◆江戸時代の有力神社は朱印地・黒印地を与えられた

 前回までに古代~中世・近世の神社経済を概観したが、このあと2回に分けて、昭和の太平洋戦争敗戦までの神社経済の歴史を概説したい。数字や業界用語が並んでややうっとうしく思う方もいるかもしれないが、現代の神社経済の問題の本質を探るうえで歴史を俯瞰することは不可欠だと筆者は考えているので、しばらくお付き合い願いたい。

 さて、若干おさらいになるが、平安末期(院政期)から中世にかけて、有力神社は神領あるいは社領を荘園として領有し、その土地からの収益を経済基盤とすることができた。

 しかし中世後期になると、在地の武士たちによる押領などを原因として荘園制が崩壊し、秀吉の太閤検地によって制度としては完全に消滅する。これによって大社はその社領のほとんどを没収され、経済的基盤を失った。

 ところが近世に入ると、有力寺社は、荘園に代わって、将軍や領主から新たに寺社領を与えられた。このうち、将軍から与えられた土地は朱印地(しゅいんち)(朱印領)と呼ばれた。幕府から交付された社領安堵の証明書に将軍の朱印が押されていたからだ。これに対して、大名から交付された証明書には黒印が押されたので、その土地を黒印地(こくいんち)という。

 朱印地・黒印地は大名領と同じように石高で配分され、租税は免除され、農民からの年貢や諸役を神社運営費や神職の俸禄にあてることができた。

 江戸時代末期までの成立とみられる「日本寺社領員数記抜粋」(『神祇全書』所収)によると、伊勢神宮の朱印地は37000石余。総計で見ると、寛文5年(1665)頃で、朱印地は約1000社に対して約15万石が安堵され、黒印地は約13万石だ(『神道事典』)。譜代大名の井伊氏でも35万石あったことを考えれば決して多いとはいえず、往時の荘園にくらべても見劣りしたことだろう。ただし、伊勢神宮のような著名な大社は、参詣人や有力な氏子からの奉納(米、金銭など)を別途の収入として期待できた。

 一方、荘園をもたない小規模神社は、中世には、在地の武士や有力者たちを中心として自主的に運営されるようになり、とくに近畿を中心とした一部の地域では、宮座という祭祀組合が形成されて神社経済をも担った。近世に入ると、兵農分離で武士は神社の運営から離れ、小社の多くは村落の氏神あるいは産土(うぶすな)・鎮守としての性格を強め、氏子たちを中心に運営されるようになっていった。

 こうした態勢のもと、時代はいよいよ明治維新を迎える。

 

◆明治維新で神社を統括する神祇官が再興される


 慶応
3年(1867129日、王政復古の大号令が明治天皇の名のもとに発せられ、明治新政府が誕生した。その宣旨に「諸事神武創業ノ始ニ原(もとづ)キ」とあることが示すように、神武天皇が行っていたとされた祭祀と政治が一致した神権政治を再現することが、新政府の基本理念に位置づけられていた。

 3カ月後の慶応4313日には、この理念に則り、祭政一致制度の復活が太政官によって布告され、中世以来廃絶していた神社を司る官庁である神祇官(じんぎかん)が再興され、全国の神社・神職は神祇官に所属すると定められた。

 17日には神仏分離令が発せられ、それまで神仏習合のもと、寺に属しつつ神社の経営権を握っていた別当・社僧の還俗が命じられた。また、神仏判然令(28日)によって、神社からの仏像・仏具・仏語の除却、権現・菩薩などの仏教的な神号の廃止も命じられた。

 新政府が神仏習合廃止を断行したのは、「神武創業」を再生させるには、神道よりも仏教を優位とする徳川時代の体制を廃し、あくまで神道が仏教よりも上に置かれる状況をつくり、神社を寺院の軛から解放しなければならないと考えたからだった。

 こうした改革は民衆運動としての廃仏毀釈をもたらし、さらに神道を天皇を中心とする教え「大教(たいきょう)」として再編成し、それを国教化する政府の動きへともつながっていった。

