害し、トラブルにもなりかねない。相手を刺激しないよう、くれぐれも気を付けなければならず、したがって表から筋道を立てて要求するのは得策ではないというのである。たしかに。

 ならばどうする。桃野は次のように提案した。

まだ物事がよくわからない年少の者を相手の家に行かせ、「昨日の傘」(「きのふの傘」)と繰り返し言わせたらどうか。相手に何のことかと尋ねられても、ただ「傘、傘」とだけ言う。これでは間違って持ち帰った傘を返してくれと言っているのか、無断拝借した傘を返せという意味なのか、相手には判断できない。そこが肝心な(「妙なる」)ところで、これなら相手の名誉を傷つけることなく、傘を取り戻せるだろう。傘を返すまで、家の前で「傘」と言い続ければ、辺りの人もあやしむに違いない。「いったい何が起きたのか」と人々が集まって来れば最高さ。

 桃野は年少の教え子たちにこう言い含め、うまくいったら「あんもちゐ二百文計り」(あん餅を200文ほど)をご褒美に買ってあげると約束した。傘奪還作戦の面白さと、それにもまして報酬のあん餅によだれを垂らした12歳から13歳(満年齢で10歳から12歳)の教え子が34人、勇んで相手の家に出かけて行った。

 子どもたちは桃野に教えられた通り「昨日の傘、昨日の傘」と連呼した。傘を持ち帰った当人は主の館に出勤していて不在だったが、その妻が「くわしい事情はわからないが、これは夫が借りた傘を返してくれ」という意味だろうと察し(女性の勘が良かったのか、それとも夫は傘の無断拝借の常習犯だったのだろうか)、家にあった幾本もの傘を見せ、「おばさんにはどれだかわからないわ。このなかから選び出して」(「これなるかそれなるか、見分給へ」)。

子どもたちは、白張で白紙の札が付いた傘を持ち帰った。雪庵に見せるとはたして彼の傘だった。めでたし、めでたし。桃野は約束通り200文(現在の4000円くらいか)ほどのあん餅を子どもたちに買い与えた。こちらも、めでたし、めでたし。かくして相手を刺激せず、みごと傘を取り戻したのだった。

話の最後に桃野は「かゝる時には幼年のもの用に立事ありと思ひき」と淡々と述べているが、下手をするとこじれそうな小さな事件をわずか200文の出費で穏便に処理した才幹は尋常ではない。人間の心理をよく観察していた桃野ならではの解決法と言える。

 

客嫌いの過剰接待

 人間の心理をよく観察していたといえば、『桃野随筆』にこんな話も。

 

 「客の来りしとき、おほくもてなすとて、はなしも聞はてゞいく度か立居する人ハ、客このまぬ人なりけり」。来客があったとき、ねんごろにもてなそうと(たくさんご馳走をふるまおうと)座敷と台所の間を何度も行き来して、「酒はまだか」「あれを持ってこい」「あれがあったはずだ」と指示するような人は、実は来客を好まぬ人だ、というのである。

酒を出し食事を調理するのは妻子の仕事であって、主があくせくすることではない。にもかかわらず、自身で事細かに指図するのは、この家に客の訪れが稀で、客をもてなす段取りができていないから。すなわち主が来客を好まないから。客好き人は、このようなふるまいはしない(「客好む人ハかゝることなし」)と桃野は断言する。

彼はまた「俄にあるじぶりするハ、客をしてたへがたからしめんためぞと思はる」とも述べている。家の主がまるで一大事のようにバタバタ接客するのは、つまるところ、客を恐縮させ居心地悪くさせるため、というのだ。

 当時は、長居の客を帰らせるために、草履に灸をすえる呪いも行われたというが、これは過剰な接待で撃退しようというわけ(飲むだけ飲み、食べるだけ食べたら、さっさと帰ってくれ)。なかには好意が行き過ぎて過剰接待に至る場合(いわゆるもてなし下手)もあるだろうが、いずれにしろ、会話を楽しみたいという客には好ましくないだろう。

 鈴木桃野の随筆には、以上のような〝小さな面白さ〟が満ち満ちている。あえて天下国家を語らず、悲憤慷慨をあらわにしない。倫理を押し付けることもない。ひたすら人の心理を推し量る柔軟で科学的な知性。彼はまた気配りとオモテナシに長けた成熟した都会人でもあった。

<了>

洋泉社歴史総合サイト



歴史REALWEBはこちらから!
yosensha_banner_20130607