◆原初の神社には社殿はなかった

 神社は古来日本人の信仰の対象で、日本人の日常に寄り添うようにして存在してきた。前回までは現代の神社の経済的な窮状をみてきたが、そもそも神社は、歴史的にはどのようにして運営されてきたのだろうか。

 ここからは、数回にわたって、「経済」という視点から、神社の歴史と変遷をたどってみたい。

 まずは、神社そのものの起源を見ておこう。

 原初の神社は建造物はなく、聖域にある巨岩(磐座/いわくら)や積み並べられた岩や石(磐境/いわさか)、あるいは聖域にたてられた樹木(神籬/ひもろぎ)を神霊の依り代として祭祀を行っていたと考えられている。このような原初の神社、あるいは神社の原型として考古学的に確認できるものには、大神(おおみわ)神社(奈良県桜井市)のご神体である三輪山の山麓で見つかった祭祀遺跡(磐座や鏡・玉などの遺物)や、宗像(むなかた)大社(福岡県宗像市)の沖津宮(おきつぐう)が鎮座する沖ノ島で見つかった祭祀遺跡などがあり、これらはその時代を4世紀後半(古墳時代前期)にまでさかのぼることができるとされている。

 やがて、祭場となる聖域に、祭祀のときにのみ簡素な神殿が仮設されるようになり、さらに時をへると、常設の神殿・社殿がもうけられるようになった。常設の社殿を伴った神社がいつからあらわれたのかについては議論があるが、『日本書紀』にみられる、斉明天皇5年(659)の天皇が出雲大社の修造を命じたという記事や、天武天皇10年(681)の天皇が畿内・諸国に神社の修造あるいは新造を命じたという記事は、神社社殿の造営に関する最古級の確実な記録とみられている。つまり、遅くとも飛鳥時代である7世紀後半には、現代の神社に通じる、社殿をともなった神社が存在していた。

 もし神社社殿のはじまりが7世紀だったとすると、神社が日本の民族信仰の対象であることを考えれば、意外に遅いことのようにも思えるが、6世紀なかばに仏教が伝来し、ほどなくして天皇や有力豪族による寺院の建立が盛んになったことが、ライバルである神社側に、常設の社殿の登場を促したと考えることもできる。

 ちなみに、奈良の御蓋山(みかさやま)を神体山とする春日大社は、藤原氏の氏神として知られ、奈良時代はじめの創祀と考えられているが、社殿が造営されたのは神護景雲2年(768)のことで、それ以前は何もない「聖地」が祭祀の場になっていたと推測されている。

 

◆律令制下に神社の国家統制が強まる

 列島に出現した原初の神社は、基本的にはその土地の有力者一族(豪族)の祖神・守護神(のちの氏神)を祀るものであった。したがって、その運営の主体は当然、豪族であり、経済的な負担は彼らが受け持ったはずである。

 だが、大王(天皇)を中心とするヤマト朝廷が成立し、国家が形作られるようになると、各地の神社は朝廷によって管理・統制され、神社祭祀は国家の政治において重要な役割を担うようになった。まさに祭政一致の時代である。

 朝廷による神社の管理・統制が政治制度化されるようになったのは、公地公民の原則を掲げた大化の改新(643年)以降のことで、明確なかたちをとったのは7世紀後半、天武・持統天皇の時代であると考えられている。天皇を頂点とする中央集権的な国家の確立がめざされ、中国にならって律令(基本法典)にもとづく国家システムが本格的に整備されはじめた時代である。

 律令制のもとでは、朝廷に神祇官という役所が置かれ、ここが朝廷の祭祀や全国の神社の運営・経済をつかさどった。

 神祇官の担った仕事のひとつの柱は、『神祇令』に定められた国家祭祀の管掌である。その祭祀のうち、神社統制のうえで非常に重要な役割を果たしたと考えられるのは、2月に行われた、豊作祈願である祈年(きねん)祭(2月)だ。

 祈年祭では、神祇官にもうけられた神殿の前に全国の有力神社の神職が集められ、中臣(なかとみ)氏が祝詞を宣したのち、忌部(いんべ)氏によって幣帛(へいはく)が配られた。幣帛とは神への供物のことで、絹・麻などがこれにあてられた。この儀式を「班幣(はんぺい)」という。そして各神職は、班幣された幣帛を自分たちが奉仕する神社に持ち帰って供えた。班幣は、見方を変えれば、朝廷が、神祇官での農耕祭祀儀礼を介して、各地の神社を氏神とする豪族とその土地に暮らす人民を統制し支配するためのシステムでもあった。

