はじめに

 千葉県市川市の若宮公民館で「徳川家を支えた井伊家と戦国合戦史」と題して、2回目の講演をいたしました(全3回)。参加者は約30名でした。2回目は井伊家の攻防や直虎が男か女かなどを取り上げたので、いささか盛り上がったようです。ところで、講演に参加していた方から、銀杏をいただきました。銀杏はフライパンで殻ごとあぶり、皮をむいて塩を付けていただくとおいしいです。昔は、よく拾いに行ったものです。

 

 今回のタイトルは、「悪女について」でした。このタイトルは、昭和53年(1974)に『週刊朝日』で連載された有吉佐和子の小説『悪女について』そのままです。何度かテレビドラマ化され、舞台化もされたようです。小説のタイトルをそのまま使用したということは、もう捻りが利かなくなってしまったのでしょうか? あと少しなので、もうひと捻りしたいところです。

 

 大河ドラマの出演者の人選というのは、いったいどうなっているのでしょうか? テレビや映画の場合は、スポンサーの影響力が強いと聞いています。しかし、NHKには企業のスポンサーはないと思うので、実質的なスポンサーは受信料を支払っている国民になりましょう。ただ、国民一人ひとりに聞いて回ることはできないので、視聴率が取れそうな人気者を選んでいると思うのですが、もっと思い切った人選も必要ではないかと思います。イケメンと美女ばかりでは・・・。

 

 さて、今回は前回に引き続き、万千代(役・菅田将暉)や直虎(役・柴咲コウ)の活躍は少なく、徳川家康(役・阿部サダヲ)、徳川信康(役・平埜生成)、瀬名(役・菜々緒)がメインでしたね。

 

家康、苦汁の決断

 信康は武田方との内通を疑われたため、信長(役・市川海老蔵)は家康に対して信康の処刑を命じます。家康にとって、嫡男を失うことは大きな痛手ですから、「はい。わかりました」とすぐに言うわけには参りません。表面的には指示に従いますが、信康の処刑を回避するため、さまざまな方法を画策します。

 

 ドラマのなかの信康は品行方正な青年でしたが、『松平記』などによると、決してそうではなかったようです。日頃から乱暴な振る舞いが多く、気分次第で人を殺すこともあったようです。よく考えてみると、豊臣秀吉が養子の秀次に切腹を命じた際、秀次の乱行ぶりが取沙汰されました。いずれにしても後世の編纂物に書かれたことなので鵜呑みにできませんが、切腹を命じられた二人には、悪い評判が付きまとっていたという共通点があります。

 

 ところが、同じ後世の編纂物であっても、大久保彦左衛門の手になる『三河物語』では、信康の武勇を称えるなど、まったく逆の評価となっています。それぞれの史料の性質にもよるのでしょうが、今や信康の評価を確認することは極めて困難です。

 

 捕らえられた信康は、大浜城に移され、さらに堀江城へと幽閉先が変わります。これも、家康による時間稼ぎと言えましょう。信康が移った点は、史実と一致しています。

 

 ここまでして家康が時間稼ぎをしたのには、もちろん理由があります。家康は今川氏真(役・尾上松也)の助力を得て、北条氏との同盟を画策していました。もし、同盟が実現すれば、武田氏の背後を北条氏が脅かすので、織田信長も大いに喜ぶはずです。そうなれば、信康も許しを得られずはず。家康はそう考えたのでした。

 

 信康は苦しい状況下にありましたが、父を気遣っていました。家康は万千代からその話を聞き、何としても信康を救わねばと思うのでした。

 

 ところで、近年の研究によると、家康と信康の親子の仲は、非常に悪かったといわれています。つまり、信康自身に問題があったため、家康は信長に使者を派遣し、信康の扱いについて相談したといわれています。結果、信長はその措置を家康に委ねることにしたというのです。

 

 家康が信康を岡崎城から大浜城に移した際、信康配下の岡崎衆に対して、信康と絶縁する起請文を提出させています。このような徹底した措置を見ると、もはや家康と信康との関係は、破綻していたと考えざるを得ないということになりましょう。

 