 しかし、神道国教化運動はほどなくさまざまな壁に突き当たり、明治3年(18701月の「大教宣布の詔(みことのり)」をピークに後退してゆく。祭政一致は近代国家の政治システムとしては現実的ではなく、信教の自由・政教分離を是とする欧米諸国との外交を考えてもデメリットが多く、そのうえ、民衆に浸透しかつ政府にも影響力をもつ浄土真宗を中心とする仏教勢力側から強い反発の声があがったからだった。

 

◆「社寺領上地令」で社領を没収される


 こうした朝令暮改的な政府の方針にともない、神社や神職はあいついで試練にさらされた。その起点は明治
4年で、15日にまず太政官布告として「社寺領上地(知)令(じょうちれい)」が出された。

 これは、すべての社寺に対し、現有する境内地を除くすべての領有地を没収し、国家へ収公させるもので、明治2年の版籍奉還にならい、封建的な土地・人民の領有制度を改めるというのが趣旨だった。この布告によって、神社の所有地として認められるのは原則として境内地のみとなり、それ以外の社領(朱印地・黒印地だけでなく山林・田畑なども含む)はすべて国家に納めることになり、その総計は石高で20万石をこえた。さらに旧領主からの寄付米・寄付金も廃止された。

 かくして全国の社寺はこれまでの財政基盤を一気に失ったが、社寺の破綻を回避すべく、当面の救済策として、従来の収入(旧領主からの寄付米は除く)の半分を政府が支給することとなり(これを「半祖給与」という)、明治7年までこの制度が継続した。

 とはいえ、いきなり収入が半分以下となったわけだから、それまで幕府や大名から土地や米・金の提供を受けていた全国の名社古社は大打撃を被り、神社経済や神職の生活に深刻な影響を与えた。

 

◆神社は「国家の宗祀」となり、ランクが設定される


 もっとも、とくだん社領をもたない小社の場合は、上地する土地もないわけだから、この時点ではさして影響を受けることはなかった。

 ところが同じ明治4年の514日には、神社制度を抜本的に改革する布告が太政官から出された。

 それは2つの布告からなるが(「伊勢両宮世襲ノ神官ヲ始メ大小ノ神官社家ヲ改正補任セシム」「官社以下定額及神官職員規則ヲ定メ神官従来ノ叙爵ヲ止メ地方貫属支配ト為シ士民ノ内ヘ適宜編籍セシム」)、要点を挙げるとつぎのようになる。

 

神社は「国家の宗祀(そうし)」であると定義された(「神社ノ儀ハ国家ノ宗祀ニテ一人一家ノ私有ニスヘキニ非サルハ勿論ノ事ニ候」)。
「宗祀」とは「尊んで祀るべきもの」という意味をもち、「神社が国家の宗祀である」とは、神社は個人的な信仰の対象としてあるのではなく、国家公共の施設であることを宣言している。

 このことはのちに「神社は宗祀であって宗教ではないので、国家が仏教・キリスト教などの宗教と区別して神社を特別扱いしても、信教の自由を侵害せず、政教分離に違反しない」という「神社非宗教論」を喚起することになる。「国家の宗祀」は一般にはなじみにくい用語だが、明治から昭和戦前にかけての神道・神社を論じる際にはキーワードとなる。


神職(神官)の世襲が禁止され、政府や地方庁が神職を補任すべきとされた。
「国家の宗祀」である神社は、特定の社家の私有財産ではないというロジックに則るもので、世襲は国家の公共物への公私混同を招く旧弊とみなされたのだ。

 その結果、旧来の社家の多くが神社を離れなければならなくなり、明治7年度までに約2万人の神官が神社を追われたと推測されている(阪本是丸『国家神道形成過程の研究』)。


全国の神社に新たに社格が設定された。
具体的には、神祇官が管掌する、上級神社の官幣(かんぺい)社・国幣(こくへい)社(それぞれさらに大社・中社・小社に分けられた。官社と総称される)と、地方官が管掌する、下級神社(諸社または民社と総称される)の府社・藩社・県社・郷社にランク分けされた。

