『反古(ほうぐ)のうらがき』を読む

 皮膚であれ内臓であれ、深刻な病状を詳細に記した文献は、さまざまな想像を駆り立て、読者の心をゆさぶる。強烈な痛みや堪えがたい痒みがまるでわが事のように感じられ、程度が激しければ、総毛立ち脂汗がにじみ出ることだってあるだろう。皮膚を掻きむしられ、肉を引き裂かれるような残酷な感覚に苛まれるのだ。

 しかしごく稀に、病状の記述が読者にある種の心地よさを感じさせる場合もある。旗本の鈴木桃野(180052)が著した怪談奇譚集『反古のうらがき』の一話「疱瘡」も、そんな稀な例の一つだ。そこには重い疱瘡(天然痘)に罹った旗本の次男の苦痛に満ち記憶がなまなましく綴られているのだが……。

 病人の名は伊勢松軒子(いせ・しょうけんし)。松軒子は号で、『寛政重修諸家譜』には伊勢貞吉(通称は政吉)と見える。父の伊勢貞正は高1030石で小性組番士を務め、番町に屋敷があった。

 松軒子は桃野の友人で、顔面が白く隻眼だった。片目の視力を失ったのは疱瘡のため。ほかにこれといって疱瘡の跡はなかったが、顔面は一面に鮫肌でざらついていた。とはいっても見苦しい感じはまったくなく、若い頃はさぞ美しかったに違いないと思われた。

 そんな友が語ったのは以下のような壮絶な疱瘡体験である。一部原文をまじえ要約してみよう。

 

 あれは18歳の春の初めのことだった。重い疱瘡を病んで、顔面から手足まで腫れ上がったのち、膿疱(膿をもった発疹)が潰れて膿汁(うみじる)が出て痂(かさぶた)になった。全身痂で地肌が見えないほど。痂で覆われた皮膚は「かちかちと音する程」だった。

 初めのうちは飲食も喉を通らず、朦朧として、さほど苦痛は感じなかったが、20日ばかりすると意識がはっきりしてきて、自分が置かれた状況がわかってきた。なんとかして身体を動かそうと思ったが、手足は痂で固まった状態で、顔面も仮面をかぶったようだった(「面は仮面をかぶりし如く」)。それでも呼吸が出来たのは痂の隙間があったからだ。

大小便は看病の者が布でぬぐい取っているらしい。飲食はどうかと言えば、耳の辺から生あたたかい物が頰のあたりを通って口に入ってくる。これは粥だろう。舌で口のあたりを舐めると、なめらかな中に堅い物を感じた。口のまわりに付着して乾燥した粥の米に違いない。どうやら痂の間の息の通う所から粥を流し込んでいるらしい。そうとわかってからは、食べるにたえない物ではあっても、飢えを感じるとやむなく粥を啜るようになった。

 それにしても痂にはいらつく。手を出して搔き落とそうとしたが、病床の左右に人がいて、抑えて許してくれない。怒りに堪えなかったが如何ともしようがなかった。

 50日ほど経つと、足のあたりの痂がすこしずつ剥落するように感じたが、自身で確かめられず、手の指もすこし動くような気がしたが、あえて動かそうとはしなかった。

 春も末になると、暖かい日は全身が痒くて堪えがたく、加えてこの上なく暑苦しかった。南風が部屋に吹き入ると、躍り上がるほどの痒さを覚え身もだえた。すると苦痛でもがいていると思われ、苦い薬を注ぎ込まれる。怒り狂って吹き出したが、息を吸うため飲み込まざるを得なかった。

 渇きを覚え飢えに苦しみながら、さらに20日ばかりが過ぎた。手足に力が付いたように感じたが、人々が手足を押さえるので如何ともしがたい。顔面の痂を搔き落としたらどんなに快いだろう。男なので疱瘡の跡(あばた)が残ってもかまわない。しかしそうしたら私を心から愛おしく思っている母君が悲しむに違いない。

 その頃になると痂でふさがっていた耳もすこし隙間が出来たようで、人の話も聞こえるようになった。「よく眠っているようだ。すこし休んだら」と話しているのを聞いて、ひとつの策略がひらめいた(「忽ち一つの謀りごとをぞ思ひ出ける」)。

 これほど快復して手足の力が戻り気分もいいのに、飢えや痒みに身もだえるのは馬鹿らしいではないか。人に報せようと身体を動かせば、また痂を搔きむしろうとしていると思われて、きつく抑えられてしまう。ならば熟睡したふりをして油断させればいい。これは名案だ。かくして私は朝からすこしも身体を動かさず、寝入っている風を装った。四時間ほど(「二時斗」)すると、はたして看病の人は安心して病床から離れた様子だ。この機会を逃してなるものか。

 

「ああ、快感」


 さてこれからが読ませどころである。下手な意訳はせず、桃野の文章をご覧いただこう。

 