 

◆全国の有力神社は「官社」として国家公認となった

 だが、全国のすべての神社が祈年祭で班幣にあずかれたわけではない。

 祈年祭で班幣の対象になった神社は「官社」と呼ばれた。“官”社といっても、必ずしも国家によって運営されているという意味ではない。在地の豪族によって祀られ、運営されてきた神社だが、国家にその存在を公認され、国家祭祀の対象になった神社、という意味合いである。

 平安時代に入ると、官社は、神職が神祇官から直接、班幣にあずかる官幣社(かんぺいしゃ)と、在地の国司(朝廷から派遣される地方行政官)から班幣にあずかる国幣社(こくへいしゃ)に分けられた。国幣社はおもに、神職の上京が困難な、遠国に鎮座する神社が対象となった。

 さらに官幣社・国幣社は、幣帛の品目・数量によってそれぞれ大社・小社に分けられた。

 このような神社のランク付けを社格という。

 このような官社の実数を伝えるのが、平安時代中期に編纂された法典『延喜式(えんぎしき)』だ。この書に全国の官社を地域別に一覧にした「神名」と題する巻があり、『延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)』と通称されるが、これによると、官社の総数は2861社で、そのうち官幣社は573社(大社198社、小社375社)、国幣社は2288社(大社115社、小社2173社)である。

 これらの官社のなかで、最上位に位置づけられたのが、皇祖神アマテラスを祀る伊勢神宮だ。

 

◆有力神社の基本的な収入源になった神戸

 このように、律令制とともに神祇祭祀が整備されると、常設の立派な社殿を必要とする神社が増え、また祭祀に際しては供物だけでなく、祭具・装飾品など、いろいろと物入りになる。社殿の造営・修造や祭祀のためにさまざまな労務が発生し、専従の神職(古代には神主、禰宜〔ねぎ〕、祝部〔はふりべ〕などと呼ばれた)も必要となってくる。

 つまり、経済的な面でいうと、神社側に、社殿の修造費(労働力を含む)、祭事費、人件費に充当する収入が最低限必要になってくる。この三要件は、現代の神社経済にも共通する経費だろう。

 余談だが、『日本書紀』を含め、古代の史料には、神社の修造・修繕を命じる記述が目につく。神社の造替(ぞうたい)には信仰的な側面もあるが、社殿の破損・倒壊がよほど多かったのだろうか。いずれにしても、昔も今も、社殿の維持・管理費が神社の支出の眼目だったようである。

 さて話を戻すと、神祇官は、こうした神社収入の面に関しても任を負っていた。それが「神戸(かんべ)」の管理である。

「神戸」とは、ひとくちにいえば国策により官社に属した人民で、神社の基本的な収入源となった。

 より正確にいうと、朝廷から有力な官社に与えられた民戸(みんこ)で、神封(しんぷ・しんぽう)ともいう。民戸の「戸」とは「家」「家族」という意味なので、平たくいえば、神戸とは、特定の神社に従属した人民ということになる。

 彼らは通例、その神社の近くで生活し、社殿の改修、清掃といった神社にかかわる種々の労務に従事した。そして彼らが納める田租(でんそ/稲で納める税)・調(絹・糸・鉄・魚介類などの産物で納める税)・庸(労役、もしくはその代替として布や米、塩などで納める税)は、国家ではなく該当する神社に貢進され、神社の修造費や祭祀料、神職の俸禄などにあてられた。

『養老律令』所収の「神祇令」では、神戸について次のように規定されている。

「凡(およ)そ神戸の調庸及び田租は、並(みな)神宮を造り、及び供神(ぐしん)の調度に充てよ」(ここでいう「神宮」とは、伊勢神宮ではなく、神社一般をさすと考えられる)

 とくに神戸から出される田租は神税(しんぜい)と呼ばれたが、原則として国司・郡司などの地方官の倉庫に貯蔵されたので、神社が自由に利用することはできなかった。また、その一部が神祇官に送られることもあったようだ。そして、神戸に関する事務は地方官が司り、その結果が神祇官に報告されるというシステムになっていた。