 布告後の変化を補足しておくと、諸社は、明治47月の廃藩置県の影響で藩社が消え、最終的に府社・県社・郷社・村社の別となった。翌年、官幣・国幣の大中小社のいずれにも分類できない官社として別格官幣社という社格が生じた。官社は明治4年時点で総計97社、諸社は明治6年時点で約12万社存在した。また、村社にも列格されない無格社も多数存在する一方、伊勢神宮は社格を超越する神社とされ、とくに社格はつけられなかった。


官幣社の造営・営繕費、祭典費は大蔵省が支給。国幣社の祭典費は地方庁が負担し、造営・営繕費には藩知事家禄からの寄付金などをあてる(諸社については明確な規定がない)。

 

◆切り捨てられる下級神社と神職たち


 総じてこれらの通達は、明治維新の「祭政一致」の理念のもと、神社を一宗教の施設ではなく国家公共の施設=「国家の宗祀」と位置づけ、全国の神社を国家管理下に置き、天皇の祖神を祀る伊勢神宮を頂点として、中央集権的に再編成することを意味していた。

 そうすると、全国のすべての神社の経費や神職の給与は国家が負担すべき、と当然なるはずだろう。ところが、現実にはそうはならなかった。

 神社経済をめぐる国の政策は明治初期、二転三転しているが、明治7年までには、おおむねつぎのように定められている。

 

官幣社・国幣社(以下、官国幣社と略記)の経費(営繕費、祭典費、神官の給与を含む)は額を定めて官費で支給する
その代わり、半租給与は廃止。


諸社に対しては「逓減(ていげん)禄制」が定められた。
従来の神社の収入とされていた石高の
4分の1を実収入とみなし、その半分を初年度に公費から支給、以後、毎年1割ずつを減額しながら支給し、10年後には公費支給を廃止するという制度で、寺院も対象となった。


諸社の神職(府県郷社の神職は祠官、村社の神職は祠掌と呼称された)の給与は、「人民の信仰帰依に任せて為し致す可き」と定められた(当初、府県社の神職の給与は大蔵省支給とされたが、明治
67月に廃止)。
「下級神社の神職には国費公費は支給しない。氏子からの寄付・奉納をもとに自力でがんばりなさい」ということだろう。

 

 下級神社が冷遇されているのは明らかだが、こうした政策には、「国家の宗祀」とするのは伊勢神宮と官国幣社だけで十分で、残りの諸社と無格社は切り捨てたい、という政府の思惑があらわれている。

 

◆官国幣社への官費定額支給も廃止


 もっとも、官国幣社にしても必ずしも優遇されたとはいえない。

 たとえば、官国幣社の神官の月給は、明治10128日の太政官布告(「神官並官国幣社神官ヲ廃シ祭主以下職員官等月俸ヲ定ム」)により、職種に応じて額を定めて国から一律に支給されるように改められたが、その布告に示された「神官官等月俸表」によれば、官国幣大社の宮司は官等7等で月俸25円、中社の宮司は9等で15円、小社の宮司は10円。これは同じ官等の一般官吏の月俸とくらべると、3分の1から4分の1程度の額だ(ちなみに、伊勢神宮祭主は3等で月俸80円)。

 さらに追い打ちをかけるようにして登場したのが、明治20年にスタートした「官国幣社保存金制度」(明治20317日内務省訓令)だ。

 これは、つぎのような制度だった。

 まず、官国幣社に対する官費定額支給を廃止する。その代わり、向こう15年間にかぎって、保存金を国が支給する。ただし、各神社にはこの保存金のうちの半額を複利で積み立てることを義務付ける。保存金支給が終了した16年目からはその利子を活用して各神社が自力で運営してゆく。

 その保存金の額は神社ごとに決められたが、おおよそでは、1社あたり官幣大社で1600円、官国幣中社で1000円、官国幣小社・別格官幣社で800円だった。参考までに記しておくと、明治23年の国会議員年俸が800円である。なお、伊勢神宮はこの制度の埒外で、別途国庫から経費が支給された。また、靖国神社は東京招魂社から改称された明治12年時に別格官幣社に列格されたが、明治20年からは陸海軍両省が管轄することとなり、一般の神社制度の外に置かれている。

