はじめに

 前回(48回)の内容が本能寺の変のもっとも最悪な説を選択して、ドラマを展開させたので、当然続きの今回も悲惨なことになりました。昔から「はじめよければ終わりよし」と申しますが、最初に珍妙な説を取り入れて展開したので、あとは見る価値がかなり下がったというのが率直な感想です。でも、今さら修正は効きません・・・。

 

 ところで、今回のタイトルは「本能寺が変」でした。「の」が「が」になっていました。この手の小説のタイトルは多数あるので、もはや原典の探索は不可能といえましょう。タイトルはもともと緩い感じで進んできましたが、話の中身をもそうなっているのではと危惧いたします。

 

 率直に言えば、もはや見る価値がほとんど損なわれたようですが、今回はドラマの内容よりも本能寺の変の諸説を中心にして考えてみましょう。

 

家康と信長は仲が悪かったのか?

 前回、信長(役・市川海老蔵)は家康(役・阿部サダヲ)を討とうとしていたという説を採用して、話を進めていました。今回、疑心暗鬼の徳川家中では、光秀がもたらしたその情報が正しいのか、それとも誤っているのか侃々諤々の議論をしておりました。

 

 信長が家康に良からぬ感情を抱いていたことを記す史料としては、イエズス会の宣教師・フロイスの『日本史』があります。『日本史』の内容は興味深いものがあり、特に人物評はユニークといえます。しかし、フロイスには誇張癖があったといわれており、また、キリスト教に寛容な人には甘く、そうでない人には辛口であるともいわれています。一次史料で裏付けられない情報が盛りだくさんですが、逆に裏付けられないことに不信感がもたれているようです。

 

 もう一つは『本城惣右衛門覚書』で、もと光秀に仕えた本城惣右衛門の覚書です。寛永17年(1640)に成立し、本能寺の変前後の状況をリアルに再現していることで知られています。当初、本城惣右衛門は信長を討つのではなく、家康を討つものだと思っていたようです。

 

 しかし、この史料は本能寺の変が終わってから約60年近く経過しており、また、あくまで本城惣右衛門の所感であって、当時の人々すべての総意を反映させたものではありません。ゆえに純粋な一次史料とは言い難く、記憶違いや意図的な情報操作があることも念頭に置く必要があります。

 

 つまり、現時点において、信長が家康を敵対視(あるいは討とうとした)したという史料は上記の2点だけで、信頼できる一次史料での裏付けが困難です。よって、信長が家康を討とうとした説は、おおむね支持されていないのが現状でしょう。

 

光秀、折檻される

 ドラマのなかで、光秀(役・光石研)が家康たちをもてなすシーンがありました。ちょっとドキドキしましたが、宴は無事に終了。その後、信長は光秀に羽柴秀吉の援軍として出陣するように命じますが、光秀ではそれに口ごたえしました。そこで、信長は怒って光秀を殴りつけていましたね。実際はどうだったのでしょうか?

 

 元和7年(1621)から同9年の間に成立した『川角太閤記』(田中吉政の家臣・川角三郎右衛門の著)によりますと、饗応に際して料理が傷んでいたという、光秀の準備に手抜かりがあったといわれています。体面を潰された信長は激怒し、光秀に激しい折檻を加えました。この場合の折檻は、暴力と考えてよいでしょう。ただ、この説は『川角太閤記』があまり信頼できる史料ではないので、疑問視されています。そもそも傷んだ料理を出すことがあるのかということで、不注意も甚だしいです。

 

 ところが、フロイスの『日本史』には、別のことが書かれています。家康の饗応をめぐって、信長と光秀が密室で話をしていたところ、信長はあることを光秀に命じたようです。その件で光秀が言葉を返すと、信長は逆上して、光秀を足蹴にしたというのです。二人の間に何かあったことは事実ですが、詳しいことまでは書かれていません。今回のドラマでは、逆上の理由を光秀が備中高松城への出陣を拒もうとしたことに求めているようです。

 