 なお、神職には、世襲者系と非世襲系があり、一般に世襲系のほうが地位が高く、貴族的な身分をもつ場合が多かった。一方、世襲系神職がいない場合は、原則として地方官が神戸の中から適材を求めて任命することになっていた。

 

◆神社の私有地的性格が強かった神田

 しかし、神戸を有するのは、ごく一部の有力な官社に限られていた。

 古代の法令集である『新抄格勅符抄(しんしょうきゃくちょくふしょう)』の大同元年(806)牒によると、神戸を与えられていた神社は全国で170社で、神戸の総数は5884戸。そのなかでトップ3は、宇佐八幡宮の1660戸、伊勢神宮の1130戸、大和神社の327戸である。一方で、1戸あるいは数戸という神社が、100社程度を占める。

 前述したように、平安時代なかば(10世紀)の時点では、官社だけで2861社は確実に存在したわけだから、それに対して、9世紀とやや時代がさかのぼるとはいえ、神戸が与えられたのは170社となると、経済的な面で国家から優遇された神社は、全国の数多ある神社のなかでほんのごく一部、ということになる。

 ちなみに、同じ文書で寺院に対する封戸をみると、東大寺5000戸、飛鳥寺1800戸、大安寺1500戸、山階寺1200戸などとなっており、明らかに神社よりも寺院の方が経済的には潤沢であったことがわかる。神社である宇佐八幡宮が1660戸と規模が大きいのは、ここがはやくから神宮寺をそなえて神仏習合が進んでいたことが影響しているのではないか。

 さて、神戸を寄せられない大多数の神社は、どうやって経費をまかなっていたのだろうか。

 この場合に、神社の貴重な収入源となったのが、神田(しんでん)である。

 神田は、神社の経費にあてるためにもうけられた土地で、神田は朝廷への租税が免除され(不輸田租)、その代わりに収穫物は領有する神社に納入された。神田の形態としては、①特定の田地を特定の神社の神田として設定し、神社が人(神奴〔しんど〕、神賤)を使役して耕作するケース、②神社が直接人を使役せず、付近の農民に賃貸して耕作させ、その一部(地子)を納めさせるケース、③神戸の口分田を神田に充当するケース、などがあった。

 律令制下ではすべての土地・人民を国家のものとする公地公民制がタテマエであり、神田は、国家(朝廷)が公地を神社に賃貸するというかたちをとっていた。したがって神田は決して神社の私有地ではないが、班給されたまま収公がなく売買も認められなかったので、神祇官にしっかりと管理された神戸にくらべると拘束が少なく、私有地的な性格をもち、神社にとっては有利な収入源だった。

 古代の神田については、神戸にくらべて史料がとぼしく、全国の神社がどれだけの神田を有したか、その全体像は不明だが、有力神社は神戸に加えて神田も有したようである。

 こうしたことが関係してか、一郡にわたるほど広域に神戸や神田をもつ神社もあらわれ、そうした土地は神郡(しんぐん)と呼ばれた。神郡では、住民の大半が特定の神社に奉仕することになり、祖・調・庸の大部分がその神社の収入になったので、その郡全体があたかも神領のようになった。

 8世紀前半の時点で存在した神郡は、伊勢神宮の伊勢国度会(わたらい)郡・多気(たき)郡、香取(かとり)神宮の下総国香取郡、安房(あわ)神社の安房国安房郡、鹿島神宮の常陸(ひたち)国鹿島郡、出雲大社の出雲国意宇(おう)郡、日前(ひのさき)・国懸(くにかかす)神宮の紀伊国名草(なぐさ)郡、宗像(むなかた)大社の筑前国宗像郡である。

 もっとも、神郡にしても神田にしても、有力神社周辺の土地については、律令制が整備されてからはじめてその神社に供されたとはかぎらず、それ以前から、実質的には神社の領地(神地/かむどころ)となっていたケースも多々あったと考えられる。

 

◆神戸も神田もない神社は税金と氏人を頼った

 一方、神戸はもちろんのこと、神田もない、規模の小さい無封の神社も存在した。そのような無封社はどのようにして経費をまかなったのだろうか。

 古代の無封社の経済に関する史料は極端に少なくなるが、その基本的な財源については、おもにつぎの2つのパターンが推測されている。

 ひとつは、神税ではなく正税(しょうぜい/一般人民が国・郡の正倉に納めた田租)をその神社の経費に充てるものやり方だ。『日本紀略』の大同4年(809416日条には「神社の修造は、封戸のある神社は神税を、無封の神社は正税を用いること」という趣旨の記述がみえる。