 官国幣社保存金制度は、一見、神社の自立をうながす筋の通った制度のようにみえるが、実際に支給された保存金は従来支給されていた官費と同額であり、かつその半分を貯蓄しなければならないというのだから、現実には年収が半滅したようなものだった。

 

◆神職は「待遇官吏」となるも低賃金


 また、この訓令が発せられた翌日には、官国幣社の神職を「神官」ではなく「待遇官吏」とする閣令が出され、宮司は内務省が補任して奏任(そうにん)官待遇、禰宜(ねぎ)・主典(しゅてん)は地方長官が補任して判任(はんにん)官待遇になると定められた。

「待遇官吏」とは、一般に、公的な性格が強い職務に就いているが、国庫からは俸給を受けず(その代わり府県から俸給を受けたり、あるいは別途の収入がある)、正式な官吏としては扱われない人々のことをさし、小学校教員や巡査などがその好例である。

 官国幣社の神職についてみれば、要するにこれを機に、給与を国からではなく各神社から受給するシステムに原則として変更されたのである。政府が官国幣社の神職を待遇官吏へと降格させたことは、国の財政負担の軽減を意図していたとみるべきだろう。いうなれば、神職は「官吏もどき」と化したのだ。

 一方、諸社の神職はどうかというと、明治27年に勅令で「府県社以下神職職制」が定められ、祠官・祠掌を社司・社掌と改めて判任官待遇とし、こちらも待遇官吏となった。

 それまでは国家から冷遇されていた諸社の神職にとっては、この措置は公的身分の回復を意味したはずだが、しかしその身分はあくまで「待遇官吏」という曖昧で不十分なものでしかなかった。

 この時期の神職の実状については、当時発行されていた『全国神職会会報』が赤裸々に伝えている。

「官国幣社につきていわば、宮司は待遇のみは奏任なれども、その俸給を問えば、初任の者は年俸150円乃至170円にて、それより数年の労を積みて、辛うじて200円、225円となり、最高300円までに至るを得れど、そは容易の事にあらず。物価騰貴の今日、此薄俸にては、奏任の体面を維持するはおろか、僅(わずか)に細煙を立つることも覚束なかるべければ、寧(むし)ろ中学師範学校等の国語教師となるを得策とし、その方面に転ずる者多し。

 宮司にして既に然り、況(いわ)んや禰宜以下に於てをや、府県社以下に至りては、判任の取扱を受くるのみにて、別段一定の俸給もなく、ただ氏子が随意に寄贈するものを受くるに止まり、到底一家の生計を維持するに途なく、他に種々の職を求めて僅に活計(たつき)をたつるもの頗(すこぶる)多し」(『全国神職会会報』第7号、明治332月刊)

 転職・兼業を余儀なくされる神職たちの窮状がここに浮き彫りにされている。

 

◆迷走する政府の神社行政


 明治維新によって再興された、神社行政官庁としての神祇官の明治初期の変遷も、神道国教化路線の後退と、それにともなう神社行政の迷走をよくあらわしている。

 神祇官は明治2年に太政官外に特立されるが、4年に太政官下の神祇省に改組、さらに翌5年に神祇省は廃止。新たに宗教全般を司る教部省が設置されるが、それも10年に廃止され、新設された内務省社寺局にその事務が移管される。

 また、明治47月には太政官布告により「氏子調(うじこしらべ)」という制度が定められ、出生児はすべて氏神から守札(まもりふだ)を受けることが義務付けられたが、これはわずか2年で中止となっている。守札は一種の身分証明書とみなされたので、氏子調は江戸時代の寺請(てらうけ)制度の代替機能や戸籍法を補完する役割が期待されたと思われるが、短期間での終了は、すべての国民を神社の「氏子」として管理することが現実的に難しいという認識を政府側がもつに至ったことを暗に示していよう。