此時こそと思ひて、かの耳のあたりなる飲食を入る穴に指さし入て、めりめりとかき落しければ、面の大さなる痂落けり。折しも桜はみな散り果て八重山吹のさかりなるに、少し木梢々々は青葉も生ひ出で、南風のそよそよと吹けるが、おもてに涼しく当りたる、其心地よきこといわんかたなし

 

 耳の辺にある痂のわずかな隙間(「穴」)に指を入れて仮面状態の痂をメリメリと音を立てて剥いでいった。まずはメリメリという擬音語が心地よい。疱瘡の経験はなくても、耳の中にこびりついた大きな耳かすを剥ぎ取った(あるいは剥ぎ取ってもらった)ことのある読者なら、その心地よさを想像できるだろう。尾篭な比喩だが、便秘に苦しむ人が大量の宿便をりきみ出したあとの爽快さにも通じる。

 折しも新緑の候。〝仮面〟を搔き落とした顔を風がやさしく撫で、長く痂に覆われていた皮膚には(南の風にもかかわらず)涼しく感じられた。なんという気持ちよさ。病人は我を忘れて「あなこゝろよや」と叫んだ。

「ああ、快感」というほかに的確な訳が見つからない。メリメリという表現とあわせて、読者である私は形容しがたい心地よさを覚えたのである。

 話はここで終わりではない。叫びを聞いて駆け付けた人々は、驚きかつ恐怖におののいた。なにしろ仮面を剥ぎ取った顔面は皮がむけたような赤肌で、しかも一面に血がにじみ出ていたのだから。どこが眼でどこが口なのかも見分けがたい。そんな顔面が突然口を大きく開けて「からからと」笑った。その気味悪さは想像に余りある。

 おろおろと涙を流しながら、それでも母君は「具合はどうなの?」(「心地は如何にぞ」)と尋ね、「気分はまあまあです。酒を冷やで23合いただけませんか。喉がとても渇いているので」とお願いすると、「お酒はお医者さんが禁じています。白湯ならば…」と言ってすぐに持ってきた。立て続けに6、7杯飲みほし、その後は飲食も好きなだけ。手足の痂も落とし順調に快復したが、病気の影響で片目の視力は終に失われてしまった。

最後に松軒子は「かゝる疱瘡も又とあるべきならず。又かゝる苦しきことにあひける人も、又とはあるまじ」と語ったという。疱瘡に罹ってもこれほど痂に覆われた人はいないだろうし、自分ほど苦しんだ人もいないと思う。

稀な重症でありながら、自身で痂をめりめりと剥がし、「あなこゝろよや」と叫び、血だらけの顔で「からから」と笑った松軒子は、桃野が『反古のうらがき』を綴ったときにはすでにこの世の人ではなかった。

 

鈴木桃野に触れる


 読者の感想はいかが。友人の重い疱瘡体験を単純に悲惨な話としてではなく、強烈な身体的苦痛と快感が、まるで楯の両面のように切り替わった点に注目した桃野の感性に私は感嘆した。そして簡潔ながら臨場感あふれる文章に導かれて、松軒子が痂を剥がしたあとに感じたこの上ない〝快感〟に共感したのである。

 『反古のうらがき』には他にもすぐれた疾病奇譚が収録されている。たとえば「奇病」と題した話には、自身の鼻が次第に大きくなると思い込む「心の病」(強迫神経症であろう)に罹った大名の姫君が。「疱瘡」同様、この話にも桃野は友人を登場させている。幕臣の鈴木分左衛門(号は桜園ほか)も同様の病があり、手が大きくなるように感じる症状があったというのだ。『反古のうらがき』は野口武彦氏の名著『江戸のヨブ』でも取り上げられている。氏は桃野の文学史的価値についても論じているので、興味をそそられた方はぜひご一読を。

 病気の話ではないが、『反古のうらがき』には未亡人の貞操をテーマにした「やもめを立し人の事」という話も載っている。未亡人が貞操を守り続けるのは難しいという話で、出典は中国の小説『諧鐸』。とても面白いので、漢文を解さない人にも読んでもらおうと和訳したのだという。

ところで桃野がひもといたと思われる『諧鐸』が、現在国立公文書館に内閣文庫の一書として所蔵されている。清の乾隆57年(1792)刊。全6冊。昌平坂学問所旧蔵本で、昌平坂学問所教授だった桃野は、この本を手に取ったと推測される。先日、国立公文書館でこの本に触れた私は、まるで大好きなアイドルにサイン会で握手されたような感動を覚えた(実際には私にそんな趣味はない。あくまで比喩)。おそらく彼の指紋の上に私の指紋が重なったのではないだろうか。書物という〝物〟を通じ、時空を超えて鈴木桃野に触れたのである。

<了>


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