 もうひとつのパターンは、縁故があり、かつ神戸・神田を有する官社の信奉者に負担してもらう、というものだ。

 たとえば、寛平5年(8931029日付の太政官符(『類聚三代格』巻1所収)には、つぎのようなことが書かれている。

「筑前の宗像神社(現在の宗像大社か)と大和の宗像神社は同じ神を祀るが、筑前社は神戸・神田を有するものの、大和社は無封であった。そのため、大和社の社殿の修造費には、宗像神を氏神として信奉する一族に仕える筑前の人民(氏賤)が納める財物を充ててきた。ところが、その氏族の勢力が衰退したため、大和社は財源を失った」

 このことから、無封社には、同じ神を奉祀する有力な神社や氏族に経済的な支援を受けるケースがあったことがわかる。これはいわば、その神社の祭神を奉斎する氏族・氏人(うじびと)が、現代風にいえば氏子が、神戸を私設するというやり方だ。

 ただし、上記の2パターンの説明で示した事例は、いずれも、臨時の出費といえる「社殿の修造」に際してのものだ。恒常的な経費である祭事費や俸禄に、正税や「私設の神戸」が充てられたかどうかは不明である。もっとも、小規模神社の場合は、現代と同じように、常駐の神職が存在せず、祭祀の回数も少なかったもしれず、そうであれば経費も比較的少なく、有力な信奉者(氏人)が負担する程度で済んでいたのかもしれない。

 

◆小規模神社の受難は古代から

 朝廷の側からすれば、列島各地に鎮座する大小の神社すべてを官社とし、神祇官によってそこに祀られている多様な祭神を統率し、かつ、それらすべてに神田や神戸を付与するというのは、祭政一致を是とする社会のあり方としては、理想であり、目標ではあっただろう。また逆に、神社の側でも、そうした制度にもれなくあずかれるのであれば、それはやはり理想的な制度として映ったに違いない。

『日本書紀』をひもとくと、崇神天皇711月条に、占いによって八十万(やそよろず)の群神を祀ることを決めた天皇が、「天社(あまつやしろ)・国社(くにつやしろ)」を定め、さらに「神地(かむどころ)・神戸(かんべ)」を定めた、とある。つまり、実在した可能性が高い最初の天皇といわれ、実在したとすれば3世紀頃としばしば推測される崇神天皇の時代――律令時代をはるかにさかのぼる時代――に、天社・国社からなる社格制度と、神地と神戸からなる神社経済制度の祖型が成立した、ということになる。

 しかし、記紀の初期天皇に関する記述は神話・伝説的要素が濃いとされることから、この崇神朝の記述については、史実性は薄く、これを社格や神田・神戸の起源とはしないとする見方が通説である。

 たしかに、本章冒頭に記したように、考古学的には神社の原型としての神祭りの祭祀場の成立が4世紀以降とされていることを考えれば、崇神朝=3世紀という時代はそれよりも以前であり、そんな時期に神社制度の起源を置くことは、根本的な矛盾を生じさせる。

 だが、『日本書紀』が編纂された8世紀はじめは、『大宝律令』が施行され、律令国家体制の基礎がようやくかためられた時代である。

 そうした時代背景を考えると、「天社・国社と神地・神戸を定めた」という『日本書紀』の記述には、すべての神社と神々がアマテラスを祖神とする天皇をいただく朝廷によって一元的に統率・運営されるという、律令国家が思い描く神社の理想的なあり方が、実質的な初代天皇ともいわれる崇神天皇の治世に置き換えられて、描写されていると考えることもできるだろう。

 だが、それはあくまで理想であった。現実には、神戸を寄せられた神社はごく一部の有力神社に限られた。律令制下ではおそらく、神戸がなく、神田もない、あってもわずかという神社が大半を占めていたことだろう。ということは、大半の神社が経済的な安定を欠いていたことになる。一方で、神職が貯蔵した財物や幣物を、社殿の修造や祭事費に充当せず、私的に流用するような醜聞もあったらしい。

 小規模神社の経済的苦境は今にはじまったことではないのだ。      

 

【参考文献】

祝宮静『神社の経済生活』1931


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