 しかし、これは大河ドラマです。親子の関係が悪化したので、親が子を殺すのでは実に具合が悪いのです。大河ドラマが親子愛を強調する点は、ホームドラマ化してしまった影響が大きいように思います。

 

瀬名の作戦

 愛する息子を幽閉された瀬名は、もう気が気ではありません。そこで、ある作戦を思い付きます。それは、瀬名宛の武田勝頼の文書を偽造し、武田と通じているのは信康ではなく、自分が内通していることにしたのです。こうすれば、信康の嫌疑が晴れ、自分が犠牲になればよいのです。案の定、瀬名の文箱から勝頼の文書が発見され、徳川家は大騒ぎになります。

 

 瀬名は石川数正と出奔し、なぜか井伊の井戸を訪ねていました。理由はよくわかりませんが、たぶん直虎と会わせるためでしょう。案の定、直虎も井戸にやって来て、瀬名のやったことを見抜きます。「名探偵コナン」もびっくりです。一方、万千代は、家康から瀬名を井伊谷で匿ってほしいと頼まれていました。なかなかややこしいですね。

 

 直虎は徳川を運の強さを信じろと言います。根拠のない自信ほど怖いものはありません。瀬名は救われた命であるからこそ、信康のために捧げたいと言います。死ぬことに美しさを求めるのはいかがかと思いますが、ドラマですから仕方がありません。

 

 しかし、瀬名はすぐに追手に捕まってしまい、佐鳴湖に連れていかれ、無念の最期を遂げてしまうのでした。ちなみに後世の編纂物によると、瀬名の評価というのはボロクソです。信康同様、死に追い込まれた瀬名は悪女であったがゆえに、成敗されたということになるのでしょうか。

 

平身低頭の家康

 悲嘆にくれる家康でしたが、瀬名の首を持参して、信長のいる安土城に向かいました。家康は信長に対し、信康は無実であり、武田と内通していたのは瀬名だったと申し開きをいたします。そして、北条との同盟を実現し、貢献する旨を必死に伝えました。

 

 信長は一通り聞いていましたが、「そこまで申すのなら、徳川殿の好きになさるがいい」と冷たく家康に言いました。つまり、信康の措置は、家康に任せるということになりましょう。家康はほっと安堵しましたが、その直後に「その代り、余も好きにするがのう」というではないですか。意味が分かりづらいですが、信康を許すならば、家康の領国に攻め込みますよ、ということでしょうか。

 

 この一言に恐れをなした家康は、ついに信康に自害させることを決断しました。こうして天正7年(1579)9月15日、信康は自刃して果てたのでした。信康の悲報に接した徳川家の家臣の人々は、みんな泣いていましたね(悲)。

 

 それにしても、家康は信長に平身低頭でしたが、実際にこんなことがあったのでしょうか? たしかに信長から見れば、家康は格下だったかもしれません。しかし、一方で家康は重要な連携のパートナーです。そう考えると、単に力関係だけで、信長が家康に信康の切腹を迫ったというよりも、どちらかといえば親子関係の不仲が原因ではなかったかと愚考します。

 

おわりに

 信康の切腹後、万千代は直虎から信康の代わりになってはと勧められます。一瞬、驚いた万千代ですが、一人碁盤に向かう家康のもとに駆け寄り、碁の相手をすると申し出ます。むろん、家康はそんな気にならないのですが、万千代が小野政次(役・高橋一生)から碁を習った話を聞き、万千代から「その者(=小野政次)は、教えてくれました。負け戦になってしまったら、そもそもどこで間違えたのか確かめよと。負けた意味は、次に勝つためにあると」と言葉を掛けられました。

 

 涙、涙のラストですね。気を取り直した家康は、混乱する岡崎に本多忠勝を派遣したのでした。むろん、万千代がそんな助言をしたのかは不明です。

 

 結局、直虎や万千代絡みのネタがなかったので、信康切腹の一件と強引に結び付けたということになりましょうか。苦しい展開のように思います。

 

 今回の視聴率は、12.0%と再び上昇しました。上がったり下がったり忙しいですが、なぜ上がったのか理由はよくわかりませんね。

<了>

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