 残念ながら、真相は闇の中といえましょう・・・。

 

神君伊賀越え

 ドラマの作りは、どうしても直虎(役・柴咲コウ)と万千代(役・菅田将暉)を中心に回っていかなくてはいけません。したがって、情報はあっちこっちに漏れまくっています・・・。

 

 しかし、冷静になって考えてみると、仮に信長が家康を討とうとしたという説がどうであれ、そうした噂がほうぼうに漏れているというのは、情報管理の問題からも好ましいとは言えません。おまけに直虎がかつての仲間(龍雲丸。役・柳楽優一)を頼り、家康を救おうとするなど、いささかリアリティーに欠けるところです。

 

 特に、龍雲丸は直虎に支援を約束しますが、条件として直虎がポルトガル商人に性的なサービスを提供することが求められました。ところで、直虎は本能寺の変の直後に亡くなりますが、このとき年齢は40代半ばから後半くらいと考えられています。性的な趣向はさまざまで、もしかしたらポルトガル商人は熟女好きなのかもしれませんが、普通はいささか考え難いように思います。繰り返しになりますが、直虎が年をとらないのは不思議ですね。

 

 ドラマではいささかコント調になっていましたが、「神君伊賀越え」について考えてみましょう。6月2日の朝に本能寺の変が勃発し、家康は窮地に陥ります。難を避けるため、一刻も早く領国の三河へ戻る必要がありました。その行程が「神君伊賀越え」(「神君」とは家康の尊称)です。

 

 信長の死に取り乱した家康は、京都まで行って、松平家ゆかりの知恩院(浄土宗鎮西派総本山)で自刃することをほのめかしたといわれています。しかし、本多忠勝らに説得され、家康は三河へ帰還することを決意したのです。

 

 当時、家康に従っていた者たちは、「徳川四天王」の面々がいるとはいえ、総勢わずか34名に過ぎなかったといわれています。面々には万千代の名が含まれていましたが、まだ22歳の若者でした。

 

 では、家康がたどったルートを確認しましょう。家康ら一行は河内国四条畷から山城国宇治田原を経て、近江国甲賀の小川城に到着しました。その後、伊賀国の山道を経て加太峠を越えると、伊勢国津(三重県津市)から海路で三河国大浜(愛知県碧南市)へ到着し、岡崎城へ無事に帰還を果たしたのです(ルートに諸説あり)。また、伊勢国津からの海路については、伊勢国白子(三重県鈴鹿市)、伊勢国浜村(三重県四日市市)という二つの説があります。まさしく奇跡という言葉がぴったりでした。

 

 家康には、長谷川秀一、茶屋四郎次郎、服部半蔵が同行していました。彼らの果たした役割は、実に重要だったといえます。

 

 長谷川秀一は脱出経路を決定すると、大和、近江の国衆への交渉で貢献し、「神君伊賀越え」を成功に導きました。商人である茶屋四郎次郎は、行く先々で金を使って難を避けるのに貢献したといわれています。服部半蔵も昔のよしみで、伊賀衆を動員したといわれています。それぞれが重要な役割を果たしたのです。

 

 ところが、穴山梅雪は金品が強奪されることを恐れて別のルートを採用し、山城国綴喜郡草内村で土民たちに討たれてしまったといわれています(諸説あり)。誠に不幸なことでした。

 

おわりに

 たびたび講演などに行くと、聴講していた古老が「大河ドラマであるからこそ、正しい説を踏まえてほしいんだ」とおっしゃっていました。仰せのとおりだと思います。大河ドラマの社会的な影響力は大きく、子供たちにもファンが多いのです。

 

 したがって、いくらおもしろいからといっても、トンデモ説をベースにドラマを展開するのは、いささか残念と言わざるを得ません。

 

 今回の視聴率は、12.0%と0.1%上昇しました。いったい何が良かったのかわかりませんが、相変わらず苦戦しているのは事実のようです。

<了>


洋泉社歴史総合サイト
歴史REALWEBはこちらから!
yosensha_banner_20130607