 そして、明治22年には大日本帝国憲法が制定・公布されたが、そこでは、国民に対して、「信教の自由」が「安寧秩序を妨けず、及び臣民たるの義務に背かざる限(かぎり)に於て」認められることになった(第28条)。これは、神道を国教化するということ以前に、国教そのものの存在を否定し、国家と宗教の分離を宣言するものでもあった。

 

◆神祇官興復運動で内務省神社局が誕生


 このような流れのなか、官国幣社の切り捨てすらも示唆する保存金制度については、神社関係者から批難の声が強くあがり、明治
23年には、貯蓄の割合を下げ、保存金の支給年限を30年に延長するという修正がなされている。

 神社界の巻き返しがはじまったのはこのころからで、それを支持する議会人や政府高官と連携して、神社の地位を向上させ、明治初年の理念通り、国家が全神社を「国家の宗祀」として扱うことをめざす運動が展開されるようになった。

 そのひとつが神祇官興復運動だ。

 さきに記したように、明治初年に再興された神祇官は早々に姿を消し、当時の神社は、行政上は内務省社寺局の管理下にあった。しかし、これは神社を寺院と同等に扱うことを意味し、神社(とくに諸社)の「国家の宗祀」性と矛盾する。神社が「国家の宗祀」としての地位を回復するためには、神社のみを司る独立官庁として神祇官(神祇院)を再び設けるべきだ――。

 このような神社人の熱烈な訴えは明治31年の全国神職会の結成をもたらし、さらに世論の関心も集めて政府や帝国議会を動かし、明治33年に社寺局は廃止されて新たに宗教局と神社局が設置された。これは、神社が他の宗教と明確に区別される行政の対象になったことを意味し、神祇官興復運動が一応の成果をあげたことになる。

 だが同時に、神社局の設置は、神社あるいは神道が「非宗教」であることが公認されたことを意味し、そのことは前述したように「神道は宗教ではないのだから、国家が手厚い保護をしても信教の自由や政教分離と矛盾しない」という論理(神社非宗教論)を生み、「国家神道」の暴走をうながすリスクをはらんでいた。

 

◆明治末期、下級神社にも公費支出がようやく可能に


 神祇官興復運動につづいて、神社界は神社経済の改善を求める運動も展開した。

 その結果、明治3947日には従来の官国幣社保存金制度が廃止されて、「官国幣社国庫供進金制度」がスタートし、官国幣社の経費は国家が恒久的に負担することになった(「官国幣社経費ニ関スル法律」)。ただし、実際の神社運営費において、官費が占める割合は昭和戦前までを通じてじつはあまり大きくはなく、個々の神社は賽銭や初穂料、祈禱料などの自前の収入(社入金)を財政の柱とすることを迫られた。

 さらに同じ月の30日には「府県社以下神社神饌幣帛料供進制度」が制定された(勅令「府県社以下神社神饌幣帛料供進ニ関スル件」)。これは、府県郷村社つまり諸社に対しては、神撰幣帛料(例祭の祭典費)にかぎって、地方庁は公費を支出できるとしたものだ(道府県は府県郷社、市町村は村社に供進)。ただし、経費全般を対象としたものではなく、また支出を義務づけるものではなかった。あくまでも、「下級神社にも公費支出は可能」と規定しているにすぎない。もちろん無格社は供進の対象外だった。

 諸社への措置は不完全なものだったが、ともあれ、明治末期にいたって、(無格社を除く)全神社を「国家の宗祀」とする体裁が法制上はようやく整ったことになる。

 このような一連の神社待遇の改善は、日露戦争(明治3738年)の勝利による国民の敬神崇祖の観念、神社崇敬の昂揚が後押ししたともいわれている。

 ところが、この直後、また新たな試練が神社界を待ち受けていた――。

 

【参考文献】

阪本是丸『国家神道形成過程の研究』岩波書店、1994

新田均『「現人神」「国家神道」という幻想』神社新報社、2016

葦津珍彦『新版・国家神道とは何だったのか』神社新報社、2006

神社新報社編『増補改訂・近代神社神道史』神社新報社、1986

鎌田純一『神道史概説』神社新報社、2010

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